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第九話『心の在処』

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 行きは空を飛んで渡った海を、今度は船で渡っていく。
 目的の港も、海流の関係でぺレジアではなくフェリアの方だ。
 ぺレジアの『竜の祭壇』に向かうにしても、フェリアに辿り着いた後に一度イーリスにまで戻る必要がある為に、『竜の祭壇』に辿り着くまでにどれ程の時間が掛かるのか……。
 一刻の猶予も無いかもしれない中では、どうにもならないと言うのに気持ちばかりが焦って空回りし眠れない夜がある。
 そんな時は、気持ちを落ち着かせる為に、甲板に出て夜空を見上げる事にしている。遮るものが何もない満天の星空を見ていると、ルフレと共に旅をしていた時に見上げた夜空を思い出し、彼が直ぐ近くに居てくれているかの様にすら思えて。
 不安で仕方の無い夜も、少しすれば眠れる様になるのだ。

 ルフレが『影』に攫われてから、もう二週間が過ぎた。
 上手く海流に乗り風を掴まえられたらしい船は、予定よりも遥かに早く進んでいて、あと一週間もしない内にフェリアに辿り着けるらしい。
 だがその後の陸路にかかる時間を思うと、気はどうしても焦ってしまうし。この背にまだ翼があれば、真っ直ぐ彼の元へ迎えるのに……だなんて事も考えてしまう。

 甲板に固定されていた樽に腰掛けて夜空を見上げて重く溜息を吐いていると、横の樽に誰かが静かに座った。
 誰だろうと、横を向くと。そこに居たのは父であった。

「こんな夜中に甲板に出ていると風邪を引くぞ。
 夜空を見上げるにしても、もう少し暖かい格好をしてくれ」

 そう言いながら、父は温かな毛布をルキナに手渡す。
 それに礼を言って、ルキナはそれを羽織る様に被る。
 冷えた夜の海風で少し冷たくなっていた身体が、じんわりと温もりを取り戻し始めた。

「すみません、お父様……気を遣わせてしまって……」

「いや良い、気にするな。俺が勝手にした事だ。
 ……せめてこういう事だけでも、させてくれ」
 父はルキナを見て慚愧の念に絶えないと、苦い顔をする。
……父の中では、未だ自分が娘を斬り殺しかけた事実は消化しきれてないのだ。ルキナがそれを最初から赦していても。
 それは仕方の無い事であるのかもしれないが……。その心に刺さった棘を、どうしてやれば良いのかルキナには分からない。
 ルキナとしては、ルフレを救い出す事に協力してくれるだけで十分以上にその贖罪に当たると思うのだけれども……。


「お父様……その、本当にもう良いのですよ。
 あれは、不幸な行き違いで……お父様に非がある事では……」


 確かにこの心は深く傷付いたし、一度は死線を彷徨いもしたが……その結果としてルキナはルフレに出逢えた。
 それが、『影』が言った様に、無意識の内に自らの身体に絡み付いたギムレーの【力】に引き寄せられた結果だとしても。
 どんな因果があったにせよルキナがルフレに出逢えたと言う事実だけがそこに在り、そしてルキナにはそれで十分なのだ。
 それに、ルキナが言葉を話せなかった状態で、あの状況下にあってそれを誤解するなと言うのは暴論である。
 あれは、誰にとっても仕方が無かった事なのだ。
「いや、最初は……仕方が無い事だったのかもしれない。
 だが、二度目の……『真実の泉』に向かう途中であったお前たちを襲ったのは、何の言い訳も出来ない事だ……。
 あの男……ルフレ、だったか。彼の言葉に、俺は耳を貸さなかった。あの『竜』はお前なのだと、そう自分の命乞いをするでも無く、必死に言ってくれた彼の言葉を……。
 俺は、戯言だと……一蹴して。そして、お前を斬った。
 ……彼がその身を挺してまでお前を庇わなければ、俺が振るったファルシオンは、お前の命を絶っていた……。
 俺は、……憎しみと怒りに囚われる余りに、お前を切り捨ててしまっていたんだ……。
 ……お前の事を一番に思うのなら、彼の言葉の真意をまず確かめるべきだった。殺してしまっては、何も確かめようがない。
 それなのに、俺は……」

 父は、深い後悔に沈み、その心を自ら苛む様であった。
 ……その後悔を、自らを責め苛むその心の束縛を、ルキナはどうする事も出来ない。
 ……だが、そんな後悔も懺悔も、ルキナは欠片も望んでいないのだ。そしてそれは、ルフレもそうであろう。
「私は……お父様を責めません。でも、お父様がそれを望まないと言うのであれば……お父様の行いを赦さない事にします。
 ……『赦される』事が、決して幸いな事とは限らない事を、私も知っていますから……。
 ……ルフレさんは……、お父様に斬られても、お父様を決して恨んでも責めてもいませんでした……。
 あの場で動けなかった私の事も、何一つ責めず。ただ……。
 親が子を殺す様な悲劇にならなくて良かった、と。
 ただそれだけを喜んでいたんです……。
 ……責められないと言う事は、決して楽な事では無い……。
 ……大切なモノを傷付けてしまった時、その原因になった時。
 自分を責めるその苦しみの出口を、哀しみの行き先を、『償い』の形で昇華する手段すら喪ってしまうのだから……。
 ……だから、お父様。
私に、ルフレさんに、償いたいと言うのであれば。
 どうか……ルフレさんを助け出す為に力になって下さい。
 それこそが、『償い』になるのではないでしょうか」

 誰も決して過去には戻れない。起きてしまった事、成してしまった事を変える事は誰にも出来ない。
 だからこそ、後悔を抱えてでも前へ前へと歩き続けなければならないのだし、己の罪はこれからの未来でその帳尻を合わせなければならないのだ。
 そうしてその先で漸く、己の罪を自分自身が赦せるのだろう。
 だからこそ、最初から咎めてもいないし責めても居ないのだけれども。ルキナは父を『赦さない』事に決めた。
 父が赦されるのは、彼自身が自分を『赦した』その時だろう。
 それが何時の事になるのかは、ルキナには分からない。
 今の父自身にも分からない事であろう。
 己を責め苛む者が己を『赦す』と言う事は、それ程に難しい。
 だからこそ、父の心を縛る枷が少しでも緩む様に、ルキナは本心では求めていない『償い』を求めた。

 ルキナの言葉に驚いた様に目を僅かに見開いた父は、少ししてから何処か感慨深げな……そんな苦笑を浮かべる。
 そして、ルキナの頭を優しくも力強い手で撫でた。


「……何時の間にか、強くなったな、ルキナは。
 …………ほんの少し前までは、片手で抱き上げてやれる位に小さかった気もするのに……。時が経つのは早いものだな」


 感慨深気にそう言う父に、ルキナは少し気恥ずかしくなる。


「も、もう、お父様……。片手でなんて……そんなに小さい頃なんて、もう十年近くも昔の話ですよ?」

「そうだったか? だが……本当に大きくなったな。
 俺が見守ってやらねばと……ずっとそう思っていた。
 産まれたばかりのお前を抱き上げたのが、ほんの少し前の事だった様な気すらしているのに。何時の間にか、お前はこんなにも確りと、自らの意志で決め、そして進む強さを持っている。
……子供の成長とは、斯くも目覚ましいものだな。
 ……やはり、『恋』をしているのか? あの男に」


 『恋』と、父に言われたルキナは頬を赤らめる。
それを父に指摘されるのは、何とも面映ゆいものであった。
 だが、それを否定する事は当然出来なくて。
 コクリと、そう無言ながらに小さく頷くと。

 「はあ……」と、父はそう大きく溜息を吐き、ぐしゃぐしゃと自身の髪を右手で掻き乱した。


「そうか……『恋』か……。
ルキナにはまだ早いと……そう思っていたのだがな……。
 いや、誰かに『恋』をする事に早いも遅いも無いか……。
 しかしそうなると、ルキナに相応しいか見定める必要が……。
だが、そもそも彼がルキナの命を救ってくれたのだし……」


 ブツブツと、ルキナには聞き取れない声で何かを呟く父の顔はひどく真剣なモノで。一体どうしたのかと戸惑ってしまう。


「あ、あの……? お父様……?」

「いや、大丈夫だルキナ。少し、これからの事を考えていてな。
 しかしルキナが『恋』をするとは……本当に大きくなったな。
 ……大切な誰かを、『愛』する誰かを見付けられた事は、……間違いなく、とても素晴らしい事だ。
 『愛』する事で傷付く事はあるだろう。
『恋』が必ず叶うとも限らない。
……それでも、共に生きたいと思える誰かに巡り逢えた事は、何よりもの『幸い』になる。……俺がそうだった様に、な。
 だから、その『想い』を大切にするんだ。そこに希望は在る」


 優しい顔でそう言った父に、ルキナは確りと頷いた。


「はい、お父様……!
 私、絶対にルフレさんを諦めません……! 必ず、助けます!」

「そうだ、その意気だ。
 ……安心しろ、ルキナ。
『神竜の巫女』殿曰く、昔から、『恋をする女の子は最強』であるらしいからな。お前の『想い』は、きっと届くさ」


 そう苦笑する様に言った父に、ルキナもつられて微笑む。
 ギムレー復活の一大事を前にして、『ミラの大樹』を離れてルキナ達と共にやって来てくれたチキは、何かとルキナに優しくしてくれて、悩み事や不安を和らげる手助けをしてくれていた。
 そんな彼女が、度々そう言って励ましてくれていたのを、父も聞いていたのだろう。
 そんな心遣いが、今はとても嬉しかった。

 目指す先はまだ遠いが。そこに囚われている彼を思って。
 ルキナは、祈る様にもう一度夜空を見上げるのであった。




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