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第八話『真なる影』

◇◇◇◇◇




 ルフレとルキナしか居ない筈の『真実の泉』に、有り得ない第三者の拍手が響く。
 一体誰が、何処から、と。辺りを見回した瞬間。
 ついさっきまではそこには誰も居なかった筈の。
 『真実の泉』の目の前に。一人の男が立っていた。
 パチパチと、まるで心の伴っていない拍手をしながら、ニヤニヤと……まるでその心にある悪意がそのままそこに現れているかの様な表情を浮かべているのは。
 まさに鏡像であるかの様に、ルフレとそっくり同じ……クロムに切り裂かれ血で染まったが故に左の半身が赤黒く染まっている外套すらも全く同じ姿をしていた。
 だが、そこにある表情だけは、そしてそれを映し出す心は、疑いようも無くルフレのものではなくて。
 余りにも似通っているが故に、その違いが却って絶対的な程に浮き彫りになっている。


 ── 『これ』は、一体何だ……?


 武器なんて持っている筈も無く……『竜』から戻ったが故に、今のルキナはとても非力な状態ではあるけれど。
 目の前の『何か』へ、最大限の警戒心を持つ。
 もし『竜』の身体であれば威嚇の唸り声を上げていただろう。
 ルフレはと言うと、突然に現れた自分に極めて近似した『何か』への動揺を隠せない。まるでお伽噺の『ドッペルゲンガー』と言う名の怪物に遭遇してしまったかの様な顔をしている。
 ルフレもルキナも、何も言わず身動き一つせず、『何か』の一挙手一投足を警戒していると。
 『何か』はルフレなら絶対に浮かべない表情に、その口の端を醜く歪め。……そしてルフレの声で、喋り出した。


「いやはや成る程、実に感動的な場面だと言うべきだろうね。
 邪竜の【呪い】によって『竜』にされ居場所を追われた姫君が、偶然出会った若者の力を借り幾多の苦難を乗り越えて、終にはその【呪い】を解く……。
 実に、感動的じゃないか。素晴らしい、称賛するよ。
 ……ああ、本当に、よくやってくれた。
 例を言うよ、ルキナ。
 君のお陰で、『僕』はここに辿り着けたのだから」


 『何か』はニヤニヤと嘲笑いながらそう宣う。
 そんな『何か』へ、ルフレは声を上げた。


「お前は一体何者だ。どうして僕の姿をしているんだ!?」


 ルフレのその言葉に、『何か』はおかしくて堪らないとばかりの哄笑を上げて腹を抱える様な真似をする。


「どうして……? お前もここが何処だか知っているだろう?
 その者の『真実』の姿を映し出す、『真実の泉』じゃないか。
 『僕』はお前の『真実』の姿……正確には、お前の本性の人格を写し出した、言わば『真なる影』だ。
 全く……緩んだ封印の隙間から抜け出す様にして、こうして『人間』のものであっても身体を得て蘇ったと言うのに……。
 まさか、あの忌々しい神竜の力に満ちた森に、まだ【力】が蘇りきらない状態で逃げ込まれるとは思いもよらなかったさ。
 そのお陰で、もっと早くに目覚める筈だった『僕』が今まで眠らされ、お前みたいな人間モドキの心が生まれたんだ。
 こうして、『真実の泉』の力で仮初の実体を得なければ表に出る事すら出来ないとは……全く忌々しい限りだよ」


 そう吐き捨てた『何か』……ルフレの『真なる影』と名乗ったそれは、ルキナの方を見て表面上だけの笑顔を浮かべる。


「だがまあ、千年前に戯れに遺した【呪い】がこんな風に役立つとは思わなかった。有難う、ルキナ。
 君が、コイツをあの忌々しい森の外へと連れ出してくれた。
 君が、コイツをここまで連れて来てくれた。
 君のお陰で、あの神竜の娘から『宝玉』を手に入れられた。
 全て、君のお陰であるとも。
 君のお陰で、『僕』は蘇る。心から感謝するよ、ルキナ」


 それに、と。『影』は一転して歪んだ笑みを浮かべる。


「君の絶望は。姿を奪われ、居場所を奪われ。
 獣として追われ苦しみ傷付き絶望する君のその心は。
 『竜』の身体に苦しむその有様は。
 実に! 素晴らしい見せ物であったよ。
 君は実に退屈しない玩具だった。
 君があの日あの森に辿り着いたのは、運命とも言えるだろう。
 無意識の内に『僕』の【力】に惹かれたのかもしれないけど」


 くつくつと喉を鳴らして、『影』は一歩近付いてくる。
 戸惑い混乱しながらも、『影』の危険性を肌で感じ取って。
 ルキナ達は近寄られた分だけ後退る。
 それを、『影』は「おやおや」と言わんばかりの目で見た。


「どうして逃げるんだい?
 『僕』はお前の『真実』であるし、『僕』の【力】があったからこそ今も生きていると言うのに……その反応は心外だね。
 まあ……あの鈍に成り果てたファルシオンで斬られた衝撃で、一気に『僕』が目覚めたとも言えるけれども……。
 かつて『僕』を封じた剣が、今度は『僕』を目覚めさせた最後の切っ掛けになるとは……何とも皮肉な結果だね。
 ああ……そう言う意味でも、ルキナには感謝しているよ」

「【力】……? 一体何の事だ……?
 それに、封じるとか目覚めるとか、一体何を言って……」


 ルフレは、戸惑いの中に怯えの様なモノを含ませながらも、『影』の言葉の真意を問う。
 すると、『影』は呆れた様に肩を竦めた。


「全く……神竜の封印の所為とは言え、『記憶』が無いと言うのも面倒なものだね……。
 『人間』なんかを模しているとは言え、『僕』自身なのにここまで愚鈍な存在に成り下がっているのを見るのは不愉快だ。
 『僕』は、千年前に神竜とその下僕によって封じられた者。
 人間達が言う所の、『邪竜ギムレー』さ。
 ああ、その顔! まるで全く気付いて居なかったんだね。
 そうとも、お前は、『僕』は、『人間』ではないのさ!!」


 『影』の言葉に、信じられないとばかりに首を振って否定するルフレを、『影』は嘲笑う。
 『影』の言葉に揺さぶられているルフレを庇う様に、ルキナは一歩前に出て反射的に言い返した。


「何を言っているんですか!? ルフレさんは『人間』です!
 ルフレさんが、邪竜ギムレーだなんて、有り得ません!!」


 そんなルキナの言葉に、『影』は愉快で堪らないとばかりに、口元を歪めてそれを手で覆い隠す。
 そして、ギラギラと悪意が灯る眼でルキナを睨む。


「有り得ない? それは君がそう思いたいだけだろう?
 君が一体コイツの何を知っているんだい?
 君にとって都合のいい虚像を信じているだけじゃないか。
 君がどう思おうが、事実は変わらない。
 『僕』達は、君達が『邪竜』と呼ぶモノ、ギムレーさ。
まあ、肉体はまだ仮初の『人間』のものである事には間違いないから、『人間』だと言う君の指摘も、全部が全部的外れとまではいかないけれどね。
 第一君も、色々と『おかしさ』は感じていたんじゃないかな?
 普通なら致命傷になる様な傷が、何もせずとも直ぐに治るのは『人間』なのかな? ……うんうん良いね、その表情!
 あの鈍のファルシオンに斬られた傷なんて、もう綺麗さっぱり跡形も無いよ? 気になるなら確かめてみると良いさ」


 『影』の言葉に、ルキナは思わず反射的にルフレの左の脇腹を見てしまう。そして、ルフレは何処か顔を蒼褪めさせて、そこを……傷がある筈の場所を手で隠す様に押さえていた。
 何かに怯える様なルフレのその表情を見て、ルキナは『影』の言葉が、少なくともルフレにはもう傷は無いという其処だけは事実なのだろうと、理解してしまった。


「それに、神竜の力の影響下にあったあの森を出てからは、『僕』の『記憶』を度々夢に見ていただろう?
 まあお前はそれをただの夢だとして、記憶からまた消してしまっていたけれど……。消しきれないものはあった筈だ。
 特に、ファルシオンに斬られる感覚は、君の意識の奥底に刷り込まれていたんだろう? だからこそ、あの鈍に斬られた時に、『僕』の意識に届く程の衝撃を受けたんだろうに。
 目を反らして、耳を塞いで、気付かないフリをして。
そうやってこんな所まで来てしまった。
 さあ、もう『人間ごっこ』の時間は終わりだ。
 『僕』を受け入れ一つとなり、【竜】として再び蘇ろう。
 ……ああ、なに心配はするな。
お前の望み通り、ルキナは殺さないさ。
『僕』も、目覚めさせて貰った『恩』は感じているからね。
 忌々しい神竜の下僕の末だが、喰い殺すには流石に惜しい。
 全てを殺し尽くした後で、君と二人生きるのも良いだろう」


 喉を震わせる様に嗤いながら、『影』はまた一歩また一歩とルフレに近付いていく。
 どうにか離れようとするも、足が凍り付いた様に動かない。


「逃げようとしたって無駄さ。逃げた処で、『真実』から逃げる術は無いし……第一『僕』がみすみす見逃すとでも?
 あまり『僕』の【力】を舐めるのは止めた方が良い。
 何なら、もう一度ルキナを『竜』に変えてしまっても良いよ?
 今度は何をしても絶対に戻れない様に、念入りに。
 ……それなら、『王女』じゃないルキナとなら、ずっと一緒に居られると、お前自身が願っていただろう?」


 『影』が何らかの力でルキナ達の動きを封じているのかは分からないが、今自分達の意志で動かせるのは首から上だけで。
 圧倒的強者の余裕を見せつける様に、ゆっくりと近寄ってくる『影』から距離を取る事すら出来ない。
 『影』の言葉に、ルフレはか細く震える声で言い返す。


「違う……僕は、僕は、そんな事を望んでいない。
 僕が望んでいたのは、ルキナの『幸せ』だけで……」


 その途端、『影』は愉快で堪らないと言わんばかりに笑い出し、乱暴な手付きでルフレの顎を掴んだ。
 そして、呪詛の様な言葉を吐きかける。


「『僕』はお前だと言っただろう?
 お前がその心に隠してきた、醜い欲望も、願いも!
 『僕』は全て知っているのさ!
 『竜』のままでも良いからすっと自分の傍に居て欲しいと、そう思っていただろう?
 自分の手の届かない存在になってしまう事を恐れて、いっそ何処かに攫ってしまいたい、二人だけで閉じた世界で暮らしていきたいと願っただろう?
 『真実の泉』など知らないまま、あの森で『竜』の身に縛り付けたままのルキナと二人で過ごしていたかったんだろう?
 ルキナの『幸せ』を願うと口ではそう言いながら、醜い欲望を捨てる事も出来ずに抱え続けていただろう?
 しかもそれを知られて幻滅される事を恐れて、ルキナの前では最後まで『良い人』の仮面を被ろうとしていたじゃないか!
 なぁに、お前が心を痛めていた身分の差なんて、ギムレーとして蘇れば何の関係も無いさ。
 滅ぶ世界には、身分など何だのとそんな物に意味は無いし。
 人間如き虫けらなんて、幾らでも自分の好きな様に出来る。
 ルキナを好きなだけ『愛』せるし、二人で生きられる。 
 良かったな、お前の『願い』は全て叶うぞ?」


 ニヤニヤと嗤う『影』に、ルフレは必死に「違う」と言い返すが、その声は『影』の言葉を打ち消すには到底及ばない。
 そしてルフレは、恐怖を多分に含んだ目でルキナを見た。


「違う、違うんだ、ルキナ。
 僕は、そんな事を思ってない。僕はそんな事望まない。
 僕は、『人間』だ。君と同じ……。
 僕は、ギムレーなんかじゃない。
 お願いだ、信じてくれ、ルキナ……」

「ルフレさん……。私は──」


 その眼差しに、そこに宿る感情に。ルキナは覚えがあった。
どうか否定しないで。そうか拒絶しないで。と。
 そう懇願する眼だ。……痛い程に身に覚えがある。
 だから、ルキナはルフレの不安と恐怖を拭う為に言葉をかけようとして……それは『影』によって阻まれた。


「お前が『人間』だって……? 
これを見ても、まだそんな戯言が癒えるのかな?」


 そう言うなり、『影』は片腕だけでルフレの身体を持ち上げて。
 そして、ルフレに無理矢理『真実の泉』を覗かせる。
 その瞬間、ルフレの表情は絶望に染まった。


「嘘だ!! こんなの、こんな化け物、僕じゃない!
 僕は『人間』だ! 『人間』なんだ!!」

「『真実の泉』の力を理解しても尚、まだそう否定するのは流石に往生際が悪いと『僕』は思うけどね。
 ほら、これで『人間ごっこ』を終わらせる気になれただろう?」


 ……ルフレが『真実の泉』に自分のどの様な姿を見たのかはルキナには分からないけれども。
しかしその尋常ではない取り乱し様と、強い否定に染まった絶望を見れば……恐らくルフレにとっては自身の全てを否定するかの様な『化け物』の姿をした自分が映っていたのだろう。
 『影』の言葉を否定するその表情は、いっそ死んでしまいそうな程に蒼褪めている。
 それでも、ルフレは諦めなかった。
 それがただの悪足掻きにしかならないのだとしても……。

 ルフレのそんな様子に興が冷めたのか、『影』はつまらなさそうに溜息を吐いて、無造作にルフレを放り投げる。
 身体を自由に動かせないまま受け身を取る事も出来ずに、硬い床にその身を強かに打ち付けたルフレは息を詰まらせる。
 そんなルフレを感情の籠らない眼で見やった『影』は、今度はルキナの方へと近付いた。


「『人間ごっこ』の弊害がここまで大きいとはね……。
 全く、教団の連中があの女を取り逃がしたからこんな面倒で頭が痛くなる事になったんだ。
 『僕』を神だのと崇め奉っておきながら、杜撰にも程がある。
 ……目の前でルキナを少し痛めつけてやれば、諦めるかい?
 なに、心配はいらないさ。『僕』は君には本当に感謝している。
 命までは取らないし、腕の一本や二本再生させる事は容易い。
 何なら、ここで再び君の姿を歪めるのも良いね。
 どんな姿になりたいか、希望はあるかい?」


 『影』が、ルキナに手を伸ばしてくる。
 逃げようとしても、身体はピクリとも動かなくて。
 ルキナは、凍り付いた様にその手を見詰める事しか出来ない。


「止めてくれ……! ルキナには手を出すな……!!」

「止める必要が何処にある? 
 怨むなら自分の無力を恨むが良いさ」


 ルフレの制止に構う事すらなく、『影』はルキナの首を掴む。
 万力で握り締められているかの様なその力に息が詰まった。
 殺す気は無いと言いながら加減を知らないのか、それとも苦しむルキナを見てその嗜虐心を満たしているのか……。
 首筋の血管を押さえつけられているからなのか、頭に血が足りない。意識が次第に薄れていく。


「るふ、れ……さ…………」


 薄れゆく意識の中で思うのは、自分の事では無くて。



「止めろ──ッッ!!」



 まるで竜の咆哮の様な、ルフレの怒号に似た叫び声と共に。
 激しい衝撃が、遺跡全体を揺らした。
 衝撃に弾かれたかの様に、『影』はルキナから手を離し後退る。
 喉が解放された反動でルキナは咳き込み、喉に手をやる。
 そしてその次の瞬間に、身体を自由に動かせる事に気付いた。

 ルキナは弾かれた様に辺りを見回して状況を確認する。
 『影』は衝撃の影響を強く受けたのか片膝をついていて。
 ルフレは叫ぶ事にか威力を使ったのか肩で荒く息をしながらも、手をついて身を起こし、『影』を睨み付けていた。


 ── 今ならば逃げられるかもしれない!


 武器も何もない状況では、『影』に立ち向かうという選択肢は最初からルキナの頭に無かった。
 今はただとにかくこの危険な『影』から逃げなければと。
 ルキナはルフレの元へと全速力で駆け寄り、立ち上がっていた彼のその腕を取る。


「行きましょうルフレさん! 今なら!」


 だが、その瞬間ルフレはルキナを勢いよく突き飛ばす。
 一体どうして、と。そう思った次の瞬間。
 斃れたルキナの目の前で、ルフレの身体が激しい勢いで吹き飛ばされ、遺跡の壁に叩き付けられた。
一瞬前までルフレが居たその場所には。ほんの一瞬で距離を詰めていた『影』が立っていて。ルフレを蹴り飛ばしたその足で苛立ちをぶつける様に床を踏み付けて石材に罅を走らせる。


「クソ! 一瞬でもお前なんかに『僕』が押されるなんて……!
 『僕』自身であっても、こんな『人間ごっこ』で腑抜けたやつに『僕』が膝をつくなんて、何たる屈辱……!
 自分じゃないなら八つ裂きにして殺してやりたいくらいさ!」


 『影』は壁に叩き付けられた衝撃で動けないルフレを更に甚振る様に蹴り飛ばした。
腹を凄まじい力で蹴りつけられたルフレは、胃液と唾の混じったモノを吐き出す。


「この身体は仮初のモノに過ぎないと言う事か……!
 全く忌々しい! その身体が『僕』のものなら、とっくに【力】を取り戻して完全なる復活を果たしていたと言うのに……!!」


 動けなくなったルフレの襟首を掴む様にしてその身体を持ち上げた『影』は、忌々しさを隠す事も無く唸る。


「お前も【力】を使える事が分かった以上は戯れもここまでだ。
 幸い、『蒼炎』はここにある。
 『竜の祭壇』に戻れば、忌々しいお前も食い潰せるだろう。
 『人間』の皮を被る必要もなくなるさ」


 そして、と。『影』はルキナの方へと向く。


「コイツを食い潰す方が先だから、今は見逃してあげよう。
 だが、必ず君を捕らえに行くとも。
 その時までは『人間』として生きるが良いさ」


 そう言った次の瞬間。
 『影』はその手で掴んでいたルフレの身体ごと、その場から影も形も無く消失する。手を伸ばす暇すら無かった程の一瞬で。

 そしてその場には。
 ルキナ唯一人が残されたのであった。




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