第八話『真なる影』
◇◇◇◇◇
空が白み始めると共に、ルキナとルフレは飛び立った。
今も『竜』を血眼で捜しているであろうクロムに見付かるよりも前に、『真実の泉』へと辿り着かなければならない。
ルキナも、そしてルフレも。
それを暗黙の了解として、少しでもクロム達に見付かるまでの時間を稼ごうと、一言も話す事無は無かった。
目指す地は、もう間もなく見えてくる筈である。
遺跡らしきものを見逃さぬ様、ルキナ達は注意深く下を探す。
恐らくはこれが最後の飛行になるのであろうと思うと、何だか不思議な気持ちになる。
思えば、もう四ヶ月以上『竜』の姿であったのだ。
季節も、春どころか夏すら過ぎ行こうとしていて、少しずつ秋の気配が訪れている。
決して少なくは無い時間を過ごしてきたこの『竜』の身体に今日で別れを告げるのだと思うと、感慨深さと共に僅かばかりの寂しさの様な物も感じる。不思議なものだ。
「……!」
眼下に何かを見付けたのか、ルフレが軽くルキナの背を叩き少し遠くを指さす。その方向に目をやると、それはクロム達で。
大分距離を離したつもりだったのに、昨晩の内にこんなに近くにまで迫って来ていたのだろうかと、背筋が凍り付きそうなものを感じる、が。まだこちらを見付けた訳ではない様で。
ルキナは音を立てない様に注意してより高度を取った。
この高さならばそうそう気付かれはしないし、万が一気付かれたとしても矢も届かない。その分、地上の構造物を見逃しやすくはなるので遺跡を見逃さないようにと神経を使うが……。
そうしてクロム達を見付けた所から更に一つ山を越えた辺りで、急に視界に霧がかかり一気に見通しが悪くなった。
これがチキの言っていた、『真実の泉』があると言う霧煙る山なのだろうか。
深い霧の中では上空から地上を見下ろす事は難しく。
高度をギリギリまで落とすしかないが、視界の悪い中だと急に山肌にぶつかりそうになったりと中々に大変であった。
こうも深い霧がこの山だけに発生するものなのだろうか。
これも、【竜族】の遺跡の力によるものなのだろうか……。
「ルキナ、あそこに……」
そんな事を考えていると、再びルフレが何かを見付けたらしく、小声で呼びかけながら、霧の中でもルキナに見える様に身を乗り出すようにして前方やや右を指さした。
その指示通りに飛ぶと、急に霧が晴れた様に途切れ、目の前に古びた石造りの様に見える何かの構造物が見えてくる。
これが、チキの言っていた遺跡だろうか?
山頂付近の山肌に貼り付く様に造られたそれの前に降り立つと、ルキナの背中から飛び降りたルフレが早速それを調べる。
「石で作られている様に見えるけれど……。よく見たら、特殊な……今まで見た事も無い様な加工が施されているみたいだ。
建材の一つ一つから、古く強い魔法の力を感じる……。
……ここが、チキ様の言っていた『真実の泉』がある遺跡で間違いないと思う。
こんな場所にあるなら、今までここに辿り着いた人は殆ど居ないんだろうね……。
幻の泉になる訳だ。寧ろ、伝承が残されていた事に驚くね」
そう言いながら、ルフレはカンテラに火を灯し遺跡の入り口を照らす様に掲げた。
「さあ……行こうか、ルキナ。『真実の泉』は、この奥だ」
ルフレの言葉に頷き、ルキナは遺跡の中へと入っていく。
……遺跡の中は『竜』の身体の大きさで考えても十分な程の広さがあり、緩やかに下に降りる形で奥へ奥へと続く内部は、奥に行くに従って天井もかなり広く作られている様であった。
そして、カンテラの灯りは必要ない程に遺跡の内部は薄ぼんやりと明るくて。それは驚く事に、建材となっている石の一つ一つが自ら淡く光っているからであった。
人智を超えたその遺跡にルキナも驚くばかりである。
やはり、古の【竜族】が造り出した遺跡であるのだろうか。
……少なくとも、現代の魔導師達でも想像も付かない程の、尋常ならざる力で造り出されている事は間違い無いだろう。
まるで緩やかに地の底に続いている様な遺跡の中を、ルフレから離れない様に注意して先を急いだ。
自分達以外の生き物の気配は無いが……。自分の理解を越えた『何か』の中に長居するのは、そう気分が良いモノではない。
ルフレも同じ気持ちなのだろうか……何時もよりも先を急いでいる様にルキナには思える。
緩やかな坂と階段を何れ程下って行ったのか、曖昧になってきた頃に、急にそれまでよりも格段に広い空間に出た。
そして、その空間の最奥には……。
「……! ルキナ、あれが……」
ルフレが指さしたそこには。
王城の中庭にあった池よりもどうかしたら小さい位の……そんな大きさの、澄んだ水を湛えた一画があった。
あれが、『真実の泉』なのだろうか。
何となく神々しいモノを想像していたルキナにとっては少し肩透かしな程に、一見その泉の水は普通に見えた。
だが、ルキナよりも余程魔道や呪術の力に詳しく敏感なルフレが驚いているのを見るに、恐らくはルキナには感じ取れない何か強い『力』がそこにはあるのだろう。
緊張から生唾を呑み込んだルキナが、恐る恐ると『真実の泉』へと近付こうとすると、急にルフレは何かを思い出した様にその背に背負っていた鞄をルキナへと慌てて投げ渡してきた。
その鞄を咄嗟に咥えて受け取ったルキナは、突然のその行動の意図が掴めずに首を傾げるが。
「多分、ルキナに必要なものだと思うから。
僕はここであっちを向いて待っているよ」
そう言ってルフレは、『真実の泉』から少し離れた場所で立ち止まり、何故か後ろを向く。
何故? とは思うけれども、今は先に『人間』の姿に戻る方を優先するべきだろうと、ルキナはそのまま『泉』へと近寄る。
そして、その水面を覗き込んだその瞬間。
そこにあった光景に驚き、ルキナは思わず後ずさった。
『真実の泉』の水面に映っていたのは、『竜』の姿の自分では無くて、紛れも無く元の姿の……『人間』の自分であったのだ。
だが、今の自分は未だ『竜』の姿のままで。
現実と、水面に写し出された虚像が、乖離している。
それはまさに、尋常ならざる事であった。
ルキナは再び『真実の泉』を覗き込んだ。
すると、水の中から『人間』の自分がこちらを覗く。
そっと、恐る恐る左の前脚を水面へと伸ばすと、鏡像の『自分』も手を伸ばしてくる。
そして、ルキナの指先が水面に……鏡像の『自分』が伸ばした指先に触れた瞬間。
全身が燃え上がる様な、目も開けていられない程の激しい痛みの様な感覚が一瞬で全身を駆け巡り、直後には霧散した。
直前までの痛みが完全に消え失せ、寧ろ身体は爽快その物で。
直前までは感じていなかった様な、ひんやりとした空気を全身で感じたルキナは、恐る恐るその目を開ける。
先ず気付いたのは、視線の低さだ。
そして、次に視界に入った『手』に……紛れもなく『人間』のそれである、鱗など一つも生えていないしその指先に鉤爪も付いていない、柔らかな質感の腕と手に、気が付いた。
その場に膝をついて、ルキナは恐る恐る手を顔と首に伸ばす。
そしてその手の中に返ってきたのは、『竜』のそれとは全く違う……『人間』である自身のそれと同じ感触で。
立ち上がり、全身を見回しても、そこに在るのは、紛れもなく自分自身の、生まれたままの状態の元の身体であった。
衣服を何も身に纏っていない状態である事に気付いた瞬間。
途端にルキナは近くにルフレが居る事を思い出して、顔から火が出てしまいかねない程に気恥ずかしくなるが。
反射的に振り返った先に居る彼は、言葉通りに律義に反対方向を向いていて、恐らくは何も見ていないのだろう。
ルフレは、元の姿に戻ったルキナがこの状態である事を察していたのだろうか。
……そう言えば、と。
ルフレから渡されていた小さな鞄があった事を思い出したルキナは、それを開ける。
するとそこには、質素ながらも一式の衣服と靴が入っていて。
ルフレの気遣いに感謝しながら、ルキナはそれを身に着ける。
少しばかりルキナには大きかったが特には問題なく着る事が出来るサイズであって、ルフレの用意周到さに舌を巻く思いだ。
そして、ルフレに呼び掛けようとして。
そこで、上手く言葉が出ない事に気が付いた。
『竜』であった時の様に、そもそも音として言葉が話せないと言う訳では無くて。
長く言葉を発していなかったからか、喉と舌が言葉の発し方を忘れてしまったかの様な感じであった。
「るっ……るっれ……ふ……るふ、……るふれ、さん」
何度もつっかえながら、まるで舌足らずな子供の様に覚束ない言葉であったけれども。
漸く。ルキナは、初めて。彼の名前を呼ぶ事が出来た。
その事に思わず感極まって、涙を零してしまう。
名を呼ばれて、弾かれた様にルキナの方へと振り返ったルフレは、心から驚いた様に硬直して何度も目を瞬かせて。
そして、ルキナが涙を零している事に気付いた瞬間に、慌てた様にルキナへと駆け寄ってきた。
そのままルキナを抱き締めようと手を広げていたけれど、その手は直前で何かを思い止まったかの様に止まる。
どうかしたのかと、ルキナよりも背が高くなった彼を見上げる様に見詰めると。ルフレは少し頬を赤らめた。
「あ、その……何時もの癖で、抱き締めそうになったけど。
流石に、女性に対してそう言う事を軽々しくやるのは良くないと言うか、その、あの……。
色々と、驚いて、戸惑ってしまって……」
「どうか、したの、ですか……?」
まだ涙は止まらないけれど、それを少し乱暴に拭って、ルキナは首を傾げる。
確かに、ルフレが『人間』としてのルキナの姿を見るのはこれが初めてあろうけれども。それでもその中身とも言える部分は今までと全く変わらないのに。
すると、ルフレは益々その頬を赤らめる。
「その……あんまりにも、ルキナが綺麗だから……。
あ、いやその、『竜』の姿の時も、美しいとずっと思っていたんだけれど、そう言うのじゃなくて……。上手く言えないけど。
とにかく、今の君を抱き締めるのは少し憚られると言うか」
まさにしどろもどろと言った有様で、ルフレはそう言う。
そんなルフレの姿に、ルキナは思わず笑ってしまった。
何だろう……可愛い人だなと、そんな事を思ってしまう。
そして、おたおたとしているルフレを、ルキナの方から飛びつく様にして抱き締めた。
今のこの身体なら、思い切り抱き締めてもルフレを傷付けたりはしない、この手がルフレの身を引き裂いたりもしない。
腕の中にある温もりを全身で感じる様にルキナは目を閉じる。
「ずっと、こう、したかった……。
この手で、ルフレさんの温もりを、確かめたかった……。
ずっと、ルフレさんの、名前を、呼びたかった……。
いまやっと、漸く……」
少しずつ喋る感覚が戻って来て。それでも伝えたい事ばかりが溢れてきて、上手く言葉に出来ない儘ならなさが募った。
そんなルキナの身体を、ルフレの手はそっと優しく抱き抱える様に支え、よりその距離は縮まる。
互いの鼓動の音すら聞こえてきそうだと、そんな事も思ってしまう程近くに、ルフレを感じる。
「ルキナ……。僕は……、君の事が──」
その時。ルフレが口にしようとした言葉は。
突然その場に響いた緩い拍手の音によって遮られた。
◇◇◇◇◇
空が白み始めると共に、ルキナとルフレは飛び立った。
今も『竜』を血眼で捜しているであろうクロムに見付かるよりも前に、『真実の泉』へと辿り着かなければならない。
ルキナも、そしてルフレも。
それを暗黙の了解として、少しでもクロム達に見付かるまでの時間を稼ごうと、一言も話す事無は無かった。
目指す地は、もう間もなく見えてくる筈である。
遺跡らしきものを見逃さぬ様、ルキナ達は注意深く下を探す。
恐らくはこれが最後の飛行になるのであろうと思うと、何だか不思議な気持ちになる。
思えば、もう四ヶ月以上『竜』の姿であったのだ。
季節も、春どころか夏すら過ぎ行こうとしていて、少しずつ秋の気配が訪れている。
決して少なくは無い時間を過ごしてきたこの『竜』の身体に今日で別れを告げるのだと思うと、感慨深さと共に僅かばかりの寂しさの様な物も感じる。不思議なものだ。
「……!」
眼下に何かを見付けたのか、ルフレが軽くルキナの背を叩き少し遠くを指さす。その方向に目をやると、それはクロム達で。
大分距離を離したつもりだったのに、昨晩の内にこんなに近くにまで迫って来ていたのだろうかと、背筋が凍り付きそうなものを感じる、が。まだこちらを見付けた訳ではない様で。
ルキナは音を立てない様に注意してより高度を取った。
この高さならばそうそう気付かれはしないし、万が一気付かれたとしても矢も届かない。その分、地上の構造物を見逃しやすくはなるので遺跡を見逃さないようにと神経を使うが……。
そうしてクロム達を見付けた所から更に一つ山を越えた辺りで、急に視界に霧がかかり一気に見通しが悪くなった。
これがチキの言っていた、『真実の泉』があると言う霧煙る山なのだろうか。
深い霧の中では上空から地上を見下ろす事は難しく。
高度をギリギリまで落とすしかないが、視界の悪い中だと急に山肌にぶつかりそうになったりと中々に大変であった。
こうも深い霧がこの山だけに発生するものなのだろうか。
これも、【竜族】の遺跡の力によるものなのだろうか……。
「ルキナ、あそこに……」
そんな事を考えていると、再びルフレが何かを見付けたらしく、小声で呼びかけながら、霧の中でもルキナに見える様に身を乗り出すようにして前方やや右を指さした。
その指示通りに飛ぶと、急に霧が晴れた様に途切れ、目の前に古びた石造りの様に見える何かの構造物が見えてくる。
これが、チキの言っていた遺跡だろうか?
山頂付近の山肌に貼り付く様に造られたそれの前に降り立つと、ルキナの背中から飛び降りたルフレが早速それを調べる。
「石で作られている様に見えるけれど……。よく見たら、特殊な……今まで見た事も無い様な加工が施されているみたいだ。
建材の一つ一つから、古く強い魔法の力を感じる……。
……ここが、チキ様の言っていた『真実の泉』がある遺跡で間違いないと思う。
こんな場所にあるなら、今までここに辿り着いた人は殆ど居ないんだろうね……。
幻の泉になる訳だ。寧ろ、伝承が残されていた事に驚くね」
そう言いながら、ルフレはカンテラに火を灯し遺跡の入り口を照らす様に掲げた。
「さあ……行こうか、ルキナ。『真実の泉』は、この奥だ」
ルフレの言葉に頷き、ルキナは遺跡の中へと入っていく。
……遺跡の中は『竜』の身体の大きさで考えても十分な程の広さがあり、緩やかに下に降りる形で奥へ奥へと続く内部は、奥に行くに従って天井もかなり広く作られている様であった。
そして、カンテラの灯りは必要ない程に遺跡の内部は薄ぼんやりと明るくて。それは驚く事に、建材となっている石の一つ一つが自ら淡く光っているからであった。
人智を超えたその遺跡にルキナも驚くばかりである。
やはり、古の【竜族】が造り出した遺跡であるのだろうか。
……少なくとも、現代の魔導師達でも想像も付かない程の、尋常ならざる力で造り出されている事は間違い無いだろう。
まるで緩やかに地の底に続いている様な遺跡の中を、ルフレから離れない様に注意して先を急いだ。
自分達以外の生き物の気配は無いが……。自分の理解を越えた『何か』の中に長居するのは、そう気分が良いモノではない。
ルフレも同じ気持ちなのだろうか……何時もよりも先を急いでいる様にルキナには思える。
緩やかな坂と階段を何れ程下って行ったのか、曖昧になってきた頃に、急にそれまでよりも格段に広い空間に出た。
そして、その空間の最奥には……。
「……! ルキナ、あれが……」
ルフレが指さしたそこには。
王城の中庭にあった池よりもどうかしたら小さい位の……そんな大きさの、澄んだ水を湛えた一画があった。
あれが、『真実の泉』なのだろうか。
何となく神々しいモノを想像していたルキナにとっては少し肩透かしな程に、一見その泉の水は普通に見えた。
だが、ルキナよりも余程魔道や呪術の力に詳しく敏感なルフレが驚いているのを見るに、恐らくはルキナには感じ取れない何か強い『力』がそこにはあるのだろう。
緊張から生唾を呑み込んだルキナが、恐る恐ると『真実の泉』へと近付こうとすると、急にルフレは何かを思い出した様にその背に背負っていた鞄をルキナへと慌てて投げ渡してきた。
その鞄を咄嗟に咥えて受け取ったルキナは、突然のその行動の意図が掴めずに首を傾げるが。
「多分、ルキナに必要なものだと思うから。
僕はここであっちを向いて待っているよ」
そう言ってルフレは、『真実の泉』から少し離れた場所で立ち止まり、何故か後ろを向く。
何故? とは思うけれども、今は先に『人間』の姿に戻る方を優先するべきだろうと、ルキナはそのまま『泉』へと近寄る。
そして、その水面を覗き込んだその瞬間。
そこにあった光景に驚き、ルキナは思わず後ずさった。
『真実の泉』の水面に映っていたのは、『竜』の姿の自分では無くて、紛れも無く元の姿の……『人間』の自分であったのだ。
だが、今の自分は未だ『竜』の姿のままで。
現実と、水面に写し出された虚像が、乖離している。
それはまさに、尋常ならざる事であった。
ルキナは再び『真実の泉』を覗き込んだ。
すると、水の中から『人間』の自分がこちらを覗く。
そっと、恐る恐る左の前脚を水面へと伸ばすと、鏡像の『自分』も手を伸ばしてくる。
そして、ルキナの指先が水面に……鏡像の『自分』が伸ばした指先に触れた瞬間。
全身が燃え上がる様な、目も開けていられない程の激しい痛みの様な感覚が一瞬で全身を駆け巡り、直後には霧散した。
直前までの痛みが完全に消え失せ、寧ろ身体は爽快その物で。
直前までは感じていなかった様な、ひんやりとした空気を全身で感じたルキナは、恐る恐るその目を開ける。
先ず気付いたのは、視線の低さだ。
そして、次に視界に入った『手』に……紛れもなく『人間』のそれである、鱗など一つも生えていないしその指先に鉤爪も付いていない、柔らかな質感の腕と手に、気が付いた。
その場に膝をついて、ルキナは恐る恐る手を顔と首に伸ばす。
そしてその手の中に返ってきたのは、『竜』のそれとは全く違う……『人間』である自身のそれと同じ感触で。
立ち上がり、全身を見回しても、そこに在るのは、紛れもなく自分自身の、生まれたままの状態の元の身体であった。
衣服を何も身に纏っていない状態である事に気付いた瞬間。
途端にルキナは近くにルフレが居る事を思い出して、顔から火が出てしまいかねない程に気恥ずかしくなるが。
反射的に振り返った先に居る彼は、言葉通りに律義に反対方向を向いていて、恐らくは何も見ていないのだろう。
ルフレは、元の姿に戻ったルキナがこの状態である事を察していたのだろうか。
……そう言えば、と。
ルフレから渡されていた小さな鞄があった事を思い出したルキナは、それを開ける。
するとそこには、質素ながらも一式の衣服と靴が入っていて。
ルフレの気遣いに感謝しながら、ルキナはそれを身に着ける。
少しばかりルキナには大きかったが特には問題なく着る事が出来るサイズであって、ルフレの用意周到さに舌を巻く思いだ。
そして、ルフレに呼び掛けようとして。
そこで、上手く言葉が出ない事に気が付いた。
『竜』であった時の様に、そもそも音として言葉が話せないと言う訳では無くて。
長く言葉を発していなかったからか、喉と舌が言葉の発し方を忘れてしまったかの様な感じであった。
「るっ……るっれ……ふ……るふ、……るふれ、さん」
何度もつっかえながら、まるで舌足らずな子供の様に覚束ない言葉であったけれども。
漸く。ルキナは、初めて。彼の名前を呼ぶ事が出来た。
その事に思わず感極まって、涙を零してしまう。
名を呼ばれて、弾かれた様にルキナの方へと振り返ったルフレは、心から驚いた様に硬直して何度も目を瞬かせて。
そして、ルキナが涙を零している事に気付いた瞬間に、慌てた様にルキナへと駆け寄ってきた。
そのままルキナを抱き締めようと手を広げていたけれど、その手は直前で何かを思い止まったかの様に止まる。
どうかしたのかと、ルキナよりも背が高くなった彼を見上げる様に見詰めると。ルフレは少し頬を赤らめた。
「あ、その……何時もの癖で、抱き締めそうになったけど。
流石に、女性に対してそう言う事を軽々しくやるのは良くないと言うか、その、あの……。
色々と、驚いて、戸惑ってしまって……」
「どうか、したの、ですか……?」
まだ涙は止まらないけれど、それを少し乱暴に拭って、ルキナは首を傾げる。
確かに、ルフレが『人間』としてのルキナの姿を見るのはこれが初めてあろうけれども。それでもその中身とも言える部分は今までと全く変わらないのに。
すると、ルフレは益々その頬を赤らめる。
「その……あんまりにも、ルキナが綺麗だから……。
あ、いやその、『竜』の姿の時も、美しいとずっと思っていたんだけれど、そう言うのじゃなくて……。上手く言えないけど。
とにかく、今の君を抱き締めるのは少し憚られると言うか」
まさにしどろもどろと言った有様で、ルフレはそう言う。
そんなルフレの姿に、ルキナは思わず笑ってしまった。
何だろう……可愛い人だなと、そんな事を思ってしまう。
そして、おたおたとしているルフレを、ルキナの方から飛びつく様にして抱き締めた。
今のこの身体なら、思い切り抱き締めてもルフレを傷付けたりはしない、この手がルフレの身を引き裂いたりもしない。
腕の中にある温もりを全身で感じる様にルキナは目を閉じる。
「ずっと、こう、したかった……。
この手で、ルフレさんの温もりを、確かめたかった……。
ずっと、ルフレさんの、名前を、呼びたかった……。
いまやっと、漸く……」
少しずつ喋る感覚が戻って来て。それでも伝えたい事ばかりが溢れてきて、上手く言葉に出来ない儘ならなさが募った。
そんなルキナの身体を、ルフレの手はそっと優しく抱き抱える様に支え、よりその距離は縮まる。
互いの鼓動の音すら聞こえてきそうだと、そんな事も思ってしまう程近くに、ルフレを感じる。
「ルキナ……。僕は……、君の事が──」
その時。ルフレが口にしようとした言葉は。
突然その場に響いた緩い拍手の音によって遮られた。
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