第八話『真なる影』
◆◆◆◆◆
全速力で高く空を飛び、山脈を幾つか越えて。人気などある筈も無い深山の更に奥地で見付けた清涼な水が流れる川辺に。
傷付いたルフレを抱えて飛び続けたルキナは降り立った。
既にもう日は暮れていて、辺りは月灯りと星灯りしかない暗闇の帳に覆われている。
幾ら復讐に燃える父であってもこんな山奥をこの時間に分け入ろうとする程に考えが狂っている訳ではないだろう。
故に、夜明けまではここに留まれる、とルキナは判断した。
森の獣達は見慣れぬ『竜』を恐れて近寄ろうとはせずにいるらしく、少なくとも今晩の間は襲われる可能性は低い。
先ずは火を起こさねばと、ルキナは川辺にあった樹を爪で切り倒して、大雑把な薪木を作り、それに炎の息吹で火を着けた。
乾燥していない生木は火が着き難く本来薪木には適さないが、炎の息吹の威力を前にすればあっさりと燃え上がる。
炎を吐き出した事など、クロムの元から逃げる為に無我夢中になって吐いたそれが初めてであったのだが、一度出来てしまえばまるで生来可能だった様にすら感じてしまう。
だが今は炎を吐ける様になった事について考える暇はない。
焚火によって熱源と光源を確保出来た事で、ルキナは改めてルフレの様子を見た。
左肩から脇腹に掛けて服が大きく切り裂かれ、そこを中心に服が血で赤黒く染まっている。
止血が追い付いていないのか、未だに零れる様に血の雫は傷口から落ちていく。
そして、ルキナが鋭い鉤爪の生えた手で抱き抱えた所為で、
左肩の傷程深くなくとも腕などに裂傷が幾つも刻まれていた。
『ルフレさん……。お願いです、死なないでください……』
自分のこの手では、かつて彼がしてくれた様に、傷を治療する事など出来なくて。そもそも、その知識すら無い。
獣がそうする様に傷口を舐める事なら出来るだろうが……この傷はそれで治る様な物でも無い事位は判断が付く。
せめて水を飲ませようとするのだけれども、水辺に連れて行っても未だ気を喪っているルフレが飲める訳も無く。
水を掬ってみるのも、この手では難しい。
だからルキナは、意識が無い相手にこんな事をするのはどうなのだと思いつつも。水を自身の口に含んでから、ルフレの唇に口先を押し当てる様にして。そして舌で優しく抉じ開ける様にして、水を口移しで与える。
すると、急に水が口に入って来たので身体が反射的に驚いたのか、ルフレは激しく咳き込み、うっすらとその目を開けた。
「……ルキナ……無事……だったんだね……良かった……」
そう言ってルフレは苦しそうな表情のまま、微笑みを浮かべようとするが……痛みからかそれは上手くいっていなかった。
だが、意識が戻った事を喜び、傷付いていない右肩へそっと鼻先を触れさせたルキナの頭を、そっと優しく撫でてくれた。
『すみません、ルフレさん。お父様が、ルフレさんに……』
「……気にしなくて、良いんだよ、ルキナ。
君がまた実のお父さんから殺されかけるだなんて……そんな酷い目に遭う事に比べたら……こんな傷、どうって事ないさ。
それに、僕は身体は丈夫な方だから、これ位じゃ死なないよ」
ルフレのその言葉に、胸に何かが詰まったかの様な苦しさを覚える。……どんな事情があれルフレを傷付けたのはクロムだ。
クロムはルフレの命などどうでもいいと本気で考えていたし、実際あの一撃でルフレが命を落とした可能性だってあった。
ルフレが「どうと言う事は無い」と言うその傷は、どう考えてもそんな言葉で流して良いモノである筈なんて無くて。
それなのに、ルフレはルキナの事ばかり気に掛ける。
それがどうしようもなく苦しいのに、それ以上の謝罪の『言葉』を、ルフレのその優しい目は許してはくれない。
それが、どうしようもなく苦しい。
ルフレはルキナの背に預けていた荷物を持ってくる様にと頼み、ルキナが言われた通り荷物の入った鞄を咥えてくると。
その鞄の中から治療の杖と薬を取り出したルフレは。
あろう事か、自分の傷を癒すのではなくて、ルキナの翼の傷に治療の杖を使い出した。
『ルフレさん! 私の事など後でで良いのです!
今は、ご自分の傷を最優先にして下さい!』
だがルキナが幾ら抗議の唸り声を上げても、何処吹く風とばかりにルフレはルキナの治療を止めない。
「傷付いていたのに、無理をして飛んだんだろう?
今の内に治しておかないと、もっと酷い事になってしまうよ。
それに、僕の傷は見た目程酷くは無いみたいなんだ。
嘘だと思うなら、ほら」
そう言いながらルフレは服を捲り上げてその左の脇腹を晒す。
……その傷口は、服を汚す血の量からはとても考えられない様な、「浅い」傷だった。
だが……ルキナは確かに、ザックリと深くまで切り裂かれた傷口を見たのだ。更にそれだけではなく、ルキナの鉤爪が傷付けてしまった裂創は、もう薄い瘡蓋になっている。
……本当に?
ルキナは自分が見たそれを信じられずに、その臭いを嗅ぐ様に鼻先を押し当てるが……。
あれ程までに深い傷口で、しかもさっき確かめた時でも血が流れていた筈なのに、もう乾いた血の臭いしかしない。
ほんの数分程度でそこまで治る事など有り得るのだろうか?
どうにも落ち着かないものを感じるけれど、ルフレの傷が深くない事自体は喜ぶべき事である。……傷の深さがどうであれ、父がした事の重さは変わらないのだけれども。
『ルフレさん……。私の所為で、あなたをこんな目に遭わせてしまって……。本当にごめんなさい……』
ルキナは、……恐ろしかった。
ルフレが、そのまま死んでしまうのではないかと。
父の手で、否ルキナを庇って、命を落としてしまうのではと。
それが恐ろしくて恐ろしくて……。
ルフレが死ぬ事自体、到底耐えられない事だけれども。
それがよりにもよって自分を庇ってだなんて……ルキナには何があっても耐えられなかった。
愛する相手を、『恋』している相手を。そんな形で喪うなんて。
絶対に耐えられないと、ルキナには分かっていた。
それに、どうしてあそこにイーリスに居る筈のクロムが居たのかは分からないけれど……もしも、ルキナがあの森を旅立ったからなのだとしたら……ルキナの『願い』に付き合ってここまで来てくれたルフレを、半ば自分が殺した様なものになる。
「自分の所為で」と言う想いが、どうしてもルキナの心から離れない。そんなルキナを見て、ルフレは優しく苦笑する。
「良いんだよ、ルキナ。この傷は誰の所為の者でも無い。
だから、そんな顔をしないで。
君が苦しんでいるのを見る事が、僕は一番辛いんだから」
そう言って、ルフレはルキナの顔に両手を当てて、眼を……ルキナの左眼を覗き込む。
「……ずっと前から思っていたけれど、綺麗な眼だ。
……ここに刻まれた『聖痕』に、僕はもっと早くに気付くべきだったのかもしれないね……。
そうしたら、もっと別の道があって……ルキナのお父さんが……聖王様が、あんな風に憎しみに囚われてしまう事も無かったのかもしれない……。
……でも、僕は全然気付いてあげられなかった。
……ごめんね……。君をこんな風に苦しめずに済んだのかもしれないのに……」
ルフレが苦しそうな顔をするので、ルキナは首を横に振った。
ルフレの所為では無い。その責の所在を問うのであれば、寧ろ全く伝えようともしなかったルキナの責任になるだろう。
『良いんです、ルフレさん。
そんな事……あなたの所為じゃないです』
それよりも、全く伝えようともしていなかったのに、どうしてルキナが王女であるとルフレは分かったのだろうか……。
そんな風に考えてルフレを見詰めていると、ルフレは少しバツが悪そうな顔をした。
「……実は、ルキナとチキ様が夜中に会話している所を少しだけ聞いてしまってね……。その時に、気付いてしまったんだ。
……でも、それを言い出せなかった。
……言ってしまったら、君が王女であると知っている事を伝えてしまったら……。
ルキナと過ごす『幸せ』なこの時間が、その瞬間に終わってしまう様な気がして……それが、怖かったんだ。
馬鹿みたいだろう……?」
ルフレの言葉に、『そんな事無い』と思い切り首を横に振った。
ルキナも同じだったからだ。
もし王女だと知られてしまったら、この『幸せ』な時間が終わってしまう様な気がして……だから、伝えられなかった。
だから、自分もまた同じ気持であったのだと。
そうルフレに伝える様に喉を鳴らした。
「……ルキナも、同じ気持ちだったのかい……?
……互いにそんな事を考えて、何も言えなかったなんて。
……僕たちは、似た者同士だったのかもね……」
ルフレは苦笑して、ルキナの頭を両手で抱き寄せる様にする。
そして、そっと額を合わせて目を閉じた。
「……僕は、ルキナに出逢えて『幸せ』だった。
あの日、傷付いた君を見付けた時は、こうしてこんな所にまで旅をするなんて、ちっとも考えた事は無かったけれど。
……でも、あの森で二人で過ごしていた時間も、こうして二人で旅をしてきた時間も。
……僕にとっては、本当に……本当に、『幸せ』その物だった」
そして、ゆっくりと目を開けたルフレは。
少し、寂しそうな……そんな顔をして微笑んだ。
「『幸せ』過ぎて、終わらないで欲しいと、そう心から思ってしまう程、君と過ごした日々は僕にとって特別なものだった。
……僕にとって、ルキナは特別で大切な……そんな人だから。
だけど、『人間』としての君には帰るべき場所がある。
そしてそれは、あの森じゃない。
……僕なんかではどんなに手を伸ばしても届かない場所に、君は去ってしまう……。……それが、怖かったんだ。
ずっと傍に居たい、傍に居て欲しいと。……そんな我儘な子供みたいな、叶わない『願い』を夢見てしまう程……。
でも、やっぱり、そんな事を願うべきじゃない……。
……ルキナを想うあまりに、あんな風に憎しみに囚われてしまった聖王様を見て、やっと思い切る事が出来た。
ルキナ、君は君の生きるべき場所に、君を心から想う人達が待つ場所へ、帰るべきだ。
今の聖王様に、僕の言葉は届かないだろうし、君の『言葉』も届かない……。でも、『人間』に戻った君の言葉なら届く。
君が、お父さんの苦しみを、終わらせてあげるべきだ……」
『ルフレさん……。私は……。私も、あなたとの日々を、終わって欲しくないと……ずっとそう思っていたんです。
……叶う事ならば、この旅が終わっても、あなたと二人、あの森で静かに生きられるなら……。
そんな事を、ずっと思っていました。
……ルフレさんにとっての私がそうであるように。
私にとって、ルフレさんは何よりも大切で特別な人だから』
伝わらないと分かっていても、ルキナは『言葉』に『想い』をのせる。……叶うならばルフレのその身体を抱き締めたい位に、気持ちが心の奥底から溢れ出してしまいそうだった。
ルフレと自分が抱えている『想い』が同じものであるかは分からないけれど。
ルフレから、『大切』だと、『特別』だと……そう思って貰えた事が、そう言って貰えた事が、泣きそうな程に嬉しくて。
そして、ルキナの事を心から想うルフレの言葉が嬉しくて。
『愛しい』気持ちが、止め処なく溢れ出してしまいそうだ。
思わず彼の胸へと摺り寄せた頭を、ルフレは優しく抱き締めてくれる。その優しい温もりを伝えてくれる。
『ルフレさん。好きです。あなたの事が、何よりも、誰よりも。
叶う事ならば、ずっと……ずっと傍に居たい。
愛しています。……この『想い』が叶わなくても、ずっと』
伝わらないからこそ、ルキナはその『言葉』を口にした。
……復讐と憎悪に縛られてしまった父を、ルキナは救わねばならない。娘としても、そしてイーリスの王女としても。
ルフレの言う様に、ルキナには帰らねばならぬ場所がある。
そこに、ルフレが居ないのだとしても、共に生きる場所は無いのだとしても……。そこから逃げ出す事は、出来ない。
……ならば、こうしてルフレと共に在れる時間は、本当に後少しだけしか残されていないのであろう。
『真実の泉』に辿り着いたその後は。
……父を、止めなくてはならない。『人間』としての姿と言葉で、その苦しみから解放してあげなくてはならない。
ならばこそ、せめてこの夜だけは、とルキナは願う。
この温もりを、何れ程の時間が過ぎても忘れない様に。
ルフレに抱き締められたまま、ルキナは目を閉じた。
◇◇◇◇◇
全速力で高く空を飛び、山脈を幾つか越えて。人気などある筈も無い深山の更に奥地で見付けた清涼な水が流れる川辺に。
傷付いたルフレを抱えて飛び続けたルキナは降り立った。
既にもう日は暮れていて、辺りは月灯りと星灯りしかない暗闇の帳に覆われている。
幾ら復讐に燃える父であってもこんな山奥をこの時間に分け入ろうとする程に考えが狂っている訳ではないだろう。
故に、夜明けまではここに留まれる、とルキナは判断した。
森の獣達は見慣れぬ『竜』を恐れて近寄ろうとはせずにいるらしく、少なくとも今晩の間は襲われる可能性は低い。
先ずは火を起こさねばと、ルキナは川辺にあった樹を爪で切り倒して、大雑把な薪木を作り、それに炎の息吹で火を着けた。
乾燥していない生木は火が着き難く本来薪木には適さないが、炎の息吹の威力を前にすればあっさりと燃え上がる。
炎を吐き出した事など、クロムの元から逃げる為に無我夢中になって吐いたそれが初めてであったのだが、一度出来てしまえばまるで生来可能だった様にすら感じてしまう。
だが今は炎を吐ける様になった事について考える暇はない。
焚火によって熱源と光源を確保出来た事で、ルキナは改めてルフレの様子を見た。
左肩から脇腹に掛けて服が大きく切り裂かれ、そこを中心に服が血で赤黒く染まっている。
止血が追い付いていないのか、未だに零れる様に血の雫は傷口から落ちていく。
そして、ルキナが鋭い鉤爪の生えた手で抱き抱えた所為で、
左肩の傷程深くなくとも腕などに裂傷が幾つも刻まれていた。
『ルフレさん……。お願いです、死なないでください……』
自分のこの手では、かつて彼がしてくれた様に、傷を治療する事など出来なくて。そもそも、その知識すら無い。
獣がそうする様に傷口を舐める事なら出来るだろうが……この傷はそれで治る様な物でも無い事位は判断が付く。
せめて水を飲ませようとするのだけれども、水辺に連れて行っても未だ気を喪っているルフレが飲める訳も無く。
水を掬ってみるのも、この手では難しい。
だからルキナは、意識が無い相手にこんな事をするのはどうなのだと思いつつも。水を自身の口に含んでから、ルフレの唇に口先を押し当てる様にして。そして舌で優しく抉じ開ける様にして、水を口移しで与える。
すると、急に水が口に入って来たので身体が反射的に驚いたのか、ルフレは激しく咳き込み、うっすらとその目を開けた。
「……ルキナ……無事……だったんだね……良かった……」
そう言ってルフレは苦しそうな表情のまま、微笑みを浮かべようとするが……痛みからかそれは上手くいっていなかった。
だが、意識が戻った事を喜び、傷付いていない右肩へそっと鼻先を触れさせたルキナの頭を、そっと優しく撫でてくれた。
『すみません、ルフレさん。お父様が、ルフレさんに……』
「……気にしなくて、良いんだよ、ルキナ。
君がまた実のお父さんから殺されかけるだなんて……そんな酷い目に遭う事に比べたら……こんな傷、どうって事ないさ。
それに、僕は身体は丈夫な方だから、これ位じゃ死なないよ」
ルフレのその言葉に、胸に何かが詰まったかの様な苦しさを覚える。……どんな事情があれルフレを傷付けたのはクロムだ。
クロムはルフレの命などどうでもいいと本気で考えていたし、実際あの一撃でルフレが命を落とした可能性だってあった。
ルフレが「どうと言う事は無い」と言うその傷は、どう考えてもそんな言葉で流して良いモノである筈なんて無くて。
それなのに、ルフレはルキナの事ばかり気に掛ける。
それがどうしようもなく苦しいのに、それ以上の謝罪の『言葉』を、ルフレのその優しい目は許してはくれない。
それが、どうしようもなく苦しい。
ルフレはルキナの背に預けていた荷物を持ってくる様にと頼み、ルキナが言われた通り荷物の入った鞄を咥えてくると。
その鞄の中から治療の杖と薬を取り出したルフレは。
あろう事か、自分の傷を癒すのではなくて、ルキナの翼の傷に治療の杖を使い出した。
『ルフレさん! 私の事など後でで良いのです!
今は、ご自分の傷を最優先にして下さい!』
だがルキナが幾ら抗議の唸り声を上げても、何処吹く風とばかりにルフレはルキナの治療を止めない。
「傷付いていたのに、無理をして飛んだんだろう?
今の内に治しておかないと、もっと酷い事になってしまうよ。
それに、僕の傷は見た目程酷くは無いみたいなんだ。
嘘だと思うなら、ほら」
そう言いながらルフレは服を捲り上げてその左の脇腹を晒す。
……その傷口は、服を汚す血の量からはとても考えられない様な、「浅い」傷だった。
だが……ルキナは確かに、ザックリと深くまで切り裂かれた傷口を見たのだ。更にそれだけではなく、ルキナの鉤爪が傷付けてしまった裂創は、もう薄い瘡蓋になっている。
……本当に?
ルキナは自分が見たそれを信じられずに、その臭いを嗅ぐ様に鼻先を押し当てるが……。
あれ程までに深い傷口で、しかもさっき確かめた時でも血が流れていた筈なのに、もう乾いた血の臭いしかしない。
ほんの数分程度でそこまで治る事など有り得るのだろうか?
どうにも落ち着かないものを感じるけれど、ルフレの傷が深くない事自体は喜ぶべき事である。……傷の深さがどうであれ、父がした事の重さは変わらないのだけれども。
『ルフレさん……。私の所為で、あなたをこんな目に遭わせてしまって……。本当にごめんなさい……』
ルキナは、……恐ろしかった。
ルフレが、そのまま死んでしまうのではないかと。
父の手で、否ルキナを庇って、命を落としてしまうのではと。
それが恐ろしくて恐ろしくて……。
ルフレが死ぬ事自体、到底耐えられない事だけれども。
それがよりにもよって自分を庇ってだなんて……ルキナには何があっても耐えられなかった。
愛する相手を、『恋』している相手を。そんな形で喪うなんて。
絶対に耐えられないと、ルキナには分かっていた。
それに、どうしてあそこにイーリスに居る筈のクロムが居たのかは分からないけれど……もしも、ルキナがあの森を旅立ったからなのだとしたら……ルキナの『願い』に付き合ってここまで来てくれたルフレを、半ば自分が殺した様なものになる。
「自分の所為で」と言う想いが、どうしてもルキナの心から離れない。そんなルキナを見て、ルフレは優しく苦笑する。
「良いんだよ、ルキナ。この傷は誰の所為の者でも無い。
だから、そんな顔をしないで。
君が苦しんでいるのを見る事が、僕は一番辛いんだから」
そう言って、ルフレはルキナの顔に両手を当てて、眼を……ルキナの左眼を覗き込む。
「……ずっと前から思っていたけれど、綺麗な眼だ。
……ここに刻まれた『聖痕』に、僕はもっと早くに気付くべきだったのかもしれないね……。
そうしたら、もっと別の道があって……ルキナのお父さんが……聖王様が、あんな風に憎しみに囚われてしまう事も無かったのかもしれない……。
……でも、僕は全然気付いてあげられなかった。
……ごめんね……。君をこんな風に苦しめずに済んだのかもしれないのに……」
ルフレが苦しそうな顔をするので、ルキナは首を横に振った。
ルフレの所為では無い。その責の所在を問うのであれば、寧ろ全く伝えようともしなかったルキナの責任になるだろう。
『良いんです、ルフレさん。
そんな事……あなたの所為じゃないです』
それよりも、全く伝えようともしていなかったのに、どうしてルキナが王女であるとルフレは分かったのだろうか……。
そんな風に考えてルフレを見詰めていると、ルフレは少しバツが悪そうな顔をした。
「……実は、ルキナとチキ様が夜中に会話している所を少しだけ聞いてしまってね……。その時に、気付いてしまったんだ。
……でも、それを言い出せなかった。
……言ってしまったら、君が王女であると知っている事を伝えてしまったら……。
ルキナと過ごす『幸せ』なこの時間が、その瞬間に終わってしまう様な気がして……それが、怖かったんだ。
馬鹿みたいだろう……?」
ルフレの言葉に、『そんな事無い』と思い切り首を横に振った。
ルキナも同じだったからだ。
もし王女だと知られてしまったら、この『幸せ』な時間が終わってしまう様な気がして……だから、伝えられなかった。
だから、自分もまた同じ気持であったのだと。
そうルフレに伝える様に喉を鳴らした。
「……ルキナも、同じ気持ちだったのかい……?
……互いにそんな事を考えて、何も言えなかったなんて。
……僕たちは、似た者同士だったのかもね……」
ルフレは苦笑して、ルキナの頭を両手で抱き寄せる様にする。
そして、そっと額を合わせて目を閉じた。
「……僕は、ルキナに出逢えて『幸せ』だった。
あの日、傷付いた君を見付けた時は、こうしてこんな所にまで旅をするなんて、ちっとも考えた事は無かったけれど。
……でも、あの森で二人で過ごしていた時間も、こうして二人で旅をしてきた時間も。
……僕にとっては、本当に……本当に、『幸せ』その物だった」
そして、ゆっくりと目を開けたルフレは。
少し、寂しそうな……そんな顔をして微笑んだ。
「『幸せ』過ぎて、終わらないで欲しいと、そう心から思ってしまう程、君と過ごした日々は僕にとって特別なものだった。
……僕にとって、ルキナは特別で大切な……そんな人だから。
だけど、『人間』としての君には帰るべき場所がある。
そしてそれは、あの森じゃない。
……僕なんかではどんなに手を伸ばしても届かない場所に、君は去ってしまう……。……それが、怖かったんだ。
ずっと傍に居たい、傍に居て欲しいと。……そんな我儘な子供みたいな、叶わない『願い』を夢見てしまう程……。
でも、やっぱり、そんな事を願うべきじゃない……。
……ルキナを想うあまりに、あんな風に憎しみに囚われてしまった聖王様を見て、やっと思い切る事が出来た。
ルキナ、君は君の生きるべき場所に、君を心から想う人達が待つ場所へ、帰るべきだ。
今の聖王様に、僕の言葉は届かないだろうし、君の『言葉』も届かない……。でも、『人間』に戻った君の言葉なら届く。
君が、お父さんの苦しみを、終わらせてあげるべきだ……」
『ルフレさん……。私は……。私も、あなたとの日々を、終わって欲しくないと……ずっとそう思っていたんです。
……叶う事ならば、この旅が終わっても、あなたと二人、あの森で静かに生きられるなら……。
そんな事を、ずっと思っていました。
……ルフレさんにとっての私がそうであるように。
私にとって、ルフレさんは何よりも大切で特別な人だから』
伝わらないと分かっていても、ルキナは『言葉』に『想い』をのせる。……叶うならばルフレのその身体を抱き締めたい位に、気持ちが心の奥底から溢れ出してしまいそうだった。
ルフレと自分が抱えている『想い』が同じものであるかは分からないけれど。
ルフレから、『大切』だと、『特別』だと……そう思って貰えた事が、そう言って貰えた事が、泣きそうな程に嬉しくて。
そして、ルキナの事を心から想うルフレの言葉が嬉しくて。
『愛しい』気持ちが、止め処なく溢れ出してしまいそうだ。
思わず彼の胸へと摺り寄せた頭を、ルフレは優しく抱き締めてくれる。その優しい温もりを伝えてくれる。
『ルフレさん。好きです。あなたの事が、何よりも、誰よりも。
叶う事ならば、ずっと……ずっと傍に居たい。
愛しています。……この『想い』が叶わなくても、ずっと』
伝わらないからこそ、ルキナはその『言葉』を口にした。
……復讐と憎悪に縛られてしまった父を、ルキナは救わねばならない。娘としても、そしてイーリスの王女としても。
ルフレの言う様に、ルキナには帰らねばならぬ場所がある。
そこに、ルフレが居ないのだとしても、共に生きる場所は無いのだとしても……。そこから逃げ出す事は、出来ない。
……ならば、こうしてルフレと共に在れる時間は、本当に後少しだけしか残されていないのであろう。
『真実の泉』に辿り着いたその後は。
……父を、止めなくてはならない。『人間』としての姿と言葉で、その苦しみから解放してあげなくてはならない。
ならばこそ、せめてこの夜だけは、とルキナは願う。
この温もりを、何れ程の時間が過ぎても忘れない様に。
ルフレに抱き締められたまま、ルキナは目を閉じた。
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