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第一話『呪われた王女』

◇◇◇◇◇




 バルコニーから見上げた空は、少し雲が掛かっていて春の柔かな陽射しを僅かに遮っていた。
 少し曇り空である事以外には、空模様は穏やかで。
 雲一つ無い快晴とまではいかなくても、今日と言う日を祝うには決して悪くはない。

 今日は、ルキナの十六歳の誕生日だ。
 イーリスの聖王であるクロムの一人娘と言う事もあって、ルキナの誕生日には毎年盛大な生誕祭が開かれているけれど。
 今日のそれは何時もとはまた違う意味がそこにある。
 イーリスでは、十六歳を迎えると成人として扱われる様になるのだ。
 王族として成人を迎えると言う事の重みは、言葉だけでは表現しきれないものがあった。

 しかし、幼少の砌より民を守り率いるべき王族としての確固たる自覚を抱き続けてきたルキナにとっては、その重みは粛々と受け入れるべきものであり、その覚悟はとうに出来ている。
 ルキナがそれ程までの強い覚悟を抱いたのには、聖王の血を継ぎその身に聖痕が刻まれし者であると言う事も勿論あるのだが、それ以上に、偉大な父と同じくルキナもまた神剣に選ばれし者であったと言う事が大きかった。

 聖王家、ひいてはイーリスと言う国の根本を支えるその剣に選ばれると言う事は、国一つを背負う事と同義である。
 元より、聖王クロムの一人娘である事から、ルキナが次代の聖王となる事は半ば確定されていた事ではあったけれども、ファルシオンに選ばれると言う事にはそれ以上の重みがある。
 歴代の聖王及び聖王家の者達の中で、ファルシオンに選ばれた者は驚く程少ない。
 が、選ばれた者達は皆『賢君』として後世に名を残していた。
 二代も続けてファルシオンに選ばれたその事実は、更なる繁栄がイーリスにもたらされる証なのであろう、と。
 そう誰もが考えているのだ。
 その重圧は計り知れないものではあるが、ルキナはそれから逃げ出そうとする事もなく、直向きに向き合い続けていた。

 しかし覚悟はしていても、やはり緊張はしてしまう。
 この日の為だけに誂えられた何時もよりも豪奢なドレスを身に纏い、バルコニーから祭りの活気に包まれた城下町の様子を眺めていたのだが、これから自分が背負わねばならぬものへと改めて考えを思い巡らせていたからか、どうにもやや緊張からか身体が固くなってしまっていた。
 こんな様を、民や臣下達に見せる訳にはいかないだろう。
 幸いセレモニーまではまだ時間があるので、緊張を和らげる為にルキナは中庭に出た。

 幼い頃から慣れ親しんでいる城の中庭は、ここを訪れる者は王族と庭師しか居ない為、人目を気にする事もなく時を過ごせるルキナのお気に入りの場所であった。
 王家付きの庭師の手によって丹念に整えられた庭は、民達の目を楽しませられる様に城の前に造られ解放されている大庭園とはその規模こそ劣れども、そこにある美しさと言うものに関しては一切負けていない。
 美しく整った庭はそこを飾る調度品に至るまで完璧に計算され尽くしており、完成した芸術品と同じである。
 今は春の花に彩られているが、夏には夏の、秋には秋のと、四季折々の景観がそこには現れる様にとなっていた。
 暫しの間花々を眺め十分に心を落ち着かせたルキナは、もう行かなくてはならないだろうと、中庭を後にしようとする。

 その時。

 何かの悍ましい呪詛の様な、そんな怨嗟に満ちた……何者かの咆哮が耳元で聞こえた様な気がした。
 それと同時に、自分の身の内で何かが割れる様に……或いは切れる様に壊れた感覚が走る。


 ── 何なの……?


 今だかつて感じた事の無い感覚に、嫌な予感を覚えてルキナは思わず身構えた。
 そして、その次の瞬間。

 身の内まで焼け付く様な、まるで地獄の業火の中に生きながらに放り込まれたかの様な、そんな耐え難い灼ける様な痛みがルキナの全身を襲った。
 喉を焼き潰されたかの様な痛みから悲鳴を上げる事も出来ずに、ルキナはその場に倒れ込む。


── 熱い痛い苦しい熱い熱いアツいアツイ……!!


 豪奢なドレスが砂に汚れるのにも構う事なんて出来ずに、ルキナは耐え難いその苦しみを少しでも和らげようとのたうち回るが、その程度では何一つとして和らぐ事はなく、寧ろ却って痛みは激しさを増すばかりであった。
 意識すら焼き切られそうになる程の激痛が、絶え間無くルキナを襲い続ける。
 身の内に焼けた鉄の塊を流し込まれそして掻き混ぜられているかの様なその痛みに、ルキナはともすれば狂いそうになった。

 ……そんな、永遠に続くかと思われた地獄の責め苦も、ふとした瞬間に途切れて。
 やっと息が出来ると、ルキナが苦しみでぐちゃぐちゃに涙を溢した顔で少し安堵していると。
 今度は灼け付く様な耐え難い痛みとはまた別の、もっと悍ましい痛みに全身を襲われる。
 何かが壊されそして捏ねくり回されているかの様な、巨大な手で無茶苦茶に潰されては引き伸ばされているかの様な、そんな異常な感覚に支配される。

 痛みの中で滅茶苦茶に狂った感覚の中、少しずつ衣装が酷く窮屈になっていく様に感じ、胸元の辺りを掻き毟ってしまう。
 だが、ドレスを少し乱す程度にしかならなかった筈のその指先は、まるで鋭い刃物で切り付けたかの様にドレスをズタズタに引き裂いてしまった。
 その異常に思わず、耐え難い痛みから絶えず溢れる涙と苦しみから霞むその目でルキナが己の手を見ると、それは到底己の手とは思えぬ……獰猛な獣の様な鋭く大きな鉤爪に指先が覆われ、そして指先から二の腕の辺りまでが蒼く銀に輝く鱗に覆われた、怪物の手の様なものに成り果てた『手』であった。
 理解出来ぬその光景にルキナの思考が驚き固まるその間にも、その視界の中でその手は更に人間の手の形を喪っていく。
 まるで地を駆ける獣の様に、関節の向きが音を立てて変わってゆき、ルキナの思う通りには動かせなくなっていった。
『怪物』……否、物語に出てくるかの様な『竜』の前肢の様に、ルキナの手は変じてしまって。
 そして、身体を駆け巡る異様な感覚が、異変はそれだけでは終わらないのだと訴えてくる。

 逃げる事も止める事も出来ぬ中、足も大きく変形していき、二足で自由に歩く事には向かぬ獣の後肢へと変わり果て。
 全身から新たに何かが生えてくる悍しい感覚と共に、ルキナの肌は鱗に覆われていく。
 耐え難い痛みに苦しみながら、ルキナは次第に自身の身体が大きくなっているのを感じた。
 身体の肥大に耐えきれなかったドレスは内側から裂け、最早衣服とは到底呼べぬ程の欠片の様な布切れとしてルキナの身体に纏わり付くか、或いは地に散らばるばかりで。
 全身が鱗に覆われ変形していくその感覚と共に、尻の辺りと背中の辺りからも異常な感覚が芽生え始めた。
 そして、背から尻へと続く異常な感覚は尻の辺りから長く伸びていくかの様で、それとは別に背中からも何かが生えていく。
 その全てに耐え難い激痛が伴い、ルキナは苦しさと恐怖からそれを確かめる事が出来ない。
 そして変化は、首元へそして顔の方へとやって来る。
 喉を恐ろしい力で握り潰されたかの様な痛みから悲鳴を上げられぬまま、首は長く伸びてゆき。
 そして唯一『異変』からは逃れられていた顔も、大きく口元が前に突き出していく形で変貌していく。
 霞むルキナの視界に、本来ならば見える筈の無い、獣の様に……否飛竜達のそれの様に変貌した口元が見えてしまう。
 自身が怪物染みた『何か』へと変貌していくその恐怖と混乱からルキナは正気を喪い狂い果ててしまいそうになるけれど、皮肉な事に耐え難い痛みの所為で正気を喪う事すら叶わない。

 痛みと恐怖で何もかもが壊れてしまいそうな生き地獄の様な時間は、唐突に痛みが完全に消失した事で終わりを迎える。
 だが、痛みは無くなったとは言え、身体に起こった異常は消えて無くなったりはしない。
 ルキナの視界の中で、手は『竜』の前肢へと変じたままで。
 そして、足もまた人間のそれとは異なる『竜』の後肢である。
 後肢だけでバランスを取る事は出来なくはないが、それでもその状態で歩く事は到底不可能で。
 歩く為には、獣の様に地に四肢を着けねばならない。

 何が起きたのか、自分がどうなってしまったのか。
 今のルキナには何も分からない、理解したいとも思えない。
 それでも……何も分からないままなのも恐ろしくて。
 ルキナは自身の姿を確認するべく、中庭の片隅に設けられている小さな池へと、のろのろと慣れぬ四つ足で歩き出した。
 そして覗き込んだそこに映ったその姿に、言葉を喪う。

 そこに映るのは、『竜』としか言えぬ生き物であった。

 飛竜達とも……ルキナが知る如何なる竜ともその姿は異なれども、今のそのルキナの姿を一言で表すならば『竜』としか言えないのだろう。
 水面に映ったその姿には、人間の面影など何処にもない。
 よくよく見てみれば、その瞳の色だけはルキナ本来の色をしている様であるが、それ以外にはこの『竜』と人間であるルキナとに重なる部分は何一つとして無い。

 信じ難いその光景にルキナは思わず悲鳴の様な叫びを上げた。
 だが、それはただの『竜』の咆哮にしかならず。
 それに驚いたルキナがどんな言葉を紡ごうとしても、その喉から出てくるのは獰猛な竜の吼える声と唸り声でしかない。
 人間としての姿のみならず人間の言葉すら喪った事を理解したルキナは、愕然と……まさに茫然自失となる。

 最早何がどうしてこんな事になったのか、何一つとして理解は出来なかった。
 悪い夢なのではないかと思うけれど、鱗を掻き毟ったその痛みは紛れもなく本物であるし、翼も尾も、紛れもなく自身の身体の一部であるのだとそう主張してくる。

 どうしたら良いのか、どうすれば良いのか。
 何も分からない、何も考えられない。
 ただただ己の身に起きた異常を飲み込む事すら難しく。
 何の前触れもなく『竜』のそれへと変貌した己の身体と……そして何も変わらない己の心と。
 それらは、未だちぐはぐで不安定にすら感じる。
 何度言葉を発そうとしても、それらは人間の言葉らしき音にすらならず、無理に絞り出そうとすればそれは、人間の言葉はおろか竜の鳴き声とするにも奇妙な……そんなまさに何物でもない音にしかならなかった。

 混乱に困惑と恐怖、そして不安に絶望。
 そんな負の感情がグルグルと渦巻いて、胸の内を黒く塗り潰していくかの様であった。

 だが、そんな一人正気を喪い狂っていきそうな時間は、騒がしく此方に向かってくる人々の足音によって途切れる。
 中庭に駆け付けてきたのは、ルキナも良く知る衛兵達で。
 見知った顔がそこにある事に、ルキナは安堵する。
 しかし──


「何て言う事だ……ルキナ王女は……」


 中庭を見回して衛兵長は絶句し、そして怒りと憎しみを込めた眼差しでルキナを射竦めた。
 見知った彼にその様な目を向けられた事の無いルキナは困惑して辺りを見回して……そして言葉を喪う。

 美しく整えられていた筈の中庭は、その面影すら喪われた程の惨憺たる有様へと変わり果てていた。
 庭師達が丹念に整えていた草花は根刮ぎ荒らされ、庭の調度はその殆どが無惨にも打ち砕かれ。
 巨大な何かが暴れ狂った痕の様な中庭には、ルキナが身に纏っていたドレスの無惨な残骸が散らばって、ドレス以外の装飾品も力任せに壊され捨てられたかの様に散らばっていた。
 更には、周囲には血も飛び散っていて。
 それはまさに、人が一人、獰猛な獣に食い荒らされてしまったかの様な様相を呈していたのだ。

 庭を荒れているのは、身が変貌していく苦しみと恐怖からルキナがのたうち回った結果、その尾や身体で草花や調度を壊してしまったからで。
 衣服が無惨な切れ端となっているのはルキナの身の変化に衣服が耐えられず裂けてしまったからで、それが辺りに散乱しているのもルキナがのたうち回っていたからだ。
 辺りに飛び散る血は、肉体が変貌していくその耐え難い痛みと恐怖に、ルキナがその身を鋭い鉤爪の付いた手で掻き毟り傷付けてしまったからである。

 しかし、その経緯を知る者は、この場にはルキナしか居らず。
 何も知らぬ者が見れば、獰猛な竜が、ルキナを襲い食い殺したかの様に見えるのだろう。



《ああ、何と哀れなルキナ王女!》

《十六の誕生日に、竜に喰われてその若い命を散らすなど!!》

《何たる無念、何たる悲劇!》

《ああ……斯くなる上は、この悪竜を討つ事でしかその無念は晴らせまい!!》



 衛兵達の脳裏に描かれるそれは、成る程それはまさに悲劇であり惨劇であるのだろう。
 まさか目の前に居るこの『竜』が、ルキナ王女を襲い食い殺した邪悪な「人食い竜」が、当のルキナ王女本人であろうとは、誰一人として思い至る事はない。

 何か弁明しようにも人間の言葉を喪ったルキナにそれが叶う筈も無くて、今こうしている間にも城内は騒然となり、中庭には衛兵や兵士達が武器を手に押し寄せて来ている。


『待って、違うんです、私がルキナなんです。
 お願い……信じて……』


 ルキナの言葉は、竜の唸り声にしかならず。
 それはまるで、自らに武器を向ける人々を威嚇しているかの様にしか、衛兵達には見えなかった。

 衛兵達の武器を握るその手に、敬愛する聖王家の……これから国を導く立場になる筈であった王女へと無惨な死を与えた『竜』への怒りと憎しみから力が籠る。
 竜の腹を捌けば喰われたルキナ王女を助け出せるのなら、きっと誰もが我が身を擲ってでもその腹を裂くのだろう。
 それ程の、怒りと憎しみがこの場を支配していた。

 ルキナはただ、狼狽える事しか出来ない。
 この場に於いてルキナだけは、それが誤解であると言う事を承知している。
 例え敵意と武器を向けられているのだとしても、それでどうして彼等へと牙を剥き爪を突き立てられるというのだ。
 だからどうにかこちらの事情を伝えようと努めるけれども。
 しかし、どうやっても人間の言葉を紡げぬこの舌と喉では、それは叶わぬ事であった。

 場の緊張が高まり、衛兵たちが『竜』へと狙いを定め引き絞った弓弦は今にも悲鳴を上げそうな程にしなっている。
 何か指示か動きでもあれば、直ぐ様何十と言う弓矢が『竜』の身を襲うだろう。
 その時は、今か今かと迫ってきていた。

 そして、その緊張が弾けそうになった瞬間。


「待て」


 その場を一瞬で収める程の、威厳と力に満ちた声が響く。
 靴音を高く鳴らして中庭に現れたのは──



『お父様……』


 ルキナの父にして、この国を導く聖王である、クロムその人であった。
 その右肩には聖王家の正統性を示す聖痕が鮮やかに刻まれ、その腰に在るのは唯一無二の神威の剣──ファルシオン。
 これ以上になく『聖王』としての威厳に満ち溢れたその姿は、ルキナにとっては憧れであり目標であった。

 そしてそんなクロムは、中庭の惨状に目をやり、そして『竜』へと目を向ける。
 そこにある感情を、ルキナは恐ろしくて直視出来ない。


『お父様……私は……』


 それでも。
 親子の、血の繋がりが『奇跡』を起こせるのなら。
 クロムは、この姿であっても、ルキナをルキナとして見てくれるのではないか、分かってくれるのではないか、と。
 そんな期待が胸の中で頭を擡げる。

 だがしかしそんな淡い期待は。
 クロムがその腰からファルシオンを抜き放った事で、無情にも断ち切られた。


「ルキナ……お前を助けられなかった父を、赦してくれ……」


 散らばった衣服の欠片へとそう瞑目したクロムは、次の瞬間、鋭過ぎる眼光で『竜』を射抜く。
 敬愛する父にその様な眼差しを向けられた事など無かったルキナは、反射的に身を縮こまらせるかの様に固まってしまう。
 その隙を逃さぬとばかりに、クロムはファルシオンを鋭く振り下ろした。
 まさに一条の雷光の如き一閃は、ルキナの左前肢を覆う硬い鱗を容易く切り裂いて血飛沫を辺りに散らせる。
 そして続け様に放たれた二太刀目は、ルキナの胸元を斜めに大きく深く切り裂いた。
 その痛みに、思わず竜の咆哮に似た悲鳴を上げたルキナは、とにかくその剣先から逃れようと、その一心で半ば本能的に翼を羽ばたかせる。


「逃がすな!  放てっ!!」


 空へ逃れようとするルキナへ、何百もの矢が射掛けられた。
 その殆どは硬い鱗に弾かれるが、何度も矢が当たり脆くなっていた部分などは鱗を砕かれその身に矢が突き立っていく。
 それでも、十数本の矢をその身に受けながらもルキナは羽ばたき続け、遂には王城が遥か眼下に小さく見える程の高さまで逃れた。
 しかしファルシオンによって斬られた傷口からは絶えず血が溢れ落ち、斬られたそこは真っ赤に熱せられた火掻き棒を押し当てられているかの様な激痛と灼熱感が走り続けている。

 王城を飛び出した所で、行く宛などある筈も無い。
 それでも、ルキナは。
「死にたくない」と、その本能の声に従う様にして。
 行く宛も無いままに只管羽ばたき続けるのであった。




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