第四話『小さな希望』
◆◆◆◆◆
「ルキナ、今日は森の奥の湖に行ってないかい?」
すっかり包帯代わりのシーツも要らなくなった傷口に、軟膏の様な塗り薬を塗りながら、ルフレがそう尋ねてくる。
ルフレに命を救われたあの日から、もう随分と……それこそ二月以上の時間が経ち、一時は命すら危うかった傷ももうその殆どが綺麗に塞がっていて。
最も重篤だったファルシオンで胸を切られたその傷も、鱗も綺麗に生えてきているのでよくよく見なければ傷痕に気付く事は難しくなっている。
激しく動くとまだ少し痛むので無理は出来ないが、最近は日中は畑の世話の手伝いをしたり、狩った獲物を家まで運ぶ手伝いをしたりと、自分なりに今の姿でも出来る事をしている。
最初の内は、ルキナに手伝わせる事に抵抗があったのかそれを遠慮しようとしていたルフレであったけれど、ルキナとしてはここまで彼に世話になっているのにこのまま何もしない方が落ち着かないからと、押し切る様に手伝い始めたのだった。
最初は「無理をしないで」と頻りに言っていたルフレであったが、他ならぬルキナが生き生きと手伝っているのを見て次第に止める様な事は言わなくなり、代わりに色々とルキナに頼んでくれる様になっていった。
恩返し……と言うには余りにも細やかな事ではあるのだけれど、そうやって少しでもルフレの力になれているのなら、ルキナにとってはとても『幸せ』な事であった。
そして、そんなルフレから誘って貰えた事が嬉しくて、ルキナは喜びから尾を揺らして頷く。
『はい! 是非行ってみたいです、ルフレさん』
相変わらずヒトの言葉は話せなくて、喉を鳴らしたり唸ったりといった音にしかならないけれど。
最近はそう言った鳴き声の『言葉』でも、ルフレに大体の意味が通じる様になってきていた。
正確には、ルフレがルキナの伝えようとしている『想い』を汲み取る事に慣れてきた、とも言えるのだけれど。
特に、『ルフレさん』と呼び掛けた時の『声』は確実に伝わる様になっていて、それがルキナには堪らなく嬉しいのだ。
「そうか、良かった。
湖の周りの景色も凄く綺麗だし、水もそのまま水浴び出来る位に綺麗だから、一度連れていってあげたかったんだ。
少し離れているから、今まではあまり無理をさせたくなくて連れて行けなかったけれど、もう十分動ける様になったからね。
それに、この時期は湖で獲れる魚が美味しいんだよ。
魚が獲れたら、今日のご飯は魚料理にしよう」
ニコニコと微笑むルフレに、ルキナは『楽しみです』と鳴く。
決して、ルキナの食い意地が張っているなんて事は無いのだけれど、ルキナはルフレの作る料理が好きだった。
王城で食べていた料理に比べれば限りなく質素なものであるし味自体もきっと王家付きの料理人達が腕を振るっていたそれと比べる事は難しいのだろうけれども。
ルフレがルキナの事を思って作ってくれる料理は、……城で食べていた毒見を行う内に冷めてしまっている事が大半であったそれとは比べ物にならない程に、とても「温かい」のだ。
たった一口でも心がぽかぽかと温かくなる。
同じ料理を分け合って食べる事はルキナにとってはとても新鮮で……そして幸せな事であった。
そして、それだけではなくて。
ルフレは、森での独り暮らしと言う決して楽ではない生活の中でも、それを苦とも見せずにルキナに良くしてくれている。
『竜』の身体のルキナは、普通のヒトを基準に考えると成人男性よりも食べてしまうのだけれども。
その分余計に日々の食料は必要で……それなのにルフレはそれを欠片も厭う事無く……寧ろルキナが食べている姿を嬉しそうに微笑んで見ているのだ。
……だからなのだろうか。
金銭的に豊かな人々が贅を凝らして作る料理よりも、ルフレと共に食べる質素な食事の方が、ずっと美味しく感じるのは。
どうすれば彼に恩を……こうして一緒に暮らさせて貰っている恩だけでなく、そもそも命を救って貰った事の恩も含めたその全てを、返す事が出来るのだろうかと、そう思ってしまう。
……彼はルキナに何か見返りを求めようとは全く思ってもいない様ではあるけれど、それではルキナとしては気が済まない。
だが……『王女』と言う立場でも最早ないただの『ルキナ』が……そしてこの『竜』の身体で、彼に何をしてあげられるのか……ルキナには全く何も思い付かない。
ルキナは彼から貰ってばかりで、それを返す術すら思い付かないままに次から次へ受け取るばかりになってしまっている。
ルキナが世話をかけてばかりでいる事を気にしているのを察しているのか、ルフレは事ある毎に「好きでやっている事だから気にしないで」と笑って言うのだけれど……。
……儘ならない想いはあるのだけれども、どうしてだかそれすらも心地良くて、少し戸惑ってしまうのであった。
竿や網などの魚を獲る為の道具を持ったルフレに案内されて森の奥の方へと歩いていくと、突然に視界が大きく広がり、目の前一杯に広がる大きな湖面が姿を現した。
晩春と初夏の移り変わりの時期の少し強い温かな風が湖面を揺らし、湖畔に静かな漣を寄せて。
湖を取り巻く木々は降り注ぐ陽射しに照らされて青々と輝き、吹き抜けていく風にその木の葉を揺らして。
少し遠くの岸辺近くでは、鴨の群れがのんびりと水草を食みながらプカプカと浮かぶ様に泳いでいて。
陽の光を照り返す様に、湖面は宝石の様に輝いている。
美しい……とても美しい景色であった。
ヒトの手によって整えられた美しさとは異なる、そこに在るがままの美しさの、そんな極致の一つなのだろう。
深い森の奥にあるからこそ、湖には人の姿はルフレとルキナ以外には見当たらず、獣達だけの楽園の様ですらあった。
「ね、綺麗な湖だろう?
この時期だけじゃなくて、秋も冬も春先も凄く綺麗なんだ。
ずっと向こうにある山の方から流れてくる雪解け水や、湧き水なんかがこの湖に集まって来てて、凄く豊かな水だからか魚も物凄く多いしよく育つんだよ。
この湖の水は、遠く海の方まで流れていくらしいんだけれど、僕はこの森を離れた事が殆ど無いから『海』って言うモノをこの目で見た事はまだないんだ。
ルキナは、『海』を見た事があるかい?」
網を使って罠を作りながら、ルフレはそう訊ねてくる。
ルキナも、まだ『海』を目にした事は無かった。
公務として赴いた場所は内陸の領地ばかりであったし、『海』を見る為だけに我儘を言える性格でも無かったからだ。
『海』と言うモノは勿論知識としては知っているけれど……「未知」のモノを知る為に我儘を言う前に成さなくてはならない事が沢山あって、そして「『海』を見る事」はルキナにとってはそれを後回しにしてでもする必要がある事ではなかった。
「そっか、ルキナも『海』を見た事が無いんだね。
僕と一緒だ」
そう言いながら罠を仕掛け終えたルフレは、岸辺に転がっていた手近な岩に腰かけて釣竿を握る。
「……僕は、この森の中の世界しか、殆ど知らないんだ。
本から沢山の事を学んだけれど、その殆どはこの目で確かめた事が無い事ばかりで。
ずっと、それでも良いと思っていた。
この森の中で生きていくには不自由はしなかったしね。
……でも、ルキナと出会って、少し変わった」
穏やかな声音で、その視線を湖面で微かに揺れる浮きを見詰めながらルフレは静かに言う。
ルキナは、そんなルフレの傍に寄り添う様に座りながら、その言葉の続きを待つ。
「……君と出逢ってからの毎日は、『知らなかった』事の連続でね……それを手探りする様に考え知っていく事は、僕にとって……とても楽しかったんだ。
母さんの後を継ぐ様にして『森の賢者』なんて言われながら近くの村の人々に力を貸す事だって、満足していたんだけど。
何て言ったら良いのかな……自分の世界が広がっていく楽しさ……広がった世界がしっかりと経験に裏打ちされていく喜び……『知らなかった』事自体を知る驚き……。
狭かった世界だけで満足していた僕の『世界』を、君が変えてくれた……その切掛けをくれたんだ。
それに……僕は君に何時も支えて貰っている。
誰かと一緒に食事する楽しさを、こうして喋る言葉に耳を傾けていてくれる人が居る事の『幸せ』を。
君が、僕にもう一度教えてくれたんだ。
だから、有難う、ルキナ。
君に出逢えて、僕はとても『幸せ』なんだ。
少し照れ臭いけれど……それでもちゃんと伝えたかった」
そう言ったルフレの頬はその言葉通り照れ臭かったのか少し赤くて……それでも、ルキナの目を真っ直ぐに見ていた。
ルキナは、何かを言おうとして、でもどう言えば良いのか分からなくて、伝えようとした言葉も無いままに小さく唸る様にその喉を鳴らした。
もしも『竜』の姿でなく元の人間の姿であったなら、ルキナの頬も朱に染まっていたであろうと、そう根拠もなく思う。
ルフレと目を合わせているのがどうしてだか落ち着かなくて視線を彷徨わせて偶然目にした湖面に映る今の自身の姿は。
落ち着きなく翼を震わせて、尾はゆっくりと大きく動き、相銀の鱗に覆われている『竜』の顔は赤みが差しているのかどうかは分からないけれど……動揺を隠す事も出来ずにソワソワとその視線を彷徨わせているものであった。
そうしてルフレの言葉にここまで動揺してしまっているのか、ルキナにはまだその理由が分からない。
ルフレから「有難う」と言われただけであるのに、心が浮き立つ様にソワソワしてしまう。
感謝してもしきれないのは寧ろルキナの方であると言う想いはあるけれど、それがこの動揺の原因ではないだろう。
何か伝えたくて、でもどうしたら良いのか分からなくて、分からないままなのに、想いは勝手に溢れ出す。
『私も、ルフレさんに出逢えて、本当に──』
あの日、ルフレに出会えていなかったら。
ルキナがこうして息をする事は叶わなかったであろう。
泥濘の中、嵐に打たれて冷えきった身体と心のまま……そこで誰にそれを知られる事もなくその命の灯は消えていた。
……ルフレ以外の者がルキナを見付けていたのだとしても、やはりルキナはあのまま死んでいたであろう。
無我夢中で何の宛も無いままに飛んで偶然に墜ちた場所がこの森であった事、そしてルフレがそれを見付けてくれた事。
それは、幾つもの奇跡が重なりあって始めて成し得る、可能性の極致にある「奇跡」であった。
この身が突然『竜』に変じた事、そして父達から追われ殺されそうになった事。
それらは予期する事も出来ぬ不運であると……理不尽であると言えるのだろうけれども。
その過程があるからこそ、ルフレと出逢う事が出来た。
それだけは確かな事実であり……そしてルキナにとって、掛替えの無い程に『幸い』な事であるのだ。
ルキナの全てを変えてしまったあの日がなければ、ルキナがルフレと出逢う事はきっと無かったであろう。
王城で『王女』として生きるルキナと、この森で生きるルフレの人生が交わる事は、きっと何処かの往来ですれ違う事すら無かっただろうと……そう思う。
ルキナは、ルフレと言う人のその為人どころかその存在すら知る事も無く生きて……そして死んでいったであろう。
その人生を『不幸』と断ずる事は無いけれども。
……こうしてルフレと出逢い彼に命を救われた今のルキナには、そんな彼の居ない人生は、これっぽっちも考えられない。
命を救われたあの日から、心を救われたその日から。
ルフレは、ルキナにとってはなくてはならない……心のとても大切な場所に居る存在になったのだ。
その出逢いの為に、どんな苦痛が、どんな理不尽が、どんな絶望があったのだとしても。それですら全て抱き締めて、『出逢えた』事をこの上ない『喜び』であると感じられる様な……そんな『特別』で『大切』な存在なのだ。
……ルフレにとってのルキナも、少しでもそんな存在に……彼の心の大切な場所に居る存在になれているのだと、そう思っても良いのだろうか……。
出逢えた事を『幸せ』であると、ルフレにそう思って貰える事は、ルキナにとっては限りない『幸せ』であった。
そして、ルキナの存在がルフレの『世界』を広げたと言うけれど、それはルキナにとってもそうなのだ。
『王女』としての生き方しか……そしてそこから見える『世界』しか、かつてのルキナは知らなかった。
けれどもルフレと出逢って、彼に手を引かれる様に共に見る『世界』は、あの頃の自分では想像も出来ぬ輝きに満ちていて。
それを、「美しい」と心からそう思う。
この心の色彩を与えてくれたのは、『世界』に色付けてくれたのは、間違いなくルフレなのだ。
そう言った全てを、ルキナはルフレに伝えたかった。
貴方からこんなにも沢山の大切な物を貰ったのだと、貴方と出逢えたから見付ける事が出来たのだと。
だがそれは、ただでさえ言葉にするのも難しくて。
況してや、複雑な『想い』を伝える事が困難な『竜』の鳴き声では、到底伝えきれない。
それが、どうしても苦しいのだ。
……何時か、この身が再び『人間』の姿に戻る事が出来たのなら、伝える事が出来るのだろうか。
この心を暖かく照らす光の様なその『想い』を……。
……その日が少しでも早く来るように、ルキナは願っている。
「ルキナ……僕は、叶うなら……君と……」
ルフレは何かを言い掛けて、そしてそこで何かを思い直した様に軽く首を横に振り、口を噤んで曖昧に微笑んだ。
その後はルフレは他愛ない話を始め、それは日が傾き始めて釣りを終えるまで続いたのであった。
◆◆◆◆◆
「ルキナ、今日は森の奥の湖に行ってないかい?」
すっかり包帯代わりのシーツも要らなくなった傷口に、軟膏の様な塗り薬を塗りながら、ルフレがそう尋ねてくる。
ルフレに命を救われたあの日から、もう随分と……それこそ二月以上の時間が経ち、一時は命すら危うかった傷ももうその殆どが綺麗に塞がっていて。
最も重篤だったファルシオンで胸を切られたその傷も、鱗も綺麗に生えてきているのでよくよく見なければ傷痕に気付く事は難しくなっている。
激しく動くとまだ少し痛むので無理は出来ないが、最近は日中は畑の世話の手伝いをしたり、狩った獲物を家まで運ぶ手伝いをしたりと、自分なりに今の姿でも出来る事をしている。
最初の内は、ルキナに手伝わせる事に抵抗があったのかそれを遠慮しようとしていたルフレであったけれど、ルキナとしてはここまで彼に世話になっているのにこのまま何もしない方が落ち着かないからと、押し切る様に手伝い始めたのだった。
最初は「無理をしないで」と頻りに言っていたルフレであったが、他ならぬルキナが生き生きと手伝っているのを見て次第に止める様な事は言わなくなり、代わりに色々とルキナに頼んでくれる様になっていった。
恩返し……と言うには余りにも細やかな事ではあるのだけれど、そうやって少しでもルフレの力になれているのなら、ルキナにとってはとても『幸せ』な事であった。
そして、そんなルフレから誘って貰えた事が嬉しくて、ルキナは喜びから尾を揺らして頷く。
『はい! 是非行ってみたいです、ルフレさん』
相変わらずヒトの言葉は話せなくて、喉を鳴らしたり唸ったりといった音にしかならないけれど。
最近はそう言った鳴き声の『言葉』でも、ルフレに大体の意味が通じる様になってきていた。
正確には、ルフレがルキナの伝えようとしている『想い』を汲み取る事に慣れてきた、とも言えるのだけれど。
特に、『ルフレさん』と呼び掛けた時の『声』は確実に伝わる様になっていて、それがルキナには堪らなく嬉しいのだ。
「そうか、良かった。
湖の周りの景色も凄く綺麗だし、水もそのまま水浴び出来る位に綺麗だから、一度連れていってあげたかったんだ。
少し離れているから、今まではあまり無理をさせたくなくて連れて行けなかったけれど、もう十分動ける様になったからね。
それに、この時期は湖で獲れる魚が美味しいんだよ。
魚が獲れたら、今日のご飯は魚料理にしよう」
ニコニコと微笑むルフレに、ルキナは『楽しみです』と鳴く。
決して、ルキナの食い意地が張っているなんて事は無いのだけれど、ルキナはルフレの作る料理が好きだった。
王城で食べていた料理に比べれば限りなく質素なものであるし味自体もきっと王家付きの料理人達が腕を振るっていたそれと比べる事は難しいのだろうけれども。
ルフレがルキナの事を思って作ってくれる料理は、……城で食べていた毒見を行う内に冷めてしまっている事が大半であったそれとは比べ物にならない程に、とても「温かい」のだ。
たった一口でも心がぽかぽかと温かくなる。
同じ料理を分け合って食べる事はルキナにとってはとても新鮮で……そして幸せな事であった。
そして、それだけではなくて。
ルフレは、森での独り暮らしと言う決して楽ではない生活の中でも、それを苦とも見せずにルキナに良くしてくれている。
『竜』の身体のルキナは、普通のヒトを基準に考えると成人男性よりも食べてしまうのだけれども。
その分余計に日々の食料は必要で……それなのにルフレはそれを欠片も厭う事無く……寧ろルキナが食べている姿を嬉しそうに微笑んで見ているのだ。
……だからなのだろうか。
金銭的に豊かな人々が贅を凝らして作る料理よりも、ルフレと共に食べる質素な食事の方が、ずっと美味しく感じるのは。
どうすれば彼に恩を……こうして一緒に暮らさせて貰っている恩だけでなく、そもそも命を救って貰った事の恩も含めたその全てを、返す事が出来るのだろうかと、そう思ってしまう。
……彼はルキナに何か見返りを求めようとは全く思ってもいない様ではあるけれど、それではルキナとしては気が済まない。
だが……『王女』と言う立場でも最早ないただの『ルキナ』が……そしてこの『竜』の身体で、彼に何をしてあげられるのか……ルキナには全く何も思い付かない。
ルキナは彼から貰ってばかりで、それを返す術すら思い付かないままに次から次へ受け取るばかりになってしまっている。
ルキナが世話をかけてばかりでいる事を気にしているのを察しているのか、ルフレは事ある毎に「好きでやっている事だから気にしないで」と笑って言うのだけれど……。
……儘ならない想いはあるのだけれども、どうしてだかそれすらも心地良くて、少し戸惑ってしまうのであった。
竿や網などの魚を獲る為の道具を持ったルフレに案内されて森の奥の方へと歩いていくと、突然に視界が大きく広がり、目の前一杯に広がる大きな湖面が姿を現した。
晩春と初夏の移り変わりの時期の少し強い温かな風が湖面を揺らし、湖畔に静かな漣を寄せて。
湖を取り巻く木々は降り注ぐ陽射しに照らされて青々と輝き、吹き抜けていく風にその木の葉を揺らして。
少し遠くの岸辺近くでは、鴨の群れがのんびりと水草を食みながらプカプカと浮かぶ様に泳いでいて。
陽の光を照り返す様に、湖面は宝石の様に輝いている。
美しい……とても美しい景色であった。
ヒトの手によって整えられた美しさとは異なる、そこに在るがままの美しさの、そんな極致の一つなのだろう。
深い森の奥にあるからこそ、湖には人の姿はルフレとルキナ以外には見当たらず、獣達だけの楽園の様ですらあった。
「ね、綺麗な湖だろう?
この時期だけじゃなくて、秋も冬も春先も凄く綺麗なんだ。
ずっと向こうにある山の方から流れてくる雪解け水や、湧き水なんかがこの湖に集まって来てて、凄く豊かな水だからか魚も物凄く多いしよく育つんだよ。
この湖の水は、遠く海の方まで流れていくらしいんだけれど、僕はこの森を離れた事が殆ど無いから『海』って言うモノをこの目で見た事はまだないんだ。
ルキナは、『海』を見た事があるかい?」
網を使って罠を作りながら、ルフレはそう訊ねてくる。
ルキナも、まだ『海』を目にした事は無かった。
公務として赴いた場所は内陸の領地ばかりであったし、『海』を見る為だけに我儘を言える性格でも無かったからだ。
『海』と言うモノは勿論知識としては知っているけれど……「未知」のモノを知る為に我儘を言う前に成さなくてはならない事が沢山あって、そして「『海』を見る事」はルキナにとってはそれを後回しにしてでもする必要がある事ではなかった。
「そっか、ルキナも『海』を見た事が無いんだね。
僕と一緒だ」
そう言いながら罠を仕掛け終えたルフレは、岸辺に転がっていた手近な岩に腰かけて釣竿を握る。
「……僕は、この森の中の世界しか、殆ど知らないんだ。
本から沢山の事を学んだけれど、その殆どはこの目で確かめた事が無い事ばかりで。
ずっと、それでも良いと思っていた。
この森の中で生きていくには不自由はしなかったしね。
……でも、ルキナと出会って、少し変わった」
穏やかな声音で、その視線を湖面で微かに揺れる浮きを見詰めながらルフレは静かに言う。
ルキナは、そんなルフレの傍に寄り添う様に座りながら、その言葉の続きを待つ。
「……君と出逢ってからの毎日は、『知らなかった』事の連続でね……それを手探りする様に考え知っていく事は、僕にとって……とても楽しかったんだ。
母さんの後を継ぐ様にして『森の賢者』なんて言われながら近くの村の人々に力を貸す事だって、満足していたんだけど。
何て言ったら良いのかな……自分の世界が広がっていく楽しさ……広がった世界がしっかりと経験に裏打ちされていく喜び……『知らなかった』事自体を知る驚き……。
狭かった世界だけで満足していた僕の『世界』を、君が変えてくれた……その切掛けをくれたんだ。
それに……僕は君に何時も支えて貰っている。
誰かと一緒に食事する楽しさを、こうして喋る言葉に耳を傾けていてくれる人が居る事の『幸せ』を。
君が、僕にもう一度教えてくれたんだ。
だから、有難う、ルキナ。
君に出逢えて、僕はとても『幸せ』なんだ。
少し照れ臭いけれど……それでもちゃんと伝えたかった」
そう言ったルフレの頬はその言葉通り照れ臭かったのか少し赤くて……それでも、ルキナの目を真っ直ぐに見ていた。
ルキナは、何かを言おうとして、でもどう言えば良いのか分からなくて、伝えようとした言葉も無いままに小さく唸る様にその喉を鳴らした。
もしも『竜』の姿でなく元の人間の姿であったなら、ルキナの頬も朱に染まっていたであろうと、そう根拠もなく思う。
ルフレと目を合わせているのがどうしてだか落ち着かなくて視線を彷徨わせて偶然目にした湖面に映る今の自身の姿は。
落ち着きなく翼を震わせて、尾はゆっくりと大きく動き、相銀の鱗に覆われている『竜』の顔は赤みが差しているのかどうかは分からないけれど……動揺を隠す事も出来ずにソワソワとその視線を彷徨わせているものであった。
そうしてルフレの言葉にここまで動揺してしまっているのか、ルキナにはまだその理由が分からない。
ルフレから「有難う」と言われただけであるのに、心が浮き立つ様にソワソワしてしまう。
感謝してもしきれないのは寧ろルキナの方であると言う想いはあるけれど、それがこの動揺の原因ではないだろう。
何か伝えたくて、でもどうしたら良いのか分からなくて、分からないままなのに、想いは勝手に溢れ出す。
『私も、ルフレさんに出逢えて、本当に──』
あの日、ルフレに出会えていなかったら。
ルキナがこうして息をする事は叶わなかったであろう。
泥濘の中、嵐に打たれて冷えきった身体と心のまま……そこで誰にそれを知られる事もなくその命の灯は消えていた。
……ルフレ以外の者がルキナを見付けていたのだとしても、やはりルキナはあのまま死んでいたであろう。
無我夢中で何の宛も無いままに飛んで偶然に墜ちた場所がこの森であった事、そしてルフレがそれを見付けてくれた事。
それは、幾つもの奇跡が重なりあって始めて成し得る、可能性の極致にある「奇跡」であった。
この身が突然『竜』に変じた事、そして父達から追われ殺されそうになった事。
それらは予期する事も出来ぬ不運であると……理不尽であると言えるのだろうけれども。
その過程があるからこそ、ルフレと出逢う事が出来た。
それだけは確かな事実であり……そしてルキナにとって、掛替えの無い程に『幸い』な事であるのだ。
ルキナの全てを変えてしまったあの日がなければ、ルキナがルフレと出逢う事はきっと無かったであろう。
王城で『王女』として生きるルキナと、この森で生きるルフレの人生が交わる事は、きっと何処かの往来ですれ違う事すら無かっただろうと……そう思う。
ルキナは、ルフレと言う人のその為人どころかその存在すら知る事も無く生きて……そして死んでいったであろう。
その人生を『不幸』と断ずる事は無いけれども。
……こうしてルフレと出逢い彼に命を救われた今のルキナには、そんな彼の居ない人生は、これっぽっちも考えられない。
命を救われたあの日から、心を救われたその日から。
ルフレは、ルキナにとってはなくてはならない……心のとても大切な場所に居る存在になったのだ。
その出逢いの為に、どんな苦痛が、どんな理不尽が、どんな絶望があったのだとしても。それですら全て抱き締めて、『出逢えた』事をこの上ない『喜び』であると感じられる様な……そんな『特別』で『大切』な存在なのだ。
……ルフレにとってのルキナも、少しでもそんな存在に……彼の心の大切な場所に居る存在になれているのだと、そう思っても良いのだろうか……。
出逢えた事を『幸せ』であると、ルフレにそう思って貰える事は、ルキナにとっては限りない『幸せ』であった。
そして、ルキナの存在がルフレの『世界』を広げたと言うけれど、それはルキナにとってもそうなのだ。
『王女』としての生き方しか……そしてそこから見える『世界』しか、かつてのルキナは知らなかった。
けれどもルフレと出逢って、彼に手を引かれる様に共に見る『世界』は、あの頃の自分では想像も出来ぬ輝きに満ちていて。
それを、「美しい」と心からそう思う。
この心の色彩を与えてくれたのは、『世界』に色付けてくれたのは、間違いなくルフレなのだ。
そう言った全てを、ルキナはルフレに伝えたかった。
貴方からこんなにも沢山の大切な物を貰ったのだと、貴方と出逢えたから見付ける事が出来たのだと。
だがそれは、ただでさえ言葉にするのも難しくて。
況してや、複雑な『想い』を伝える事が困難な『竜』の鳴き声では、到底伝えきれない。
それが、どうしても苦しいのだ。
……何時か、この身が再び『人間』の姿に戻る事が出来たのなら、伝える事が出来るのだろうか。
この心を暖かく照らす光の様なその『想い』を……。
……その日が少しでも早く来るように、ルキナは願っている。
「ルキナ……僕は、叶うなら……君と……」
ルフレは何かを言い掛けて、そしてそこで何かを思い直した様に軽く首を横に振り、口を噤んで曖昧に微笑んだ。
その後はルフレは他愛ない話を始め、それは日が傾き始めて釣りを終えるまで続いたのであった。
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