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第三話『竜の娘』

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 男は、本当にルキナに対して害意は全く無い様であった。
 害意が無いどころか、彼にとっては恐ろしい『竜』でしかないだろうルキナに対し、献身的なまでに治療を施し、食事などの用意までしてくれている。
 酔狂なのか何なのか、彼はルキナに対して怯える様子も無く鋭い爪や牙に対しても恐れる様子を微塵も見せなかった。
 傷だらけでこの森まで逃げ延びてきたルキナの傷を治療して助けてくれたのは間違いなく彼であろう。……と言うより彼の様な酔狂な人間がそうそう他に居るとも思えない。

 ……彼はルキナに対して色々と語りかけてくれるけれども、それはルキナを『ヒト』として見ている訳では無くて、精々知能が高くヒトの言葉をある程度は解せる獣程度の認識である。
 それでも、こうしてヒトの言葉で語り掛けてくれる者が居ると言う事は、今のルキナにとってはこれ以上に無い程に有難い事であって、その扱いに文句など言える筈は無い。
 まあ……文句を言った所でそれが彼に伝わる事は無いのだが。

 傷付いた身を治そうとしてくれている彼には感謝しかなく、今更彼のそう言った「善意」を疑うつもりは毛頭ない。
 しかし……それでもどうしても彼の事を信じきれないのだ。
 彼の優しさに触れる度に……父のあの憎悪に染まった視線が脳裏を過り、そしてファルシオンによって斬られた傷が痛む。
 ……何かの切掛けで、彼もまた父と同じ様にあんな目を向け武器を手にルキナを殺そうとしてくるのではないかと……そんな考えが頭の片隅に居座り、それを何故か追い払えない。
 ……そんな事をするのなら、最初から彼にとっては『竜』でしかないルキナの命を助けようなんてしないと言う理屈は分かっている……分かっているのだけれども……。
 ……顔見知りの『人間』に、そして最も信頼していた相手である父に、憎しみと怒りを向けられて殺されかけた経験は、ルキナの心の深い場所で大きな傷になっていた……。
 ……紛れも無く命の恩人である彼にすら、どうしても心を開き切る事が出来ない程に。
 しかし、ルキナ自身がそれを「良し」とは出来ないからこそ、苦しくて仕方ないのだ。
 そして……彼は間違いなくルキナに対して良くしてくれているし優しいのだけれど、それは「獣」に対するものなのだ。
 それを仕方ない事だとは分かっているのだけれども、自分が獣扱いされている事を改めて認識するのは辛いものがある。
 自分は人間だ、人間なのだ。
 言葉を話せるのならばそれを彼に伝える事も出来るだろうに。
 しかし、この喉から出るのは獣の鳴き声でしかない。
 いっそ、彼が気付いてくれれば良いのに……だなんて、夢を見るにも程がある事を思ってしまう。
 ……そんな事を思っていたからだろうか。



「いっそ、君が『ヒト』だったら……なんて考えてしまうんだ」



 何時もの様に傷口に薬を塗りながら彼がポツリと呟いたその独り言に、過剰な程に反応してしまったのは……。
 もしかして……と言う淡い期待から、彼の言葉を聞き逃すまいと……決定的な言葉があれば、直ぐにでもその言葉を誰が見ても伝わる様に肯定しようと、身構えてしまう。
 ルキナの突然のそんな反応に彼は少し困惑していたが、そのまま手を止める事無く言葉を続ける。


「君が『ヒト』だったなら……近くの村に送り届けるなり、君の家を探して連れて行くなり、そうやって君にどうしてあげるべきなのか……って言うのは簡単だったんだけどね。
 傷が癒えた後で君にどうすれば一番良いのか分からなくて。
 君は……どうしたい?」


 それは、ルキナの期待していた言葉では無かったけれども、しかしルキナにとってはとても重要な問いかけだった。
 ……今のルキナには、何処にもいく宛が無い、それどころかこれからどうしたら良いのか、どうするべきなのかと言う指標すら何も無い。
「元の人間の姿に戻りたい」と言う願いはあるのだけれども、どうすればそれが叶うのか……その手掛かりは何処かにあるのかどうかすらも……何も分からなくて。
 まさに、見渡す限りの全ての道が深い深い霧に覆われてほんの指先程度の先すら見通しが立てられないかの様だった。
 目下の所は、傷を癒して動ける様になる事が目標だけれども。
「その後」をどうすれば良いのかなんて、ルキナの方が誰かに聞きたい位であった。
 どうしたいのかと言う事ですら、自分にも分からない。
 ただ……例え自分を『ヒト』として見てくれている訳では無いのだとしても、こうしてこんな姿をしている自分に優しくしてくれている彼から離れるのは……恐ろしかった。
 何も分からないまま自分と言う存在が変質してしまった恐怖と混迷に荒れ狂う暗い海の中で、やっと見付けた寄る辺なのだ。
 そこを追い出され喪う事は、……何よりも恐ろしい。
 だから、どうかその小さな寄る辺から追い出さないでくれと、そんな不安を胸にそれを伝えようと、ルキナは彼の手に鱗で覆われた『竜』の頭を摺り寄せた。
 ヒトらしい指先を喪ったこの身体では、そうやってしか自分の想いを伝える事すら難しかった。
 ……ルキナの想いが伝わったのか、彼は優しい目でそっとルキナの頭を撫で返し、そして苦笑する様に呟く。


「傷が癒えるにはまだまだかかるから、当分は先の話だよ。
 それに、人里に降りるのは危険だけれど、僕の所になら何時でも遊びに来ても良いから……そんなに心配しないで良いさ」


 何時でも帰って来て良いのだと、彼の中にルキナの居場所はあるのだと、そう感じた途端……安堵がこの胸に溢れ出す。
 無意識の内に喉を小さく鳴らしてしまい、今の自分の身体の一部ではあるが未だにその存在に慣れぬ尾が微かに揺れた。
 そんなルキナの様子を見た彼は、ちょっとした冗談を言うかの様な軽さで呟く。


「……どうにも、君に接していると、まるでヒトを相手にしている様に時折思えてしまうな……。
 案外、本当に『ヒト』だったりして…………。
 ………何てね、そんな事、ある筈──」


 彼の言葉は、そこで途切れた。
 そして唖然とした顔で、ルキナを……そしてその頬を零れ落ちる涙の雫を見詰める。


『そうです! 私は……私は! 人間なんです!!
 貴方と同じ……、人間なんです……』


 それがヒトの言葉にはならないと分かっていながらも、どうか届いてくれと願い、ルキナはその思いを訴える。
 ボロボロと零れる涙で、彼の姿が滲む。

 もしかして、もしかしたら……!
 今ならば、そして彼ならば……。
 目の前のこの『竜』が、人間なのだと。
 そんな、まるで夢物語の様な、到底信じられない事実を。
 他でもない彼ならば、信じてくれるのではないかと。
 そんな「期待」がルキナの胸を圧し潰さんばかりに溢れ出す。

 彼は、そんなルキナの様子に。
 有り得ないと、信じられないと、そんな筈無いだろうと。
 そんな思いを隠す事も無い表情で。
 しかし、聞き間違えようも無くハッキリと。
 ルキナが求め続けていた問いを、口にした。



「まさか……本当に。君は『ヒト』……なのかい……?」



 その問いに。
 ルキナは絶対に誰が見ても確実に理解出来るよう、これ以上に無い程にハッキリと大きく頷いた。

 それを見た瞬間、彼は驚愕の余りに一瞬硬直して。
 そして次の瞬間には混乱の極みにあるかの様に取り乱した。


「そんな……まさか……。そんな事が起こり得るのか……。
 そんな話、お伽噺の中位でしか……。
 何だってそんな事に……。
 いや、原因が何であるのかなんて、今はどうでも良い。
 とにかく、事実を確かめる事、それが一番大事だから……。
 でも、そんな……もしそれが本当なら……。
 何て……何て惨い……」


 乱れた思考がそのまま言葉として零れ出ているかの様にブツブツと呟いていた彼は、何故か酷く傷付いた様な……痛ましいモノを見る様な目でルキナを見詰めた。
 そして意を決した様にルキナの頭へとその手を伸ばした


「大丈夫……君を傷付けたりする様な事はしない。
 絶対に痛く無いし、君に害が及ぶ事は無い。
 ただ……確かめさせて欲しいんだ……」


 そう言って彼は、ルキナには何と言っているのか聞き取れない言葉で何事かを呟き、ルキナの頭を抱き寄せる様にして、彼の額とルキナの額を触れ合わせる。
 ……暫しの間、沈黙がその場に落ちた。
 そして……。


「そんな……こんな事が……どうして……」


 ルキナの頭から手を離した彼は、今にも泣きそうな顔で悲痛に震える声で、言葉を零した。


「君は……君と同じ『人間』に、……こんなに……死の淵を彷徨う程に、傷付けられたと……そんな……。
 君が何かをした訳じゃないのに、何でそんな……。
 酷い……惨過ぎる……。
 すまない……僕は……。
 僕は、気付いてあげられなかった……。
 君の苦しみに、何も……。
 すまない、もっと僕が早く思い至っていれば……。
 君を、『獣』の様に扱うだなんて、僕は何て事を……!」


 耐えられないとばかりに、ルキナに懺悔の言葉を繰り返す。
 それには流石に慌てたルキナは、何度も「そんな事は無い」と首を横に振った。
 彼がルキナが人間であると思い至らなかったのは何一つとして彼に落ち度がある事では無いし、寧ろこうして理解して貰えた事の方が奇跡以外の何物でも無いのだ。
 出逢う生き物全てを、本当は『人間』なのでは? と疑うなど狂気の沙汰でしかないし、実際それは狂人の思考だ。
 ルキナ自身、未だに自分の身に起こった事である筈なのに何も信じられないのだ。彼が気に病む事では全くない。
 しかし……『人間』であると信じて貰う事は出来た様であるが、ルキナの鳴き声にしかならぬ言葉は相変わらず全く通じていない様で、ルキナが何を言っても彼は自分を責め続ける。
 だから、再びルキナは彼に頭を摺り寄せた。
 すると、虚を突かれた様に彼は謝罪の言葉を止めて、漸くルキナの事を真っ直ぐに見詰める。
 小さく喉を鳴らして首を横に振れば、その意図が漸く伝わったのだろう……彼はまだ苦い顔を隠せないまでもそれ以上の懺悔の言葉を連ねる事は止めた。


「分かった……君が望まないなら、これ以上は何も言わない。
 だから、その代わり……と言う訳じゃないけれど。
 君の……『人間』としての君の名前を、教えて欲しいんだ。
 ちゃんと君自身の名前で、君の事を呼びたいから……」


 そう言って彼は、そっとルキナの腕に触れる。
 ルキナは、僅かに迷った。
 ヒトの言葉にはならぬ以上、音でそれを伝える事は出来ない。
 ならば書いて伝えるしか無いのだけれど……。
 人の指先とは掛け離れた形に変貌しているこの手で、果たしてちゃんと伝わる字を書く事が出来るのであろうかと……。
 ……しかし、こうして促された以上は、やってみなくては何も始まらないであろう。

 ルキナは右の前脚で、地面を爪で削る様に文字を書き始めた。
 しかしこれがどうしても中々上手くはいかない。
 途中で潰してしまったり削り過ぎてしまったり……。
 そうやって十数回程書き直して、漸く、字を手習い始めたばかりの子供が落書きで書いたかの様な……自分の普段の字とは程遠い、読み辛いが何とか読めなくも無い字が書けた。


「『L・U・C・I・N・A』……『ルキナ』……。
 これが、君の名前なんだね、『ルキナ』……。
 ……じゃあ、僕もちゃんと名乗らないとね……。
 ……僕は『ルフレ』。
 この『神竜の森』に暮らしている……『森の賢者』だ。
 これからよろしくね、『ルキナ』」



 そう言ってルフレは、優しく微笑む様にルキナの名を呼んだ。




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