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第三話『竜の娘』

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 小鳥たちが鳴き交わす様な、そんな囀りがまず耳に届いた。
 そして、聴覚がゆっくり目覚めていくかの様に、次第に小鳥の囀り以外の様々な音が……木々の間を木の葉を揺らしながら風が吹き抜けていく音、地を獣達が駆けていくその足音、獣の声、何処からか聞こえる水音……そんな世界に溢れている様々な音が耳に入ってくる。
 そしてそれと並行する様に深い深い微睡の底にあった意識がゆっくりと浮上し、鉛の様に重たい瞼が徐々に開かれてゆく。


 ── ここは……


自分が今居る場所が一体何処なのか、全く見当も付かない。
 見慣れた自室ではなく、それどころか全く見覚えの無い……まるで森の中の様に木々が立ち並ぶそこに、ルキナは困惑する。
 王城の庭の様に人の手によってその枝葉の先に至るまで管理された木々とは異なる……木々の生育に任せるがままに育ったかの様な目の前に立ち並ぶ木々が王城に存在する筈は無く。
 ならばここは少なくとも王城ではないのだろう。
 何処かの森の中であるにしても、一体どうして自分はこんな場所に居るのであろうか……。
 王族であるルキナには、身の安全上の問題やその他にも様々な事情から基本的に公務や休暇以外で城の外に出る自由は無くて……例え抜け出しても精々が城下町までだ、こんな森へ来る事など考えられない。
 ……そもそも目覚める前の自分は、一体何をしていたのだろうか……。……それすら、未だ何処か鈍い頭では辿り切れない。

 取り敢えず身を起こさねば、と。
 俯せの状態で眠っていた身体を起こそうとするが、腕に力を込めた瞬間に左腕と胸に激しい痛みが走り、バランスを崩したルキナは思わず地面に倒れこんでしまう。
 一体何がと、左腕へと目を落とした……落とした筈だった。
 だが、視界に映ったのは、自身の左腕などではなくて。
 布の様な何かを巻き付けている……蒼銀の鱗に覆われた獣の前脚としか呼べない何かであった。
 その光景に一瞬にして未だ夢現を彷徨っていた意識がハッキリと目覚め、そして「目覚める」直前までの記憶を呼び覚ます。


 ── そう、そうだ……、私は……!


 突如獣の……『竜』の姿へと変貌していった自分の身体。
 向けられた敵意、敬愛する父の怒りと憎悪に染まった視線、残酷な程に美しく煌めいたファルシオンの切っ先、切り裂かれた傷口の熱さとそこから零れ落ちる命の雫、迫る『死』……。
 一気に脳裏を駆け巡ったそれらに、ルキナは思わず痛みを覚えて呻くが、それは獣の唸り声にしかならない。
 自身の記憶を否定したくて半ば反射的に自身の身体を確かめるが、……そこにあるのは『竜』の身体でしかなくて。
 あの悪夢の様な出来事が、夢などでは無かった事だけを残酷にルキナに突き付けてくる。


 ── ああ……一体何故、どうして……


 何度そう自身に問い質しても答えなど見付からずそれが返って来る事も無く……そして状況が好転する事も無い。
 『竜』の身にその心と魂を囚われたまま、何も変わらない。
 絶望が、荒れ狂う波の様にルキナの心に押し寄せて、心を支えるものを見失いそれに呑み込まれそうにすらなる。
 こんな『竜』の身体で、どうすれば良いのだろう、どう生きてゆけば良いのだろう……。
 こんな「怪物」の姿では、人々の世で生きる術など何処にも無い……現に父からは目の前の『竜』がルキナであると理解して貰えなかったからとは言えファルシオンを向けられた。
 例え「ルキナを襲い喰い殺した『竜』」と誤解される様な状況でなくとも……この姿では人々に追われる事になっていた。
 それも当然だ。こんな恐ろしい「怪物」を見た時に、人が抱くのは恐れや畏怖……そう言った感情になるであろうから。
 酔狂な人間だと狩る対象として見るかもしれないが、……何にせよこんな『竜』の姿ではルキナが「ヒト」として……知性ある生き物として扱われる事は無い。
 ならば野の獣の様に生きねばならぬのだろうか。
 たった独り、人目を忍ぶ様にして。
 ……それは想像するだけでも余りにも恐ろしい事であった。
 そもそも、今まで人間として生きてきたルキナにその様な野の獣の生き方が分かる筈も無くそもそも出来やしないのだが。


 ── 戻りたい……元の人間の姿に……


 そうは願っても、そもそもこうなった原因も何も分からないのだ……祈るだけならば当然の事ながら事態は好転しない。
 それでも、人間に戻りたかった。
 イーリスの王女として成さねばならぬ事があると言う自負とそこに在る責任感もその思いを支える柱の一つであるけれど、それ以上に……こんな『竜』の姿のままで、誰にそれを知られる事も無く孤独に死ぬ事に耐えられないのだ。
 自分は人間として生まれたのだ……なれえばこそ、最後まで「人間」としてその生を全うしたい。
 その為にも、こんな場所で『竜』のまま死ぬ訳にはかない。
 生きねば、と……そう強く意識した瞬間、無性に腹が空いている事にルキナは気が付いた。
 城から抜け出してここに逃げ延びてこうして目覚めるまでに何れ程の時間が経っていたのかは分からないが……少なくともかなりの時間を飲まず食わずで過ごしている。
 加えてあれ程の傷を負ったのだ……消耗していて当然だ。


 ── 傷……?


 ふとルキナは自身の左腕に目をやった。
 先程は混乱の余りにそれどころではなかったけれども、よくよく見なくてもおかしな部分がある。
 左腕に巻き付けられたこの布の様な何かは一体何なのか。
 何者かの意図を感じるそれを、注意深く観察する。
 この布は何だろう……シーツ、だろうか……。
 ルキナが王城で使っているそれとは比べるべくもない質素なものではあるけれど……しかし一体何故……?
 消耗が激しいからか僅かに腕を動かすのも億劫であるが、それを顔に近付けて臭いを嗅いでみる。
 僅かにシーツの下から香るのは……独特な臭いだ。
 近いものを上げるなら、昔嗅いだ事のある調合薬のそれに何処か似ている気がする……。
 ファルシオンによって斬られ、今もまだ痛むその場所を覆う様に巻かれているそれは……「包帯」の様にも見える。
 だが、こんな『竜』の姿をしているルキナに対して「包帯」を巻く……治療行為を行う人間など居ないだろう……。
 居たとしても、余程の酔狂か恐れ知らずの馬鹿だけだ……。
 偶々逃げ延びた先で、そんな酔狂な人間が偶々傷付いたルキナを見付け、それを治療したなど……到底有り得ない可能性だ。
 ルキナが人間の姿であればまだ有り得たかもしれないが……。
 ルキナは、その可能性を否定した。
 ……正確には否定したがっていた。
 腕だけでなく胸など……傷付いている様々な場所にしっかりと巻かれたシーツの存在は既に認識している。
 ……それでも、期待して……それを裏切られる恐ろしさに尻込みする様に、『希望』を持つ事を諦めようとしていたのだ。
 ルキナは独りだ、誰も助けてなどくれはしない、助けを求める声はヒトの言葉にはならないのだから……。
 そう思っている方が、余程楽だ。

 その時、「何か」が草木を踏み分けながら、ルキナの居る場所へと近付いてきている音が聞こえた。
 獣か……或いは人か。
 森の獣だとしてもこのろくに動けぬ手負いの状態では熊などを相手にするのは厳しいものがあるし、もし人であるならばこうして弱ったルキナを見て殺そうとしてくるかもしれない。
 強く警戒している所為か、無意識にも唸り声が零れる。
 だが、凶暴な『竜』が威嚇している様にしか聞こえない唸り声にも、足音は怯んだ様子も無く寧ろやや足早に近付いてくる。

 そして、茂みを掻き分ける様にして現れたのは。
 一人の、若い男であった。

 年の頃はルキナとそう変わらなさそうで、柔らかな面立ちは何処か目を惹く『何か』を感じる……そんな普通の男だ。
 ルキナが今まで目にした事の無い少し不思議な意匠の外套を身に纏い、イーリスでは少し珍しい白銀の髪に黄金色の瞳。
 ……ここはもしかしてイーリスの地では無いのか? と男に対して警戒を続けるルキナの意識の片隅に僅かに過る。
 王城から逃げる中、行く宛も無く我武者羅に飛び続けていた上に、そもそもどの方角に向かって飛んだのかすら記憶が無いルキナは、そもそも今居るこの森が何処の国の地であるのかすら分かっていなかった。
 無意識の内にイーリスだと思っていたが、ぺレジアやフェリア……どうかすれば異なる大陸の地である可能性もあるのだ。
 ……こんな『竜』の身に窶している時点で、何処の国であるのかなど最早些末な事でしか無いのかもしれないが……。
 ……いや、今はそんな事を考えるよりも目の前の男の事だ。
 ……男は……武器は手にしていない様であった。
 しかし、背に背負う様に「何か」を持っている。
 男は驚いた様にルキナを見ているが、そこに怯えの様な感情は見えず、何故か「安堵」に似た様な顔をしている。
 男が、一歩ルキナに近付いた。
 それに反射的に、獣の様な威嚇の唸り声を上げてしまう。
 しかし、恐ろしい『竜』が唸っていると言うのにも関わらず、男に臆した様子は無く、まるで不用意に刺激するのを避けようとしている様に、害意は無い事を示すかの様にその両の掌をこちらに向けてゆっくりと慎重に近付こうとしてくる。


「大丈夫、僕は君を傷付けない、武器を向けたりしない……。
 ほら、だからそんなに怯えないで……。
 まだ君の傷口は完全には塞がっていないんだ。
 無理をするとまた傷口が開いてしまうよ……。
 大丈夫、僕は怖くない……だから怯えなくていいんだよ……」


 ……男にとってルキナは、ヒトの言葉など通じる筈も無い『竜』にしか見えぬであろうに、男は優しく言葉を投げかけてくる。
 その声音が、本当に優しくて……思わず警戒を解きそうになったけれども、優しい言葉を口にしているからといってそれを信じて良いのかはまた別である。
 警戒を解かないルキナに、男は諦めたのか……ルキナから少し離れた位置で立ち止まる。


「……同じ人間に傷付けられたんだ……。
そう簡単には人間を信頼出来ないのは仕方ないね。
 でも……そうやって僕に対して怯える様に威嚇するだけ……って事は、君が人に追われた原因は、偶然の不幸で人里に迷い込んでしまった……って所だったのかな?
 君が人を襲う様な『人食い竜』じゃなさそうで安心したよ。
 ……きっとお腹が空いているよね?
 人間の手から与えられたものなんて、君には食べられないかもしれないけれど……」


 男はそう言って、ルキナの目の前に、その背に背負っていたモノを……鹿か何かの獣の後足の肉を置いた。
 熱を通してすらいない生肉を、「どうぞ食べて」と言わんばかりに差し出す様に置かれて、ルキナは困惑した。

 男の意図が読めなかった、とい言うのもあるが……。
 ……身体がどうであれルキナは人間だ。
 いきなり生肉にかぶり付く事なんて出来はしない。
 それをしたら自分から「人間性」を捨てる事になる気がする。
 焼くなり煮るなり、そう言った手間が今のルキナには必要だ。
 それに男が肉に毒を仕込んでいたりする可能性だってあるかもしれないので、用心の為にも口を付ける訳にはいかない。

 ルキナが顔を背ける様にその肉を拒絶すると、男は少し困った様な顔をした。


「うーん……やっぱり駄目か……。
 人間の手に渡ったモノは食べられないのか、……生肉を消化する体力も無いのか、どっちかは分からないけど……。
 何も食べなければ、折角命が助かったのにこのまま弱っていって死んでしまうよ?
 ……少し煮込んでみたら、食べられるかい?」


 男はそう言って、生肉をそのままルキナの前に置いて、何処かへと姿を消す。
 そして少ししてから戻ってきたその手には、水が入った大鍋と薪木と肉の塊、そして木皿と桶があった。
 男は、その意図を理解出来ずたじろぐルキナの前で、慣れた手つきで火を起こして大鍋を火にかけた。
 そして水が茹った所で肉の塊を鍋に入れて煮込みだす。
 少しの塩とハーブの様な物と共に肉を煮込んだだけの……料理と呼ぶにも憚られる……少なくとも王城でルキナが口にする事など絶対に無かったであろう、そんな簡素な肉の煮込みだ。
 だがしかし、少しだけ加えられていたハーブの匂いの所為なのか、大鍋から沸き上る湯気がルキナの食欲を酷く刺激する。
 男は煮込んだ肉を切り分けて、小さな塊を木皿へ、大きな塊を桶へと入れ、その桶をルキナの目の前へと置く。
 そして、男はルキナの目の前で木皿に載せた肉を口にした。


「ほら、僕がこうして食べられるんだ、毒なんて入ってないよ。
少し香草も混ぜたから君にとっては少し変な感じかもしれないけれど……弱った胃腸を癒す力があるモノで、今の君に必要なものだから……気にせず食べてくれると嬉しいな」


 男に何の目的があってこんな事をしているのかは分からないが、……確かに何か口にしなければ弱っていくだけであるし、身動きが自由に取れない以上は自力で糧を得る事も出来ない。
 男が差し出してきたこの肉を口にする事が、生きる為に今必要な事であると言うのは分かっているのだ。
 恐る恐る、ルキナは桶の中の肉を口にした。
 ほぼ肉を煮込んだだけのモノであるが、僅かな塩味と微かな香草の匂いが不思議と合っている。
 よく煮込んだ肉は柔らかく、疲れたルキナでも容易に咬み千切り呑み込む事が出来た。
 一口呑み込んでしまえば、後はもう済し崩しだった。
 空腹感に突き動かされる様に、夢中で食べてしまう。
 「獣」そのものの様な食べ方だとか、そんな事を気にしている余裕は今のルキナには既に無い。
 気が付けば桶はあっと言う間に空になっていて、男が嬉しそうにそれを見ていた。


「良かった、これで一安心だ。
 完全に傷が癒えるまではまだ暫くかかるけれど……。
 こうして食べる事が出来たんだ、必ず良くなるよ」


 男はそう言いながら、恐れる様子も何も無くルキナの身体に優しく触れた。
 その微笑みが、とても優しくて。
 それが何故だか、ルキナの胸に痛みを感じさせるのであった。




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