何時かきっと、星空の下で
◇◇◇◇◇
時の扉を潜ったルキナは。
底の無い穴を無限に落ちて行くかの様な、激しい濁流の中に押し流されていく様な、或いは無限に自分の感覚が引き伸ばされていくかの様な……そんな異常な感覚に翻弄された。
時の扉の先、無限に交差し渦を巻く時の流れの中で、ルキナは、ただただ何処かへと辿り着く事を待つ事しか出来なくて。
目指すそこ……世界の滅びを回避する為に変えなければならない「過去」に辿り着けるよう、必死にナーガに祈って。
時の濁流の中に翻弄される小さな木の葉の様に、ルキナは成す術も無く何処かへと押し流されていく。そんな時間が、永劫に等しい一瞬、或いは刹那の永遠に続いた。
そして──
時の流れの先に、突如ルキナは放り出された。
中空に開かれた時の扉から落ちる様に放り出されたが、咄嗟に受け身を取って扉の下に広がっていた地面へと着地する。
ルキナを放り出した時の扉は、まるで幻であったかの様に跡形も無く消え失せて。もうそこに戻る術はない。
着地した直後に、状況を把握しようとルキナは周囲を見回す。
森か、林の中なのか。周囲にはあの世界にはもう存在しない程青々とした木々が立ち並び、人が近くにいる気配もない。
恐らくは、ルキナが時の扉を潜って現れたその姿を目にした者は居ない。過去への干渉は最低限に留めるべきなので、余計な騒ぎの元になりそうな事は避けられた事は良い事だ。
問題は、ここが『何処』で今が『何時』なのかと言う事だ。
見上げた空は、雲が少ないよく晴れた青空で。昼時なのか、太陽は中天に輝いている。……時の扉を潜る前の「世界」では、有り得ない光景だ。ギムレーが蘇ってからは、世界は何時も分厚い雲に覆われた不気味な夕焼けの様な空だけだった。
ならば……少なくともここは、ギムレーが復活するよりも前の世界……であるのだろう。きっと、「過去」に遡る事自体には成功したのだ。この時点で少なくとも「最悪」は回避した。
しかし、ギムレーが復活するよりも「前」であろう事は間違いなさそうでも、「今」が何れ程「前」なのかは分からない。
あの「未来」から何百何千年と遡ってしまっていても、それはそれで変えなければならない「過去」に辿り着けないのだ。
だから、今は何より、今が一体『何時』なのか……そして今ルキナが居る場所が『何処』なのかを調べる必要がある。
とにかく一旦、近くに村や町がないかを探してみなくては。
そうルキナが考え、どちらに歩き出そうか考え始めたその時。
ルキナの鼻は、嗅ぎ慣れた……人などの大きな『生き物』と、そして建造物などが燃える臭いを嗅ぎ取った。
近くの村で火事でも起きているのだろうかと、そう判断したルキナは、咄嗟にその臭いが漂ってくる方向へと駆け出す。
「過去」に深く干渉するべきではないなどと言う考えは、駆け出したその時のルキナの頭からはすっかり抜け落ちていた。
ルキナは、世界を救うと言う『使命』がある。その為には切り捨てなければならないものも多くある。
だけれども、全てを切り捨てて何もしないままに何もかもを見殺しにする様な行為は、ルキナの矜持が赦さなかった。
『最後の希望』を背負う者の責務としても、一人の人間として培ってきた倫理観や良心としても、それを肯定出来ない。
だからこそルキナは走った。
もしかしたら救えるかもしれない誰かを救う為に、自分に出来るかもしれない事をする為に。
だが、しかし。ルキナが駆け付けたそこに在ったのは。
ルキナの想像を遥かに超えた。あの「世界」のそれと同じか……それ以上の、『地獄』であった。
人が、燃えている。家が、村が、そこに在った数多の営みが、全て燃え尽き灰になろうとしている。
それは、ルキナの想像にもあった。だが、違ったのだ。
そこに在ったのは。『殺戮』としか呼べない狂気であった。
人が燃えている、生きながらに燃やされている。
まるで家畜を追い込む様に一つの建物に追い立てられて、外から油を撒かれ、その末期の悲鳴ごと燃やされている。
積み上がった死体は、肥溜めの中に投げ捨てられて。
命乞いをした者も、乳飲み子を抱えた女も、足腰立たぬ老爺も、その命に一切区別を付けず、全て等しく。そんな武器も持たぬただの村人たちを、まるで流れ作業であるかの様に淡々と殺していく者達が居る。だがそれは賊ではなかった。
その装備は、「正規」の軍のものであり。そして。
そんな彼らが掲げている旗は、ルキナがよく知る。
【イーリス聖王国】の象徴たる、聖痕を象ったもの。
彼らが、その名を騙る紛い物でもない限り、あの「未来」に広がっていた地獄絵図にも等しいそれを生み出しているのは。
ルキナにとっての祖国である、イーリスなのだ。
それを認識したルキナは、思いもよらぬそれに動揺し、正常に判断出来なくなる。どうすればいいのか、この状況でどうするべきなのか。混乱した思考は無意味に廻り続ける。
しかし、そんなルキナの視界の中で。
幼い少女が、兵士たちに追い立てられていた。
少女は必死に逃げていたが、大人の足に敵う筈も無く。
終にはその足を縺れさせてしまい、転んでしまう。
そんな、何の武器も持たない、何の抵抗も出来ない、何の罪もないであろう幼い少女に向かって。
兵士は、血と油にぎらついた剣を振り下ろそうとする。
何れ程の人をここで切ったのかは分からないが、一人や二人ではないだろう人の命を吸ったその剣の切れ味はそう鋭くはないだろうけれども。剣で殴るだけでも、人間などあっさり殺せてしまうのだ。況してや、こんな幼い子供なら尚更に。
その光景を目にした瞬間。ルキナは考えるよりも先にその場を飛び出して、無慈悲に振り下ろされたその剣をファルシオンで受け止める。決して折れぬ神竜の牙は見事その凶刃を止め、そしてルキナは勢いをつけてその剣を振り払った。
「何故だ! 何故この様な殺戮を行う!
この者達は、武器など持たぬただの村人だろう!
それを、何故!!」
そう叫んだルキナに、兵士は僅かに怪訝そうな顔をして。
いっそ淡々とした、感情の伴わない声音で答えた。
「何故……? この者たちが、【ペレジア】の民だからだ。
邪竜を奉じる邪教の民を鏖殺する。それが我らが使命。
この世界を遍く神竜の威光で照らす為の『聖戦』だ。
妙な格好をしているが、ペレジア人ではないのだろう?
何故そこのペレジア人を庇うんだ」
『聖戦』。その言葉に、ルキナは幽かに聞き覚えがあった。
ルキナが生まれるよりも……二十年近く昔に起こった、ペレジアとイーリスの戦争。……否、イーリスによる大虐殺。
誰もがそれについて口を閉ざし、そして当時を語る文献はルキナの目に届く場所からは隠されていた為詳しくは知らない。
だが、とても言葉には出来ぬ程の悍ましい行いがあったのだと……そう僅かに耳にした事がある出来事だった。
ルキナにとっては、三十年以上も昔の事である筈のそれ。
ルキナは、三十年以上もの時間を跳び越えて、『聖戦』のその只中にあった時代に辿り着いてしまったのだ。
その事実を理解してしまった衝撃と同時に、話に伝え聞いてぼんやりと想像していた「聖戦」とは比べ物にならぬ程の凄惨たる「現実」に、ルキナは言葉も無くして打ちのめされる。
「ペレジア人」だから。
……そんな理由で。たったそれだけの理由で。
何の抵抗らしい抵抗も出来なかっただろう、無辜の民を、ここまで惨殺出来るのかと。ここまで惨い行いを平然と出来てしまえるのかと。「命」を、踏み躙ってしまえるのかと。
賊たちの略奪の為の殺戮よりも、一層酸鼻極まる……相手を「人」とすら認めぬ様な虐殺を行えるのか、と。
しかもそれを、ルキナにとっては祖国であり守るべき国であり、そして「希望」や「正義」の象徴の様にすら思っていたイーリスが。その旗を掲げて行っているのである。
余りの「現実」に、ルキナは思わず眩暈すら感じた。
ルキナは、『聖戦』と言う「過去」があった事は知っていた。
だが、それは知っていただけで。そこにどんな地獄が、どんな凄惨な殺戮があったのかなど、露とも考えた事が無かった。
そこに思考を及ばせた事など無かったし、そんな事を考えている余裕などあの「未来」である筈も無く。
幼い頃に、ペレジアからの深い怨恨から始まったと言う、ルキナが生まれる少し前程に起こった戦争の話を聞いた時になど、「武力を持たぬイーリスに、何と非道な事をするのだろう!」などと幼いながらに憤った事すらあった。
憤って、しまったのだ。……ルキナは、自らの国の「正義」を、幼心に無邪気に信じてしまっていた。ルキナの周りにいた両親やその仲間達は皆「善い人」だったから……。
それを責める事は出来ないのであろう。だが、それは余りも「傲慢」に過ぎる事であり、無知であるが故の恥だった。
ルキナは、愚かではなかった。だからこそ、自分にとっては遠い「昔」、そして今ここに存在する自分にとっては「今」。
イーリスと言う国が、何れ程の「地獄」をこの世に作り出してしまったのかを、理解してしまった。
この村の、この凄惨な光景を、ペレジア全土で作り出すのだ。……これからも。
一体幾百万幾千万の人々の骸を、積み上げたのか……積み上げるのか。その悍ましさにルキナは思わず吐き気すら覚える。
あの「未来」でも、夥しい程の人々の骸が積み上げられた。
誰もが「希望」も「気力」も何もかも喪い、「死」の群れに貪り食われていった……。だが、しかし。
屍兵は、人間では無い。元は人の死体であっても、そこに生前の意思や人格は殆どと言ってもいい程に反映されない。
肉の器だけが動くモノ、醜悪な人間の紛い物だ。だからこそ、あの「未来」は「死」だけが膨れ上がる地獄と化した。
その結末を変える為に、ルキナは過去へと遡ったのだ。
だが……だが。目の前に広がるそれもまた、最悪の地獄だ。
少なくとも「今」こうしてイーリス軍に虐殺されていくペレジアの人々にとっては、この現実はルキナが経験したあの「未来」と何の遜色も無い「地獄」だろう。
一体、彼らが何をしたと言うのだ。この様に殺され、人間としての扱いすらされずその「死」すらも貶められるかの様な。
それに見合う様な罪など、何も犯してはいないだろうに。
ただただ、「ペレジアの民」であると言う、それだけで。
そして、たったそれだけで。イーリス軍は、無抵抗の無辜の民であっても、塵の様な扱いでその命を刈ってしまえる。
それは、そんな事が、赦されて良い筈などある訳が……。
ルキナの経験した事の無い、考えた事も想像した事すらも無い、そのケダモノ以下の所業が生み出す、この世の地獄。
それを目の前にしたルキナは、思考が凍り付いてしまう。
そんなルキナへと、兵士は剣を振り上げようとする。
防がねば、とそう思考する一方で。その身体は指先まで鉄に固められたかの様に重たく、思う様に動かせず。
思考だけが無意味に加速した世界の中で、振り下ろされた切っ先が自身に迫ってくる瞬間を見詰めるしか出来なくて。
だが、ルキナの意識の外から突如轟く様な雷鳴と共に走った閃光が、ルキナの目前に迫った凶刃を直前で吹き飛ばした。
◇◇◇◇◇
時の扉を潜ったルキナは。
底の無い穴を無限に落ちて行くかの様な、激しい濁流の中に押し流されていく様な、或いは無限に自分の感覚が引き伸ばされていくかの様な……そんな異常な感覚に翻弄された。
時の扉の先、無限に交差し渦を巻く時の流れの中で、ルキナは、ただただ何処かへと辿り着く事を待つ事しか出来なくて。
目指すそこ……世界の滅びを回避する為に変えなければならない「過去」に辿り着けるよう、必死にナーガに祈って。
時の濁流の中に翻弄される小さな木の葉の様に、ルキナは成す術も無く何処かへと押し流されていく。そんな時間が、永劫に等しい一瞬、或いは刹那の永遠に続いた。
そして──
時の流れの先に、突如ルキナは放り出された。
中空に開かれた時の扉から落ちる様に放り出されたが、咄嗟に受け身を取って扉の下に広がっていた地面へと着地する。
ルキナを放り出した時の扉は、まるで幻であったかの様に跡形も無く消え失せて。もうそこに戻る術はない。
着地した直後に、状況を把握しようとルキナは周囲を見回す。
森か、林の中なのか。周囲にはあの世界にはもう存在しない程青々とした木々が立ち並び、人が近くにいる気配もない。
恐らくは、ルキナが時の扉を潜って現れたその姿を目にした者は居ない。過去への干渉は最低限に留めるべきなので、余計な騒ぎの元になりそうな事は避けられた事は良い事だ。
問題は、ここが『何処』で今が『何時』なのかと言う事だ。
見上げた空は、雲が少ないよく晴れた青空で。昼時なのか、太陽は中天に輝いている。……時の扉を潜る前の「世界」では、有り得ない光景だ。ギムレーが蘇ってからは、世界は何時も分厚い雲に覆われた不気味な夕焼けの様な空だけだった。
ならば……少なくともここは、ギムレーが復活するよりも前の世界……であるのだろう。きっと、「過去」に遡る事自体には成功したのだ。この時点で少なくとも「最悪」は回避した。
しかし、ギムレーが復活するよりも「前」であろう事は間違いなさそうでも、「今」が何れ程「前」なのかは分からない。
あの「未来」から何百何千年と遡ってしまっていても、それはそれで変えなければならない「過去」に辿り着けないのだ。
だから、今は何より、今が一体『何時』なのか……そして今ルキナが居る場所が『何処』なのかを調べる必要がある。
とにかく一旦、近くに村や町がないかを探してみなくては。
そうルキナが考え、どちらに歩き出そうか考え始めたその時。
ルキナの鼻は、嗅ぎ慣れた……人などの大きな『生き物』と、そして建造物などが燃える臭いを嗅ぎ取った。
近くの村で火事でも起きているのだろうかと、そう判断したルキナは、咄嗟にその臭いが漂ってくる方向へと駆け出す。
「過去」に深く干渉するべきではないなどと言う考えは、駆け出したその時のルキナの頭からはすっかり抜け落ちていた。
ルキナは、世界を救うと言う『使命』がある。その為には切り捨てなければならないものも多くある。
だけれども、全てを切り捨てて何もしないままに何もかもを見殺しにする様な行為は、ルキナの矜持が赦さなかった。
『最後の希望』を背負う者の責務としても、一人の人間として培ってきた倫理観や良心としても、それを肯定出来ない。
だからこそルキナは走った。
もしかしたら救えるかもしれない誰かを救う為に、自分に出来るかもしれない事をする為に。
だが、しかし。ルキナが駆け付けたそこに在ったのは。
ルキナの想像を遥かに超えた。あの「世界」のそれと同じか……それ以上の、『地獄』であった。
人が、燃えている。家が、村が、そこに在った数多の営みが、全て燃え尽き灰になろうとしている。
それは、ルキナの想像にもあった。だが、違ったのだ。
そこに在ったのは。『殺戮』としか呼べない狂気であった。
人が燃えている、生きながらに燃やされている。
まるで家畜を追い込む様に一つの建物に追い立てられて、外から油を撒かれ、その末期の悲鳴ごと燃やされている。
積み上がった死体は、肥溜めの中に投げ捨てられて。
命乞いをした者も、乳飲み子を抱えた女も、足腰立たぬ老爺も、その命に一切区別を付けず、全て等しく。そんな武器も持たぬただの村人たちを、まるで流れ作業であるかの様に淡々と殺していく者達が居る。だがそれは賊ではなかった。
その装備は、「正規」の軍のものであり。そして。
そんな彼らが掲げている旗は、ルキナがよく知る。
【イーリス聖王国】の象徴たる、聖痕を象ったもの。
彼らが、その名を騙る紛い物でもない限り、あの「未来」に広がっていた地獄絵図にも等しいそれを生み出しているのは。
ルキナにとっての祖国である、イーリスなのだ。
それを認識したルキナは、思いもよらぬそれに動揺し、正常に判断出来なくなる。どうすればいいのか、この状況でどうするべきなのか。混乱した思考は無意味に廻り続ける。
しかし、そんなルキナの視界の中で。
幼い少女が、兵士たちに追い立てられていた。
少女は必死に逃げていたが、大人の足に敵う筈も無く。
終にはその足を縺れさせてしまい、転んでしまう。
そんな、何の武器も持たない、何の抵抗も出来ない、何の罪もないであろう幼い少女に向かって。
兵士は、血と油にぎらついた剣を振り下ろそうとする。
何れ程の人をここで切ったのかは分からないが、一人や二人ではないだろう人の命を吸ったその剣の切れ味はそう鋭くはないだろうけれども。剣で殴るだけでも、人間などあっさり殺せてしまうのだ。況してや、こんな幼い子供なら尚更に。
その光景を目にした瞬間。ルキナは考えるよりも先にその場を飛び出して、無慈悲に振り下ろされたその剣をファルシオンで受け止める。決して折れぬ神竜の牙は見事その凶刃を止め、そしてルキナは勢いをつけてその剣を振り払った。
「何故だ! 何故この様な殺戮を行う!
この者達は、武器など持たぬただの村人だろう!
それを、何故!!」
そう叫んだルキナに、兵士は僅かに怪訝そうな顔をして。
いっそ淡々とした、感情の伴わない声音で答えた。
「何故……? この者たちが、【ペレジア】の民だからだ。
邪竜を奉じる邪教の民を鏖殺する。それが我らが使命。
この世界を遍く神竜の威光で照らす為の『聖戦』だ。
妙な格好をしているが、ペレジア人ではないのだろう?
何故そこのペレジア人を庇うんだ」
『聖戦』。その言葉に、ルキナは幽かに聞き覚えがあった。
ルキナが生まれるよりも……二十年近く昔に起こった、ペレジアとイーリスの戦争。……否、イーリスによる大虐殺。
誰もがそれについて口を閉ざし、そして当時を語る文献はルキナの目に届く場所からは隠されていた為詳しくは知らない。
だが、とても言葉には出来ぬ程の悍ましい行いがあったのだと……そう僅かに耳にした事がある出来事だった。
ルキナにとっては、三十年以上も昔の事である筈のそれ。
ルキナは、三十年以上もの時間を跳び越えて、『聖戦』のその只中にあった時代に辿り着いてしまったのだ。
その事実を理解してしまった衝撃と同時に、話に伝え聞いてぼんやりと想像していた「聖戦」とは比べ物にならぬ程の凄惨たる「現実」に、ルキナは言葉も無くして打ちのめされる。
「ペレジア人」だから。
……そんな理由で。たったそれだけの理由で。
何の抵抗らしい抵抗も出来なかっただろう、無辜の民を、ここまで惨殺出来るのかと。ここまで惨い行いを平然と出来てしまえるのかと。「命」を、踏み躙ってしまえるのかと。
賊たちの略奪の為の殺戮よりも、一層酸鼻極まる……相手を「人」とすら認めぬ様な虐殺を行えるのか、と。
しかもそれを、ルキナにとっては祖国であり守るべき国であり、そして「希望」や「正義」の象徴の様にすら思っていたイーリスが。その旗を掲げて行っているのである。
余りの「現実」に、ルキナは思わず眩暈すら感じた。
ルキナは、『聖戦』と言う「過去」があった事は知っていた。
だが、それは知っていただけで。そこにどんな地獄が、どんな凄惨な殺戮があったのかなど、露とも考えた事が無かった。
そこに思考を及ばせた事など無かったし、そんな事を考えている余裕などあの「未来」である筈も無く。
幼い頃に、ペレジアからの深い怨恨から始まったと言う、ルキナが生まれる少し前程に起こった戦争の話を聞いた時になど、「武力を持たぬイーリスに、何と非道な事をするのだろう!」などと幼いながらに憤った事すらあった。
憤って、しまったのだ。……ルキナは、自らの国の「正義」を、幼心に無邪気に信じてしまっていた。ルキナの周りにいた両親やその仲間達は皆「善い人」だったから……。
それを責める事は出来ないのであろう。だが、それは余りも「傲慢」に過ぎる事であり、無知であるが故の恥だった。
ルキナは、愚かではなかった。だからこそ、自分にとっては遠い「昔」、そして今ここに存在する自分にとっては「今」。
イーリスと言う国が、何れ程の「地獄」をこの世に作り出してしまったのかを、理解してしまった。
この村の、この凄惨な光景を、ペレジア全土で作り出すのだ。……これからも。
一体幾百万幾千万の人々の骸を、積み上げたのか……積み上げるのか。その悍ましさにルキナは思わず吐き気すら覚える。
あの「未来」でも、夥しい程の人々の骸が積み上げられた。
誰もが「希望」も「気力」も何もかも喪い、「死」の群れに貪り食われていった……。だが、しかし。
屍兵は、人間では無い。元は人の死体であっても、そこに生前の意思や人格は殆どと言ってもいい程に反映されない。
肉の器だけが動くモノ、醜悪な人間の紛い物だ。だからこそ、あの「未来」は「死」だけが膨れ上がる地獄と化した。
その結末を変える為に、ルキナは過去へと遡ったのだ。
だが……だが。目の前に広がるそれもまた、最悪の地獄だ。
少なくとも「今」こうしてイーリス軍に虐殺されていくペレジアの人々にとっては、この現実はルキナが経験したあの「未来」と何の遜色も無い「地獄」だろう。
一体、彼らが何をしたと言うのだ。この様に殺され、人間としての扱いすらされずその「死」すらも貶められるかの様な。
それに見合う様な罪など、何も犯してはいないだろうに。
ただただ、「ペレジアの民」であると言う、それだけで。
そして、たったそれだけで。イーリス軍は、無抵抗の無辜の民であっても、塵の様な扱いでその命を刈ってしまえる。
それは、そんな事が、赦されて良い筈などある訳が……。
ルキナの経験した事の無い、考えた事も想像した事すらも無い、そのケダモノ以下の所業が生み出す、この世の地獄。
それを目の前にしたルキナは、思考が凍り付いてしまう。
そんなルキナへと、兵士は剣を振り上げようとする。
防がねば、とそう思考する一方で。その身体は指先まで鉄に固められたかの様に重たく、思う様に動かせず。
思考だけが無意味に加速した世界の中で、振り下ろされた切っ先が自身に迫ってくる瞬間を見詰めるしか出来なくて。
だが、ルキナの意識の外から突如轟く様な雷鳴と共に走った閃光が、ルキナの目前に迫った凶刃を直前で吹き飛ばした。
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