望月に仰ぐ白虹
□□□□
その後は色々と大変であった。
ひっきりなしに王城へと押し掛けてくる仲間達の事もその一つであったが、何よりも。
ルフレはまるであの日からそのまま其処に飛ばされてきたかの様に、ギムレーとの死闘の中で負った傷も、何もかもがそのままの状態であったからだ。
王城に帰るまでに、実際の距離から算出される本来の行程よりも時間が掛かったのもそれが原因であった。
癒しの杖が惜しみ無く使われた為、傷はもう跡形も無い。
だが、疲労といった目には見えない部分は如何ともし難く、暫しの療養を余儀無くされたのであった。
その間に各地に散っていた仲間達がルフレに会うべくイーリスに集い、そして先の通りに宴となったのだった。
フェリア王であるバジーリオにフラヴィアや、ヴァルム大陸の貴族であるヴィオールやサイリ、そして基本的に有事以外はミラの大樹の上にある神殿で眠っているチキまでもがやって来たのも偏にルフレの人望が成せる事だったのだろうか。
まあ、ルフレと再会した仲間達全員から漏れ無く、あの日のルフレの選択を非難されたのではあるが。
そんなこんなな事情もあり、こうやってルキナとゆっくりと向き合うのは、王城で再会して以来の事である。
お茶か何かでも出してあげたい所ではあるが、生憎この部屋には宴の席で貰った酒と、水差しに入った酔い醒まし用の水位しか飲み物は無い。
一旦城の厨房に何か貰いに行こうかと思ってルフレは席を立とうとするが、それをルキナは押し止めた。
不安そうに揺れるその瞳に映っているのが確かに己である事に気付いたルフレは、彼女の不安の原因が自身にある事を悟ってしまい、内心で嘆息する。
「こうやって二人っきりになれるのは数日振りだね。
さて、何かあったのかな?」
ルキナが話しやすくなる様に、ルフレは努めて柔らかな笑みを浮かべて訊ねた。
ルフレは自身の観察力に自信があるし、他人の心中を大まかながらも推測する事だって簡単に出来る。
だけど、決してその心が読める訳では無い。
故にルキナを思い悩ませているのが自分だとは分かっても、具体的にどの部分で不安にさせているのかは、分からなかった。
その訳としては、心当たりが多過ぎる、と言うのがあるが。
だからこそ、話して貰わなければ彼女の不安を解消させてあげる事も出来やしない。
「何か、と言う訳では無いのですが……。
……何時も、夢に見てしまうんです。
……ルフレさんが、消えてしまったあの日を。
どうしてあの時私は、ルフレさんを止められなかったんだろう、と。
……一度は未来の為にあなたを殺そうとしておきながら、あの日の事ばかりを……」
……二年前のあの日のルフレの選択が、今もルキナを苦しめていた様だ。
ルフレが還ってきても尚、……いや寧ろなのだろうか、ルキナは自分を責めていた。
ルフレがギムレーと相討ちになる事を選んだ事だけでなく、以前クロムの死を……絶望の未来を回避する為に恋人であったルフレに剣を向けた事も。
責任感が強く、何かと自責の念にかられ勝ちなルキナらしいと言えばそうなのかもしれないが。
「あのね、ルキナ。
前にも何度も言ったけど、あの時僕に剣を向けたルキナの選択は、何も間違ってなんかいないんだ。
実際、君の居た未来でクロムを殺してしまったのは“僕”だったんだから。
君は、未来を変える為にここに来た。
そんな君が、絶望の未来を回避する為に行動する事は、何も間違ってなんかいないんだよ。
そして僕は、そんな君を支えると言っただろう?
だから、もうあの事で自分を責めないであげて欲しい」
俯いてしまったルキナの肩に手を置いて、ルフレはそう優しく諭した。
「それに、ギムレーを消滅させる事を選んだのは僕自身だ。
そこに、君が責任を感じる必要なんて、無いんだ」
だが、ルキナはその言葉にはフルフルと首を横に振る。
そして、益々思い詰めた様な顔になってしまった。
「……違うんです、ルフレさん。
……私が、貴方に、あの選択をさせてしまった……。
私が、貴方に剣を向けたから、貴方は自分を責めてしまった。
ギムレーを滅ぼす為に、自分の身を犠牲にする様な選択をさせてしまった……。
私の所為です、……私の、所為なんです……」
ポロポロと涙を溢しながら、ルキナは懺悔するかの様にそう吐露する。
……ルフレが消えてしまってから二年もの間、ルキナはこんな想いを抱えていたのだろうか。
恐らくはクロムや未来からルキナと共にやって来た仲間達はちゃんと諭していたのだろうけれど。
それでも、ルキナは自分を責める事を止めなかったのだろう。
ルフレは、あの日の選択を後悔はしていない。
それが、仲間を何れ程哀しませたのだとしても、ルキナを何れ程苛んでしまったのだとしても、だ。
ギムレーは何としてでも自分と相討ちに消滅させねばならなかった。
そうしなければ、クロム達が戦ってきた意味も、ルキナが過去に跳躍してまで未来を変えようとした意味も、全て無くなってしまうからだ。
だから、悔いる事があるとするならば、せめてもっとルキナと話しておくべきであった、と言う事であった。
ギムレーをルフレ自らが討たねばならない理由を説明したとしても、クロム達に話せばきっと反対されていただろう。
クロムがルフレに先んじて封印を決行していたかもしれない。
なので、クロム達に正直に話すと言う選択はルフレには無く、騙し討ちの様にギムレーを討つしか無かった。
だが、せめてルキナにはちゃんと話しておくべきだったのだ。
理由をちゃんと話した上で説得すれば、きっとルキナならルフレの選択を受け入れてくれただろう。
……少なくとも、こんな風に自身を責め続ける事は、無かったのではないだろうか。
「違う、違うんだ、ルキナ。
君の所為なんかじゃ、無い。
あれは、僕自身の問題だったんだ。
僕が“ギムレーの器”であったからこそ、僕はギムレーと相討ちにならなければ、ならなかったんだ。
だからルキナ、そんな風に自分を責めちゃ駄目だよ」
愛する人が自分の事で自らを苛み続ける姿を見るのは、ルフレにとっては耐え難い事であった。
ルキナの頬を伝って零れ落ちる涙を、ルフレは右手でそっと拭う。
その手の甲に呪いの様に刻まれていた“邪痕”は、今は跡形も無く消え失せていた。
「二年前のあの時、ギムレーは二体居たんだ。
ルキナ達を追って過去へやって来たあのギムレーと、僕の中で覚醒の時を待っていたギムレーが、ね。
僕の中に居たギムレーも、ナーガの封印は既に解かれてしまっていたから、復活してしまうのももう時間の問題だったんだ。
あのギムレーを封印しても、僕の中のギムレーは封印されない。
僕ごと封印しても、千年経てば再び甦ってしまう。
しかも、今度は二体もね」
一体だけでも、世界を破滅へと導いてしまったのだ。
二体ものギムレーが甦ってしまえば、どうなってしまうのかなど火を見るよりも明らかだった。
例えそれが千年の後に訪れる終焉なのだとしても、それを未来の人々に押し付ける事は出来ない。
故に、封印は選べなかったのだ。
だが、ルフレのその言葉に、ルキナは顔を青褪めさせた。
「私が、過去に来てしまったから……」
身を戦慄かせて再び自身を責めようとしたルキナの肩を、ルフレは強く抱き寄せる。
そして、抑えきれない感情に語気を僅かばかり荒くした。
「違う!
ルキナが居なければ、未来は変わらなかった。
僕はクロムを殺して、そしてギムレーになってしまってたんだ。
それに、未来を変えようと君が過去に来なければ……。
僕は君に出逢う事も出来なかったんだ。
だからお願いだ、ルキナ。
……過去に来た事を、どんな理由であっても後悔だけはしないでくれ……」
ルキナが過去へと跳躍した経緯は決して歓迎などは出来ないし、その未来を変える為にクロムもルフレも……仲間達皆が戦ったのだ。
だが、そこにルキナの苦しみが……絶望に満ちた未来があったのだとしても、ルキナがこうやって過去へとやって来なければ、ルフレはルキナと出逢う事も無かった。
手放しでは喜べない出逢いではあったのだしても、それをルキナに後悔して欲しくは、無い。
ルキナは暫し俯いたまま、ルフレに抱き締められていた。
やがて、ぽつりぽつりと言葉を溢す。
「怖いんです……。
ルフレさんが、また……あの時の様に消えてしまうんじゃないかと思うと……。
不安で、仕方がないんです……」
あの日身体が消えゆく中で最後に見た時の様に、ルキナの目には、恐怖と後悔と哀しみと……言葉に出来ない様な感情が綯い交ぜに浮かんでいる。
あの日、ルフレはそんな目をしていたルキナに何も言葉を遺せないまま消えてしまった。
自分で選んだ結末であったとは言え、……彼女にそんな顔をさせたくは無かったが故に、それは消える間際に強い未練となったが。
それでも、その時には既にどうにもならない程に身体の崩壊が進んでいたルフレには、もうルキナに想いを伝える術は無かった。
だけれども、今は違う。
ルフレは確かな実体を伴ってここに居るし、想いを伝える術だってちゃんとある。
「……消えないよ」
ルフレはルキナを抱き締めていた手を離し、心なしか冷たくなっているルキナの手を、自分の体温で暖めるかの様に両手でそっと包んだ。
強張っているその指先を、優しく撫でる様にして解きほぐす。
そして、ルキナを安心させる様に微笑んだ。
「ルキナが僕を呼んでくれるのなら、僕はもう絶対に消える事は無い。
例え何があったって、君の所に必ず帰ってくる」
二年の時が過ぎてしまったとは言え、こうやってルフレがこの世界に戻ってこれた様に。
「あの時……。
ギムレーを道連れに僕が消滅した後、僕は“何も無い場所”に居たんだ」
「何も……無い……?」
鸚鵡返しにしてきたその言葉に、ルフレは一つ頷いた。
「そう、“何も無い”んだ。
光も音も匂いも、身体も、時間さえも……何も無い場所。
もしかしたらあれが死後の世界ってモノなのかもしれないね……。
そんな場所に“僕”の意識は在った」
時間の感覚なども何も無かった其処では、自分と言うモノは極めて希釈な“何か”でしかなく。
それを意識が在ると言って良いのかは分からないが、そうとしか表現のしようがないのだ。
「ずっと微睡んでいる様な感じで、ハッキリとした意識は殆ど無かった。
そもそも、自分が誰なのかすらも定かじゃ無かったんだ。
『帰りたい』とは何と無く感じていたんだけど、それが何処へなのかとかは全然分からなくて……。
だから、ただぼんやりと微睡むしか無かった」
でも、とルフレは続ける。
「どれ位微睡みの中で揺蕩っていたのか分からないけど、ある時、ふと声が聞こえたんだ」
“声”と言う部分に、ルキナは僅かに肩を震わせた。
「声、ですか……?」
「そう、声。
『帰って来て下さい、消えないで下さい。
……私を置いて逝かないで下さい、ルフレさん』……ってね」
微睡みに沈む中でも遠くから響いてきた様なその声を、ルフレは今でも思い出せる。
それは、決して大きな声では無かったが、ルフレを微睡みから醒ますには十分だった。
「それって……!」
「あれは間違いなくルキナの声だった。
そして、その声を認識した途端、微睡みから醒める事が出来たんだ。
『そうだ、僕はルフレだ。
ルキナが呼んでる、早く其処に行かないと』ってね」
微睡みから醒めたルフレの心にあったのは、ただただルキナの事だけであった。
それは、消える直前に抱いた未練故の事であったのかもしれないし、どうしようもなく彼女を愛していたからなのかもしれない。
「でも、僕はその場所から動く事が出来なかった。
……身体も無く意識だけの存在だったからね。
僕を呼び続けている君の所に早く行きたくて、でも動けなくて……。
そんなもどかしい想いを抱いていたら、急に背中を蹴られたんだ」
「せ、背中を……?」
唐突に出てきたそんな表現に、ルキナは少し目を丸くした。
ルフレにもその気持ちは分かる。
ルフレも、その瞬間は呆気にとられていたのだから。
「その時の僕は意識しかない存在だったんだけどね。
誰かに背中を蹴られたと言うか、押されたと言うか……。
まあ、それによってその場所から弾き出されたんだ。
そして、気付いたら身体の感覚があった」
身体の感覚が何も無かったのに、背を蹴られた様な気がすると言うのも不思議な話である。
が、ルフレにはそうとしか表現は出来ない。
それに、大事なのは押された事ではなく、その後の事であった。
「何が起きたか分からなかったけど、そのチャンスを逃す訳にはいかなかったからね。
ルキナの声を頼りに、光が全く無い世界を必死に走った。
走る内に、次第にルキナ以外にもクロムやリズ達が僕を呼ぶ声も聞こえ始めて……。
そして、気付いたら僕はクロムと初めて出会ったあの草原に倒れていた」
ルキナの居る場所では無く其処に出た理由は分からないが。
「ルキナが、僕をこの世界に繋ぎ止めてくれたんだ。
皆が……君が僕を呼び続けてくれたから、僕はこうやって戻ってこれた。
僕の事を呼び続けてくれて、僕を探し続けてくれて、ありがとう、ルキナ……」
精一杯の感謝の想いを込めてルフレは言葉を紡ぐ。
そしてルキナの手を包んだまま、ずっと前から……二年前だって心の奥に封じていたけれど本当は伝えたかった言葉を、今やっと贈る。
「こんなにも長く待たせてしまって、ごめん。
一度は君を傷付ける様な形で消えてしまって、本当にすまないと思っている。
だけど、君が赦してくれるのならば。
どうか、僕がルキナと一緒に人生を歩む事を、許してくれないだろうか」
「ルフレ……さん」
今にも泣きそうな顔をするルキナに、ルフレは言わなければならない事を更に続けた。
「僕は一度は完全にこの世界から消滅した身だ。
でも、ギムレーと共に消滅した筈なのに僕は今ここに居る。
僕はもう“ギムレーの器”ではないけれど、今の僕が“何者”であるのかは僕自身にも分からない」
ルフレの肉体は、二年前のあの日に一度完全に消滅している。
だからこそ、今ここに実体を伴って存在している“自分”が一体何であるのか、それはルフレ自身にも分からない。
“人間”とは、最早呼べない存在になっているのだとしても、何もおかしくはない。
ルキナとこうしてまた出逢えたのだから戻ってきた事を悔いたりはしないが、ルキナと人生を歩んでいく資格が今の自分にあるのかは、分からなかった。
故にその判断をルフレはルキナへと委ねる。
「そんな僕でも、君を愛する資格はあるだろうか?」
ルフレがそう訊ねると。
ルキナは再びその目に涙を浮かべた。
だが、その表情は穏やかで、月明かりに光る雫は何処までも透き通っている。
宝石の様な輝きを映しながら頬を伝う様にして、涙はポタリポタリと、ルキナの手をそっと包むルフレの手へと滴り落ちていった。
ルフレの言葉に、ルキナは緩やかに頷きながら声を震わせて答える。
「そんなの、……あるに決まってるじゃないですか。
ルフレさんが何者であったとしても、私はルフレの事が好きなんです。
私は、何時かはここを離れなければなりませんが……。
それでも、叶うのならば、ずっと……ずっと貴方と一緒に居たい」
二年もの間探し続けていた。
時の流れが周りを少しづつ変えていく中でも、ルフレを変わらずに想っていた。
見付かるのかなんて分からなかったが、それでも諦める事など出来なかった。
ただただ……あの日消えてしまったルフレに、もう一度逢いたかった。
ただその想いを胸に、ルキナはこの二年を過ごしていた。
それは、ルキナが確かにルフレを愛していたが故に。
ルフレが何時か戻ってきたとしても、本来はこの時間に居るべきではないルキナは、そう遠くはない未来にここを去る必要があるだろう。
その時には、クロムの軍師であるルフレとは別れなければならないのかもしれない。
何時か来るであろう別れの日を思う事は、胸を切り裂く様な痛みをルキナに与えた。
それでも、ルキナはルフレを想う心を止められなかったのだ。
それは奇しくもルフレがそうであった様に。
「ありがとう、ルキナ……。
君が何処に行くのだとしても、僕はもう君から離れない。
ずっと側に居る、ずっと君を支え続ける。
そう、約束するよ」
ルフレはルキナの唇にそっと触れるだけの口付けをする。
そして指先を絡め、誓いを立てた。
それに応える様に、頬を赤らめながらもルキナもルフレに口付けを返し、ルフレの鼓動を確かめる様にその胸元へと耳を当てる。
「ルフレさん、ずっとずっと……年を取るまでずっと一緒にいて下さい。
もう、何処にも行かないで下さい……」
それを愛し気に見詰めたルフレは、ルキナの腰に左手を回して抱き締め、そして再びその唇にキスを落とした。
「ああ、約束する。
二人で、一緒に歳を重ねていこう。
お爺さんとお婆さんになっても、僕はずっと側に居る。
愛してるよ、ルキナ」
ルフレの深い愛情と優しさが伝わってくる様なキスに、蕩けそうな程に幸せそうな笑みを溢しながら、ルキナは自分の左手を、空いてるルフレの右手と繋いだ。
「私も、愛しています。
ルフレさんの事を、心から……。
貴方は、私にとって世界で一番大切な人なんです」
指先を絡める様に繋がれたその手から伝わる互いの体温に浮かされたかの様に、熱を帯びた視線が絡み合う。
そして、互いを求め合う様に何度もキスを交わした。
次第に激しさを増していくそのキスの応酬は止まる事を知らない。
そんな恋人達の様子を、窓の外から射し込む月光だけが照らしていた。
□□□□
その後は色々と大変であった。
ひっきりなしに王城へと押し掛けてくる仲間達の事もその一つであったが、何よりも。
ルフレはまるであの日からそのまま其処に飛ばされてきたかの様に、ギムレーとの死闘の中で負った傷も、何もかもがそのままの状態であったからだ。
王城に帰るまでに、実際の距離から算出される本来の行程よりも時間が掛かったのもそれが原因であった。
癒しの杖が惜しみ無く使われた為、傷はもう跡形も無い。
だが、疲労といった目には見えない部分は如何ともし難く、暫しの療養を余儀無くされたのであった。
その間に各地に散っていた仲間達がルフレに会うべくイーリスに集い、そして先の通りに宴となったのだった。
フェリア王であるバジーリオにフラヴィアや、ヴァルム大陸の貴族であるヴィオールやサイリ、そして基本的に有事以外はミラの大樹の上にある神殿で眠っているチキまでもがやって来たのも偏にルフレの人望が成せる事だったのだろうか。
まあ、ルフレと再会した仲間達全員から漏れ無く、あの日のルフレの選択を非難されたのではあるが。
そんなこんなな事情もあり、こうやってルキナとゆっくりと向き合うのは、王城で再会して以来の事である。
お茶か何かでも出してあげたい所ではあるが、生憎この部屋には宴の席で貰った酒と、水差しに入った酔い醒まし用の水位しか飲み物は無い。
一旦城の厨房に何か貰いに行こうかと思ってルフレは席を立とうとするが、それをルキナは押し止めた。
不安そうに揺れるその瞳に映っているのが確かに己である事に気付いたルフレは、彼女の不安の原因が自身にある事を悟ってしまい、内心で嘆息する。
「こうやって二人っきりになれるのは数日振りだね。
さて、何かあったのかな?」
ルキナが話しやすくなる様に、ルフレは努めて柔らかな笑みを浮かべて訊ねた。
ルフレは自身の観察力に自信があるし、他人の心中を大まかながらも推測する事だって簡単に出来る。
だけど、決してその心が読める訳では無い。
故にルキナを思い悩ませているのが自分だとは分かっても、具体的にどの部分で不安にさせているのかは、分からなかった。
その訳としては、心当たりが多過ぎる、と言うのがあるが。
だからこそ、話して貰わなければ彼女の不安を解消させてあげる事も出来やしない。
「何か、と言う訳では無いのですが……。
……何時も、夢に見てしまうんです。
……ルフレさんが、消えてしまったあの日を。
どうしてあの時私は、ルフレさんを止められなかったんだろう、と。
……一度は未来の為にあなたを殺そうとしておきながら、あの日の事ばかりを……」
……二年前のあの日のルフレの選択が、今もルキナを苦しめていた様だ。
ルフレが還ってきても尚、……いや寧ろなのだろうか、ルキナは自分を責めていた。
ルフレがギムレーと相討ちになる事を選んだ事だけでなく、以前クロムの死を……絶望の未来を回避する為に恋人であったルフレに剣を向けた事も。
責任感が強く、何かと自責の念にかられ勝ちなルキナらしいと言えばそうなのかもしれないが。
「あのね、ルキナ。
前にも何度も言ったけど、あの時僕に剣を向けたルキナの選択は、何も間違ってなんかいないんだ。
実際、君の居た未来でクロムを殺してしまったのは“僕”だったんだから。
君は、未来を変える為にここに来た。
そんな君が、絶望の未来を回避する為に行動する事は、何も間違ってなんかいないんだよ。
そして僕は、そんな君を支えると言っただろう?
だから、もうあの事で自分を責めないであげて欲しい」
俯いてしまったルキナの肩に手を置いて、ルフレはそう優しく諭した。
「それに、ギムレーを消滅させる事を選んだのは僕自身だ。
そこに、君が責任を感じる必要なんて、無いんだ」
だが、ルキナはその言葉にはフルフルと首を横に振る。
そして、益々思い詰めた様な顔になってしまった。
「……違うんです、ルフレさん。
……私が、貴方に、あの選択をさせてしまった……。
私が、貴方に剣を向けたから、貴方は自分を責めてしまった。
ギムレーを滅ぼす為に、自分の身を犠牲にする様な選択をさせてしまった……。
私の所為です、……私の、所為なんです……」
ポロポロと涙を溢しながら、ルキナは懺悔するかの様にそう吐露する。
……ルフレが消えてしまってから二年もの間、ルキナはこんな想いを抱えていたのだろうか。
恐らくはクロムや未来からルキナと共にやって来た仲間達はちゃんと諭していたのだろうけれど。
それでも、ルキナは自分を責める事を止めなかったのだろう。
ルフレは、あの日の選択を後悔はしていない。
それが、仲間を何れ程哀しませたのだとしても、ルキナを何れ程苛んでしまったのだとしても、だ。
ギムレーは何としてでも自分と相討ちに消滅させねばならなかった。
そうしなければ、クロム達が戦ってきた意味も、ルキナが過去に跳躍してまで未来を変えようとした意味も、全て無くなってしまうからだ。
だから、悔いる事があるとするならば、せめてもっとルキナと話しておくべきであった、と言う事であった。
ギムレーをルフレ自らが討たねばならない理由を説明したとしても、クロム達に話せばきっと反対されていただろう。
クロムがルフレに先んじて封印を決行していたかもしれない。
なので、クロム達に正直に話すと言う選択はルフレには無く、騙し討ちの様にギムレーを討つしか無かった。
だが、せめてルキナにはちゃんと話しておくべきだったのだ。
理由をちゃんと話した上で説得すれば、きっとルキナならルフレの選択を受け入れてくれただろう。
……少なくとも、こんな風に自身を責め続ける事は、無かったのではないだろうか。
「違う、違うんだ、ルキナ。
君の所為なんかじゃ、無い。
あれは、僕自身の問題だったんだ。
僕が“ギムレーの器”であったからこそ、僕はギムレーと相討ちにならなければ、ならなかったんだ。
だからルキナ、そんな風に自分を責めちゃ駄目だよ」
愛する人が自分の事で自らを苛み続ける姿を見るのは、ルフレにとっては耐え難い事であった。
ルキナの頬を伝って零れ落ちる涙を、ルフレは右手でそっと拭う。
その手の甲に呪いの様に刻まれていた“邪痕”は、今は跡形も無く消え失せていた。
「二年前のあの時、ギムレーは二体居たんだ。
ルキナ達を追って過去へやって来たあのギムレーと、僕の中で覚醒の時を待っていたギムレーが、ね。
僕の中に居たギムレーも、ナーガの封印は既に解かれてしまっていたから、復活してしまうのももう時間の問題だったんだ。
あのギムレーを封印しても、僕の中のギムレーは封印されない。
僕ごと封印しても、千年経てば再び甦ってしまう。
しかも、今度は二体もね」
一体だけでも、世界を破滅へと導いてしまったのだ。
二体ものギムレーが甦ってしまえば、どうなってしまうのかなど火を見るよりも明らかだった。
例えそれが千年の後に訪れる終焉なのだとしても、それを未来の人々に押し付ける事は出来ない。
故に、封印は選べなかったのだ。
だが、ルフレのその言葉に、ルキナは顔を青褪めさせた。
「私が、過去に来てしまったから……」
身を戦慄かせて再び自身を責めようとしたルキナの肩を、ルフレは強く抱き寄せる。
そして、抑えきれない感情に語気を僅かばかり荒くした。
「違う!
ルキナが居なければ、未来は変わらなかった。
僕はクロムを殺して、そしてギムレーになってしまってたんだ。
それに、未来を変えようと君が過去に来なければ……。
僕は君に出逢う事も出来なかったんだ。
だからお願いだ、ルキナ。
……過去に来た事を、どんな理由であっても後悔だけはしないでくれ……」
ルキナが過去へと跳躍した経緯は決して歓迎などは出来ないし、その未来を変える為にクロムもルフレも……仲間達皆が戦ったのだ。
だが、そこにルキナの苦しみが……絶望に満ちた未来があったのだとしても、ルキナがこうやって過去へとやって来なければ、ルフレはルキナと出逢う事も無かった。
手放しでは喜べない出逢いではあったのだしても、それをルキナに後悔して欲しくは、無い。
ルキナは暫し俯いたまま、ルフレに抱き締められていた。
やがて、ぽつりぽつりと言葉を溢す。
「怖いんです……。
ルフレさんが、また……あの時の様に消えてしまうんじゃないかと思うと……。
不安で、仕方がないんです……」
あの日身体が消えゆく中で最後に見た時の様に、ルキナの目には、恐怖と後悔と哀しみと……言葉に出来ない様な感情が綯い交ぜに浮かんでいる。
あの日、ルフレはそんな目をしていたルキナに何も言葉を遺せないまま消えてしまった。
自分で選んだ結末であったとは言え、……彼女にそんな顔をさせたくは無かったが故に、それは消える間際に強い未練となったが。
それでも、その時には既にどうにもならない程に身体の崩壊が進んでいたルフレには、もうルキナに想いを伝える術は無かった。
だけれども、今は違う。
ルフレは確かな実体を伴ってここに居るし、想いを伝える術だってちゃんとある。
「……消えないよ」
ルフレはルキナを抱き締めていた手を離し、心なしか冷たくなっているルキナの手を、自分の体温で暖めるかの様に両手でそっと包んだ。
強張っているその指先を、優しく撫でる様にして解きほぐす。
そして、ルキナを安心させる様に微笑んだ。
「ルキナが僕を呼んでくれるのなら、僕はもう絶対に消える事は無い。
例え何があったって、君の所に必ず帰ってくる」
二年の時が過ぎてしまったとは言え、こうやってルフレがこの世界に戻ってこれた様に。
「あの時……。
ギムレーを道連れに僕が消滅した後、僕は“何も無い場所”に居たんだ」
「何も……無い……?」
鸚鵡返しにしてきたその言葉に、ルフレは一つ頷いた。
「そう、“何も無い”んだ。
光も音も匂いも、身体も、時間さえも……何も無い場所。
もしかしたらあれが死後の世界ってモノなのかもしれないね……。
そんな場所に“僕”の意識は在った」
時間の感覚なども何も無かった其処では、自分と言うモノは極めて希釈な“何か”でしかなく。
それを意識が在ると言って良いのかは分からないが、そうとしか表現のしようがないのだ。
「ずっと微睡んでいる様な感じで、ハッキリとした意識は殆ど無かった。
そもそも、自分が誰なのかすらも定かじゃ無かったんだ。
『帰りたい』とは何と無く感じていたんだけど、それが何処へなのかとかは全然分からなくて……。
だから、ただぼんやりと微睡むしか無かった」
でも、とルフレは続ける。
「どれ位微睡みの中で揺蕩っていたのか分からないけど、ある時、ふと声が聞こえたんだ」
“声”と言う部分に、ルキナは僅かに肩を震わせた。
「声、ですか……?」
「そう、声。
『帰って来て下さい、消えないで下さい。
……私を置いて逝かないで下さい、ルフレさん』……ってね」
微睡みに沈む中でも遠くから響いてきた様なその声を、ルフレは今でも思い出せる。
それは、決して大きな声では無かったが、ルフレを微睡みから醒ますには十分だった。
「それって……!」
「あれは間違いなくルキナの声だった。
そして、その声を認識した途端、微睡みから醒める事が出来たんだ。
『そうだ、僕はルフレだ。
ルキナが呼んでる、早く其処に行かないと』ってね」
微睡みから醒めたルフレの心にあったのは、ただただルキナの事だけであった。
それは、消える直前に抱いた未練故の事であったのかもしれないし、どうしようもなく彼女を愛していたからなのかもしれない。
「でも、僕はその場所から動く事が出来なかった。
……身体も無く意識だけの存在だったからね。
僕を呼び続けている君の所に早く行きたくて、でも動けなくて……。
そんなもどかしい想いを抱いていたら、急に背中を蹴られたんだ」
「せ、背中を……?」
唐突に出てきたそんな表現に、ルキナは少し目を丸くした。
ルフレにもその気持ちは分かる。
ルフレも、その瞬間は呆気にとられていたのだから。
「その時の僕は意識しかない存在だったんだけどね。
誰かに背中を蹴られたと言うか、押されたと言うか……。
まあ、それによってその場所から弾き出されたんだ。
そして、気付いたら身体の感覚があった」
身体の感覚が何も無かったのに、背を蹴られた様な気がすると言うのも不思議な話である。
が、ルフレにはそうとしか表現は出来ない。
それに、大事なのは押された事ではなく、その後の事であった。
「何が起きたか分からなかったけど、そのチャンスを逃す訳にはいかなかったからね。
ルキナの声を頼りに、光が全く無い世界を必死に走った。
走る内に、次第にルキナ以外にもクロムやリズ達が僕を呼ぶ声も聞こえ始めて……。
そして、気付いたら僕はクロムと初めて出会ったあの草原に倒れていた」
ルキナの居る場所では無く其処に出た理由は分からないが。
「ルキナが、僕をこの世界に繋ぎ止めてくれたんだ。
皆が……君が僕を呼び続けてくれたから、僕はこうやって戻ってこれた。
僕の事を呼び続けてくれて、僕を探し続けてくれて、ありがとう、ルキナ……」
精一杯の感謝の想いを込めてルフレは言葉を紡ぐ。
そしてルキナの手を包んだまま、ずっと前から……二年前だって心の奥に封じていたけれど本当は伝えたかった言葉を、今やっと贈る。
「こんなにも長く待たせてしまって、ごめん。
一度は君を傷付ける様な形で消えてしまって、本当にすまないと思っている。
だけど、君が赦してくれるのならば。
どうか、僕がルキナと一緒に人生を歩む事を、許してくれないだろうか」
「ルフレ……さん」
今にも泣きそうな顔をするルキナに、ルフレは言わなければならない事を更に続けた。
「僕は一度は完全にこの世界から消滅した身だ。
でも、ギムレーと共に消滅した筈なのに僕は今ここに居る。
僕はもう“ギムレーの器”ではないけれど、今の僕が“何者”であるのかは僕自身にも分からない」
ルフレの肉体は、二年前のあの日に一度完全に消滅している。
だからこそ、今ここに実体を伴って存在している“自分”が一体何であるのか、それはルフレ自身にも分からない。
“人間”とは、最早呼べない存在になっているのだとしても、何もおかしくはない。
ルキナとこうしてまた出逢えたのだから戻ってきた事を悔いたりはしないが、ルキナと人生を歩んでいく資格が今の自分にあるのかは、分からなかった。
故にその判断をルフレはルキナへと委ねる。
「そんな僕でも、君を愛する資格はあるだろうか?」
ルフレがそう訊ねると。
ルキナは再びその目に涙を浮かべた。
だが、その表情は穏やかで、月明かりに光る雫は何処までも透き通っている。
宝石の様な輝きを映しながら頬を伝う様にして、涙はポタリポタリと、ルキナの手をそっと包むルフレの手へと滴り落ちていった。
ルフレの言葉に、ルキナは緩やかに頷きながら声を震わせて答える。
「そんなの、……あるに決まってるじゃないですか。
ルフレさんが何者であったとしても、私はルフレの事が好きなんです。
私は、何時かはここを離れなければなりませんが……。
それでも、叶うのならば、ずっと……ずっと貴方と一緒に居たい」
二年もの間探し続けていた。
時の流れが周りを少しづつ変えていく中でも、ルフレを変わらずに想っていた。
見付かるのかなんて分からなかったが、それでも諦める事など出来なかった。
ただただ……あの日消えてしまったルフレに、もう一度逢いたかった。
ただその想いを胸に、ルキナはこの二年を過ごしていた。
それは、ルキナが確かにルフレを愛していたが故に。
ルフレが何時か戻ってきたとしても、本来はこの時間に居るべきではないルキナは、そう遠くはない未来にここを去る必要があるだろう。
その時には、クロムの軍師であるルフレとは別れなければならないのかもしれない。
何時か来るであろう別れの日を思う事は、胸を切り裂く様な痛みをルキナに与えた。
それでも、ルキナはルフレを想う心を止められなかったのだ。
それは奇しくもルフレがそうであった様に。
「ありがとう、ルキナ……。
君が何処に行くのだとしても、僕はもう君から離れない。
ずっと側に居る、ずっと君を支え続ける。
そう、約束するよ」
ルフレはルキナの唇にそっと触れるだけの口付けをする。
そして指先を絡め、誓いを立てた。
それに応える様に、頬を赤らめながらもルキナもルフレに口付けを返し、ルフレの鼓動を確かめる様にその胸元へと耳を当てる。
「ルフレさん、ずっとずっと……年を取るまでずっと一緒にいて下さい。
もう、何処にも行かないで下さい……」
それを愛し気に見詰めたルフレは、ルキナの腰に左手を回して抱き締め、そして再びその唇にキスを落とした。
「ああ、約束する。
二人で、一緒に歳を重ねていこう。
お爺さんとお婆さんになっても、僕はずっと側に居る。
愛してるよ、ルキナ」
ルフレの深い愛情と優しさが伝わってくる様なキスに、蕩けそうな程に幸せそうな笑みを溢しながら、ルキナは自分の左手を、空いてるルフレの右手と繋いだ。
「私も、愛しています。
ルフレさんの事を、心から……。
貴方は、私にとって世界で一番大切な人なんです」
指先を絡める様に繋がれたその手から伝わる互いの体温に浮かされたかの様に、熱を帯びた視線が絡み合う。
そして、互いを求め合う様に何度もキスを交わした。
次第に激しさを増していくそのキスの応酬は止まる事を知らない。
そんな恋人達の様子を、窓の外から射し込む月光だけが照らしていた。
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