桜舞う頃 【完結】
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
降谷はなかなか戻らない深月に違和感を覚え係員にお願いしてトイレの中を確認してもらうと深月はそこにはおらず、普段は掃除の時以外は閉まっている窓が開いていたとの話を聞いて深月の逃亡を確信した。
降谷は大きくため息をつくと風見に電話をかけた。
「風見、悪いがトロピカルランド及び周辺の監視カメラを調べて欲しい。」
《何かありましたか?》
「あの娘が逃亡してな。」
《え…深月さんがですか?》
驚いた様な反応を示す風見に降谷は訝しげに尋ねた。
「なんだ、意外なのか?先日も自宅を脱走してるぞ、あの娘。」
《そうなのですか…いえ、自分の印象ではご両親に従順なご令嬢だったもので…》
「…それはどうだろうな。」
ー両親に従順…確かに言いつけは守っているのかもな。1人になるなとは言われてないんだろ。それにしたって警護を撒く奴があるか、普通。
「とにかく探してくれ。」
《わかりました。》
降谷は電話を切ると深月と交換したトロッピーのストラップを眺めた。
ー彼女はあのテロの目的が自分を狙ったものだという事におそらく気付いていた。それでいてあえて警護を撒いたという事は…自分を囮にするためだろうな…
「たく、あのじゃじゃ馬が。」
降谷はギュッとストラップを握りしめると念のため周辺を探す事にした。
『ゔ……たぁ…』
深月は目を覚ますと鈍い痛みを頭に感じてそこを押さえようとするが後ろ手に縛られておりそれは叶わなかった。どうにか上体を起こすとそこは古びた廃工場のようだった。ガラスのなくなった枠だけの窓から差し込む太陽の光に深月は自分がそんなに長い事気絶していたわけではなさそうだと判断した。
そして倒れた時に握ったはずのトロッピーのぬいぐるみが手元にない事に気付き深月は辺りを見回した。それは少し離れたところにあった。リュックも降谷からもらったトロッピーのぬいぐるみとその袋もそこにあり深月は安堵のため息をついた。
ーいやホッとしてる場合じゃないか。
深月が思い直すと、ギィと錆びれたドアが開いて先ほど公園で助けた老人が近付いてきた。先ほどと違うのは杖を持っておらず足はまったく悪くなさそうだという事だった。
「おや、起きたのか。」
『えぇ…あなたの目的はなんです?』
深月が怯えもせずにそう聞くと老人は、ハハッと笑った。
「さすが警察庁長官の娘だ!この程度は怖くないか!」
『まぁ多少は慣れましたけど…』
「あぁ…でもな、普通の警察官の娘はこういう事があると怖いものなんだよ。」
そう言いながら老人はダンッと拳を古びた机に叩きつけた。静かな工場に響くその音に深月はビクッと肩を震わせた。
『警察官の娘?』
「私は元警察官だ。交番勤務のしがない警察官だったからお前の両親は私の事など知らないだろうがな。18年前だ…お前の両親を恨んだのは。あの頃、連続婦女暴行事件が巷を騒がせていてな。もう4件にもなるのになかなか犯人グループが捕まらなくて…担当刑事だった友人に聞くと容疑者はあがっていたらしいがまだ捕まえる事が出来なかったらしい。なぜかわかるか?」
老人に鋭く睨まれ深月はあるひとつの考えが浮かぶが黙って老人の言葉を待った。
「公安が待ったをかけたんだよ。容疑者の1人があの国際的テロ組織、赤いカナリアと関係がある人物だからとな。そうこうしている内に5件目の事件が起きた…被害者は私の娘だ。娘には婚約者がいたのに事件をきっかけに破棄となり娘は結局自殺した。」
老人はそう言うと懐からナイフを出してそれを木製の机にガンッと突き刺した。
「その後、結局赤いカナリアと繋がりなんてなかった事がわかり犯人グループは捕まった。直接的な死者はいなかったが、娘は事件後部屋に閉じこもり、夜は事件の事を思い出すのか叫び声をあげて目を覚ますと取り乱し、まともに睡眠も取れていなかった。異性に対しひどく怯え父である私の事さえ怯えて何も話してくれなかった。妻は若い頃に病気でなくなって近くで支えてくれる同性もなく…そうやって娘は孤独の中で死んでいったんだ。」
老人は机に突き立てたナイフをグリグリと左右に手首を動かしてより深く押し込んだ。
「恨んだぞ、当時その判断をした公安…お前の両親をな!今すぐに殺してやろうと何度思った事か…だがな調べているうちにわかったんだ。お前という娘がいるという事が。」
老人は机に刺したナイフを抜くと深月に近付きその頬にナイフの刃を当てた。
「お前の両親には私と同じ思いをさせてやる。そのために娘と同じ年になるまで18年も待ったんだ。」
老人は深月の頬から首へとナイフを滑らせた。ナイフの刃の冷たさに深月の背筋にゾクッとした寒さが襲った。相手に自分を殺す気はないとわかっていても、いつ気が変わるかわからないこの状況はさすがに怖かった。
「あの犯人は3人組だった。恐ろしい世の中だよな?若い娘を1人犯して欲しいと依頼を出すといくらでもそれを請け負う男共がいるんだ…おい!いいぞ!入って来い!」
老人が自分が入ってきたドアの方へ依頼した男達に向けて声をかけると返事の代わりにバンッと大きな音を立ててドアが開いた。そのドアから入ってきたのは殴られて気絶した男と深月が先ほどまで一緒にいた金髪のその人だった。
「見つけたぞ。」
『降谷さん!』
深月は降谷の姿に安堵した。第三者となる降谷の突然の登場に老人が驚き戸惑っていると降谷は気絶した男を老人に向かって投げた。急に飛んできた男の体を老人は避けるとそこを気絶した男の陰から近付いた降谷に腹を殴られ床に倒れた。
ーわぁ…すご…痛そう…
深月は目の前で繰り広げられるそれをどこか他人事の様に眺めていた。
降谷は深月に近付くと片膝をつき、両手を後ろ手に縛られて座る深月の縄を前から腕をまわして解いた。降谷に抱きしめられているわけではないのに降谷の胸の近さに深月はドキリとした。
降谷が手首の縄を解くとその距離が自然と離れていくのが寂しく深月がぼんやりしていると次の瞬間左頬に衝撃が走った。
深月はゆっくりと視線を降谷へ向けると、降谷は眉を吊り上げその瞳は怒りで燃えていた。
「君は何を考えているんだ。僕がもう少し遅かったらどうなってたと思ってる。」
『はい…』
「だいたい囮捜査がしたいならなんで僕に相談しない。あれは連携を取りながらグループで行うものだし囮の人間にある程度の安全性が保証されなければやらないんだ。今回の君のやり方では身勝手すぎる。」
『はい…』
「今回はたまたま運が良かっただけで本当なら…」
そう、今回は運が良かった。すぐに防犯カメラから深月と老人を見つけ出せたので、この場所を探し当てて降谷は向かった。もしこれが少しでも遅かったなら深月が工場の外でたむろしていた3人のチンピラ共にいいように犯されていたかと思うと降谷ははらわたが煮え繰り返った。
しかし降谷はこの怒りをすべて深月にぶつけていいとは考えていなかった。
深月が狙われたのが彼女の両親への恨みからであれば、その本命を引きづり出すまで深月を簡単に傷付けたりはしないと降谷は考えていた。しかし実際はどうだったか。犯人の目的はむしろ深月を害する事だった。そんな油断をした自分に対しても降谷は苛立っていたのだ。
降谷が一度落ち着こうと黙ると深月はそんな降谷に抱きついた。
『ごめんなさい。たくさん心配をかけました。でも降谷さんなら来てくれるって信じてました。』
「僕を信じた?」
降谷の声音から不可解ぶりが伝わってきたので深月は続けた。
『だって"零 はすげー奴でオレの1番信頼してる親友なんだ"って自信満々に言われたので。』
「そうか…」
降谷は深月の答えに苦笑するしかなかった。深月が信じたのは諸伏だったのだから。
ー本当にお前には敵わないみたいだ…
降谷が親友を思い浮かべ、フーッとため息をつくと抱きついていた深月が急に腕を緩めて降谷を見上げた。
『それに降谷さんは私のために叱ってくれるでしょ?初めて会ったあの時だって、勝手な行動をして周りに心配をかけた私を叱ってくれたじゃないですか。子供のする事なんだし所詮仕事上での関わりなんですから適当に注意してうまくかわせばいいのにそうしなかった。私にちゃんと向き合ってくれた人だから信じられたんです。』
深月がそう言って笑うと降谷は深月をギュッと強く抱きしめた。深月は突然の事に驚きビクッと肩を揺らした。
ー落として上げてくるのはずるいな…全くこれじゃもう怒りようがないじゃないか
『降谷さん?』
「…もう絶対抱きしめられないんじゃなかったか?」
『あ…』
「そもそも君から抱きついて来たんだけどな。」
『っ…それは、その…』
ー私、何してんの?え?私から抱きついて…
深月は自分の大胆な行動に気がつき耳まで真っ赤に染めて言い訳を考えた。
『やっぱりちょっと怖かったし…?』
「それなら今度からこんな無茶はするな。こっちの心臓にも悪い。」
『ごめんなさい。でも私が囮になる事で事件が早く解決するなら私はこうしたい。私は父や母にとって煩わしい事を1つでも多く早くなくしてあげたい。私に出来る事ならしたいんです。まぁ、助けてくれる人有きの話なんですけどね。』
深月が苦笑交じりに言うと降谷はハァとため息をついて自分の腕の中にいる深月を覗き込んだ。
「それならなんで僕にちゃんと話さなかった?」
『両親は囮捜査なんて許しません。私だけの計画なら小言で済みますけど、警察官 は知っちゃダメです。処分受けちゃいますよ。』
「それで何も話さなかったのか。」
『共犯者になりたかったですか?』
深月が悪戯っぽく笑うと降谷の心臓がドクンと高鳴った。降谷はグッと奥歯を噛みしめると深月の首元に顔をうずめた。
『降谷さん?』
「君はいろいろとずるいな。」
『えぇ?』
深月は降谷の言葉の意味がわからず眉をひそめた。
「今回はうちの娘が世話になった。ご苦労。」
降谷は書斎の椅子に座る警察庁長官、市原祐太朗 の前で緊張気味にその言葉を受けた。
無事深月を救い出した後の処理は風見に任せて降谷は深月を病院に連れて行き、体に問題がない事がわかり自宅へと送った頃には夜も遅い時間になっていた。深月が疲れたから風呂に入ると言って浴室へ入って暫くすると海外から深月の両親、祐太朗と恭子が帰ってきた。
事の顛末はすでに報告を受けたようで2人の様子はいささか殺気立っていた。
そして降谷は祐太朗の書斎に連れられ話をする事になったのだ。
「まさか日本を少し離れているうちに事件が解決しているとは…さすが警察学校を全科目オールAで卒業し異例の若さでゼロとなった男だ。」
祐太朗は感心したように言うがその瞳は冷たく鋭く降谷を睨んでいた。
「しかし…深月は犯人に殴られ拘束され、一歩遅ければクズ共に害されていたと。君は深月の警護を任されていたんじゃないのか?」
「申し訳ありません。」
「素人に警護を撒かれるなんて…少々たるんでいるんじゃないか?それでよく公安が務まる。」
降谷がもう一度謝ろうとした時、書斎の扉が開き髪も乾かし切ってない深月が恭子と一緒に入ってきた。その様子に祐太朗は慌てて立ち上がった。
「深月!なんだその格好は!」
『別にいいでしょ。降谷さんはお客様じゃないし。』
「私は止めたのよ。でもどうしても行くって聞かなくてね。」
『だって髪なんて乾かしてたらお父さんのパワハラが成立しちゃうでしょ。』
深月はそう言うと降谷の横に並んで父親を見上げた。
祐太朗は深月の言い草に口元を引きつらせるが、ゴホンッと咳払いをひとつして椅子に座った。
「深月、別に私は彼を虐めようという訳では…」
『今回、降谷さんは私の我儘を最大限きいてくれてその上で警護してくれた。私が勝手に単独行動をとって犯人に襲われたのにこうして無事家にいるのは他の誰でもなく降谷さんのおかげだってのはお父さんもわかってるでしょ?彼に小言言うのは違うと思うし…まさか責任取らせようなんて思ってないよね?』
「お前が襲われたのは1人になったからだ。警護が撒かれた事が彼の失態であるのは事実だ。」
『それはそっちの采配ミスでしょ。同性の警護だったらトイレで撒かれるなんて事なかったし、こういう時って基本同性にするよね?上司のミスを部下に責任取らせる気?』
「それは…」
「あははははっ!」
深月と祐太朗の言い合いを黙って聞いていた恭子だが我慢しきれなくなったのか大きな声で笑い出した。
「そう、それはこっちの采配ミス。」
「恭子、お前が任せろと言うから…」
「そうね。でもそれを決断したのは貴方だわ、警察庁長官殿。」
恭子はフフッと笑うと降谷を見た。
「降谷くん、私も深月が犯人に殴られたって聞いた時はどうしてやろうかと思ったけど…深月が私に泣きついてまで庇うから。」
『な、泣きついてない!変な事言わないでっ!』
恭子の大袈裟な言い方に深月は顔を真っ赤にして抗議した。恭子は、まぁまぁと深月を宥めるとその肩に腕を回して引き寄せた。
「今回は勝手をしたうちのおてんば娘を迅速に救ってくれた貴方に感謝をしなきゃいけないわね。ね、そうでしょ?」
恭子がニコリと笑いかけると祐太朗はハァと大きなため息をついて項垂れた。まだまだいろいろと言いたい事があったのだろうが祐太朗はそれをため息としてもう一度出すと顔を上げた。
「まぁそうだな。深月の父親として礼を言う。ありがとう。」
「いえ、身に余るお言葉です。」
「さ、難しい話は終わりにしてお茶にしましょ!」
恭子がパンパンッと手を叩いて話を区切るとタイミングを図ったように祐太朗のスマートフォンが鳴った。祐太朗が画面を確認すると退室する様促されたので3人は書斎を出てリビングへと向かった。
「深月はちゃんと髪乾かして来なさい。風邪ひくわよ。」
『わかった。』
リビングの前で洗面所に向かう深月を見送ると恭子は降谷を仰ぎ、リビングへと招いた。降谷を座らせお茶を出すと恭子は向かいに座って降谷に笑いかけた。
「深月とはいろいろお話出来たかしら?」
「はい。貴女は僕が諸伏と友人だった事を知っていたんですね。」
「えぇ。降谷くんと諸伏くんの話をしたら少しは深月も前に進めるかと思ったのよ。いつまでも思い出に出来ないでいる記憶ってのは現実がチラつく度に辛いものだから。」
恭子にも似た経験があるのかその瞳に影が落ちた。しかしそれは一瞬の事で次には元の様に光った。
「深月にとっていい機会になったみたいね。」
恭子はティーカップに口をつけるとフフッと笑った。
「立場上いろいろと面倒かもしれないけど…あの子とはこれからも仲良くしてくれる?」
「はい。ただ深月さんもそう望むでしょうか?」
「あら、弱気なの?」
降谷は恭子の言葉にギュッと手を握りしめた。
諸伏の事を話す時の深月は幸せそうでひどく優しい顔をする。本当に大切に想っているのだというのを降谷はこの2日間で痛感した。深月が時より見せる自分に対する信頼が嬉しい反面、彼女の気持ちがわかっているだけに辛かった。
黙ってしまった降谷に恭子はニコッと笑いかけた。
「確かに記憶の中の人ってのは綺麗だわ。でも深月は今を生きている。あの子の時間は漸くちゃんと動き出した。貴方のおかげでね。」
恭子が言い終えると同時にリビングの扉が開き髪を乾かし終えた深月が入ってきた。
深月はどこか様子のおかしい降谷に気付くと母親を半眼で睨んだ。
『お母さん、後輩を虐めるのはどうかと思う。』
「誤解よ。私はただこれからも深月と仲良くしてねってお願いしただけよ。」
『それは…ちょっと重いよ。上司の娘と仲良くしてねって普通断れないよ。パワハラって取られてもおかしくないんじゃない。』
「えぇー私はもう警察じゃないもの。」
『お父さんがそこのトップなんだから変わらないよ。』
深月はハァとため息をつくと降谷に言った。
『母の言う事なんて気にしないでください。仕事の邪魔はしませんから。』
「あぁ、わかってる。」
降谷が頷くとその胸元のポケットにしまったスマートフォンが鳴り、降谷は断りを入れて2人から離れて電話に出た。暫く話をすると降谷は電話を切って2人の元に戻ってきた。
「すみません。本庁へ戻ります。」
「あらぁもうさよならなのね。」
『昔はお母さんだってそうだったでしょ。電話が鳴ったらその後は基本現場か本庁に出てたじゃない。』
「耳が痛いわねぇ。」
『降谷さん、玄関まで送ります。』
深月が扉を開いてリビングを出ると降谷は恭子に頭を下げて深月の後に続いた。
深月は廊下を歩きながら少し後ろを歩く降谷を見上げた。
『共犯者にならなくて良かったでしょ?』
「え?あぁそうだな。君が口添えしてくれて助かったよ。」
『そもそも私が勝手にやった事で降谷さんに迷惑かけたくありませんし。』
深月はそう言うと玄関の扉を開け、降谷はそこを出ると深月に、じゃあ。と声をかけて車に向かった。深月はその後ろ姿をなんとなく眺めているとふと思い出して車に乗り込んだ降谷の元へと走った。近付いてきた深月に気付き降谷は車の窓を開けて声をかけた。
「どうした?」
『大事な事忘れてました。』
「大事な事?」
『助けてくださってありがとうございました。まだお礼は伝えてなかったなと思って。』
深月がぺこりと頭を下げると降谷はその頭をポンと叩いた。
「こちらこそ、信じてくれてありがとう。」
それを聞いて深月がフフッと笑うと、降谷は訝しげに首を傾げた。
『降谷さんだから信じられたんです。今度はぜひ共犯になってくださいね。』
深月がテレ隠しに冗談も交えると降谷は深月の左頬を撫でた。
「叩いて悪かった。」
『降谷さんが謝る事じゃないですよ。私が勝手をしたのはよくわかってます。心配してくれたんですよね?』
自分の左頬に触れる降谷の手に深月が触れると降谷は頬に触れていた手を離し車のハンドルを握った。
「あまりご両親に心配かけるなよ。」
『はい。極力そうします。』
「じゃあもう行くから。」
降谷にそう言われ深月が車から数歩下がると車は行ってしまった。深月はそれを見送りながら胸元をギュッと握りしめた。
ー寂しいなんて…なんで思うのかな…仕事の邪魔はしないって私が言ったのに…
深月は行ってしまった降谷を名残惜しいと思う自分の心に戸惑った。
つづく
降谷は大きくため息をつくと風見に電話をかけた。
「風見、悪いがトロピカルランド及び周辺の監視カメラを調べて欲しい。」
《何かありましたか?》
「あの娘が逃亡してな。」
《え…深月さんがですか?》
驚いた様な反応を示す風見に降谷は訝しげに尋ねた。
「なんだ、意外なのか?先日も自宅を脱走してるぞ、あの娘。」
《そうなのですか…いえ、自分の印象ではご両親に従順なご令嬢だったもので…》
「…それはどうだろうな。」
ー両親に従順…確かに言いつけは守っているのかもな。1人になるなとは言われてないんだろ。それにしたって警護を撒く奴があるか、普通。
「とにかく探してくれ。」
《わかりました。》
降谷は電話を切ると深月と交換したトロッピーのストラップを眺めた。
ー彼女はあのテロの目的が自分を狙ったものだという事におそらく気付いていた。それでいてあえて警護を撒いたという事は…自分を囮にするためだろうな…
「たく、あのじゃじゃ馬が。」
降谷はギュッとストラップを握りしめると念のため周辺を探す事にした。
『ゔ……たぁ…』
深月は目を覚ますと鈍い痛みを頭に感じてそこを押さえようとするが後ろ手に縛られておりそれは叶わなかった。どうにか上体を起こすとそこは古びた廃工場のようだった。ガラスのなくなった枠だけの窓から差し込む太陽の光に深月は自分がそんなに長い事気絶していたわけではなさそうだと判断した。
そして倒れた時に握ったはずのトロッピーのぬいぐるみが手元にない事に気付き深月は辺りを見回した。それは少し離れたところにあった。リュックも降谷からもらったトロッピーのぬいぐるみとその袋もそこにあり深月は安堵のため息をついた。
ーいやホッとしてる場合じゃないか。
深月が思い直すと、ギィと錆びれたドアが開いて先ほど公園で助けた老人が近付いてきた。先ほどと違うのは杖を持っておらず足はまったく悪くなさそうだという事だった。
「おや、起きたのか。」
『えぇ…あなたの目的はなんです?』
深月が怯えもせずにそう聞くと老人は、ハハッと笑った。
「さすが警察庁長官の娘だ!この程度は怖くないか!」
『まぁ多少は慣れましたけど…』
「あぁ…でもな、普通の警察官の娘はこういう事があると怖いものなんだよ。」
そう言いながら老人はダンッと拳を古びた机に叩きつけた。静かな工場に響くその音に深月はビクッと肩を震わせた。
『警察官の娘?』
「私は元警察官だ。交番勤務のしがない警察官だったからお前の両親は私の事など知らないだろうがな。18年前だ…お前の両親を恨んだのは。あの頃、連続婦女暴行事件が巷を騒がせていてな。もう4件にもなるのになかなか犯人グループが捕まらなくて…担当刑事だった友人に聞くと容疑者はあがっていたらしいがまだ捕まえる事が出来なかったらしい。なぜかわかるか?」
老人に鋭く睨まれ深月はあるひとつの考えが浮かぶが黙って老人の言葉を待った。
「公安が待ったをかけたんだよ。容疑者の1人があの国際的テロ組織、赤いカナリアと関係がある人物だからとな。そうこうしている内に5件目の事件が起きた…被害者は私の娘だ。娘には婚約者がいたのに事件をきっかけに破棄となり娘は結局自殺した。」
老人はそう言うと懐からナイフを出してそれを木製の机にガンッと突き刺した。
「その後、結局赤いカナリアと繋がりなんてなかった事がわかり犯人グループは捕まった。直接的な死者はいなかったが、娘は事件後部屋に閉じこもり、夜は事件の事を思い出すのか叫び声をあげて目を覚ますと取り乱し、まともに睡眠も取れていなかった。異性に対しひどく怯え父である私の事さえ怯えて何も話してくれなかった。妻は若い頃に病気でなくなって近くで支えてくれる同性もなく…そうやって娘は孤独の中で死んでいったんだ。」
老人は机に突き立てたナイフをグリグリと左右に手首を動かしてより深く押し込んだ。
「恨んだぞ、当時その判断をした公安…お前の両親をな!今すぐに殺してやろうと何度思った事か…だがな調べているうちにわかったんだ。お前という娘がいるという事が。」
老人は机に刺したナイフを抜くと深月に近付きその頬にナイフの刃を当てた。
「お前の両親には私と同じ思いをさせてやる。そのために娘と同じ年になるまで18年も待ったんだ。」
老人は深月の頬から首へとナイフを滑らせた。ナイフの刃の冷たさに深月の背筋にゾクッとした寒さが襲った。相手に自分を殺す気はないとわかっていても、いつ気が変わるかわからないこの状況はさすがに怖かった。
「あの犯人は3人組だった。恐ろしい世の中だよな?若い娘を1人犯して欲しいと依頼を出すといくらでもそれを請け負う男共がいるんだ…おい!いいぞ!入って来い!」
老人が自分が入ってきたドアの方へ依頼した男達に向けて声をかけると返事の代わりにバンッと大きな音を立ててドアが開いた。そのドアから入ってきたのは殴られて気絶した男と深月が先ほどまで一緒にいた金髪のその人だった。
「見つけたぞ。」
『降谷さん!』
深月は降谷の姿に安堵した。第三者となる降谷の突然の登場に老人が驚き戸惑っていると降谷は気絶した男を老人に向かって投げた。急に飛んできた男の体を老人は避けるとそこを気絶した男の陰から近付いた降谷に腹を殴られ床に倒れた。
ーわぁ…すご…痛そう…
深月は目の前で繰り広げられるそれをどこか他人事の様に眺めていた。
降谷は深月に近付くと片膝をつき、両手を後ろ手に縛られて座る深月の縄を前から腕をまわして解いた。降谷に抱きしめられているわけではないのに降谷の胸の近さに深月はドキリとした。
降谷が手首の縄を解くとその距離が自然と離れていくのが寂しく深月がぼんやりしていると次の瞬間左頬に衝撃が走った。
深月はゆっくりと視線を降谷へ向けると、降谷は眉を吊り上げその瞳は怒りで燃えていた。
「君は何を考えているんだ。僕がもう少し遅かったらどうなってたと思ってる。」
『はい…』
「だいたい囮捜査がしたいならなんで僕に相談しない。あれは連携を取りながらグループで行うものだし囮の人間にある程度の安全性が保証されなければやらないんだ。今回の君のやり方では身勝手すぎる。」
『はい…』
「今回はたまたま運が良かっただけで本当なら…」
そう、今回は運が良かった。すぐに防犯カメラから深月と老人を見つけ出せたので、この場所を探し当てて降谷は向かった。もしこれが少しでも遅かったなら深月が工場の外でたむろしていた3人のチンピラ共にいいように犯されていたかと思うと降谷ははらわたが煮え繰り返った。
しかし降谷はこの怒りをすべて深月にぶつけていいとは考えていなかった。
深月が狙われたのが彼女の両親への恨みからであれば、その本命を引きづり出すまで深月を簡単に傷付けたりはしないと降谷は考えていた。しかし実際はどうだったか。犯人の目的はむしろ深月を害する事だった。そんな油断をした自分に対しても降谷は苛立っていたのだ。
降谷が一度落ち着こうと黙ると深月はそんな降谷に抱きついた。
『ごめんなさい。たくさん心配をかけました。でも降谷さんなら来てくれるって信じてました。』
「僕を信じた?」
降谷の声音から不可解ぶりが伝わってきたので深月は続けた。
『だって"
「そうか…」
降谷は深月の答えに苦笑するしかなかった。深月が信じたのは諸伏だったのだから。
ー本当にお前には敵わないみたいだ…
降谷が親友を思い浮かべ、フーッとため息をつくと抱きついていた深月が急に腕を緩めて降谷を見上げた。
『それに降谷さんは私のために叱ってくれるでしょ?初めて会ったあの時だって、勝手な行動をして周りに心配をかけた私を叱ってくれたじゃないですか。子供のする事なんだし所詮仕事上での関わりなんですから適当に注意してうまくかわせばいいのにそうしなかった。私にちゃんと向き合ってくれた人だから信じられたんです。』
深月がそう言って笑うと降谷は深月をギュッと強く抱きしめた。深月は突然の事に驚きビクッと肩を揺らした。
ー落として上げてくるのはずるいな…全くこれじゃもう怒りようがないじゃないか
『降谷さん?』
「…もう絶対抱きしめられないんじゃなかったか?」
『あ…』
「そもそも君から抱きついて来たんだけどな。」
『っ…それは、その…』
ー私、何してんの?え?私から抱きついて…
深月は自分の大胆な行動に気がつき耳まで真っ赤に染めて言い訳を考えた。
『やっぱりちょっと怖かったし…?』
「それなら今度からこんな無茶はするな。こっちの心臓にも悪い。」
『ごめんなさい。でも私が囮になる事で事件が早く解決するなら私はこうしたい。私は父や母にとって煩わしい事を1つでも多く早くなくしてあげたい。私に出来る事ならしたいんです。まぁ、助けてくれる人有きの話なんですけどね。』
深月が苦笑交じりに言うと降谷はハァとため息をついて自分の腕の中にいる深月を覗き込んだ。
「それならなんで僕にちゃんと話さなかった?」
『両親は囮捜査なんて許しません。私だけの計画なら小言で済みますけど、
「それで何も話さなかったのか。」
『共犯者になりたかったですか?』
深月が悪戯っぽく笑うと降谷の心臓がドクンと高鳴った。降谷はグッと奥歯を噛みしめると深月の首元に顔をうずめた。
『降谷さん?』
「君はいろいろとずるいな。」
『えぇ?』
深月は降谷の言葉の意味がわからず眉をひそめた。
「今回はうちの娘が世話になった。ご苦労。」
降谷は書斎の椅子に座る警察庁長官、市原
無事深月を救い出した後の処理は風見に任せて降谷は深月を病院に連れて行き、体に問題がない事がわかり自宅へと送った頃には夜も遅い時間になっていた。深月が疲れたから風呂に入ると言って浴室へ入って暫くすると海外から深月の両親、祐太朗と恭子が帰ってきた。
事の顛末はすでに報告を受けたようで2人の様子はいささか殺気立っていた。
そして降谷は祐太朗の書斎に連れられ話をする事になったのだ。
「まさか日本を少し離れているうちに事件が解決しているとは…さすが警察学校を全科目オールAで卒業し異例の若さでゼロとなった男だ。」
祐太朗は感心したように言うがその瞳は冷たく鋭く降谷を睨んでいた。
「しかし…深月は犯人に殴られ拘束され、一歩遅ければクズ共に害されていたと。君は深月の警護を任されていたんじゃないのか?」
「申し訳ありません。」
「素人に警護を撒かれるなんて…少々たるんでいるんじゃないか?それでよく公安が務まる。」
降谷がもう一度謝ろうとした時、書斎の扉が開き髪も乾かし切ってない深月が恭子と一緒に入ってきた。その様子に祐太朗は慌てて立ち上がった。
「深月!なんだその格好は!」
『別にいいでしょ。降谷さんはお客様じゃないし。』
「私は止めたのよ。でもどうしても行くって聞かなくてね。」
『だって髪なんて乾かしてたらお父さんのパワハラが成立しちゃうでしょ。』
深月はそう言うと降谷の横に並んで父親を見上げた。
祐太朗は深月の言い草に口元を引きつらせるが、ゴホンッと咳払いをひとつして椅子に座った。
「深月、別に私は彼を虐めようという訳では…」
『今回、降谷さんは私の我儘を最大限きいてくれてその上で警護してくれた。私が勝手に単独行動をとって犯人に襲われたのにこうして無事家にいるのは他の誰でもなく降谷さんのおかげだってのはお父さんもわかってるでしょ?彼に小言言うのは違うと思うし…まさか責任取らせようなんて思ってないよね?』
「お前が襲われたのは1人になったからだ。警護が撒かれた事が彼の失態であるのは事実だ。」
『それはそっちの采配ミスでしょ。同性の警護だったらトイレで撒かれるなんて事なかったし、こういう時って基本同性にするよね?上司のミスを部下に責任取らせる気?』
「それは…」
「あははははっ!」
深月と祐太朗の言い合いを黙って聞いていた恭子だが我慢しきれなくなったのか大きな声で笑い出した。
「そう、それはこっちの采配ミス。」
「恭子、お前が任せろと言うから…」
「そうね。でもそれを決断したのは貴方だわ、警察庁長官殿。」
恭子はフフッと笑うと降谷を見た。
「降谷くん、私も深月が犯人に殴られたって聞いた時はどうしてやろうかと思ったけど…深月が私に泣きついてまで庇うから。」
『な、泣きついてない!変な事言わないでっ!』
恭子の大袈裟な言い方に深月は顔を真っ赤にして抗議した。恭子は、まぁまぁと深月を宥めるとその肩に腕を回して引き寄せた。
「今回は勝手をしたうちのおてんば娘を迅速に救ってくれた貴方に感謝をしなきゃいけないわね。ね、そうでしょ?」
恭子がニコリと笑いかけると祐太朗はハァと大きなため息をついて項垂れた。まだまだいろいろと言いたい事があったのだろうが祐太朗はそれをため息としてもう一度出すと顔を上げた。
「まぁそうだな。深月の父親として礼を言う。ありがとう。」
「いえ、身に余るお言葉です。」
「さ、難しい話は終わりにしてお茶にしましょ!」
恭子がパンパンッと手を叩いて話を区切るとタイミングを図ったように祐太朗のスマートフォンが鳴った。祐太朗が画面を確認すると退室する様促されたので3人は書斎を出てリビングへと向かった。
「深月はちゃんと髪乾かして来なさい。風邪ひくわよ。」
『わかった。』
リビングの前で洗面所に向かう深月を見送ると恭子は降谷を仰ぎ、リビングへと招いた。降谷を座らせお茶を出すと恭子は向かいに座って降谷に笑いかけた。
「深月とはいろいろお話出来たかしら?」
「はい。貴女は僕が諸伏と友人だった事を知っていたんですね。」
「えぇ。降谷くんと諸伏くんの話をしたら少しは深月も前に進めるかと思ったのよ。いつまでも思い出に出来ないでいる記憶ってのは現実がチラつく度に辛いものだから。」
恭子にも似た経験があるのかその瞳に影が落ちた。しかしそれは一瞬の事で次には元の様に光った。
「深月にとっていい機会になったみたいね。」
恭子はティーカップに口をつけるとフフッと笑った。
「立場上いろいろと面倒かもしれないけど…あの子とはこれからも仲良くしてくれる?」
「はい。ただ深月さんもそう望むでしょうか?」
「あら、弱気なの?」
降谷は恭子の言葉にギュッと手を握りしめた。
諸伏の事を話す時の深月は幸せそうでひどく優しい顔をする。本当に大切に想っているのだというのを降谷はこの2日間で痛感した。深月が時より見せる自分に対する信頼が嬉しい反面、彼女の気持ちがわかっているだけに辛かった。
黙ってしまった降谷に恭子はニコッと笑いかけた。
「確かに記憶の中の人ってのは綺麗だわ。でも深月は今を生きている。あの子の時間は漸くちゃんと動き出した。貴方のおかげでね。」
恭子が言い終えると同時にリビングの扉が開き髪を乾かし終えた深月が入ってきた。
深月はどこか様子のおかしい降谷に気付くと母親を半眼で睨んだ。
『お母さん、後輩を虐めるのはどうかと思う。』
「誤解よ。私はただこれからも深月と仲良くしてねってお願いしただけよ。」
『それは…ちょっと重いよ。上司の娘と仲良くしてねって普通断れないよ。パワハラって取られてもおかしくないんじゃない。』
「えぇー私はもう警察じゃないもの。」
『お父さんがそこのトップなんだから変わらないよ。』
深月はハァとため息をつくと降谷に言った。
『母の言う事なんて気にしないでください。仕事の邪魔はしませんから。』
「あぁ、わかってる。」
降谷が頷くとその胸元のポケットにしまったスマートフォンが鳴り、降谷は断りを入れて2人から離れて電話に出た。暫く話をすると降谷は電話を切って2人の元に戻ってきた。
「すみません。本庁へ戻ります。」
「あらぁもうさよならなのね。」
『昔はお母さんだってそうだったでしょ。電話が鳴ったらその後は基本現場か本庁に出てたじゃない。』
「耳が痛いわねぇ。」
『降谷さん、玄関まで送ります。』
深月が扉を開いてリビングを出ると降谷は恭子に頭を下げて深月の後に続いた。
深月は廊下を歩きながら少し後ろを歩く降谷を見上げた。
『共犯者にならなくて良かったでしょ?』
「え?あぁそうだな。君が口添えしてくれて助かったよ。」
『そもそも私が勝手にやった事で降谷さんに迷惑かけたくありませんし。』
深月はそう言うと玄関の扉を開け、降谷はそこを出ると深月に、じゃあ。と声をかけて車に向かった。深月はその後ろ姿をなんとなく眺めているとふと思い出して車に乗り込んだ降谷の元へと走った。近付いてきた深月に気付き降谷は車の窓を開けて声をかけた。
「どうした?」
『大事な事忘れてました。』
「大事な事?」
『助けてくださってありがとうございました。まだお礼は伝えてなかったなと思って。』
深月がぺこりと頭を下げると降谷はその頭をポンと叩いた。
「こちらこそ、信じてくれてありがとう。」
それを聞いて深月がフフッと笑うと、降谷は訝しげに首を傾げた。
『降谷さんだから信じられたんです。今度はぜひ共犯になってくださいね。』
深月がテレ隠しに冗談も交えると降谷は深月の左頬を撫でた。
「叩いて悪かった。」
『降谷さんが謝る事じゃないですよ。私が勝手をしたのはよくわかってます。心配してくれたんですよね?』
自分の左頬に触れる降谷の手に深月が触れると降谷は頬に触れていた手を離し車のハンドルを握った。
「あまりご両親に心配かけるなよ。」
『はい。極力そうします。』
「じゃあもう行くから。」
降谷にそう言われ深月が車から数歩下がると車は行ってしまった。深月はそれを見送りながら胸元をギュッと握りしめた。
ー寂しいなんて…なんで思うのかな…仕事の邪魔はしないって私が言ったのに…
深月は行ってしまった降谷を名残惜しいと思う自分の心に戸惑った。
つづく