彼の晴れ舞台だと言うのに何故私は残業をしているのだろう。
既に電気の消えたフロアで私のデスクだけが明るい。
スマートフォンの小さな画面。
ネット配信でラップバトルを見詰める。
盛り上がりは最高潮。
騒がしい観客席。
画面越しからは分からない熱気。

ステージ上の彼を照らすスポットライト。
観客の視線も熱気も無視するみたいな彼のリリック。
ざわつく観客席。
じわじわと少しずつ会場を蝕んでいく、小さな画面越しからでも分かる。
これは彼が作り上げた静寂だ。

会場の全員いや、小さな島国の国民全員がこのバトルに注目している。
彼を気味悪がる女子社員も、彼を小馬鹿にする同期の奴らも、きっとハゲの課長だって。

今、この瞬間。

全員が観音坂独歩の世界に呑み込まれている。
天才医師と新宿ナンバーワンホストの陰に隠れた陰気な会社員と侮るなかれ。
どうだ彼のリリックは！
今まで私の愛する彼を馬鹿にした奴等に聴かせてやりたい。

「ざまぁみろ」

嗚呼、最高に格好良い。
きっとこの瞬間から彼を取り巻く世界は少しずつ変わっていく。

「あーあ、会場で観たかったなぁ…」

この小さな奇跡の瞬間を同じ箱の中で熱気に包まれて感じていたかった。
有休消化すらままならない万年社畜OLには難しい望みだろう。

《格好よかったよ》

愛する彼に短いメッセージを送って、再び終わりが見えないデータと向き合う事にした。