マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第9話。
リナリーに手を引かれ、夢子は何度か後ろを振り返りながら科学班を離れた。
神田の姿が廊下の向こうへ見えなくなってからも、まだ少し気になるのか、時折そちらへ視線を向けている。
そんな様子に気づいたリナリーは、隣を歩きながら小さく笑った。
「神田なら大丈夫よ。お風呂が終わったら、また会えるから」
心の内を見透かされたようで、夢子は少し恥ずかしくなりながらも、こくんと頷いた。
やがて女性用の浴室へ辿り着くと、リナリーはまず脱衣所へ彼女を案内した。壁際には籠や棚が並び、その向こうには浴室へ続く扉がある。
「ここで服を脱いでから、お風呂に入るのよ。脱いだものは、その籠に入れておけば大丈夫」
夢子は説明された通り、自分の身体へ張りついている服へ手をかけた。
陸へ上がってからずっと着たままだった服は海水を吸って重く、砂や汚れもついている。
それをようやく脱ぎ終え、籠へ入れようとした時だった。
「……ちょっと待って」
それまで柔らかかったリナリーの声が、僅かに変わった。
夢子が顔を上げると、リナリーは夢子の足元を見ていた。
「その足……どうしたの?」
言われて、夢子も自分の足を見る。
足裏から踵、指の付け根まで、あちこちが赤く擦れている。浅い切り傷もいくつかあり、すでに乾いているものの、中には血の滲んだ跡まで残っていた。
陸へ上がってから毎日見ていた足なので、夢子自身は今さら驚くこともない。
そんな彼女とは反対に、リナリーは眉を寄せてしゃがみ込んだ。
「これ、ずっとこのままだったの?」
こくん。
「いつ怪我したの?」
夢子は帳面を開き、
『りくに きてから』
と書いた。
「陸へ来てから……?」
続けて、
『かんださんを さがして』 『あるきました』
と書く。
リナリーはその文字を読んだあと、もう一度傷だらけの足を見た。
「まさか、ずっと裸足で?」
こくん。
「それで神田におぶわれてたのね」
その言葉に、夢子の頬が少しだけ赤くなった。
リナリーは気づいたものの何も言わず、今度は傷の具合を確かめるように足元を覗き込む。
「神田もこれを見たの?」
『あし みせろって』 『それから おんぶ』
「そう……」
なるほど、とリナリーは納得した。
神田が女性を背負って教団へ戻ってきたと聞けば、事情を知らない者は驚くだろう。だが、この足を見れば理由は明らかだった。
「とりあえず、海水と砂をきれいに落としましょう。そのあと医務室でちゃんと診てもらった方がいいわ」
医務室。
また知らない言葉が出てきて、夢子が首を傾げる。
「怪我をした人を診てもらう場所よ。傷も手当てしてもらえるから」
説明されるとすぐに理解し、こくんと頷いた。
「少し沁みるかもしれないけど、我慢できる?」
もう一度、こくん。
リナリーから大きな布を渡されると、今度はそれを不思議そうに眺めた。
「それはタオル。お風呂から上がったあと、身体を拭くの」
タオル。
本で見た覚えはある。
夢子は物珍しそうに手触りを確かめてから、大切そうに畳んで置いた。
準備を終えて浴室へ入った途端、今度は目を丸くする。
人間の建物の中に、たくさんの水がある。
海とは比べものにならないほど小さいとはいえ、大きな浴槽いっぱいに水が溜まり、その表面から白い煙のようなものがゆらゆらと立ち上っている。
「いきなりあそこへ入るんじゃないのよ。まず髪と身体を洗うの」
リナリーが蛇口を捻ると、何もないところから水が勢いよく流れ出した。
「…………!」
夢子の目が輝く。
蛇口を見る。
水を見る。
もう一度蛇口を見る。
リナリーが閉めると止まる。
また開けば出る。
「気になる?」
こくこく。
「あとで好きなだけ見ていいから、先に洗いましょう」
少し名残惜しそうに蛇口から離れた夢子へ、リナリーは石鹸や髪を洗うものの使い方も一つずつ教えていった。
足を洗う時だけは慎重に、傷へ直接強く触れないよう海水や砂を流していく。やはり凄く沁みたらしく、夢子は何度か眉を寄せたものの、途中で嫌がることはなかった。
そして、一度説明されたことはすぐに覚えるらしく、最初こそリナリーの手元をじっと見ていたものの、二度目にはもう自分で同じように扱っている。
「覚えるのが早いのね」
褒められ、夢子は少し得意そうに笑った。
どうにか海水を洗い流し終えたところで、リナリーが大きな浴槽を示した。
「身体を洗ったら、最後にあそこへ入るの」
水へ身体を浸すことなら、生まれてからずっとしてきた。
夢子は何の警戒もなく近づいたものの、水面から立ち上る白い湯気を見て、ふと足を止める。
「…………?」
「今日は少し熱めね」
リナリーが何気なく手を入れる。
熱い。
その言葉に夢子は瞬きをすると、同じように恐る恐る指先を入れた。
「…………!」
次の瞬間、びくりと身体を跳ねさせ、猛烈な勢いで手を引っ込めた。
「熱かった?」
こくこくこく。
夢子は湯船を指さし、そのまま強く首を横へ振った。
入れない。
これは、自分の知っている水ではない。
「大丈夫よ。このくらいなら普通のお風呂だから」
普通と言われても、海でこれほど温かい水の中へ入ったことなどない。
しばらく浴槽を警戒するように見ていた夢子は、突然何かを思いついたように脱衣所へ戻り、濡らさないよう置いていた帳面を持ってくると、真剣な顔で鉛筆を走らせた。
『はいったら』
一度手を止め、その下へ、
『にざかなに なります』
と書く。
「…………」
リナリーは帳面を見た。
それから夢子を見る。
冗談を言っている顔ではない。
「……煮魚?」
こくん。
「ならないわよ!?」
それでも夢子は半信半疑だった。
熱い水。
自分。
つい数日前まで魚の尾を持っていた身体。
どう考えても危険な組み合わせに思える。
「本当に大丈夫。人間はみんなお風呂に入るのよ。私だって毎日入ってるわよ?」
そう言われ、夢子はリナリーをじっと観察した。
確かに煮えていない。
しばらく考え、
『ほんとうに?』
と書く。
「本当よ」
リナリーが笑うと、ようやく少し警戒を解いた。
ただ、足には傷がある。
いきなり熱い湯へ浸けるのはつらいだろうと、リナリーが水を足して温度を下げてやると、夢子は少し離れたところから真剣な顔でその様子を見守った。
「これならどう?」
まず指。
次に手。
問題がないことを確認し、今度は片足を恐る恐る入れる。
「……っ」
やはり傷には少し沁みるらしい。
「痛い?」
夢子は少し迷ってから、小さく頷いた。
「無理そうなら入らなくていいのよ」
そう言われた途端、夢子は浴槽とリナリーを見比べた。
怖い。
痛い。
しかし、煮魚にならないというのが本当なのかも確かめたい。
少し考えた末、もう一度足を入れる。
今度はゆっくり。
もう片方。
腰、胸元と慎重に身体を沈め、最後には肩まで浸かった。
「…………」
緊張したまま、自分の腕を見る。
脚を見る。
指も確かめる。
どこも煮えていない。
身体から美味しそうな匂いがすることもない。
数秒経っても無事だと分かると、ようやく力を抜き、湯船の縁へ背中を預けた。
温かい。
最初は恐ろしかったものの、慣れてしまえば悪くない。
海とはまったく違う温かさが身体を包み、ずっと歩き続けて疲れていた脚までほぐれていくようだった。
その顔を見たリナリーが笑う。
「だから煮魚にはならないって言ったでしょう?」
夢子は少し恥ずかしくなり、頬を膨らませた。
ところが、それから数分もしないうちだった。
先ほどまで気持ちよさそうにしていた夢子の動きが、だんだん鈍くなっていく。頬は真っ赤になり、身体も少しずつ沈み始め、ついには浴槽の縁へ顎を乗せた。
「夢子?」
呼ばれ、ゆっくり顔を上げる。
明らかに大丈夫ではない。
「ちょっと、のぼせてるじゃない!」
リナリーは慌てて彼女を浴槽から出した。
涼しい場所へ座らされても、本人は自分に何が起きたのか分からないらしく、しばらくぼんやりしていた。
少し休んでから帳面を渡してもらうと、
『おみず なのに』 『つかれます』
と力の抜けた文字で書く。
「お水じゃなくて、お湯だからよ」
リナリーが苦笑すると、夢子は浴槽へ疑いの眼差しを向けた。
煮魚にはならない。
それは分かった。
ただ、長く入っていると身体から力を奪われるらしい。
人間はどうして、こんなものへ毎日のように入るのだろう。
結局、初めての入浴は五分も続かなかった。
「夢子は熱いお湯が苦手みたいね。次からは、もっとぬるくしてもらいましょう」
教えられ、素直に頷く。
水は好きでも、お湯は別物。
人間になってから、覚えなければならないことは本当に多い。
脱衣所へ戻ると、今度はリナリーにタオルの使い方を教わった。
身体についた水を拭くものだと一度聞けば、その後はもう迷わない。髪から身体、最後に傷を刺激しないよう足まで丁寧に水気を取った。
「その足は、あとでちゃんと手当てしてもらいましょうね」
医務室へ行くのだという話も覚えていたらしく、夢子はすぐに頷いた。
リナリーは壁際の棚を開け、中に整然と畳まれている衣類から彼女の身体に合いそうなものを選ぶ。
「着替えはここにあるわ。任務で服が駄目になった時なんかに使えるよう、いろんなサイズを置いてあるの。今日はこれを使いましょう」
夢子は差し出された服を受け取り、前後や袖の通し方を一度教えてもらうと、ほとんど迷わず着ることができた。
最後に鏡の前へ立つ。
人間の脚があり、人間の服を着ている。
数日前まで海の底で尾びれを揺らしていた自分が、今は黒の教団の中で、すっかり陸の人間のような姿をしていた。
「うん。サイズもちょうどよさそうね」
鏡越しに少し照れたように笑う夢子を満足そうに眺めていたリナリーだったが、再び足元へ目を落とす。
「このまま裸足で歩かせるわけにもいかないわね」
衣類の棚の下にある収納を開けると、そこにはいくつかの大きさに分けられた簡素な靴が並んでいた。
「傷があるから、少し大きめの柔らかいものにしましょう。医務室までこれを履いていって」
靴。
その言葉は知っている。
人間の足元にあるものだ。
ただ、自分で履いたことは一度もない。
リナリーに教わりながら椅子へ腰を下ろし、まず片方の足を入れる。
足が包まれた。
「…………」
つま先を動かす。
靴も動く。
少し足を上げる。
靴も一緒についてくる。
「…………?」
さらに高く上げ、足先をぶん、と振る。
やはり取れない。
リナリーが堪えきれず笑った。
「ふふっ」
夢子はますます不思議そうにしながら、もう片方にも靴を履く。
両足が包まれた。
立ち上がる。
一歩目。
右脚が妙に高く上がった。
どすん。
二歩目は左脚が大きく持ち上がる。
どすん。
右。
左。
足の先へ何かがくっついている感覚が気になるのか、一歩進むたびに膝を必要以上に上げ、ときどき足先まで振っている。
「夢子、そんなに足を上げなくても大丈夫よ」
そう言われても、次の一歩も大きく上がった。
リナリーは笑いながら隣へ立つ。
「ほら、こう。普通に歩けばいいの。靴は足を守ってくれるものだから、取ろうとしなくて大丈夫」
ゆっくり数歩、いつもの歩き方を見せる。
夢子はその足元をじっと見た。
そして自分も一歩。
今度は高く上げない。
もう一歩。
少しぎこちない。
さらに一歩。
三歩も進む頃には、ほとんど普通に歩いていた。
リナリーが目を丸くする。
「……本当に覚えるのが早いのね」
夢子は少し得意そうに笑うと、帳面を開いた。
『くつ』 『あしを まもる』
「そう。正解」
こくん。
足裏の痛みがなくなったわけではない。
それでも硬い床へ直接触れずに済むだけで、裸足の時よりずっと楽だった。
脱衣所を出る頃には、たった今まで靴を振り落とそうとしていたとは思えないほど普通に歩いている。ただ、ときどき足元を見ては、自分についてくる靴をまだ少し不思議そうに眺めていた。
廊下へ出た途端、夢子は足元ではなく周囲を見回した。
右。
左。
今来た道の向こう。
誰かを探しているのがあまりにも分かりやすく、リナリーはすぐに気づいた。
「神田?」
夢子の顔がぱっと明るくなり、こくんと頷く。
「まだお風呂かもしれないわ。先に医務室へ行きましょう。足を診てもらったら、また会えるから」
少しだけ残念そうな顔をしたものの、行かなければならない場所もきちんと覚えていたらしい。
『いむしつ』
「そう」
夢子は一度だけ神田がいない廊下の向こうを振り返ると、今度は素直にリナリーのあとをついて歩き出した。
覚えたばかりの靴で、初めて向かう場所へ。
足の傷を治してもらうために。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
医務室へ着くと、リナリーは夢子を空いている寝台へ座らせ、近くにいた医療班の女性へ事情を説明した。
「数日前に陸へ上がってから、ずっと裸足で歩いてたみたいなの。さっきお風呂で砂や海水は落としたんだけど」
「数日間?」
医療班の女性は驚いたように夢子を見たあと、その前へしゃがみ込んだ。
「ちょっと足を見せてね」
言われた夢子は素直に両足を差し出した。
湯上がりできれいになった足には、改めて見ると大小いくつもの擦り傷があった。指の付け根や踵は赤く擦れ、浅く皮膚の剥けた場所もある。
医療班の女性は一通り確認してから、ほっとしたように息をついた。
「深い傷はなさそうね。ほとんど擦り傷と小さな切り傷だから、ちゃんと手当てしておけば大丈夫」
それを聞いて、隣に立っていたリナリーも表情を緩めた。
夢子は二人を見比べる。
大丈夫。
その言葉は分かる。
どうやら、この足はそれほど酷いことにはなっていないらしい。
「少し沁みるけど、我慢してね」
薬を含ませた布が傷へ触れた途端、ぴりっとした刺激が走り、夢子の肩が小さく跳ねた。
「痛い?」
少し迷ってから、こくん。
それでも足を引っ込めることはなく、大人しく処置を受ける。
「"陸に上がった"って、それまでは海にいたの? 海で何の仕事をしてたの?」
「えっ」
考えてみれば当然の疑問だった。
数日前まで海にいた。
そこだけ聞けば、船に乗っていたのか、海辺で何か仕事をしていたのかと考えるだろう。
だが、本当のことをどこまで話していいのか、リナリーにはまだ分からない。
人魚が実在し、その彼女が現在教団にいることを、コムイがどの範囲まで共有するつもりなのかも聞いていなかった。
「えっと……これ、言っていいのかな……」
思わず小さく呟く。
「何?」
「ううん、何でもないの」
リナリーは一瞬迷ったあと、にこりと笑った。
「ええ……少し、任務を手伝ってもらって」
「任務?」
「そう。その時に色々あって、陸に上がることになったの」
我ながら随分曖昧な説明だった。
それでも、まったくの嘘というわけではない。
半年前、任務中に海へ落ちた神田を助けたのは夢子だ。彼女がいなければ、あの時どうなっていたか分からない。
少なくとも、任務を手伝ってもらったという部分だけなら間違ってはいない。
「ふうん。そうだったのね」
医療班の女性は深く追及することもなく、再び夢子の足へ視線を戻した。
その隣で夢子は、二人の会話をよく分からないまま聞いていた。
任務。
その言葉は知っているけど、教団で言う任務とは何か知らない。
覚えるように口の形だけで何度か繰り返していると、それに気づいたリナリーが少し困ったように笑った。
「その言葉は、あとで説明するわね」
夢子はこくんと頷いた。
一つずつ傷を消毒し、大きめの擦り傷へ絆創膏を貼り終えると、医療班の女性は棚から小さな塗り薬と、何枚かの新しい絆創膏を取り出した。
「はい。今日はこっちで手当てしておいたから、もう何もしなくて大丈夫。これは明日から使ってね」
夢子は差し出された小さな容器を両手で受け取った。
「朝でも夜でもいいから、一日一回、傷をきれいにしてから薄く塗ること。絆創膏が汚れたり剥がれたりしたら、新しいものに替えてね」
真剣な顔で説明を聞いた夢子は、確認するように帳面を開いた。
『あしたから ぬる』
「そう」
さらに、
『よごれたら かえる』
「うん。それで大丈夫よ」
一度聞いただけで理解したらしい。
「ポケットにしまうといいわ」
と、リナリーが自身の服のポケットをパンパンと叩き、夢子にポケットの位置を示した。
夢子は薬と絆創膏を見つめたあと、リナリーに言われた通りに失くさないように着替えたばかりの服のポケットへ丁寧にしまった。
「それと、傷が治るまではなるべく裸足で歩かないこと。」
こくん。
夢子は嬉しそうに足元を見た。
先ほど覚えたばかりの靴は、もうすっかり普通に履けている。
「覚えるの早いのよ、この子」
リナリーが笑いながら言うと、夢子は少しだけ得意そうに胸を張った。
「じゃあ、これで終わり。痛みが酷くなったり、傷が腫れたりしたらまた来てね」
最後の言葉もしっかり聞き、夢子はこくんと頷くと、寝台から立ち上がった。
医務室を出る頃には、もう足を引きずることもなくなっていた。
傷が治ったわけではない。
ただ、靴が足を守ってくれているということを、夢子は今日ひとつ覚えたのだった。
つづく、2026/08/21 。
夢子が靴を履くシーンは、飼い犬が初めて靴を履いた時の様子を真似しました(´>∀<`)ゝ
リナリーに手を引かれ、夢子は何度か後ろを振り返りながら科学班を離れた。
神田の姿が廊下の向こうへ見えなくなってからも、まだ少し気になるのか、時折そちらへ視線を向けている。
そんな様子に気づいたリナリーは、隣を歩きながら小さく笑った。
「神田なら大丈夫よ。お風呂が終わったら、また会えるから」
心の内を見透かされたようで、夢子は少し恥ずかしくなりながらも、こくんと頷いた。
やがて女性用の浴室へ辿り着くと、リナリーはまず脱衣所へ彼女を案内した。壁際には籠や棚が並び、その向こうには浴室へ続く扉がある。
「ここで服を脱いでから、お風呂に入るのよ。脱いだものは、その籠に入れておけば大丈夫」
夢子は説明された通り、自分の身体へ張りついている服へ手をかけた。
陸へ上がってからずっと着たままだった服は海水を吸って重く、砂や汚れもついている。
それをようやく脱ぎ終え、籠へ入れようとした時だった。
「……ちょっと待って」
それまで柔らかかったリナリーの声が、僅かに変わった。
夢子が顔を上げると、リナリーは夢子の足元を見ていた。
「その足……どうしたの?」
言われて、夢子も自分の足を見る。
足裏から踵、指の付け根まで、あちこちが赤く擦れている。浅い切り傷もいくつかあり、すでに乾いているものの、中には血の滲んだ跡まで残っていた。
陸へ上がってから毎日見ていた足なので、夢子自身は今さら驚くこともない。
そんな彼女とは反対に、リナリーは眉を寄せてしゃがみ込んだ。
「これ、ずっとこのままだったの?」
こくん。
「いつ怪我したの?」
夢子は帳面を開き、
『りくに きてから』
と書いた。
「陸へ来てから……?」
続けて、
『かんださんを さがして』 『あるきました』
と書く。
リナリーはその文字を読んだあと、もう一度傷だらけの足を見た。
「まさか、ずっと裸足で?」
こくん。
「それで神田におぶわれてたのね」
その言葉に、夢子の頬が少しだけ赤くなった。
リナリーは気づいたものの何も言わず、今度は傷の具合を確かめるように足元を覗き込む。
「神田もこれを見たの?」
『あし みせろって』 『それから おんぶ』
「そう……」
なるほど、とリナリーは納得した。
神田が女性を背負って教団へ戻ってきたと聞けば、事情を知らない者は驚くだろう。だが、この足を見れば理由は明らかだった。
「とりあえず、海水と砂をきれいに落としましょう。そのあと医務室でちゃんと診てもらった方がいいわ」
医務室。
また知らない言葉が出てきて、夢子が首を傾げる。
「怪我をした人を診てもらう場所よ。傷も手当てしてもらえるから」
説明されるとすぐに理解し、こくんと頷いた。
「少し沁みるかもしれないけど、我慢できる?」
もう一度、こくん。
リナリーから大きな布を渡されると、今度はそれを不思議そうに眺めた。
「それはタオル。お風呂から上がったあと、身体を拭くの」
タオル。
本で見た覚えはある。
夢子は物珍しそうに手触りを確かめてから、大切そうに畳んで置いた。
準備を終えて浴室へ入った途端、今度は目を丸くする。
人間の建物の中に、たくさんの水がある。
海とは比べものにならないほど小さいとはいえ、大きな浴槽いっぱいに水が溜まり、その表面から白い煙のようなものがゆらゆらと立ち上っている。
「いきなりあそこへ入るんじゃないのよ。まず髪と身体を洗うの」
リナリーが蛇口を捻ると、何もないところから水が勢いよく流れ出した。
「…………!」
夢子の目が輝く。
蛇口を見る。
水を見る。
もう一度蛇口を見る。
リナリーが閉めると止まる。
また開けば出る。
「気になる?」
こくこく。
「あとで好きなだけ見ていいから、先に洗いましょう」
少し名残惜しそうに蛇口から離れた夢子へ、リナリーは石鹸や髪を洗うものの使い方も一つずつ教えていった。
足を洗う時だけは慎重に、傷へ直接強く触れないよう海水や砂を流していく。やはり凄く沁みたらしく、夢子は何度か眉を寄せたものの、途中で嫌がることはなかった。
そして、一度説明されたことはすぐに覚えるらしく、最初こそリナリーの手元をじっと見ていたものの、二度目にはもう自分で同じように扱っている。
「覚えるのが早いのね」
褒められ、夢子は少し得意そうに笑った。
どうにか海水を洗い流し終えたところで、リナリーが大きな浴槽を示した。
「身体を洗ったら、最後にあそこへ入るの」
水へ身体を浸すことなら、生まれてからずっとしてきた。
夢子は何の警戒もなく近づいたものの、水面から立ち上る白い湯気を見て、ふと足を止める。
「…………?」
「今日は少し熱めね」
リナリーが何気なく手を入れる。
熱い。
その言葉に夢子は瞬きをすると、同じように恐る恐る指先を入れた。
「…………!」
次の瞬間、びくりと身体を跳ねさせ、猛烈な勢いで手を引っ込めた。
「熱かった?」
こくこくこく。
夢子は湯船を指さし、そのまま強く首を横へ振った。
入れない。
これは、自分の知っている水ではない。
「大丈夫よ。このくらいなら普通のお風呂だから」
普通と言われても、海でこれほど温かい水の中へ入ったことなどない。
しばらく浴槽を警戒するように見ていた夢子は、突然何かを思いついたように脱衣所へ戻り、濡らさないよう置いていた帳面を持ってくると、真剣な顔で鉛筆を走らせた。
『はいったら』
一度手を止め、その下へ、
『にざかなに なります』
と書く。
「…………」
リナリーは帳面を見た。
それから夢子を見る。
冗談を言っている顔ではない。
「……煮魚?」
こくん。
「ならないわよ!?」
それでも夢子は半信半疑だった。
熱い水。
自分。
つい数日前まで魚の尾を持っていた身体。
どう考えても危険な組み合わせに思える。
「本当に大丈夫。人間はみんなお風呂に入るのよ。私だって毎日入ってるわよ?」
そう言われ、夢子はリナリーをじっと観察した。
確かに煮えていない。
しばらく考え、
『ほんとうに?』
と書く。
「本当よ」
リナリーが笑うと、ようやく少し警戒を解いた。
ただ、足には傷がある。
いきなり熱い湯へ浸けるのはつらいだろうと、リナリーが水を足して温度を下げてやると、夢子は少し離れたところから真剣な顔でその様子を見守った。
「これならどう?」
まず指。
次に手。
問題がないことを確認し、今度は片足を恐る恐る入れる。
「……っ」
やはり傷には少し沁みるらしい。
「痛い?」
夢子は少し迷ってから、小さく頷いた。
「無理そうなら入らなくていいのよ」
そう言われた途端、夢子は浴槽とリナリーを見比べた。
怖い。
痛い。
しかし、煮魚にならないというのが本当なのかも確かめたい。
少し考えた末、もう一度足を入れる。
今度はゆっくり。
もう片方。
腰、胸元と慎重に身体を沈め、最後には肩まで浸かった。
「…………」
緊張したまま、自分の腕を見る。
脚を見る。
指も確かめる。
どこも煮えていない。
身体から美味しそうな匂いがすることもない。
数秒経っても無事だと分かると、ようやく力を抜き、湯船の縁へ背中を預けた。
温かい。
最初は恐ろしかったものの、慣れてしまえば悪くない。
海とはまったく違う温かさが身体を包み、ずっと歩き続けて疲れていた脚までほぐれていくようだった。
その顔を見たリナリーが笑う。
「だから煮魚にはならないって言ったでしょう?」
夢子は少し恥ずかしくなり、頬を膨らませた。
ところが、それから数分もしないうちだった。
先ほどまで気持ちよさそうにしていた夢子の動きが、だんだん鈍くなっていく。頬は真っ赤になり、身体も少しずつ沈み始め、ついには浴槽の縁へ顎を乗せた。
「夢子?」
呼ばれ、ゆっくり顔を上げる。
明らかに大丈夫ではない。
「ちょっと、のぼせてるじゃない!」
リナリーは慌てて彼女を浴槽から出した。
涼しい場所へ座らされても、本人は自分に何が起きたのか分からないらしく、しばらくぼんやりしていた。
少し休んでから帳面を渡してもらうと、
『おみず なのに』 『つかれます』
と力の抜けた文字で書く。
「お水じゃなくて、お湯だからよ」
リナリーが苦笑すると、夢子は浴槽へ疑いの眼差しを向けた。
煮魚にはならない。
それは分かった。
ただ、長く入っていると身体から力を奪われるらしい。
人間はどうして、こんなものへ毎日のように入るのだろう。
結局、初めての入浴は五分も続かなかった。
「夢子は熱いお湯が苦手みたいね。次からは、もっとぬるくしてもらいましょう」
教えられ、素直に頷く。
水は好きでも、お湯は別物。
人間になってから、覚えなければならないことは本当に多い。
脱衣所へ戻ると、今度はリナリーにタオルの使い方を教わった。
身体についた水を拭くものだと一度聞けば、その後はもう迷わない。髪から身体、最後に傷を刺激しないよう足まで丁寧に水気を取った。
「その足は、あとでちゃんと手当てしてもらいましょうね」
医務室へ行くのだという話も覚えていたらしく、夢子はすぐに頷いた。
リナリーは壁際の棚を開け、中に整然と畳まれている衣類から彼女の身体に合いそうなものを選ぶ。
「着替えはここにあるわ。任務で服が駄目になった時なんかに使えるよう、いろんなサイズを置いてあるの。今日はこれを使いましょう」
夢子は差し出された服を受け取り、前後や袖の通し方を一度教えてもらうと、ほとんど迷わず着ることができた。
最後に鏡の前へ立つ。
人間の脚があり、人間の服を着ている。
数日前まで海の底で尾びれを揺らしていた自分が、今は黒の教団の中で、すっかり陸の人間のような姿をしていた。
「うん。サイズもちょうどよさそうね」
鏡越しに少し照れたように笑う夢子を満足そうに眺めていたリナリーだったが、再び足元へ目を落とす。
「このまま裸足で歩かせるわけにもいかないわね」
衣類の棚の下にある収納を開けると、そこにはいくつかの大きさに分けられた簡素な靴が並んでいた。
「傷があるから、少し大きめの柔らかいものにしましょう。医務室までこれを履いていって」
靴。
その言葉は知っている。
人間の足元にあるものだ。
ただ、自分で履いたことは一度もない。
リナリーに教わりながら椅子へ腰を下ろし、まず片方の足を入れる。
足が包まれた。
「…………」
つま先を動かす。
靴も動く。
少し足を上げる。
靴も一緒についてくる。
「…………?」
さらに高く上げ、足先をぶん、と振る。
やはり取れない。
リナリーが堪えきれず笑った。
「ふふっ」
夢子はますます不思議そうにしながら、もう片方にも靴を履く。
両足が包まれた。
立ち上がる。
一歩目。
右脚が妙に高く上がった。
どすん。
二歩目は左脚が大きく持ち上がる。
どすん。
右。
左。
足の先へ何かがくっついている感覚が気になるのか、一歩進むたびに膝を必要以上に上げ、ときどき足先まで振っている。
「夢子、そんなに足を上げなくても大丈夫よ」
そう言われても、次の一歩も大きく上がった。
リナリーは笑いながら隣へ立つ。
「ほら、こう。普通に歩けばいいの。靴は足を守ってくれるものだから、取ろうとしなくて大丈夫」
ゆっくり数歩、いつもの歩き方を見せる。
夢子はその足元をじっと見た。
そして自分も一歩。
今度は高く上げない。
もう一歩。
少しぎこちない。
さらに一歩。
三歩も進む頃には、ほとんど普通に歩いていた。
リナリーが目を丸くする。
「……本当に覚えるのが早いのね」
夢子は少し得意そうに笑うと、帳面を開いた。
『くつ』 『あしを まもる』
「そう。正解」
こくん。
足裏の痛みがなくなったわけではない。
それでも硬い床へ直接触れずに済むだけで、裸足の時よりずっと楽だった。
脱衣所を出る頃には、たった今まで靴を振り落とそうとしていたとは思えないほど普通に歩いている。ただ、ときどき足元を見ては、自分についてくる靴をまだ少し不思議そうに眺めていた。
廊下へ出た途端、夢子は足元ではなく周囲を見回した。
右。
左。
今来た道の向こう。
誰かを探しているのがあまりにも分かりやすく、リナリーはすぐに気づいた。
「神田?」
夢子の顔がぱっと明るくなり、こくんと頷く。
「まだお風呂かもしれないわ。先に医務室へ行きましょう。足を診てもらったら、また会えるから」
少しだけ残念そうな顔をしたものの、行かなければならない場所もきちんと覚えていたらしい。
『いむしつ』
「そう」
夢子は一度だけ神田がいない廊下の向こうを振り返ると、今度は素直にリナリーのあとをついて歩き出した。
覚えたばかりの靴で、初めて向かう場所へ。
足の傷を治してもらうために。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
医務室へ着くと、リナリーは夢子を空いている寝台へ座らせ、近くにいた医療班の女性へ事情を説明した。
「数日前に陸へ上がってから、ずっと裸足で歩いてたみたいなの。さっきお風呂で砂や海水は落としたんだけど」
「数日間?」
医療班の女性は驚いたように夢子を見たあと、その前へしゃがみ込んだ。
「ちょっと足を見せてね」
言われた夢子は素直に両足を差し出した。
湯上がりできれいになった足には、改めて見ると大小いくつもの擦り傷があった。指の付け根や踵は赤く擦れ、浅く皮膚の剥けた場所もある。
医療班の女性は一通り確認してから、ほっとしたように息をついた。
「深い傷はなさそうね。ほとんど擦り傷と小さな切り傷だから、ちゃんと手当てしておけば大丈夫」
それを聞いて、隣に立っていたリナリーも表情を緩めた。
夢子は二人を見比べる。
大丈夫。
その言葉は分かる。
どうやら、この足はそれほど酷いことにはなっていないらしい。
「少し沁みるけど、我慢してね」
薬を含ませた布が傷へ触れた途端、ぴりっとした刺激が走り、夢子の肩が小さく跳ねた。
「痛い?」
少し迷ってから、こくん。
それでも足を引っ込めることはなく、大人しく処置を受ける。
「"陸に上がった"って、それまでは海にいたの? 海で何の仕事をしてたの?」
「えっ」
考えてみれば当然の疑問だった。
数日前まで海にいた。
そこだけ聞けば、船に乗っていたのか、海辺で何か仕事をしていたのかと考えるだろう。
だが、本当のことをどこまで話していいのか、リナリーにはまだ分からない。
人魚が実在し、その彼女が現在教団にいることを、コムイがどの範囲まで共有するつもりなのかも聞いていなかった。
「えっと……これ、言っていいのかな……」
思わず小さく呟く。
「何?」
「ううん、何でもないの」
リナリーは一瞬迷ったあと、にこりと笑った。
「ええ……少し、任務を手伝ってもらって」
「任務?」
「そう。その時に色々あって、陸に上がることになったの」
我ながら随分曖昧な説明だった。
それでも、まったくの嘘というわけではない。
半年前、任務中に海へ落ちた神田を助けたのは夢子だ。彼女がいなければ、あの時どうなっていたか分からない。
少なくとも、任務を手伝ってもらったという部分だけなら間違ってはいない。
「ふうん。そうだったのね」
医療班の女性は深く追及することもなく、再び夢子の足へ視線を戻した。
その隣で夢子は、二人の会話をよく分からないまま聞いていた。
任務。
その言葉は知っているけど、教団で言う任務とは何か知らない。
覚えるように口の形だけで何度か繰り返していると、それに気づいたリナリーが少し困ったように笑った。
「その言葉は、あとで説明するわね」
夢子はこくんと頷いた。
一つずつ傷を消毒し、大きめの擦り傷へ絆創膏を貼り終えると、医療班の女性は棚から小さな塗り薬と、何枚かの新しい絆創膏を取り出した。
「はい。今日はこっちで手当てしておいたから、もう何もしなくて大丈夫。これは明日から使ってね」
夢子は差し出された小さな容器を両手で受け取った。
「朝でも夜でもいいから、一日一回、傷をきれいにしてから薄く塗ること。絆創膏が汚れたり剥がれたりしたら、新しいものに替えてね」
真剣な顔で説明を聞いた夢子は、確認するように帳面を開いた。
『あしたから ぬる』
「そう」
さらに、
『よごれたら かえる』
「うん。それで大丈夫よ」
一度聞いただけで理解したらしい。
「ポケットにしまうといいわ」
と、リナリーが自身の服のポケットをパンパンと叩き、夢子にポケットの位置を示した。
夢子は薬と絆創膏を見つめたあと、リナリーに言われた通りに失くさないように着替えたばかりの服のポケットへ丁寧にしまった。
「それと、傷が治るまではなるべく裸足で歩かないこと。」
こくん。
夢子は嬉しそうに足元を見た。
先ほど覚えたばかりの靴は、もうすっかり普通に履けている。
「覚えるの早いのよ、この子」
リナリーが笑いながら言うと、夢子は少しだけ得意そうに胸を張った。
「じゃあ、これで終わり。痛みが酷くなったり、傷が腫れたりしたらまた来てね」
最後の言葉もしっかり聞き、夢子はこくんと頷くと、寝台から立ち上がった。
医務室を出る頃には、もう足を引きずることもなくなっていた。
傷が治ったわけではない。
ただ、靴が足を守ってくれているということを、夢子は今日ひとつ覚えたのだった。
つづく、2026/08/21 。
夢子が靴を履くシーンは、飼い犬が初めて靴を履いた時の様子を真似しました(´>∀<`)ゝ