マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第8話。
室長室を出たあと、神田は夢子を連れて自室へ向かった。
教団へ着いてからというもの、夢子は見るものすべてが珍しいらしく、廊下を歩いている間も壁に掛けられた時計や行き交う職員、階段の向こうに見える別の通路へ何度も視線を奪われていた。
そのたびに神田との距離が少し開き、気づいては慌てて追いつくことを繰り返している。
やがて神田が一つの扉の前で足を止め、鍵を開けた。
「ここだ。入れ」
促され、夢子はおそるおそる中を覗き込んだ。
ここが神田の部屋なのだと思った途端、先ほどまで何の抵抗もなく後ろをついてきた足が、なぜか少しだけ入りづらくなる。
今日からしばらく、自分もここで暮らすのだ。
「何してんだ」
すでに部屋へ入っていた神田に呼ばれ、夢子は我に返ると、ぺこりと頭を下げるようにして室内へ足を踏み入れた。
部屋は思っていた以上に簡素だった。
必要な家具は一通り揃っているものの、装飾品らしいものはほとんどなく、置かれている物もきちんと整理されている。
神田が毎日ここで眠り、目を覚まし、任務のない時間を過ごしているのだと思えば、何でもない家具まで興味深く見えた。
夢子が珍しそうに室内を見回していると、その視線が部屋の一角で止まった。
そこには、大きな砂時計にも似た形の特殊な装置が置かれていた。
透明な容器の内部は澄んだ液体で満たされ、その中には一輪の花が静かに浮かんでいる。
「…………」
夢子は思わず足を止めた。
花そのものなら知っている。
浜辺の近くや、海面から陸を眺めた時にも何度か見たことがあった。
だが、目の前にある花は夢子の知っているどの花とも形が違う。
幾重にも重なる大きな花びらを持ち、それが透明な液体の中で、まるでそこが本来の居場所であるかのように静かに浮かんでいた。
なぜ、花が水の中にあるのだろう。
陸に咲くものは、水の中へ沈めれば長くは保たないはずなのに、この花には萎れている様子がない。
それどころか、周囲を特殊な装置で囲われ、大切に守られているように見えた。
何なのだろうと興味を引かれ、夢子が透明な容器へそっと手を伸ばしたところで、背後から低い声が飛んできた。
「触るな」
夢子の指がぴたりと止まった。
振り返ると、神田がこちらを見ていた。怒鳴られたわけではない。
ただ、先程までとは違う硬い声音だったため、夢子はすぐに手を引っ込めて頷いた。
「それは触んな」
もう一度念を押され、夢子は蓮と神田を交互に見たあと、少し距離を取った。
これがなんなのか凄く気になる。
それでも、今の神田の顔を見れば、むやみに触れたり問い詰めたりしてはいけないものだということくらいは分かった。
神田も、それ以上説明しようとはしなかった。
夢子が素直に離れたことだけを確認すると、濡れた襟元へ指をかけ、ひどく鬱陶しそうに顔をしかめる。
「……気持ち悪りぃな」
海から上がってかなり時間が経っているため、服は半端に乾き始めていた。
そのせいで海水の塩気が肌へまとわりつき、濡れている時以上にべたついている。
人魚だった頃は、身体が海水に濡れていることなど気にしたこともなかった夢子も、人間の服を着ている今は同じだった。
水を吸った布は重く、冷たいうえに肌へ張りついて気持ちが悪い。
神田は耐えかねたように上着を脱ぐと、続けてその下の服にも手をかけた。
夢子は最初こそ何となくその様子を見ていたものの、神田が濡れた服を頭から引き抜こうとしたところで、ようやく何をしているのか理解した。
「…………!」
ぼっと頬が赤くなり、慌てて顔を横へ向ける。
その動きに気づいた神田は怪訝そうに夢子を見た。
「何だ」
夢子は首をぶんぶん横へ振った。
何でもない。何でもないが、そちらは見られない。
神田はしばらく意味が分からないという顔をしていたが、やがて彼女の濡れた服へ視線を落とした。
「お前も気持ち悪りぃだろ」
夢子は顔を逸らしたまま、こくんと頷く。
「なら脱げ」
今度は完全に固まった。
ゆっくり神田へ顔を戻し、目を丸くしたまま見つめる。
神田も何が問題なのか分からず見返していたが、夢子が両手で胸元を押さえ、耳まで赤くしているのを見て、ようやく察したらしい。
「…………あ」
(そういやこいつ、女だった)
そんなことは初めから知っている。
見れば分かるし、コムイにも同室にすることで散々余計な釘を刺されたばかりだ。
それでも神田の中では、今日一日ずっと、夢子は海から陸へ出てきたばかりの世間知らずで、放っておけば何をするか分からない面倒な奴という認識が先に立っていた。
魔女の契約だの泡だの住む場所だのと次々に問題が起こり、その処理に追われていたせいもあり、着替えや風呂の段階になって初めて、男女で同じようにはいかないという当たり前の問題にぶつかったのだ。
神田は脱ぎかけていた服を戻し、濡れた髪をがしがしと掻いた。
「……そっか」
夢子はまだ赤い顔のまま、神田をちらりと見る。
神田はしばらく黙って考えていた。
自分ならこのまま風呂へ行って着替えれば済む。
しかし夢子は、人間の風呂を使ったことがない可能性が高い。
服だって今着ている一着しかなく、当然ながら着替えも持っていない。
「…………」
どうするか。
数秒考えた末、神田は答えを出したらしく扉へ向かった。
「来い」
夢子は首を傾げたものの、すぐにそのあとを追った。
部屋を出た神田は、濡れた前髪を掻き上げながら廊下を進む。
「リナを探す」
その名前を聞いた瞬間、夢子の足が僅かに止まった。
リナ。
その名前なら知っている。
半年前、嵐の海から神田を浜辺まで運んだ時、遠くから彼の名を呼んで駆け寄ってきた女性。
そして今日も神田のそばにいて、一時は恋人なのだと勘違いしてしまった相手だった。
もちろん、今は違うと分かっている。
それでも、これから本人と顔を合わせるのだと思うと妙に緊張した。
数歩先まで進んでいた神田が振り返る。
「何だ」
夢子は慌てて首を横へ振った。
「なら来い」
こくんと頷き、再び神田の後ろにつく。
途中で何人かの職員に尋ねたところ、リナリーは科学班の区画にいるらしく、二人はそのままそちらへ向かった。
科学班へ近づくにつれ、周囲は一気に騒がしくなっていった。
白衣を着た人々が慌ただしく行き交い、机の上や棚には用途の分からない器具が並び、見たこともない機械が音を立てて動いている。
夢子は歩きながら右を見て、左を見て、また右を見る。
気になるものばかりだった。
一つの器具が目に入り、何だろうと無意識に手を伸ばしかけたところで、神田が横から言った。
「触るなよ」
夢子はすぐに手を引っ込めた。
こくん。
神田はそれだけ確認すると、また歩き出す。
やがて奥に目的の人物を見つけたらしく、足を止めた。
「リナ」
呼ばれた女性が振り返る。
長い黒髪に、整った顔立ち。
半年前にも、今日の昼間にも見た女性だった。
夢子の背筋が思わず伸びる。
「あら、神田」
リナリーは神田へ近づきながら、その後ろに見知らぬ女がいることに気づいた。
「……その子は?」
「夢子」
神田が自分の名前を口にしたため、夢子は一瞬だけ目を瞬いた。
それが少し嬉しくなった直後、神田があっさり続けた。
「人魚だ」
「…………」
リナリーが固まった。
「え?」
「人魚」
「……この子が?」
「ああ。元は尾びれがあった。魔女に声渡して脚もらった」
あまりにも簡潔な説明だった。
リナリーは夢子の顔を見たあと、二本の脚へ視線を落とし、もう一度神田を見る。
「待って。全然分からないんだけど」
「本人に聞け」
「どうやって?」
「筆談できる」
それだけ言うと、神田は夢子を見る。
「挨拶しろ」
夢子ははっとし、慌てて帳面を取り出した。
リナリーの前でページを開き、少し緊張しながら幼い字で書いていく。
『夢子です。こんにちは』
それを読んだリナリーの表情が柔らかくなった。
「こんにちは、夢子。私はリナリー・リーよ」
夢子はこくんと頷いた。
知っています、と書こうか迷っていると、神田が先に口を開いた。
「半年前、俺を海から引っ張り上げたのもこいつだ」
「え?」
リナリーの目が大きくなる。
「あの時の?」
夢子はこくこくと頷いた。
「あなたが神田を助けてくれたの?」
もう一度頷くと、リナリーは驚きながらも嬉しそうに表情をほころばせた。
「やっぱり誰かいたのね。私が浜へ着いた時には、神田はもう海から上がっていたから、誰かが助けてくれたんだと思ってたの」
その言葉を聞き、夢子は少しだけ目を伏せた。
半年前、岩陰から二人を見ていた時、神田はリナリーが助けたのだと思い込んだ。
今日もまた二人を見ただけで恋人だと勘違いし、勝手に失恋して泡になる覚悟までした。
思い返すほど、恥ずかしくなる。
「ありがとう、夢子。神田を助けてくれて」
リナリーに微笑まれ、夢子は慌てて首を横へ振った。
沈んでいたから助けただけ。
そう伝えたいのに、今の自分の語彙ではうまく文章にできない。帳面を前に困っていると、神田が話を切り替えた。
「リナ」
「何?」
「こいつの風呂を頼む」
「……お風呂?」
「海水でべたべただ」
そう言われて初めて、リナリーは二人の姿を改めて見た。
神田も夢子も髪から服まで濡れたままで、半端に乾いた海水のせいで見るからに気持ちが悪そうだった。
「二人とも、どうしてこんなことになってるの?」
「海潜った」
「今日?」
「ああ」
「何しに?」
「魔女んとこ」
リナリーは数秒黙ったあと、深く息を吐いた。
「……その話、あとで最初から聞かせて」
「面倒くせぇ」
「神田」
「…………」
神田は答えなかった。
リナリーはそれ以上追及せず、夢子へ向き直った。
「とりあえず、お風呂に行きましょう。綺麗にしないとね」
神田が横から付け足す。
「こいつ、人間の風呂知らねぇと思う」
夢子は少し考えたあと、正直に頷いた。
風呂という言葉自体は本で覚えたことがある。しかし、実際にどんな場所で、どうやって使うのかは知らない。
「じゃあ私が教えるわ」
リナリーはそう言って、自然に手を差し出した。
「おいで」
夢子は差し出された手を見たあと、反射的に神田を見た。
「…………」
神田の眉が僅かに寄る。
「何で俺を見る」
行ってもいいのだろうか。
そんな顔をしている夢子に、神田は短く言った。
「行ってこい」
それを聞いた途端、夢子は安心したように頷き、リナリーの手を取った。
その様子を見ていたリナリーが少し驚いたように笑う。
「ずいぶん神田のことを信用してるのね」
夢子は迷うことなく、こくんと頷いた。
「余計なこと言うな」
神田が不機嫌そうに返す。
「いいことじゃない」
「おい…」
リナリーは小さく笑うと、夢子の手を引いて歩き始めた。
数歩進んだところで、夢子は一度だけ振り返った。
神田はまだ同じ場所に立っている。
目が合うと、神田は顎で前を示した。
行け。
そう言われたのだと分かり、夢子は小さく頷いてリナリーへ向き直った。
二人の姿が廊下の向こうへ消えるまで見届けると、神田はようやく濡れた髪を掻き上げた。
自分もさっさと風呂へ行こうと踵を返しかけたところで、ふと自室の蓮が頭に浮かんだ。
夢子は、触るなと言えばすぐに手を引いた。何なのかとしつこく聞くこともなく、それ以上近づきもしなかった。
少なくとも、勝手に弄るような奴ではないらしい。
それだけ確認できれば十分だった。
神田はそれ以上考えることなく、濡れた服の不快感に眉を寄せながら廊下を歩き出した。
つづく、2026/08/20
室長室を出たあと、神田は夢子を連れて自室へ向かった。
教団へ着いてからというもの、夢子は見るものすべてが珍しいらしく、廊下を歩いている間も壁に掛けられた時計や行き交う職員、階段の向こうに見える別の通路へ何度も視線を奪われていた。
そのたびに神田との距離が少し開き、気づいては慌てて追いつくことを繰り返している。
やがて神田が一つの扉の前で足を止め、鍵を開けた。
「ここだ。入れ」
促され、夢子はおそるおそる中を覗き込んだ。
ここが神田の部屋なのだと思った途端、先ほどまで何の抵抗もなく後ろをついてきた足が、なぜか少しだけ入りづらくなる。
今日からしばらく、自分もここで暮らすのだ。
「何してんだ」
すでに部屋へ入っていた神田に呼ばれ、夢子は我に返ると、ぺこりと頭を下げるようにして室内へ足を踏み入れた。
部屋は思っていた以上に簡素だった。
必要な家具は一通り揃っているものの、装飾品らしいものはほとんどなく、置かれている物もきちんと整理されている。
神田が毎日ここで眠り、目を覚まし、任務のない時間を過ごしているのだと思えば、何でもない家具まで興味深く見えた。
夢子が珍しそうに室内を見回していると、その視線が部屋の一角で止まった。
そこには、大きな砂時計にも似た形の特殊な装置が置かれていた。
透明な容器の内部は澄んだ液体で満たされ、その中には一輪の花が静かに浮かんでいる。
「…………」
夢子は思わず足を止めた。
花そのものなら知っている。
浜辺の近くや、海面から陸を眺めた時にも何度か見たことがあった。
だが、目の前にある花は夢子の知っているどの花とも形が違う。
幾重にも重なる大きな花びらを持ち、それが透明な液体の中で、まるでそこが本来の居場所であるかのように静かに浮かんでいた。
なぜ、花が水の中にあるのだろう。
陸に咲くものは、水の中へ沈めれば長くは保たないはずなのに、この花には萎れている様子がない。
それどころか、周囲を特殊な装置で囲われ、大切に守られているように見えた。
何なのだろうと興味を引かれ、夢子が透明な容器へそっと手を伸ばしたところで、背後から低い声が飛んできた。
「触るな」
夢子の指がぴたりと止まった。
振り返ると、神田がこちらを見ていた。怒鳴られたわけではない。
ただ、先程までとは違う硬い声音だったため、夢子はすぐに手を引っ込めて頷いた。
「それは触んな」
もう一度念を押され、夢子は蓮と神田を交互に見たあと、少し距離を取った。
これがなんなのか凄く気になる。
それでも、今の神田の顔を見れば、むやみに触れたり問い詰めたりしてはいけないものだということくらいは分かった。
神田も、それ以上説明しようとはしなかった。
夢子が素直に離れたことだけを確認すると、濡れた襟元へ指をかけ、ひどく鬱陶しそうに顔をしかめる。
「……気持ち悪りぃな」
海から上がってかなり時間が経っているため、服は半端に乾き始めていた。
そのせいで海水の塩気が肌へまとわりつき、濡れている時以上にべたついている。
人魚だった頃は、身体が海水に濡れていることなど気にしたこともなかった夢子も、人間の服を着ている今は同じだった。
水を吸った布は重く、冷たいうえに肌へ張りついて気持ちが悪い。
神田は耐えかねたように上着を脱ぐと、続けてその下の服にも手をかけた。
夢子は最初こそ何となくその様子を見ていたものの、神田が濡れた服を頭から引き抜こうとしたところで、ようやく何をしているのか理解した。
「…………!」
ぼっと頬が赤くなり、慌てて顔を横へ向ける。
その動きに気づいた神田は怪訝そうに夢子を見た。
「何だ」
夢子は首をぶんぶん横へ振った。
何でもない。何でもないが、そちらは見られない。
神田はしばらく意味が分からないという顔をしていたが、やがて彼女の濡れた服へ視線を落とした。
「お前も気持ち悪りぃだろ」
夢子は顔を逸らしたまま、こくんと頷く。
「なら脱げ」
今度は完全に固まった。
ゆっくり神田へ顔を戻し、目を丸くしたまま見つめる。
神田も何が問題なのか分からず見返していたが、夢子が両手で胸元を押さえ、耳まで赤くしているのを見て、ようやく察したらしい。
「…………あ」
(そういやこいつ、女だった)
そんなことは初めから知っている。
見れば分かるし、コムイにも同室にすることで散々余計な釘を刺されたばかりだ。
それでも神田の中では、今日一日ずっと、夢子は海から陸へ出てきたばかりの世間知らずで、放っておけば何をするか分からない面倒な奴という認識が先に立っていた。
魔女の契約だの泡だの住む場所だのと次々に問題が起こり、その処理に追われていたせいもあり、着替えや風呂の段階になって初めて、男女で同じようにはいかないという当たり前の問題にぶつかったのだ。
神田は脱ぎかけていた服を戻し、濡れた髪をがしがしと掻いた。
「……そっか」
夢子はまだ赤い顔のまま、神田をちらりと見る。
神田はしばらく黙って考えていた。
自分ならこのまま風呂へ行って着替えれば済む。
しかし夢子は、人間の風呂を使ったことがない可能性が高い。
服だって今着ている一着しかなく、当然ながら着替えも持っていない。
「…………」
どうするか。
数秒考えた末、神田は答えを出したらしく扉へ向かった。
「来い」
夢子は首を傾げたものの、すぐにそのあとを追った。
部屋を出た神田は、濡れた前髪を掻き上げながら廊下を進む。
「リナを探す」
その名前を聞いた瞬間、夢子の足が僅かに止まった。
リナ。
その名前なら知っている。
半年前、嵐の海から神田を浜辺まで運んだ時、遠くから彼の名を呼んで駆け寄ってきた女性。
そして今日も神田のそばにいて、一時は恋人なのだと勘違いしてしまった相手だった。
もちろん、今は違うと分かっている。
それでも、これから本人と顔を合わせるのだと思うと妙に緊張した。
数歩先まで進んでいた神田が振り返る。
「何だ」
夢子は慌てて首を横へ振った。
「なら来い」
こくんと頷き、再び神田の後ろにつく。
途中で何人かの職員に尋ねたところ、リナリーは科学班の区画にいるらしく、二人はそのままそちらへ向かった。
科学班へ近づくにつれ、周囲は一気に騒がしくなっていった。
白衣を着た人々が慌ただしく行き交い、机の上や棚には用途の分からない器具が並び、見たこともない機械が音を立てて動いている。
夢子は歩きながら右を見て、左を見て、また右を見る。
気になるものばかりだった。
一つの器具が目に入り、何だろうと無意識に手を伸ばしかけたところで、神田が横から言った。
「触るなよ」
夢子はすぐに手を引っ込めた。
こくん。
神田はそれだけ確認すると、また歩き出す。
やがて奥に目的の人物を見つけたらしく、足を止めた。
「リナ」
呼ばれた女性が振り返る。
長い黒髪に、整った顔立ち。
半年前にも、今日の昼間にも見た女性だった。
夢子の背筋が思わず伸びる。
「あら、神田」
リナリーは神田へ近づきながら、その後ろに見知らぬ女がいることに気づいた。
「……その子は?」
「夢子」
神田が自分の名前を口にしたため、夢子は一瞬だけ目を瞬いた。
それが少し嬉しくなった直後、神田があっさり続けた。
「人魚だ」
「…………」
リナリーが固まった。
「え?」
「人魚」
「……この子が?」
「ああ。元は尾びれがあった。魔女に声渡して脚もらった」
あまりにも簡潔な説明だった。
リナリーは夢子の顔を見たあと、二本の脚へ視線を落とし、もう一度神田を見る。
「待って。全然分からないんだけど」
「本人に聞け」
「どうやって?」
「筆談できる」
それだけ言うと、神田は夢子を見る。
「挨拶しろ」
夢子ははっとし、慌てて帳面を取り出した。
リナリーの前でページを開き、少し緊張しながら幼い字で書いていく。
『夢子です。こんにちは』
それを読んだリナリーの表情が柔らかくなった。
「こんにちは、夢子。私はリナリー・リーよ」
夢子はこくんと頷いた。
知っています、と書こうか迷っていると、神田が先に口を開いた。
「半年前、俺を海から引っ張り上げたのもこいつだ」
「え?」
リナリーの目が大きくなる。
「あの時の?」
夢子はこくこくと頷いた。
「あなたが神田を助けてくれたの?」
もう一度頷くと、リナリーは驚きながらも嬉しそうに表情をほころばせた。
「やっぱり誰かいたのね。私が浜へ着いた時には、神田はもう海から上がっていたから、誰かが助けてくれたんだと思ってたの」
その言葉を聞き、夢子は少しだけ目を伏せた。
半年前、岩陰から二人を見ていた時、神田はリナリーが助けたのだと思い込んだ。
今日もまた二人を見ただけで恋人だと勘違いし、勝手に失恋して泡になる覚悟までした。
思い返すほど、恥ずかしくなる。
「ありがとう、夢子。神田を助けてくれて」
リナリーに微笑まれ、夢子は慌てて首を横へ振った。
沈んでいたから助けただけ。
そう伝えたいのに、今の自分の語彙ではうまく文章にできない。帳面を前に困っていると、神田が話を切り替えた。
「リナ」
「何?」
「こいつの風呂を頼む」
「……お風呂?」
「海水でべたべただ」
そう言われて初めて、リナリーは二人の姿を改めて見た。
神田も夢子も髪から服まで濡れたままで、半端に乾いた海水のせいで見るからに気持ちが悪そうだった。
「二人とも、どうしてこんなことになってるの?」
「海潜った」
「今日?」
「ああ」
「何しに?」
「魔女んとこ」
リナリーは数秒黙ったあと、深く息を吐いた。
「……その話、あとで最初から聞かせて」
「面倒くせぇ」
「神田」
「…………」
神田は答えなかった。
リナリーはそれ以上追及せず、夢子へ向き直った。
「とりあえず、お風呂に行きましょう。綺麗にしないとね」
神田が横から付け足す。
「こいつ、人間の風呂知らねぇと思う」
夢子は少し考えたあと、正直に頷いた。
風呂という言葉自体は本で覚えたことがある。しかし、実際にどんな場所で、どうやって使うのかは知らない。
「じゃあ私が教えるわ」
リナリーはそう言って、自然に手を差し出した。
「おいで」
夢子は差し出された手を見たあと、反射的に神田を見た。
「…………」
神田の眉が僅かに寄る。
「何で俺を見る」
行ってもいいのだろうか。
そんな顔をしている夢子に、神田は短く言った。
「行ってこい」
それを聞いた途端、夢子は安心したように頷き、リナリーの手を取った。
その様子を見ていたリナリーが少し驚いたように笑う。
「ずいぶん神田のことを信用してるのね」
夢子は迷うことなく、こくんと頷いた。
「余計なこと言うな」
神田が不機嫌そうに返す。
「いいことじゃない」
「おい…」
リナリーは小さく笑うと、夢子の手を引いて歩き始めた。
数歩進んだところで、夢子は一度だけ振り返った。
神田はまだ同じ場所に立っている。
目が合うと、神田は顎で前を示した。
行け。
そう言われたのだと分かり、夢子は小さく頷いてリナリーへ向き直った。
二人の姿が廊下の向こうへ消えるまで見届けると、神田はようやく濡れた髪を掻き上げた。
自分もさっさと風呂へ行こうと踵を返しかけたところで、ふと自室の蓮が頭に浮かんだ。
夢子は、触るなと言えばすぐに手を引いた。何なのかとしつこく聞くこともなく、それ以上近づきもしなかった。
少なくとも、勝手に弄るような奴ではないらしい。
それだけ確認できれば十分だった。
神田はそれ以上考えることなく、濡れた服の不快感に眉を寄せながら廊下を歩き出した。
つづく、2026/08/20