マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第7話。
空がすっかり暗くなった頃、神田に背負われた夢子は、森を抜けた先に現れた建物を見て思わず息を呑んだ。
「…………」
大きい。
最初に浮かんだ感想は、それだけだった。
夜空を背にして、巨大なレンガ造りの建物がそびえている。左右へ高く伸びた二つの塔に、先端の尖った屋根。壁には縦長の窓が幾つも並び、その向こうから暖かな明かりが漏れていた。
海の底にも大きな建造物はあるし、人間の船が沈み、長い年月をかけて海底の一部になったものも見たことがある。それでも目の前にあるものは、そのどれとも違った。
人間が、自分たちの手で造ったものなのだ。
それが信じられなくて、夢子は神田の背中から建物の一番上を見ようと首を反らした。
高い。
まだ上がある。さらに反らしていると、身体まで後ろへ傾きかけたところで神田から低い声が飛んできた。
「おい、落ちんな」
はっとした夢子は、慌てて神田の肩へ回した腕に力を入れた。
「何してんだ」
夢子は答える代わりに片腕を伸ばして建物を指さし、それから神田の肩越しで両腕を大きく広げようとして、危うくもう一度体勢を崩しかけた。
「暴れんな」
慌てて神田へ掴まり直す。
伝えたかったのは、大きい、ということだけだった。
それを察したのか、神田は目の前の建物を一度見上げた。
「……これが?」
夢子は神田の肩越しに、こくこくと頷いた。
神田にとっては、何がそこまで珍しいのか分からないらしい。
「ああ」
返ってきたのは、それだけだった。
もっと驚いてくれてもいいのにと思い、夢子は神田の背中で少しだけ頬を膨らませたものの、ここが彼の暮らしている場所なら見慣れていて当然なのだろう。
そこで、さっき神田から言われた言葉を思い出した。
『俺がいるとこだ』
夢子は改めて目の前の巨大な建物を見つめた。
ここに神田がいる。ここで眠り、食事をして、毎日を過ごしている。
自分の知らない神田の生活が、あの建物の中にある。
そう思うと、最初は夜の中にそびえる姿が少し恐ろしくさえ見えた建物が、不思議と違うものに見えてきた。
神田のことを、これから知りたい。
砂浜にそう書いたばかりだった。
その第一歩が、ここなのかもしれない。
建物へ近づくにつれ、周囲には人の姿が増えていった。
荷物を抱えて歩く者、白衣を着た者、黒い服を着た者、数人で話しながら外へ出ていく者。誰もが当たり前のように巨大な建物を出入りしている。
人間。
また人間。
こんなに大勢の人間を、一度に間近で見るのは初めてだった。
これまでも海の中から船を見上げたことはあるし、岩陰から遠巻きに眺めたこともある。
それでも、自分が人間たちの中へ入ったことはない。
人の声や足音、扉の開閉する音、それに聞いたことのない道具の音まで一度に押し寄せてきて、夢子は神田の背中から忙しく左右を見回した。
そのうち、自分たちへ向けられる視線にも気づいた。
正確には、自分たちというより――神田に背負われている自分が見られている。
すれ違った男が二度見する。
その隣にいた女も振り返る。
夢子は何となく居心地が悪くなり、神田の背中へ身体を寄せた。
「…………」
神田は何も言わなかった。
周囲からどれだけ見られても気にする様子すらなく、いつもの顔で歩いていく。
その背中へ頬が触れそうなほど近づいたところで、夢子は少しだけ安心した。
知らない場所。
知らない人。
知らないものばかり。
今まで生きてきた海とは、何もかもが違う。
その中で唯一、自分が知っているものが、今こうして身体を預けている男だった。
神田が右へ曲がれば、自分も当然右へ運ばれていく。左へ曲がれば左へ。
自分で歩いているわけでもないのに、夢子は神田の肩越しから一つ一つの道順を覚えようと周囲を見ていた。
しばらくして室長室の前へ辿り着いた時、ちょうど扉を開けて中へ入ろうとしていた一人の女性が、二人の姿に気づいて足を止めた。
腕には何冊ものファイルが抱えられている。
「お戻りだったんですね」
室長秘書のブリジットだった。
「ああ」
神田が短く答えると、ブリジットの視線は当然、その背中にいる見知らぬ女へ移った。
「……そちらの方は?」
夢子の肩が僅かに強張った。
知らない人に見られている。
何と答えればいいのかも分からない。
そもそも声が出ない。
困って神田を見る。
神田は面倒そうに答えた。
「俺の連れだ」
夢子が瞬きをした。
連れ。
その言葉の正確な意味は分からなかったが、どうやら自分のことらしい。
ブリジットは夢子を一度見て、それから濡れたままの二人へ視線を移した。
「室長にご用ですか?」
「こいつのことで話がある」
「分かりました。中にどうぞ」
それだけだった。
ブリジットに続いて室長室へ入ると、神田は来客用のソファーの前まで進み、背中の夢子を下ろすために身体を屈めた。
「降りろ」
夢子は神田の肩からそっと腕を解き、恐る恐る床へ足をつけた。
久しぶりに自分の体重が両足へかかった途端、傷だらけの足裏に鋭い痛みが走り、思わず眉を寄せる。
その表情を横目で見た神田は、彼女の足元へ一度だけ視線を落とした。
「座れ」
夢子はこくんと頷いた。
神田もそのままソファーへ腰を下ろしかけたものの、途中で動きを止めた。
自分の服を見る。
海水を吸ったまま半端に乾き、砂までついている。
次に、同じような姿で立っている夢子を見る。
「…………」
普段なら気にもしない。任務帰りなら、この程度の汚れでいちいち遠慮するような性格でもなかった。
だが、こいつは違う。
人間の生活を何も知らないうえに、言われたことを素直に覚える。
自分が今ここへ座れば、おそらく次から夢子も「濡れていても汚れていても、ソファーには座っていい」と覚える。
神田は僅かに眉を寄せると、結局座るのをやめた。
夢子はその一部始終を不思議そうに見ていた。
「やはり座るな」
夢子はソファーを見たあと、自分の濡れた服を見下ろした。
「汚すだろ」
それだけで意味を理解したらしく、こくんと頷く。
「足痛ェだろうが、我慢しろ」
こくん。
神田はその反応を確認すると、壁際へ移動して腕を組んだ。
夢子も真似をするように神田の隣に立つ。
「……そこまで真似すんな」
夢子が首を傾げた。
神田はもう何も言わなかった。
ブリジットが抱えていたファイルを机の端へ置くと、彼女の方へ向き直った。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
夢子は口を開きかけたものの、当然声は出ない。
その様子を見て、ブリジットはすぐに察したらしい。
「お話しできないんですね」
「声が出ねぇだけだ」
神田が横から答える。
「そうですか」
驚きはしたものの、それ以上は詮索せず、夢子が胸元に抱えていた帳面へ視線を落とした。
「筆談はできますか?」
その言葉なら分かった。
夢子はすぐに頷き、濡れないよう大切に包んでいた帳面を取り出すと、ページを開いて覚えた文字で自分の名前を書いた。
『夢子』
「夢子さんですね。ありがとうございます」
淡々と確認すると、ブリジットは室長へ向き直った。
「室長。神田さんがお戻りです。同行者の夢子さんについて、お話があるそうです」
「ん?」
机いっぱいに書類を広げていたコムイが顔を上げ、まず神田を見たあと、神田の隣の見知らぬ女へ視線を移した。
乾きかけの濡れた髪に、海水を吸った服。そして何より、細かな傷だらけの裸足。
コムイは二人を見比べた。
「……その子、誰?」
「夢子」
夢子が目を瞬いた。
神田が自分の名前を口にした。
ただそれだけで胸の奥が少しくすぐったくなったが、当の神田は何でもない顔で続ける。
「こいつは人魚だ」
「…………」
室長室が静かになった。
コムイはゆっくり瞬きをした。
「今、何て?」
「人魚」
「この子が?」
「ああ」
あまりにも説明が足りないため、コムイが黙って続きを待っていると、神田は面倒そうに、砂浜で出会ってから今に至るまでの経緯を必要なところだけ掻い摘んで説明した。
「……本当に?」
「ああ」
コムイの視線が夢子の頭から足先まで動く。
当然、尾びれなどない。そこにあるのは、人間と変わらない二本の脚だった。
「脚、あるよね」
「魔女と契約したっつーたろ。声と尾びれを渡して、脚をもらった」
「魔女まで実在するの……?」
コムイは眼鏡を押し上げた。一方のブリジットは特に表情を変えず、持ってきた書類の整理を始めている。
「本人にも確認していい?」
神田が夢子を見る。
「コムイがお前と話してぇってよ」
夢子はこくんと頷いた。
「君、本当に人魚なの?」
こくん。
「ずっと海で暮らしてた?」
こくん。
「声は、その契約で失った?」
もう一度、こくん。
「じゃあ、人間の脚になった今でも海の中では呼吸できる?」
こくん。
その瞬間、コムイの目が変わった。
先ほどまでの戸惑いが消え、眼鏡の奥に妙な光が宿る。
「人間型へ変化したあとも水中呼吸能力が残ってるのか……。肺の構造自体は人間と同じなのかな。それとも別の器官がある? 水圧への耐性は? 体温は? 塩分濃度による影響は? 傷の治癒速度は? それに魔女の契約が生体そのものへどこまで作用して――」
「室長」
ブリジットが小さく咳払いをした。
コムイの口がぴたりと止まる。
ブリジットは無表情のまま、ただ見ていた。
「……何?」
「質問は一つずつお願いします」
「はい」
コムイは素直に引き下がった。
夢子は二人を交互に見た。
やはり、この女性は強い。
そんなことを考えている間にも、コムイの視線はこちらへ戻っている。
先ほどより、明らかに熱い。
「いやあ……人魚が本当に実在していたなんてね」
コムイは顎へ手を当てた。
「古くから人魚にまつわる伝承はいくつもあるんだよ。地域によって姿や性質も違うし、中には人間に災いをもたらす存在として語られるものもある。それに――」
そこで楽しそうに目を細める。
「人魚の肉を食べると、不老不死になるっていう話もある」
夢子の表情が固まった。
私の肉を、食べる。
自分の腕へ視線を落としたあと、ゆっくりコムイを見る。
コムイも、自分を見ている。
「…………」
足裏に痛みが走ったが、神田の後ろへ逃げ込むように移動する。
「いや、違うよ!?」
ようやくコムイが気づいた。
「食べないよ!? 伝承の話だから! 君の肉を切って食べようとか、そういう意味じゃなくて!」
それでも夢子は神田の後ろから出てこない。
むしろ神田の服をそっと摘み、警戒するようにコムイを見ていた。
「室長」
ブリジットの声が呆れたように僅かに低くなる。
「だから違うって!」
コムイは慌てて両手を振った。
「科学者として興味があるだけだよ。だって本物の人魚だよ? 細胞の老化速度とか寿命とか再生能力とか、血液成分とか、調べられることが山ほど――」
神田は黙っていた。
コムイが人魚という未知の存在へ興味を持つこと自体はどうでもいいし、今のところ危害を加えようとしているわけでもない。(多分)
ただ、背中で服を掴んでいる夢子の指が少しずつ力が入っていくのを感じ、短く口を開いた。
「……もうやめろ」
コムイの口が止まる。
神田は無表情のまま彼を見る。
「怖がってんだろ」
「……あ」
コムイがようやく完全に我に返った。
神田の背後から、夢子がひどく不安そうな目だけを覗かせている。
「ごめんね。ちょっと興奮しすぎた」
それでも夢子は返事をせず、神田の服を掴んだままだった。
ブリジットはそんな彼女を一度見てから、淡々と言う。
「調査自体は必要かと思います。人間とは身体的な性質が異なる可能性がありますので、今後こちらで生活するのであれば、怪我や病気の際に適切な処置を行える程度の情報は把握しておくべきです」
「そう! それなんだよ!」
コムイが勢いよく乗り出した。
ブリジットが無言で見る。
「…………」
コムイは静かに座り直した。
「ただし、本人への説明と同意を前提とし、必要最低限の範囲で行うべきです。まずは通常の健康診断程度で十分かと」
「もちろん。じゃあ……血を――」
「それもやめろ」
神田が即座に遮った。
「まだ最後まで言ってないよ!」
「分かる」
「ほんの少し採血するだけだよ。血液型だって分からないし、人間と同じ成分なのか確認しておけば、何かあった時の治療にも役立つ」
神田は答えなかった。
乗り気ではない顔をしていたが、コムイの言うことにも一理ある。
その背後で、夢子は二人の会話を聞きながら少し考えていた。
血。
少しだけ。
それなら肉を切り取られるわけではないし、食べられるわけでもない。
それに、自分はこれからこの場所で世話になる。
何か役に立てるのなら。
夢子は神田の服から手を離すと、帳面を開き、まだ幼い字でさらさらと書いた。
『ち、すこしだけなら』
神田がその文字を見る。
コムイも覗き込んだ。
夢子が帳面を二人へ向けると、神田の眉が僅かに寄った。
「いいのかよ……」
こくん。
「怖ぇんだろ」
一瞬だけ迷ったものの、夢子は正直に頷いた。それでも続きを書き、
『でも ここに いさせてもらうから できることなら』
と神田へ見せる。
「…………」
神田は黙ってその文字を読んだ。
コムイの表情からも、先ほどまでの浮ついた興奮が少し引いていく。
「別に、それと引き換えにここへ置くわけじゃないよ。協力してくれるならありがたいけど、嫌なことまで無理にする必要はない」
夢子は少し考えたあと、もう一度だけ、
『すこしだけ』
と書いた。
「分かった。じゃあ本当に少しだけにしよう。今日はもう遅いから、健康診断も採血も明日以降。ちゃんと何をするのか説明してからね」
こくん。
「俺も行く」
神田が言った。
コムイが顔を向ける。
「神田くんも?」
「ああ」
「健康診断に?」
「ああ」
「なんで?」
神田は一瞬だけ黙ったあと、自分の服を摘む夢子を一度見た。
「こいつ、何されるか分かってねぇだろ。俺がいた方が話が早ぇ」
それだけだった。
確かに夢子は、人間の健康診断が何なのかも、採血がどのようなものなのかも知らない。
「……なるほどね」
コムイもそれ以上は何も言わなかった。
「では、医療班と神田さんの予定を確認して調整します」
ブリジットはすでに手帳へ何かを書き込んでいる。
そこでようやく本題へ戻るように、神田が口を開いた。
「で、こいつをここに置きたい。いいか?」
コムイが椅子へ座り直した。
「やはりそれが目的だったんだね」
「ああ」
「事情は分かった。でも、教団は宿泊施設じゃない。保護だけを理由に、ずっと生活させるわけにはいかないよ」
その言葉に夢子の表情が曇った。
自分には陸の上に帰る場所がない。
それでも、何もせず食事や寝床だけを与えてもらうわけにはいかないことくらいは分かる。
帳面を開こうとしたところで、神田が先に口を開いた。
「コムイ。人手が足りねぇって言ってただろ」
「……まあ、言ったけど」
「なら働かせろ。住む場所と飯が必要なら、その分働けばいい」
神田の声は淡々としていた。
庇うわけでも、頼み込むわけでもない。ただ、それが一番合理的だと言っているようだった。
コムイは夢子へ目を向ける。
「本人は?」
神田も彼女を見る。
「働けるか」
こくん。
返事は迷いがなかった。
「そうか」
神田はそれだけ確認すると、再びコムイへ向き直る。
「本人もいいっつってる」
「神田くんが聞いたら何でも頷きそうで心配なんだけどなあ」
「……それはある」
夢子がむっとした。
すぐに帳面へ、
『なんでもではありません』
と書く。
神田が横から読む。
「じゃあ何なら断る」
少し考えた夢子は、
『わるいこと』
と書き、さらに、
『わるいことは ききません』
と付け足した。
「そうかよ」
神田は短く息を吐いた。
コムイは二人のやり取りを眺めたあと、机の上で指を組む。
「じゃあ、一応できそうなことを確認しようか。文字はどれくらい?」
『すこし』
「読むのも?」
こくん。
「計算は?」
『にんぎょご なら』
そこで動きが止まり、申し訳なさそうに首を横へ振る。
「料理は?」
少し考えたあと、
『かいそうさらだなら』
と書いた。
「……海藻サラダ」
コムイが復唱する。
こくん。
少なくとも本人は料理だと思っているらしい。
「洗濯は?」
首を傾げる。
「裁縫は?」
さらに傾く。
「掃除は?」
ようやく、こくん。
質問が進むにつれて、夢子の眉が少しずつ下がっていった。
知らないことばかりだ。
できないことばかりだ。
当然だった。つい数日前まで海の底で暮らしていたのだから。
それでも本人は、ここで働けないのではないかと不安になっているらしく、俯きかけたところで神田が口を開いた。
「こいつ、陸の言葉は半年で覚えたらしいぞ」
コムイが顔を上げる。
「半年?」
「ああ。人間になる前に、独学で覚えたらしい」
「何を使って?」
夢子は帳面へ、
『うみに ながれてきた ほん』
『てがみ』
『しんぶん』
と順番に書いた。
「それだけで?」
こくん。
コムイが少し驚いたように眼鏡を押し上げる。
「どうして文字を覚えようと思ったの?」
夢子の鉛筆が止まった。
神田を見る。
神田は何も言わず、答えるかどうかを彼女に任せていた。
少し迷った末、夢子は小さな字で、
『かんださんと はなすため』
と書いた。
コムイが神田を見る。
「…………」
「見るな」
「何も言ってないよ」
「顔に出てる」
コムイは口元を手で隠した。
夢子も恥ずかしくなり、帳面で顔の下半分を隠す。
「半年でこれだけ覚えたなら、学習能力はかなり高そうだね。最初から専門的な仕事は無理でも、簡単な雑務ならいくらでもある。掃除や備品の整理、運搬、食堂の手伝い。文字や計算も仕事をしながら覚えていけばいいよ」
夢子の瞳が明るくなる。
「ただし、ここには危険な場所や物もあるから、分からないものを勝手に触らないこと。入るなと言われた場所には入らない。それから困った時は、一人で何とかしようとしない」
こくん。
「それぐらいは覚えとけ」
横から神田が言うと、夢子がそちらを見る。
「足痛ぇのも黙ってただろ。そういうことも全部言え」
「…………」
眉がしゅんと下がった。
神田はそんな顔をされても表情を変えず、淡々と続ける。
「怒ってねぇ。無理なら言えって事だ」
そこまで言ってから、一拍置いた。
「……書いて教えろ」
夢子の口元が少し緩んだ。
こくん。
コムイはその様子を眺めたあと、ブリジットへ顔を向けた。
「仕事の方は何とかなりそう?」
「初期教育を前提とするのであれば問題ないかと。各部署の人員状況を確認します」
「じゃあ、その方向でお願い」
「承知しました」
ブリジットはすでに必要な書類を抜き出していた。
「氏名、夢子さん。雇用区分は臨時職員。出身地については――」
一度だけ彼女を見る。
「海、でよろしいですか?」
こくん。
「では、現状は『海』として仮登録します」
コムイがぼそりと呟いた。
「書類に出身地『海』って書く日が来るとは思わなかったなあ……」
ブリジットは反応せず、淡々と記入を続ける。
やがてコムイが夢子へ向き直った。
「じゃあ、しばらくここで働いてみる?」
意味を理解した瞬間、夢子の目が大きくなった。
ここにいていい。
仕事をすれば食事をもらえて、眠る場所もある。
そして、ここには神田がいる。
こくん。
大きく頷き、もう一度、さらにもう一度と頷いたところで、横から神田に止められた。
「一回で分かる」
夢子はぴたりと止まったものの、嬉しさは隠せず顔が緩んでいる。
「仮採用、ということで」
コムイが書類へ印をつけると、夢子は深く頭を下げた。
「次は居住場所ですね」
ブリジットが別の書類へ移る。
「女性居住区に空室はあります。ただし、現時点で夢子さんを一人で生活させることは推奨しません」
夢子が顔を上げた。
「人間として生活を始めて数日。声も出せず、こちらの生活設備にも不慣れのように見えます。夜間に問題が生じた場合、一人では対応できない可能性があります」
「そうだね」
コムイも頷く。
「水道や浴室の使い方だって知らないだろうし、最初のうちは誰かと一緒の方がいいかな」
また誰かに迷惑をかけることになる。
そう思ったらしく、夢子の眉尻が下がる。
ブリジットが「女性職員の中から、当面の生活指導を担当できる者を――」と続けかけたところで、神田が短く遮った。
「いい」
二人の視線が向く。
「何が?」
「俺が見る」
夢子も顔を上げた。
「連れてきた以上、責任は取る。人間の生活を覚えるまで、俺の部屋に置く」
室内が静かになった。
コムイが瞬きをする。
「……神田くんの部屋に?」
「ああ」
「人魚ちゃんを?」
「ああ」
「二人で?」
神田の眉間に皺が寄った。
「何回言わせんだ」
ようやく話の意味を理解した夢子の頬が、一気に熱くなる。
神田の部屋。
神田が毎日眠っている場所。
そこへ自分も行き、一緒に夜を過ごす。
恥ずかしくないわけがなかった。
それでも神田が横目で見て「何だ」と尋ねると、夢子は慌てて首を横へ振った。
コムイは二人を交互に見た。
神田の方には、妙な含みなどまるでない。本当に、連れてきた自分が面倒を見るのが一番手っ取り早いと思っているだけらしい。
それでもコムイは何とも言えない顔で椅子へ背を預けた。
「……神田くん」
「あ?」
「君なら大丈夫だとは思うけど」
「何が言いてぇ」
少し間を置き、コムイは疲れたような声で言った。
「神に背くことだけはやめてくれよ……」
「…………」
神田の顔が、一瞬で最高に不機嫌になった。
何を言われているのかは、もちろん分かっている。
分かった上で。
「なんの事だ」
「絶対分かってるよね、その顔! 夢子ちゃんは人間社会のことを殆ど知らないんだからね!? その辺は本当に――」
「室長」
ブリジットが咳払いをした。
「ご本人の前で続ける話ではありません」
「……はい」
夢子だけが何の話なのか分からず、神田とコムイを交互に見ながら首を傾げていた。
神に背く。
神田が何か悪いことをするのだろうか。
そんな顔で見上げられた神田は、さらに機嫌を悪くした。
「余計なことこいつに教えんな」
「僕は君に言ってるんだよ!」
「同じだ」
ブリジットは何事もなかったように書類へ視線を戻した。
「では、当面の居住場所は神田ユウの居室として登録します。女性居住区の空室については確保したままにしますので、生活に慣れ次第、移動してください」
「ああ」
神田は即答した。
夢子は神田を見る。
本当にいいのだろうか。
じっと見ていると、神田が気づいた。
「嫌なら別でいい」
夢子は猛烈な勢いで首を横へ振った。
「……どっちだよ」
慌てて帳面を開き、
『いっしょが いいです』
と書いて見せる。
神田はその文字を一度だけ見た。
「そうか」
それだけだった。
夢子の頬が、また少し赤くなる。
コムイは椅子の背にもたれたまま、ぼそりと呟いた。
「……本当に頼むよ、神田くん」
「チッ」
今度は、何のことかとは聞かなかった。
つづく、2026/08/21
空がすっかり暗くなった頃、神田に背負われた夢子は、森を抜けた先に現れた建物を見て思わず息を呑んだ。
「…………」
大きい。
最初に浮かんだ感想は、それだけだった。
夜空を背にして、巨大なレンガ造りの建物がそびえている。左右へ高く伸びた二つの塔に、先端の尖った屋根。壁には縦長の窓が幾つも並び、その向こうから暖かな明かりが漏れていた。
海の底にも大きな建造物はあるし、人間の船が沈み、長い年月をかけて海底の一部になったものも見たことがある。それでも目の前にあるものは、そのどれとも違った。
人間が、自分たちの手で造ったものなのだ。
それが信じられなくて、夢子は神田の背中から建物の一番上を見ようと首を反らした。
高い。
まだ上がある。さらに反らしていると、身体まで後ろへ傾きかけたところで神田から低い声が飛んできた。
「おい、落ちんな」
はっとした夢子は、慌てて神田の肩へ回した腕に力を入れた。
「何してんだ」
夢子は答える代わりに片腕を伸ばして建物を指さし、それから神田の肩越しで両腕を大きく広げようとして、危うくもう一度体勢を崩しかけた。
「暴れんな」
慌てて神田へ掴まり直す。
伝えたかったのは、大きい、ということだけだった。
それを察したのか、神田は目の前の建物を一度見上げた。
「……これが?」
夢子は神田の肩越しに、こくこくと頷いた。
神田にとっては、何がそこまで珍しいのか分からないらしい。
「ああ」
返ってきたのは、それだけだった。
もっと驚いてくれてもいいのにと思い、夢子は神田の背中で少しだけ頬を膨らませたものの、ここが彼の暮らしている場所なら見慣れていて当然なのだろう。
そこで、さっき神田から言われた言葉を思い出した。
『俺がいるとこだ』
夢子は改めて目の前の巨大な建物を見つめた。
ここに神田がいる。ここで眠り、食事をして、毎日を過ごしている。
自分の知らない神田の生活が、あの建物の中にある。
そう思うと、最初は夜の中にそびえる姿が少し恐ろしくさえ見えた建物が、不思議と違うものに見えてきた。
神田のことを、これから知りたい。
砂浜にそう書いたばかりだった。
その第一歩が、ここなのかもしれない。
建物へ近づくにつれ、周囲には人の姿が増えていった。
荷物を抱えて歩く者、白衣を着た者、黒い服を着た者、数人で話しながら外へ出ていく者。誰もが当たり前のように巨大な建物を出入りしている。
人間。
また人間。
こんなに大勢の人間を、一度に間近で見るのは初めてだった。
これまでも海の中から船を見上げたことはあるし、岩陰から遠巻きに眺めたこともある。
それでも、自分が人間たちの中へ入ったことはない。
人の声や足音、扉の開閉する音、それに聞いたことのない道具の音まで一度に押し寄せてきて、夢子は神田の背中から忙しく左右を見回した。
そのうち、自分たちへ向けられる視線にも気づいた。
正確には、自分たちというより――神田に背負われている自分が見られている。
すれ違った男が二度見する。
その隣にいた女も振り返る。
夢子は何となく居心地が悪くなり、神田の背中へ身体を寄せた。
「…………」
神田は何も言わなかった。
周囲からどれだけ見られても気にする様子すらなく、いつもの顔で歩いていく。
その背中へ頬が触れそうなほど近づいたところで、夢子は少しだけ安心した。
知らない場所。
知らない人。
知らないものばかり。
今まで生きてきた海とは、何もかもが違う。
その中で唯一、自分が知っているものが、今こうして身体を預けている男だった。
神田が右へ曲がれば、自分も当然右へ運ばれていく。左へ曲がれば左へ。
自分で歩いているわけでもないのに、夢子は神田の肩越しから一つ一つの道順を覚えようと周囲を見ていた。
しばらくして室長室の前へ辿り着いた時、ちょうど扉を開けて中へ入ろうとしていた一人の女性が、二人の姿に気づいて足を止めた。
腕には何冊ものファイルが抱えられている。
「お戻りだったんですね」
室長秘書のブリジットだった。
「ああ」
神田が短く答えると、ブリジットの視線は当然、その背中にいる見知らぬ女へ移った。
「……そちらの方は?」
夢子の肩が僅かに強張った。
知らない人に見られている。
何と答えればいいのかも分からない。
そもそも声が出ない。
困って神田を見る。
神田は面倒そうに答えた。
「俺の連れだ」
夢子が瞬きをした。
連れ。
その言葉の正確な意味は分からなかったが、どうやら自分のことらしい。
ブリジットは夢子を一度見て、それから濡れたままの二人へ視線を移した。
「室長にご用ですか?」
「こいつのことで話がある」
「分かりました。中にどうぞ」
それだけだった。
ブリジットに続いて室長室へ入ると、神田は来客用のソファーの前まで進み、背中の夢子を下ろすために身体を屈めた。
「降りろ」
夢子は神田の肩からそっと腕を解き、恐る恐る床へ足をつけた。
久しぶりに自分の体重が両足へかかった途端、傷だらけの足裏に鋭い痛みが走り、思わず眉を寄せる。
その表情を横目で見た神田は、彼女の足元へ一度だけ視線を落とした。
「座れ」
夢子はこくんと頷いた。
神田もそのままソファーへ腰を下ろしかけたものの、途中で動きを止めた。
自分の服を見る。
海水を吸ったまま半端に乾き、砂までついている。
次に、同じような姿で立っている夢子を見る。
「…………」
普段なら気にもしない。任務帰りなら、この程度の汚れでいちいち遠慮するような性格でもなかった。
だが、こいつは違う。
人間の生活を何も知らないうえに、言われたことを素直に覚える。
自分が今ここへ座れば、おそらく次から夢子も「濡れていても汚れていても、ソファーには座っていい」と覚える。
神田は僅かに眉を寄せると、結局座るのをやめた。
夢子はその一部始終を不思議そうに見ていた。
「やはり座るな」
夢子はソファーを見たあと、自分の濡れた服を見下ろした。
「汚すだろ」
それだけで意味を理解したらしく、こくんと頷く。
「足痛ェだろうが、我慢しろ」
こくん。
神田はその反応を確認すると、壁際へ移動して腕を組んだ。
夢子も真似をするように神田の隣に立つ。
「……そこまで真似すんな」
夢子が首を傾げた。
神田はもう何も言わなかった。
ブリジットが抱えていたファイルを机の端へ置くと、彼女の方へ向き直った。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
夢子は口を開きかけたものの、当然声は出ない。
その様子を見て、ブリジットはすぐに察したらしい。
「お話しできないんですね」
「声が出ねぇだけだ」
神田が横から答える。
「そうですか」
驚きはしたものの、それ以上は詮索せず、夢子が胸元に抱えていた帳面へ視線を落とした。
「筆談はできますか?」
その言葉なら分かった。
夢子はすぐに頷き、濡れないよう大切に包んでいた帳面を取り出すと、ページを開いて覚えた文字で自分の名前を書いた。
『夢子』
「夢子さんですね。ありがとうございます」
淡々と確認すると、ブリジットは室長へ向き直った。
「室長。神田さんがお戻りです。同行者の夢子さんについて、お話があるそうです」
「ん?」
机いっぱいに書類を広げていたコムイが顔を上げ、まず神田を見たあと、神田の隣の見知らぬ女へ視線を移した。
乾きかけの濡れた髪に、海水を吸った服。そして何より、細かな傷だらけの裸足。
コムイは二人を見比べた。
「……その子、誰?」
「夢子」
夢子が目を瞬いた。
神田が自分の名前を口にした。
ただそれだけで胸の奥が少しくすぐったくなったが、当の神田は何でもない顔で続ける。
「こいつは人魚だ」
「…………」
室長室が静かになった。
コムイはゆっくり瞬きをした。
「今、何て?」
「人魚」
「この子が?」
「ああ」
あまりにも説明が足りないため、コムイが黙って続きを待っていると、神田は面倒そうに、砂浜で出会ってから今に至るまでの経緯を必要なところだけ掻い摘んで説明した。
「……本当に?」
「ああ」
コムイの視線が夢子の頭から足先まで動く。
当然、尾びれなどない。そこにあるのは、人間と変わらない二本の脚だった。
「脚、あるよね」
「魔女と契約したっつーたろ。声と尾びれを渡して、脚をもらった」
「魔女まで実在するの……?」
コムイは眼鏡を押し上げた。一方のブリジットは特に表情を変えず、持ってきた書類の整理を始めている。
「本人にも確認していい?」
神田が夢子を見る。
「コムイがお前と話してぇってよ」
夢子はこくんと頷いた。
「君、本当に人魚なの?」
こくん。
「ずっと海で暮らしてた?」
こくん。
「声は、その契約で失った?」
もう一度、こくん。
「じゃあ、人間の脚になった今でも海の中では呼吸できる?」
こくん。
その瞬間、コムイの目が変わった。
先ほどまでの戸惑いが消え、眼鏡の奥に妙な光が宿る。
「人間型へ変化したあとも水中呼吸能力が残ってるのか……。肺の構造自体は人間と同じなのかな。それとも別の器官がある? 水圧への耐性は? 体温は? 塩分濃度による影響は? 傷の治癒速度は? それに魔女の契約が生体そのものへどこまで作用して――」
「室長」
ブリジットが小さく咳払いをした。
コムイの口がぴたりと止まる。
ブリジットは無表情のまま、ただ見ていた。
「……何?」
「質問は一つずつお願いします」
「はい」
コムイは素直に引き下がった。
夢子は二人を交互に見た。
やはり、この女性は強い。
そんなことを考えている間にも、コムイの視線はこちらへ戻っている。
先ほどより、明らかに熱い。
「いやあ……人魚が本当に実在していたなんてね」
コムイは顎へ手を当てた。
「古くから人魚にまつわる伝承はいくつもあるんだよ。地域によって姿や性質も違うし、中には人間に災いをもたらす存在として語られるものもある。それに――」
そこで楽しそうに目を細める。
「人魚の肉を食べると、不老不死になるっていう話もある」
夢子の表情が固まった。
私の肉を、食べる。
自分の腕へ視線を落としたあと、ゆっくりコムイを見る。
コムイも、自分を見ている。
「…………」
足裏に痛みが走ったが、神田の後ろへ逃げ込むように移動する。
「いや、違うよ!?」
ようやくコムイが気づいた。
「食べないよ!? 伝承の話だから! 君の肉を切って食べようとか、そういう意味じゃなくて!」
それでも夢子は神田の後ろから出てこない。
むしろ神田の服をそっと摘み、警戒するようにコムイを見ていた。
「室長」
ブリジットの声が呆れたように僅かに低くなる。
「だから違うって!」
コムイは慌てて両手を振った。
「科学者として興味があるだけだよ。だって本物の人魚だよ? 細胞の老化速度とか寿命とか再生能力とか、血液成分とか、調べられることが山ほど――」
神田は黙っていた。
コムイが人魚という未知の存在へ興味を持つこと自体はどうでもいいし、今のところ危害を加えようとしているわけでもない。(多分)
ただ、背中で服を掴んでいる夢子の指が少しずつ力が入っていくのを感じ、短く口を開いた。
「……もうやめろ」
コムイの口が止まる。
神田は無表情のまま彼を見る。
「怖がってんだろ」
「……あ」
コムイがようやく完全に我に返った。
神田の背後から、夢子がひどく不安そうな目だけを覗かせている。
「ごめんね。ちょっと興奮しすぎた」
それでも夢子は返事をせず、神田の服を掴んだままだった。
ブリジットはそんな彼女を一度見てから、淡々と言う。
「調査自体は必要かと思います。人間とは身体的な性質が異なる可能性がありますので、今後こちらで生活するのであれば、怪我や病気の際に適切な処置を行える程度の情報は把握しておくべきです」
「そう! それなんだよ!」
コムイが勢いよく乗り出した。
ブリジットが無言で見る。
「…………」
コムイは静かに座り直した。
「ただし、本人への説明と同意を前提とし、必要最低限の範囲で行うべきです。まずは通常の健康診断程度で十分かと」
「もちろん。じゃあ……血を――」
「それもやめろ」
神田が即座に遮った。
「まだ最後まで言ってないよ!」
「分かる」
「ほんの少し採血するだけだよ。血液型だって分からないし、人間と同じ成分なのか確認しておけば、何かあった時の治療にも役立つ」
神田は答えなかった。
乗り気ではない顔をしていたが、コムイの言うことにも一理ある。
その背後で、夢子は二人の会話を聞きながら少し考えていた。
血。
少しだけ。
それなら肉を切り取られるわけではないし、食べられるわけでもない。
それに、自分はこれからこの場所で世話になる。
何か役に立てるのなら。
夢子は神田の服から手を離すと、帳面を開き、まだ幼い字でさらさらと書いた。
『ち、すこしだけなら』
神田がその文字を見る。
コムイも覗き込んだ。
夢子が帳面を二人へ向けると、神田の眉が僅かに寄った。
「いいのかよ……」
こくん。
「怖ぇんだろ」
一瞬だけ迷ったものの、夢子は正直に頷いた。それでも続きを書き、
『でも ここに いさせてもらうから できることなら』
と神田へ見せる。
「…………」
神田は黙ってその文字を読んだ。
コムイの表情からも、先ほどまでの浮ついた興奮が少し引いていく。
「別に、それと引き換えにここへ置くわけじゃないよ。協力してくれるならありがたいけど、嫌なことまで無理にする必要はない」
夢子は少し考えたあと、もう一度だけ、
『すこしだけ』
と書いた。
「分かった。じゃあ本当に少しだけにしよう。今日はもう遅いから、健康診断も採血も明日以降。ちゃんと何をするのか説明してからね」
こくん。
「俺も行く」
神田が言った。
コムイが顔を向ける。
「神田くんも?」
「ああ」
「健康診断に?」
「ああ」
「なんで?」
神田は一瞬だけ黙ったあと、自分の服を摘む夢子を一度見た。
「こいつ、何されるか分かってねぇだろ。俺がいた方が話が早ぇ」
それだけだった。
確かに夢子は、人間の健康診断が何なのかも、採血がどのようなものなのかも知らない。
「……なるほどね」
コムイもそれ以上は何も言わなかった。
「では、医療班と神田さんの予定を確認して調整します」
ブリジットはすでに手帳へ何かを書き込んでいる。
そこでようやく本題へ戻るように、神田が口を開いた。
「で、こいつをここに置きたい。いいか?」
コムイが椅子へ座り直した。
「やはりそれが目的だったんだね」
「ああ」
「事情は分かった。でも、教団は宿泊施設じゃない。保護だけを理由に、ずっと生活させるわけにはいかないよ」
その言葉に夢子の表情が曇った。
自分には陸の上に帰る場所がない。
それでも、何もせず食事や寝床だけを与えてもらうわけにはいかないことくらいは分かる。
帳面を開こうとしたところで、神田が先に口を開いた。
「コムイ。人手が足りねぇって言ってただろ」
「……まあ、言ったけど」
「なら働かせろ。住む場所と飯が必要なら、その分働けばいい」
神田の声は淡々としていた。
庇うわけでも、頼み込むわけでもない。ただ、それが一番合理的だと言っているようだった。
コムイは夢子へ目を向ける。
「本人は?」
神田も彼女を見る。
「働けるか」
こくん。
返事は迷いがなかった。
「そうか」
神田はそれだけ確認すると、再びコムイへ向き直る。
「本人もいいっつってる」
「神田くんが聞いたら何でも頷きそうで心配なんだけどなあ」
「……それはある」
夢子がむっとした。
すぐに帳面へ、
『なんでもではありません』
と書く。
神田が横から読む。
「じゃあ何なら断る」
少し考えた夢子は、
『わるいこと』
と書き、さらに、
『わるいことは ききません』
と付け足した。
「そうかよ」
神田は短く息を吐いた。
コムイは二人のやり取りを眺めたあと、机の上で指を組む。
「じゃあ、一応できそうなことを確認しようか。文字はどれくらい?」
『すこし』
「読むのも?」
こくん。
「計算は?」
『にんぎょご なら』
そこで動きが止まり、申し訳なさそうに首を横へ振る。
「料理は?」
少し考えたあと、
『かいそうさらだなら』
と書いた。
「……海藻サラダ」
コムイが復唱する。
こくん。
少なくとも本人は料理だと思っているらしい。
「洗濯は?」
首を傾げる。
「裁縫は?」
さらに傾く。
「掃除は?」
ようやく、こくん。
質問が進むにつれて、夢子の眉が少しずつ下がっていった。
知らないことばかりだ。
できないことばかりだ。
当然だった。つい数日前まで海の底で暮らしていたのだから。
それでも本人は、ここで働けないのではないかと不安になっているらしく、俯きかけたところで神田が口を開いた。
「こいつ、陸の言葉は半年で覚えたらしいぞ」
コムイが顔を上げる。
「半年?」
「ああ。人間になる前に、独学で覚えたらしい」
「何を使って?」
夢子は帳面へ、
『うみに ながれてきた ほん』
『てがみ』
『しんぶん』
と順番に書いた。
「それだけで?」
こくん。
コムイが少し驚いたように眼鏡を押し上げる。
「どうして文字を覚えようと思ったの?」
夢子の鉛筆が止まった。
神田を見る。
神田は何も言わず、答えるかどうかを彼女に任せていた。
少し迷った末、夢子は小さな字で、
『かんださんと はなすため』
と書いた。
コムイが神田を見る。
「…………」
「見るな」
「何も言ってないよ」
「顔に出てる」
コムイは口元を手で隠した。
夢子も恥ずかしくなり、帳面で顔の下半分を隠す。
「半年でこれだけ覚えたなら、学習能力はかなり高そうだね。最初から専門的な仕事は無理でも、簡単な雑務ならいくらでもある。掃除や備品の整理、運搬、食堂の手伝い。文字や計算も仕事をしながら覚えていけばいいよ」
夢子の瞳が明るくなる。
「ただし、ここには危険な場所や物もあるから、分からないものを勝手に触らないこと。入るなと言われた場所には入らない。それから困った時は、一人で何とかしようとしない」
こくん。
「それぐらいは覚えとけ」
横から神田が言うと、夢子がそちらを見る。
「足痛ぇのも黙ってただろ。そういうことも全部言え」
「…………」
眉がしゅんと下がった。
神田はそんな顔をされても表情を変えず、淡々と続ける。
「怒ってねぇ。無理なら言えって事だ」
そこまで言ってから、一拍置いた。
「……書いて教えろ」
夢子の口元が少し緩んだ。
こくん。
コムイはその様子を眺めたあと、ブリジットへ顔を向けた。
「仕事の方は何とかなりそう?」
「初期教育を前提とするのであれば問題ないかと。各部署の人員状況を確認します」
「じゃあ、その方向でお願い」
「承知しました」
ブリジットはすでに必要な書類を抜き出していた。
「氏名、夢子さん。雇用区分は臨時職員。出身地については――」
一度だけ彼女を見る。
「海、でよろしいですか?」
こくん。
「では、現状は『海』として仮登録します」
コムイがぼそりと呟いた。
「書類に出身地『海』って書く日が来るとは思わなかったなあ……」
ブリジットは反応せず、淡々と記入を続ける。
やがてコムイが夢子へ向き直った。
「じゃあ、しばらくここで働いてみる?」
意味を理解した瞬間、夢子の目が大きくなった。
ここにいていい。
仕事をすれば食事をもらえて、眠る場所もある。
そして、ここには神田がいる。
こくん。
大きく頷き、もう一度、さらにもう一度と頷いたところで、横から神田に止められた。
「一回で分かる」
夢子はぴたりと止まったものの、嬉しさは隠せず顔が緩んでいる。
「仮採用、ということで」
コムイが書類へ印をつけると、夢子は深く頭を下げた。
「次は居住場所ですね」
ブリジットが別の書類へ移る。
「女性居住区に空室はあります。ただし、現時点で夢子さんを一人で生活させることは推奨しません」
夢子が顔を上げた。
「人間として生活を始めて数日。声も出せず、こちらの生活設備にも不慣れのように見えます。夜間に問題が生じた場合、一人では対応できない可能性があります」
「そうだね」
コムイも頷く。
「水道や浴室の使い方だって知らないだろうし、最初のうちは誰かと一緒の方がいいかな」
また誰かに迷惑をかけることになる。
そう思ったらしく、夢子の眉尻が下がる。
ブリジットが「女性職員の中から、当面の生活指導を担当できる者を――」と続けかけたところで、神田が短く遮った。
「いい」
二人の視線が向く。
「何が?」
「俺が見る」
夢子も顔を上げた。
「連れてきた以上、責任は取る。人間の生活を覚えるまで、俺の部屋に置く」
室内が静かになった。
コムイが瞬きをする。
「……神田くんの部屋に?」
「ああ」
「人魚ちゃんを?」
「ああ」
「二人で?」
神田の眉間に皺が寄った。
「何回言わせんだ」
ようやく話の意味を理解した夢子の頬が、一気に熱くなる。
神田の部屋。
神田が毎日眠っている場所。
そこへ自分も行き、一緒に夜を過ごす。
恥ずかしくないわけがなかった。
それでも神田が横目で見て「何だ」と尋ねると、夢子は慌てて首を横へ振った。
コムイは二人を交互に見た。
神田の方には、妙な含みなどまるでない。本当に、連れてきた自分が面倒を見るのが一番手っ取り早いと思っているだけらしい。
それでもコムイは何とも言えない顔で椅子へ背を預けた。
「……神田くん」
「あ?」
「君なら大丈夫だとは思うけど」
「何が言いてぇ」
少し間を置き、コムイは疲れたような声で言った。
「神に背くことだけはやめてくれよ……」
「…………」
神田の顔が、一瞬で最高に不機嫌になった。
何を言われているのかは、もちろん分かっている。
分かった上で。
「なんの事だ」
「絶対分かってるよね、その顔! 夢子ちゃんは人間社会のことを殆ど知らないんだからね!? その辺は本当に――」
「室長」
ブリジットが咳払いをした。
「ご本人の前で続ける話ではありません」
「……はい」
夢子だけが何の話なのか分からず、神田とコムイを交互に見ながら首を傾げていた。
神に背く。
神田が何か悪いことをするのだろうか。
そんな顔で見上げられた神田は、さらに機嫌を悪くした。
「余計なことこいつに教えんな」
「僕は君に言ってるんだよ!」
「同じだ」
ブリジットは何事もなかったように書類へ視線を戻した。
「では、当面の居住場所は神田ユウの居室として登録します。女性居住区の空室については確保したままにしますので、生活に慣れ次第、移動してください」
「ああ」
神田は即答した。
夢子は神田を見る。
本当にいいのだろうか。
じっと見ていると、神田が気づいた。
「嫌なら別でいい」
夢子は猛烈な勢いで首を横へ振った。
「……どっちだよ」
慌てて帳面を開き、
『いっしょが いいです』
と書いて見せる。
神田はその文字を一度だけ見た。
「そうか」
それだけだった。
夢子の頬が、また少し赤くなる。
コムイは椅子の背にもたれたまま、ぼそりと呟いた。
「……本当に頼むよ、神田くん」
「チッ」
今度は、何のことかとは聞かなかった。
つづく、2026/08/21