マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第6話。
洞窟を出ると、二人は来た道を戻った。
行きと同じように、夢子が神田の手を引く。
尾びれを失った身体では、やはり思うように泳げない。少し進んでは体勢を崩し、そのたびに神田の手へ支えられた。
それでも今度は、行きよりも少しだけ気持ちが軽かった。
明日の朝になっても、自分は消えない。
神田に拒まれない限り、泡にはならない。
それが分かっただけで、さっきまで恐ろしく見えていた暗い海さえ、いつもの海に戻ったような気がした。
やがて水面が近づく。
二人は海上へ顔を出し、そのまま砂浜へ向かった。
足が海底へつくほど浅くなると、夢子は神田の手を離した。
少しだけ名残惜しかった。
もちろん、そんなことを顔に出すつもりはない。
出していないつもりだった。
「…………」
神田が横から見ている。
夢子は何でもない顔を作り、そっと前を向いた。
砂浜へ上がる。
全身から海水が滴った。
夢子はその場へ腰を下ろし、濡れた髪を耳へかけた。
海の向こうでは、夕日がほとんど沈みかけている。
ずいぶん長い一日だった。
朝には、今日が自分にとって最後の日になるかもしれないなどと思ってもいなかった。
神田を見つけて。
失恋したと思い込んで。
泡になる覚悟をして。
本人に告白を見つかって。
海の底まで一緒に潜り。
魔女から、まだ死なないと聞かされた。
そして、夢子はそっと自分の唇に触れた。
そこまで思い返したところで、頬が一気に熱くなる。
神田と口づけをした。
しかも、神田の方から。
「…………」
思い出しただけで心臓が跳ねた。
夢子は両手で頬を押さえた。
そんな彼女の少し離れた場所で、神田は黙って海を見ていた。
「……おい」
突然呼ばれ、夢子は顔を上げた。
神田がこちらを向いている。
「一回、試すぞ」
夢子は首を傾げた。
何を?
そう尋ねるより早く、神田が口を開いた。
「俺はお前が嫌いだ」
「…………」
夢子の表情が恐怖で固まった。
波の音だけが聞こえた。
ざあ、と白い波が砂浜へ寄せる。
夢子は神田を見た。
神田も夢子を見ている。
「…………」
何も起こらない。
夢子は恐る恐る自分の手を見た。
指が五本。
腕を見る。
脚を見る。
どこにも泡らしきものは浮かんでいない。
それでも怖くなって、慌てて胸元や髪まで確かめる。
神田も無言でその様子を見ていた。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起こらなかった。
神田の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
「……ならねぇな」
夢子はゆっくり顔を上げた。
「…………」
神田を見る。
もう一度、自分の身体を見る。
やはり消えてはいない。
ようやく何をされたのか理解した。
夢子は慌てて帳面を取り出した。
濡れないように大事に包んでいたそれを開き、強い筆圧で書く。
『ひどいです』
神田は一瞥した。
「確認しただけだ」
『こわかったです』
「俺もだ」
夢子の手が止まった。
顔を上げる。
神田はもう海の方を見ていた。
「本当にあの魔女の言う通りか分かんねぇだろ」
ぶっきらぼうな声だった。
「言っただけで泡になられたら面倒だから試した」
面倒。
そう言われたのに、不思議と嫌な気はしなかった。
さっき神田は確かに、
『俺もだ』
と言った。
つまり、自分が本当に泡になったらどうしようと、神田も少しは怖かったのだ。
そう思うと、夢子の口元が自然と緩んだ。
神田が横目でそれを見る。
「……何笑ってんだ」
夢子は慌てて首を振った。
何でもない。
「…………」
神田はしばらく彼女を見ていた。
そして。
「泡になってみろ」
夢子の笑顔が消えた。
「…………!」
ぶんぶんぶんぶん。
ものすごい勢いで首を振る。
「俺はお前なんか――」
夢子は慌てて立ち上がった。
そのまま神田へ駆け寄る。
足に痛みが走ったが、それどころではない。
両手で神田の口を塞いだ。
「…………」
神田の目が細くなる。
夢子は必死だった。
言わないで。
お願いだから、それ以上言わないで。
声は出ない。
それでも表情だけで十分伝わったらしい。
神田は眉間に皺を寄せたあと、夢子の両手首を掴み、自分の口元から外した。
「何ビビってんだ。さっきならなかっただろ」
夢子はすぐに帳面へ書く。
『でも』
『ほんとうに』
『きらわれたら』
一度手が止まる。
『あわになります』
神田はその文字を見た。
「…………」
夢子はさらに書く。
『だから』
『いわないでください』
最後の一文字を書き終えると、不安そうに神田を見上げた。
神田は黙っている。
さっき自分が口にした『嫌いだ』では、何も起こらなかった。
つまり、少なくともあの言葉を口にした瞬間。
自分は本心からこの女を拒んではいなかったことになる。
神田はその事実に気づき、僅かに眉を寄せた。
好きなわけではない。
そんなものは、まだ分からない。
今日会ったばかりだ。
だが、嫌いでもないらしい。
神田は小さく息を吐いた。
「……じゃあ嫌われねぇように気をつけろ」
夢子が瞬きをする。
「俺に嫌われなきゃ泡にならねぇんだろ」
こくん。
「なら、それでいい」
「…………」
夢子の瞳が、見る見るうちに輝き始めた。
神田が露骨に嫌な顔をした。
「その顔やめろ」
夢子は慌てて両手で目元を隠した。
「隠せっつってねぇ」
手を下ろす。
やはり嬉しそうだった。
神田はもう何も言わなかった。
言えば言うほど、何かがおかしくなる。
そのまま歩き出す。
夢子も慌ててあとを追った。
歩くたび、足の裏に鋭い痛みが走る。
神田の歩幅は大きい。
少しずつ距離が開いていく。
それでも夢子は懸命についていった。
数歩先を歩いていた神田が、ふと足を止めた。
振り返る。
夢子は少し遅れて追いついた。
「遅ぇ」
申し訳なさそうに眉を下げる。
神田は彼女の脚へ視線を落とした。
そういえば、歩くたびに刃物を踏むような痛みがあると言っていた。
「……痛ぇのか」
夢子は少し迷ったあと、こくんと頷いた。
「なら最初から言え」
言えない。
声が出ないのだから。
夢子はじっと神田を見る。
神田も見返す。
数秒後。
「…………チッ」
神田は舌打ちした。
「そうだったな」
夢子の口元が少し緩んだ。
神田はまた歩き出した。
今度は、さっきより明らかに遅い。
夢子でも無理なくついていける速さだった。
そのことが嬉しくて、また神田の横顔を見てしまう。
「見るな」
慌てて前を向く。
しばらく二人で砂浜を歩いた。
やがて神田が何気なく口を開いた。
「まあ」
夢子が横を見る。
「本当に泡になったら」
神田の口元が、ほんの僅かに歪んだ。
「その泡で手ぇ洗ってやるよ」
「…………!」
夢子はその場で立ち止まった。
神田は構わず歩いていく。
夢子は慌てて帳面を開いた。
大きな字で書く。
『ひどいです!』
神田へ見えるように掲げた。
「なら泡になんな」
夢子はむっとした。
『あなたしだいです』
神田の足が止まった。
振り返る。
夢子は帳面を抱えたまま、不満そうに立っていた。
その通りだった。
彼女が泡になるかどうかは、自分次第。
面倒な契約を背負わされたものだ。
神田は眉間を押さえた。
「……だったら尚更、嫌われる事をすんなよ?」
夢子は目を瞬いた。
次の瞬間。
また、ぱあっと顔が明るくなった。
「…………」
神田はもう何も言わずに前を向いた。
背後からは、痛む足で一生懸命ついてくる気配がする。
歩くたびにあれだけの痛みがあるというのに、夢子は立ち止まることも、神田へ助けを求めることもなく、一定の距離を空けて黙々とあとを追っていた。
少し歩いたところで、神田はふと足を止めて振り返った。
やはり夢子はいる。
神田が止まったことに気づくと、彼女もその場で足を止め、何だろうというように首を傾げた。
「……お前、なんでついてくんだ?」
その問いに、夢子はすぐには帳面を開かなかった。
神田を見上げたあと、恥ずかしそうに視線を落とし、両手で帳面を持ったまま何となくもじもじしている。
「…………」
神田はしばらくその様子を見ていたが、何かを察したように近くの廊下へ視線を向けた。
「便所ならその辺でしろ」
夢子が勢いよく顔を上げた。
違う。
そう言いたげにぶんぶんと首を横へ振り、少し怒った顔で帳面を開くと、鉛筆を走らせる。
『あなたと いたい』
差し出された帳面を見て、神田は黙った。
それから夢子へ視線を戻す。
「……今日はもう家に帰れよ」
夢子はまた帳面へ鉛筆を走らせた。
『いえ ない』
「…………」
神田の目が止まった。
そういえば、こいつは海から来た人魚だった。
人間の姿になったからといって、陸に家まで生えてくるわけではない。
「もしかして行くとこねぇのか」
夢子はこくんと頷いた。
「じゃあ、昨日までどこで寝てたんだよ」
今度の返事は早かった。
『のじゅく』
「…………」
神田はその四文字を見つめたあと、ゆっくり夢子へ目を向けた。
人間になってから今日まで、神田を探して何日も歩き回っていたという。歩けばナイフで刺されるような痛みが走る足で、靴も履かずに街を歩き、夜になればその辺で眠っていたらしい。
――こんな若ぇ女が一人で野宿なんかして、よく襲われなかったな。
そこまで考えて、神田は眉を寄せた。
当の本人は、自分がどれほど危ないことをしていたのか分かっている様子もない。
ただ神田のそばにいていいのか、それだけを気にするようにこちらを見上げていた。
「行くとこあんのか」
夢子は考えた。
人間の世界に家はない。
知り合いもいない。
泊まる場所もない。
財布というものすら、つい先日知ったばかりだ。
そして今さらながら、その事実に気づいたらしい。
みるみる顔が困っていく。
神田はそれだけで察した。
「……ねぇのか」
しゅん、と頷く。
「…………」
神田は空を仰いだ。
神田は少し考えたあと、短く言った。
「来い」
夢子が顔を上げた。
「教団に戻る」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、神田は少し考えてから付け足した。
「俺がいるとこだ」
その途端、夢子の表情がぱっと明るくなり、嬉しそうに何度も頷いた。
神田はそんな彼女を一度見て歩き出しかけたが、ふと足を止める。
「……そういや、お前」
夢子も立ち止まった。
「人間になったの、数日前なんだろ」
こくん。
「人間が普段どうやって暮らしてるか、分かってんのか?」
夢子は少し考えた。
海の中から人間を見たことなら何度もある。
船の上にいる者も、浜辺に集まっている者も、遠くから眺めてきた。
だから、まったく知らないわけではない。
夢子は帳面を開き、少し自信ありげに書いた。
『りくのひとは おはなしして たべて ねる』
「…………」
夢子は続きを待つように顔を上げる。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、それは暮らしを知っている人間の答えではなかった。
「……それだけか」
夢子は考える。
そして、こくん。
神田の眉間に皺が寄った。
「お前、それ人間じゃなくても大体やるだろ」
「…………」
言われてみればそうだった。
夢子は帳面を見下ろし、少しだけ眉を下げる。
神田は小さく息を吐いた。
「飯作ったり、風呂入ったり、服着たりすんのは」
それぞれの言葉は知っているらしく、夢子は頷いた。
「やったことあんのか。人間になってから」
今度は首を横へ振った。
「…………」
神田はしばらく彼女を見る。
「じゃあ何してたんだ、この数日」
夢子はすぐに書いた。
『あなたを さがしてました』
「…………」
「それ以外」
鉛筆が止まる。
考える。
『あるきました』
神田は額へ手を当てた。
どうやら想像していた以上に何も知らない。
人間が食べることも眠ることも、風呂や服が何なのかも、知識としては知っている。
だが、人間としてどう使い、どう暮らすのかはほとんど経験していないらしい。
「……要するに、本で知ってるだけか」
こくん。
「お前、教えたことは覚えられんのか」
今度は迷いなく、こくん。
その頷きだけは自信があった。
神田は少し考えたあと、もう一度歩き出した。
「分かんねぇことは勝手にやるな。誰かに聞け」
こくん。
「あと、俺がやってること全部真似すんな」
夢子は不思議そうに首を傾げた。
「……何でもねぇ。ついて来い」
夢子は勢いよく頷いた。
こくこくこく。
「……そんなに頷くな」
それでも頷く。
神田が歩き出す。
夢子もその後ろについていく。
今度はもう、行き先を心配する必要はなかった。
神田が行くところへ行けばいい。
そんな単純な結論に辿り着いたらしい。
少し先を歩きながら、神田は背後の気配を確認した。
足音がする。
一定の距離を保って、ちゃんとついてくる。
「…………」
妙に従順な女だった。
少し前まで海の中で暮らしていたせいなのか、世間知らずではあるものの、こちらの言葉を疑う様子がほとんどない。
神田は眉を寄せた。
(……大丈夫か、こいつ)
自分だからまだいい。
他の人間相手にも同じ調子なら、そのうちろくでもないことに巻き込まれそうだった。
そんなことを考えていると、後ろの足音が少し遠くなった。
神田が振り返ると、夢子は痛みを堪えるように眉を寄せながら、それでも懸命についてきていた。
先ほどから歩幅はかなり落としている。
それでも追いつけないということは、思っていた以上に痛むのだろう。
「足見せろ」
突然言われ、夢子は戸惑いながらも立ち止まった。
神田が視線を落とす。
陸の上を何日も裸足で歩き回った足は、細かな傷だらけだった。
皮膚が擦れて赤くなったところもあれば、すでに血が滲んでいる場所もある。
そのうえ魔女から与えられた脚は、歩くだけで刃物を踏むような痛みがあるという。
神田の眉間に皺が寄った。
「……これで俺探して歩き回ってたのか」
夢子は少し迷ってから、こくんと頷いた。
「馬鹿か」
しゅん、と眉が下がる。
神田はそれ以上何も言わず、夢子へ背を向けると、その場にしゃがみ込んだ。
「乗れ」
夢子は目を瞬いた。
何に。
意味が分からず立ったままでいると、神田が振り返る。
「背中。乗れ」
ようやく意味を理解した夢子は、驚いて首を横へ振った。
慌てて帳面を開き、
『あるけます』
と書いて見せる。
神田は一瞥した。
「歩けるかどうか聞いてねぇ」
『でも』
「その足で教団まで歩いたら、着く頃にはもっと酷くなってる」
夢子は自分の足を見る。
確かに痛い。
それでも神田に運んでもらうのは申し訳ないし、何より恥ずかしい。
迷っている間にも、神田の声が飛んでくる。
「早くしろ」
「…………」
断る余地はなさそうだった。
夢子はおそるおそる神田の背中へ身体を預け、首へ腕を回した。
神田が彼女の脚を支えて立ち上がる。
「ちゃんと掴まってろ」
こくん。
返事をするように、腕へ少しだけ力を込める。
さっきまで一歩進むたびに襲っていた痛みが消えた。
代わりに、頬のすぐそばに神田の黒い髪があり、背中から体温が伝わってくる。
「…………」
夢子の顔が、じわじわと赤くなる。
神田はそんなことには気づかず、そのまま歩き出した。
「落ちんなよ」
こくん。
今度はもう少し強く掴まる。
神田の背中は、海の中で手を繋いでいた時よりもずっと近かった。
半年前は、自分が意識を失った神田を抱えて海から運んだ。
今日は、その神田に自分が運ばれている。
そのことがなんだか不思議で、夢子は神田の肩越しに夕暮れの道を眺めた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
その日。
黒の教団に、一人の奇妙な女が連れて帰られることになった。
声を出せず、人間の常識をほとんど知らず、神田の後ろを、どこまでも素直について歩く女。
そして神田はまだ知らなかった。
この日からしばらく。
周囲の人間たちに、
「神田、子分拾ったの?」
と聞かれ続けることになるとは──。
つづく、2026/08/16
洞窟を出ると、二人は来た道を戻った。
行きと同じように、夢子が神田の手を引く。
尾びれを失った身体では、やはり思うように泳げない。少し進んでは体勢を崩し、そのたびに神田の手へ支えられた。
それでも今度は、行きよりも少しだけ気持ちが軽かった。
明日の朝になっても、自分は消えない。
神田に拒まれない限り、泡にはならない。
それが分かっただけで、さっきまで恐ろしく見えていた暗い海さえ、いつもの海に戻ったような気がした。
やがて水面が近づく。
二人は海上へ顔を出し、そのまま砂浜へ向かった。
足が海底へつくほど浅くなると、夢子は神田の手を離した。
少しだけ名残惜しかった。
もちろん、そんなことを顔に出すつもりはない。
出していないつもりだった。
「…………」
神田が横から見ている。
夢子は何でもない顔を作り、そっと前を向いた。
砂浜へ上がる。
全身から海水が滴った。
夢子はその場へ腰を下ろし、濡れた髪を耳へかけた。
海の向こうでは、夕日がほとんど沈みかけている。
ずいぶん長い一日だった。
朝には、今日が自分にとって最後の日になるかもしれないなどと思ってもいなかった。
神田を見つけて。
失恋したと思い込んで。
泡になる覚悟をして。
本人に告白を見つかって。
海の底まで一緒に潜り。
魔女から、まだ死なないと聞かされた。
そして、夢子はそっと自分の唇に触れた。
そこまで思い返したところで、頬が一気に熱くなる。
神田と口づけをした。
しかも、神田の方から。
「…………」
思い出しただけで心臓が跳ねた。
夢子は両手で頬を押さえた。
そんな彼女の少し離れた場所で、神田は黙って海を見ていた。
「……おい」
突然呼ばれ、夢子は顔を上げた。
神田がこちらを向いている。
「一回、試すぞ」
夢子は首を傾げた。
何を?
そう尋ねるより早く、神田が口を開いた。
「俺はお前が嫌いだ」
「…………」
夢子の表情が恐怖で固まった。
波の音だけが聞こえた。
ざあ、と白い波が砂浜へ寄せる。
夢子は神田を見た。
神田も夢子を見ている。
「…………」
何も起こらない。
夢子は恐る恐る自分の手を見た。
指が五本。
腕を見る。
脚を見る。
どこにも泡らしきものは浮かんでいない。
それでも怖くなって、慌てて胸元や髪まで確かめる。
神田も無言でその様子を見ていた。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起こらなかった。
神田の肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
「……ならねぇな」
夢子はゆっくり顔を上げた。
「…………」
神田を見る。
もう一度、自分の身体を見る。
やはり消えてはいない。
ようやく何をされたのか理解した。
夢子は慌てて帳面を取り出した。
濡れないように大事に包んでいたそれを開き、強い筆圧で書く。
『ひどいです』
神田は一瞥した。
「確認しただけだ」
『こわかったです』
「俺もだ」
夢子の手が止まった。
顔を上げる。
神田はもう海の方を見ていた。
「本当にあの魔女の言う通りか分かんねぇだろ」
ぶっきらぼうな声だった。
「言っただけで泡になられたら面倒だから試した」
面倒。
そう言われたのに、不思議と嫌な気はしなかった。
さっき神田は確かに、
『俺もだ』
と言った。
つまり、自分が本当に泡になったらどうしようと、神田も少しは怖かったのだ。
そう思うと、夢子の口元が自然と緩んだ。
神田が横目でそれを見る。
「……何笑ってんだ」
夢子は慌てて首を振った。
何でもない。
「…………」
神田はしばらく彼女を見ていた。
そして。
「泡になってみろ」
夢子の笑顔が消えた。
「…………!」
ぶんぶんぶんぶん。
ものすごい勢いで首を振る。
「俺はお前なんか――」
夢子は慌てて立ち上がった。
そのまま神田へ駆け寄る。
足に痛みが走ったが、それどころではない。
両手で神田の口を塞いだ。
「…………」
神田の目が細くなる。
夢子は必死だった。
言わないで。
お願いだから、それ以上言わないで。
声は出ない。
それでも表情だけで十分伝わったらしい。
神田は眉間に皺を寄せたあと、夢子の両手首を掴み、自分の口元から外した。
「何ビビってんだ。さっきならなかっただろ」
夢子はすぐに帳面へ書く。
『でも』
『ほんとうに』
『きらわれたら』
一度手が止まる。
『あわになります』
神田はその文字を見た。
「…………」
夢子はさらに書く。
『だから』
『いわないでください』
最後の一文字を書き終えると、不安そうに神田を見上げた。
神田は黙っている。
さっき自分が口にした『嫌いだ』では、何も起こらなかった。
つまり、少なくともあの言葉を口にした瞬間。
自分は本心からこの女を拒んではいなかったことになる。
神田はその事実に気づき、僅かに眉を寄せた。
好きなわけではない。
そんなものは、まだ分からない。
今日会ったばかりだ。
だが、嫌いでもないらしい。
神田は小さく息を吐いた。
「……じゃあ嫌われねぇように気をつけろ」
夢子が瞬きをする。
「俺に嫌われなきゃ泡にならねぇんだろ」
こくん。
「なら、それでいい」
「…………」
夢子の瞳が、見る見るうちに輝き始めた。
神田が露骨に嫌な顔をした。
「その顔やめろ」
夢子は慌てて両手で目元を隠した。
「隠せっつってねぇ」
手を下ろす。
やはり嬉しそうだった。
神田はもう何も言わなかった。
言えば言うほど、何かがおかしくなる。
そのまま歩き出す。
夢子も慌ててあとを追った。
歩くたび、足の裏に鋭い痛みが走る。
神田の歩幅は大きい。
少しずつ距離が開いていく。
それでも夢子は懸命についていった。
数歩先を歩いていた神田が、ふと足を止めた。
振り返る。
夢子は少し遅れて追いついた。
「遅ぇ」
申し訳なさそうに眉を下げる。
神田は彼女の脚へ視線を落とした。
そういえば、歩くたびに刃物を踏むような痛みがあると言っていた。
「……痛ぇのか」
夢子は少し迷ったあと、こくんと頷いた。
「なら最初から言え」
言えない。
声が出ないのだから。
夢子はじっと神田を見る。
神田も見返す。
数秒後。
「…………チッ」
神田は舌打ちした。
「そうだったな」
夢子の口元が少し緩んだ。
神田はまた歩き出した。
今度は、さっきより明らかに遅い。
夢子でも無理なくついていける速さだった。
そのことが嬉しくて、また神田の横顔を見てしまう。
「見るな」
慌てて前を向く。
しばらく二人で砂浜を歩いた。
やがて神田が何気なく口を開いた。
「まあ」
夢子が横を見る。
「本当に泡になったら」
神田の口元が、ほんの僅かに歪んだ。
「その泡で手ぇ洗ってやるよ」
「…………!」
夢子はその場で立ち止まった。
神田は構わず歩いていく。
夢子は慌てて帳面を開いた。
大きな字で書く。
『ひどいです!』
神田へ見えるように掲げた。
「なら泡になんな」
夢子はむっとした。
『あなたしだいです』
神田の足が止まった。
振り返る。
夢子は帳面を抱えたまま、不満そうに立っていた。
その通りだった。
彼女が泡になるかどうかは、自分次第。
面倒な契約を背負わされたものだ。
神田は眉間を押さえた。
「……だったら尚更、嫌われる事をすんなよ?」
夢子は目を瞬いた。
次の瞬間。
また、ぱあっと顔が明るくなった。
「…………」
神田はもう何も言わずに前を向いた。
背後からは、痛む足で一生懸命ついてくる気配がする。
歩くたびにあれだけの痛みがあるというのに、夢子は立ち止まることも、神田へ助けを求めることもなく、一定の距離を空けて黙々とあとを追っていた。
少し歩いたところで、神田はふと足を止めて振り返った。
やはり夢子はいる。
神田が止まったことに気づくと、彼女もその場で足を止め、何だろうというように首を傾げた。
「……お前、なんでついてくんだ?」
その問いに、夢子はすぐには帳面を開かなかった。
神田を見上げたあと、恥ずかしそうに視線を落とし、両手で帳面を持ったまま何となくもじもじしている。
「…………」
神田はしばらくその様子を見ていたが、何かを察したように近くの廊下へ視線を向けた。
「便所ならその辺でしろ」
夢子が勢いよく顔を上げた。
違う。
そう言いたげにぶんぶんと首を横へ振り、少し怒った顔で帳面を開くと、鉛筆を走らせる。
『あなたと いたい』
差し出された帳面を見て、神田は黙った。
それから夢子へ視線を戻す。
「……今日はもう家に帰れよ」
夢子はまた帳面へ鉛筆を走らせた。
『いえ ない』
「…………」
神田の目が止まった。
そういえば、こいつは海から来た人魚だった。
人間の姿になったからといって、陸に家まで生えてくるわけではない。
「もしかして行くとこねぇのか」
夢子はこくんと頷いた。
「じゃあ、昨日までどこで寝てたんだよ」
今度の返事は早かった。
『のじゅく』
「…………」
神田はその四文字を見つめたあと、ゆっくり夢子へ目を向けた。
人間になってから今日まで、神田を探して何日も歩き回っていたという。歩けばナイフで刺されるような痛みが走る足で、靴も履かずに街を歩き、夜になればその辺で眠っていたらしい。
――こんな若ぇ女が一人で野宿なんかして、よく襲われなかったな。
そこまで考えて、神田は眉を寄せた。
当の本人は、自分がどれほど危ないことをしていたのか分かっている様子もない。
ただ神田のそばにいていいのか、それだけを気にするようにこちらを見上げていた。
「行くとこあんのか」
夢子は考えた。
人間の世界に家はない。
知り合いもいない。
泊まる場所もない。
財布というものすら、つい先日知ったばかりだ。
そして今さらながら、その事実に気づいたらしい。
みるみる顔が困っていく。
神田はそれだけで察した。
「……ねぇのか」
しゅん、と頷く。
「…………」
神田は空を仰いだ。
神田は少し考えたあと、短く言った。
「来い」
夢子が顔を上げた。
「教団に戻る」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、神田は少し考えてから付け足した。
「俺がいるとこだ」
その途端、夢子の表情がぱっと明るくなり、嬉しそうに何度も頷いた。
神田はそんな彼女を一度見て歩き出しかけたが、ふと足を止める。
「……そういや、お前」
夢子も立ち止まった。
「人間になったの、数日前なんだろ」
こくん。
「人間が普段どうやって暮らしてるか、分かってんのか?」
夢子は少し考えた。
海の中から人間を見たことなら何度もある。
船の上にいる者も、浜辺に集まっている者も、遠くから眺めてきた。
だから、まったく知らないわけではない。
夢子は帳面を開き、少し自信ありげに書いた。
『りくのひとは おはなしして たべて ねる』
「…………」
夢子は続きを待つように顔を上げる。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、それは暮らしを知っている人間の答えではなかった。
「……それだけか」
夢子は考える。
そして、こくん。
神田の眉間に皺が寄った。
「お前、それ人間じゃなくても大体やるだろ」
「…………」
言われてみればそうだった。
夢子は帳面を見下ろし、少しだけ眉を下げる。
神田は小さく息を吐いた。
「飯作ったり、風呂入ったり、服着たりすんのは」
それぞれの言葉は知っているらしく、夢子は頷いた。
「やったことあんのか。人間になってから」
今度は首を横へ振った。
「…………」
神田はしばらく彼女を見る。
「じゃあ何してたんだ、この数日」
夢子はすぐに書いた。
『あなたを さがしてました』
「…………」
「それ以外」
鉛筆が止まる。
考える。
『あるきました』
神田は額へ手を当てた。
どうやら想像していた以上に何も知らない。
人間が食べることも眠ることも、風呂や服が何なのかも、知識としては知っている。
だが、人間としてどう使い、どう暮らすのかはほとんど経験していないらしい。
「……要するに、本で知ってるだけか」
こくん。
「お前、教えたことは覚えられんのか」
今度は迷いなく、こくん。
その頷きだけは自信があった。
神田は少し考えたあと、もう一度歩き出した。
「分かんねぇことは勝手にやるな。誰かに聞け」
こくん。
「あと、俺がやってること全部真似すんな」
夢子は不思議そうに首を傾げた。
「……何でもねぇ。ついて来い」
夢子は勢いよく頷いた。
こくこくこく。
「……そんなに頷くな」
それでも頷く。
神田が歩き出す。
夢子もその後ろについていく。
今度はもう、行き先を心配する必要はなかった。
神田が行くところへ行けばいい。
そんな単純な結論に辿り着いたらしい。
少し先を歩きながら、神田は背後の気配を確認した。
足音がする。
一定の距離を保って、ちゃんとついてくる。
「…………」
妙に従順な女だった。
少し前まで海の中で暮らしていたせいなのか、世間知らずではあるものの、こちらの言葉を疑う様子がほとんどない。
神田は眉を寄せた。
(……大丈夫か、こいつ)
自分だからまだいい。
他の人間相手にも同じ調子なら、そのうちろくでもないことに巻き込まれそうだった。
そんなことを考えていると、後ろの足音が少し遠くなった。
神田が振り返ると、夢子は痛みを堪えるように眉を寄せながら、それでも懸命についてきていた。
先ほどから歩幅はかなり落としている。
それでも追いつけないということは、思っていた以上に痛むのだろう。
「足見せろ」
突然言われ、夢子は戸惑いながらも立ち止まった。
神田が視線を落とす。
陸の上を何日も裸足で歩き回った足は、細かな傷だらけだった。
皮膚が擦れて赤くなったところもあれば、すでに血が滲んでいる場所もある。
そのうえ魔女から与えられた脚は、歩くだけで刃物を踏むような痛みがあるという。
神田の眉間に皺が寄った。
「……これで俺探して歩き回ってたのか」
夢子は少し迷ってから、こくんと頷いた。
「馬鹿か」
しゅん、と眉が下がる。
神田はそれ以上何も言わず、夢子へ背を向けると、その場にしゃがみ込んだ。
「乗れ」
夢子は目を瞬いた。
何に。
意味が分からず立ったままでいると、神田が振り返る。
「背中。乗れ」
ようやく意味を理解した夢子は、驚いて首を横へ振った。
慌てて帳面を開き、
『あるけます』
と書いて見せる。
神田は一瞥した。
「歩けるかどうか聞いてねぇ」
『でも』
「その足で教団まで歩いたら、着く頃にはもっと酷くなってる」
夢子は自分の足を見る。
確かに痛い。
それでも神田に運んでもらうのは申し訳ないし、何より恥ずかしい。
迷っている間にも、神田の声が飛んでくる。
「早くしろ」
「…………」
断る余地はなさそうだった。
夢子はおそるおそる神田の背中へ身体を預け、首へ腕を回した。
神田が彼女の脚を支えて立ち上がる。
「ちゃんと掴まってろ」
こくん。
返事をするように、腕へ少しだけ力を込める。
さっきまで一歩進むたびに襲っていた痛みが消えた。
代わりに、頬のすぐそばに神田の黒い髪があり、背中から体温が伝わってくる。
「…………」
夢子の顔が、じわじわと赤くなる。
神田はそんなことには気づかず、そのまま歩き出した。
「落ちんなよ」
こくん。
今度はもう少し強く掴まる。
神田の背中は、海の中で手を繋いでいた時よりもずっと近かった。
半年前は、自分が意識を失った神田を抱えて海から運んだ。
今日は、その神田に自分が運ばれている。
そのことがなんだか不思議で、夢子は神田の肩越しに夕暮れの道を眺めた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
その日。
黒の教団に、一人の奇妙な女が連れて帰られることになった。
声を出せず、人間の常識をほとんど知らず、神田の後ろを、どこまでも素直について歩く女。
そして神田はまだ知らなかった。
この日からしばらく。
周囲の人間たちに、
「神田、子分拾ったの?」
と聞かれ続けることになるとは──。
つづく、2026/08/16