マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第5話。
夢子は小さく頷き、神田の手を引いて洞窟の奥へ進んだ。
外から差し込んでいた青い光が、少しずつ遠ざかっていく。
岩壁には淡く発光する海藻が張りつき、足元では見たこともない小さな生き物が砂の中へ潜っていった。
ほんの数日前まで、夢子にとって海の中は自分の庭のようなものだった。
暗い海も。
冷たい水も。
何も怖くなかった。
今は少し違う。
尾びれを失った身体は思うように進まず、慣れ親しんだ場所なのに、神田の手がなければ心細かった。
何度か足が水に取られる。
そのたびに、繋いだ手へ力が加わった。
神田は振り返らない。
ただ、夢子が遅れれば速度を落とした。
それが嬉しくて、夢子はまた神田の横顔を見てしまう。
「……何だ」
気づかれた。
夢子は慌てて首を横に振った。
「なら前見ろ」
こくん。
素直に前へ向き直る。
それでも口元は少し緩んでいた。
やがて洞窟の最奥に、ぼんやりと紫色の光が見えてきた。
そこだけは海底とは思えないほど奇妙な空間だった。
色とりどりの瓶。
古びた本。
動物の骨らしきもの。
何に使うのか分からない薬草の束。
天井から吊るされた貝殻や宝石が、水の流れに揺られて静かに音を立てている。
その中央の大きな岩を削って作られた椅子に、一人の女が腰掛けていた。
魔女だ。
何かを煮込んでいたらしい。
目の前に浮かぶ大鍋をかき混ぜながら、退屈そうに欠伸をしている。
夢子は足を止めた。
魔女が顔を上げる。
「ん?」
視線が夢子へ向いた。
次に繋がれた手を辿るように、神田を見る。
「…………」
魔女の眉が上がった。
「おや」
夢子はなぜか嫌な予感がした。
「半年かけて字を覚えたと思ったら、今度は男を連れて帰ってきたのかい」
夢子の顔が一気に赤くなった。
神田の視線が横から刺さる。
「……半年かけて字を覚えたって話、本当だったんだな」
夢子はこくんと頷いた。
魔女が鍋から手を離し、面白そうに二人を眺めた。
「しかも、その男だろ?」
夢子はびくっとした。
「会いたい会いたいって、毎日うるさかった――」
ぶんぶんぶんぶん!!
夢子は必死で首を振った。
言わなくていい。
そこまで言わなくていい。
魔女はにやりと笑った。
「なんだい。本人にはまだ内緒だったのかい?」
神田が夢子を見る。
「…………」
夢子は目を逸らした。
だが、もう遅い。
「で?」
魔女は神田へ視線を移した。
「人間がこんな海の底まで何の用だい」
神田の顔から、先ほどまでの呆れが消えた。
「てめぇがこいつと契約した魔女か」
夢子の肩が跳ねた。
いきなり喧嘩腰だった。
魔女の眉もぴくりと動く。
「……ずいぶんな挨拶だね」
「契約を解除しろ」
「嫌だと言ったら?」
「斬る」
夢子は慌てて神田の腕へしがみついた。
ぶんぶんと首を振る。
やめて。
お願いだから、魔女を斬らないで。
魔女は目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ! なんだい、この男!」
「笑ってんじゃねぇ」
「なるほどねぇ。お前が半年も待った相手か」
夢子は恥ずかしさで消えたくなった。
泡になるより先に、今ここで消えてしまいたい。
神田はそんな夢子には構わず、魔女を睨んでいた。
「こいつ、明日の朝には泡になって消えるって言ってる」
魔女の笑いが止まった。
「……はい?」
神田の眉間に皺が寄る。
魔女がゆっくり夢子を見る。
「誰が?」
夢子は自分を指差した。
「何で?」
両手で泡がふわふわ浮かんでいくような仕草をする。
魔女はしばらく黙った。
「…………」
夢子も黙る。
数秒後。
魔女が深く息を吸った。
「お前、私の話をどこまで聞いてたんだい?」
夢子は瞬きをした。
「私は確かに言ったよ。想う男と結ばれなければ、最後には泡になるって」
こくん。
「それで?」
夢子は首を傾げた。
魔女は額を押さえた。
「いつ『人間になってすぐ両想いにならなきゃ翌朝消える』なんて言ったんだい」
「…………」
夢子の目が丸くなった。
神田も無言で魔女を見る。
「この契約で命が決まるのは、お前が相手に想いを告げたあとだ」
魔女は呆れたように続けた。
「想いを伝えたうえで、相手がはっきりお前を拒めば契約は終わる。その時、お前は海の泡になる」
夢子は固まった。
「逆に言えば――」
魔女の視線が神田へ向く。
「こいつがまだ答えを出してないなら、契約は終わってない」
「…………」
神田が夢子を見る。
夢子も神田を見る。
そのまま数秒、視線がぶつかった。
夢子はゆっくり魔女へ向き直る。
そして、自分を指差した。
次に、泡が消えていく仕草。
最後に、首を傾げる。
魔女は大きく頷いた。
「すぐには消えない。まぁ、今夜答えを出されれば知らんけどね」
「…………!」
夢子の顔から、一気に力が抜けた。
その場へへたり込みそうになる。
繋がっていた手が引かれた。
神田が支えたのだ。
「おい」
夢子は神田の腕へ縋るようにして、どうにか立ち直った。
生きられる。
明日が来る。
朝になっても、自分はいる。
その事実が理解できた途端、目の奥が熱くなった。
涙がぽろぽろと浮かび、水の中へ溶けていく。
神田が眉を寄せる。
「……何で泣く」
夢子は必死で首を振った。
嬉しいのだ。
ただ、それだけだった。
魔女が呆れたように二人を見ている。
「まったく。人の話を最後まで聞かないから、勝手に死ぬ覚悟なんかする羽目になるんだよ」
夢子はしゅんと眉を下げた。
言い返せない。
魔女は神田へ目を向けた。
「それで、人間」
「何だ」
「お前はどうする?」
神田の目が細くなる。
「何がだ」
「この子の告白への返事だよ」
夢子の身体が固まった。
忘れていた。
そうだった。
自分は神田へ、『あなたです』と書いた。
『あいしてます』まで見られた。
今、契約は発動されている。
どう転ぶかは神田の返事待ちになっている。
夢子は青ざめた。
神田がここで「無理だ」と言えば『泡』。
「…………」
神田は黙った。
夢子の心臓が嫌な音を立て始める。
魔女は急かさず、ただ神田を見ていた。
しばらくして、神田が口を開いた。
「知らねぇ」
夢子は目を瞬いた。
魔女も片眉を上げる。
「知らない?」
「今日会ったばっかだ」
神田は夢子を見る。
「こいつが俺のこと何も知らねぇのと同じで、俺もこいつのこと何も知らねぇ」
夢子は黙って神田を見上げた。
「そんな状態で答えなんか出せるか」
魔女の口元が、少しだけ上がった。
「なるほど」
神田は続ける。
「だから今は答えねぇ」
夢子の瞳が、また少しずつ輝き始めた。
神田はそれを見つけて、すぐに眉を寄せた。
「勘違いすんな」
ぴたり。
「好きだっつってんじゃねぇ」
夢子の眉がしゅんと下がる。
「だから何で一々そんな顔すんだ」
魔女が吹き出した。
神田が睨む。
「笑うな」
「いや、面白いねぇ」
魔女は頬杖をついた。
「だったら好きになるかどうか、これから決めればいい」
神田は答えなかった。
「それまで契約は保留だ。お前がこの子を拒まない限り、泡にはならない」
夢子はぱっと魔女を見る。
魔女は肩をすくめた。
「よかったじゃないか」
夢子は何度も頷いた。
そして神田を見る。
(´。✪ω✪。 ` )
「…………」
神田の眉間にまた皺が寄る。
「その目やめろ」
夢子は慌てて両手で目元を隠した。
魔女がまた笑った。
「随分気に入られたもんだねぇ」
「知らねぇよ」
「ところで」
魔女の視線が、二人の顔を交互に行き来する。
「どうやってここまで潜ってきた?」
夢子の動きが止まった。
嫌な予感がした。
魔女の口元がにやりと上がる。
「人間は水の中じゃ息できないはずだけど?」
夢子の顔が一気に赤くなった。
神田は何でもないことのように答えた。
「こいつに聞いた」
「何を?」
「人魚にキスされりゃ息できる、とな」
「…………へぇ」
魔女の目が輝いた。
夢子は両手で顔を覆った。
やめて。
お願いだから、それ以上聞かないで。
「それで?」
神田は怪訝そうに眉を寄せた。
「何が」
「この子からしたのかい?」
夢子はぶんぶんと首を振った。
魔女の視線が神田へ移る。
数秒。
「…………お前から?」
「いつまで経ってもしねぇからな」
夢子はその場にしゃがみ込んだ。
魔女が腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ! 半年片想いして、やっと会った男に告白して、返事より先に口づけされたのかい!」
夢子は顔を上げられない。
もう帰りたい。
海底の家へではない。
存在そのものをどこかへ隠したい。
神田だけが意味を理解できていなかった。
「何がおかしい」
「いやぁ……お前には分からないだろうねぇ」
「気色悪ぃ笑い方すんな」
ひとしきり笑ったあと、魔女は目尻を拭った。
「まあいい。契約はそのままにしておくよ」
神田の目つきが再び鋭くなる。
「解除できねぇのか」
「できるよ」
夢子が顔を上げた。
「ただし、今解除すればこの子は人魚へ戻る」
魔女は夢子の脚を示した。
「脚は消える。声は返す。海へ戻って、今まで通り暮らせる。ただ、もう二度と人にはなれないね」
夢子は自分の脚を見た。
それから神田を見る。
「どうする?」
魔女が尋ねる。
「今なら全部、元通りにしてやれる」
海へ帰れる。
家へ帰れる。
声も戻る。
足の痛みも消える。
泡になる心配もない。
神田に再会する前なら、迷わず選んでいたかもしれない。
神田はこちらを見てはいなかった。
魔女を警戒するように立っている。
好きだと言ってくれたわけではない。
これから好きになると言ってくれたわけでもない。
ただ。
『今は答えない』
それだけだった。
それでも、夢子はゆっくり首を横に振った。
魔女が目を細める。
「戻らない?」
こくん。
「本当に?」
もう一度、頷いた。
神田が横から夢子を見る。
夢子は少し恥ずかしそうに笑った。
せっかく人間になったのだ。
まだ何も知らない。
神田のことも。
人間の世界のことも。
これから知りたい。
魔女はしばらく夢子を見つめ、やがて小さく笑った。
「好きにしな」
そして神田を見る。
「人間」
「何だ」
「この子を泣かせるんじゃないよ」
「知るか」
夢子の眉がまた下がる。
「……だからその顔すんな」
神田は深く息を吐いた。
「行くぞ」
踵を返す。
数歩進んだところで、神田は止まった。
振り返る。
夢子はまだ魔女の前に立っていた。
「何してんだ」
夢子は自分を指差した。
「お前以外誰がいんだよ」
目が丸くなる。
神田は面倒そうに言った。
「帰るぞ」
夢子の顔がぱっと明るくなった。
慌てて神田のもとへ泳いでいく。
やはり脚では上手く進めず、途中で身体が傾いた。
神田が黙って手を差し出した。
夢子はその手を見た。
そして、嬉しそうに握った。
魔女は遠ざかっていく二人の背中を見送っていた。
人魚だった娘と、娘が半年も恋い焦がれた、無愛想な人間の男。
繋いだ手を見つめ、魔女は小さく笑う。
「……さて」
あの男が答えを出すのは、いつになることやら。
二人の姿が洞窟の外へ消えていった。
つづく、2026/08/16
夢子は小さく頷き、神田の手を引いて洞窟の奥へ進んだ。
外から差し込んでいた青い光が、少しずつ遠ざかっていく。
岩壁には淡く発光する海藻が張りつき、足元では見たこともない小さな生き物が砂の中へ潜っていった。
ほんの数日前まで、夢子にとって海の中は自分の庭のようなものだった。
暗い海も。
冷たい水も。
何も怖くなかった。
今は少し違う。
尾びれを失った身体は思うように進まず、慣れ親しんだ場所なのに、神田の手がなければ心細かった。
何度か足が水に取られる。
そのたびに、繋いだ手へ力が加わった。
神田は振り返らない。
ただ、夢子が遅れれば速度を落とした。
それが嬉しくて、夢子はまた神田の横顔を見てしまう。
「……何だ」
気づかれた。
夢子は慌てて首を横に振った。
「なら前見ろ」
こくん。
素直に前へ向き直る。
それでも口元は少し緩んでいた。
やがて洞窟の最奥に、ぼんやりと紫色の光が見えてきた。
そこだけは海底とは思えないほど奇妙な空間だった。
色とりどりの瓶。
古びた本。
動物の骨らしきもの。
何に使うのか分からない薬草の束。
天井から吊るされた貝殻や宝石が、水の流れに揺られて静かに音を立てている。
その中央の大きな岩を削って作られた椅子に、一人の女が腰掛けていた。
魔女だ。
何かを煮込んでいたらしい。
目の前に浮かぶ大鍋をかき混ぜながら、退屈そうに欠伸をしている。
夢子は足を止めた。
魔女が顔を上げる。
「ん?」
視線が夢子へ向いた。
次に繋がれた手を辿るように、神田を見る。
「…………」
魔女の眉が上がった。
「おや」
夢子はなぜか嫌な予感がした。
「半年かけて字を覚えたと思ったら、今度は男を連れて帰ってきたのかい」
夢子の顔が一気に赤くなった。
神田の視線が横から刺さる。
「……半年かけて字を覚えたって話、本当だったんだな」
夢子はこくんと頷いた。
魔女が鍋から手を離し、面白そうに二人を眺めた。
「しかも、その男だろ?」
夢子はびくっとした。
「会いたい会いたいって、毎日うるさかった――」
ぶんぶんぶんぶん!!
夢子は必死で首を振った。
言わなくていい。
そこまで言わなくていい。
魔女はにやりと笑った。
「なんだい。本人にはまだ内緒だったのかい?」
神田が夢子を見る。
「…………」
夢子は目を逸らした。
だが、もう遅い。
「で?」
魔女は神田へ視線を移した。
「人間がこんな海の底まで何の用だい」
神田の顔から、先ほどまでの呆れが消えた。
「てめぇがこいつと契約した魔女か」
夢子の肩が跳ねた。
いきなり喧嘩腰だった。
魔女の眉もぴくりと動く。
「……ずいぶんな挨拶だね」
「契約を解除しろ」
「嫌だと言ったら?」
「斬る」
夢子は慌てて神田の腕へしがみついた。
ぶんぶんと首を振る。
やめて。
お願いだから、魔女を斬らないで。
魔女は目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ! なんだい、この男!」
「笑ってんじゃねぇ」
「なるほどねぇ。お前が半年も待った相手か」
夢子は恥ずかしさで消えたくなった。
泡になるより先に、今ここで消えてしまいたい。
神田はそんな夢子には構わず、魔女を睨んでいた。
「こいつ、明日の朝には泡になって消えるって言ってる」
魔女の笑いが止まった。
「……はい?」
神田の眉間に皺が寄る。
魔女がゆっくり夢子を見る。
「誰が?」
夢子は自分を指差した。
「何で?」
両手で泡がふわふわ浮かんでいくような仕草をする。
魔女はしばらく黙った。
「…………」
夢子も黙る。
数秒後。
魔女が深く息を吸った。
「お前、私の話をどこまで聞いてたんだい?」
夢子は瞬きをした。
「私は確かに言ったよ。想う男と結ばれなければ、最後には泡になるって」
こくん。
「それで?」
夢子は首を傾げた。
魔女は額を押さえた。
「いつ『人間になってすぐ両想いにならなきゃ翌朝消える』なんて言ったんだい」
「…………」
夢子の目が丸くなった。
神田も無言で魔女を見る。
「この契約で命が決まるのは、お前が相手に想いを告げたあとだ」
魔女は呆れたように続けた。
「想いを伝えたうえで、相手がはっきりお前を拒めば契約は終わる。その時、お前は海の泡になる」
夢子は固まった。
「逆に言えば――」
魔女の視線が神田へ向く。
「こいつがまだ答えを出してないなら、契約は終わってない」
「…………」
神田が夢子を見る。
夢子も神田を見る。
そのまま数秒、視線がぶつかった。
夢子はゆっくり魔女へ向き直る。
そして、自分を指差した。
次に、泡が消えていく仕草。
最後に、首を傾げる。
魔女は大きく頷いた。
「すぐには消えない。まぁ、今夜答えを出されれば知らんけどね」
「…………!」
夢子の顔から、一気に力が抜けた。
その場へへたり込みそうになる。
繋がっていた手が引かれた。
神田が支えたのだ。
「おい」
夢子は神田の腕へ縋るようにして、どうにか立ち直った。
生きられる。
明日が来る。
朝になっても、自分はいる。
その事実が理解できた途端、目の奥が熱くなった。
涙がぽろぽろと浮かび、水の中へ溶けていく。
神田が眉を寄せる。
「……何で泣く」
夢子は必死で首を振った。
嬉しいのだ。
ただ、それだけだった。
魔女が呆れたように二人を見ている。
「まったく。人の話を最後まで聞かないから、勝手に死ぬ覚悟なんかする羽目になるんだよ」
夢子はしゅんと眉を下げた。
言い返せない。
魔女は神田へ目を向けた。
「それで、人間」
「何だ」
「お前はどうする?」
神田の目が細くなる。
「何がだ」
「この子の告白への返事だよ」
夢子の身体が固まった。
忘れていた。
そうだった。
自分は神田へ、『あなたです』と書いた。
『あいしてます』まで見られた。
今、契約は発動されている。
どう転ぶかは神田の返事待ちになっている。
夢子は青ざめた。
神田がここで「無理だ」と言えば『泡』。
「…………」
神田は黙った。
夢子の心臓が嫌な音を立て始める。
魔女は急かさず、ただ神田を見ていた。
しばらくして、神田が口を開いた。
「知らねぇ」
夢子は目を瞬いた。
魔女も片眉を上げる。
「知らない?」
「今日会ったばっかだ」
神田は夢子を見る。
「こいつが俺のこと何も知らねぇのと同じで、俺もこいつのこと何も知らねぇ」
夢子は黙って神田を見上げた。
「そんな状態で答えなんか出せるか」
魔女の口元が、少しだけ上がった。
「なるほど」
神田は続ける。
「だから今は答えねぇ」
夢子の瞳が、また少しずつ輝き始めた。
神田はそれを見つけて、すぐに眉を寄せた。
「勘違いすんな」
ぴたり。
「好きだっつってんじゃねぇ」
夢子の眉がしゅんと下がる。
「だから何で一々そんな顔すんだ」
魔女が吹き出した。
神田が睨む。
「笑うな」
「いや、面白いねぇ」
魔女は頬杖をついた。
「だったら好きになるかどうか、これから決めればいい」
神田は答えなかった。
「それまで契約は保留だ。お前がこの子を拒まない限り、泡にはならない」
夢子はぱっと魔女を見る。
魔女は肩をすくめた。
「よかったじゃないか」
夢子は何度も頷いた。
そして神田を見る。
(´。✪ω✪。 ` )
「…………」
神田の眉間にまた皺が寄る。
「その目やめろ」
夢子は慌てて両手で目元を隠した。
魔女がまた笑った。
「随分気に入られたもんだねぇ」
「知らねぇよ」
「ところで」
魔女の視線が、二人の顔を交互に行き来する。
「どうやってここまで潜ってきた?」
夢子の動きが止まった。
嫌な予感がした。
魔女の口元がにやりと上がる。
「人間は水の中じゃ息できないはずだけど?」
夢子の顔が一気に赤くなった。
神田は何でもないことのように答えた。
「こいつに聞いた」
「何を?」
「人魚にキスされりゃ息できる、とな」
「…………へぇ」
魔女の目が輝いた。
夢子は両手で顔を覆った。
やめて。
お願いだから、それ以上聞かないで。
「それで?」
神田は怪訝そうに眉を寄せた。
「何が」
「この子からしたのかい?」
夢子はぶんぶんと首を振った。
魔女の視線が神田へ移る。
数秒。
「…………お前から?」
「いつまで経ってもしねぇからな」
夢子はその場にしゃがみ込んだ。
魔女が腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ! 半年片想いして、やっと会った男に告白して、返事より先に口づけされたのかい!」
夢子は顔を上げられない。
もう帰りたい。
海底の家へではない。
存在そのものをどこかへ隠したい。
神田だけが意味を理解できていなかった。
「何がおかしい」
「いやぁ……お前には分からないだろうねぇ」
「気色悪ぃ笑い方すんな」
ひとしきり笑ったあと、魔女は目尻を拭った。
「まあいい。契約はそのままにしておくよ」
神田の目つきが再び鋭くなる。
「解除できねぇのか」
「できるよ」
夢子が顔を上げた。
「ただし、今解除すればこの子は人魚へ戻る」
魔女は夢子の脚を示した。
「脚は消える。声は返す。海へ戻って、今まで通り暮らせる。ただ、もう二度と人にはなれないね」
夢子は自分の脚を見た。
それから神田を見る。
「どうする?」
魔女が尋ねる。
「今なら全部、元通りにしてやれる」
海へ帰れる。
家へ帰れる。
声も戻る。
足の痛みも消える。
泡になる心配もない。
神田に再会する前なら、迷わず選んでいたかもしれない。
神田はこちらを見てはいなかった。
魔女を警戒するように立っている。
好きだと言ってくれたわけではない。
これから好きになると言ってくれたわけでもない。
ただ。
『今は答えない』
それだけだった。
それでも、夢子はゆっくり首を横に振った。
魔女が目を細める。
「戻らない?」
こくん。
「本当に?」
もう一度、頷いた。
神田が横から夢子を見る。
夢子は少し恥ずかしそうに笑った。
せっかく人間になったのだ。
まだ何も知らない。
神田のことも。
人間の世界のことも。
これから知りたい。
魔女はしばらく夢子を見つめ、やがて小さく笑った。
「好きにしな」
そして神田を見る。
「人間」
「何だ」
「この子を泣かせるんじゃないよ」
「知るか」
夢子の眉がまた下がる。
「……だからその顔すんな」
神田は深く息を吐いた。
「行くぞ」
踵を返す。
数歩進んだところで、神田は止まった。
振り返る。
夢子はまだ魔女の前に立っていた。
「何してんだ」
夢子は自分を指差した。
「お前以外誰がいんだよ」
目が丸くなる。
神田は面倒そうに言った。
「帰るぞ」
夢子の顔がぱっと明るくなった。
慌てて神田のもとへ泳いでいく。
やはり脚では上手く進めず、途中で身体が傾いた。
神田が黙って手を差し出した。
夢子はその手を見た。
そして、嬉しそうに握った。
魔女は遠ざかっていく二人の背中を見送っていた。
人魚だった娘と、娘が半年も恋い焦がれた、無愛想な人間の男。
繋いだ手を見つめ、魔女は小さく笑う。
「……さて」
あの男が答えを出すのは、いつになることやら。
二人の姿が洞窟の外へ消えていった。
つづく、2026/08/16