マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第4話。
神田は砂を見た。
次に夢子を見る。
また砂を見る。
「…………」
夢子はこくんと頷いた。
神田の視線が、彼女の二本の脚へ落ちた。
「脚あるだろ」
至極もっともな指摘だった。
夢子は慌てて書く。
『まえは』
『さかなでした』
神田の眉がぴくりと動いた。
正確には魚ではない。
もっといい表現があるはずなのだが、今の夢子の語彙ではそれが限界だった。
『しっぽが ありました』
両手で魚の尾びれらしき形まで作ってみせる。
神田はしばらく黙っていた。
そして。
「……だから字知らなかったのか」
夢子はぱっと顔を上げた。
こくこくこく。
神田の中で半年間文字を習っていた理由が、ようやく一本につながった。
「…………」
そういうことか。
決して家が貧しくて教育を受けられなかったわけではない。
そもそも人間ではなかったのだ。
神田は内心で一つの誤解を静かに撤回した。
夢子はそんなことなど知らず、さらに書く。
『こえと』
『しっぽを』
『まじょに あげました』
神田の目つきが変わった。
「魔女?」
こくん。
「そいつがお前をこうしたのか」
こくこく。
「どこにいる」
夢子は海を指差した。
神田も海を見る。
「……海ん中か」
頷く。
「案内しろ」
夢子は固まった。
「行くぞ」
ぶんぶんぶんぶん。
ものすごい勢いで首を振る。
神田の眉間に皺が寄った。
「何だよ」
夢子は神田を指差した。
次に海を指差す。
そして自分の口を押さえ、
頬を膨らませた。
神田が無言になる。
「……俺が息できねぇって?」
こくこく。
「お前は?」
夢子は自分を指差して、こくんと頷く。
尾びれこそ失ったが、人魚として持っていた海中での呼吸まで奪われたわけではない。
問題は神田だった。
「じゃあどうすんだ」
夢子の動きが止まる。
方法はある。
あるにはある。
魔女のもとへ向かう前、人魚の間では当たり前に知られていたこと。
人魚から口づけを受けた人間は、その人魚と共にいる間、海の中でも呼吸することができる。
ただし、夢子にとって、それを神田へ伝えるのは、泡になる話を説明するより難しかった。
頬がじわじわ熱くなる。
神田が怪訝そうに見る。
「何だ」
夢子は帳面を開いた。
砂へ書くには、あまりにも恥ずかしい。
何度か書こうとして、止める。
また書いて。
消す。
神田の苛立ちが少しずつ増していく。
「早くしろ」
夢子は意を決した。
帳面へ小さく書く。
『にんぎょに』
一度止まる。
『くちづけを されると』
もうこの時点で顔が真っ赤だった。
『にんげんも』
『うみのなかで いきができます』
書き終わった。
夢子は帳面を神田へ差し出したまま、顔を横へ向けた。
神田は黙って読む。
「…………」
数秒。
「……キス?」
夢子は耳まで真っ赤になりながら頷いた。
「お前が俺に?」
小さく。
こくん。
神田は夢子を見る。
夢子は見事なまでに神田と目を合わせない。
先ほど砂へ『あなたです』と書いた女である。
好きな男との口づけとなれば、平静でいられるわけがない。
神田には、その辺りの乙女心など知ったことではなかった。
必要な手段が一つある。
ただそれだけだった。
「ならやれ」
夢子が勢いよく神田を見た。
「必要なんだろ」
必要です。
必要だが。
そう簡単に言わないでほしい。
夢子は神田の前へ立った。
一歩近づく。
心臓が壊れそうだった。
神田の顔が近い。
半年前。
意識を失っていた時には、あんなに近くで見た。
今は目が開いている。
こちらを見ている。
無理。
夢子は一歩下がった。
神田の眉が寄る。
「おい」
もう一度近づく。
背伸びをする。
あと少し。
そこで止まる。
また離れる。
「…………」
三度目。
夢子は両手を胸元で握りしめ、覚悟を決めて神田へ顔を近づけた。
しかし、やはり直前で止まった。
神田が息を吐く。
「いつまでやってんだ」
夢子は泣きそうな顔で神田を見る。
無理なのだ。
好きなのだ。
半年間ずっと好きだった男なのだ。
そんな相手と、今から初めて――。
その時、顎に指が触れた。
「……!」
顔を上げさせられる。
何が起きたのか理解するより先に、神田の顔が近づいた。
唇が触れた。
ほんの一瞬だった。
触れただけの、短い口づけ。
神田はすぐに離れた。
「これでいいのか」
夢子は固まっていた。
目を見開いたまま動かない。
「おい」
「…………」
「聞いてんだろ」
夢子の顔が、首まで真っ赤になった。
そして両手で口元を覆った。
神田が眉を寄せる。
「何だよ」
夢子は何度も頷いた。
いい。
これでいい。
海中呼吸の術は、間違いなく神田へ移った。
問題は、夢子本人の心臓が、今にも止まりそうなことだった。
神田はそんな彼女を見ていたが、やがて海へ視線を向けた。
「行くぞ」
夢子はまだ口元を押さえている。
「おい、案内しろ」
はっと我に返り、慌てて神田を追った。
海へ入る。
足首。
膝。
腰。
少しずつ身体が海水に包まれていく。
夢子にとっては、ほんの数日前まで当たり前だった場所だ。
それでも今は身体が違う。
尾びれがない。
二本の脚では、水を強く蹴ることができなかった。
深い場所まで来ると、夢子は身体を沈めた。
神田も続く。
一度、水中で息を止めた神田が、慎重に息を吸う。
普通に呼吸ができた。
神田の目がわずかに細くなる。
本当にできるらしい。
隣で夢子が心配そうに覗き込んでいた。
大丈夫?
声は出ない。
それでも顔に全部書いてある。
神田は水中でも構わず口を開いた。
「できてる」
水の中だからか、声がくぐもりながらも届いた。
夢子の顔がぱっと明るくなる。
そして魔女の住処へ向かって泳ぎ始めた。
……つもりだった。
身体が思うように進まない。
「…………」
尾びれを一度大きく振れば、簡単に進めた。
今は脚だ。脚の使い方がわからない。
両脚をばたつかせても、身体が上下へ揺れるだけ。
少し進んでは体勢を崩し、また泳ぐ。
神田が横から見ていた。
「……お前、人魚じゃなかったのか」
夢子はむっとして神田を見る。
今は人間の脚なのだ。
仕方がない。
さらに泳ごうとして、身体がくるりと横へ傾いた。
「…………」
神田が腕を掴んだ。
夢子は驚いて振り返る。
「このままじゃ着かねぇだろ」
神田は一度周囲を見た。
「どっちだ」
夢子は海の奥を指差した。
それから神田の手を見る。
掴まれた腕。
少し迷った末に、夢子はその手へ自分の手を重ねた。
神田が見る。
夢子はもう片方の手で、進む方向を指差した。
案内する。
そういう意味だった。
神田も察したらしい。
何も言わず、その手を握り直した。
夢子の心臓がまた跳ねた。
先ほど口づけまでされたのだから、今さら手を繋いだくらいで動揺する必要などない。
そう思うのに。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
夢子は神田の手を引きながら、ゆっくりと海の奥へ進んでいった。
何度かふらつき、そのたびに神田の手が支えてくれる。
神田にとっては、ただ道を見失わないためのものだった。
夢子にとっては違った。
半年前。
沈んでいく神田へ、必死に手を伸ばした。
あの時は一方的に自分が彼を掴んだ。
今は、神田も自分の手を握っている。
それだけで、どうしようもなく胸が温かくなった。
珊瑚の森を抜ける。
色鮮やかな魚たちが、二人の周囲を泳いでいく。
さらに奥へ。
陽の光が届かなくなり、海の色が深い青へ変わっていく。
その先に。
岩壁へぽっかりと開いた、暗い洞窟が見えてきた。
夢子が足を止めた。
神田も止まる。
「ここか」
こくん。
魔女の住処。
夢子は繋いだ手を見た。
そして神田を見上げる。
神田は洞窟の奥を睨んでいた。
「行くぞ」
つづく、2026/08/16
神田は砂を見た。
次に夢子を見る。
また砂を見る。
「…………」
夢子はこくんと頷いた。
神田の視線が、彼女の二本の脚へ落ちた。
「脚あるだろ」
至極もっともな指摘だった。
夢子は慌てて書く。
『まえは』
『さかなでした』
神田の眉がぴくりと動いた。
正確には魚ではない。
もっといい表現があるはずなのだが、今の夢子の語彙ではそれが限界だった。
『しっぽが ありました』
両手で魚の尾びれらしき形まで作ってみせる。
神田はしばらく黙っていた。
そして。
「……だから字知らなかったのか」
夢子はぱっと顔を上げた。
こくこくこく。
神田の中で半年間文字を習っていた理由が、ようやく一本につながった。
「…………」
そういうことか。
決して家が貧しくて教育を受けられなかったわけではない。
そもそも人間ではなかったのだ。
神田は内心で一つの誤解を静かに撤回した。
夢子はそんなことなど知らず、さらに書く。
『こえと』
『しっぽを』
『まじょに あげました』
神田の目つきが変わった。
「魔女?」
こくん。
「そいつがお前をこうしたのか」
こくこく。
「どこにいる」
夢子は海を指差した。
神田も海を見る。
「……海ん中か」
頷く。
「案内しろ」
夢子は固まった。
「行くぞ」
ぶんぶんぶんぶん。
ものすごい勢いで首を振る。
神田の眉間に皺が寄った。
「何だよ」
夢子は神田を指差した。
次に海を指差す。
そして自分の口を押さえ、
頬を膨らませた。
神田が無言になる。
「……俺が息できねぇって?」
こくこく。
「お前は?」
夢子は自分を指差して、こくんと頷く。
尾びれこそ失ったが、人魚として持っていた海中での呼吸まで奪われたわけではない。
問題は神田だった。
「じゃあどうすんだ」
夢子の動きが止まる。
方法はある。
あるにはある。
魔女のもとへ向かう前、人魚の間では当たり前に知られていたこと。
人魚から口づけを受けた人間は、その人魚と共にいる間、海の中でも呼吸することができる。
ただし、夢子にとって、それを神田へ伝えるのは、泡になる話を説明するより難しかった。
頬がじわじわ熱くなる。
神田が怪訝そうに見る。
「何だ」
夢子は帳面を開いた。
砂へ書くには、あまりにも恥ずかしい。
何度か書こうとして、止める。
また書いて。
消す。
神田の苛立ちが少しずつ増していく。
「早くしろ」
夢子は意を決した。
帳面へ小さく書く。
『にんぎょに』
一度止まる。
『くちづけを されると』
もうこの時点で顔が真っ赤だった。
『にんげんも』
『うみのなかで いきができます』
書き終わった。
夢子は帳面を神田へ差し出したまま、顔を横へ向けた。
神田は黙って読む。
「…………」
数秒。
「……キス?」
夢子は耳まで真っ赤になりながら頷いた。
「お前が俺に?」
小さく。
こくん。
神田は夢子を見る。
夢子は見事なまでに神田と目を合わせない。
先ほど砂へ『あなたです』と書いた女である。
好きな男との口づけとなれば、平静でいられるわけがない。
神田には、その辺りの乙女心など知ったことではなかった。
必要な手段が一つある。
ただそれだけだった。
「ならやれ」
夢子が勢いよく神田を見た。
「必要なんだろ」
必要です。
必要だが。
そう簡単に言わないでほしい。
夢子は神田の前へ立った。
一歩近づく。
心臓が壊れそうだった。
神田の顔が近い。
半年前。
意識を失っていた時には、あんなに近くで見た。
今は目が開いている。
こちらを見ている。
無理。
夢子は一歩下がった。
神田の眉が寄る。
「おい」
もう一度近づく。
背伸びをする。
あと少し。
そこで止まる。
また離れる。
「…………」
三度目。
夢子は両手を胸元で握りしめ、覚悟を決めて神田へ顔を近づけた。
しかし、やはり直前で止まった。
神田が息を吐く。
「いつまでやってんだ」
夢子は泣きそうな顔で神田を見る。
無理なのだ。
好きなのだ。
半年間ずっと好きだった男なのだ。
そんな相手と、今から初めて――。
その時、顎に指が触れた。
「……!」
顔を上げさせられる。
何が起きたのか理解するより先に、神田の顔が近づいた。
唇が触れた。
ほんの一瞬だった。
触れただけの、短い口づけ。
神田はすぐに離れた。
「これでいいのか」
夢子は固まっていた。
目を見開いたまま動かない。
「おい」
「…………」
「聞いてんだろ」
夢子の顔が、首まで真っ赤になった。
そして両手で口元を覆った。
神田が眉を寄せる。
「何だよ」
夢子は何度も頷いた。
いい。
これでいい。
海中呼吸の術は、間違いなく神田へ移った。
問題は、夢子本人の心臓が、今にも止まりそうなことだった。
神田はそんな彼女を見ていたが、やがて海へ視線を向けた。
「行くぞ」
夢子はまだ口元を押さえている。
「おい、案内しろ」
はっと我に返り、慌てて神田を追った。
海へ入る。
足首。
膝。
腰。
少しずつ身体が海水に包まれていく。
夢子にとっては、ほんの数日前まで当たり前だった場所だ。
それでも今は身体が違う。
尾びれがない。
二本の脚では、水を強く蹴ることができなかった。
深い場所まで来ると、夢子は身体を沈めた。
神田も続く。
一度、水中で息を止めた神田が、慎重に息を吸う。
普通に呼吸ができた。
神田の目がわずかに細くなる。
本当にできるらしい。
隣で夢子が心配そうに覗き込んでいた。
大丈夫?
声は出ない。
それでも顔に全部書いてある。
神田は水中でも構わず口を開いた。
「できてる」
水の中だからか、声がくぐもりながらも届いた。
夢子の顔がぱっと明るくなる。
そして魔女の住処へ向かって泳ぎ始めた。
……つもりだった。
身体が思うように進まない。
「…………」
尾びれを一度大きく振れば、簡単に進めた。
今は脚だ。脚の使い方がわからない。
両脚をばたつかせても、身体が上下へ揺れるだけ。
少し進んでは体勢を崩し、また泳ぐ。
神田が横から見ていた。
「……お前、人魚じゃなかったのか」
夢子はむっとして神田を見る。
今は人間の脚なのだ。
仕方がない。
さらに泳ごうとして、身体がくるりと横へ傾いた。
「…………」
神田が腕を掴んだ。
夢子は驚いて振り返る。
「このままじゃ着かねぇだろ」
神田は一度周囲を見た。
「どっちだ」
夢子は海の奥を指差した。
それから神田の手を見る。
掴まれた腕。
少し迷った末に、夢子はその手へ自分の手を重ねた。
神田が見る。
夢子はもう片方の手で、進む方向を指差した。
案内する。
そういう意味だった。
神田も察したらしい。
何も言わず、その手を握り直した。
夢子の心臓がまた跳ねた。
先ほど口づけまでされたのだから、今さら手を繋いだくらいで動揺する必要などない。
そう思うのに。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
夢子は神田の手を引きながら、ゆっくりと海の奥へ進んでいった。
何度かふらつき、そのたびに神田の手が支えてくれる。
神田にとっては、ただ道を見失わないためのものだった。
夢子にとっては違った。
半年前。
沈んでいく神田へ、必死に手を伸ばした。
あの時は一方的に自分が彼を掴んだ。
今は、神田も自分の手を握っている。
それだけで、どうしようもなく胸が温かくなった。
珊瑚の森を抜ける。
色鮮やかな魚たちが、二人の周囲を泳いでいく。
さらに奥へ。
陽の光が届かなくなり、海の色が深い青へ変わっていく。
その先に。
岩壁へぽっかりと開いた、暗い洞窟が見えてきた。
夢子が足を止めた。
神田も止まる。
「ここか」
こくん。
魔女の住処。
夢子は繋いだ手を見た。
そして神田を見上げる。
神田は洞窟の奥を睨んでいた。
「行くぞ」
つづく、2026/08/16