マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第3話。
神田は視線を逸らした。
「……別に」
何が別になのか、夢子には分からなかった。
ただ、神田はそれ以上文字のことを聞かなかった。
家庭事情に踏み込む趣味はなかった。
夢子はほっとして、小さく笑った。
そして改めて目の前の男を見上げる。
半年間。
ずっと会いたかった。
文字を覚えている間も。
足を手に入れたあとも。
痛みに耐えて街を探し回っている間も。
何度も、この瞬間だけを想像した。
神田が自分を見ている。
自分の書いた文字を読んでくれる。
それだけで、胸の奥がいっぱいになった。
ほんの少し前まで、自分はこの海で消えるつもりだった。
そのことさえ、今だけは遠い出来事のように思えた。
神田がふと口を開いた。
「……で」
夢子が瞬きをする。
神田は顎で、波に消されかけた文字を示した。
「何で俺なんだ」
夢子の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「…………」
手の中の枯れ枝へ視線を落とす。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
好きだから。
愛しているから。
それは分かっている。
では、どうして好きになったのかと聞かれると――自分でも、よく分からなかった。
神田は半年前に一度助けただけの人だ。
まともに話したこともない。
何が好きなのかも知らない。
どこで暮らしているのかも、どんな仕事をしているのかも、今日まで何一つ知らなかった。
知っていることといえば、あの嵐の夜、恐ろしい相手と刀を持って戦っていたこと。
気を失っている時まで、少し怖い顔をしていたこと。
そして、自分が何日経っても、あの人のことを忘れられなかったこと。
「…………」
夢子は枯れ枝の先で砂をつついた。
一度。
二度。
三度。
神田の眉間に皺が寄る。
「……何してんだ」
聞こえている。
返事を考えているだけなのだ。
夢子は少しだけ頬を膨らませ、しばらく迷った末に文字を書いた。
『わかりません』
神田の眉がさらに寄った。
「は?」
夢子は肩を縮めた。
怒られた。
そんな顔をしながら、慌てて続きを書く。
『でも』
そこでまた手が止まる。
どう書けば伝わるだろう。
あの日の翌日。
理由もないのに、またこの砂浜へ来た。
誰もいないと分かっていたのに。
もしかしたら、また会えるかもしれないと思った。
その次の日も来た。
さらにその次の日も。
毎日、海から陸を眺めていた。
いつの間にか、長い黒髪を探すようになっていた。
夢子は慎重に文字を続けた。
『また あいたい おもいました』
神田は黙って読んでいる。
『つぎのひも』
少し横へ移動する。
『そのつぎのひも』
さらに書く。
『ここに きました』
書き終わった夢子は、枯れ枝を握ったまま俯いた。
思い返してみれば、ずいぶん恥ずかしい。
毎日毎日。
来るはずもない人を待って、一人で砂浜を眺めていたのだ。
神田は砂に並んだ文字を見下ろしている。
「……俺を探しに?」
夢子は小さく頷いた。
「毎日?」
また頷く。
「…………」
神田が黙った。
夢子は恐る恐る顔を上げた。
神田は呆れたような、何とも言えない顔をしていた。
「暇だったのか、お前」
夢子の頬がむっと膨らんだ。
違う。
そういうことではない。
すぐに砂へ向き直り、
『ちがいます』
と少し強めに書く。
「じゃあ何だ」
[#dn=1#]はまた悩んだ。
そして、ゆっくり文字を足した。
『あいたかった』
神田の目が、その言葉で止まった。
夢子はもう顔を上げられなかった。
恥ずかしい。
こんなことなら、声が出なくてよかったかもしれない。
もし声が残っていたとしても、とても口にはできそうにない。
砂へ書くだけでも、心臓が飛び出しそうだった。
それでも、もうすぐ消えるつもりだった自分が、こうして本人と話せている。
それだけで胸がいっぱいだった。
もう少しだけ。
自分の気持ちを知ってほしい。
夢子は、小さな文字で続きを書いた。
『いつのまにか』
一度手を止めた。
頬が熱い。
それでも、最後まで書いた。
『すきでした』
神田は何も言わなかった。
海から吹く風が、二人の間を通り抜けていく。
夢子は枯れ枝を両手で握りしめた。
「……それだけか」
神田の声がした。
夢子は顔を上げた。
「俺、お前に何もしてねぇぞ」
こくん。
「助けられたのは俺の方だろ」
こくん。
「まともに話したのも今日が初めてだ」
こくん。
神田はしばらく夢子を見ていた。
彼女も神田を見上げていた。
嬉しそうに。
恥ずかしそうに。
それでも、どこか眩しいものでも見るような目で。
「…………」
神田が僅かに顔を背けた。
「そんな目で見んな」
夢子はぱちぱちと瞬きをした。
どんな目だろう。
自分では分からない。
首を傾げると、神田の眉間の皺が深くなった。
「……お前、俺のこと何も知らねぇだろ」
それは、その通りだった。
夢子は素直に頷く。
神田の目が細くなる。
「そこは否定しねぇのかよ」
夢子は困った。
知らないものは知らない。
嘘をついても仕方がない。
神田の好きな食べ物も。
嫌いなものも。
普段何をしているのかも。
あの刀が何なのかも。
どうして半年前、あんな恐ろしい相手と戦っていたのかも。
何も知らない。
だから、夢子は砂へ枯れ枝を下ろした。
今度は迷わなかった。
一文字ずつ、丁寧に書く。
『これから』
神田が目で文字を追う。
『しりたいです』
書き終える。
夢子は少しだけ緊張しながら、神田を見上げた。
神田は黙っていた。
「…………」
夢子も黙っている。
もっとも、こちらは最初から喋れない。
しばらく波の音だけが続いた。
やがて神田は小さく息を吐いた。
「……変な女」
夢子の眉がしゅんと下がった。
神田はその顔を見て、また黙る。
少しして、ぶっきらぼうに付け足した。
「悪い意味じゃねぇ」
夢子の顔がぱっと明るくなる。
神田は眉間を押さえた。
「だから、その顔やめろっつってんだろ」
夢子は慌てて頬を両手で押さえた。
そんなことを言われても、嬉しいのだから仕方がない。
半年間、会いたいと願い続けた人が目の前にいる。
自分の書いた文字を読んでくれている。
それだけで、胸の奥がふわふわと浮き上がってしまいそうだった。
神田はそんな夢子をしばらく見ていたが、やがて視線を砂浜へ落とした。
そこには先ほどから、告白の残骸が大量に残っている。
『あいしてます』
『あなたです』
『あいたかったから』
『すきでした』
『これから しりたいです』
改めて並べてみると、なかなか壮観だった。
神田は眉間に皺を寄せた。
「……で、お前」
夢子が首を傾げる。
「さっき、何であんな顔してた」
夢子の笑顔が止まった。
「俺が声かける前だ」
神田は波打ち際を見る。
「今にも死にそうな面してただろ」
心臓がどくりと鳴った。
夢子は目を逸らした。
神田の眉が上がる。
「……何だ」
夢子は答えなかった。
答えられない、ではない。
書きたくなかった。
ほんの少し前まで、自分は神田に何も伝えず、この海で消えるつもりだった。
その理由を説明するとなると――。
夢子は枯れ枝を握ったまま、しばらく砂を見つめていた。
やがて、小さく文字を書く。
『あなたに』
手が止まる。
神田は黙って待っていた。
『すきなひとが いると』
そこまで書いたところで、神田が眉を寄せた。
「……」
夢子は続きを書く。
『おもったから』
「…………」
神田は砂の文字と夢子を交互に見た。
「俺に?」
こくん。
「好きな奴が?」
こくこく。
神田の顔に、心当たりがまるでないという色が浮かんだ。
「誰だよ」
夢子は困った。
名前を知らない。
砂へ書く。
『くろいかみの』
少し考えて、
『きれいな おんなのひと』
神田は黙った。
夢子はさらに書き足す。
『はんとしまえ』
『あなたの そばにいました』
そして今日。
『きょうも いっしょでした』
神田の眉間の皺が、ゆっくり深くなっていく。
「…………」
どうやら思い当たったらしい。
「……リナのことか」
夢子は名前を知らない。
それでも、おそらくその人だろうと思い、こくこくと頷いた。
神田は数秒黙った。
「違ぇよ」
夢子は瞬きをした。
「…………」
もう一度、瞬きをする。
神田を見る。
神田もこちらを見ている。
夢子はそっと枯れ枝を持ち上げた。
『なにがですか』
「何がって」
神田が面倒そうに答える。
「リナと俺は、そういうんじゃねぇ」
「…………」
夢子の目が丸くなった。
神田は続けた。
「あいつは同じ教団の人間だ」
「…………」
『でも』
急いで文字を書く。
「まだあんのかよ」
『はんとしまえも』
『そばに』
神田の顔がますます険しくなった。
「違ぇ」
神田は即答した。
「リナはエクソシスト仲間だ。エクソシスト、わかるか?一緒に闘う仲間だ」
「…………」
夢子の手から枯れ枝が落ちた。
ぽす、と砂の上へ転がる。
神田が眉を寄せる。
「何だ」
夢子は固まっていた。
つまり、神田とあの女性は恋人ではない。
半年間、勝手に想像して。
勝手に遅かったと思い。
勝手に身を引こうとして。
勝手に――。
泡になろうとしていた。
夢子の頬がみるみる赤くなった。
神田は訝しげに見下ろす。
「おい」
夢子は両手で顔を覆った。
「……何なんだ、さっきから」
穴があったら入りたい。
できれば海溝くらい深い穴がいい。
神田は少し待った。
それでも夢子が顔を上げないので、低い声で言った。
「で」
びくり。
「それで何で死にそうな顔になんだ」
夢子の動きが止まった。
そこは誤魔化せなかった。
神田は見ていた。
砂に書いた『あいしてます』が波に消えていくのを、夢子がただ座って眺めていたことも。
まるで何かを待っているように。
覚悟を決めるように。
夢子はゆっくり両手を下ろした。
再び枯れ枝を拾う。
今度は、なかなか文字を書けなかった。
神田は急かさなかった。
やがて。
『あした』
と書いた。
「明日?」
『あさに なったら』
少し離れたところへ続きを書く。
手が震える。
『わたしは』
そして最後に。
『あわになります』
神田が黙った。
海から吹く風が、二人の間を抜けていく。
「…………は?」
夢子は神田を見ることができず、そのまま説明を続けた。
『にんげんに なったとき』
『やくそくしました』
神田の視線が文字を追う。
『すきなひとと』
『むすばれなかったら』
『あわに なります』
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
神田は夢子を見た。
頭から足まで。
そして、もう一度顔を見る。
「お前」
夢子が恐る恐る顔を上げた。
「何言ってんだ」
やはりそうなる。
夢子は必死に首を振り、続きを書いた。
『ほんとうです』
「人間になるって何だ」
そこで夢子の手が止まった。
そういえば、話していなかった。
夢子は少し迷った末に、
『わたし』
と書く。
その下へ。
『にんぎょです』
つづく、2026/08/16
神田は視線を逸らした。
「……別に」
何が別になのか、夢子には分からなかった。
ただ、神田はそれ以上文字のことを聞かなかった。
家庭事情に踏み込む趣味はなかった。
夢子はほっとして、小さく笑った。
そして改めて目の前の男を見上げる。
半年間。
ずっと会いたかった。
文字を覚えている間も。
足を手に入れたあとも。
痛みに耐えて街を探し回っている間も。
何度も、この瞬間だけを想像した。
神田が自分を見ている。
自分の書いた文字を読んでくれる。
それだけで、胸の奥がいっぱいになった。
ほんの少し前まで、自分はこの海で消えるつもりだった。
そのことさえ、今だけは遠い出来事のように思えた。
神田がふと口を開いた。
「……で」
夢子が瞬きをする。
神田は顎で、波に消されかけた文字を示した。
「何で俺なんだ」
夢子の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「…………」
手の中の枯れ枝へ視線を落とす。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
好きだから。
愛しているから。
それは分かっている。
では、どうして好きになったのかと聞かれると――自分でも、よく分からなかった。
神田は半年前に一度助けただけの人だ。
まともに話したこともない。
何が好きなのかも知らない。
どこで暮らしているのかも、どんな仕事をしているのかも、今日まで何一つ知らなかった。
知っていることといえば、あの嵐の夜、恐ろしい相手と刀を持って戦っていたこと。
気を失っている時まで、少し怖い顔をしていたこと。
そして、自分が何日経っても、あの人のことを忘れられなかったこと。
「…………」
夢子は枯れ枝の先で砂をつついた。
一度。
二度。
三度。
神田の眉間に皺が寄る。
「……何してんだ」
聞こえている。
返事を考えているだけなのだ。
夢子は少しだけ頬を膨らませ、しばらく迷った末に文字を書いた。
『わかりません』
神田の眉がさらに寄った。
「は?」
夢子は肩を縮めた。
怒られた。
そんな顔をしながら、慌てて続きを書く。
『でも』
そこでまた手が止まる。
どう書けば伝わるだろう。
あの日の翌日。
理由もないのに、またこの砂浜へ来た。
誰もいないと分かっていたのに。
もしかしたら、また会えるかもしれないと思った。
その次の日も来た。
さらにその次の日も。
毎日、海から陸を眺めていた。
いつの間にか、長い黒髪を探すようになっていた。
夢子は慎重に文字を続けた。
『また あいたい おもいました』
神田は黙って読んでいる。
『つぎのひも』
少し横へ移動する。
『そのつぎのひも』
さらに書く。
『ここに きました』
書き終わった夢子は、枯れ枝を握ったまま俯いた。
思い返してみれば、ずいぶん恥ずかしい。
毎日毎日。
来るはずもない人を待って、一人で砂浜を眺めていたのだ。
神田は砂に並んだ文字を見下ろしている。
「……俺を探しに?」
夢子は小さく頷いた。
「毎日?」
また頷く。
「…………」
神田が黙った。
夢子は恐る恐る顔を上げた。
神田は呆れたような、何とも言えない顔をしていた。
「暇だったのか、お前」
夢子の頬がむっと膨らんだ。
違う。
そういうことではない。
すぐに砂へ向き直り、
『ちがいます』
と少し強めに書く。
「じゃあ何だ」
[#dn=1#]はまた悩んだ。
そして、ゆっくり文字を足した。
『あいたかった』
神田の目が、その言葉で止まった。
夢子はもう顔を上げられなかった。
恥ずかしい。
こんなことなら、声が出なくてよかったかもしれない。
もし声が残っていたとしても、とても口にはできそうにない。
砂へ書くだけでも、心臓が飛び出しそうだった。
それでも、もうすぐ消えるつもりだった自分が、こうして本人と話せている。
それだけで胸がいっぱいだった。
もう少しだけ。
自分の気持ちを知ってほしい。
夢子は、小さな文字で続きを書いた。
『いつのまにか』
一度手を止めた。
頬が熱い。
それでも、最後まで書いた。
『すきでした』
神田は何も言わなかった。
海から吹く風が、二人の間を通り抜けていく。
夢子は枯れ枝を両手で握りしめた。
「……それだけか」
神田の声がした。
夢子は顔を上げた。
「俺、お前に何もしてねぇぞ」
こくん。
「助けられたのは俺の方だろ」
こくん。
「まともに話したのも今日が初めてだ」
こくん。
神田はしばらく夢子を見ていた。
彼女も神田を見上げていた。
嬉しそうに。
恥ずかしそうに。
それでも、どこか眩しいものでも見るような目で。
「…………」
神田が僅かに顔を背けた。
「そんな目で見んな」
夢子はぱちぱちと瞬きをした。
どんな目だろう。
自分では分からない。
首を傾げると、神田の眉間の皺が深くなった。
「……お前、俺のこと何も知らねぇだろ」
それは、その通りだった。
夢子は素直に頷く。
神田の目が細くなる。
「そこは否定しねぇのかよ」
夢子は困った。
知らないものは知らない。
嘘をついても仕方がない。
神田の好きな食べ物も。
嫌いなものも。
普段何をしているのかも。
あの刀が何なのかも。
どうして半年前、あんな恐ろしい相手と戦っていたのかも。
何も知らない。
だから、夢子は砂へ枯れ枝を下ろした。
今度は迷わなかった。
一文字ずつ、丁寧に書く。
『これから』
神田が目で文字を追う。
『しりたいです』
書き終える。
夢子は少しだけ緊張しながら、神田を見上げた。
神田は黙っていた。
「…………」
夢子も黙っている。
もっとも、こちらは最初から喋れない。
しばらく波の音だけが続いた。
やがて神田は小さく息を吐いた。
「……変な女」
夢子の眉がしゅんと下がった。
神田はその顔を見て、また黙る。
少しして、ぶっきらぼうに付け足した。
「悪い意味じゃねぇ」
夢子の顔がぱっと明るくなる。
神田は眉間を押さえた。
「だから、その顔やめろっつってんだろ」
夢子は慌てて頬を両手で押さえた。
そんなことを言われても、嬉しいのだから仕方がない。
半年間、会いたいと願い続けた人が目の前にいる。
自分の書いた文字を読んでくれている。
それだけで、胸の奥がふわふわと浮き上がってしまいそうだった。
神田はそんな夢子をしばらく見ていたが、やがて視線を砂浜へ落とした。
そこには先ほどから、告白の残骸が大量に残っている。
『あいしてます』
『あなたです』
『あいたかったから』
『すきでした』
『これから しりたいです』
改めて並べてみると、なかなか壮観だった。
神田は眉間に皺を寄せた。
「……で、お前」
夢子が首を傾げる。
「さっき、何であんな顔してた」
夢子の笑顔が止まった。
「俺が声かける前だ」
神田は波打ち際を見る。
「今にも死にそうな面してただろ」
心臓がどくりと鳴った。
夢子は目を逸らした。
神田の眉が上がる。
「……何だ」
夢子は答えなかった。
答えられない、ではない。
書きたくなかった。
ほんの少し前まで、自分は神田に何も伝えず、この海で消えるつもりだった。
その理由を説明するとなると――。
夢子は枯れ枝を握ったまま、しばらく砂を見つめていた。
やがて、小さく文字を書く。
『あなたに』
手が止まる。
神田は黙って待っていた。
『すきなひとが いると』
そこまで書いたところで、神田が眉を寄せた。
「……」
夢子は続きを書く。
『おもったから』
「…………」
神田は砂の文字と夢子を交互に見た。
「俺に?」
こくん。
「好きな奴が?」
こくこく。
神田の顔に、心当たりがまるでないという色が浮かんだ。
「誰だよ」
夢子は困った。
名前を知らない。
砂へ書く。
『くろいかみの』
少し考えて、
『きれいな おんなのひと』
神田は黙った。
夢子はさらに書き足す。
『はんとしまえ』
『あなたの そばにいました』
そして今日。
『きょうも いっしょでした』
神田の眉間の皺が、ゆっくり深くなっていく。
「…………」
どうやら思い当たったらしい。
「……リナのことか」
夢子は名前を知らない。
それでも、おそらくその人だろうと思い、こくこくと頷いた。
神田は数秒黙った。
「違ぇよ」
夢子は瞬きをした。
「…………」
もう一度、瞬きをする。
神田を見る。
神田もこちらを見ている。
夢子はそっと枯れ枝を持ち上げた。
『なにがですか』
「何がって」
神田が面倒そうに答える。
「リナと俺は、そういうんじゃねぇ」
「…………」
夢子の目が丸くなった。
神田は続けた。
「あいつは同じ教団の人間だ」
「…………」
『でも』
急いで文字を書く。
「まだあんのかよ」
『はんとしまえも』
『そばに』
神田の顔がますます険しくなった。
「違ぇ」
神田は即答した。
「リナはエクソシスト仲間だ。エクソシスト、わかるか?一緒に闘う仲間だ」
「…………」
夢子の手から枯れ枝が落ちた。
ぽす、と砂の上へ転がる。
神田が眉を寄せる。
「何だ」
夢子は固まっていた。
つまり、神田とあの女性は恋人ではない。
半年間、勝手に想像して。
勝手に遅かったと思い。
勝手に身を引こうとして。
勝手に――。
泡になろうとしていた。
夢子の頬がみるみる赤くなった。
神田は訝しげに見下ろす。
「おい」
夢子は両手で顔を覆った。
「……何なんだ、さっきから」
穴があったら入りたい。
できれば海溝くらい深い穴がいい。
神田は少し待った。
それでも夢子が顔を上げないので、低い声で言った。
「で」
びくり。
「それで何で死にそうな顔になんだ」
夢子の動きが止まった。
そこは誤魔化せなかった。
神田は見ていた。
砂に書いた『あいしてます』が波に消えていくのを、夢子がただ座って眺めていたことも。
まるで何かを待っているように。
覚悟を決めるように。
夢子はゆっくり両手を下ろした。
再び枯れ枝を拾う。
今度は、なかなか文字を書けなかった。
神田は急かさなかった。
やがて。
『あした』
と書いた。
「明日?」
『あさに なったら』
少し離れたところへ続きを書く。
手が震える。
『わたしは』
そして最後に。
『あわになります』
神田が黙った。
海から吹く風が、二人の間を抜けていく。
「…………は?」
夢子は神田を見ることができず、そのまま説明を続けた。
『にんげんに なったとき』
『やくそくしました』
神田の視線が文字を追う。
『すきなひとと』
『むすばれなかったら』
『あわに なります』
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
神田は夢子を見た。
頭から足まで。
そして、もう一度顔を見る。
「お前」
夢子が恐る恐る顔を上げた。
「何言ってんだ」
やはりそうなる。
夢子は必死に首を振り、続きを書いた。
『ほんとうです』
「人間になるって何だ」
そこで夢子の手が止まった。
そういえば、話していなかった。
夢子は少し迷った末に、
『わたし』
と書く。
その下へ。
『にんぎょです』
つづく、2026/08/16