マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第2話。
その日の夕方。
夢子は、半年前に神田を助けた砂浜へ戻っていた。
すべてが始まった場所だった。
水平線へ沈みかけた夕日が、海面を赤く染めている。
夢子は波打ち際から少し離れた場所へ座った。
膝を抱え、海を見つめる。
もう分かっていた。
想う相手と結ばれなければ、自分は泡になる。
魔女から、最初に聞かされていた。
それでも人間になった。
あのときは、きっと大丈夫だと思っていた。
会えば何かが始まる。
そう信じていた。
今は違う。
怖い。
死にたくない。
海の底へ帰りたい。
自分の寝床で眠りたい。
でも、もう戻れない。
明日も、その次の日も生きていたい。
できるなら、今から神田のところへ行きたかった。
帳面を見せて。
全部伝えてしまいたかった。
助けたのは自分だと。
会いたくて人間になったのだと。
半年もかけて文字を覚えたのだと。
好きなのだと。
そうすれば、何か一つくらい変わるかもしれない。
ほんの少しでも未来が変わるかもしれない。
それでも、神田の隣にいた女性の姿が浮かんだ。
夢子は目を伏せた。
神田には、もう大切な人がいる。
自分が今さら現れてはいけない。
そう思わなければ、覚悟などできそうになかった。
足元に一本の枯れ枝が落ちていた。
夢子はそれを拾った。
砂へ先端を押しつける。
手が震えた。
ゆっくりと、一文字ずつ書いていく。
『あ』
線が少し曲がった。
『い』
胸の奥が苦しくなる。
『し』
息が浅くなった。
『て』
目の奥が熱くなる。
『ま』
そこで手が止まった。
本当にこれでいいのか。
神田に会いたい。
自分を見てほしい。
好きだと言いたい。
一緒にいたかった。
何度も何度も、そんな思いが胸の奥から溢れてくる。
枯れ枝を握った手が震える。
夢子はしばらく動けなかった。
やがて、ぎゅっと目を閉じる。
そして最後の一文字を書いた。
『す』
砂浜に、一つの言葉が残った。
『あいしてます』
夢子はじっとその文字を見つめた。
誰かに見せるつもりはない。
神田に伝えるためでもない。
これは、自分のために書いた言葉だった。
最後まで好きだった。
それだけは、なかったことにしたくなかった。
もうすぐ自分は消える。
身体を失い、泡になり、海へ溶けていく。
その事実を受け入れるために書いた。
言葉という形にしてしまえば、少しだけ覚悟ができるような気がした。
波が近づいてくる。
夢子は逃げなかった。
白い波が砂を濡らし、『あ』の端を崩した。
次の波で『い』が消える。
[#dn=1#]は膝を抱えたまま、その様子を見ていた。
自分も、こうなるのだ。
形を失って。
誰にも触れられなくなって。
最後には何も残らない。
怖い。
たまらなく怖い。
それでも、目を逸らさなかった。
『し』が崩れる。
『て』が消える。
あと少しで、全部なくなる。
夢子は唇を噛んだ。
そして自分自身へ言い聞かせるように、ほんの少しだけ頷いた。
そのときだった。
「……誰をだ?」
背後から、低い声がした。
夢子の身体が跳ねた。
勢いよく振り返る。
そこには――
半年間、ずっと会いたかった男が立っていた。
長い黒髪が、海から吹く風に揺れている。
半年間、何度も思い出した顔だった。
眠る前にも。
言葉を覚えてる最中にも。
もう一度会えたならと、何度も何度も思い描いた。
その人が今、自分のすぐ後ろに立っている。
夢子は目を見開いたまま、動けなくなった。
つい先ほどまで遠くから眺めることしかできなかった人が、手を伸ばせば届きそうな場所にいる。
死ぬ覚悟を決めようとしていたことも。
さっきまで泣きそうだったことも。
一瞬で全部どこかへ飛んでいった。
ただ嬉しかった。
胸の奥から、どうしようもないほど嬉しさが込み上げてくる。
夢子の瞳が、みるみる輝いていった。
神田はそんな彼女を怪訝そうに見下ろした。
「……何だ?」
夢子は答えようとした。
口を開く。
――何も出ない。
分かっていたはずなのに。
今まで声が出ないことなど、何度も確かめてきたのに。
神田を目の前にした瞬間だけ、話せる気がしてしまった。
夢子は慌てて口を閉じる。
神田の眉が寄った。
「お前、喋れねぇのか?」
夢子はこくこくと頷いた。
「…………」
神田はそれ以上何も言わなかった。
気の毒そうな顔もしない。
理由を根掘り葉掘り聞こうともしない。
ただ一度だけ夢子の喉元へ視線を落とし、
「そうか」
と短く言った。
それだけだった。
夢子は少しだけ肩の力を抜いた。
神田の視線が砂浜へ移る。
波に崩されかけた文字が、曖昧な形でまだ残っていた。
『あいしてます』
文字は形を失っている。
それでも、何が書いてあったのかは十分に分かる。
神田はその文字を見下ろし、もう一度夢子へ目を戻した。
「で」
夢子の身体が強張った。
「誰をだ」
忘れてくれていなかった。
夢子は手の中の枯れ枝をぎゅっと握った。
心臓がうるさい。
答えるつもりなどなかった。
ほんの少し前までは、誰にも伝えずに消えるつもりだった。
神田には大切な人がいる。
自分の気持ちは邪魔になる。
そう思ったから、誰にも見られない砂浜へ書いたのだ。
それなのに、本人が来てしまった。
それも、向こうから聞いてきた。
夢子は砂へ目を落とした。
どうしよう。
何と書けばいい。
半年間、こんな日のために文字を覚えてきたはずなのに、頭の中が真っ白だった。
そしてなぜか最初に浮かんだのは、何度も練習したその言葉だった。
枯れ枝を砂へつける。
ゆっくりと書いた。
『こんにちは』
神田は黙ってそれを読んだ。
「…………」
夢子は恐る恐る顔を上げる。
神田と目が合った。
「さっきの答えになってねぇ」
夢子ははっとした。
そうだった。
半年ぶりに会えたことが嬉しすぎて、完全に挨拶を優先してしまった。
恥ずかしさに頬が熱くなる。
神田は呆れたように息を吐いた。
「誰を愛してんだって聞いてんだ」
夢子はまた砂へ視線を落とした。
逃げたい。
今すぐ海まで走って逃げたい。
そんなことをすれば、歩くたびに足が死ぬほど痛むのだが、今はそれすら忘れていた。
枯れ枝の先が小さく震える。
少し迷って。
一度、手を止めて。
それでも最後には、ゆっくりと文字を書いた。
『あなたです』
書き終わった瞬間、夢子は俯いた。
もう顔など上げられない。
耳まで熱い。
神田は砂の文字を見下ろしていた。
「…………」
長い沈黙が落ちる。
夢子の鼓動がますます速くなる。
やっぱり書かなければよかった。
今から枝先で消してしまおうか。
そんなことを考え始めた頃、頭上から声がした。
「……俺?」
夢子は小さく頷いた。
神田の眉間に皺が寄った。
当然だった。
神田にとって夢子は、今ここで初めてまともに顔を合わせた女なのだ。
しかも喋れない。
砂浜に一人で座り、『あいしてます』などと書いていた。
声をかけたら目を輝かせた。
そのうえ突然、『あなたです』。
どう考えても意味が分からない。
「……お前」
神田は少し間を置いた。
「俺とどっかで会ったか?」
夢子は勢いよく顔を上げた。
こくこくと何度も頷く。
神田の目が細くなる。
「いつだ」
夢子はすぐに砂へ向き直った。
『はんとしまえ』
「半年前?」
こくん。
次の文字を書く。
『このうみで』
神田の表情が、わずかに変わった。
夢子は気づかないまま、さらに書き続ける。
『あらしのひ』
そこまで書くと、神田の呼吸音すら聞こえなくなった。
半年前。
海。
嵐。
その三つに、思い当たることがあった。
あの夜。
海上で戦闘になり、最後に相手の攻撃を受けた。
そこから先の記憶は途切れている。
次に目を覚ました時、自分は浜辺に倒れていた。
そばにはリナリーがいた。
だが――。
『私が来た時には、もうここに倒れてたわよ』
あの時、そう言っていた。
神田の視線が夢子へ戻る。
彼女はまだ何かを書こうとしていた。
何度か途中で形を間違え、枝の先で消す。
そして、慎重に一文字ずつ並べた。
『あなたを たすけました』
風が吹いた。
夢子の髪が頬へかかる。
彼女は期待と不安が入り混じった顔で神田を見上げた。
神田は砂の一文をしばらく見つめていた。
「……お前だったのか」
夢子は頷いた。
あの日、海の底へ沈んでいく神田を追った。
浜辺まで運んだ。
生きていることを確かめて。
人が来る気配に慌てて逃げた。
全部、自分だった。
半年間ずっと伝えたかったことを、ようやく伝えられた。
夢子の顔に、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
神田はそんな彼女をじっと見た。
そして、ふと砂に並ぶ文字へ目を落とした。
一つ一つの字は、読めないほどではない。
ただ、決して上手くはなかった。
線の長さが揃っていない。
文字の大きさもばらばらだ。
書き慣れていないことが、一目で分かる。
神田は眉を寄せた。
夢子は一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに胸元から小さな帳面を取り出す。
ぱらぱらとページをめくり、ある場所を神田へ見せた。
そこには何度も書き直した跡が残っていた。
『こんにちは』
『ありがとう』
『わたしは [#dn=1#]です』
同じ文字が、何行も何行も並んでいる。
最初の方は、もはや文字と呼べるのか怪しい。
後ろへ進むにつれて、少しずつ形が整っていた。
神田は黙って帳面を見た。
夢子はまた砂へ文字を書く。
『はんとしかけて』
「……半年?」
こくこく。
『おぼえました』
夢子は少し誇らしそうだった。
これで神田と話せる。
そのためだけに、毎日頑張って覚えたのだ。
神田はしばらく無言だった。
夢子には、その沈黙の意味が分からない。
実際のところ、神田の頭にはまったく別の疑問が浮かんでいた。
(……半年かけて読み書きを覚えた?)
目の前の女は子供ではない。
どう見ても、とうに文字を習う年齢は過ぎている。
それまで字を覚える機会すらなかったということになる。
神田は夢子の服装を見た。
次に、かなり使い込まれた帳面を見る。
そして再び本人を見る。
(……こいつの家、相当貧乏なのか)
もちろん違う。
そもそも半年前まで海の底で暮らしていたので、人間の文字など知る必要がなかっただけである。
だが、神田がそんなことを知るはずもない。
沈黙が長くなり、夢子は不安そうに首を傾げた。
つづく、2026/08/16
神田が夢子に声を掛けたのは、ただの気まぐれです。
その日の夕方。
夢子は、半年前に神田を助けた砂浜へ戻っていた。
すべてが始まった場所だった。
水平線へ沈みかけた夕日が、海面を赤く染めている。
夢子は波打ち際から少し離れた場所へ座った。
膝を抱え、海を見つめる。
もう分かっていた。
想う相手と結ばれなければ、自分は泡になる。
魔女から、最初に聞かされていた。
それでも人間になった。
あのときは、きっと大丈夫だと思っていた。
会えば何かが始まる。
そう信じていた。
今は違う。
怖い。
死にたくない。
海の底へ帰りたい。
自分の寝床で眠りたい。
でも、もう戻れない。
明日も、その次の日も生きていたい。
できるなら、今から神田のところへ行きたかった。
帳面を見せて。
全部伝えてしまいたかった。
助けたのは自分だと。
会いたくて人間になったのだと。
半年もかけて文字を覚えたのだと。
好きなのだと。
そうすれば、何か一つくらい変わるかもしれない。
ほんの少しでも未来が変わるかもしれない。
それでも、神田の隣にいた女性の姿が浮かんだ。
夢子は目を伏せた。
神田には、もう大切な人がいる。
自分が今さら現れてはいけない。
そう思わなければ、覚悟などできそうになかった。
足元に一本の枯れ枝が落ちていた。
夢子はそれを拾った。
砂へ先端を押しつける。
手が震えた。
ゆっくりと、一文字ずつ書いていく。
『あ』
線が少し曲がった。
『い』
胸の奥が苦しくなる。
『し』
息が浅くなった。
『て』
目の奥が熱くなる。
『ま』
そこで手が止まった。
本当にこれでいいのか。
神田に会いたい。
自分を見てほしい。
好きだと言いたい。
一緒にいたかった。
何度も何度も、そんな思いが胸の奥から溢れてくる。
枯れ枝を握った手が震える。
夢子はしばらく動けなかった。
やがて、ぎゅっと目を閉じる。
そして最後の一文字を書いた。
『す』
砂浜に、一つの言葉が残った。
『あいしてます』
夢子はじっとその文字を見つめた。
誰かに見せるつもりはない。
神田に伝えるためでもない。
これは、自分のために書いた言葉だった。
最後まで好きだった。
それだけは、なかったことにしたくなかった。
もうすぐ自分は消える。
身体を失い、泡になり、海へ溶けていく。
その事実を受け入れるために書いた。
言葉という形にしてしまえば、少しだけ覚悟ができるような気がした。
波が近づいてくる。
夢子は逃げなかった。
白い波が砂を濡らし、『あ』の端を崩した。
次の波で『い』が消える。
[#dn=1#]は膝を抱えたまま、その様子を見ていた。
自分も、こうなるのだ。
形を失って。
誰にも触れられなくなって。
最後には何も残らない。
怖い。
たまらなく怖い。
それでも、目を逸らさなかった。
『し』が崩れる。
『て』が消える。
あと少しで、全部なくなる。
夢子は唇を噛んだ。
そして自分自身へ言い聞かせるように、ほんの少しだけ頷いた。
そのときだった。
「……誰をだ?」
背後から、低い声がした。
夢子の身体が跳ねた。
勢いよく振り返る。
そこには――
半年間、ずっと会いたかった男が立っていた。
長い黒髪が、海から吹く風に揺れている。
半年間、何度も思い出した顔だった。
眠る前にも。
言葉を覚えてる最中にも。
もう一度会えたならと、何度も何度も思い描いた。
その人が今、自分のすぐ後ろに立っている。
夢子は目を見開いたまま、動けなくなった。
つい先ほどまで遠くから眺めることしかできなかった人が、手を伸ばせば届きそうな場所にいる。
死ぬ覚悟を決めようとしていたことも。
さっきまで泣きそうだったことも。
一瞬で全部どこかへ飛んでいった。
ただ嬉しかった。
胸の奥から、どうしようもないほど嬉しさが込み上げてくる。
夢子の瞳が、みるみる輝いていった。
神田はそんな彼女を怪訝そうに見下ろした。
「……何だ?」
夢子は答えようとした。
口を開く。
――何も出ない。
分かっていたはずなのに。
今まで声が出ないことなど、何度も確かめてきたのに。
神田を目の前にした瞬間だけ、話せる気がしてしまった。
夢子は慌てて口を閉じる。
神田の眉が寄った。
「お前、喋れねぇのか?」
夢子はこくこくと頷いた。
「…………」
神田はそれ以上何も言わなかった。
気の毒そうな顔もしない。
理由を根掘り葉掘り聞こうともしない。
ただ一度だけ夢子の喉元へ視線を落とし、
「そうか」
と短く言った。
それだけだった。
夢子は少しだけ肩の力を抜いた。
神田の視線が砂浜へ移る。
波に崩されかけた文字が、曖昧な形でまだ残っていた。
『あいしてます』
文字は形を失っている。
それでも、何が書いてあったのかは十分に分かる。
神田はその文字を見下ろし、もう一度夢子へ目を戻した。
「で」
夢子の身体が強張った。
「誰をだ」
忘れてくれていなかった。
夢子は手の中の枯れ枝をぎゅっと握った。
心臓がうるさい。
答えるつもりなどなかった。
ほんの少し前までは、誰にも伝えずに消えるつもりだった。
神田には大切な人がいる。
自分の気持ちは邪魔になる。
そう思ったから、誰にも見られない砂浜へ書いたのだ。
それなのに、本人が来てしまった。
それも、向こうから聞いてきた。
夢子は砂へ目を落とした。
どうしよう。
何と書けばいい。
半年間、こんな日のために文字を覚えてきたはずなのに、頭の中が真っ白だった。
そしてなぜか最初に浮かんだのは、何度も練習したその言葉だった。
枯れ枝を砂へつける。
ゆっくりと書いた。
『こんにちは』
神田は黙ってそれを読んだ。
「…………」
夢子は恐る恐る顔を上げる。
神田と目が合った。
「さっきの答えになってねぇ」
夢子ははっとした。
そうだった。
半年ぶりに会えたことが嬉しすぎて、完全に挨拶を優先してしまった。
恥ずかしさに頬が熱くなる。
神田は呆れたように息を吐いた。
「誰を愛してんだって聞いてんだ」
夢子はまた砂へ視線を落とした。
逃げたい。
今すぐ海まで走って逃げたい。
そんなことをすれば、歩くたびに足が死ぬほど痛むのだが、今はそれすら忘れていた。
枯れ枝の先が小さく震える。
少し迷って。
一度、手を止めて。
それでも最後には、ゆっくりと文字を書いた。
『あなたです』
書き終わった瞬間、夢子は俯いた。
もう顔など上げられない。
耳まで熱い。
神田は砂の文字を見下ろしていた。
「…………」
長い沈黙が落ちる。
夢子の鼓動がますます速くなる。
やっぱり書かなければよかった。
今から枝先で消してしまおうか。
そんなことを考え始めた頃、頭上から声がした。
「……俺?」
夢子は小さく頷いた。
神田の眉間に皺が寄った。
当然だった。
神田にとって夢子は、今ここで初めてまともに顔を合わせた女なのだ。
しかも喋れない。
砂浜に一人で座り、『あいしてます』などと書いていた。
声をかけたら目を輝かせた。
そのうえ突然、『あなたです』。
どう考えても意味が分からない。
「……お前」
神田は少し間を置いた。
「俺とどっかで会ったか?」
夢子は勢いよく顔を上げた。
こくこくと何度も頷く。
神田の目が細くなる。
「いつだ」
夢子はすぐに砂へ向き直った。
『はんとしまえ』
「半年前?」
こくん。
次の文字を書く。
『このうみで』
神田の表情が、わずかに変わった。
夢子は気づかないまま、さらに書き続ける。
『あらしのひ』
そこまで書くと、神田の呼吸音すら聞こえなくなった。
半年前。
海。
嵐。
その三つに、思い当たることがあった。
あの夜。
海上で戦闘になり、最後に相手の攻撃を受けた。
そこから先の記憶は途切れている。
次に目を覚ました時、自分は浜辺に倒れていた。
そばにはリナリーがいた。
だが――。
『私が来た時には、もうここに倒れてたわよ』
あの時、そう言っていた。
神田の視線が夢子へ戻る。
彼女はまだ何かを書こうとしていた。
何度か途中で形を間違え、枝の先で消す。
そして、慎重に一文字ずつ並べた。
『あなたを たすけました』
風が吹いた。
夢子の髪が頬へかかる。
彼女は期待と不安が入り混じった顔で神田を見上げた。
神田は砂の一文をしばらく見つめていた。
「……お前だったのか」
夢子は頷いた。
あの日、海の底へ沈んでいく神田を追った。
浜辺まで運んだ。
生きていることを確かめて。
人が来る気配に慌てて逃げた。
全部、自分だった。
半年間ずっと伝えたかったことを、ようやく伝えられた。
夢子の顔に、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
神田はそんな彼女をじっと見た。
そして、ふと砂に並ぶ文字へ目を落とした。
一つ一つの字は、読めないほどではない。
ただ、決して上手くはなかった。
線の長さが揃っていない。
文字の大きさもばらばらだ。
書き慣れていないことが、一目で分かる。
神田は眉を寄せた。
夢子は一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに胸元から小さな帳面を取り出す。
ぱらぱらとページをめくり、ある場所を神田へ見せた。
そこには何度も書き直した跡が残っていた。
『こんにちは』
『ありがとう』
『わたしは [#dn=1#]です』
同じ文字が、何行も何行も並んでいる。
最初の方は、もはや文字と呼べるのか怪しい。
後ろへ進むにつれて、少しずつ形が整っていた。
神田は黙って帳面を見た。
夢子はまた砂へ文字を書く。
『はんとしかけて』
「……半年?」
こくこく。
『おぼえました』
夢子は少し誇らしそうだった。
これで神田と話せる。
そのためだけに、毎日頑張って覚えたのだ。
神田はしばらく無言だった。
夢子には、その沈黙の意味が分からない。
実際のところ、神田の頭にはまったく別の疑問が浮かんでいた。
(……半年かけて読み書きを覚えた?)
目の前の女は子供ではない。
どう見ても、とうに文字を習う年齢は過ぎている。
それまで字を覚える機会すらなかったということになる。
神田は夢子の服装を見た。
次に、かなり使い込まれた帳面を見る。
そして再び本人を見る。
(……こいつの家、相当貧乏なのか)
もちろん違う。
そもそも半年前まで海の底で暮らしていたので、人間の文字など知る必要がなかっただけである。
だが、神田がそんなことを知るはずもない。
沈黙が長くなり、夢子は不安そうに首を傾げた。
つづく、2026/08/16
神田が夢子に声を掛けたのは、ただの気まぐれです。