マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第14話。
朝食を終えかけた頃、食堂の入口から一体のゴーレムが飛び込んできた。
人々の頭上を縫うように進み、真っ直ぐこちらへ向かってくる小さな影に気づいた夢子が目で追っていると、ゴーレムは神田の肩の近くまで来たところで速度を落とし、その場にふわりと浮かんだ。
『神田さん、聞こえますか』
突然そこから聞こえてきた声に、夢子の目が大きくなる。
昨日も教団の中で何度か見かけたものの、こうして人の声を運んでくるところを見るのは初めてだった。
「聞こえてる」
神田は慣れた様子で返事をする。
『昨日お話ししていた夢子さんの健康診断ですが、朝食が終わりましたら医務室へ来てください。通常の検査に加えて、昨日ご本人から了承をいただいた範囲で採血も行う予定です』
声の主はブリジットだった。
神田が「分かった」と答えるより早く、向かいにいたラビが身を乗り出した。
「え、人魚の健康診断!?」
「お前には関係ねぇ」
「いやいやいや、めちゃくちゃ気になるさ! 人魚と人間って身体の中まで同じなん? 心臓の位置とか血とかさ!」
ラビの勢いに夢子が少し驚いている横で、アレンは呆れたように「健康診断ですよ。見世物じゃないんですから」と止める。
それでもラビはまったく懲りず、
「ジジイも連れてくさー! 絶対興味持つ!」
と言いながら立ち上がりかけた。
「来んな」
神田の声が低くなる。
「何でさ!」
「邪魔だからだ」
「大人しくするって!」
「嘘つけ」
ラビは不満そうな顔をしたものの、神田に睨まれて渋々座り直した。
リナリーも呆れたように笑いながら、「ラビもブックマンもあとで本人に聞けばいいでしょ。まずはちゃんと診てもらうのが先よ」と言う。
夢子は自分の話をされていると分かりながらも、それより今は神田のそばで浮かんでいるゴーレムの方が気になるらしい。
声が聞こえなくなってからもじっと見つめていると、通信を終えたゴーレムは再び羽ばたき、そのまま食堂の外へ飛んでいった。
神田は残っていた飯を食べ終えると、食器を持って立ち上がった。
「行くぞ」
夢子も慌てて最後のパンを口へ運び、食器を片づけて神田のあとを追う。
二人で食堂を出ると、神田はそのまま医務室のある方へ向かった。昨日一度通った廊下なので、夢子にも向かっている場所は分かる。
その二歩後ろを歩きながら、ふと教えられたことを思い出した。
少しだけ歩調を速め、神田の袖をくい、と引く。
「……何だ」
振り返った神田へ、夢子は帳面を開いた。
『はみがきは?』
「…………」
神田が黙った。
昨日は食事をしたあとに磨けと教え、今朝は朝食の前にも磨くのだと付け加えた。
それを教えた本人が、健康診断へ行くことですっかり忘れていた。
「……そうだったな」
夢子はこくんと頷く。
神田は進路を変えようとして、そこでまた足を止めた。
昨夜使った夢子の歯ブラシは自分の部屋に置いてある。
そして、自分の歯ブラシも同じだ。
今から部屋まで戻って取ってくるのは、さすがに面倒だった。
少し考えた末、神田は廊下の先へ顎を向ける。
「いい。あそこの洗面所に新品あんだろ。それ使うぞ」
夢子は一度神田の部屋がある方角を振り返ったものの、すぐに頷いた。
食堂から医務室へ向かう途中にも洗面所があり、昨日使った場所とは違うものの、中の造りはほとんど変わらなかった。
入口の前まで来ると、神田は棚から新しい歯ブラシを二本取り出し、そのうち一本を夢子へ渡した。
「ほら」
夢子は受け取った歯ブラシを見たあと、もう一本持っている神田へ目を向ける。
「こっちは俺のだ」
そういうことらしい。
夢子は納得して女性用の洗面所へ入り、神田も男性用へ向かった。
昨日一度教わった手順は、もう迷わない。歯磨き粉をつける量も覚えており、口へ入れれば相変わらず嫌そうに眉を寄せたものの、それでも歯ブラシを止めることなく最後まで磨き終えた。
水で口をすすぎ、使った歯ブラシもきれいに洗ってから外へ出ると、少し遅れて神田も男性用の洗面所から出てきた。
「終わったか」
こくん。
神田が医務室へ向かおうとすると、夢子もついていく。
ただ、その手には先ほど使った歯ブラシがしっかり握られていた。
神田は数歩進んだところで気づき、振り返る。
「……それ持ってくのか」
夢子は不思議そうに歯ブラシを見たあと、こくんと頷いた。
一度自分が使ったものなのだから、自分のものになったと思っているらしい。
「…………」
神田は何か言いかけたものの、結局やめた。
「……好きにしろ」
そう言って再び歩き出す。
夢子は新しく増えた歯ブラシを大切そうに持ちながら、そのあとをついていった。
こうして神田の部屋には、今夜から二人分の歯ブラシがもう一本増えることになった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
医務室へ入ると、昨日夢子の足を診てくれた女性医師が、机の上にいくつかの器具を並べて待っていた。
「おはようございます、夢子さん。昨日ぶりですね」
見覚えのある顔に、夢子も少し安心したように頭を下げる。
昨日は傷だらけになった足を洗い、薬を塗ってもらった。何をされるのか分からず、そのたびにリナリーの顔を見ていたことを思い出しながら椅子の前まで行くと、女性医師は手元の書類へ一度目を落としたあと、改めて夢子を見る。
「今朝、コムイ室長とブリジットさんから詳しい事情を聞きました。昨日は何も知らず、普通の人間として治療してしまったんですが……」
そこで視線が夢子の足元へ向いた。
「昨日塗った薬のところ、赤くなったり、痒くなったりしていませんか?」
夢子は自分の足を見てから首を横へ振る。
「痛みが急に強くなったりは?」
もう一度、首を横へ振った。
女性医師は少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった。人間にはごく普通に使う薬なんですけど、人魚にも同じように使えるのかまでは分からなかったので、実は少し心配していたんです」
その言葉に夢子が目を丸くする横で、神田の眉が僅かに寄る。
「その薬、使わせねぇ方がいいのか」
「今のところ異常がないので、すぐに問題があるとは思いません。ただ、今日もう一度傷を確認してからにしましょう。人魚だった身体が今どこまで人間と同じなのか、私たちにもまだ分かりませんから」
神田は短く「分かった」と答えた。
先日まで尾びれだったものが、今は二本の脚になっている。見た目だけならどこから見ても人間だが、身体の中まで同じなのかは確かに誰にも分からない。
女性医師はそんな二人へ向けて、今日行う検査を一つずつ説明した。
「まずは普通の健康診断です。身長と体重、体温、脈拍、血圧、呼吸、それから心臓の音も確認します。身体の中を見ておきたいので、レントゲンも撮りますね。最後に、昨日了承していただいた範囲で少量だけ採血します」
聞いたことのない言葉がいくつも出てきたものの、夢子は分からないなりに真剣な顔で聞き、説明が終わるとこくんと頷いた。
最初に乗せられたのは体重計だった。
何をするものなのか分からず足元の目盛りを覗き込んでいると、女性医師から「そのまま動かないでくださいね」と言われ、途端にぴたりと身体を止める。
身長を測る時も、頭の上から降りてきた棒を見ようとして目だけを上へ向けたものの、一度前を向いているよう教えられれば、そのあとは微動だにしなかった。
「はい、終わりです」
女性医師が数値を書き込むと、夢子はその手元を興味深そうに覗き込む。
「数字が気になります?」
こくん。
「あとで見せますね」
その言葉を聞いた瞬間、夢子の目がぱっと輝いた。
神田が横からその顔を見る。
「……何がそんな嬉しいんだ」
夢子は神田を見て、もう一度こくんと頷いた。
楽しいものは楽しいらしい。
続いて体温と脈拍を測り、腕に布を巻いて血圧を確認する。空気が入るにつれて腕がぎゅっと締めつけられると、夢子は少しだけ眉を寄せたものの、途中で腕を引くこともなく、女性医師が終わったと言うまでじっと耐えていた。
「血圧も脈も、今のところ人間と大きな違いはありませんね」
そう言われると、夢子は何となく安心したように自分の腕をさする。
次に女性医師が取り出したのは、筒に繋がった見慣れない器具だった。
「今度は肺活量を測ります。ここを口に咥えて、大きく息を吸ってから、一気に吐いてください」
夢子は説明を聞くと、渡された器具をしげしげと眺めた。
「吸って、吐く。分かります?」
こくん。
言われた通り大きく息を吸い込み、口元を器具へ当てる。
「はい、吐いてください」
夢子が息を吐き始めた。
女性医師は目盛りを見ながら待つ。
しばらく待つ。
まだ吐いている。
「…………」
神田が横で腕を組んだまま見る。
まだ吐いている。
女性医師が思わず夢子の顔を見る。
「……まだ出ます?」
返事はできないので、夢子は息を吐きながら目だけで頷いた。
さらに数秒。
ようやく息を吐き切り、器具から口を離す。
女性医師は無言で数値を確認した。
「…………」
もう一度確認する。
それから器具そのものを見る。
「壊れてる?」
「知らねぇよ」
神田が答える。
女性医師は念のため別の器具を持ってこさせ、もう一度同じ検査を行った。
結果はほとんど変わらなかった。
「……すごい」
女性医師が思わず呟く。
夢子は褒められたと思ったのか、少し嬉しそうな顔になる。
「一流の競泳選手もびっくりですよ。肺活量」
その言葉の意味を完全には理解していないものの、どうやらかなり良い結果だったらしいと分かり、夢子の目がさらに輝く。
神田はそんな彼女を見たあと、器具へ視線を向けた。
「元人魚だぞ。そりゃ肺くらい強ぇだろ」
「それで片づけていい数値じゃないんですけど……」
女性医師は首を傾げながらも、その数値を記録へ書き込んだ。
人間の身体になっても、海で生きていた頃の性質がどこかに残っているのかもしれない。
夢子自身も興味を持ったらしく、記録された数字を食い入るように見つめている。
次に女性医師が手に取ったのは、首から下げていた聴診器だった。
「では心臓と肺の音を聞きますね。胸元を少し開けてもらいます」
その言葉を聞いた夢子は、聴診器を見たあと、反射的に後ろを振り返った。
そこには神田がいた。
医務室へ入ってからずっと同じ場所に立ち、腕を組んだまま当然のように検査を見守っている。
「…………」
夢子の頬が少し赤くなった。
女性医師も神田を見る。
「神田さん」
「何だ」
「向こうへ行ってください」
「ぁあ?」
あまりにも素で返されたため、女性医師が一瞬黙った。
「胸の診察をするので、男性は衝立の向こうへお願いします」
「…………」
神田は女性医師を見たあと、夢子を見る。
頬を赤くしながら胸元を押さえている姿を見て、ようやく話が繋がったらしい。
「ああ……そうだった。コイツ女だったな」
神田は面倒そうに答えると、ようやく衝立の向こうへ移動した。
夢子はその姿を見送りながら、何とも言えない顔になる。
昨日からずっと一緒にいるというのに、神田は時々、自分が女であることをすっかり忘れているようで悲しい。
「では、胸を見せてください」
女性医師の声に意識を戻し、夢子は素直に服を緩めた。
冷たい聴診器が胸へ触れた瞬間、びくりと身体が跳ねる。
「ごめんなさい、冷たかったですね」
大丈夫だと首を振る。
女性医師は位置を変えながら心音を聞いていたが、しばらくすると僅かに首を傾げた。
「……少し速いですね」
衝立の向こうから、すぐに神田の声が飛んでくる。
「何か悪ぃのか」
「いえ、異常というほどではありません。緊張してるだけだと思います」
「そうか」
それだけ聞くと神田は黙った。
夢子はそっと視線を逸らす。
緊張しているのは間違いない。
診察を受けているからというのもある。
ただ、衝立一枚向こうに神田がいると考えると、さっきより少しだけ心臓が速くなる。
女性医師がもう一度位置を変え、聴診器を当てた。
「……やっぱり速いですね」
夢子の頬がさらに赤くなった。
診察が終わり、服を整えてもいいと言われると、ようやく神田が衝立の向こうから戻ってきた。
「どうだった」
「心拍が少し速いくらいで、心音そのものに問題はなさそうです。肺の音も綺麗ですね」
神田は「ならいい」と答え、それ以上気にする様子もなかった。
原因の一部が自分だとは、欠片も考えていないらしい。
そのあと別室へ移動し、レントゲンを撮ることになった。
夢子は大きな機械を見るなり足を止めたものの、身体の中を切らずに見るためのものだと説明されると、今度は警戒より好奇心が勝ったらしい。
『なか みえる?』
帳面へ書いて見せると、女性医師が頷いた。
「骨が見えますよ」
その瞬間、夢子の表情が変わった。
神田が横から怪訝そうに見る。
「……骨見て何が楽しいんだ」
胸、腹、腰、脚と順番に撮影し、しばらく待ったあと、出来上がった写真を女性医師が明かりへ透かした。
夢子もすぐに隣から覗き込む。
黒と白の中に、自分の身体の内側が映っている。
肋骨。
背骨。
骨盤。
そこから真っ直ぐ伸びる二本の脚。
「…………!」
夢子は写真を見たあと、自分の脚へ視線を落とした。
触る。
もう一度写真を見る。
また脚を触る。
「お前のだよ」
神田から言われても、まだ不思議そうだった。
ほんの少し前まで、そこには尾びれがあった。
それが今は、骨まできちんと二本の人間の脚になっている。
女性医師も何枚かの写真を順番に確認しながら、少し驚いたように言った。
「骨格は完全に人間ですね。少なくともレントゲンで見る限り、骨盤も脚も一般的な人間と変わりません。胸郭や内臓の位置にも大きな違いはなさそうです」
神田が写真を見る。
「変なとこねぇんだな」
「今のところは。ただ、肺活量だけはまったく普通じゃありませんけど」
夢子がまた少し嬉しそうな顔をする。
「褒めてねぇだろ」
そう言われても、珍しいと言われるのは何となく嬉しいらしい。
医務室へ戻ると、最後に採血が待っていた。
用意された細い針を見た瞬間、それまで楽しそうだった夢子の表情がぴたりと止まる。
神田もすぐに気づいた。
「嫌ならやんなくていいぞ」
夢子は針と神田を交互に見た。
「病気がないか確認するための検査ですから、採血はしますよ」
女性医師が淡々と言った。
「…………」
神田が女性医師を見る。
「嫌ならって言っただろ」
「嫌でも必要な検査はあります」
「…………」
「量は最低限にします。そこは約束します」
神田はしばらく不満そうに黙っていたものの、検査そのものが夢子の身体に異常がないか調べるためだと言われれば、完全に拒む理由もなかった。
「……痛ぇことすんなよ」
「採血なので、それは無理です」
「チッ」
女性医師は神田の態度など気にも留めず、今度は夢子へ向き直った。
「少しだけ我慢してくださいね。すぐ終わりますから」
夢子は針を見つめたまま、ものすごく嫌そうな顔でこくんと頷いた。
怖い。
それでも昨日、自分で少しなら構わないと決めた。
少し迷った末、夢子はこくんと頷く。
「やるのか」
もう一度頷いた。
夢子は椅子へ座って腕を差し出したものの、女性医師が注射器を手に取った途端、視線が細い針へ吸い寄せられた。
じっと見つめているうちに、これからあれが自分の腕へ刺さるのだと実感したらしい。
次第に肩へ力が入り、隣に立っていた神田の服の裾へそろそろと手を伸ばした。
最初は摘まむだけだった。
それでも不安は消えず、夢子は針を見たまま、今度は裾をぐい、と自分の方へ引っ張る。
「……何だよ」
神田が怪訝そうに見下ろした。
夢子は答えられない。ただ、もう一度ぐい、と引く。
もっとこっちへ。
それくらいは伝わったらしく、神田は眉を寄せながらも一歩近づいた。
すると夢子は待っていたように身体を傾け、神田の腹へ顔を埋めた。
「…………」
女性医師は注射器を持ったまま、一瞬だけ二人を見た。
夢子は神田の服を握りしめ、すっかり針から顔を隠している。
見なければ怖くないと思ったのか、それとも神田へくっついていれば大丈夫だと思ったのか、どちらにしても離れる気はないらしい。
神田は自分の腹に押しつけられた頭を見下ろし、しばらく何とも言えない顔をしていた。
「……ガキかよ」
追い払うこともせず、そのまま立っている神田に、女性医師が少し呆れたように声をかける。
「そのままで結構ですけど、動かないようにしてくださいね」
「分かったか?動くなよ」
こく。
神田は夢子の腕が動かないよう確認してから、もう一度その頭へ視線を落とした。
「すぐ終わる。じっとしてろ」
腹元で、こくん、と頭が動いた。
「それで頷くな。動くなっつっただろ」
夢子はぴたりと止まった。
女性医師は笑いを堪えながら消毒を済ませ、「少しちくっとしますよ」と声をかけて針を刺す。
その瞬間、神田の服を握る指にぎゅっと力が入った。
「…………!」
顔はさらに神田の腹へ埋まる。
夢子が恐る恐る顔を僅かに浮かせようとすると、すぐに神田の手が頭へ軽く触れる。
「見なくていい」
その一言で、夢子はまた素直に腹へ顔を戻した。
神田の保護者ヅラが加速していた。
採血はすぐに終わり、抜いた針の跡へ綿を押し当てられる。
女性医師は採った血液を容器へ移すと、そばにいた看護師へ渡した。
「これは科学班へお願いします。」
「分かりました」
看護師が受け取ったところで、女性医師がもう一枚の指示書へ目を向けた。
「それから……科学班から、毛髪も一本いただけないかとお願いが来ています」
神田の眉が僅かに寄る。
「髪を?」
「一本だけです。遺伝的な特徴も調べたいそうです。もちろん、夢子さんが嫌なら断って構いません」
夢子は自分の髪へ触れた。
一本だけなら、針よりずっと怖くない。
すぐにこくんと頷く。
「本当にいいですか?」
もう一度頷いた。
女性医師は夢子の髪から一本を選び、「少し引っ張りますね」と声をかけてから根元を摘まんだ。
ぷつ、と軽い感触が頭皮へ伝わり、夢子が僅かに目を細める。
抜かれた髪は小さな紙の上へ丁寧に置かれ、そのまま看護師へ渡された。
「血液とは別にして、これも科学班へお願いします」
「はい」
看護師が血液と一本の髪を持って医務室を出ていく。
夢子は、その後ろ姿を興味深そうに見送った。
自分の血と髪が、これからどこかで調べられるらしい。
何をどうすれば、そこから自分の身体のことが分かるのだろう。
そのままついていきそうなほど熱心に見ていると、横から低い声が飛んできた。
「おい」
夢子が振り返る。
「ついてくなよ」
「…………」
僅かに視線が泳ぐ。
女性医師が笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「興味あるんですか?」
問いかけられた夢子は、迷いなく大きく頷いた。
『しらないこと べんきょう するの すき』
「なら、科学班は興味あるでしょうね」
また目が輝く。
神田の顔が露骨に嫌そうになった。
「余計なこと教えんな」
「見学くらいなら、いつかできると思いますよ」
夢子は期待を込めるように神田を見る。
「俺を見るな」
それでも目は輝いたままだった。
女性医師は最後に、昨日治療した足をもう一度確認するため、包帯を外していった。
「薬を塗ったところが赤くなったり、痒くなったりしていないかも見ておきますね」
そう言いながら片方の包帯を外し、足へ目を落としたところで、女性医師の手が止まった。
「…………あれ?」
夢子も自分の足を見る。
神田が横から眉を寄せた。
「!?」
「……」
女性医師はもう片方の包帯も外した。
昨日は確かに、何日も裸足で歩き回ったせいで、足の裏から甲にかけて細かな擦り傷や切り傷がいくつもあった。少し深く傷ついていたところもあり、一晩でどうにかなるような状態ではなかったはずだ。
それが、綺麗に消えている。
女性医師は夢子の足を持ち上げ、昨日傷があった場所を確かめるように見て、乾いた笑いを浮かべた。
「……治ってる。あはは、あの薬そんな特効薬だったかしら…」
夢子が目を瞬いた。
自分では、人間の傷が普通どのくらいで治るものなのか分からない。
神田は何も言わなかった。
ただ、昨日自分がおぶる前に見た足を思い出しながら、顎へ拳を当てて考え込んでいる。
確かに傷だらけだった。
それが一晩で、跡すら残さず消えている。
「昨日の状態から一晩でここまで治るのは普通じゃありません」
女性医師は夢子の足を角度を変えながらもう一度確認し、不思議そうに首を傾げた。
「人魚だからでしょうか」
神田の目が僅かに細くなる。
自分にも、普通の人間にはない再生能力がある。
もちろん同じものだと決まったわけではない。
それでも、目の前で起きていることにはどこか覚えがあった。
「まあ、検査で何か分かるでしょう!」
女性医師はそう言って足を下ろすと、記録へ新しく書き加えた。
夢子はすっかり綺麗になった自分の足を不思議そうに眺め、試すように指先を動かしてみる。
傷の痛みは、もうどこにもなかった。
ただし立ち上がって一歩踏み出せば、魔女との契約による鋭い痛みだけは変わらず脚へ走る。
外傷が治っても、こちらは別らしい。
女性医師は最後まで記録を書き終えると、何枚かの検査結果をまとめながら夢子を見る。
「今のところ、身体の形や基本的な機能はほとんど人間と変わりません。肺活量だけは少し……いえ、かなり特殊ですが、それ以外に今すぐ心配するようなところはありませんよ」
夢子は安心したように息を吐いた。
骨まで人間と同じ。
心臓も、人間と同じ場所で動いている。
それでも、自分は人魚だった。
では、血の中には何があるのだろう。
髪の一本から、何が分かるのだろう。
知らないことが、また増えた。
そのことを不安に思うより先に、夢子の胸には新しいことを知れる楽しみの方が膨らみ始めていた。
この時はまだ、科学班へ運ばれていった小さな血液と一本の毛髪が、教団の研究者たちを揃って言葉を失わせることになるなど、夢子はもちろん、神田さえ知るはずもなかった。
つづく、2026/08/23
朝食を終えかけた頃、食堂の入口から一体のゴーレムが飛び込んできた。
人々の頭上を縫うように進み、真っ直ぐこちらへ向かってくる小さな影に気づいた夢子が目で追っていると、ゴーレムは神田の肩の近くまで来たところで速度を落とし、その場にふわりと浮かんだ。
『神田さん、聞こえますか』
突然そこから聞こえてきた声に、夢子の目が大きくなる。
昨日も教団の中で何度か見かけたものの、こうして人の声を運んでくるところを見るのは初めてだった。
「聞こえてる」
神田は慣れた様子で返事をする。
『昨日お話ししていた夢子さんの健康診断ですが、朝食が終わりましたら医務室へ来てください。通常の検査に加えて、昨日ご本人から了承をいただいた範囲で採血も行う予定です』
声の主はブリジットだった。
神田が「分かった」と答えるより早く、向かいにいたラビが身を乗り出した。
「え、人魚の健康診断!?」
「お前には関係ねぇ」
「いやいやいや、めちゃくちゃ気になるさ! 人魚と人間って身体の中まで同じなん? 心臓の位置とか血とかさ!」
ラビの勢いに夢子が少し驚いている横で、アレンは呆れたように「健康診断ですよ。見世物じゃないんですから」と止める。
それでもラビはまったく懲りず、
「ジジイも連れてくさー! 絶対興味持つ!」
と言いながら立ち上がりかけた。
「来んな」
神田の声が低くなる。
「何でさ!」
「邪魔だからだ」
「大人しくするって!」
「嘘つけ」
ラビは不満そうな顔をしたものの、神田に睨まれて渋々座り直した。
リナリーも呆れたように笑いながら、「ラビもブックマンもあとで本人に聞けばいいでしょ。まずはちゃんと診てもらうのが先よ」と言う。
夢子は自分の話をされていると分かりながらも、それより今は神田のそばで浮かんでいるゴーレムの方が気になるらしい。
声が聞こえなくなってからもじっと見つめていると、通信を終えたゴーレムは再び羽ばたき、そのまま食堂の外へ飛んでいった。
神田は残っていた飯を食べ終えると、食器を持って立ち上がった。
「行くぞ」
夢子も慌てて最後のパンを口へ運び、食器を片づけて神田のあとを追う。
二人で食堂を出ると、神田はそのまま医務室のある方へ向かった。昨日一度通った廊下なので、夢子にも向かっている場所は分かる。
その二歩後ろを歩きながら、ふと教えられたことを思い出した。
少しだけ歩調を速め、神田の袖をくい、と引く。
「……何だ」
振り返った神田へ、夢子は帳面を開いた。
『はみがきは?』
「…………」
神田が黙った。
昨日は食事をしたあとに磨けと教え、今朝は朝食の前にも磨くのだと付け加えた。
それを教えた本人が、健康診断へ行くことですっかり忘れていた。
「……そうだったな」
夢子はこくんと頷く。
神田は進路を変えようとして、そこでまた足を止めた。
昨夜使った夢子の歯ブラシは自分の部屋に置いてある。
そして、自分の歯ブラシも同じだ。
今から部屋まで戻って取ってくるのは、さすがに面倒だった。
少し考えた末、神田は廊下の先へ顎を向ける。
「いい。あそこの洗面所に新品あんだろ。それ使うぞ」
夢子は一度神田の部屋がある方角を振り返ったものの、すぐに頷いた。
食堂から医務室へ向かう途中にも洗面所があり、昨日使った場所とは違うものの、中の造りはほとんど変わらなかった。
入口の前まで来ると、神田は棚から新しい歯ブラシを二本取り出し、そのうち一本を夢子へ渡した。
「ほら」
夢子は受け取った歯ブラシを見たあと、もう一本持っている神田へ目を向ける。
「こっちは俺のだ」
そういうことらしい。
夢子は納得して女性用の洗面所へ入り、神田も男性用へ向かった。
昨日一度教わった手順は、もう迷わない。歯磨き粉をつける量も覚えており、口へ入れれば相変わらず嫌そうに眉を寄せたものの、それでも歯ブラシを止めることなく最後まで磨き終えた。
水で口をすすぎ、使った歯ブラシもきれいに洗ってから外へ出ると、少し遅れて神田も男性用の洗面所から出てきた。
「終わったか」
こくん。
神田が医務室へ向かおうとすると、夢子もついていく。
ただ、その手には先ほど使った歯ブラシがしっかり握られていた。
神田は数歩進んだところで気づき、振り返る。
「……それ持ってくのか」
夢子は不思議そうに歯ブラシを見たあと、こくんと頷いた。
一度自分が使ったものなのだから、自分のものになったと思っているらしい。
「…………」
神田は何か言いかけたものの、結局やめた。
「……好きにしろ」
そう言って再び歩き出す。
夢子は新しく増えた歯ブラシを大切そうに持ちながら、そのあとをついていった。
こうして神田の部屋には、今夜から二人分の歯ブラシがもう一本増えることになった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
医務室へ入ると、昨日夢子の足を診てくれた女性医師が、机の上にいくつかの器具を並べて待っていた。
「おはようございます、夢子さん。昨日ぶりですね」
見覚えのある顔に、夢子も少し安心したように頭を下げる。
昨日は傷だらけになった足を洗い、薬を塗ってもらった。何をされるのか分からず、そのたびにリナリーの顔を見ていたことを思い出しながら椅子の前まで行くと、女性医師は手元の書類へ一度目を落としたあと、改めて夢子を見る。
「今朝、コムイ室長とブリジットさんから詳しい事情を聞きました。昨日は何も知らず、普通の人間として治療してしまったんですが……」
そこで視線が夢子の足元へ向いた。
「昨日塗った薬のところ、赤くなったり、痒くなったりしていませんか?」
夢子は自分の足を見てから首を横へ振る。
「痛みが急に強くなったりは?」
もう一度、首を横へ振った。
女性医師は少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった。人間にはごく普通に使う薬なんですけど、人魚にも同じように使えるのかまでは分からなかったので、実は少し心配していたんです」
その言葉に夢子が目を丸くする横で、神田の眉が僅かに寄る。
「その薬、使わせねぇ方がいいのか」
「今のところ異常がないので、すぐに問題があるとは思いません。ただ、今日もう一度傷を確認してからにしましょう。人魚だった身体が今どこまで人間と同じなのか、私たちにもまだ分かりませんから」
神田は短く「分かった」と答えた。
先日まで尾びれだったものが、今は二本の脚になっている。見た目だけならどこから見ても人間だが、身体の中まで同じなのかは確かに誰にも分からない。
女性医師はそんな二人へ向けて、今日行う検査を一つずつ説明した。
「まずは普通の健康診断です。身長と体重、体温、脈拍、血圧、呼吸、それから心臓の音も確認します。身体の中を見ておきたいので、レントゲンも撮りますね。最後に、昨日了承していただいた範囲で少量だけ採血します」
聞いたことのない言葉がいくつも出てきたものの、夢子は分からないなりに真剣な顔で聞き、説明が終わるとこくんと頷いた。
最初に乗せられたのは体重計だった。
何をするものなのか分からず足元の目盛りを覗き込んでいると、女性医師から「そのまま動かないでくださいね」と言われ、途端にぴたりと身体を止める。
身長を測る時も、頭の上から降りてきた棒を見ようとして目だけを上へ向けたものの、一度前を向いているよう教えられれば、そのあとは微動だにしなかった。
「はい、終わりです」
女性医師が数値を書き込むと、夢子はその手元を興味深そうに覗き込む。
「数字が気になります?」
こくん。
「あとで見せますね」
その言葉を聞いた瞬間、夢子の目がぱっと輝いた。
神田が横からその顔を見る。
「……何がそんな嬉しいんだ」
夢子は神田を見て、もう一度こくんと頷いた。
楽しいものは楽しいらしい。
続いて体温と脈拍を測り、腕に布を巻いて血圧を確認する。空気が入るにつれて腕がぎゅっと締めつけられると、夢子は少しだけ眉を寄せたものの、途中で腕を引くこともなく、女性医師が終わったと言うまでじっと耐えていた。
「血圧も脈も、今のところ人間と大きな違いはありませんね」
そう言われると、夢子は何となく安心したように自分の腕をさする。
次に女性医師が取り出したのは、筒に繋がった見慣れない器具だった。
「今度は肺活量を測ります。ここを口に咥えて、大きく息を吸ってから、一気に吐いてください」
夢子は説明を聞くと、渡された器具をしげしげと眺めた。
「吸って、吐く。分かります?」
こくん。
言われた通り大きく息を吸い込み、口元を器具へ当てる。
「はい、吐いてください」
夢子が息を吐き始めた。
女性医師は目盛りを見ながら待つ。
しばらく待つ。
まだ吐いている。
「…………」
神田が横で腕を組んだまま見る。
まだ吐いている。
女性医師が思わず夢子の顔を見る。
「……まだ出ます?」
返事はできないので、夢子は息を吐きながら目だけで頷いた。
さらに数秒。
ようやく息を吐き切り、器具から口を離す。
女性医師は無言で数値を確認した。
「…………」
もう一度確認する。
それから器具そのものを見る。
「壊れてる?」
「知らねぇよ」
神田が答える。
女性医師は念のため別の器具を持ってこさせ、もう一度同じ検査を行った。
結果はほとんど変わらなかった。
「……すごい」
女性医師が思わず呟く。
夢子は褒められたと思ったのか、少し嬉しそうな顔になる。
「一流の競泳選手もびっくりですよ。肺活量」
その言葉の意味を完全には理解していないものの、どうやらかなり良い結果だったらしいと分かり、夢子の目がさらに輝く。
神田はそんな彼女を見たあと、器具へ視線を向けた。
「元人魚だぞ。そりゃ肺くらい強ぇだろ」
「それで片づけていい数値じゃないんですけど……」
女性医師は首を傾げながらも、その数値を記録へ書き込んだ。
人間の身体になっても、海で生きていた頃の性質がどこかに残っているのかもしれない。
夢子自身も興味を持ったらしく、記録された数字を食い入るように見つめている。
次に女性医師が手に取ったのは、首から下げていた聴診器だった。
「では心臓と肺の音を聞きますね。胸元を少し開けてもらいます」
その言葉を聞いた夢子は、聴診器を見たあと、反射的に後ろを振り返った。
そこには神田がいた。
医務室へ入ってからずっと同じ場所に立ち、腕を組んだまま当然のように検査を見守っている。
「…………」
夢子の頬が少し赤くなった。
女性医師も神田を見る。
「神田さん」
「何だ」
「向こうへ行ってください」
「ぁあ?」
あまりにも素で返されたため、女性医師が一瞬黙った。
「胸の診察をするので、男性は衝立の向こうへお願いします」
「…………」
神田は女性医師を見たあと、夢子を見る。
頬を赤くしながら胸元を押さえている姿を見て、ようやく話が繋がったらしい。
「ああ……そうだった。コイツ女だったな」
神田は面倒そうに答えると、ようやく衝立の向こうへ移動した。
夢子はその姿を見送りながら、何とも言えない顔になる。
昨日からずっと一緒にいるというのに、神田は時々、自分が女であることをすっかり忘れているようで悲しい。
「では、胸を見せてください」
女性医師の声に意識を戻し、夢子は素直に服を緩めた。
冷たい聴診器が胸へ触れた瞬間、びくりと身体が跳ねる。
「ごめんなさい、冷たかったですね」
大丈夫だと首を振る。
女性医師は位置を変えながら心音を聞いていたが、しばらくすると僅かに首を傾げた。
「……少し速いですね」
衝立の向こうから、すぐに神田の声が飛んでくる。
「何か悪ぃのか」
「いえ、異常というほどではありません。緊張してるだけだと思います」
「そうか」
それだけ聞くと神田は黙った。
夢子はそっと視線を逸らす。
緊張しているのは間違いない。
診察を受けているからというのもある。
ただ、衝立一枚向こうに神田がいると考えると、さっきより少しだけ心臓が速くなる。
女性医師がもう一度位置を変え、聴診器を当てた。
「……やっぱり速いですね」
夢子の頬がさらに赤くなった。
診察が終わり、服を整えてもいいと言われると、ようやく神田が衝立の向こうから戻ってきた。
「どうだった」
「心拍が少し速いくらいで、心音そのものに問題はなさそうです。肺の音も綺麗ですね」
神田は「ならいい」と答え、それ以上気にする様子もなかった。
原因の一部が自分だとは、欠片も考えていないらしい。
そのあと別室へ移動し、レントゲンを撮ることになった。
夢子は大きな機械を見るなり足を止めたものの、身体の中を切らずに見るためのものだと説明されると、今度は警戒より好奇心が勝ったらしい。
『なか みえる?』
帳面へ書いて見せると、女性医師が頷いた。
「骨が見えますよ」
その瞬間、夢子の表情が変わった。
神田が横から怪訝そうに見る。
「……骨見て何が楽しいんだ」
胸、腹、腰、脚と順番に撮影し、しばらく待ったあと、出来上がった写真を女性医師が明かりへ透かした。
夢子もすぐに隣から覗き込む。
黒と白の中に、自分の身体の内側が映っている。
肋骨。
背骨。
骨盤。
そこから真っ直ぐ伸びる二本の脚。
「…………!」
夢子は写真を見たあと、自分の脚へ視線を落とした。
触る。
もう一度写真を見る。
また脚を触る。
「お前のだよ」
神田から言われても、まだ不思議そうだった。
ほんの少し前まで、そこには尾びれがあった。
それが今は、骨まできちんと二本の人間の脚になっている。
女性医師も何枚かの写真を順番に確認しながら、少し驚いたように言った。
「骨格は完全に人間ですね。少なくともレントゲンで見る限り、骨盤も脚も一般的な人間と変わりません。胸郭や内臓の位置にも大きな違いはなさそうです」
神田が写真を見る。
「変なとこねぇんだな」
「今のところは。ただ、肺活量だけはまったく普通じゃありませんけど」
夢子がまた少し嬉しそうな顔をする。
「褒めてねぇだろ」
そう言われても、珍しいと言われるのは何となく嬉しいらしい。
医務室へ戻ると、最後に採血が待っていた。
用意された細い針を見た瞬間、それまで楽しそうだった夢子の表情がぴたりと止まる。
神田もすぐに気づいた。
「嫌ならやんなくていいぞ」
夢子は針と神田を交互に見た。
「病気がないか確認するための検査ですから、採血はしますよ」
女性医師が淡々と言った。
「…………」
神田が女性医師を見る。
「嫌ならって言っただろ」
「嫌でも必要な検査はあります」
「…………」
「量は最低限にします。そこは約束します」
神田はしばらく不満そうに黙っていたものの、検査そのものが夢子の身体に異常がないか調べるためだと言われれば、完全に拒む理由もなかった。
「……痛ぇことすんなよ」
「採血なので、それは無理です」
「チッ」
女性医師は神田の態度など気にも留めず、今度は夢子へ向き直った。
「少しだけ我慢してくださいね。すぐ終わりますから」
夢子は針を見つめたまま、ものすごく嫌そうな顔でこくんと頷いた。
怖い。
それでも昨日、自分で少しなら構わないと決めた。
少し迷った末、夢子はこくんと頷く。
「やるのか」
もう一度頷いた。
夢子は椅子へ座って腕を差し出したものの、女性医師が注射器を手に取った途端、視線が細い針へ吸い寄せられた。
じっと見つめているうちに、これからあれが自分の腕へ刺さるのだと実感したらしい。
次第に肩へ力が入り、隣に立っていた神田の服の裾へそろそろと手を伸ばした。
最初は摘まむだけだった。
それでも不安は消えず、夢子は針を見たまま、今度は裾をぐい、と自分の方へ引っ張る。
「……何だよ」
神田が怪訝そうに見下ろした。
夢子は答えられない。ただ、もう一度ぐい、と引く。
もっとこっちへ。
それくらいは伝わったらしく、神田は眉を寄せながらも一歩近づいた。
すると夢子は待っていたように身体を傾け、神田の腹へ顔を埋めた。
「…………」
女性医師は注射器を持ったまま、一瞬だけ二人を見た。
夢子は神田の服を握りしめ、すっかり針から顔を隠している。
見なければ怖くないと思ったのか、それとも神田へくっついていれば大丈夫だと思ったのか、どちらにしても離れる気はないらしい。
神田は自分の腹に押しつけられた頭を見下ろし、しばらく何とも言えない顔をしていた。
「……ガキかよ」
追い払うこともせず、そのまま立っている神田に、女性医師が少し呆れたように声をかける。
「そのままで結構ですけど、動かないようにしてくださいね」
「分かったか?動くなよ」
こく。
神田は夢子の腕が動かないよう確認してから、もう一度その頭へ視線を落とした。
「すぐ終わる。じっとしてろ」
腹元で、こくん、と頭が動いた。
「それで頷くな。動くなっつっただろ」
夢子はぴたりと止まった。
女性医師は笑いを堪えながら消毒を済ませ、「少しちくっとしますよ」と声をかけて針を刺す。
その瞬間、神田の服を握る指にぎゅっと力が入った。
「…………!」
顔はさらに神田の腹へ埋まる。
夢子が恐る恐る顔を僅かに浮かせようとすると、すぐに神田の手が頭へ軽く触れる。
「見なくていい」
その一言で、夢子はまた素直に腹へ顔を戻した。
神田の保護者ヅラが加速していた。
採血はすぐに終わり、抜いた針の跡へ綿を押し当てられる。
女性医師は採った血液を容器へ移すと、そばにいた看護師へ渡した。
「これは科学班へお願いします。」
「分かりました」
看護師が受け取ったところで、女性医師がもう一枚の指示書へ目を向けた。
「それから……科学班から、毛髪も一本いただけないかとお願いが来ています」
神田の眉が僅かに寄る。
「髪を?」
「一本だけです。遺伝的な特徴も調べたいそうです。もちろん、夢子さんが嫌なら断って構いません」
夢子は自分の髪へ触れた。
一本だけなら、針よりずっと怖くない。
すぐにこくんと頷く。
「本当にいいですか?」
もう一度頷いた。
女性医師は夢子の髪から一本を選び、「少し引っ張りますね」と声をかけてから根元を摘まんだ。
ぷつ、と軽い感触が頭皮へ伝わり、夢子が僅かに目を細める。
抜かれた髪は小さな紙の上へ丁寧に置かれ、そのまま看護師へ渡された。
「血液とは別にして、これも科学班へお願いします」
「はい」
看護師が血液と一本の髪を持って医務室を出ていく。
夢子は、その後ろ姿を興味深そうに見送った。
自分の血と髪が、これからどこかで調べられるらしい。
何をどうすれば、そこから自分の身体のことが分かるのだろう。
そのままついていきそうなほど熱心に見ていると、横から低い声が飛んできた。
「おい」
夢子が振り返る。
「ついてくなよ」
「…………」
僅かに視線が泳ぐ。
女性医師が笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「興味あるんですか?」
問いかけられた夢子は、迷いなく大きく頷いた。
『しらないこと べんきょう するの すき』
「なら、科学班は興味あるでしょうね」
また目が輝く。
神田の顔が露骨に嫌そうになった。
「余計なこと教えんな」
「見学くらいなら、いつかできると思いますよ」
夢子は期待を込めるように神田を見る。
「俺を見るな」
それでも目は輝いたままだった。
女性医師は最後に、昨日治療した足をもう一度確認するため、包帯を外していった。
「薬を塗ったところが赤くなったり、痒くなったりしていないかも見ておきますね」
そう言いながら片方の包帯を外し、足へ目を落としたところで、女性医師の手が止まった。
「…………あれ?」
夢子も自分の足を見る。
神田が横から眉を寄せた。
「!?」
「……」
女性医師はもう片方の包帯も外した。
昨日は確かに、何日も裸足で歩き回ったせいで、足の裏から甲にかけて細かな擦り傷や切り傷がいくつもあった。少し深く傷ついていたところもあり、一晩でどうにかなるような状態ではなかったはずだ。
それが、綺麗に消えている。
女性医師は夢子の足を持ち上げ、昨日傷があった場所を確かめるように見て、乾いた笑いを浮かべた。
「……治ってる。あはは、あの薬そんな特効薬だったかしら…」
夢子が目を瞬いた。
自分では、人間の傷が普通どのくらいで治るものなのか分からない。
神田は何も言わなかった。
ただ、昨日自分がおぶる前に見た足を思い出しながら、顎へ拳を当てて考え込んでいる。
確かに傷だらけだった。
それが一晩で、跡すら残さず消えている。
「昨日の状態から一晩でここまで治るのは普通じゃありません」
女性医師は夢子の足を角度を変えながらもう一度確認し、不思議そうに首を傾げた。
「人魚だからでしょうか」
神田の目が僅かに細くなる。
自分にも、普通の人間にはない再生能力がある。
もちろん同じものだと決まったわけではない。
それでも、目の前で起きていることにはどこか覚えがあった。
「まあ、検査で何か分かるでしょう!」
女性医師はそう言って足を下ろすと、記録へ新しく書き加えた。
夢子はすっかり綺麗になった自分の足を不思議そうに眺め、試すように指先を動かしてみる。
傷の痛みは、もうどこにもなかった。
ただし立ち上がって一歩踏み出せば、魔女との契約による鋭い痛みだけは変わらず脚へ走る。
外傷が治っても、こちらは別らしい。
女性医師は最後まで記録を書き終えると、何枚かの検査結果をまとめながら夢子を見る。
「今のところ、身体の形や基本的な機能はほとんど人間と変わりません。肺活量だけは少し……いえ、かなり特殊ですが、それ以外に今すぐ心配するようなところはありませんよ」
夢子は安心したように息を吐いた。
骨まで人間と同じ。
心臓も、人間と同じ場所で動いている。
それでも、自分は人魚だった。
では、血の中には何があるのだろう。
髪の一本から、何が分かるのだろう。
知らないことが、また増えた。
そのことを不安に思うより先に、夢子の胸には新しいことを知れる楽しみの方が膨らみ始めていた。
この時はまだ、科学班へ運ばれていった小さな血液と一本の毛髪が、教団の研究者たちを揃って言葉を失わせることになるなど、夢子はもちろん、神田さえ知るはずもなかった。
つづく、2026/08/23
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