マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第13話。
歯ブラシを持って洗面所を出ると、言われていた通り神田の部屋へ戻る。廊下の道順にも迷わず、見覚えのある扉を開けると、神田はすでに戻っていた。
「終わったか」
こくん。
神田の視線が夢子の手にある歯ブラシへ落ちる。
「ちゃんと磨いたか」
もう一度頷くと、夢子は歯ブラシを口元へ持っていき、左右へ動かす仕草をしてみせた。
「ならいい」
昨日一度教えただけなのに、もう確認する必要もなさそうだった。
神田はそれ以上何も言わず、「置いてこい。飯行くぞ」と促す。
夢子は歯ブラシを自分の荷物のそばへ置き、帳面と鉛筆だけを持って神田のあとを追った。
朝の教団は、昨夜とはまた違う賑わいを見せていた。
廊下を行き交う人も多く、途中で何度か見知らぬ職員とすれ違う。
そのうち一人の女性から「おはよう」と声をかけられると、夢子は足を止めたものの、今度は慌てなかった。
帳面を開き、先ほど洗面所で作ったページを見せる。
『おはようございます』
その下には、
『きのう きました』
『夢子です』
『こえが でません』
と書かれている。
「あ、新しく来た子なのね。よろしくね」
夢子はにこっと笑って頭を下げた。
前を歩いていた神田が振り返る。
「早く来い」
夢子はすぐに追いつき、開いたままの帳面を見せた。
神田はそこへ書かれた内容を一通り読むと、少しだけ眉を上げた。
「……使い回してんのか」
こくん。
「その方が早ぇな」
褒められたと思ったのか、夢子の目が嬉しそうに輝いた。
「だからその顔すんな」
神田が前を向く。
夢子は機嫌よく帳面を閉じ、また二歩後ろをついていった。
食堂へ入ると、すでに朝食を取る人々で多くの席が埋まり始めていた。
昨日一度来た場所なので、夢子も今度は神田に言われる前に皿を手に取る。
昨日みんながしていたように。
そして、神田は迷いなく白い飯を茶碗へ盛った。
その横で夢子は、昨日食べたパンを見つけるなり目を輝かせる。
「……やっぱそれか」
神田の声に振り向き、こくんと頷いた。
「好きなんだな」
また頷く。
神田はそれ以上何も言わず、焼き魚と野菜を取っていく。
夢子も昨日教わったことを思い出しながら、パンだけでなく卵や野菜を少しずつ皿へ乗せていった。
席を探していると、少し離れたところから大きく手を振る姿が見えた。
「ユウ! 夢子! こっちこっち!」
ラビだった。
その隣にはアレンがおり、少し遅れて料理を持ったリナリーもやってくる。
神田は露骨に嫌そうな顔をしたものの、空いている席を探し直す方が面倒だったらしく、そのままラビたちのところへ向かった。
「おはようございます、夢子」
アレンに声をかけられ、夢子はさっそく例のページを開いた。
『おはようございます』
アレンが少し目を丸くする。
「あ、もう用意してあるんですね」
ラビも横から覗き込んだ。
「なにそれ、便利じゃん。自己紹介も全部書いてある!」
夢子は少し得意そうに頷いた。
「昨日まで毎回書いてたもんな。頭いいじゃん」
そう言われると、さらに嬉しそうな顔になる。
ちょうどそこへやってきたリナリーが、夢子の隣へ腰を下ろした。
「おはよう、夢子。昨日ちゃんと眠れた?」
その質問に、夢子の動きが一瞬止まった。
今朝のことを思い出したらしい。
頬がじわじわ赤くなっていく。
向かいに座る神田も、箸を止めた。
「……余計なこと思い出すな」
「え?」
リナリーが二人を交互に見る。
夢子は慌てて首を横へ振り、何でもないと伝えるようにパンへ手を伸ばした。
ラビは何かを察したらしく、にやりと笑いかけたものの、神田に睨まれて口を閉じる。
しばらくそれぞれ朝食を食べていたところで、ラビがふと夢子を見る。
「そういやさ、昨日聞きそびれたんだけど」
夢子がパンを食べる手を止めた。
「お前いくつ?」
年齢のことだと分かるまで少し時間がかかったものの、意味を理解すると帳面を開く。
数字も書ける。
『19』
それを見たラビが瞬きをした。
「十九?」
こくん。
「へえー。俺とユウと同い年じゃん」
夢子の目が大きくなった。
今度は神田を見る。
「何だよ」
慌てて帳面へ、
『かんださんも 19?』
と書く。
「だから何だ」
神田は何でもないことのように答え、そのまま飯を口へ運んだ。
夢子はしばらく神田の顔をじっと見つめた。
十九歳。
自分と同じ。
勝手にもっと年上だと思っていた。
人間のことを何でも知っていて、何をするにも迷いがなく、昨日から自分の面倒まで見ているのだから、年上なのだろうと何となく思い込んでいた。
「……何だ、その顔」
神田が眉を寄せる。
夢子は慌てて首を横へ振った。
その向かいでラビが笑い始める。
「絶対ユウの方が年上だと思ってたろ」
返事に困り、夢子の視線が泳いだ。
それだけで答えは十分だった。
「やっぱり!」
「うるせぇ」
神田がラビを睨む。
その横では、先ほどからリナリーだけが固まっていた。
フォークを持ったまま、夢子を見ている。
「…………十九?」
夢子がこくんと頷く。
リナリーはもう一度確認するように帳面の『19』を見た。
それから自分の記憶を辿るような顔になる。
昨日の夜、浴場で服の脱ぎ方を教えた。
お湯を怖がる夢子に入り方を教え、のぼせれば慌てて湯船から出し、身体の拭き方や服の着方まで一つずつ説明した。
傷だらけの足を見つけて医務室へ連れていき、初めて履く靴の歩き方まで実演して見せた。
完全に、自分よりずっと、ううんアレンよりも年下の女の子を世話しているつもりだった。
「私……」
リナリーの顔がみるみるショックに染まっていく。
「昨日ずっと、年下の子みたいに扱ってた……」
夢子は目を瞬いた。
「だって、知らないことばっかりだからてっきり……もっと小さいのかと……」
リナリーは頭を抱えそうな顔で夢子を見る。
「私、あんなにお姉さんみたいにしてたのに……!」
ラビが吹き出した。
「リナリー、完全に保護者だったもんな!」
「だって十九歳だなんて思わないじゃない!」
「見た目は普通にそのくらいだろ」
神田が淡々と言う。
「神田は知ってたの!?」
「今知った」
「じゃあ何でそんなに平然としてるのよ!」
「年なんかどうでもいいだろ」
神田は本当に興味がないらしく、再び飯へ戻っている。
一方の夢子は、リナリーがなぜそこまで衝撃を受けているのか分からず、困ったように帳面へ鉛筆を走らせた。
『だめでしたか?』
「違うの!」
リナリーはすぐに首を横へ振った。
「夢子が悪いんじゃないのよ。私が勝手に年下だと思ってただけだから」
夢子はまだ少し不安そうだった。
リナリーはそんな彼女を見ると、今度はしみじみとした顔になる。
「……でも、十九歳なのね」
こくん。
「神田とラビと同い年……」
視線が神田へ向く。
無愛想な顔で白い飯を食べている十九歳。
次に夢子を見る。
パンを両手で持ち、まだ自分が何を間違えたのか気にしている十九歳。
「…………」
あまりにも違う。
ラビも同じことを考えたらしく、二人を見比べながら笑った。
「同い年には見えねぇなあ」
「殺すぞ」
「どっちがどうとは言ってないさ!」
「言ってんのと同じだろ」
二人のやり取りを見ながら、夢子はもう一度神田へ目を向けた。
十九歳。
自分と同じ。
知らなかったことを一つ知れた。
それだけで、胸の奥がほんの少し嬉しくなる。
神田と出会ったばかりの自分は、まだ彼のことを何も知らない。
だから、これから知っていけばいい。
そう思いながらパンを一口食べると、夢子の表情は自然と明るくなった。
その顔をたまたま見た神田が、また少し眉を寄せる。
「……何で嬉しそうなんだよ」
夢子は答えず、ただにこっと笑った。
神田について、また一つ知ったから。
今の夢子には、それが堪らなく嬉しかった。
そんな夢子の様子を向かいから見ていたアレンが、ふと彼女の手元へ目を向けた。
「夢子、パンに何もつけないんですか?」
名前を呼ばれ、夢子は食べかけのパンを持ったまま顔を上げる。
何かつけるものなのだろうか。
不思議そうな顔をしていると、アレンはテーブルの中央に置かれていた小さな器を二つ手元へ寄せた。
「これ、バターです。パンにつけて食べると美味しいですよ」
淡い黄色の塊を指さされ、夢子は興味深そうに覗き込んだ。
「知らないですか?」
首を横へ振る。
『なまえだけは しってる』
「じゃあ、少しだけ試してみます?」
こくん。
アレンが自分のナイフでパンへ薄くバターを塗って見せると、夢子はその手元をじっと見つめたあと、自分でも同じようにナイフを取った。
最初こそ力加減が分からず少し厚く乗せてしまったものの、アレンが「もう少し薄く伸ばせば大丈夫ですよ」と教えると、すぐに要領を掴んでいく。
「そうそう。そんな感じです」
できあがったパンを見てから、夢子は恐る恐る一口齧った。
「…………」
昨日そのまま食べた時とは違い、柔らかなパンにバターの香りと塩気が加わっている。
夢子はゆっくり噛みながら目を丸くし、もう一度パンを見る。
気に入ったらしい。
「美味しいですか?」
こくこく。
アレンは嬉しそうに笑った。
「よかった。じゃあ、こっちも試してみてください」
今度は赤いものが入った器を差し出される。
夢子は首を傾げた。
「ジャムです。果物を甘く煮たものですよ」
『あまい?』
帳面へ書かれた文字を見て、アレンは頷く。
「はい。甘いです」
夢子はジャムをじっと見つめた。
甘い、という言葉そのものは知っている。
流れ着いた本の中にも何度か出てきた。
ただ、それがどんな味なのかは知らない。
海の中にも果実に似たものや食べ物はあったが、人間のように砂糖を使って強く甘くする食文化には馴染みがなかった。
「少しでいいですよ。バターの上につけても美味しいです」
アレンが教えると、夢子は先ほどより慎重にジャムをすくい、パンの端へほんの少しだけ乗せた。
赤く艶のあるそれをしばらく眺めてから、一口食べる。
次の瞬間、夢子の動きが止まった。
「…………!」
目が大きく開く。
噛む。
もう一度噛む。
口の中へ広がったのは、今まで知っていた食べ物とはまるで違う味だった。
果物らしい酸味のあとから、強い甘さがふわりと広がってくる。バターの塩気まで加わると、昨日あれほど美味しいと思ったパンが、まるで別の食べ物になったようだった。
夢子の頬が緩んだ。
目元までふにゃりと下がり、幸せそうにパンを両手で持ったまま、しばらくその味を噛みしめている。
アレンが思わず笑う。
「そんなに気に入りました?」
ものすごい勢いで頷いた。
「ジャム好きなんだ?」
ラビまで身を乗り出してくる。
また大きく頷く。
そのまま夢子は帳面を開き、
『これ すきです』
と書いて、ジャムの器を指さした。
「分かりやす!」
ラビが笑う。
リナリーもつられて笑いながら、「初めて食べたの?」と尋ねると、夢子はこくんと頷いた。
「甘いもの自体?」
もう一度頷く。
今度は三人とも少し驚いた。
「えっ、じゃあそれ、人生初の甘い物?」
ラビに聞かれ、夢子は少し考えてから頷いた。
そのやり取りを聞きながら黙って飯を食べていた神田が、ちらりと夢子を見る。
ジャムをつけたパンをもう一口食べ、また嬉しそうに目を細めている。
「……そんな美味ぇか」
神田が何気なく聞く。
夢子はすぐに神田を見て、勢いよく頷いた。
そして自分のパンを見たあと、神田の茶碗を見る。
少し迷ってから、ジャムの器を神田の方へ押した。
「いらねぇ」
夢子の手が止まる。
「俺は甘いの食わねぇ」
そういうものなのかと納得したらしく、夢子はジャムを自分の方へ戻した。
ラビがそれを見て笑う。
「ユウにも食わせたかったん?」
こくん。
「自分が美味かったから?」
また頷く。
神田は箸を動かしたまま聞いていたが、少ししてからぼそりと言った。
「お前が食え」
夢子は素直にそうすることにした。
再びパンへジャムを塗る。
今度は先ほどより少し多めだった。
それを見たアレンが、「気に入りましたねえ」と楽しそうに笑う。
神田は何も言わなかった。
ただ、夢子が甘いものを食べると、ああいう顔をする。
そのことだけは、何となく頭に残った。
つづく、2026/08/22
歯ブラシを持って洗面所を出ると、言われていた通り神田の部屋へ戻る。廊下の道順にも迷わず、見覚えのある扉を開けると、神田はすでに戻っていた。
「終わったか」
こくん。
神田の視線が夢子の手にある歯ブラシへ落ちる。
「ちゃんと磨いたか」
もう一度頷くと、夢子は歯ブラシを口元へ持っていき、左右へ動かす仕草をしてみせた。
「ならいい」
昨日一度教えただけなのに、もう確認する必要もなさそうだった。
神田はそれ以上何も言わず、「置いてこい。飯行くぞ」と促す。
夢子は歯ブラシを自分の荷物のそばへ置き、帳面と鉛筆だけを持って神田のあとを追った。
朝の教団は、昨夜とはまた違う賑わいを見せていた。
廊下を行き交う人も多く、途中で何度か見知らぬ職員とすれ違う。
そのうち一人の女性から「おはよう」と声をかけられると、夢子は足を止めたものの、今度は慌てなかった。
帳面を開き、先ほど洗面所で作ったページを見せる。
『おはようございます』
その下には、
『きのう きました』
『夢子です』
『こえが でません』
と書かれている。
「あ、新しく来た子なのね。よろしくね」
夢子はにこっと笑って頭を下げた。
前を歩いていた神田が振り返る。
「早く来い」
夢子はすぐに追いつき、開いたままの帳面を見せた。
神田はそこへ書かれた内容を一通り読むと、少しだけ眉を上げた。
「……使い回してんのか」
こくん。
「その方が早ぇな」
褒められたと思ったのか、夢子の目が嬉しそうに輝いた。
「だからその顔すんな」
神田が前を向く。
夢子は機嫌よく帳面を閉じ、また二歩後ろをついていった。
食堂へ入ると、すでに朝食を取る人々で多くの席が埋まり始めていた。
昨日一度来た場所なので、夢子も今度は神田に言われる前に皿を手に取る。
昨日みんながしていたように。
そして、神田は迷いなく白い飯を茶碗へ盛った。
その横で夢子は、昨日食べたパンを見つけるなり目を輝かせる。
「……やっぱそれか」
神田の声に振り向き、こくんと頷いた。
「好きなんだな」
また頷く。
神田はそれ以上何も言わず、焼き魚と野菜を取っていく。
夢子も昨日教わったことを思い出しながら、パンだけでなく卵や野菜を少しずつ皿へ乗せていった。
席を探していると、少し離れたところから大きく手を振る姿が見えた。
「ユウ! 夢子! こっちこっち!」
ラビだった。
その隣にはアレンがおり、少し遅れて料理を持ったリナリーもやってくる。
神田は露骨に嫌そうな顔をしたものの、空いている席を探し直す方が面倒だったらしく、そのままラビたちのところへ向かった。
「おはようございます、夢子」
アレンに声をかけられ、夢子はさっそく例のページを開いた。
『おはようございます』
アレンが少し目を丸くする。
「あ、もう用意してあるんですね」
ラビも横から覗き込んだ。
「なにそれ、便利じゃん。自己紹介も全部書いてある!」
夢子は少し得意そうに頷いた。
「昨日まで毎回書いてたもんな。頭いいじゃん」
そう言われると、さらに嬉しそうな顔になる。
ちょうどそこへやってきたリナリーが、夢子の隣へ腰を下ろした。
「おはよう、夢子。昨日ちゃんと眠れた?」
その質問に、夢子の動きが一瞬止まった。
今朝のことを思い出したらしい。
頬がじわじわ赤くなっていく。
向かいに座る神田も、箸を止めた。
「……余計なこと思い出すな」
「え?」
リナリーが二人を交互に見る。
夢子は慌てて首を横へ振り、何でもないと伝えるようにパンへ手を伸ばした。
ラビは何かを察したらしく、にやりと笑いかけたものの、神田に睨まれて口を閉じる。
しばらくそれぞれ朝食を食べていたところで、ラビがふと夢子を見る。
「そういやさ、昨日聞きそびれたんだけど」
夢子がパンを食べる手を止めた。
「お前いくつ?」
年齢のことだと分かるまで少し時間がかかったものの、意味を理解すると帳面を開く。
数字も書ける。
『19』
それを見たラビが瞬きをした。
「十九?」
こくん。
「へえー。俺とユウと同い年じゃん」
夢子の目が大きくなった。
今度は神田を見る。
「何だよ」
慌てて帳面へ、
『かんださんも 19?』
と書く。
「だから何だ」
神田は何でもないことのように答え、そのまま飯を口へ運んだ。
夢子はしばらく神田の顔をじっと見つめた。
十九歳。
自分と同じ。
勝手にもっと年上だと思っていた。
人間のことを何でも知っていて、何をするにも迷いがなく、昨日から自分の面倒まで見ているのだから、年上なのだろうと何となく思い込んでいた。
「……何だ、その顔」
神田が眉を寄せる。
夢子は慌てて首を横へ振った。
その向かいでラビが笑い始める。
「絶対ユウの方が年上だと思ってたろ」
返事に困り、夢子の視線が泳いだ。
それだけで答えは十分だった。
「やっぱり!」
「うるせぇ」
神田がラビを睨む。
その横では、先ほどからリナリーだけが固まっていた。
フォークを持ったまま、夢子を見ている。
「…………十九?」
夢子がこくんと頷く。
リナリーはもう一度確認するように帳面の『19』を見た。
それから自分の記憶を辿るような顔になる。
昨日の夜、浴場で服の脱ぎ方を教えた。
お湯を怖がる夢子に入り方を教え、のぼせれば慌てて湯船から出し、身体の拭き方や服の着方まで一つずつ説明した。
傷だらけの足を見つけて医務室へ連れていき、初めて履く靴の歩き方まで実演して見せた。
完全に、自分よりずっと、ううんアレンよりも年下の女の子を世話しているつもりだった。
「私……」
リナリーの顔がみるみるショックに染まっていく。
「昨日ずっと、年下の子みたいに扱ってた……」
夢子は目を瞬いた。
「だって、知らないことばっかりだからてっきり……もっと小さいのかと……」
リナリーは頭を抱えそうな顔で夢子を見る。
「私、あんなにお姉さんみたいにしてたのに……!」
ラビが吹き出した。
「リナリー、完全に保護者だったもんな!」
「だって十九歳だなんて思わないじゃない!」
「見た目は普通にそのくらいだろ」
神田が淡々と言う。
「神田は知ってたの!?」
「今知った」
「じゃあ何でそんなに平然としてるのよ!」
「年なんかどうでもいいだろ」
神田は本当に興味がないらしく、再び飯へ戻っている。
一方の夢子は、リナリーがなぜそこまで衝撃を受けているのか分からず、困ったように帳面へ鉛筆を走らせた。
『だめでしたか?』
「違うの!」
リナリーはすぐに首を横へ振った。
「夢子が悪いんじゃないのよ。私が勝手に年下だと思ってただけだから」
夢子はまだ少し不安そうだった。
リナリーはそんな彼女を見ると、今度はしみじみとした顔になる。
「……でも、十九歳なのね」
こくん。
「神田とラビと同い年……」
視線が神田へ向く。
無愛想な顔で白い飯を食べている十九歳。
次に夢子を見る。
パンを両手で持ち、まだ自分が何を間違えたのか気にしている十九歳。
「…………」
あまりにも違う。
ラビも同じことを考えたらしく、二人を見比べながら笑った。
「同い年には見えねぇなあ」
「殺すぞ」
「どっちがどうとは言ってないさ!」
「言ってんのと同じだろ」
二人のやり取りを見ながら、夢子はもう一度神田へ目を向けた。
十九歳。
自分と同じ。
知らなかったことを一つ知れた。
それだけで、胸の奥がほんの少し嬉しくなる。
神田と出会ったばかりの自分は、まだ彼のことを何も知らない。
だから、これから知っていけばいい。
そう思いながらパンを一口食べると、夢子の表情は自然と明るくなった。
その顔をたまたま見た神田が、また少し眉を寄せる。
「……何で嬉しそうなんだよ」
夢子は答えず、ただにこっと笑った。
神田について、また一つ知ったから。
今の夢子には、それが堪らなく嬉しかった。
そんな夢子の様子を向かいから見ていたアレンが、ふと彼女の手元へ目を向けた。
「夢子、パンに何もつけないんですか?」
名前を呼ばれ、夢子は食べかけのパンを持ったまま顔を上げる。
何かつけるものなのだろうか。
不思議そうな顔をしていると、アレンはテーブルの中央に置かれていた小さな器を二つ手元へ寄せた。
「これ、バターです。パンにつけて食べると美味しいですよ」
淡い黄色の塊を指さされ、夢子は興味深そうに覗き込んだ。
「知らないですか?」
首を横へ振る。
『なまえだけは しってる』
「じゃあ、少しだけ試してみます?」
こくん。
アレンが自分のナイフでパンへ薄くバターを塗って見せると、夢子はその手元をじっと見つめたあと、自分でも同じようにナイフを取った。
最初こそ力加減が分からず少し厚く乗せてしまったものの、アレンが「もう少し薄く伸ばせば大丈夫ですよ」と教えると、すぐに要領を掴んでいく。
「そうそう。そんな感じです」
できあがったパンを見てから、夢子は恐る恐る一口齧った。
「…………」
昨日そのまま食べた時とは違い、柔らかなパンにバターの香りと塩気が加わっている。
夢子はゆっくり噛みながら目を丸くし、もう一度パンを見る。
気に入ったらしい。
「美味しいですか?」
こくこく。
アレンは嬉しそうに笑った。
「よかった。じゃあ、こっちも試してみてください」
今度は赤いものが入った器を差し出される。
夢子は首を傾げた。
「ジャムです。果物を甘く煮たものですよ」
『あまい?』
帳面へ書かれた文字を見て、アレンは頷く。
「はい。甘いです」
夢子はジャムをじっと見つめた。
甘い、という言葉そのものは知っている。
流れ着いた本の中にも何度か出てきた。
ただ、それがどんな味なのかは知らない。
海の中にも果実に似たものや食べ物はあったが、人間のように砂糖を使って強く甘くする食文化には馴染みがなかった。
「少しでいいですよ。バターの上につけても美味しいです」
アレンが教えると、夢子は先ほどより慎重にジャムをすくい、パンの端へほんの少しだけ乗せた。
赤く艶のあるそれをしばらく眺めてから、一口食べる。
次の瞬間、夢子の動きが止まった。
「…………!」
目が大きく開く。
噛む。
もう一度噛む。
口の中へ広がったのは、今まで知っていた食べ物とはまるで違う味だった。
果物らしい酸味のあとから、強い甘さがふわりと広がってくる。バターの塩気まで加わると、昨日あれほど美味しいと思ったパンが、まるで別の食べ物になったようだった。
夢子の頬が緩んだ。
目元までふにゃりと下がり、幸せそうにパンを両手で持ったまま、しばらくその味を噛みしめている。
アレンが思わず笑う。
「そんなに気に入りました?」
ものすごい勢いで頷いた。
「ジャム好きなんだ?」
ラビまで身を乗り出してくる。
また大きく頷く。
そのまま夢子は帳面を開き、
『これ すきです』
と書いて、ジャムの器を指さした。
「分かりやす!」
ラビが笑う。
リナリーもつられて笑いながら、「初めて食べたの?」と尋ねると、夢子はこくんと頷いた。
「甘いもの自体?」
もう一度頷く。
今度は三人とも少し驚いた。
「えっ、じゃあそれ、人生初の甘い物?」
ラビに聞かれ、夢子は少し考えてから頷いた。
そのやり取りを聞きながら黙って飯を食べていた神田が、ちらりと夢子を見る。
ジャムをつけたパンをもう一口食べ、また嬉しそうに目を細めている。
「……そんな美味ぇか」
神田が何気なく聞く。
夢子はすぐに神田を見て、勢いよく頷いた。
そして自分のパンを見たあと、神田の茶碗を見る。
少し迷ってから、ジャムの器を神田の方へ押した。
「いらねぇ」
夢子の手が止まる。
「俺は甘いの食わねぇ」
そういうものなのかと納得したらしく、夢子はジャムを自分の方へ戻した。
ラビがそれを見て笑う。
「ユウにも食わせたかったん?」
こくん。
「自分が美味かったから?」
また頷く。
神田は箸を動かしたまま聞いていたが、少ししてからぼそりと言った。
「お前が食え」
夢子は素直にそうすることにした。
再びパンへジャムを塗る。
今度は先ほどより少し多めだった。
それを見たアレンが、「気に入りましたねえ」と楽しそうに笑う。
神田は何も言わなかった。
ただ、夢子が甘いものを食べると、ああいう顔をする。
そのことだけは、何となく頭に残った。
つづく、2026/08/22