マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第12話。
朝。
神田が目を開ける。
眠りから覚めた意識はいつも通りすぐに冴えたが、身体を動かそうとした瞬間、肩に重みがあることに気づいた。
「…………」
視線だけを横へ向ける。
夢子がいた。
自分の肩に頭を預け、同じ毛布へ包まりながら気持ちよさそうに眠っている。
神田は息を呑んだ。
昨夜、こいつはベッドで寝ていた。
自分はここにいた。
毛布も確かにベッドへ戻した。
ならば今のこの状況になるためには、夢子が夜中に起き、ベッドを降り、毛布を持ってここまで歩いてきたことになる。
「…………」
神田の眉間に、ゆっくり皺が寄った。
気づかなかった。
すぐ隣へ座られ、毛布まで掛けられたというのに、グースカ寝てやがった。
「……シャレにならん」
神田は自分自身に呆れたように小さく呟いた。
これが任務中なら笑えない。
敵がこれだけ近づいても気づかなかったということになる。
「俺としたことが……」
本気で落ち込んでいる神田の肩で、夢子は何も知らずにすうすうと眠っている。
しかも少し身体を動かした拍子に頭がずれ、先ほどより深く神田の肩へ預けられた。
「…………」
神田は横目で寝顔を見る。
昨日会ったばかりの女が、何の警戒もなく自分へ寄りかかって眠っている。
神田はしばらく何とも言えない顔をしていたが、結局その頭を押し返すことも、毛布を取り上げることもしなかった。
ただ小さく息を吐き、再び壁へ頭を預ける。
「……今日だけだぞ」
眠っている夢子には、当然聞こえていなかった。
それどころか、温かい場所を探すように眠ったまま僅かに身じろぎした拍子に、神田の肩へ預けていた頭がゆっくりとずれ始めた。
最初は上腕に引っかかっていたものの、そこで止まることもなく、そのままずるずると脇腹を伝って下へ落ちていく。
「……おい」
神田が眉を寄せた時にはもう遅かった。
夢子の頭はとうとう神田の膝とお腹の間へ収まり、本人は何事もなかったようにすやすやと眠り続けている。
「…………」
神田の身体が固まった。
起こすべきか。どかすべきか。
この位置は──どう考えても、このままにしておく位置ではない。
神田はどうしようかと、しばらく無言で天井を見上げたあと、盛大に眉間へ皺を寄せた。
「……何でこうなる」
当の夢子は知らぬ顔で、むしろ先ほどより落ち着いた様子で眠っている。
「…………」
神田はもう一度だけ深く息を吐いた。
「お前……そこを枕にするな」
もちろん、夢子には聞こえていなかった。
神田は眉間に皺を寄せたまま、眠っている彼女へ視線で念を送り続ける。
早く起きろ。
そして早く退け。
一般的な起床時間帯まで最悪だった。
本人の意思とは関係なく起こる、朝の身体の反応くらい神田にだってある。
よりにもよって、こんな時に。
「…………」
神田のこめかみに僅かに青筋が浮かぶ。
起きろ。
念でも送るような勢いで見下ろしているというのに、夢子は一向に目を覚まさない。
それどころか、寝心地のいい場所を探しているのか、眠ったまま僅かに顔を動かした。
頬が、すり、と触れる。
「……っ」
神田の身体がぴたりと固まった。
夢子は何も知らない。
もう一度、小さく身じろぎする。
「刺激すんな、おい」
思わず低い声が漏れた。
それでも起きない。
神田は天井を仰いだ。
「……最悪だ」
その言葉とは裏腹に、強引に夢子をどかすことはせず、ただひたすら目を覚ますのを待つしかなかった。
しばらくすると、夢子がまた僅かに動く。
「動くなっつーてんだろ」
寝ている相手へ言っても意味がないことくらい、神田にも分かっている。
それでも言わずにはいられなかった。
「頼むからじっとしてろ」
しかし、動かなければいいという問題でもなかった。そこに頭がある時点で、どう考えても落ち着ける状況ではない。
「……起きろ」
珍しく切実な声だった。
それでも夢子は目を覚まさず、規則正しい寝息だけが返ってくる。
神田はしばらく無言で天井を仰いだ。
「……最悪だ」
昨日会ったばかりの女に、朝っぱらからここまで追い詰められるとは思わなかった。
しかも当の本人は、神田の苦労など何ひとつ知らず、実に幸せそうな顔で眠っている。
「……起きたら覚えてろよ」
当然、その脅しすら本人の耳には届いていなかった。
神田は盛大にため息を吐いた。
「コイツ何がしてぇんだ」
呆れたようにそう呟きながらも、神田は結局どかすことはせず、ずれた毛布だけを夢子の肩まで引き上げた。
それから少しして、神田がひたすら無言の圧を送り続けた甲斐があったのか、夢子の睫毛が僅かに震えた。
まだ眠気の残ったまま何度か瞬きをすると、最初に目へ入ったのは誰もいない白いベッドだった。
「…………?」
ぼんやりした頭では、自分が何を見ているのかすぐには分からない。
頬の下には温かな感触があり、身体には毛布が掛かっている。
昨夜、ベッドで目を覚ました時、神田へ渡したはずの毛布が自分に戻されていることに気づき、毛布を持って神田のところへ行った。
一人で使えばまた返されると思い、二人で掛ければいいのだと考えて隣へ座った。
そこまでは覚えている。
夢子はまだ半分眠ったまま、自分の頬が触れているものへ視線を落とした。
どうやら、床ではない。
そのまま少しずつ顔を上げていくと、真上から神田がこちらを見下ろしていた。
目が合う。
「…………」
「…………」
神田の顔は、朝から恐ろしく険しかった。
夢子は何度か瞬きをしてから、ようやく自分の頭がどこにあるのかを確かめるように視線を動かした。
神田の膝。
その間。
そして、すぐ目の前には腹。
「…………!」
一気に眠気が吹き飛んだ。
夢子は弾かれたように身体を起こしたものの、慌てすぎて後ろへひっくり返りそうになる。
その瞬間、神田の手が伸びた。
腕を掴まれ、床へ頭をぶつける寸前で身体が止まる。
「危ねぇ」
神田は苛立った声で言いながら夢子を引き戻し、きちんと座ったのを確認してから手を離した。
夢子は真っ赤になった顔で神田を見たあと、今まで自分がいた場所を見る。
そしてもう一度、神田を見る。
どうやら寝ている間に、とんでもないところまで転がっていったらしい。
慌てて両手を合わせて頭を下げると、神田は深々と息を吐いた。
「……やっと起きたか」
夢子は申し訳なさそうに頷いた。
昨夜、神田の隣へ来たのは自分である。いくら寝ている間のこととはいえ、彼を枕代わりにしたのも自分なのだから、怒られて当然だと思った。
ところが、神田の様子はただ機嫌が悪いというより、疲れているようにも見える。
夢子は首を傾げた。
「何だよ」
神田の顔を見る。
それから、先ほど自分が寝ていた場所を見る。
もう一度、神田を見る。
どうしてそんなに困った顔をしているのだろう。夢子には分からなかった。
「……見るな」
神田はそれ以上説明する気がないらしく、乱れた毛布を夢子の方へ押しやった。
それでも彼女はまだ不思議そうな顔をしている。
その視線が自分の身体へ向きそうになったところで、神田の眉がぴくりと動いた。
「見るなと言ってんだろ」
夢子が目を丸くする。
何を。
「いいから見るな」
言われた通り、夢子はすぐに顔を反対へ向けた。
素直すぎるくらい素直だった。
神田はそれを確認すると、片手で顔を覆った。
何も知らない相手に説明する気にもならないし、説明したところで余計に面倒なことになるだけだ。
ただでさえ朝から散々だったというのに、本人は何ひとつ分かっていない。
「……最悪だ」
また聞こえてきたその言葉に、夢子は少し肩を落とした。
やはり自分が何か悪いことをしたらしい。
そろそろと帳面へ手を伸ばし、
『ごめんなさい』
と書いて神田へ見せる。
神田は文字を見たあと、眉を寄せた。
「だから、お前に怒ってんじゃねぇよ」
夢子が顔を上げる。
「……いや、半分くらいはお前のせいだな」
しゅん、と眉が下がった。
「そういう顔すんな」
神田は面倒そうに髪を掻き上げると、結局説明を諦めたように息を吐いた。
「寝相悪ぃんだよ、お前」
夢子は目を瞬いた。
そして少し考え、
『ねぞう?』
と書く。
「寝てる時に動き回ることだ」
意味を理解した夢子は、また申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝んなくていい。次からお前一人で毛布を使え」
神田が昨夜から同じことを言っている。
夢子は毛布を見た。
昨夜は神田に掛けてあげたはずなのに、結局また自分へ戻されていた。
そのうえ自分はわざわざ毛布ごと神田の隣まで来てしまった。
「俺が横着せず毛布を取りに行けば良かったんだ」
確かに神田の言う通りだった。
最初から毛布が二枚あれば何の問題もなかったのかもしれない。
夢子が納得したように頷くと、神田も「今日もう一枚貰う」と念を押すように言った。
そこでようやく朝の話は終わったらしく、神田は立ち上がろうとして――一瞬動きを止めた。
「…………」
夢子が不思議そうに見る。
「お前はそっち見てろ」
すぐに言われ、慌てて反対を向く。
やはり何かある。
気にはなる。
ものすごく気にはなるものの、触るなと言われたものには触らないし、見るなと言われたものも見ない。
昨夜教わったばかりだ。
背後で衣擦れの音がし、少ししてから神田が立ち上がる気配がした。
「もういいぞ」
振り返ると、いつもの神田が立っていた。
夢子はまだ少し首を傾げていたものの、神田が説明しないのなら聞かないことにした。
神田はそんな彼女を見て、何とも言えない顔をする。
この女が人間の身体についてどこまで知っているのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだった。
「顔洗いに行くぞ。歯も磨けよ」
言われた夢子は頷きかけたものの、途中で動きを止めた。
少し考えてから、自分の荷物のそばへ置いてある歯ブラシを見て、それから神田を見る。
「何だ」
夢子は帳面を開いた。
『ごはん まだです』
「…………」
神田も一瞬黙った。
昨日、自分が確かに教えた。
飯を食ったら、これで歯を磨け。
しかも夢子はそれをわざわざ帳面へ、
『はぶらし』
『ごはんの あと』
と書いていた。
「……ああ」
どうやら説明が足りなかったのは自分の方らしい。
「朝は飯食う前にも磨くんだよ。起きたら顔洗って、歯も磨け」
夢子は神田の顔を見たあと、帳面へ視線を落とした。
昨日書いた『ごはんの あと』の下へ、新しく文字を書き足す。
『あさは ごはんの まえも』
「そう」
神田が答えると、夢子は書いた文字をもう一度確認してから頷いた。
これで覚えたらしい。
「……一個教わるたびに、それが全てだと思うなよ」
夢子は不思議そうに首を傾げる。
「人間の生活なんか例外だらけだ」
そんなことを言われても、教団生活二日目の夢子には知る由もない。
神田は小さく息を吐くと、女性用の洗面所がある方へ顎を向けた。
「とりあえず行け。俺も行く」
その言葉を聞いた瞬間、夢子の顔が露骨に曇った。
昨日の、鼻の奥までつんと抜けてくる味を思い出したらしい。
渋々頷く。
「昨日の歯ブラシ持ってけ」
夢子は自分の荷物のそばへ置いていた歯ブラシを手に取った。
人間になってから初めてもらった、自分だけの物。
嫌いな歯磨き粉を使う道具ではあるものの、それでも歯ブラシそのものは気に入っているらしく、大切そうに握っている。
扉を開けた神田が廊下へ出ると、夢子もそのあとを追った。
少し歩いたところで女性用の洗面所が見えてくる。
神田は入口の前で足を止めた。
「昨日教えた通りやれ」
夢子はこくんと頷く。
「終わったら部屋戻ってろ。俺も顔洗ってくる」
もう一度頷いた夢子は女性用の洗面所へ入っていった。
「おはよう。あれ?見ない顔。新人さん?」
突然横から声をかけられ、夢子はびくりと肩を揺らした。
振り向くと、少し離れた洗面台にいた女性職員がこちらを見ている。
親しげに笑っているので、怒られているわけではないらしい。
「…………」
夢子は慌てて頭を下げた。
おはよう。
そう返せばいい。
言葉の意味も、挨拶の仕方も知っている。
ただし、声が出ない。
「あれ?」
女性が不思議そうに首を傾げる。
夢子はそこでようやく、自分が頭を下げただけで何も答えていないことに気づいた。
違う。
返事をしなければ。
慌てて口を開きかけ、当然声が出ないことを思い出して閉じる。
それから喉元を指さそうとして、先に帳面へ書いた方が早いと思い直し、今度は持ってきた荷物へ手を伸ばした。
「あ、えっと……大丈夫?」
ますます心配そうな声をかけられ、夢子は大丈夫だと伝えようと何度も頷きながら、帳面を取り出す。
ところが焦っているせいで鉛筆まで一緒に引っ張り出し、危うく床へ落としかけた。
「…………!」
慌てて掴む。
女性職員はその様子を見守りながら、少し困ったように笑った。
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
その一言で、夢子はようやく少し落ち着いた。
帳面を開き、覚えたばかりの文字を慎重に並べていく。
『おはようございます』
まずそれを見せる。
「あ、おはよう」
ちゃんと返ってきた。
夢子の表情が少し明るくなる。
続けて、
『きのう きました』
と書き、その下へ自分の名前を添えた。
女性職員は帳面を読んでから、「やっぱり新人さんなんだ」と納得したように頷いたものの、すぐに夢子の顔と帳面を交互に見た。
「もしかして、喋れないの?」
夢子はこくんと頷く。
「そっか。だから慌ててたのね」
責められている様子がないと分かり、夢子はほっとして小さく笑った。
「私は――」
女性が自分の名前を教えてくれる。
夢子は一度聞くと、その名前を忘れないよう頭の中で繰り返した。
「これからよろしくね」
今度は慌てなかった。
夢子はにこっと笑い、帳面へ、
『よろしく おねがいします』
と書いて見せた。
それから、幾つも並んだ空いている洗面台の前に立った。
夢子は昨日神田がしていたことを思い出しながら、自分の歯ブラシを取り出した。
棚に置かれた歯磨き粉を手に取り、蓋を開ける。
そこで手が止まった。
「…………」
昨日の味が蘇る。
嫌だ。
できれば、もう口へ入れたくない。
しかし神田は、毎日やると言っていた。
夢子は覚悟を決めたように眉を寄せると、昨日神田がつけてくれた量を思い出し、同じ程度だけ歯ブラシへ乗せた。
口へ入れる。
「…………!」
やはり不味い。
思い切り眉間へ皺を寄せながらも、昨日見た通りに歯ブラシを動かし、口の中を順番に磨いていく。
神田が教えたことは、全部覚えていた。
終わったら飲み込まず、洗面台へ吐き出す。
そのあと水で口をすすぐ。
何度かゆすぎ、ようやくあの妙な味が薄くなると、夢子はほっとしたように息を吐いた。
一人でもできた。
鏡の中の自分を見て、少しだけ嬉しくなる。
人間になってまだ数日しか経っていない。
知らないことばかりではあるものの、一度覚えれば、次からは自分でできる。
同時に歯磨き粉の味だけは、できれば早く慣れたいと思った。
つづく、2026/08/22
朝。
神田が目を開ける。
眠りから覚めた意識はいつも通りすぐに冴えたが、身体を動かそうとした瞬間、肩に重みがあることに気づいた。
「…………」
視線だけを横へ向ける。
夢子がいた。
自分の肩に頭を預け、同じ毛布へ包まりながら気持ちよさそうに眠っている。
神田は息を呑んだ。
昨夜、こいつはベッドで寝ていた。
自分はここにいた。
毛布も確かにベッドへ戻した。
ならば今のこの状況になるためには、夢子が夜中に起き、ベッドを降り、毛布を持ってここまで歩いてきたことになる。
「…………」
神田の眉間に、ゆっくり皺が寄った。
気づかなかった。
すぐ隣へ座られ、毛布まで掛けられたというのに、グースカ寝てやがった。
「……シャレにならん」
神田は自分自身に呆れたように小さく呟いた。
これが任務中なら笑えない。
敵がこれだけ近づいても気づかなかったということになる。
「俺としたことが……」
本気で落ち込んでいる神田の肩で、夢子は何も知らずにすうすうと眠っている。
しかも少し身体を動かした拍子に頭がずれ、先ほどより深く神田の肩へ預けられた。
「…………」
神田は横目で寝顔を見る。
昨日会ったばかりの女が、何の警戒もなく自分へ寄りかかって眠っている。
神田はしばらく何とも言えない顔をしていたが、結局その頭を押し返すことも、毛布を取り上げることもしなかった。
ただ小さく息を吐き、再び壁へ頭を預ける。
「……今日だけだぞ」
眠っている夢子には、当然聞こえていなかった。
それどころか、温かい場所を探すように眠ったまま僅かに身じろぎした拍子に、神田の肩へ預けていた頭がゆっくりとずれ始めた。
最初は上腕に引っかかっていたものの、そこで止まることもなく、そのままずるずると脇腹を伝って下へ落ちていく。
「……おい」
神田が眉を寄せた時にはもう遅かった。
夢子の頭はとうとう神田の膝とお腹の間へ収まり、本人は何事もなかったようにすやすやと眠り続けている。
「…………」
神田の身体が固まった。
起こすべきか。どかすべきか。
この位置は──どう考えても、このままにしておく位置ではない。
神田はどうしようかと、しばらく無言で天井を見上げたあと、盛大に眉間へ皺を寄せた。
「……何でこうなる」
当の夢子は知らぬ顔で、むしろ先ほどより落ち着いた様子で眠っている。
「…………」
神田はもう一度だけ深く息を吐いた。
「お前……そこを枕にするな」
もちろん、夢子には聞こえていなかった。
神田は眉間に皺を寄せたまま、眠っている彼女へ視線で念を送り続ける。
早く起きろ。
そして早く退け。
一般的な起床時間帯まで最悪だった。
本人の意思とは関係なく起こる、朝の身体の反応くらい神田にだってある。
よりにもよって、こんな時に。
「…………」
神田のこめかみに僅かに青筋が浮かぶ。
起きろ。
念でも送るような勢いで見下ろしているというのに、夢子は一向に目を覚まさない。
それどころか、寝心地のいい場所を探しているのか、眠ったまま僅かに顔を動かした。
頬が、すり、と触れる。
「……っ」
神田の身体がぴたりと固まった。
夢子は何も知らない。
もう一度、小さく身じろぎする。
「刺激すんな、おい」
思わず低い声が漏れた。
それでも起きない。
神田は天井を仰いだ。
「……最悪だ」
その言葉とは裏腹に、強引に夢子をどかすことはせず、ただひたすら目を覚ますのを待つしかなかった。
しばらくすると、夢子がまた僅かに動く。
「動くなっつーてんだろ」
寝ている相手へ言っても意味がないことくらい、神田にも分かっている。
それでも言わずにはいられなかった。
「頼むからじっとしてろ」
しかし、動かなければいいという問題でもなかった。そこに頭がある時点で、どう考えても落ち着ける状況ではない。
「……起きろ」
珍しく切実な声だった。
それでも夢子は目を覚まさず、規則正しい寝息だけが返ってくる。
神田はしばらく無言で天井を仰いだ。
「……最悪だ」
昨日会ったばかりの女に、朝っぱらからここまで追い詰められるとは思わなかった。
しかも当の本人は、神田の苦労など何ひとつ知らず、実に幸せそうな顔で眠っている。
「……起きたら覚えてろよ」
当然、その脅しすら本人の耳には届いていなかった。
神田は盛大にため息を吐いた。
「コイツ何がしてぇんだ」
呆れたようにそう呟きながらも、神田は結局どかすことはせず、ずれた毛布だけを夢子の肩まで引き上げた。
それから少しして、神田がひたすら無言の圧を送り続けた甲斐があったのか、夢子の睫毛が僅かに震えた。
まだ眠気の残ったまま何度か瞬きをすると、最初に目へ入ったのは誰もいない白いベッドだった。
「…………?」
ぼんやりした頭では、自分が何を見ているのかすぐには分からない。
頬の下には温かな感触があり、身体には毛布が掛かっている。
昨夜、ベッドで目を覚ました時、神田へ渡したはずの毛布が自分に戻されていることに気づき、毛布を持って神田のところへ行った。
一人で使えばまた返されると思い、二人で掛ければいいのだと考えて隣へ座った。
そこまでは覚えている。
夢子はまだ半分眠ったまま、自分の頬が触れているものへ視線を落とした。
どうやら、床ではない。
そのまま少しずつ顔を上げていくと、真上から神田がこちらを見下ろしていた。
目が合う。
「…………」
「…………」
神田の顔は、朝から恐ろしく険しかった。
夢子は何度か瞬きをしてから、ようやく自分の頭がどこにあるのかを確かめるように視線を動かした。
神田の膝。
その間。
そして、すぐ目の前には腹。
「…………!」
一気に眠気が吹き飛んだ。
夢子は弾かれたように身体を起こしたものの、慌てすぎて後ろへひっくり返りそうになる。
その瞬間、神田の手が伸びた。
腕を掴まれ、床へ頭をぶつける寸前で身体が止まる。
「危ねぇ」
神田は苛立った声で言いながら夢子を引き戻し、きちんと座ったのを確認してから手を離した。
夢子は真っ赤になった顔で神田を見たあと、今まで自分がいた場所を見る。
そしてもう一度、神田を見る。
どうやら寝ている間に、とんでもないところまで転がっていったらしい。
慌てて両手を合わせて頭を下げると、神田は深々と息を吐いた。
「……やっと起きたか」
夢子は申し訳なさそうに頷いた。
昨夜、神田の隣へ来たのは自分である。いくら寝ている間のこととはいえ、彼を枕代わりにしたのも自分なのだから、怒られて当然だと思った。
ところが、神田の様子はただ機嫌が悪いというより、疲れているようにも見える。
夢子は首を傾げた。
「何だよ」
神田の顔を見る。
それから、先ほど自分が寝ていた場所を見る。
もう一度、神田を見る。
どうしてそんなに困った顔をしているのだろう。夢子には分からなかった。
「……見るな」
神田はそれ以上説明する気がないらしく、乱れた毛布を夢子の方へ押しやった。
それでも彼女はまだ不思議そうな顔をしている。
その視線が自分の身体へ向きそうになったところで、神田の眉がぴくりと動いた。
「見るなと言ってんだろ」
夢子が目を丸くする。
何を。
「いいから見るな」
言われた通り、夢子はすぐに顔を反対へ向けた。
素直すぎるくらい素直だった。
神田はそれを確認すると、片手で顔を覆った。
何も知らない相手に説明する気にもならないし、説明したところで余計に面倒なことになるだけだ。
ただでさえ朝から散々だったというのに、本人は何ひとつ分かっていない。
「……最悪だ」
また聞こえてきたその言葉に、夢子は少し肩を落とした。
やはり自分が何か悪いことをしたらしい。
そろそろと帳面へ手を伸ばし、
『ごめんなさい』
と書いて神田へ見せる。
神田は文字を見たあと、眉を寄せた。
「だから、お前に怒ってんじゃねぇよ」
夢子が顔を上げる。
「……いや、半分くらいはお前のせいだな」
しゅん、と眉が下がった。
「そういう顔すんな」
神田は面倒そうに髪を掻き上げると、結局説明を諦めたように息を吐いた。
「寝相悪ぃんだよ、お前」
夢子は目を瞬いた。
そして少し考え、
『ねぞう?』
と書く。
「寝てる時に動き回ることだ」
意味を理解した夢子は、また申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝んなくていい。次からお前一人で毛布を使え」
神田が昨夜から同じことを言っている。
夢子は毛布を見た。
昨夜は神田に掛けてあげたはずなのに、結局また自分へ戻されていた。
そのうえ自分はわざわざ毛布ごと神田の隣まで来てしまった。
「俺が横着せず毛布を取りに行けば良かったんだ」
確かに神田の言う通りだった。
最初から毛布が二枚あれば何の問題もなかったのかもしれない。
夢子が納得したように頷くと、神田も「今日もう一枚貰う」と念を押すように言った。
そこでようやく朝の話は終わったらしく、神田は立ち上がろうとして――一瞬動きを止めた。
「…………」
夢子が不思議そうに見る。
「お前はそっち見てろ」
すぐに言われ、慌てて反対を向く。
やはり何かある。
気にはなる。
ものすごく気にはなるものの、触るなと言われたものには触らないし、見るなと言われたものも見ない。
昨夜教わったばかりだ。
背後で衣擦れの音がし、少ししてから神田が立ち上がる気配がした。
「もういいぞ」
振り返ると、いつもの神田が立っていた。
夢子はまだ少し首を傾げていたものの、神田が説明しないのなら聞かないことにした。
神田はそんな彼女を見て、何とも言えない顔をする。
この女が人間の身体についてどこまで知っているのか、考えるだけで頭が痛くなりそうだった。
「顔洗いに行くぞ。歯も磨けよ」
言われた夢子は頷きかけたものの、途中で動きを止めた。
少し考えてから、自分の荷物のそばへ置いてある歯ブラシを見て、それから神田を見る。
「何だ」
夢子は帳面を開いた。
『ごはん まだです』
「…………」
神田も一瞬黙った。
昨日、自分が確かに教えた。
飯を食ったら、これで歯を磨け。
しかも夢子はそれをわざわざ帳面へ、
『はぶらし』
『ごはんの あと』
と書いていた。
「……ああ」
どうやら説明が足りなかったのは自分の方らしい。
「朝は飯食う前にも磨くんだよ。起きたら顔洗って、歯も磨け」
夢子は神田の顔を見たあと、帳面へ視線を落とした。
昨日書いた『ごはんの あと』の下へ、新しく文字を書き足す。
『あさは ごはんの まえも』
「そう」
神田が答えると、夢子は書いた文字をもう一度確認してから頷いた。
これで覚えたらしい。
「……一個教わるたびに、それが全てだと思うなよ」
夢子は不思議そうに首を傾げる。
「人間の生活なんか例外だらけだ」
そんなことを言われても、教団生活二日目の夢子には知る由もない。
神田は小さく息を吐くと、女性用の洗面所がある方へ顎を向けた。
「とりあえず行け。俺も行く」
その言葉を聞いた瞬間、夢子の顔が露骨に曇った。
昨日の、鼻の奥までつんと抜けてくる味を思い出したらしい。
渋々頷く。
「昨日の歯ブラシ持ってけ」
夢子は自分の荷物のそばへ置いていた歯ブラシを手に取った。
人間になってから初めてもらった、自分だけの物。
嫌いな歯磨き粉を使う道具ではあるものの、それでも歯ブラシそのものは気に入っているらしく、大切そうに握っている。
扉を開けた神田が廊下へ出ると、夢子もそのあとを追った。
少し歩いたところで女性用の洗面所が見えてくる。
神田は入口の前で足を止めた。
「昨日教えた通りやれ」
夢子はこくんと頷く。
「終わったら部屋戻ってろ。俺も顔洗ってくる」
もう一度頷いた夢子は女性用の洗面所へ入っていった。
「おはよう。あれ?見ない顔。新人さん?」
突然横から声をかけられ、夢子はびくりと肩を揺らした。
振り向くと、少し離れた洗面台にいた女性職員がこちらを見ている。
親しげに笑っているので、怒られているわけではないらしい。
「…………」
夢子は慌てて頭を下げた。
おはよう。
そう返せばいい。
言葉の意味も、挨拶の仕方も知っている。
ただし、声が出ない。
「あれ?」
女性が不思議そうに首を傾げる。
夢子はそこでようやく、自分が頭を下げただけで何も答えていないことに気づいた。
違う。
返事をしなければ。
慌てて口を開きかけ、当然声が出ないことを思い出して閉じる。
それから喉元を指さそうとして、先に帳面へ書いた方が早いと思い直し、今度は持ってきた荷物へ手を伸ばした。
「あ、えっと……大丈夫?」
ますます心配そうな声をかけられ、夢子は大丈夫だと伝えようと何度も頷きながら、帳面を取り出す。
ところが焦っているせいで鉛筆まで一緒に引っ張り出し、危うく床へ落としかけた。
「…………!」
慌てて掴む。
女性職員はその様子を見守りながら、少し困ったように笑った。
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
その一言で、夢子はようやく少し落ち着いた。
帳面を開き、覚えたばかりの文字を慎重に並べていく。
『おはようございます』
まずそれを見せる。
「あ、おはよう」
ちゃんと返ってきた。
夢子の表情が少し明るくなる。
続けて、
『きのう きました』
と書き、その下へ自分の名前を添えた。
女性職員は帳面を読んでから、「やっぱり新人さんなんだ」と納得したように頷いたものの、すぐに夢子の顔と帳面を交互に見た。
「もしかして、喋れないの?」
夢子はこくんと頷く。
「そっか。だから慌ててたのね」
責められている様子がないと分かり、夢子はほっとして小さく笑った。
「私は――」
女性が自分の名前を教えてくれる。
夢子は一度聞くと、その名前を忘れないよう頭の中で繰り返した。
「これからよろしくね」
今度は慌てなかった。
夢子はにこっと笑い、帳面へ、
『よろしく おねがいします』
と書いて見せた。
それから、幾つも並んだ空いている洗面台の前に立った。
夢子は昨日神田がしていたことを思い出しながら、自分の歯ブラシを取り出した。
棚に置かれた歯磨き粉を手に取り、蓋を開ける。
そこで手が止まった。
「…………」
昨日の味が蘇る。
嫌だ。
できれば、もう口へ入れたくない。
しかし神田は、毎日やると言っていた。
夢子は覚悟を決めたように眉を寄せると、昨日神田がつけてくれた量を思い出し、同じ程度だけ歯ブラシへ乗せた。
口へ入れる。
「…………!」
やはり不味い。
思い切り眉間へ皺を寄せながらも、昨日見た通りに歯ブラシを動かし、口の中を順番に磨いていく。
神田が教えたことは、全部覚えていた。
終わったら飲み込まず、洗面台へ吐き出す。
そのあと水で口をすすぐ。
何度かゆすぎ、ようやくあの妙な味が薄くなると、夢子はほっとしたように息を吐いた。
一人でもできた。
鏡の中の自分を見て、少しだけ嬉しくなる。
人間になってまだ数日しか経っていない。
知らないことばかりではあるものの、一度覚えれば、次からは自分でできる。
同時に歯磨き粉の味だけは、できれば早く慣れたいと思った。
つづく、2026/08/22