マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第11話。
食堂を出て自室へ向かっていた神田は、廊下を半分ほど進んだところでふと足を止めた。
二歩後ろを歩いていた夢子も、それに合わせるようにぴたりと止まる。
「……そういや」
何かを思い出したらしく神田が進路を変えると、夢子は理由も聞かずにそのあとをついていった。
やがて辿り着いたのは、廊下の途中にある洗面所だった。神田は女性用と書かれた入口の前まで来てから足を止め、その表示と夢子を交互に見る。
「…………」
当然、自分は中へ入れない。
かといって、歯を磨くという習慣そのものを知らない夢子だけを放り込んだところで、何をすればいいのか分からないだろう。
「お前、歯磨き知ってるか?」
夢子はすぐに頷いた。
「言ってみろ」
少し考えてから、帳面へ書く。
『ぼう くちに いれる』
「…………」
神田が黙った。
「それで?」
夢子はまた少し考え、
『うごかす』
と書いた。
「どこで」
『くちの なか』
神田は帳面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「……お前、怪しいな」
夢子はむっとしたように神田を見る。
自分ではちゃんと知っているつもりだった。
神田は僅かに眉を寄せて考えたあと、反対側にある男性用の洗面所へ顎を向けた。
「こっちだ」
夢子は素直についていく。
中に誰もいないことを確認してから神田が扉を開けると、夢子は初めて見る場所を興味深そうに見回した。
幾つもの洗面台と鏡が並び、壁際の棚には石鹸や新しい歯ブラシなど、最低限の日用品が常備されている。
「今日はここで教える。明日からは、さっきの女用の方使え」
言われた夢子は一度廊下の方を振り返り、先ほど通った入口を頭の中で確認してから頷いた。
一度場所を見れば忘れないらしく、その反応を見た神田もそれ以上説明はしなかった。
棚から未使用の歯ブラシを一本取って渡されると、夢子は細長い柄の先についた毛を不思議そうに指で触った。
「歯ブラシだ。飯食ったら、これで歯磨け」
夢子は歯ブラシを見たあと、自分の口元へ触れる。歯を掃除する道具らしいというところまでは理解しているものの、当然使ったことはない。
神田が歯磨き粉をつけるのを見て、夢子も同じようにしようとしたものの、どの程度出せばいいのか分からず容器を持ったまま止まった。
「貸せ。こんくらいでいい」
神田が歯ブラシの先へ少量だけつけて返すと、夢子は真剣な顔でその量を確認してから口へ入れた。
「…………!」
次の瞬間、ぴたりと動きが止まった。
眉間に皺が寄り、口元がみるみる歪んでいく。
「……何だよ」
神田が怪訝そうに見る。
夢子は返事もできないまま歯ブラシを口に入れた状態で神田を見上げ、明らかに嫌そうな顔をした。
甘いわけでも、塩辛いわけでもない。
舌に触れた途端、妙にひんやりとした刺激が口いっぱいに広がり、鼻の奥までつんと抜けてくる。
こんな味の食べ物は知らない。
というより、食べ物ですらない。
「……歯磨き粉が嫌なのか」
こくこく。
口の中に泡を溜めたまま必死に頷く夢子を見て、神田は僅かに眉を寄せた。
「食うもんじゃねぇんだから美味くなくて当たり前だろ」
そんなことを言われても、初めて口へ入れるものがこれほど不味いとは聞いていない。
夢子はものすごく嫌そうな顔をしながら、それでも神田が歯を磨いているのを見て、渋々同じように歯ブラシを動かし始めた。
「飲み込むなよ」
その言葉に、夢子の目が大きくなる。
危なかった。
神田が泡を洗面台へ吐き出して見せると、夢子も慌てて真似をした。
「ぺって出せ。そしたら水でゆすぐ」
教えられた通り口をすすぎ、ようやく妙な味が薄くなってくると、夢子は心底ほっとしたように息を吐いた。
それから歯ブラシと歯磨き粉をじっと見る。
明日も、これをやるらしい。
「毎日だからな」
まるで考えていることを読んだように神田から言われ、夢子は露骨に嫌そうな顔をした。
「そのうち慣れる」
本当だろうか。
半信半疑のまま歯磨き粉を見つめていると、神田が「もう終わっただろ。行くぞ」と洗面所を出ていく。
夢子は使い終えた歯ブラシを眺めたあと、どうすればいいのか分からず神田を見る。
「それはお前のだ。持ってけ」
自分のもの。
その言葉に、夢子は少しだけ目を丸くした。
人間になってから、自分専用の物など持っていない。大切なのは、半年間文字を覚えるために使ってきた帳面と鉛筆くらいだった。
夢子は新しい歯ブラシを両手で持つと、少し嬉しそうに眺めてから帳面を開いた。
『はぶらし』
その下へ、
『ごはんの あと』
と書き足す。
「そうだ」
神田が短く答えると、夢子はもう一度文字を確認して帳面を閉じた。
洗面所を出た神田は、女性用の入口の前を通る際にもう一度足を止める。
「明日から洗顔、歯磨く時はここ使え。男用には入んなよ」
夢子は入口をじっと見たあと、こくんと頷いた。
「分かったか」
もう一度、こくん。
「ならいい」
神田が歩き出すと、夢子も新しく自分のものになった歯ブラシを大切そうに持ちながら、その二歩後ろをついていった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
神田のあとをついて廊下を進み、やがて見覚えのある扉の前まで戻ってくると、夢子は少し緊張したように足を止めた。
昼間、一度だけ入った神田の部屋だった。
今度はここへ少し立ち寄るのではない。
今夜から、自分もここで暮らす。
そう意識した途端、先ほど食堂でラビにあれこれ言われたことまで思い出し、夢子の頬がまた少し熱くなった。
そんなことには気づかず、神田は扉を開ける。
「入れ」
こくん。
夢子が中へ入ると、神田は後ろ手に扉を閉めた。
二人きりになった。
「…………」
夢子はそっと神田を見る。
当然ながら、神田は何も気にした様子がない。
扉を閉めると、そのまま何でもない顔で部屋の奥へ進んだ。
室内には必要最低限の家具しかなく、私物らしいものもほとんど見当たらない。
散らかってはいないが、綺麗好きだからというより、散らかすほど物を持っていないだけなのだろう。
よく見れば家具の隅には薄く埃が残っていて、日頃からこまめに掃除をしているようにも見えなかった。
それでも夢子にとっては、そんな部屋の様子より、目の前にいる神田の方がずっと気になった。
さっきまでは食堂にラビやアレン、リナリーもいたし、廊下にも人がいた。
それが今は、この部屋にいるのは神田と自分だけだった。
二人きり。
そう意識した途端、昼間のことが鮮明に蘇ってきた。
海へ潜るために、人魚の口づけが必要だと伝えた時のこと。
自分にはどうしてもできなくて、いつまでも固まっていたら、神田が痺れを切らして顔を寄せてきた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
あまりにも短く、神田にとってはただ海の中で呼吸するために必要なことだった。
それでも、夢子にとっては違う。
半年間、もう一度会いたいと願い続けた相手と、初めて唇を重ねたのだ。
思い出した途端、頬へ一気に熱が集まった。
「…………!」
夢子は慌てて両手で頬を押さえた。
胸の中で、嬉しいような恥ずかしいような気持ちが一気に膨らみ、夢子は誰にも見られていないことをいいことに、ほんの少しだけ身体を縮こませた。
声が出せたなら、きっとモジモジした悲鳴のひとつでも上げていた。
「……何してんだ」
突然声をかけられ、夢子はびくりと跳ねた。
神田が怪訝そうな顔でこちらを見ている。
ぶんぶん。
何でもない。
必死に首を振ったものの、赤くなった頬までは隠せない。
「顔赤ぇぞ」
さらに指摘され、夢子はまた両手で顔を覆った。
神田には理由が分からないらしく、少し眉を寄せただけだった。
「……まあいい。座れ」
ベッドを指され、夢子は顔を覆ったまま一瞬固まった。
ベッド。
神田の。
そこへ座れ。
「…………!」
また余計な想像が頭をよぎる。
恐る恐る顔を上げると、神田はベッドの正面に立ち、腕を組んだ。
「今から言うこと覚えろ」
「…………」
どうやら始まるのは、口づけでも抱擁でもなかった。
人間生活講座だった。
夢子はほんの少しだけ肩を落としながらも、素直にベッドへ腰を下ろした。
腕を組み、こちらを見下ろす姿は、何かの取り調べでも始まりそうなほど物々しかった。
夢子は背筋を伸ばした。
砂浜で人間の暮らしについて尋ねた時、彼女の知識が想像以上に危ういことはすでに分かっている。
人間は喋って、食べて、寝る。
本人はそれで人間の生活を知っているつもりだった。
「まず、勝手に部屋から出んな」
夢子は神田を見上げた。
「慣れるまではって意味だ。まだ中の道も分かんねぇだろ。どっか行きてぇ時は俺か、リナか、その辺の奴に言え」
神田はそこで言葉を区切り、彼女の帳面を見る。
「……書け」
こくん。
「迷ったら、その辺うろつくな。そこで待て」
こくん。
「触んなって言われた物には触るな」
こくん。
「具合悪くなったら黙って我慢すんな。誰かに言え」
今度の頷きは少し小さかった。
神田はそれを見て眉を寄せる。
「分かったのか」
こくん。
「ならいい」
人間生活講座と呼ぶには、ずいぶん物騒な内容だった。
料理の仕方も、洗濯の仕方も、掃除の仕方も出てこない。
それもそのはずで、教えている本人がその辺りをまともに説明できるほど生活に精通しているわけではない。
神田が知っているのは、教団で生きるために必要な最低限のことだけだった。
それでも夢子は、教えられたことを一つも聞き逃すまいと真剣に神田を見つめている。
神田は室内を見回しながら続けた。
「夜中に腹減っても勝手に変なもん食うな。明日の朝まで待て」
こくん。
「水はあそこだ。飲みたきゃ飲め」
こくん。
「便所はさっき通った廊下の突き当たり。分かるか」
こくん。
一度通った道を思い出したらしく、夢子は迷いなく頷いた。
「風呂は今日リナに教わったんだろ」
こくん。
「なら、それはいい」
神田は少し考えた。
他に何がある。
人間として暮らすために必要なこと。
「…………」
出てこない。
そもそも自分自身、毎日食って、風呂へ入って、寝て、任務へ行く程度の生活しかしていない。
神田はしばらく黙った末、
「……とりあえず以上だ」
と講座を終わらせた。
夢子は目を瞬いた。
もう終わりらしい。
「分かんねぇこと出てきたら、その都度聞け」
こくん。
返事を確認した神田は腕を解き、ようやくベッドから離れた。
これで話は終わった。
少なくとも、神田の中では。
「…………」
夢子はベッドへ座ったまま、その後ろ姿を目で追った。
神田が部屋の端へ行く。
戻ってくる。
神田が机の上の装置を見る。
そんな神田を夢子が見てる。
やがて視線に気づいた神田が振り返った。
「何だ」
ぶんぶん。
何でもない。
神田は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上追及しなかった。
しばらくすると、夢子が傍に寄ってきて神田を見る。
今度は横顔を覗き込むように。
「…………」
神田がそちらを見る。
夢子がパッと目を逸らす。
「何なんだよ」
ぶんぶん。
本当に、何でもない。
ただ――少しだけ期待していた。
もしかしたら、もう一度、今度は水の中へ行くためではなく、普通に口づけてくれたり。
抱きしめてくれたり。
「…………」
想像しただけで、夢子の頬が赤くなる。
念願の――。
そんな期待を込めて、もう一度そっと神田を見る。
目が合った。
「寝ろ」
「…………」
夢子の期待が、音もなく崩れ落ちた。
神田は何の迷いもなくベッドを指す。
「お前は、そこ使え」
夢子は目を瞬いた。
神田はというと、ベッドへ来る気配などまるでなく、そのまま壁際へ移動すると床へ腰を下ろした。
背中を壁へ預け、片膝を立てる。
どうやら、そこで眠るつもりらしい。
夢子はベッドと神田を交互に見た。
「…………?」
一緒に寝ないのだろうか。
そう思った瞬間、もっと顔が熱くなった。
さっきから自分は何を期待しているのだ。
恥ずかしくなり、夢子は慌ててベッドへ横になった。
神田が灯りを消す。
部屋が暗くなった。
しばらく目を閉じてみたものの、なかなか眠れない。
夢子は薄暗い部屋の中でそっと顔を動かし、床にいる神田を見た。
壁にもたれ、すでに目を閉じている。
ベッドには、自分一人。
その身体には毛布が掛かっていた。
神田には、何もない。
「…………」
しばらく考えた末、夢子は毛布を抱えてベッドから降りた。
裸足にならないよう靴を履くことも、もう忘れない。
神田の前まで行くと、肩へ毛布を掛けた。
「……?」
神田が目を開ける。
「何してんだ」
夢子はそのまま毛布を押しつけた。
「要らねぇよ。お前が使え」
神田が返そうとすると、夢子は猛烈な勢いで首を横へ振った。
「寒ぃだろ」
また横へ振る。
そして自分を指さしたあと、両手を重ねて魚の尾びれのように左右へ揺らした。
神田は少し黙った。
「……人魚だから平気だって?」
ぱっと夢子の顔が明るくなる。
こくこく。
伝わった。
「関係あんのか、それ」
こくん。
本人が言うのだから本当なのだろう。
神田はまだ納得していない顔をしていたが、夢子はもう用は済んだとばかりに毛布を神田の肩へしっかり掛け直すと、満足そうにベッドへ戻っていった。
「…………」
神田は肩の毛布を見る。
神田は納得していない様子で眉を寄せた。
「今は人間なんだろ?」
それでも夢子は平気だと言い張るようにキリッとした表情で、毛布指差し、そして、『要らない』とジェスチャーをする。
「……知らねぇぞ」
神田もそれ以上押し返すのは諦め、そのまま壁へ背を預けて目を閉じた。
海へ潜り、教団まで戻り、コムイの相手までして、ようやく長い一日が終わった。夢子も相当疲れていたらしく、ほどなくベッドからも物音がしなくなった。
神田の方はまだ眠っていなかった。
しばらく目を閉じたまま動かなかったが、不意に薄く瞼を開くと、扉の方へ視線を向けた。
そのまま数秒待ってから立ち上がり、音を立てないよう扉へ近づく。
勢いよく開けることはせず、眠っている夢子を起こさない程度に静かに扉を引いた。
廊下の壁際に、二つの人影がいた。
「…おい…お前ら何してんだ」
低い声を向けられ、ラビとアレンの肩が同時に跳ねた。
「いや、その……」
ラビが気まずそうに笑う。
「ユウが本当に女の子と同じ部屋で寝るんかなーって、ちょっと気になって」
「僕はやめようって言ったんですよ」
アレンが即座に付け加えた。
「お前もここまで来てんじゃねぇか」
「ラビに引っ張ってこられたんです!」
神田は二人を冷たい目で見た。
「お前らが居んの、俺が気づいてねぇとでも思ったか」
「いやあ、さすがユウ」
いつもの調子で返しかけたラビだったが、神田が一度だけ部屋の中を振り返ったのを見て口を閉じた。
「夢子が寝たから静かにしろ」
声まで先ほどより抑えられている。
ラビとアレンが同時に神田を見る。
「…………」
「何だ」
「いや」
ラビの口元がにやりと緩みかける。
「別に?」
「気持ち悪い顔だな」
大声を出せないせいか、いつもより余計に凄みがあった。
「顔は失礼さ!」
アレンはラビの腕を掴むと、「もう戻りましょう」と強引に引っ張った。ラビもまだ何か言いたそうにしていたが、神田の顔を見て諦めたらしい。
「じゃあ、神田おやすみ」
「二度と来んな」
二人が廊下の向こうへ消えるのを確認してから、神田は静かに扉を閉めた。
部屋へ戻り、もう一度壁際へ座ろうとしたところで、自分の肩に掛かったままの毛布が目に入る。
「…………」
ベッドを見る。
夢子はすやすや眠っていた。
何も掛けず、小さく身体を丸めている。
神田はすこしの間、その姿を見たあと肩から毛布を外した。
「馬鹿が」
聞こえない程度の声で呟き、ベッドへ近づく。
毛布を掛けても、夢子は目を覚まさなかった。
胸元まで覆ってやると、寒かったのか、眠ったまま僅かに身体の力が抜ける。
神田はそれを確認してから元の場所へ戻り、今度こそ壁へ背を預けて目を閉じた。
それから数時間が過ぎ、夜明けにはまだ少し早い頃。
夢子がぼんやりと目を覚ました。
まだ眠気の残る目で天井を見たあと、何となく身体を動かしたところで、自分の上に掛かっているものに気づく。
「…………」
毛布だった。
昨夜、自分が神田へ渡したはずの毛布。
夢子はそれを掴みながら、ゆっくり部屋の隅へ目を向けた。
神田は昨夜と同じ場所で、壁へ背を預けて眠っている。
何も掛けずに。
「…………」
夢子の眉が寄った。
むぅ。
もちろん、そんな顔をしても神田は眠っているので気づかない。
せっかく渡したのに。
要らないと言ったのに。
夢子は毛布を抱えたままベッドを降りると、音を立てないよう神田のところまで歩いていった。
起こさないよう、そっと隣へ腰を下ろす。
今度こそ神田だけに掛けようとして、途中で手を止めた。
自分も少し寒い。
毛布を見る。
神田を見る。
もう一度毛布を見る。
しばらく考えた末、夢子は一枚の毛布を二人の身体へ掛けた。
これなら神田も使える。
自分も使える。
満足すると、そのまま壁へ背を預けて目を閉じた。
眠気はすぐに戻ってきた。
最初こそ真っ直ぐ座っていた身体も、眠りが深くなるにつれて少しずつ傾いていき、やがて夢子の頭は神田の肩へこつんと触れた。
それでも目を覚ますことはなく、むしろそこがちょうどよかったのか、僅かに身を寄せたまま再び眠り込んだ。
つづく、2026/08/22
食堂を出て自室へ向かっていた神田は、廊下を半分ほど進んだところでふと足を止めた。
二歩後ろを歩いていた夢子も、それに合わせるようにぴたりと止まる。
「……そういや」
何かを思い出したらしく神田が進路を変えると、夢子は理由も聞かずにそのあとをついていった。
やがて辿り着いたのは、廊下の途中にある洗面所だった。神田は女性用と書かれた入口の前まで来てから足を止め、その表示と夢子を交互に見る。
「…………」
当然、自分は中へ入れない。
かといって、歯を磨くという習慣そのものを知らない夢子だけを放り込んだところで、何をすればいいのか分からないだろう。
「お前、歯磨き知ってるか?」
夢子はすぐに頷いた。
「言ってみろ」
少し考えてから、帳面へ書く。
『ぼう くちに いれる』
「…………」
神田が黙った。
「それで?」
夢子はまた少し考え、
『うごかす』
と書いた。
「どこで」
『くちの なか』
神田は帳面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「……お前、怪しいな」
夢子はむっとしたように神田を見る。
自分ではちゃんと知っているつもりだった。
神田は僅かに眉を寄せて考えたあと、反対側にある男性用の洗面所へ顎を向けた。
「こっちだ」
夢子は素直についていく。
中に誰もいないことを確認してから神田が扉を開けると、夢子は初めて見る場所を興味深そうに見回した。
幾つもの洗面台と鏡が並び、壁際の棚には石鹸や新しい歯ブラシなど、最低限の日用品が常備されている。
「今日はここで教える。明日からは、さっきの女用の方使え」
言われた夢子は一度廊下の方を振り返り、先ほど通った入口を頭の中で確認してから頷いた。
一度場所を見れば忘れないらしく、その反応を見た神田もそれ以上説明はしなかった。
棚から未使用の歯ブラシを一本取って渡されると、夢子は細長い柄の先についた毛を不思議そうに指で触った。
「歯ブラシだ。飯食ったら、これで歯磨け」
夢子は歯ブラシを見たあと、自分の口元へ触れる。歯を掃除する道具らしいというところまでは理解しているものの、当然使ったことはない。
神田が歯磨き粉をつけるのを見て、夢子も同じようにしようとしたものの、どの程度出せばいいのか分からず容器を持ったまま止まった。
「貸せ。こんくらいでいい」
神田が歯ブラシの先へ少量だけつけて返すと、夢子は真剣な顔でその量を確認してから口へ入れた。
「…………!」
次の瞬間、ぴたりと動きが止まった。
眉間に皺が寄り、口元がみるみる歪んでいく。
「……何だよ」
神田が怪訝そうに見る。
夢子は返事もできないまま歯ブラシを口に入れた状態で神田を見上げ、明らかに嫌そうな顔をした。
甘いわけでも、塩辛いわけでもない。
舌に触れた途端、妙にひんやりとした刺激が口いっぱいに広がり、鼻の奥までつんと抜けてくる。
こんな味の食べ物は知らない。
というより、食べ物ですらない。
「……歯磨き粉が嫌なのか」
こくこく。
口の中に泡を溜めたまま必死に頷く夢子を見て、神田は僅かに眉を寄せた。
「食うもんじゃねぇんだから美味くなくて当たり前だろ」
そんなことを言われても、初めて口へ入れるものがこれほど不味いとは聞いていない。
夢子はものすごく嫌そうな顔をしながら、それでも神田が歯を磨いているのを見て、渋々同じように歯ブラシを動かし始めた。
「飲み込むなよ」
その言葉に、夢子の目が大きくなる。
危なかった。
神田が泡を洗面台へ吐き出して見せると、夢子も慌てて真似をした。
「ぺって出せ。そしたら水でゆすぐ」
教えられた通り口をすすぎ、ようやく妙な味が薄くなってくると、夢子は心底ほっとしたように息を吐いた。
それから歯ブラシと歯磨き粉をじっと見る。
明日も、これをやるらしい。
「毎日だからな」
まるで考えていることを読んだように神田から言われ、夢子は露骨に嫌そうな顔をした。
「そのうち慣れる」
本当だろうか。
半信半疑のまま歯磨き粉を見つめていると、神田が「もう終わっただろ。行くぞ」と洗面所を出ていく。
夢子は使い終えた歯ブラシを眺めたあと、どうすればいいのか分からず神田を見る。
「それはお前のだ。持ってけ」
自分のもの。
その言葉に、夢子は少しだけ目を丸くした。
人間になってから、自分専用の物など持っていない。大切なのは、半年間文字を覚えるために使ってきた帳面と鉛筆くらいだった。
夢子は新しい歯ブラシを両手で持つと、少し嬉しそうに眺めてから帳面を開いた。
『はぶらし』
その下へ、
『ごはんの あと』
と書き足す。
「そうだ」
神田が短く答えると、夢子はもう一度文字を確認して帳面を閉じた。
洗面所を出た神田は、女性用の入口の前を通る際にもう一度足を止める。
「明日から洗顔、歯磨く時はここ使え。男用には入んなよ」
夢子は入口をじっと見たあと、こくんと頷いた。
「分かったか」
もう一度、こくん。
「ならいい」
神田が歩き出すと、夢子も新しく自分のものになった歯ブラシを大切そうに持ちながら、その二歩後ろをついていった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
神田のあとをついて廊下を進み、やがて見覚えのある扉の前まで戻ってくると、夢子は少し緊張したように足を止めた。
昼間、一度だけ入った神田の部屋だった。
今度はここへ少し立ち寄るのではない。
今夜から、自分もここで暮らす。
そう意識した途端、先ほど食堂でラビにあれこれ言われたことまで思い出し、夢子の頬がまた少し熱くなった。
そんなことには気づかず、神田は扉を開ける。
「入れ」
こくん。
夢子が中へ入ると、神田は後ろ手に扉を閉めた。
二人きりになった。
「…………」
夢子はそっと神田を見る。
当然ながら、神田は何も気にした様子がない。
扉を閉めると、そのまま何でもない顔で部屋の奥へ進んだ。
室内には必要最低限の家具しかなく、私物らしいものもほとんど見当たらない。
散らかってはいないが、綺麗好きだからというより、散らかすほど物を持っていないだけなのだろう。
よく見れば家具の隅には薄く埃が残っていて、日頃からこまめに掃除をしているようにも見えなかった。
それでも夢子にとっては、そんな部屋の様子より、目の前にいる神田の方がずっと気になった。
さっきまでは食堂にラビやアレン、リナリーもいたし、廊下にも人がいた。
それが今は、この部屋にいるのは神田と自分だけだった。
二人きり。
そう意識した途端、昼間のことが鮮明に蘇ってきた。
海へ潜るために、人魚の口づけが必要だと伝えた時のこと。
自分にはどうしてもできなくて、いつまでも固まっていたら、神田が痺れを切らして顔を寄せてきた。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
あまりにも短く、神田にとってはただ海の中で呼吸するために必要なことだった。
それでも、夢子にとっては違う。
半年間、もう一度会いたいと願い続けた相手と、初めて唇を重ねたのだ。
思い出した途端、頬へ一気に熱が集まった。
「…………!」
夢子は慌てて両手で頬を押さえた。
胸の中で、嬉しいような恥ずかしいような気持ちが一気に膨らみ、夢子は誰にも見られていないことをいいことに、ほんの少しだけ身体を縮こませた。
声が出せたなら、きっとモジモジした悲鳴のひとつでも上げていた。
「……何してんだ」
突然声をかけられ、夢子はびくりと跳ねた。
神田が怪訝そうな顔でこちらを見ている。
ぶんぶん。
何でもない。
必死に首を振ったものの、赤くなった頬までは隠せない。
「顔赤ぇぞ」
さらに指摘され、夢子はまた両手で顔を覆った。
神田には理由が分からないらしく、少し眉を寄せただけだった。
「……まあいい。座れ」
ベッドを指され、夢子は顔を覆ったまま一瞬固まった。
ベッド。
神田の。
そこへ座れ。
「…………!」
また余計な想像が頭をよぎる。
恐る恐る顔を上げると、神田はベッドの正面に立ち、腕を組んだ。
「今から言うこと覚えろ」
「…………」
どうやら始まるのは、口づけでも抱擁でもなかった。
人間生活講座だった。
夢子はほんの少しだけ肩を落としながらも、素直にベッドへ腰を下ろした。
腕を組み、こちらを見下ろす姿は、何かの取り調べでも始まりそうなほど物々しかった。
夢子は背筋を伸ばした。
砂浜で人間の暮らしについて尋ねた時、彼女の知識が想像以上に危ういことはすでに分かっている。
人間は喋って、食べて、寝る。
本人はそれで人間の生活を知っているつもりだった。
「まず、勝手に部屋から出んな」
夢子は神田を見上げた。
「慣れるまではって意味だ。まだ中の道も分かんねぇだろ。どっか行きてぇ時は俺か、リナか、その辺の奴に言え」
神田はそこで言葉を区切り、彼女の帳面を見る。
「……書け」
こくん。
「迷ったら、その辺うろつくな。そこで待て」
こくん。
「触んなって言われた物には触るな」
こくん。
「具合悪くなったら黙って我慢すんな。誰かに言え」
今度の頷きは少し小さかった。
神田はそれを見て眉を寄せる。
「分かったのか」
こくん。
「ならいい」
人間生活講座と呼ぶには、ずいぶん物騒な内容だった。
料理の仕方も、洗濯の仕方も、掃除の仕方も出てこない。
それもそのはずで、教えている本人がその辺りをまともに説明できるほど生活に精通しているわけではない。
神田が知っているのは、教団で生きるために必要な最低限のことだけだった。
それでも夢子は、教えられたことを一つも聞き逃すまいと真剣に神田を見つめている。
神田は室内を見回しながら続けた。
「夜中に腹減っても勝手に変なもん食うな。明日の朝まで待て」
こくん。
「水はあそこだ。飲みたきゃ飲め」
こくん。
「便所はさっき通った廊下の突き当たり。分かるか」
こくん。
一度通った道を思い出したらしく、夢子は迷いなく頷いた。
「風呂は今日リナに教わったんだろ」
こくん。
「なら、それはいい」
神田は少し考えた。
他に何がある。
人間として暮らすために必要なこと。
「…………」
出てこない。
そもそも自分自身、毎日食って、風呂へ入って、寝て、任務へ行く程度の生活しかしていない。
神田はしばらく黙った末、
「……とりあえず以上だ」
と講座を終わらせた。
夢子は目を瞬いた。
もう終わりらしい。
「分かんねぇこと出てきたら、その都度聞け」
こくん。
返事を確認した神田は腕を解き、ようやくベッドから離れた。
これで話は終わった。
少なくとも、神田の中では。
「…………」
夢子はベッドへ座ったまま、その後ろ姿を目で追った。
神田が部屋の端へ行く。
戻ってくる。
神田が机の上の装置を見る。
そんな神田を夢子が見てる。
やがて視線に気づいた神田が振り返った。
「何だ」
ぶんぶん。
何でもない。
神田は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上追及しなかった。
しばらくすると、夢子が傍に寄ってきて神田を見る。
今度は横顔を覗き込むように。
「…………」
神田がそちらを見る。
夢子がパッと目を逸らす。
「何なんだよ」
ぶんぶん。
本当に、何でもない。
ただ――少しだけ期待していた。
もしかしたら、もう一度、今度は水の中へ行くためではなく、普通に口づけてくれたり。
抱きしめてくれたり。
「…………」
想像しただけで、夢子の頬が赤くなる。
念願の――。
そんな期待を込めて、もう一度そっと神田を見る。
目が合った。
「寝ろ」
「…………」
夢子の期待が、音もなく崩れ落ちた。
神田は何の迷いもなくベッドを指す。
「お前は、そこ使え」
夢子は目を瞬いた。
神田はというと、ベッドへ来る気配などまるでなく、そのまま壁際へ移動すると床へ腰を下ろした。
背中を壁へ預け、片膝を立てる。
どうやら、そこで眠るつもりらしい。
夢子はベッドと神田を交互に見た。
「…………?」
一緒に寝ないのだろうか。
そう思った瞬間、もっと顔が熱くなった。
さっきから自分は何を期待しているのだ。
恥ずかしくなり、夢子は慌ててベッドへ横になった。
神田が灯りを消す。
部屋が暗くなった。
しばらく目を閉じてみたものの、なかなか眠れない。
夢子は薄暗い部屋の中でそっと顔を動かし、床にいる神田を見た。
壁にもたれ、すでに目を閉じている。
ベッドには、自分一人。
その身体には毛布が掛かっていた。
神田には、何もない。
「…………」
しばらく考えた末、夢子は毛布を抱えてベッドから降りた。
裸足にならないよう靴を履くことも、もう忘れない。
神田の前まで行くと、肩へ毛布を掛けた。
「……?」
神田が目を開ける。
「何してんだ」
夢子はそのまま毛布を押しつけた。
「要らねぇよ。お前が使え」
神田が返そうとすると、夢子は猛烈な勢いで首を横へ振った。
「寒ぃだろ」
また横へ振る。
そして自分を指さしたあと、両手を重ねて魚の尾びれのように左右へ揺らした。
神田は少し黙った。
「……人魚だから平気だって?」
ぱっと夢子の顔が明るくなる。
こくこく。
伝わった。
「関係あんのか、それ」
こくん。
本人が言うのだから本当なのだろう。
神田はまだ納得していない顔をしていたが、夢子はもう用は済んだとばかりに毛布を神田の肩へしっかり掛け直すと、満足そうにベッドへ戻っていった。
「…………」
神田は肩の毛布を見る。
神田は納得していない様子で眉を寄せた。
「今は人間なんだろ?」
それでも夢子は平気だと言い張るようにキリッとした表情で、毛布指差し、そして、『要らない』とジェスチャーをする。
「……知らねぇぞ」
神田もそれ以上押し返すのは諦め、そのまま壁へ背を預けて目を閉じた。
海へ潜り、教団まで戻り、コムイの相手までして、ようやく長い一日が終わった。夢子も相当疲れていたらしく、ほどなくベッドからも物音がしなくなった。
神田の方はまだ眠っていなかった。
しばらく目を閉じたまま動かなかったが、不意に薄く瞼を開くと、扉の方へ視線を向けた。
そのまま数秒待ってから立ち上がり、音を立てないよう扉へ近づく。
勢いよく開けることはせず、眠っている夢子を起こさない程度に静かに扉を引いた。
廊下の壁際に、二つの人影がいた。
「…おい…お前ら何してんだ」
低い声を向けられ、ラビとアレンの肩が同時に跳ねた。
「いや、その……」
ラビが気まずそうに笑う。
「ユウが本当に女の子と同じ部屋で寝るんかなーって、ちょっと気になって」
「僕はやめようって言ったんですよ」
アレンが即座に付け加えた。
「お前もここまで来てんじゃねぇか」
「ラビに引っ張ってこられたんです!」
神田は二人を冷たい目で見た。
「お前らが居んの、俺が気づいてねぇとでも思ったか」
「いやあ、さすがユウ」
いつもの調子で返しかけたラビだったが、神田が一度だけ部屋の中を振り返ったのを見て口を閉じた。
「夢子が寝たから静かにしろ」
声まで先ほどより抑えられている。
ラビとアレンが同時に神田を見る。
「…………」
「何だ」
「いや」
ラビの口元がにやりと緩みかける。
「別に?」
「気持ち悪い顔だな」
大声を出せないせいか、いつもより余計に凄みがあった。
「顔は失礼さ!」
アレンはラビの腕を掴むと、「もう戻りましょう」と強引に引っ張った。ラビもまだ何か言いたそうにしていたが、神田の顔を見て諦めたらしい。
「じゃあ、神田おやすみ」
「二度と来んな」
二人が廊下の向こうへ消えるのを確認してから、神田は静かに扉を閉めた。
部屋へ戻り、もう一度壁際へ座ろうとしたところで、自分の肩に掛かったままの毛布が目に入る。
「…………」
ベッドを見る。
夢子はすやすや眠っていた。
何も掛けず、小さく身体を丸めている。
神田はすこしの間、その姿を見たあと肩から毛布を外した。
「馬鹿が」
聞こえない程度の声で呟き、ベッドへ近づく。
毛布を掛けても、夢子は目を覚まさなかった。
胸元まで覆ってやると、寒かったのか、眠ったまま僅かに身体の力が抜ける。
神田はそれを確認してから元の場所へ戻り、今度こそ壁へ背を預けて目を閉じた。
それから数時間が過ぎ、夜明けにはまだ少し早い頃。
夢子がぼんやりと目を覚ました。
まだ眠気の残る目で天井を見たあと、何となく身体を動かしたところで、自分の上に掛かっているものに気づく。
「…………」
毛布だった。
昨夜、自分が神田へ渡したはずの毛布。
夢子はそれを掴みながら、ゆっくり部屋の隅へ目を向けた。
神田は昨夜と同じ場所で、壁へ背を預けて眠っている。
何も掛けずに。
「…………」
夢子の眉が寄った。
むぅ。
もちろん、そんな顔をしても神田は眠っているので気づかない。
せっかく渡したのに。
要らないと言ったのに。
夢子は毛布を抱えたままベッドを降りると、音を立てないよう神田のところまで歩いていった。
起こさないよう、そっと隣へ腰を下ろす。
今度こそ神田だけに掛けようとして、途中で手を止めた。
自分も少し寒い。
毛布を見る。
神田を見る。
もう一度毛布を見る。
しばらく考えた末、夢子は一枚の毛布を二人の身体へ掛けた。
これなら神田も使える。
自分も使える。
満足すると、そのまま壁へ背を預けて目を閉じた。
眠気はすぐに戻ってきた。
最初こそ真っ直ぐ座っていた身体も、眠りが深くなるにつれて少しずつ傾いていき、やがて夢子の頭は神田の肩へこつんと触れた。
それでも目を覚ますことはなく、むしろそこがちょうどよかったのか、僅かに身を寄せたまま再び眠り込んだ。
つづく、2026/08/22