マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第10話
医務室を出るとリナリーが覗き込むように話しかけてきた。
「夢子。そういえば、お腹は空いてない?」
問いかけられ、夢子は一瞬きょとんとしたあと、自分のお腹へ手を当てた。
朝からあまりにもいろいろなことがありすぎて、食事のことなどすっかり忘れていた。
神田を探し回り、ようやく見つけたと思えば勝手に失恋し、泡になる覚悟を決め、その告白を本人に見つけられた。
そのまま海の底まで一緒に潜り、魔女のところへ行ったかと思えば、今度は教団へ連れてこられ、気づけば仕事まで決まっている。
意識した途端、腹の奥がきゅう、と小さく鳴った。
「…………」
夢子は恥ずかしそうに腹を押さえた。
「ふふ。じゃあ食堂へ行きましょう。神田も、もうお風呂から上がってる頃だと思うわ」
神田の名前を聞いた途端、夢子はまた嬉しそうに頷いた。
リナリーに案内されながら食堂へ向かう途中も、夢子は教団の中を忙しなく見回していた。
先ほど神田におぶられていた時より少し余裕が出たのか、壁に掛けられた案内板や、すれ違う職員が抱えている荷物にも興味を示している。
そのたびにリナリーが「あちらは図書室よ」「この階段を上がると居住区なの」と教えてくれるため、夢子は一つ一つ覚えようと真剣な顔で頷いていた。
やがて食堂の扉が開いた瞬間、漂ってきた匂いに夢子の足が止まった。
「…………!」
広い室内には大勢の人間が集まり、あちらこちらで食事をしていた。その光景だけでも圧倒されるのに、さらに奥には見たこともない料理がずらりと並んでいる。
焼いた肉や魚、湯気を立てるスープ、色とりどりの野菜、丸いパン、果物に甘そうな菓子まであり、夢子の視線は右へ行ったかと思えば左へ動き、また右へ戻った。
「すごいでしょう?」
リナリーに声をかけられても、返事をする余裕がないらしい。
海の中でも、もちろん食事はしていた。魚や貝、海藻など、食べられるものはいくらでもあったし、人魚たちなりの調理法もある。
それでも、陸の人間が食べる料理は色も匂いも形もまるで違う。
中でも、こんがりと焼き色のついたパンが気になったらしく、夢子は少し身を乗り出して匂いを嗅ぐように顔を近づけた。
「それはパンよ」
教えられると、夢子は忘れないようにするかのように、パンとリナリーを交互に見ながら何度か頷いた。
「リナリー!」
そこへ、聞き慣れない少年の声が飛んできた。
振り返ると、白い髪の少年がこちらへ歩いてくる。その少し後ろには、赤い髪に眼帯をつけた青年もいた。
「探してたんですよ。ラビがまた僕のデザートまで――」
話しながら近づいてきた少年は、リナリーの隣にいる夢子へ気づくと、途中で言葉を止めた。
「……あれ?」
赤毛の青年も、その肩越しから興味深そうに顔を覗かせる。
「誰? 新入り?」
「ちょうどよかったわ。二人にも紹介しておくわね」
リナリーは夢子へ視線を向けた。
「今日から教団で働くことになった夢子よ」
夢子は少し緊張しながら帳面を開くと、先程リナリーの時に使ったページを開いた。
『こんにちは。夢子です』
白髪の少年はすぐに柔らかく笑った。
「こんにちは。僕はアレン・ウォーカーです。よろしくお願いします」
赤毛の青年も隣から片手を上げる。
「俺はラビ。よろしくな」
夢子は二人の顔を交互に見ながら、こくんと頷いた。
「声が出せないんですか?」
アレンに尋ねられ、夢子が頷くと、リナリーが簡単に事情を説明した。
「大きな声では言えないんだけど、元々、人魚だったんですって。人間の脚をもらう代わりに、海の魔女へ声を渡したそうよ」
「…………」
アレンの表情が止まった。
ラビも止まった。
「……またまたリナリーってば冗談が過ぎます」
夢子はそんなアレンにブンブンと首を横に振り、それからこくんと頷く。
「本物?」
こくん。
「海に住んでた?」
こくこく。
「尾びれあったの?」
こくん。
ラビの顔が見る見る明るくなっていった。
「マジか! どんな色だったん? 海の底ってどんな感じ? 魚と話せたりすんの? あと――」
「ラビ」
リナリーが静かに止めた。
「一度に聞いても書けないでしょう」
「あ、悪い」
帳面を抱えたまま質問の嵐に戸惑っていた夢子は、少し困ったように笑った。
その時、食堂の奥から低い声が飛んできた。
「何してんだ」
夢子が振り返る。
神田だった。
風呂を済ませたらしく、髪も服もすっかり乾いている。
出会った時の団服ではなく、神田もラフな格好をしていた。
姿を見つけた瞬間、夢子の表情が露骨なほど明るくなった。
声こそ出ないものの、まるで「あ」と呼びかけたような顔をして神田の方へ歩き出す。
つい足を速めようとしたところで足裏に痛みが走り、僅かに顔をしかめた。
神田はそれを見逃さなかった。
「走んな」
夢子はぴたりと速度を落とし、素直にこくんと頷いた。
今度はゆっくり神田のところまで行くと、そのまま当然のように彼の傍へ収まる。
その一連の様子を、ラビがじっと見ていた。
「……ユウ」
「あ?」
「その子、お前の知り合い?」
「ああ」
「いつ出会ったの!?」
「今日」
ラビは夢子を見る。
夢子もラビを見る。
そしてラビが神田へ視線を戻すと、夢子もつられるように神田を見た。
「……なんで?」
「なんでって何の事だよ」
「いや、何でユウと知り合って、ここに居るんさ」
「拾ったんだよ。悪りぃか?」
「拾った!?」
ラビが呆れたように笑う。
そして、リナリーに耳打ちをした。
「拾ったって、ナンパってことか!?」
ラビが声を潜めて尋ねると、リナリーは呆れたように眉を下げた。
「違うと思うわよ」
「じゃあ何で女の子拾って帰ってくるんさ。しかも今日会ったばっかなんだろ?」
二人でこそこそ話していると、神田が鬱陶しそうに視線を向けた。
「何話してんだ」
「いや、ユウがどういう経緯で夢子を連れてきたのかなーって」
神田はめんどくせぇな、とでも言いたげに眉を寄せた。
「コムイが人手が足りねぇと言ってただろ。ちょうどいいと思ってな。こいつも行くとこ無ェって言うし」
それだけだった。
海から上がってきた人魚に陸で暮らす場所がなく、教団では人手が足りない。ならば働かせればいい――神田の中では、それで話が完結しているらしい。
ラビはしばらく黙って神田を見たあと、ぼそりと呟いた。
「……女の子拾える任務。俺も行きたい」
「そんな任務ありませんよ」
間髪入れず、アレンが横から突っ込んだ。
神田は最高に冷たい目を向ける。
「殺すぞ」
「冗談さ、冗談!」
ラビは笑いながら両手を上げたものの、すぐにまた夢子へ視線を戻した。
当の本人は、自分が何の話題になっているのかよく分かっていないらしい。ラビと神田を交互に見たあと、結局いちばん安心する場所へ戻るように、神田の服の裾を掴んだ。
「……でもさ」
ラビが顎へ手を当てる。
「今日会ったばっかなのに、ずいぶん懐かれてね?」
「あ?」
神田が一歩、料理の並ぶ方へ動く。
すると夢子も、ほとんど同時に一歩ついていく。
神田が止まる。
夢子も止まる。
神田が少しだけ振り返ると、夢子は何の疑問もなさそうな顔で見上げていた。
「…………」
ラビの口元がにやりと上がった。
「ユウ、子分拾ったん?」
「違ぇ」
即答だった。
夢子だけが、聞き慣れない単語に反応して帳面を開く。
『こぶん?』
神田がそれを見て眉を寄せた。
「覚えなくていい」
「何で!?」
「必要ねェ」
ラビが笑う横で、夢子は意味を知りたそうに神田を見つめている。
しかし神田に教える気がないと分かると、今度はアレンへ視線を移した。
「……僕を見るんですか?」
こくん。
「もやし、教えんなよ」
「でも、もう聞かれちゃってますし……」
アレンは少し困ったように笑いながら、夢子へ説明した。
「子分っていうのは、親分についていったり、その人の言うことを聞いたりする人のことです」
夢子は少し考えた。
『おやぶんは?』
「親分は……」
そこまで言ったアレンは、どう説明したものかと考えるように視線を彷徨わせ、やがてすぐ近くに立っている神田へ目を向けた。
「神田みたいな人のことです」
「あ?」
突然例に出された神田が、露骨に眉を寄せる。
アレンは慌てて付け足した。
「いや、性格がって意味じゃないですよ。夢子から見れば、子分がついていく側っていう意味で」
「俺に子分はいねぇ」
神田は即座に否定したが、夢子はもう説明を理解したらしく、改めて神田をじっと見上げていた。
親分は神田みたいな人。
つまり、自分がついていく相手。
しばらく考えた末、夢子は納得したように頷くと、帳面へさらさらと書き足した。
『かんださんが おやぶん』
「違ぇ」
神田の返事は早かった。
ラビが堪えきれず吹き出す。
「いや、もうそれでいいじゃん。ユウ親分と人魚の子分」
「よくねぇ」
夢子は神田の返事に少し首を傾げたものの、アレンから教わった意味そのものはすっかり覚えたらしく、帳面の隅へ丁寧に、
『こぶん わたし』
と並べて書き留めた。
神田はそれを横から見て、さらに眉間の皺を深くする。
「覚えんなよ」
夢子は顔を上げた。
もう覚えてしまった。
そんな顔だった。
ラビが神田の肩を叩きながら笑う。
「残念だったな、ユウ。一回教えたらもう手遅れっぽいさ」
神田は鬱陶しそうにその手を払いのけた。
「……くだらねぇことだけ覚えやがって」
夢子は別にくだらないとは思っていないらしく、もう一度帳面の『おやぶん』という文字を確認すると、満足そうに神田を見上げた。
「見るな」
そう言われても、親分という言葉を覚えたばかりの夢子には、目の前の神田がどうにもその言葉そのものに見えて仕方がなかった。
夢子はむっとすると、すぐに帳面へ鉛筆を走らせた。
『かんださんに ついていきます』
続けて、
『いうことも ききます』
「…………」
神田は黙った。
ラビがその文字を横から覗き込み、満足そうに頷く。
「おっぱい見せてって言ったら見せてくれるんか?完璧じゃん」
「……」
リナリーとアレンはラビに冷たい視線を送り、夢子はポッと頬を赤く染めた。
神田はそれ以上相手にせず、料理の並ぶ方へ歩き出した。
当然のように夢子もあとを追う。
その気配に気づいた神田は一度だけ振り返り、短く言った。
「お前はここで待ってろ」
夢子はすぐに立ち止まり、こくんと頷いた。
そして神田が料理を取りに向かっても、その場から一歩も動かなかった。
ラビはしばらくその姿を眺めたあと、静かにリナリーへ顔を寄せた。
「……子分より犬じゃね?」
リナリーは笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
少し離れた席にリナリーとアレンが座り、ラビもそこに腰を下ろしている。
それでも夢子だけは、先ほど神田に「待ってろ」と言われた場所から一歩も動かない。
しばらく様子を見ていたラビが声をかけた。
「夢子、そこに立ってなくても座って待てばいいんじゃね?」
夢子は首を横へ振った。
「……ユウに待ってろって言われたから?」
こくん。
「いや、座ったら駄目とは言ってねぇと思うけど」
それでも夢子は少し考えただけで、その場を離れなかった。
待っていろと言われた。
ならば、ここで待つ。
本人の中では、それだけのことらしい。
数分後、神田が料理を載せたトレーを持って戻ってくると、先ほどとまったく同じ場所に立っている夢子を見て足を止めた。
「……何してんだ」
夢子は首を傾げた。
何を、と言いたげな顔だった。
「何で立ってんだ」
答える代わりに神田をじっと見つめる彼女を見て、ラビが横から説明する。
「ユウが『ここで待ってろ』って言ったから、本当にずっとそこから動かなかったんよ」
神田は数秒、夢子を見た。
「……馬鹿か」
しゅん、と眉が下がる。
その顔を見て、神田は小さく息を吐いた。
「怒ってねぇ。座って待てばいいだろ」
夢子が顔を上げる。
どうやら、それでもよかったらしい。
「座れ」
こくん。
今度は迷わず空いていた椅子へ腰を下ろした。
その様子に、ラビがとうとう耐えきれず笑い出した。
「ユウ、それ子分っつーか犬じゃん」
神田の視線が飛ぶ。
「誰が犬だ」
「お前じゃねぇよ」
ラビは笑いながら夢子を見る。
「『待て』で待って、『座れ』で座る。犬じゃん」
夢子は帳面にササッと書いてラビに付けつけた。
『犬では ありません』
『わたしは 人魚です』
ラビは一瞬黙ったあと、言い直した。
「……ごめんさ。犬じゃなくて子分な」
すると、ほんの少しだけ夢子に笑顔が戻った。
神田は何とも言えない顔をしながら、持ってきた皿の一つを夢子の前へ置いた。
「食え」
皿にはパンと肉料理、それに温野菜が載っていた。
夢子は目を輝かせたものの、すぐには手をつけず、まず神田を見る。
「何だ」
食べてもいいのか、と確認しているらしい。
「お前のだ。食っていい」
こくんと頷き、ようやく気になっていたパンへ手を伸ばす。
恐る恐る一口かじった瞬間、夢子の目が大きくなった。
柔らかく、ほんのり甘くて、香ばしい。
知っている食べ物のどれとも違う味がした。
もう一口食べる。
「美味いか」
神田に聞かれ、口にパンを入れたまま何度も頷いた。
「そうか」
神田はそれだけ答え、自分の食事を始めた。
次に夢子の興味を引いたのは、湯気の立つスープだった。
湯気。
その時点で、少し警戒する。
先ほど風呂で「煮魚になる」と本気で怯えたばかりである。
それでも気になるらしく、恐る恐る器へ手を伸ばすと、すぐ横から神田の声が飛んできた。
「まだ触んな。熱い」
夢子の指がぴたりと止まった。
熱い。
その言葉を聞いた途端、手を引っ込めるどころか、身体まで僅かに後ろへ逃げた。
神田が怪訝そうに見る。
「……何だ」
夢子は警戒するようにスープを見つめた。
その様子に気づいたリナリーが、思い出し笑いをするように口元を押さえる。
「さっきお風呂のお湯を見て、『煮魚になります』って」
「…………」
神田が夢子を見る。
夢子は少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「ならねぇよ」
予想通り、一言で片づけられた。
神田が匙を指す。
「これを使え」
夢子は恐る恐る匙を取ったものの、初めて使うため、拳の中へ握り込むような持ち方になった。
神田が横目でそれを見る。
「……貸せ」
一度受け取ると、正しい持ち方を見せる。
「こうだ」
夢子は神田の指先をじっと見つめてから、自分でも同じように持ってみる。
少しぎこちないものの、どうにか匙でスープを掬うことができた。
ふうふうと冷ましてから一口飲む。
「…………!」
また目が輝いた。
向かい側では、ラビがもう完全に食事どころではなくなっていた。
神田が何か言えば夢子が頷き、夢子が分からないことがあれば、神田が必要なことだけを短く教える。それがあまりにも自然に繰り返されている。
「ユウ」
「あ?」
「お前、めっちゃ世話してんじゃん」
「連れてきた責任があんだよ」
「ユウが?責任?…責任感あったんだ…」
「うるせぇ」
神田はまるで取り合わなかった。
食事が進むにつれ、夢子も少しずつカトラリーの使い方を覚えていった。
まだ匙を持つ手はぎこちなく、フォークなど見慣れない道具も多いが、神田やリナリーの手元を真似しながら一生懸命食べている。
新しい料理を口へ運ぶたびに表情がころころ変わり、驚いたり、嬉しそうに目を細めたりする様子を見て、アレンが笑った。
「気に入ったもの、ありました?」
夢子は迷うことなくパンを指さした。
「パンですか?」
こくこく。
「じゃあ明日の朝もそれ、食べたいですね」
その言葉に、さらに顔が明るくなる。
神田は隣で黙々と食事をしながら、そのやり取りを一度だけ横目で見た。
やがて全員が食べ終わる頃、神田がトレーを持って立ち上がった。
「帰るぞ」
夢子も反射的に立ち上がる。
「ちょっと待って」
ラビが呼び止めた。
神田が鬱陶しそうに振り返る。
「何だ」
「帰るって、夢子も?俺まだ夢子と話したかったのに」
「ぁあ?」
「どこに帰んの!?」
「俺の部屋」
「…………」
ラビの顔が止まった。
アレンも一瞬、瞬きをする。
勘のいいリナリーだけが「ああ」と納得したように頷いた。
「……夢子も?」
「あ?」
「お前の部屋に、この子泊まるん?」
「ああ」
「二人で?」
神田の眉間に皺が寄る。
「今日それ何回聞かれなきゃなんねぇんだ」
ラビは信じられないものを見るように二人を見比べた。
「いやいやいや、待てって! 子分拾ったとかいうレベルじゃねぇじゃん!」
「何がだ」
「何がって……」
ラビは言いかけて、夢子を見る。
当の本人は、さっきまでとは少し違っていた。
神田と同じ部屋で眠る。
その意味自体は理解している。
神田が寝る場所で、自分も夜を過ごす。
そう考えれば、恥ずかしくないわけがない。
夢子の頬には、すでにほんのり赤みが差していた。
それでも嫌かと聞かれれば、答えはまったく逆だった。
神田と一緒にいられる。
それが嬉しい。
ラビが慎重に尋ねる。
「……夢子、お前も分かってんの?」
夢子は少し考えた。
神田と同じ部屋で暮らして、同じ場所で眠る。
それなら分かっている。
こくん。
「分かってるって!」
むしろラビの方が動揺した。
アレンが何とも言えない顔で目を逸らす。
神田は面倒そうに二人を見ている。
しかし、夢子にはラビがなぜこれほど驚いているのかまでは分からなかった。
同じ部屋で眠ることが恥ずかしいのは分かる。
好きな男の前で服を脱げと言われれば、当然恥ずかしい。
それでも、人間の世界では、結婚していない男女が同じ部屋で暮らすことそのものに、特別な意味を見出すらしいというところまでは知らない。
「いや、その……男と女が同じ部屋で――」
「ラビ」
リナリーがすぐに止めた。
「それ以上説明しなくていいから」
「でもリナリー!」
「いいの」
夢子は二人のやり取りを見ながら、不思議そうに首を傾げている。
神田が最高に不機嫌そうな顔で口を開いた。
「何騒いでんだ」
「お前が一番分かってるだろ!」
「知らねぇ」
「絶対分かってる!」
神田は相手にするのも面倒になったらしく、トレーを返却口へ置いた。
「コムイにも話してる。問題ねぇ」
「いや、コムイが許可してんのが一番怖いんだけど!」
「ギャンギャンうるせぇな」
それで話は終わりだった。
神田は夢子を見る。
「行くぞ」
こくん。
素直に頷き、神田のあとをついていく。
食堂を出る直前、夢子は一度だけラビたちへ振り返り、ぺこりと頭を下げた。
そして再び神田の二歩後ろへ戻る。
二人の姿が廊下の向こうへ消えてからも、ラビはしばらく呆然としていた。
「……なあ」
アレンが嫌な予感を覚えながら振り向く。
「何ですか」
「ユウ、あれ本当に大丈夫なん?」
「僕に聞かないでください」
リナリーが苦笑する。
「神田なら変なことはしないわよ」
「そうじゃなくて!完全に懐かれてんじゃん!」
ラビは二人が消えた廊下を指さした。
「あんなんされたらユウだって!」
「ああー!皆まで言わないでください!」
その頃、当の夢子はそんなことを言われているとも知らず、神田のあとを嬉しそうについて歩いていた。
知らない建物。
知らない人間。
知らない道具や食べ物。
人間になったばかりの自分には、まだ分からないことばかりだった。
それでも、少し先を歩く黒髪の男を見失わなければ何とかなるような気がしていた。
神田が角を曲がる前に一度振り返る。
夢子はちゃんといる。
それを確認した神田は何も言わず、また前を向いた。
そんな小さな確認を自分がするようになっていることに、この時の神田はまだ気づいていなかった。
つづく、2026/08/21
医務室を出るとリナリーが覗き込むように話しかけてきた。
「夢子。そういえば、お腹は空いてない?」
問いかけられ、夢子は一瞬きょとんとしたあと、自分のお腹へ手を当てた。
朝からあまりにもいろいろなことがありすぎて、食事のことなどすっかり忘れていた。
神田を探し回り、ようやく見つけたと思えば勝手に失恋し、泡になる覚悟を決め、その告白を本人に見つけられた。
そのまま海の底まで一緒に潜り、魔女のところへ行ったかと思えば、今度は教団へ連れてこられ、気づけば仕事まで決まっている。
意識した途端、腹の奥がきゅう、と小さく鳴った。
「…………」
夢子は恥ずかしそうに腹を押さえた。
「ふふ。じゃあ食堂へ行きましょう。神田も、もうお風呂から上がってる頃だと思うわ」
神田の名前を聞いた途端、夢子はまた嬉しそうに頷いた。
リナリーに案内されながら食堂へ向かう途中も、夢子は教団の中を忙しなく見回していた。
先ほど神田におぶられていた時より少し余裕が出たのか、壁に掛けられた案内板や、すれ違う職員が抱えている荷物にも興味を示している。
そのたびにリナリーが「あちらは図書室よ」「この階段を上がると居住区なの」と教えてくれるため、夢子は一つ一つ覚えようと真剣な顔で頷いていた。
やがて食堂の扉が開いた瞬間、漂ってきた匂いに夢子の足が止まった。
「…………!」
広い室内には大勢の人間が集まり、あちらこちらで食事をしていた。その光景だけでも圧倒されるのに、さらに奥には見たこともない料理がずらりと並んでいる。
焼いた肉や魚、湯気を立てるスープ、色とりどりの野菜、丸いパン、果物に甘そうな菓子まであり、夢子の視線は右へ行ったかと思えば左へ動き、また右へ戻った。
「すごいでしょう?」
リナリーに声をかけられても、返事をする余裕がないらしい。
海の中でも、もちろん食事はしていた。魚や貝、海藻など、食べられるものはいくらでもあったし、人魚たちなりの調理法もある。
それでも、陸の人間が食べる料理は色も匂いも形もまるで違う。
中でも、こんがりと焼き色のついたパンが気になったらしく、夢子は少し身を乗り出して匂いを嗅ぐように顔を近づけた。
「それはパンよ」
教えられると、夢子は忘れないようにするかのように、パンとリナリーを交互に見ながら何度か頷いた。
「リナリー!」
そこへ、聞き慣れない少年の声が飛んできた。
振り返ると、白い髪の少年がこちらへ歩いてくる。その少し後ろには、赤い髪に眼帯をつけた青年もいた。
「探してたんですよ。ラビがまた僕のデザートまで――」
話しながら近づいてきた少年は、リナリーの隣にいる夢子へ気づくと、途中で言葉を止めた。
「……あれ?」
赤毛の青年も、その肩越しから興味深そうに顔を覗かせる。
「誰? 新入り?」
「ちょうどよかったわ。二人にも紹介しておくわね」
リナリーは夢子へ視線を向けた。
「今日から教団で働くことになった夢子よ」
夢子は少し緊張しながら帳面を開くと、先程リナリーの時に使ったページを開いた。
『こんにちは。夢子です』
白髪の少年はすぐに柔らかく笑った。
「こんにちは。僕はアレン・ウォーカーです。よろしくお願いします」
赤毛の青年も隣から片手を上げる。
「俺はラビ。よろしくな」
夢子は二人の顔を交互に見ながら、こくんと頷いた。
「声が出せないんですか?」
アレンに尋ねられ、夢子が頷くと、リナリーが簡単に事情を説明した。
「大きな声では言えないんだけど、元々、人魚だったんですって。人間の脚をもらう代わりに、海の魔女へ声を渡したそうよ」
「…………」
アレンの表情が止まった。
ラビも止まった。
「……またまたリナリーってば冗談が過ぎます」
夢子はそんなアレンにブンブンと首を横に振り、それからこくんと頷く。
「本物?」
こくん。
「海に住んでた?」
こくこく。
「尾びれあったの?」
こくん。
ラビの顔が見る見る明るくなっていった。
「マジか! どんな色だったん? 海の底ってどんな感じ? 魚と話せたりすんの? あと――」
「ラビ」
リナリーが静かに止めた。
「一度に聞いても書けないでしょう」
「あ、悪い」
帳面を抱えたまま質問の嵐に戸惑っていた夢子は、少し困ったように笑った。
その時、食堂の奥から低い声が飛んできた。
「何してんだ」
夢子が振り返る。
神田だった。
風呂を済ませたらしく、髪も服もすっかり乾いている。
出会った時の団服ではなく、神田もラフな格好をしていた。
姿を見つけた瞬間、夢子の表情が露骨なほど明るくなった。
声こそ出ないものの、まるで「あ」と呼びかけたような顔をして神田の方へ歩き出す。
つい足を速めようとしたところで足裏に痛みが走り、僅かに顔をしかめた。
神田はそれを見逃さなかった。
「走んな」
夢子はぴたりと速度を落とし、素直にこくんと頷いた。
今度はゆっくり神田のところまで行くと、そのまま当然のように彼の傍へ収まる。
その一連の様子を、ラビがじっと見ていた。
「……ユウ」
「あ?」
「その子、お前の知り合い?」
「ああ」
「いつ出会ったの!?」
「今日」
ラビは夢子を見る。
夢子もラビを見る。
そしてラビが神田へ視線を戻すと、夢子もつられるように神田を見た。
「……なんで?」
「なんでって何の事だよ」
「いや、何でユウと知り合って、ここに居るんさ」
「拾ったんだよ。悪りぃか?」
「拾った!?」
ラビが呆れたように笑う。
そして、リナリーに耳打ちをした。
「拾ったって、ナンパってことか!?」
ラビが声を潜めて尋ねると、リナリーは呆れたように眉を下げた。
「違うと思うわよ」
「じゃあ何で女の子拾って帰ってくるんさ。しかも今日会ったばっかなんだろ?」
二人でこそこそ話していると、神田が鬱陶しそうに視線を向けた。
「何話してんだ」
「いや、ユウがどういう経緯で夢子を連れてきたのかなーって」
神田はめんどくせぇな、とでも言いたげに眉を寄せた。
「コムイが人手が足りねぇと言ってただろ。ちょうどいいと思ってな。こいつも行くとこ無ェって言うし」
それだけだった。
海から上がってきた人魚に陸で暮らす場所がなく、教団では人手が足りない。ならば働かせればいい――神田の中では、それで話が完結しているらしい。
ラビはしばらく黙って神田を見たあと、ぼそりと呟いた。
「……女の子拾える任務。俺も行きたい」
「そんな任務ありませんよ」
間髪入れず、アレンが横から突っ込んだ。
神田は最高に冷たい目を向ける。
「殺すぞ」
「冗談さ、冗談!」
ラビは笑いながら両手を上げたものの、すぐにまた夢子へ視線を戻した。
当の本人は、自分が何の話題になっているのかよく分かっていないらしい。ラビと神田を交互に見たあと、結局いちばん安心する場所へ戻るように、神田の服の裾を掴んだ。
「……でもさ」
ラビが顎へ手を当てる。
「今日会ったばっかなのに、ずいぶん懐かれてね?」
「あ?」
神田が一歩、料理の並ぶ方へ動く。
すると夢子も、ほとんど同時に一歩ついていく。
神田が止まる。
夢子も止まる。
神田が少しだけ振り返ると、夢子は何の疑問もなさそうな顔で見上げていた。
「…………」
ラビの口元がにやりと上がった。
「ユウ、子分拾ったん?」
「違ぇ」
即答だった。
夢子だけが、聞き慣れない単語に反応して帳面を開く。
『こぶん?』
神田がそれを見て眉を寄せた。
「覚えなくていい」
「何で!?」
「必要ねェ」
ラビが笑う横で、夢子は意味を知りたそうに神田を見つめている。
しかし神田に教える気がないと分かると、今度はアレンへ視線を移した。
「……僕を見るんですか?」
こくん。
「もやし、教えんなよ」
「でも、もう聞かれちゃってますし……」
アレンは少し困ったように笑いながら、夢子へ説明した。
「子分っていうのは、親分についていったり、その人の言うことを聞いたりする人のことです」
夢子は少し考えた。
『おやぶんは?』
「親分は……」
そこまで言ったアレンは、どう説明したものかと考えるように視線を彷徨わせ、やがてすぐ近くに立っている神田へ目を向けた。
「神田みたいな人のことです」
「あ?」
突然例に出された神田が、露骨に眉を寄せる。
アレンは慌てて付け足した。
「いや、性格がって意味じゃないですよ。夢子から見れば、子分がついていく側っていう意味で」
「俺に子分はいねぇ」
神田は即座に否定したが、夢子はもう説明を理解したらしく、改めて神田をじっと見上げていた。
親分は神田みたいな人。
つまり、自分がついていく相手。
しばらく考えた末、夢子は納得したように頷くと、帳面へさらさらと書き足した。
『かんださんが おやぶん』
「違ぇ」
神田の返事は早かった。
ラビが堪えきれず吹き出す。
「いや、もうそれでいいじゃん。ユウ親分と人魚の子分」
「よくねぇ」
夢子は神田の返事に少し首を傾げたものの、アレンから教わった意味そのものはすっかり覚えたらしく、帳面の隅へ丁寧に、
『こぶん わたし』
と並べて書き留めた。
神田はそれを横から見て、さらに眉間の皺を深くする。
「覚えんなよ」
夢子は顔を上げた。
もう覚えてしまった。
そんな顔だった。
ラビが神田の肩を叩きながら笑う。
「残念だったな、ユウ。一回教えたらもう手遅れっぽいさ」
神田は鬱陶しそうにその手を払いのけた。
「……くだらねぇことだけ覚えやがって」
夢子は別にくだらないとは思っていないらしく、もう一度帳面の『おやぶん』という文字を確認すると、満足そうに神田を見上げた。
「見るな」
そう言われても、親分という言葉を覚えたばかりの夢子には、目の前の神田がどうにもその言葉そのものに見えて仕方がなかった。
夢子はむっとすると、すぐに帳面へ鉛筆を走らせた。
『かんださんに ついていきます』
続けて、
『いうことも ききます』
「…………」
神田は黙った。
ラビがその文字を横から覗き込み、満足そうに頷く。
「おっぱい見せてって言ったら見せてくれるんか?完璧じゃん」
「……」
リナリーとアレンはラビに冷たい視線を送り、夢子はポッと頬を赤く染めた。
神田はそれ以上相手にせず、料理の並ぶ方へ歩き出した。
当然のように夢子もあとを追う。
その気配に気づいた神田は一度だけ振り返り、短く言った。
「お前はここで待ってろ」
夢子はすぐに立ち止まり、こくんと頷いた。
そして神田が料理を取りに向かっても、その場から一歩も動かなかった。
ラビはしばらくその姿を眺めたあと、静かにリナリーへ顔を寄せた。
「……子分より犬じゃね?」
リナリーは笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
少し離れた席にリナリーとアレンが座り、ラビもそこに腰を下ろしている。
それでも夢子だけは、先ほど神田に「待ってろ」と言われた場所から一歩も動かない。
しばらく様子を見ていたラビが声をかけた。
「夢子、そこに立ってなくても座って待てばいいんじゃね?」
夢子は首を横へ振った。
「……ユウに待ってろって言われたから?」
こくん。
「いや、座ったら駄目とは言ってねぇと思うけど」
それでも夢子は少し考えただけで、その場を離れなかった。
待っていろと言われた。
ならば、ここで待つ。
本人の中では、それだけのことらしい。
数分後、神田が料理を載せたトレーを持って戻ってくると、先ほどとまったく同じ場所に立っている夢子を見て足を止めた。
「……何してんだ」
夢子は首を傾げた。
何を、と言いたげな顔だった。
「何で立ってんだ」
答える代わりに神田をじっと見つめる彼女を見て、ラビが横から説明する。
「ユウが『ここで待ってろ』って言ったから、本当にずっとそこから動かなかったんよ」
神田は数秒、夢子を見た。
「……馬鹿か」
しゅん、と眉が下がる。
その顔を見て、神田は小さく息を吐いた。
「怒ってねぇ。座って待てばいいだろ」
夢子が顔を上げる。
どうやら、それでもよかったらしい。
「座れ」
こくん。
今度は迷わず空いていた椅子へ腰を下ろした。
その様子に、ラビがとうとう耐えきれず笑い出した。
「ユウ、それ子分っつーか犬じゃん」
神田の視線が飛ぶ。
「誰が犬だ」
「お前じゃねぇよ」
ラビは笑いながら夢子を見る。
「『待て』で待って、『座れ』で座る。犬じゃん」
夢子は帳面にササッと書いてラビに付けつけた。
『犬では ありません』
『わたしは 人魚です』
ラビは一瞬黙ったあと、言い直した。
「……ごめんさ。犬じゃなくて子分な」
すると、ほんの少しだけ夢子に笑顔が戻った。
神田は何とも言えない顔をしながら、持ってきた皿の一つを夢子の前へ置いた。
「食え」
皿にはパンと肉料理、それに温野菜が載っていた。
夢子は目を輝かせたものの、すぐには手をつけず、まず神田を見る。
「何だ」
食べてもいいのか、と確認しているらしい。
「お前のだ。食っていい」
こくんと頷き、ようやく気になっていたパンへ手を伸ばす。
恐る恐る一口かじった瞬間、夢子の目が大きくなった。
柔らかく、ほんのり甘くて、香ばしい。
知っている食べ物のどれとも違う味がした。
もう一口食べる。
「美味いか」
神田に聞かれ、口にパンを入れたまま何度も頷いた。
「そうか」
神田はそれだけ答え、自分の食事を始めた。
次に夢子の興味を引いたのは、湯気の立つスープだった。
湯気。
その時点で、少し警戒する。
先ほど風呂で「煮魚になる」と本気で怯えたばかりである。
それでも気になるらしく、恐る恐る器へ手を伸ばすと、すぐ横から神田の声が飛んできた。
「まだ触んな。熱い」
夢子の指がぴたりと止まった。
熱い。
その言葉を聞いた途端、手を引っ込めるどころか、身体まで僅かに後ろへ逃げた。
神田が怪訝そうに見る。
「……何だ」
夢子は警戒するようにスープを見つめた。
その様子に気づいたリナリーが、思い出し笑いをするように口元を押さえる。
「さっきお風呂のお湯を見て、『煮魚になります』って」
「…………」
神田が夢子を見る。
夢子は少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「ならねぇよ」
予想通り、一言で片づけられた。
神田が匙を指す。
「これを使え」
夢子は恐る恐る匙を取ったものの、初めて使うため、拳の中へ握り込むような持ち方になった。
神田が横目でそれを見る。
「……貸せ」
一度受け取ると、正しい持ち方を見せる。
「こうだ」
夢子は神田の指先をじっと見つめてから、自分でも同じように持ってみる。
少しぎこちないものの、どうにか匙でスープを掬うことができた。
ふうふうと冷ましてから一口飲む。
「…………!」
また目が輝いた。
向かい側では、ラビがもう完全に食事どころではなくなっていた。
神田が何か言えば夢子が頷き、夢子が分からないことがあれば、神田が必要なことだけを短く教える。それがあまりにも自然に繰り返されている。
「ユウ」
「あ?」
「お前、めっちゃ世話してんじゃん」
「連れてきた責任があんだよ」
「ユウが?責任?…責任感あったんだ…」
「うるせぇ」
神田はまるで取り合わなかった。
食事が進むにつれ、夢子も少しずつカトラリーの使い方を覚えていった。
まだ匙を持つ手はぎこちなく、フォークなど見慣れない道具も多いが、神田やリナリーの手元を真似しながら一生懸命食べている。
新しい料理を口へ運ぶたびに表情がころころ変わり、驚いたり、嬉しそうに目を細めたりする様子を見て、アレンが笑った。
「気に入ったもの、ありました?」
夢子は迷うことなくパンを指さした。
「パンですか?」
こくこく。
「じゃあ明日の朝もそれ、食べたいですね」
その言葉に、さらに顔が明るくなる。
神田は隣で黙々と食事をしながら、そのやり取りを一度だけ横目で見た。
やがて全員が食べ終わる頃、神田がトレーを持って立ち上がった。
「帰るぞ」
夢子も反射的に立ち上がる。
「ちょっと待って」
ラビが呼び止めた。
神田が鬱陶しそうに振り返る。
「何だ」
「帰るって、夢子も?俺まだ夢子と話したかったのに」
「ぁあ?」
「どこに帰んの!?」
「俺の部屋」
「…………」
ラビの顔が止まった。
アレンも一瞬、瞬きをする。
勘のいいリナリーだけが「ああ」と納得したように頷いた。
「……夢子も?」
「あ?」
「お前の部屋に、この子泊まるん?」
「ああ」
「二人で?」
神田の眉間に皺が寄る。
「今日それ何回聞かれなきゃなんねぇんだ」
ラビは信じられないものを見るように二人を見比べた。
「いやいやいや、待てって! 子分拾ったとかいうレベルじゃねぇじゃん!」
「何がだ」
「何がって……」
ラビは言いかけて、夢子を見る。
当の本人は、さっきまでとは少し違っていた。
神田と同じ部屋で眠る。
その意味自体は理解している。
神田が寝る場所で、自分も夜を過ごす。
そう考えれば、恥ずかしくないわけがない。
夢子の頬には、すでにほんのり赤みが差していた。
それでも嫌かと聞かれれば、答えはまったく逆だった。
神田と一緒にいられる。
それが嬉しい。
ラビが慎重に尋ねる。
「……夢子、お前も分かってんの?」
夢子は少し考えた。
神田と同じ部屋で暮らして、同じ場所で眠る。
それなら分かっている。
こくん。
「分かってるって!」
むしろラビの方が動揺した。
アレンが何とも言えない顔で目を逸らす。
神田は面倒そうに二人を見ている。
しかし、夢子にはラビがなぜこれほど驚いているのかまでは分からなかった。
同じ部屋で眠ることが恥ずかしいのは分かる。
好きな男の前で服を脱げと言われれば、当然恥ずかしい。
それでも、人間の世界では、結婚していない男女が同じ部屋で暮らすことそのものに、特別な意味を見出すらしいというところまでは知らない。
「いや、その……男と女が同じ部屋で――」
「ラビ」
リナリーがすぐに止めた。
「それ以上説明しなくていいから」
「でもリナリー!」
「いいの」
夢子は二人のやり取りを見ながら、不思議そうに首を傾げている。
神田が最高に不機嫌そうな顔で口を開いた。
「何騒いでんだ」
「お前が一番分かってるだろ!」
「知らねぇ」
「絶対分かってる!」
神田は相手にするのも面倒になったらしく、トレーを返却口へ置いた。
「コムイにも話してる。問題ねぇ」
「いや、コムイが許可してんのが一番怖いんだけど!」
「ギャンギャンうるせぇな」
それで話は終わりだった。
神田は夢子を見る。
「行くぞ」
こくん。
素直に頷き、神田のあとをついていく。
食堂を出る直前、夢子は一度だけラビたちへ振り返り、ぺこりと頭を下げた。
そして再び神田の二歩後ろへ戻る。
二人の姿が廊下の向こうへ消えてからも、ラビはしばらく呆然としていた。
「……なあ」
アレンが嫌な予感を覚えながら振り向く。
「何ですか」
「ユウ、あれ本当に大丈夫なん?」
「僕に聞かないでください」
リナリーが苦笑する。
「神田なら変なことはしないわよ」
「そうじゃなくて!完全に懐かれてんじゃん!」
ラビは二人が消えた廊下を指さした。
「あんなんされたらユウだって!」
「ああー!皆まで言わないでください!」
その頃、当の夢子はそんなことを言われているとも知らず、神田のあとを嬉しそうについて歩いていた。
知らない建物。
知らない人間。
知らない道具や食べ物。
人間になったばかりの自分には、まだ分からないことばかりだった。
それでも、少し先を歩く黒髪の男を見失わなければ何とかなるような気がしていた。
神田が角を曲がる前に一度振り返る。
夢子はちゃんといる。
それを確認した神田は何も言わず、また前を向いた。
そんな小さな確認を自分がするようになっていることに、この時の神田はまだ気づいていなかった。
つづく、2026/08/21