マーメイド、愛想のない男に庇護されました
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第1話。
海の底には、人間の知らない世界がある。
陽の光がかすかに青く揺らめく海の底。珊瑚の森と色鮮やかな魚たちに囲まれたその場所で、夢子は暮らしていた。
上半身は人間と変わらない。腰から下には二本の脚の代わりに、大きな尾びれがある。
人間が絵物語の中で「人魚」と呼ぶ種族だった。
夢子は、同じ人魚たちの中でも目立つ方ではない。
歌が特別上手いわけでもないし、人前へ出るのが得意なわけでもない。少し臆病で、何をするにも考えすぎてしまうところがある。
ただ一つ、困っている者を見つけると素通りできない。
それだけは、昔から変わらなかった。
その夜、海はひどく荒れていた。
夢子は海面近くの岩場で、嵐が過ぎるのを待っていた。
空は厚い雲に覆われている。
稲妻が走るたびに、真っ暗だった海が一瞬だけ白く照らされた。
ごろごろと響く雷の音に肩を縮めながら、夢子は岩陰から顔だけを出した。
「……早く帰りたいな」
そう呟いた、そのときだった。
轟音が響いた。
雷とは違う。
何か巨大なものが砕けたような、腹の底まで震わせる音だった。
「……?」
夢子は沖合へ目を向けた。
少し離れた海上に、一隻の船がある。
大波に呑まれそうになりながら、それでもどうにか浮かんでいた。
さっきの音は、あの船から聞こえたらしい。
稲妻が走る。
一瞬だけ明るくなった甲板の上に、二つの人影が見えた。
「……喧嘩?」
夢子は眉を寄せた。
一人は、長い黒髪の男だった。
雨に濡れた髪を背中へ張りつかせ、細身の刀を握っている。
向かいに立つもう一人は、遠目から見ても奇妙だった。
灰色がかった肌。
額には傷とも模様ともつかない印が並んでいる。
何より異様なのは、その表情だった。
こんな嵐の夜に。
互いに武器を向け合っているというのに。
その男は笑っていた。
ぞくり、と背筋が冷える。
「……なに、あの人」
次の瞬間。
黒髪の男が甲板を蹴った。
速い。
夢子の目では追いきれない。
銀色の光が走り、直後に甲板の一部が大きく砕けた。
灰色の肌をした男も反撃する。
何が起きているのか、ほとんど分からなかった。
ただ、二人が普通の人間ではできないような戦いをしていることだけは分かった。
刀が振るわれる。
何かが弾ける。
船体が軋む。
大波が甲板を洗う。
それでも二人は止まらない。
「……怖い」
見てはいけないものを見ている気がした。
夢子は岩陰へ隠れようとした。
その直前。
ひときわ大きな雷鳴が轟いた。
白く染まった海上で、二人の影が交差する。
黒髪の男が振るった刀が、相手の身体を深く捉えた。
同時に。
灰色の男の攻撃も、黒髪の男の身体へ叩き込まれた。
鈍い音が響いた。
二人の動きが止まる。
やがて灰色の男の身体が崩れた。
黒髪の男も数歩よろめく。
それでも刀を甲板へ突き立て、どうにか立っていた。
「……大丈夫?」
届くはずもないのに、夢子は思わず呟いた。
男の頭がゆっくりと下がる。
力が抜けたように膝が折れた。
その背後から、大波が迫る。
「危ない!」
夢子が叫んだ直後。
波が船を呑み込んだ。
黒髪の男の身体が甲板から投げ出される。
暗い海へ落ちた。
「……!」
考えるより先に身体が動いた。
夢子は岩陰から飛び出し、尾びれを強く打った。
荒れ狂う海面の下へ潜る。
さっきまでの轟音が嘘のように、海中は暗く静かだった。
その中を、黒い影がゆっくり沈んでいく。
長い髪が水の中へ広がっていた。
夢子は必死で泳いだ。
「待って……!」
腕を伸ばす。
もう少し。
指先が男の服に触れた。
さらに潜り、ようやく身体を抱き留める。
重い。
そのうえ意識がない。
「ちょっと……起きて」
頬を叩いてみても反応はなかった。
胸元には深い傷がある。
海水の中へ赤いものが滲んでいた。
「うそ……」
怖くなった。
このままでは死んでしまう。
「私の海では死なせないっ」
夢子は男を抱き直し、力いっぱい海面へ向かった。
波に何度も押し戻された。
腕の中の男を落としそうになり、そのたびに必死で抱え込む。
ようやく岸へ辿り着いた頃には、夢子も息を切らしていた。
砂浜の浅瀬まで男を運び、上半身だけを砂の上へ引き上げる。
「ねえ……」
返事はない。
夢子は男の胸元へ耳を当てた。
どくん。
微かな音がした。
「……よかった」
思わず力が抜ける。
生きている。
それだけで、胸の奥が一気に軽くなった。
改めて男の顔を見た。
長い黒髪が頬に張りついている。
夢子はそっと指を伸ばし、濡れた髪を払った。
思っていたより若い。
整った顔立ちをしている。
眉間にはうっすら皺が寄っていて、気を失っているというのにどこか不機嫌そうだった。
「……起きたら怒られそう」
小さく笑う。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
「神田!」
夢子はびくりと身体を震わせた。
誰かが走ってくる。
人間に姿を見られてはいけない。
夢子は慌てて男から離れた。
「ご、ごめんなさい」
何に謝っているのか自分でも分からない。
それでも反射的に頭を下げると、急いで海へ戻った。
すぐ近くの岩陰へ身を隠す。
そこから、そっと砂浜を覗いた。
若い女性が駆け寄ってきた。
長い黒髪の男のそばへ膝をつき、その肩を揺する。
「神田! しっかりして!」
神田。
夢子は心の中で、その音を繰り返した。
(カンダ……)
どうやら、あの男の名前らしい。
女性は何度も彼の名を呼んだ。
しばらくすると、男の瞼がわずかに動いた。
ゆっくりと目を開く。
「……うるせぇ」
「よかった……!」
女性の顔がぱっと明るくなった。
それを見て、夢子も岩陰でほっと息を吐いた。
何を話しているのか、ここからでは聞き取れない。
ただ、女性が彼のそばに座り込み、心配そうに身体を支えていることは分かった。
神田と呼ばれた男も、その女性を拒んではいなかった。
夢子は胸の前で両手を握った。
(よかった)
生きている。
助かった。
それなら、自分がここにいる必要はない。
誰が助けたのかなんて、知らなくてもいい。
夢子は静かに岩陰から離れた。
海の底へ戻りながらも、頭からあの男の姿が離れなかった。
翌日。
夢子は、また同じ砂浜へ来た。
もちろん、誰もいない。
「……そりゃ、いないよね」
自分でも何を期待していたのか分からなかった。
それでも翌日も来た。
その次の日も。
砂浜を眺めながら、無意識に黒い髪を探している。
やがて、認めざるを得なくなった。
「……また、会いたいな」
言葉にした瞬間、頬が熱くなった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
数日後。
夢子は海の奥深くに住む魔女を訪ねた。
薄暗い洞窟の中で、魔女は夢子の話を黙って聞いていた。
やがて片方の眉を上げる。
「つまり、人間になりたい?」
「……はい」
「男に会うために?」
「はい……」
答える声が少し小さくなった。
魔女は面白そうに笑った。
「いいよ。人間の脚をあげる」
「本当ですか?」
夢子の顔が明るくなる。
魔女は自分の喉元を指差した。
「代わりに、お前の声をもらう」
「…………」
笑顔が消えた。
「声?」
「そう。二度と喋れなくなる。それでもいいなら――」
「たんま」
「……は?」
「一回、家に帰ります」
魔女が目を瞬いた。
「なんで?」
「だって声が出なくなったら、人間の人とどうやってお話するんですか?」
「身振り手振りでいいだろ」
「無理です」
即答だった。
「私、そんな器用じゃありません」
魔女は黙った。
夢子はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「文字なら……」
「文字?」
「人間の文字を覚えれば、紙に書いてお話できますよね?」
「まあ、できるだろうね」
「じゃあ、覚えてきます」
「今から?」
「はい」
「どれくらいかかるんだい」
「分かりません」
「…………」
「では、また来ます!」
ぺこりと頭を下げ、夢子は本当に帰っていった。
魔女はしばらく洞窟の入口を見つめた。
「……恋って、そんな悠長なものだったかねぇ」
それから夢子は、人間の文字を覚え始めた。
海へ流れ着いた本。
沈没船の中に残されていた手紙。
水に濡れ、半分ほど読めなくなった新聞。
使えそうなものは何でも拾った。
最初は文字の形すら分からない。
一つ覚えては忘れ、書いては間違えた。
それでも毎日続けた。
『こんにちは』
『ありがとう』
『わたしは 夢子です』
少しずつ、書ける言葉が増えていく。
神田。
あの日、女性が何度も呼んでいた名前。
音だけは覚えていた。
「かんだ」
何度も口にした。
それがどんな文字になるのかは分からなかった。
いつか本人に会えたら聞けばいい。
そんな小さな楽しみもできた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ある日。
夢子は紙の上に、一文を書いた。
『あなたを たすけました』
書き終えて、じっと見つめる。
やがて紙を裏返した。
違う。
これを一番に伝えたいわけではない。
恩人だと名乗りたいわけでもない。
もっと普通に話してみたかった。
名前を聞きたい。
好きな食べ物を聞きたい。
普段、どこで何をしているのか知りたい。
あの日、誰と戦っていたのかも気になった。
そして、もし許されるなら、自分のことも少し知ってほしかった。
季節が変わった。
あの日から半年が経った。
「……できた」
夢子は一冊の小さな帳面を胸に抱いた。
まだ綺麗な字ではない。
それでも、自分の言いたいことくらいなら書ける。
これなら大丈夫。
声がなくなっても、話ができる。
そう思った。
夢子は再び魔女の洞窟を訪れた。
「お久しぶりです」
「…………誰だっけ」
「半年前に来ました」
「ああ。声を取られるって聞いて帰った子」
「文字を覚えてきました」
「半年かけて?」
夢子は少し得意げに帳面を見せた。
「これで大丈夫です」
魔女は何とも言えない顔をした。
「……まあ、本人がそれでいいならいいよ」
魔女は夢子へ手を伸ばした。
「その代わり、約束は覚えてるね?」
夢子は頷いた。
人間の脚を手に入れる代わりに、声を失う。
そして、想う相手と結ばれなければ、最後には海の泡となって消える。
怖くないわけではなかった。
それでも、神田に会いたかった。
夢子は魔女に声を渡した。
代わりに、人間の脚を得た。
初めて砂浜へ足をついた瞬間、身体を貫くような痛みが走った。
足の裏から骨の奥まで、鋭い刃を突き立てられたようだった。
声を上げようとして、何も出ない。
そこで初めて、本当に声を失ったのだと実感した。
膝が崩れそうになる。
それでも立った。
会える。
その一心で歩き出した。
一歩。
また一歩。
歩くたびに痛みが走った。
それでも夢子は神田を探した。
あの日に聞いた名前だけを頼りに、人間の街を歩き回った。
何日も探した。
そして、とうとう見つけた。
長い黒髪。
見間違えるはずがなかった。
(いた……!)
胸が大きく跳ねる。
半年間、何度も想像した。
会えたら何を書こう。
最初は『こんにちは』がいいだろうか。
それとも『かんださんですか』と確認するべきだろうか。
夢子は慌てて帳面を取り出した。
そのときだった。
神田の隣にいる女性へ目が止まった。
指が固まる。
見覚えがあった。
半年前。
あの砂浜へ駆け寄ってきた女性だった。
女性は神田へ何かを話していた。
神田は面倒そうな顔をしている。
女性が神田の腕を掴んだ。
何かを言いながら、その腕を確かめるように触っている。
神田は眉を寄せたものの、すぐには振り払わなかった。
遠くにいる夢子には、二人の会話は聞こえない。
ただ、親しげに見えた。
半年前にも、神田のそばにいた人。
今も、神田のそばにいる。
(……あの人だ)
胸の奥が冷たくなる。
神田はきっと、あの女性に助けられたと思っている。
そして半年の間に。
二人は――。
夢子は帳面へ視線を落とした。
『あなたを たすけました』
何度も練習した言葉がそこにある。
今なら伝えられる。
声が出なくても。
文字がある。
助けたのは自分だと。
あの日、海から神田を引き上げたのは自分なのだと。
夢子はその一文を見つめた。
やがて、ゆっくりと帳面を閉じた。
今さら言って、どうするのだろう。
たすけたのはわたしです。
なまえは 夢子です。
そんなことを突然書けば、まるで二人の間へ割って入りたいみたいだ。
恩を着せて、神田の気持ちを自分へ向けようとしているようにも見える。
そんなことはしたくなかった。
半年。
半年も経ってしまった。
海の底で一文字ずつ文字を覚えている間にも、人間の時間は流れていたのだ。
夢子はもう一度だけ神田を見た。
隣には、あの女性がいる。
神田はこちらに気づいていない。
(……そっか)
ほんの少し、笑った。
(遅かったんだ)
夢子は踵を返した。
一歩ごとに足が痛む。
神田を探して歩いていたときより、ずっと痛く感じた。
つづく、2026/08/16
(´。✪ω✪。 ` )ご挨拶。
こんにちは。
性懲りも無く新しいお話を書き始めました。
短編として書き進めていたのですが、妄想が膨らみまして、連載にする事にしました。
今回のテーマは「人魚姫」です。
「もし、人魚が恋をした相手が神田だったら。」
そんな妄想から生まれた、少し切なくて優しい恋物語になります。
童話をベースにしていますが、展開や設定はオリジナル要素もたくさん入っていますので、ひとつの新しい物語として楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞ最後まで、お付き合いよろしくお願いいたします。
By神威がくこ( *・ᵕ・)ノ
海の底には、人間の知らない世界がある。
陽の光がかすかに青く揺らめく海の底。珊瑚の森と色鮮やかな魚たちに囲まれたその場所で、夢子は暮らしていた。
上半身は人間と変わらない。腰から下には二本の脚の代わりに、大きな尾びれがある。
人間が絵物語の中で「人魚」と呼ぶ種族だった。
夢子は、同じ人魚たちの中でも目立つ方ではない。
歌が特別上手いわけでもないし、人前へ出るのが得意なわけでもない。少し臆病で、何をするにも考えすぎてしまうところがある。
ただ一つ、困っている者を見つけると素通りできない。
それだけは、昔から変わらなかった。
その夜、海はひどく荒れていた。
夢子は海面近くの岩場で、嵐が過ぎるのを待っていた。
空は厚い雲に覆われている。
稲妻が走るたびに、真っ暗だった海が一瞬だけ白く照らされた。
ごろごろと響く雷の音に肩を縮めながら、夢子は岩陰から顔だけを出した。
「……早く帰りたいな」
そう呟いた、そのときだった。
轟音が響いた。
雷とは違う。
何か巨大なものが砕けたような、腹の底まで震わせる音だった。
「……?」
夢子は沖合へ目を向けた。
少し離れた海上に、一隻の船がある。
大波に呑まれそうになりながら、それでもどうにか浮かんでいた。
さっきの音は、あの船から聞こえたらしい。
稲妻が走る。
一瞬だけ明るくなった甲板の上に、二つの人影が見えた。
「……喧嘩?」
夢子は眉を寄せた。
一人は、長い黒髪の男だった。
雨に濡れた髪を背中へ張りつかせ、細身の刀を握っている。
向かいに立つもう一人は、遠目から見ても奇妙だった。
灰色がかった肌。
額には傷とも模様ともつかない印が並んでいる。
何より異様なのは、その表情だった。
こんな嵐の夜に。
互いに武器を向け合っているというのに。
その男は笑っていた。
ぞくり、と背筋が冷える。
「……なに、あの人」
次の瞬間。
黒髪の男が甲板を蹴った。
速い。
夢子の目では追いきれない。
銀色の光が走り、直後に甲板の一部が大きく砕けた。
灰色の肌をした男も反撃する。
何が起きているのか、ほとんど分からなかった。
ただ、二人が普通の人間ではできないような戦いをしていることだけは分かった。
刀が振るわれる。
何かが弾ける。
船体が軋む。
大波が甲板を洗う。
それでも二人は止まらない。
「……怖い」
見てはいけないものを見ている気がした。
夢子は岩陰へ隠れようとした。
その直前。
ひときわ大きな雷鳴が轟いた。
白く染まった海上で、二人の影が交差する。
黒髪の男が振るった刀が、相手の身体を深く捉えた。
同時に。
灰色の男の攻撃も、黒髪の男の身体へ叩き込まれた。
鈍い音が響いた。
二人の動きが止まる。
やがて灰色の男の身体が崩れた。
黒髪の男も数歩よろめく。
それでも刀を甲板へ突き立て、どうにか立っていた。
「……大丈夫?」
届くはずもないのに、夢子は思わず呟いた。
男の頭がゆっくりと下がる。
力が抜けたように膝が折れた。
その背後から、大波が迫る。
「危ない!」
夢子が叫んだ直後。
波が船を呑み込んだ。
黒髪の男の身体が甲板から投げ出される。
暗い海へ落ちた。
「……!」
考えるより先に身体が動いた。
夢子は岩陰から飛び出し、尾びれを強く打った。
荒れ狂う海面の下へ潜る。
さっきまでの轟音が嘘のように、海中は暗く静かだった。
その中を、黒い影がゆっくり沈んでいく。
長い髪が水の中へ広がっていた。
夢子は必死で泳いだ。
「待って……!」
腕を伸ばす。
もう少し。
指先が男の服に触れた。
さらに潜り、ようやく身体を抱き留める。
重い。
そのうえ意識がない。
「ちょっと……起きて」
頬を叩いてみても反応はなかった。
胸元には深い傷がある。
海水の中へ赤いものが滲んでいた。
「うそ……」
怖くなった。
このままでは死んでしまう。
「私の海では死なせないっ」
夢子は男を抱き直し、力いっぱい海面へ向かった。
波に何度も押し戻された。
腕の中の男を落としそうになり、そのたびに必死で抱え込む。
ようやく岸へ辿り着いた頃には、夢子も息を切らしていた。
砂浜の浅瀬まで男を運び、上半身だけを砂の上へ引き上げる。
「ねえ……」
返事はない。
夢子は男の胸元へ耳を当てた。
どくん。
微かな音がした。
「……よかった」
思わず力が抜ける。
生きている。
それだけで、胸の奥が一気に軽くなった。
改めて男の顔を見た。
長い黒髪が頬に張りついている。
夢子はそっと指を伸ばし、濡れた髪を払った。
思っていたより若い。
整った顔立ちをしている。
眉間にはうっすら皺が寄っていて、気を失っているというのにどこか不機嫌そうだった。
「……起きたら怒られそう」
小さく笑う。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
「神田!」
夢子はびくりと身体を震わせた。
誰かが走ってくる。
人間に姿を見られてはいけない。
夢子は慌てて男から離れた。
「ご、ごめんなさい」
何に謝っているのか自分でも分からない。
それでも反射的に頭を下げると、急いで海へ戻った。
すぐ近くの岩陰へ身を隠す。
そこから、そっと砂浜を覗いた。
若い女性が駆け寄ってきた。
長い黒髪の男のそばへ膝をつき、その肩を揺する。
「神田! しっかりして!」
神田。
夢子は心の中で、その音を繰り返した。
(カンダ……)
どうやら、あの男の名前らしい。
女性は何度も彼の名を呼んだ。
しばらくすると、男の瞼がわずかに動いた。
ゆっくりと目を開く。
「……うるせぇ」
「よかった……!」
女性の顔がぱっと明るくなった。
それを見て、夢子も岩陰でほっと息を吐いた。
何を話しているのか、ここからでは聞き取れない。
ただ、女性が彼のそばに座り込み、心配そうに身体を支えていることは分かった。
神田と呼ばれた男も、その女性を拒んではいなかった。
夢子は胸の前で両手を握った。
(よかった)
生きている。
助かった。
それなら、自分がここにいる必要はない。
誰が助けたのかなんて、知らなくてもいい。
夢子は静かに岩陰から離れた。
海の底へ戻りながらも、頭からあの男の姿が離れなかった。
翌日。
夢子は、また同じ砂浜へ来た。
もちろん、誰もいない。
「……そりゃ、いないよね」
自分でも何を期待していたのか分からなかった。
それでも翌日も来た。
その次の日も。
砂浜を眺めながら、無意識に黒い髪を探している。
やがて、認めざるを得なくなった。
「……また、会いたいな」
言葉にした瞬間、頬が熱くなった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
数日後。
夢子は海の奥深くに住む魔女を訪ねた。
薄暗い洞窟の中で、魔女は夢子の話を黙って聞いていた。
やがて片方の眉を上げる。
「つまり、人間になりたい?」
「……はい」
「男に会うために?」
「はい……」
答える声が少し小さくなった。
魔女は面白そうに笑った。
「いいよ。人間の脚をあげる」
「本当ですか?」
夢子の顔が明るくなる。
魔女は自分の喉元を指差した。
「代わりに、お前の声をもらう」
「…………」
笑顔が消えた。
「声?」
「そう。二度と喋れなくなる。それでもいいなら――」
「たんま」
「……は?」
「一回、家に帰ります」
魔女が目を瞬いた。
「なんで?」
「だって声が出なくなったら、人間の人とどうやってお話するんですか?」
「身振り手振りでいいだろ」
「無理です」
即答だった。
「私、そんな器用じゃありません」
魔女は黙った。
夢子はしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「文字なら……」
「文字?」
「人間の文字を覚えれば、紙に書いてお話できますよね?」
「まあ、できるだろうね」
「じゃあ、覚えてきます」
「今から?」
「はい」
「どれくらいかかるんだい」
「分かりません」
「…………」
「では、また来ます!」
ぺこりと頭を下げ、夢子は本当に帰っていった。
魔女はしばらく洞窟の入口を見つめた。
「……恋って、そんな悠長なものだったかねぇ」
それから夢子は、人間の文字を覚え始めた。
海へ流れ着いた本。
沈没船の中に残されていた手紙。
水に濡れ、半分ほど読めなくなった新聞。
使えそうなものは何でも拾った。
最初は文字の形すら分からない。
一つ覚えては忘れ、書いては間違えた。
それでも毎日続けた。
『こんにちは』
『ありがとう』
『わたしは 夢子です』
少しずつ、書ける言葉が増えていく。
神田。
あの日、女性が何度も呼んでいた名前。
音だけは覚えていた。
「かんだ」
何度も口にした。
それがどんな文字になるのかは分からなかった。
いつか本人に会えたら聞けばいい。
そんな小さな楽しみもできた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ある日。
夢子は紙の上に、一文を書いた。
『あなたを たすけました』
書き終えて、じっと見つめる。
やがて紙を裏返した。
違う。
これを一番に伝えたいわけではない。
恩人だと名乗りたいわけでもない。
もっと普通に話してみたかった。
名前を聞きたい。
好きな食べ物を聞きたい。
普段、どこで何をしているのか知りたい。
あの日、誰と戦っていたのかも気になった。
そして、もし許されるなら、自分のことも少し知ってほしかった。
季節が変わった。
あの日から半年が経った。
「……できた」
夢子は一冊の小さな帳面を胸に抱いた。
まだ綺麗な字ではない。
それでも、自分の言いたいことくらいなら書ける。
これなら大丈夫。
声がなくなっても、話ができる。
そう思った。
夢子は再び魔女の洞窟を訪れた。
「お久しぶりです」
「…………誰だっけ」
「半年前に来ました」
「ああ。声を取られるって聞いて帰った子」
「文字を覚えてきました」
「半年かけて?」
夢子は少し得意げに帳面を見せた。
「これで大丈夫です」
魔女は何とも言えない顔をした。
「……まあ、本人がそれでいいならいいよ」
魔女は夢子へ手を伸ばした。
「その代わり、約束は覚えてるね?」
夢子は頷いた。
人間の脚を手に入れる代わりに、声を失う。
そして、想う相手と結ばれなければ、最後には海の泡となって消える。
怖くないわけではなかった。
それでも、神田に会いたかった。
夢子は魔女に声を渡した。
代わりに、人間の脚を得た。
初めて砂浜へ足をついた瞬間、身体を貫くような痛みが走った。
足の裏から骨の奥まで、鋭い刃を突き立てられたようだった。
声を上げようとして、何も出ない。
そこで初めて、本当に声を失ったのだと実感した。
膝が崩れそうになる。
それでも立った。
会える。
その一心で歩き出した。
一歩。
また一歩。
歩くたびに痛みが走った。
それでも夢子は神田を探した。
あの日に聞いた名前だけを頼りに、人間の街を歩き回った。
何日も探した。
そして、とうとう見つけた。
長い黒髪。
見間違えるはずがなかった。
(いた……!)
胸が大きく跳ねる。
半年間、何度も想像した。
会えたら何を書こう。
最初は『こんにちは』がいいだろうか。
それとも『かんださんですか』と確認するべきだろうか。
夢子は慌てて帳面を取り出した。
そのときだった。
神田の隣にいる女性へ目が止まった。
指が固まる。
見覚えがあった。
半年前。
あの砂浜へ駆け寄ってきた女性だった。
女性は神田へ何かを話していた。
神田は面倒そうな顔をしている。
女性が神田の腕を掴んだ。
何かを言いながら、その腕を確かめるように触っている。
神田は眉を寄せたものの、すぐには振り払わなかった。
遠くにいる夢子には、二人の会話は聞こえない。
ただ、親しげに見えた。
半年前にも、神田のそばにいた人。
今も、神田のそばにいる。
(……あの人だ)
胸の奥が冷たくなる。
神田はきっと、あの女性に助けられたと思っている。
そして半年の間に。
二人は――。
夢子は帳面へ視線を落とした。
『あなたを たすけました』
何度も練習した言葉がそこにある。
今なら伝えられる。
声が出なくても。
文字がある。
助けたのは自分だと。
あの日、海から神田を引き上げたのは自分なのだと。
夢子はその一文を見つめた。
やがて、ゆっくりと帳面を閉じた。
今さら言って、どうするのだろう。
たすけたのはわたしです。
なまえは 夢子です。
そんなことを突然書けば、まるで二人の間へ割って入りたいみたいだ。
恩を着せて、神田の気持ちを自分へ向けようとしているようにも見える。
そんなことはしたくなかった。
半年。
半年も経ってしまった。
海の底で一文字ずつ文字を覚えている間にも、人間の時間は流れていたのだ。
夢子はもう一度だけ神田を見た。
隣には、あの女性がいる。
神田はこちらに気づいていない。
(……そっか)
ほんの少し、笑った。
(遅かったんだ)
夢子は踵を返した。
一歩ごとに足が痛む。
神田を探して歩いていたときより、ずっと痛く感じた。
つづく、2026/08/16
(´。✪ω✪。 ` )ご挨拶。
こんにちは。
性懲りも無く新しいお話を書き始めました。
短編として書き進めていたのですが、妄想が膨らみまして、連載にする事にしました。
今回のテーマは「人魚姫」です。
「もし、人魚が恋をした相手が神田だったら。」
そんな妄想から生まれた、少し切なくて優しい恋物語になります。
童話をベースにしていますが、展開や設定はオリジナル要素もたくさん入っていますので、ひとつの新しい物語として楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞ最後まで、お付き合いよろしくお願いいたします。
By神威がくこ( *・ᵕ・)ノ
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