マーダーミステリーD~灰色の晩餐会
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ティキが駅へ駆け込んだ時、女はすでに改札の向こうにいた。
帽子を深くかぶり、小さな鞄を胸元に寄せている。
人目を避ける仕草は慣れているようで、慣れていないようでもあった。
切符売り場の上には、行き先の札が並んでいる。
ティキは駅員に行先を告げ、切符を受け取った。
ホームには、二両編成の古びた列車が停まっていた。
窓枠は少し錆び、車内には木と鉄と、人いきれの匂いがこもっている。
女は後ろの車両へ乗った。
ティキは一本離れた扉から車内へ入る。
尾行の基本は、面倒で地味だった。
列車がゆっくりと動き出す。
温泉街の小さな駅が後ろへ流れ、山の緑が窓いっぱいに広がった。
女は窓際に座っていた。
最初のうちは、帽子をかぶったまま外を見ていた。
だが、列車が二つ目の駅を過ぎ、車内の客が少し減ると、ようやく帽子を取った。
ティキは新聞の陰から、目だけを動かした。
そこで初めて、女の顔がはっきり見えた。
白い肌。
少し長い黒髪。
伏せがちな目元。
整ってはいるが、派手ではない。
美人、と一言で片づけるには弱い。
ただ、目を離すには妙な引力がある。
幸の薄そうな顔だった。
笑えば少し明るくなるのだろう。
でも、何もしないでいると、初めから誰かに謝っているように見える。
ティキは眉をわずかに上げた。
クロス・マリアンが好む女にしては、強さがない。
いや、強くないから、あの男は手を伸ばしたのかもしれない。
女は小さな鏡を出し、髪を耳の後ろへかけた。
その横顔に、ティキはどこか既視感を覚えた。
リンクの言葉が浮かぶ。
――雰囲気は、少し似ているかもしれません。
確かに、似ている。
顔立ちそのものではない。
ティキは昔、ノア商事の創立記念パーティーで夢子と言葉を交わしたことがある。
あの時の彼女は、今よりずっとよく笑っていた。
人の話を聞く時、目をまっすぐ向ける。
笑う時は、ちゃんと温度があった。
だから、この女は本来の夢子に似ているわけではない。
似ているのは、今の夢子だ。
クロスの隣で、無理に笑おうとしている時の顔。
相手を責める前に、自分の方を小さく折りたたんでしまう気配。
目を伏せる角度。
言葉を飲み込む間。
それが、窓際に座る女の横顔と、かすかに重なって見えた。
ティキは新聞を折るふりをして、鞄からカメラを出した。
正面から撮れば怪しまれる。
窓に映る女の横顔を狙った。
車窓の光。
薄い反射。
外を流れる山と、ガラスに重なる女の顔。
一枚。
車輪の音に紛れて、シャッター音は消えた。
もう一枚。
今度は女が鏡をしまう瞬間。
横顔が少しだけこちらを向く。
ティキはすぐにカメラを鞄へ戻し、新聞を両手で持ち直した。
昨夜の写真には写らなかった顔が、今度はフィルムに入った。
列車は長く走った。
山を抜け、田畑を越え、小さな町をいくつも通り過ぎる。
五十分を過ぎた頃、ようやく車内放送がルーメン到着を告げた。
女は帽子をかぶり直し、鞄を持って立ち上がった。
ティキも少し遅れて席を立つ。
ルーメンはミック探偵事務所の最寄り駅だ。
正確には、ルーメン駅南口の方から、歩くには少し遠い場所にある。
ティキは窓の外を見た。
ホーム。
売店。
煤けた駅名標。
見慣れた街の入口。
温泉街に車を置いたまま
ティキはそのことを一瞬心配した。
面倒なことになった。
ただし、仕事としては面白くなってきた。
女は改札を抜けると、駅前の公衆電話へ向かった。
ティキは柱の陰でそれを見ていた。
「さて」
口の端だけで笑う。
「ここからどこへ行く気だい」
しばらく待つと、駅前ロータリーへ高そうなハイヤーが滑り込んできた。
ティキの笑みが消える。
「……おいおい。お嬢様かよ」
自分の車は温泉街。
相手はハイヤー。
ここは縄張りなのに、なぜか一番不利な状況だった。
女は周囲を一度だけ見回し、車へ乗り込む。
扉が閉まる。
このままでは置いていかれる。
ロータリーの端に、客待ちのタクシーが一台あった。
運転手は座席を倒し、帽子を顔に乗せて寝ている。
ティキは迷わず駆け寄った。
窓を叩く。
こんこん。
こんこんこんこん。
運転手がびくりと跳ね、帽子をずらした。
「あいよ」
後部座席が開く。
「前の黒いハイヤーのあとを追いかけてくれ」
運転手は寝ぼけ眼でロータリーを見た。
「ああ、あれか」
「あれを追ってくれ。見失わない程度に。近づきすぎず、離れすぎず」
運転手の目が少し覚めた。
「刑事さんかい?」
「残念、探偵」
「へえ。楽しそうだ」
タクシーはティキを乗せ、乱暴にロータリーを出た。
前方で、黒いハイヤーが大通りへ入っていく。
ティキはシートへ深く座り、窓の外を見た。
女の行き先は、まだ見えない。
ただ、クロス・マリアンの夜に繋がる糸は、確かにこの黒い車の先へ伸びていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
道はだんだん狭くなり、人通りは少なくなっていく。
商店の匂いが消え、代わりに刈り込まれた植木と、濡れた土と、古い石塀の匂いが近づいてくる。
ある屋敷の前でハイヤーが速度を落とした。
長い鉄柵。
石造りの門柱。
奥へ続く、手入れの行き届いた私道。
「会長宅じゃねえか。何者だ、あの女」
ティキは思わず、座席の背から身体を離した。
黒いハイヤーは、長い鉄柵の門を抜け、千年伯爵邸の敷地へ入っていった。
タクシーは少し離れた木陰で停まることにする。
「ここでいい」
ティキは運転手へ紙幣を渡し、車を降りた。
門の向こうでは、女が屋敷へ向かって歩いている。
帽子を深くかぶったまま、振り返らない。
ティキは鉄柵越しにその背を見送った。
依頼人の屋敷。
そして、その中へ当然のように帰っていく、クロス・マリアンの女。
「……面倒なことになってきたねぇ」
そう呟いた時だった。
屋敷の脇、通用口のあたりから、白い影が小走りに出てきた。
洗濯籠を抱えた少年だった。
白い髪。
細い身体。
腰に巻いた白いエプロン。
ティキは目を細める。
「ん? あれは……」
見覚えがある。
ありすぎるほど、ある。
孤島のホテル。
嵐。
血の匂い。
爆発。
そして、その中心でいつも胃の痛そうな顔をしていた少年。
アレン・ウォーカーだ。
ティキは何食わぬ顔で鉄柵の端へ回り込んだ。
幸い、屋敷の塀沿いにはそれなりに高さのある植え込みが続いている。
手入れは行き届いているが、屈めば人ひとり隠れるくらいの高さだった。
ティキはそこへ身を滑り込ませる。
白髪の少年は、何も知らずに通用口の近くで洗濯籠を抱え直していた。
「おい!少年!」
一応小声で話しかける
「あー、忙し忙し……」
「おい!アレン・ウォーカー!!」
「え?」
アレンの身体が振り返る。
「なっ、何――」
叫びかけたアレンに、ティキは口に人差し指を当てて「静かにしろ」と合図を送る。
「ティキさん!?」
「静かにしろ、少年」
アレンの目が大きく見開かれる。
ティキは『来い来い』と手招きをし、アレンをフェンス近くに呼んだ。
「ティキさん!何してるんですか!?久しぶりですね」
「シッ!それは俺のセリフだ」
ティキは植え込みの陰に隠れろと『しゃがめ』と手でジェスチャーをした。
「少年こそ、ここで何してる!?」
「ぼ、僕はここで働いてるんですよ」
「下働きか」
「住み込みの家政夫です!」
アレンは小声のまま、きっちり訂正した。
「家賃も食費も浮きますし、条件がよかったんです。洗濯も掃除も配膳もします。下働きって言い方はやめてください」
「へえ。相変わらず苦労してるねぇ」
「借金がまだあるんですよ」
「苦労してんな少年」
「べ、別に苦労なんか!」
ティキは喉の奥で笑った。
しかし、その笑いをすぐに切り、屋敷の方へ顎をしゃくる。
「それで、今の女は誰だ」
「今の女?」
「今、中に入ってった女だ。帽子かぶってた」
「ああ」
アレンは当然のように答えた。
「ミランダお嬢様ですね」
「誰だそいつ」
「伯爵様の次女ですよ」
ティキは驚いた顔をする。
伯爵の次女──ミランダ。
そういえばノア商事に働いていた時、名前だけは伯爵から聞いたことがあった。
海外に留学しているとか何とか。
「戻ってきてたのか」
クロス・マリアンの妻・夢子の妹。
昨夜、旅館で奥様として扱われていた女。
点が、嫌な形で繋がる。
「マジかよ……」
ティキは低く笑った。
「ありがとよ」
そう言って、ティキはフェンスから1歩離れた。
「ちょっと、何なんですか急に。説明してくださいよ」
「仕事中でね」
「僕も仕事中です」
「なら戻りな。洗濯物、落とすぞ」
アレンは自分の足元を見た。
いつの間にか、籠の中のシーツが一枚、植え込みに引っかかっている。
「うわっ、もう!」
アレンが慌ててそれを拾う。
ティキはその横顔を見ながら、口元だけで笑った。
「……また会おうぜ少年」
ティキはアレンに投げキッスをする。
「ちょ…」
アレンは何か言い返そうとしたが、ティキの背中はもう、伯爵邸の外に向かっていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
数日後。
ミック探偵事務所の机の上には、現像済みのネガと焼き増しされた写真、それから報告書が並んでいた。
湯月楼。
松の間。
クロス・マリアン。
女の横顔。
千年伯爵邸へ入っていく黒いハイヤー。
もちろん温泉街へ置き去りにした車も、回収済み。
面倒な仕事は、ひと通り片づいている。
ティキは報告書の最後に目を落とした。
――対象女性、千年伯爵家次女ミランダ嬢と確認。
「…姉妹でかよ…洒落にならねぇな」
彼は黒電話の受話器を取り、会長室へ電話をかけた。
始めルルベルが出て、しばらくして、受話器の向こうから千年伯爵の声がした。
『ふぉっふぉっ。ティキぽん、結果が出ましたカ?』
「ああ。電話で話す内容じゃない」
『では、明後日、屋敷へお越しくだサイ』
「屋敷?」
『ちょうど家族で食事会をする予定がありマス。その日に、直接聞きまショウ』
ティキは机の上の写真を見た。
「……家族の食事会ねぇ」
『ええ。皆、揃いマス』
その言葉に、ティキは少しだけ黙った。
「分かった。明後日、伺うよ」
電話が切れる。
ティキは受話器を戻し、椅子の背にもたれた。
「会長も趣味が悪い」
机の上の写真が、黙ってこちらを見ていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
当日、ティキが千年伯爵邸に着いたのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
家族の食事会は夕方からだと聞いている。
それでも昼のうちに来たのは、あの報告を食卓の上で広げる気になれなかったからだ。
妻。
夫。
妹。
父親。
その全員が揃う席で、不倫の証拠写真を出すほど悪趣味ではない。
少なくとも、そこまでではない。
それに、もうひとつ目的があった。
アレン・ウォーカー。
あの白髪の少年が、この屋敷で住み込みの家政夫をしている。
ならば少し顔を見て、からかってやるくらいはしてもいい。
仕事のついでだ。
たぶん。
門柱の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして若い女(リナリー)が現れた。
黒髪をきちんとまとめ、白いエプロンをつけた、整った顔立ちの家政婦だった。
「どちら様でしょうか」
「ミック探偵事務所のティキ・ミック。会長に呼ばれてる」
女は一度、門扉の内側からティキを見た。
胡散臭い男を見る目ではあったが、表情には出さない。
「伺っております。どうぞ」
錠の外れる音がして、門扉が開いた。
ティキは軽く礼をして敷地へ入る。
門から玄関までの道は長かった。
両側には手入れの行き届いた芝生と、古い木々が並んでいる。
街の外れにある屋敷らしく、ここだけ時間の流れが少し違って見えた。
途中、庭の奥で梯子に上がっている男が目に入った。
高い枝を剪定している。
長い黒髪。
引き締まった背中。
刃物を扱う手つきに、余計な動きがない。
距離は五メートルほど。
顔がはっきり見えるほど近くはないが、ただの庭師にしては目を引く男だった。
その時、テラスの方から夢子が出てきた。
手には盆。
茶と小さな菓子を乗せている。
「そろそろ休憩したらいかがですか?」
柔らかい声だった。
庭師の男が、手を止める。
梯子の上から、ほんのわずかに彼女を見る。
ただそれだけだった。
だが、ティキはその一瞬を見逃さなかった。
夢子の方は、誰にでも向ける気遣いとして茶を持ってきたのだろう。
問題は男の方だった。
無愛想な顔。
短い反応。
それなのに視線には熱があった。
ティキは口元だけで笑い、何も言わず玄関へ向かった。
玄関では先ほどの家政婦が待っていた。
「会長は書斎にいらっしゃいます」
案内されたのは、玄関を入ってすぐ脇の部屋だった。
ティキは手土産の紙袋を家政婦に渡した。
中にはクロウリーの喫茶店のマドレーヌが入っている。
さすがのティキも手ぶらで来る真似はしないのだ。
扉が開くと、古い紙と磨かれた木の匂いが流れてくる。
高い本棚。
背のある窓。
重い机。
革張りの椅子。
壁には時計がいくつも掛かり、どれも別々の時間を抱えているように見えた。
千年伯爵は、奥の椅子に座っていた。
「ふぉっふぉっ。よく来ましたネ、ティキぽん」
「早く来ちまって悪いね」
ティキは封筒を片手に、部屋へ入った。
「こういう話は、食事会の場でするもんじゃないと思って」
言葉だけは殊勝だった。
ただ、声にはあまり反省がない。
伯爵はそれも含めて愉快そうに笑う。
「お気遣い、感謝しマス」
「気遣いってほど立派なもんじゃないけどな」
ティキが報告書の入った封筒を持ち替えた時だった。
窓の外の庭が目に入った。
さっきの庭師と夢子が、まだテラス近くにいた。
距離はここから十メートル先ほど。
何を話しているのかは分からないが、夢子が何かを言い、庭師の男が少しだけ顔を背けるのが見えた。
照れたのか。
面倒がったのか。
あるいは、その両方か。
ティキは数秒だけ、そちらに釘づけになった。
伯爵もつられて窓を見る。
「夢子お嬢さん、あの男と仲がいいんだな」
ティキがぽつりと言う。
伯爵は目を細めた。
「そうかい?夢子は誰にでもああだから」
「いや、男の方が……」
「庭師がどうかしたかね?」
「いや、少し……」
伯爵は愉快そうに肩を揺らした。
「彼は神田造園の神田くんだよ。腕のいい庭師デス。いい男だから妬いてるのかい?」
「は?」
「ダイジョウブデスヨ。ティキぽんの方がイイオトコデスヨ」
「いや、そうではなく……」
ティキは少しだけ顔をしかめた。
この男に説明するのは面倒だ。
それに、今は庭師の話をしに来たわけではない。
「まあいいや。これが報告書です」
ティキは封筒を差し出した。
伯爵がそれを受け取る。
ティキは言われてもないのに遠慮なくソファーに腰を下ろした。
客人らしく座る気は最初からなかったらしく、長い脚を組み、背もたれに身体を預ける。
伯爵が封筒の口へ指をかけた、その時。
扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
先ほど門で出迎えた家政婦が、盆を持って入ってくる。
香りのよい紅茶。
小さな焼き菓子。
白い磁器のカップ。
彼女は無駄のない手つきで机とテーブルへ茶を置いた。
ティキは軽く片手を上げる。
「どうも」
家政婦は控えめに頭を下げる。
清潔で、落ち着いていて、所作もきれいだ。
ティキはカップへ視線を落としながら、内心で思う。
白髪の少年。
庭師の男。
この家政婦。
伯爵は使用人を顔で選んでいるのか。
そう考えたところで、ティキはふと、自分がそれなりに失礼なことを思っていると気づいた。
まあ、口に出していないだけ上等だ。
家政婦が退室すると、部屋にはまた紙と木の匂いが戻った。
伯爵の指が、封筒の中身をゆっくりと引き出す。
ティキは紅茶を一口飲み、ソファーの上で薄く笑った。
伯爵は封筒から報告書を取り出した。
写真が数枚、机の上へ滑り出る。
湯月楼の《松の間》。
列車の窓に映った女の横顔。
ルーメン駅前のハイヤー。
それから、別の日に撮られた写真。
倶楽部の裏口。
夜更けのホテル。
灯りの落ちたロビーで肩を寄せる女たち。
その中心にいる、クロス・マリアン。
伯爵は無言だった。
分厚い指が、紙の端を押さえている。
報告書を一枚めくるたびに、その手が少しずつ震えた。
ティキはソファーにふんぞり返ったまま、紅茶のカップを持ち上げる。
「会長のとこの婿は、いい歳のクセしてまるで夜の帝王だな」
伯爵の肩が、ぴくりと動く。
「これなら婿は俺の方がマシだっつー話よ」
冗談のつもりだった。
だが、伯爵は笑わなかった。
報告書の一枚を握りしめる。
紙が、ぐしゃりと音を立てた。
「ミランダっ……」
低い声だった。
怒鳴り声より、よほど恐ろしい。
次の瞬間、伯爵は顔を上げた。
「リナリーーーー!」
屋敷中に響き渡るような声だった。
廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。
すぐに扉が開く。
先ほどの家政婦が、ほとんど飛び込むように入ってきた。
「はい! 旦那様! 何か!?」
伯爵は、握り潰した報告書を机の上へ置いた。
それから、妙に静かな声で言う。
「……ミランダを呼んでクダサイ」
リナリーは一瞬だけ目を瞬かせた。
「あ、えっと……ミランダお嬢様は、朝から出かけておられまして……」
伯爵の目が細くなる。
「何処にデスカ」
「それが……お友達とテニスをする約束をなさっていたとかで」
「……あの子に友達なんていたかね」
「…わかりません」
部屋の空気が、ゆっくり冷えていく。
ティキはその空気を、たいへんよく理解した。
これは、巻き込まれる。
しかも、かなり面倒な方向に。
彼は紅茶のカップを静かに置いた。
そして、音を立てないように立ち上がる。
「さーてと」
伯爵とリナリーの視線が、同時にこちらへ向いた。
ティキは何でもない顔で笑った。
「俺は探検でもしてこようかな」
そう言って、彼は書斎を出た。
背後では、伯爵がもう一度、潰れた報告書を開く音がした。
ティキは廊下へ出るなり、小さく息を吐いた。
廊下へ出た瞬間、二階から騒がしい足音が響いた。
どたどた、という遠慮のない音。
この屋敷の空気には、少し似合わない。
ティキが顔を上げると、上階から男の声が降ってきた。
「こら、待てって!」
続いて、軽くて悪戯っぽい女の子の笑い声。
次の瞬間、小柄な少女が階段を駆け下りてきた。
黒い髪。
大きな目。
人形のような顔立ち。
だが、動きは人形のようにおとなしくない。
階段の最後の数段を飛ぶように下り、そのまま廊下へ飛び出してくる。
ティキは避けようとしたが、間に合わなかった。
少女が胸元へぶつかる。
「おっと」
ティキは片腕で受け止めた。
上から、赤毛の男が慌てて追ってきた。
「その子! 捕まえといてさ!」
「ん?」
ティキが聞き返すより早く、少女はするりと腕の中から抜け出した。
「やーだよ!」
笑いながら、廊下を走る。
赤毛の男は階段の途中で手すりに掴まり、息を切らしていた。
「ロード! 今日の課題まだ半分も終わってないさ!」
「半分やったなら偉いじゃん!」
「残り半分が問題なんだって!」
ティキはそのやり取りを見て、口元だけで笑った。
家庭教師か。
そして、あれが伯爵家の三女。
家の中というものは、外から見るよりずっと騒がしい。
ロードは居間を駆け抜けた。
ラビが追う。
ティキはそのふたりが面白そうだったから、その後を着いていくことにした。
ロードはダイニングを抜け、そのままキッチンへ飛び込んだ。
「わっ、ロード様!?」
中からアレンの声がした。
次の瞬間、がしゃん、と何かが鳴る。
ティキがキッチンの入口まで来ると、そこは小さな混乱の真っ最中だった。
広い調理台。
並べられた皿。
下ごしらえ中の肉。
そして、デミグラスソース用のブイヨンを煮込む鍋。
その真ん中で、アレンが片手に肉叩きを持ったまま固まっていた。
もう片方の手には、半分ほど齧られたマドレーヌ。
ティキは目を細める。
「少年」
アレンの肩がびくりと跳ねた。
「な、何ですか」
「仕事中に盗み食いかい」
「違います! これは、その、毒見です!」
「マドレーヌを?」
「貴方からの物なら毒味をね。ちゃんとしないと!」
「毒味ねえ。便利な言葉だねぇ」
アレンが言い返そうとした瞬間、ロードがその横をすり抜けようとした。
ラビが反対側から回り込む。
「はい、そこまで!」
「捕まらないよ!」
ロードが身をひねる。
その拍子に、アレンの肘へ軽くぶつかった。
「あ」
アレンの手から、マドレーヌが飛んだ。
小さな焼き菓子は、ゆるい弧を描き、調理台の上へ落ちる。
ちょうど、下ごしらえ中の鍋の中に。
ぽとん。
アレンの顔から血の気が引く。
「……あ」
ティキは黙ってそれを見ていた。
ラビとロードは気づかずキッチンからダイニングへ鬼ごっこの続きをしている。
「落ちた」
アレンは慌ててマドレーヌをおたまで掬った。
「こ、これぐらいだ、大丈夫ですよね!少しブイヨンに溶けちゃいましたけど!」
「それ、今晩出されるんだよね?」
ティキが言うと、アレンはさらに慌てた。
「使います! 使いますけど、ちゃんとします! 厨房で働いた経験もありますから!」
「少年、どこでも働いてんな」
「生きるためです!」
ティキは調理台の上を見た。
先程自分がリナリーに預けた紙袋が置かれている。
ティキは、ほんの少しだけ眉を上げた。
クロウリーの店で買ったマドレーヌ。
手土産のつもりだった菓子。
伯爵家のキッチン。
晩餐の仕込み。
その組み合わせに、今はまだ何の意味もない。
少なくとも、この時のティキはそう思っていた。
「少年」
「今度は何ですか」
「メニューはなんだ?」
「黒部和牛のフィレステーキですよ」
「おお!美味いもん作れよ!」
そう言ってティキは笑い、キッチンの入口から身を引いた。
一階にはロードの笑い声と、ラビの情けない声が響いている。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
キッチンから離れたティキは、そのまま屋敷の奥へ向かった。
ロードの笑い声と、ラビの情けない声はまだどこかで続いている。
伯爵の怒気が漂う書斎へ戻る気にもなれない。
ならば、屋敷の中を少し見て回ろうと思った。
廊下の突き当たりに、裏庭へ出る硝子戸があった。
外へ出ると、午後の光が芝生の上に落ちている。
よく手入れされた庭だった。
花木は種類ごとに高さを揃えられ、低い植え込みは波のように刈り込まれている。
白い花をつけた低木の奥には、古い園芸用の倉庫が見えた。
ティキは煙草を咥えかけて、やめた。
ここで吸えば、あの庭師に睨まれそうな気がした。
その時、倉庫の扉が内側から開いた。
先に出てきたのは神田だった。
片手には剪定鋏。
もう片方の手には、肥料か、薬剤か。瓶が入った木箱。
続いて、夢子が出てくる。
「ありがとう。あなたに相談してみて良かったわ。帰ったら試してみますね」
彼女は小さな籠を抱えていた。
中には、花の苗が所狭しと並んでいた。
どうやら休憩は終わり、作業の続きをするようだ。
ただ、それにしては距離が近い。
神田が倉庫の戸を閉めようとした時、夢子の髪に小さな葉が引っかかっているのに気づいた。
彼は黙って手を伸ばす。
夢子が少し驚いた顔で立ち止まる。
神田は何も言わず、彼女の髪から葉を取った。
それだけだった。
だが、ティキには伝わった。
「へえ」
小さく笑う。
声に気づき、神田がこちらを見た。
目つきが鋭い。
夢子も振り返り、少し驚いたように目を丸くする。
「ミックさん……?久しぶりです!」
ティキは軽く片手を上げた。
「どうも。お邪魔だったかな」
神田の眉間に皺が寄る。
「誰だ、てめぇ」
「客だよ。会長に呼ばれてね」
夢子が慌てて神田へ向き直る。
「神田さん。この方は、以前ノア商事の創立記念パーティーでお会いしたことがある方です」
「ああ?」
「ミックさんです」
「ティキでいいよ」
「で、ミックさん、こちらが神田造園の神田さんです」
「よろしく」
ティキは笑って言ったが、神田はまったく笑わなかった。
むしろ、剪定鋏を持ったままのせいで、かなり物騒に見える。
ティキは神田の手元へ目を落とした。
「庭仕事ってのは、思ったより危ない道具が多いんだな」
「触るなよ」
「触らないさ。怒られそうだし」
神田は短く鼻を鳴らし、木箱を倉庫脇の台へ置いた。
瓶の中身までは見えない。
ただ、薬剤の匂いが薄く漂った。
夢子が少し困ったように笑う。
「神田さんは、お庭の手入れをとても丁寧にしてくださるんです」
「へえ」
ティキは神田を見た。
神田は夢子を見ていなかった。
いや、見ないようにしていた。
それがかえって、見ているより分かりやすい。
ティキは口元だけで笑う。
「会長も同じことを言っていたよ」
神田が睨む。
「何が言いてぇ」
「おー、怖」
ティキは肩をすくめた。
「花も木も、手をかけた分だけ正直に育つって聞いたことがある。人間より扱いやすそうだ」
神田は答えなかった。
夢子はその言葉に、少しだけ目を伏せる。
その沈黙を、ティキは見た。
ふたりきりの倉庫。
そして、彼女を見る男の目。
面倒ごとの匂いは、屋敷の中だけではなかった。
ティキは、夢子の抱えた籠へ視線を落とした。
黄色い花の苗が、陽を受けて明るく揺れている。
ひまわりとマリーゴールド。
「夢子さん」
「はい?」
「その苗の花言葉、知ってるかい?」
夢子は籠の中を見下ろし、少し不思議そうに首を傾げた。
「……いえ。すみません、知らなくて」
「ひまわりは、“あなただけを見つめてる”」
ティキは口元だけで笑う。
「マリーゴールドは、“変わらぬ愛”だ」
夢子が、ぱちりと瞬きをした。
「そうなんですか……」
その声は、普通に驚いているだけだった。
花の意味を、自分へ向けられたものだとは思っていない。
だが、神田の指が、ほんのわずかに動いた。
剪定鋏を持つ手が一瞬だけ。
ティキはそれを見た。
「へえ」
小さく笑う。
「いい苗を選ぶねぇ、神田くん」
神田の目が鋭くなる。
「……」
夢子は何のことか分からず、二人を交互に見た。
「え?」
その鈍さが、また残酷だった。
神田は顔を背ける。
夢子は籠を大事そうに抱え直す。
ひまわりとマリーゴールドは、何も知らない顔で、午後の光の中に揺れていた。
「じゃあ俺はこれで。夢子さん、また後で」
ティキは軽く手を振り、そう言って、庭の奥へ歩き出す。
背後で、夢子が神田に何かを言った。
神田の返事は短く、低い。
内容までは聞こえない。
ただ、あの男が夢子に無関心でないことだけは確かだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
庭を一周したあと、ティキは屋敷の中へ戻った。
午後の光を浴びたひまわりとマリーゴールドの色が、まだ目の奥に残っている。
あなただけを見つめてる。
変わらぬ愛。
花というものは、時々、人間よりよほど正直だ。
そして、正直すぎるものは面倒を呼ぶ。
ティキは廊下を歩きながら、ふと階段の脇にある扉へ目を留めた。
半地下へ続く狭い階段。
上階の客間へ向かうものとは違う、使用人のための動線だった。
「へえ」
探検、と言った手前、行かない理由はない。
ティキは何食わぬ顔で階段を下りた。
地下は涼しかった。
石の床。
低い天井。
壁に沿って並ぶ木棚。
上の階の華やかさとは違い、ここには屋敷の胃袋のような匂いがある。
酒。
木箱。
古い紙。
乾いた布。
保存食。
奥にはワイン棚があった。
瓶の首に、年代を書いた札が下がっている。
いくつかは埃をかぶり、いくつかは磨かれていた。
ティキは一本のラベルを覗き込む。
「ヒュー」
口笛を吹きそうになって、やめた。
「さすが会長。いいもの揃えてるねぇ」
棚の反対側には、銀食器の箱が積まれていた。
燭台。
大皿。
客用のカトラリー。
白いテーブルクロスは、布袋に包まれて棚へ収められている。
食事会の表に出るものは、どれもここで静かに出番を待っているらしい。
ティキはさらに奥へ進んだ。
瓶詰めの果物。
香辛料の缶。
輸入物らしいチーズの木箱。
乾物。
客用の椅子。
古い調度品。
金持ちの屋敷は、見えない場所まで物が多い。
「持ち主がいなくなっても、物だけは残るって顔してるな」
そう呟いた時だった。
背後で、小さな悲鳴が上がった。
「きゃっ!」
ティキが振り返る。
入口に、リナリーが立っていた。
地下倉庫へ何かを取りに来たのだろう。
誰もいないはずの地下倉庫に、背の高い男がひとり立っていれば、驚くのも無理はない。
「お客様、ここで何を……」
リナリーの声には、礼儀と警戒が半分ずつ混じっていた。
ティキは悪びれずに片手を上げる。
「探検」
「探検、ですか」
「会長にもそう言ってある」
「旦那様が許可を?」
「止められてはいないね」
「それは、許可とは少し違うと思います」
「細かいねぇ」
リナリーは一度、息を整えた。
「ここは使用人が出入りする場所です。お客様がお一人で来られる場所ではありません」
「ごもっとも」
「戻られますか?」
「もう少しだけ」
ティキはワイン棚の方へ顎をしゃくった。
「いい酒がある」
「お持ちにならないでくださいね」
「信用ないな」
ティキは笑った。
この屋敷の使用人は、どいつもこいつも真面目で、遠慮がない。
「君は住み込み?」
何気ない調子で聞くと、リナリーは少しだけ首を振った。
「いいえ。私は通いです」
「へえ」
「朝から夕方まで。食事会のある日は、少し遅くまで残ります」
「じゃあ、住み込みは少年だけか……」
リナリーの目がわずかに動いた。
「アレンくんをご存じなんですか?」
「少しね」
「また、あの子が何か?」
「いや。元気そうで安心しただけ」
「……そうですか」
完全には信じていない顔だった。
ティキは棚に並ぶ食器箱を見ながら、軽く言う。
「若いのに働き者だよね彼」
「ええ。とても助かっています」
リナリーの声は素直だった。
「少し危なっかしいところはありますけど、真面目な子です」
「真面目すぎて面倒ごとに巻き込まれる顔してる」
「……それは、少し分かります」
リナリーは小さく困ったように笑った。
その笑い方は、門で見た時より少し柔らかい。
だが、次の瞬間にはもう家政婦の顔に戻っていた。
「そろそろ戻りましょう。旦那様に見つかると、私が叱られます」
「俺じゃなくて?」
「どうでしょう」
地下倉庫の奥には、まだいくつかの棚がある。
鍵のかかった小さな戸棚も見えた。
「あれは何?」
「あれは、洗剤や薬剤類です。危ないので、鍵をかけています」
「へえ。それじゃあゴキブリが出た時には間に合わないね」
「そうですね」
ティキは大人しく階段の方へ歩き出した。
「案内どうも」
「案内したつもりはありません」
「でも助かった」
リナリーは答えず、ナプキンの束を抱えて階段を上がった。
ティキはその背を見ながら、心の中でひとつ書き足す。
――リナリー。通いの家政婦。
――アレンは住み込み。
――地下倉庫、食事会用品保管。ワイン多数。
探偵の探検は、ただの暇つぶしでは終わらない。
少なくとも、本人はそういうことにしていた。
地下倉庫から階段を上がると、半地下の短い廊下に出た。
上階へ続く階段とは別に、細い通路が奥へ伸びている。
光は少なく、装飾品の並ぶ廊下とは違って、ここには生活の匂いがあった。
ティキは通路の途中にある小さな扉へ目を向けた。
「ここは?」
リナリーが振り返る。
「そこはアレンくんの部屋です」
「へえ」
ティキは一瞬だけ扉を見た。
そして、すぐに興味を失ったように視線を外す。
「じゃあいいや」
リナリーが少し眉を上げる。
「ぷっ。ここは入らないんですか?」
「少年の部屋を覗いても、面白いものはなさそうだしな」
「確かに」
「だろ?」
ティキは軽く笑った。
「俺にも一応、線引きってもんがある」
リナリーは、地下倉庫を勝手に歩き回っていた男をじっと見た。
「……その線は、ずいぶん変な場所に引かれているんですね」
「よく言われる」
ティキは悪びれもせず、階段の方へ歩き出した。
背後の小さな扉の向こうで、住み込みの少年がどんな顔で寝起きしているのか。
それを想像しても、役には立たない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
玄関の方に戻り、広い階段を上がる。
厚い絨毯が足音を吸い、扉はどれもきちんと閉ざされている。
ここから先は、客を迎えるための家ではなく、家族が暮らすための場所なのだろう。
とりあえず1番手前のドアノブに手をかけた。
花の意匠が彫られた扉。
真鍮の取っ手。
鍵穴の周りだけ、他の扉よりわずかに磨かれている。
「……ここはなんだろうねえ」
その瞬間、背後から声が飛んだ。
「ちょ、そこ、ロードのお姉さんの部屋だけど、何してんの?」
ティキはゆっくり振り返った。
廊下の向こうに、赤毛の男が立っていた。
さっき階段でロードを追いかけていた家庭教師だ。
片手に本、片手にノート。
顔には、露骨に怪しい客を見つけた時の笑みが浮かんでいる。
ティキはドアノブから手を離した。
「道に迷ってね」
「ドア開けたら道が続いてるタイプ?どこでもドアじゃあるまいし」
「金持ちの屋敷なら、そういうこともあるかと思って」
「ないさあ」
その時、近くの部屋の扉が勢いよく開いた。
「なになに? 何してるの?」
ロードだった。
小柄な身体をひょいと覗かせ、大きな目でティキを見上げる。
ティキは片手を上げた。
「探検」
「へえ。楽しそうだね!私の部屋まだだよね?部屋くる?」
「いや、俺は別に」
「来なよ」
「俺は別に」
「来なよ」
二度目は低い声で命令に近かった。
ラビが横から肩をすくめる。
「諦めた方がいいさ。この子、一回決めたらしつこいから」
「家庭教師が止めなよ」
「俺が止められるなら、さっき廊下走ってないさ」
もっともだった。
ロードはティキの腕を掴む。
「ほら、こっち」
「まじかー」
ティキは苦笑しながら、ロードの部屋へ連れていかれた。
部屋は、少女の部屋というには少し広すぎた。
大きな窓。
ふりふりのカーテン。
壁際には本棚。
机の上には開きっぱなしの教科書と、途中で放り出されたノート。
ベッドの上には人形がいくつも並び、どれもこちらを見ているようだった。
ティキは部屋へ入るなり、本棚へ目を向けた。
「いい部屋だねぇ」
「でしょ」
ロードは得意げに笑う。
ラビは机の上のノートを拾い上げ、ため息をついた。
「でしょ、じゃないさ。続きをやるぞ、続き」
「やだ」
「やだじゃない。食事会までにこの問題だけは終わらせる約束だろ」
「ラビが代わりに解いて」
「家庭教師の意味がないさ」
ロードは椅子に座ると、ふてくされた顔で頬杖をついた。
ティキは窓際の椅子へ腰を下ろした。
「俺、邪魔じゃないかい?」
「邪魔じゃないよ」
ロードが即答する。
「おじさん、なにか面白い話して」
「お、おじさん…」
ティキは少々驚きつつも、喉の奥で笑う。
「面白い話ねえ…」
「ロード。早く続きやろうさぁ」
「聞きながらやるもん」
「ほんとに?」
「ホント」
「わかったさ、じゃあ、おじ……お兄さん、名前なんだっけ?俺は家庭教師のラビ」
ロードは鉛筆をくるくる回しながら、偉そうにティキを見る。
「俺は会長んとこの元社員の、ティキ・ミック。よろしくな。」
「私はロード。よろしく」
「さあ、ティキさん、この子の為に面白い話をしてくれ!」
ティキは「はいはい」と笑いながら、何の話をしようか考えた。
「ある男が不倫相手を自宅に連れ込んでピーッしてる時に、妻が帰ってきて、〇痙攣が起きて救急車で運ばれた話はどうだ?」
「わーい楽しそう!聞かせて!」
「待て待て、そんなの子供には聞かせられませんけど!?」
「やっぱりダメか…」
「えー、ラビのケチ」
ティキは何となく本棚の背表紙を眺めた。
『面白すぎて時間を忘れてしまう毒の世界』
『元祖毒の図鑑』
『すごい毒の生き物図鑑』
『ヤバすぎる毒の図鑑』
「毒…興味があるの?」
「うん」
ロードはにやにや笑いながら、ノートへ数字を書いている。
「それ。見ていいよ」
「ありがとう」
ティキは1冊を手に取り、ページをめくった。
ラビは椅子に座り、ロードのノートを覗き込む。
「そこ、計算違う」
「違わない」
「違う」
「ラビの目が怖い」
「怖くない」
ティキは本棚の前で薄く笑った。
騒がしい。
だが、悪くない。
伯爵の怒り。
クロスの不倫。
ミランダの嘘。
神田の視線。
薬剤。
キッチンの鍋に落ちたマドレーヌ。
それらを少しだけ遠ざけるように、この部屋だけは子供じみた声で満ちている。
食事会までの時間は、まだある。
ティキは暇つぶしのために毒の本を読み耽った。
「ティキぽん楽しい?」
ロードが顔を上げて尋ねてくる。
「ぽ、ぽん?」
「そう。ティキぽん」
伯爵も"ティキぽん"と呼ぶ。
この親子は全く。
ティキは深くため息をついた。
ロードが笑う。
ティキは苦笑いを浮かべたまま、ページをめくった。
騒がしい家庭教師と、賢くて悪戯好きな少女。
その横で、客人のふりをした探偵は、食事会の時間が近づくまで、ここで過ごすことになった。
つづく、2026/07/23
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