マーダーミステリーD~灰色の晩餐会
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夕方近くになって、クロスはようやく農場を出た。
長靴から革靴へ。
畑にいた時の顔を脱ぎ、また街の男の顔に戻る。
リンクが車を回す。
コソコソとティキも車へ戻った。
「さあ、次はどこだ?」
黒塗りの車は農場を出る。
だが、来た道を戻らなかった。
山の方へ向かう。
道は緩やかに曲がり、やがて温泉街へ入った。
古い旅館の看板。
湯気の立つ側溝。
土産物屋の軒先に吊るされた提灯。
夕暮れの空気には、硫黄の匂いが薄く混じっている。
都会の喧騒から離れた、静かな土地だった。
農場を視察した社長が、その足で近くの宿に泊まる。
それ自体は、少しもおかしくない。
仕事かもしれないし、会食かもしれない。
ただ身体を休めるだけかもしれない。
黒という言葉は、まだ早い。
ただ、クロス・マリアンという男は、何もかもが少しずつ綺麗すぎた。
妻へ渡す花束。
額への口づけ。
会社での振る舞い。
農場で見せた仕事の顔。
綺麗に整えられたものほど、その裏側に何かを隠す。
ティキはハンドルに片肘をつき、前方の車を見失わないように目を細めた。
黒塗りの車は、やがて大きな旅館の前で停まった。
《湯月楼》
古い木造の門構え。
磨かれた石畳。
玄関先には、白い暖簾が静かに揺れている。
クロスが車を降りた。
旅館の女将らしき女が出迎え、深く頭を下げた。
初めての客を迎える距離ではなかった。
ティキはすぐには動かなかった。
尾行とは、対象に近づく仕事ではない。
近づきすぎず、離れすぎず、相手の油断だけを拾う仕事だ。
三分。
五分。
七分。
クロスの姿が完全に宿の中へ消え、リンクが車を移動させたのを確認してから、ティキはようやく自分の車の後部座席へ身体をねじ込んだ。
狭い車内で上着を脱ぐ。
肘を窓にぶつける。
悪態を飲み込む。
皺にならないよう一応は気を遣っていたスーツを、新聞紙の下から引っ張り出す。
ノア商事にいた頃のスーツだった。
仕立ては良い。
布も良い。
見る者が見れば、安物でないことくらいすぐに分かる。
ただし、煙草臭い。
この一年で、このスーツは出世の匂いを失った。
代わりに、安酒と煙草と、張り込み中の埃を吸う服になっていた。
人間が落ちぶれる時、服も一緒に落ちぶれる。
「悪いな」
ティキは狭い車内でネクタイを締めながら呟いた。
「お前も今じゃ、変装道具だ」
窓硝子に映る自分を見る。
金を持って生まれ、金を雑に使い、金でどうにかなる場面をいくつも渡ってきた男の胡散臭さには見える。
最後に、ティキは左手首の腕時計を指で拭った。
それだけは立派な品だった。
ノア商事にいた頃、まだ自分の人生がもう少しましな方向へ転がると信じていた時期に買ったものだ。
今のティキには不釣り合いな時計だったが、不釣り合いだからこそ役に立つ。
安い嘘は、安い小物から破れる。
逆に、ひとつだけ本物があれば、人はそこから勝手に物語を補う。
金持ちの家の道楽息子。
仕事はできるが素行が悪い男。
身内の顔に泥を塗りながら、それでも追い出されきらない人間。
帳場の男にそう見えれば、それでいい。
「よし」
ティキは腕時計の位置を直した。
彼は車を降りた。
門をくぐると、石畳には夕方の湿り気が薄く残っていた。
白い暖簾が、風もないのに少しだけ揺れる。
帳場には、細い目をした男が座っていた。
年の頃は十代にも見え、二十代にも見える。
帳場を任せられるということはもっと歳は行っているかもしれない。
恐ろしく童顔で背の低い男。
しかし、客の懐具合を一目で量る目を持っている。
「いらっしゃいませ」
男は頭を下げた。
「お一人様でございますか」
ティキは、わざと少しだけ困った顔を作った。
「いや、連れが先に来てるはずなんだが」
帳場の男の目が、わずかに動く。
「お連れ様のお名前を頂戴できますか」
「クロス・マリアン」
その名を出した瞬間、帳場の男の顔に、ほんの薄い理解が走った。
ティキはそれを見逃さなかった。
「義兄だよ」
「……義兄様でございますか」
「そう。奥さんと一緒に来てるだろ?それ、俺の姉」
帳場の男は、一拍置いた。
「クロス様の奥様は、すでにお部屋でお待ちでございます」
ビンゴ。
ティキは心の中で口笛を吹いた。
ただ、奥さんと言っただけだ。
それなのに、帳場の男は迷わなかった。
夢子は家にいるはずだ。
旅館側は、クロスが連れてくる女を妻として扱っている。
あるいは、妻として扱うことにしている。
どちらにせよ、この宿の中では、そういう物語がすでに出来上がっている。
ティキは困ったように笑った。
「参ったな。義兄たちと会う約束をしてたんだが、こっちで部屋を取るのを忘れててね」
帳場の男の目が、さらに細くなる。
「それでしたら、クロス様へお取次ぎいたしましょうか」
「いや、それは困る」
「困る?」
「姉に叱られる」
ティキはもっともらしく肩をすくめた。
「家庭内の話だよ。こっちにも面子がある。いい歳した弟が、宿の手配ひとつ忘れたなんて知られたら、明日の朝食の席で何を言われるか分からない」
帳場の男は、黙ってティキを見た。
その視線が、スーツの襟元を通り、少し乱れた髪を通り、左手首の腕時計で止まる。
時計だけは、嘘をついていなかった。
宿屋の帳場に座る人間は、人の持ち物を見る。
靴。鞄。財布。時計。
それらは、言葉よりも正直に客の種類を語る。
この男は怪しい。
だが、金のない男の怪しさではない。
育ちの悪い男の怪しさでもない。
金を持って生まれ、金を雑に使い、最後は金で帳尻を合わせることに慣れている男の怪しさだった。
だからこそ、帳場の男はすぐには追い返さなかった。
「本日は少々混み合っております」
「少々なら、まだ余地があるな」
「……どのようなお部屋をご希望で?」
ティキは一拍置いた。
「できれば、義兄たちの近くがいい」
「近く、でございますか」
「ああ。明日の予定もある。農場の話もあるしね」
「《松の間》だったな…」
言った。
それは独り言だったが、はっきりと聞こえた。
帳場の男は、言ってから自分の言葉を少しだけ悔いたように見えた。
ティキはそれも見た。
「なら、その隣は?」
「隣室は、本来空けておく予定でございます」
「なぜ?」
「お得意様ですので」
「なるほど。気遣いか」
「そういうことでございます」
ティキは懐へ手を入れた。
伯爵から受け取った前金の一部が、そこにある。
数枚抜き、帳場の上へ置く。
紙幣は、旅館の灯りを受けて静かに白く見えた。
「急なわがままへの礼だ」
帳場の男は紙幣を見た。
見ていないふりをしながら、確かに見た。
「当館では、そのようなものは」
「部屋代を上乗せしただけだ。名目なら、そっちで考えてくれ」
「……お客様」
「俺は、騒がない。迷惑もかけない。宿に損はさせない。君は俺のことを姉にも義兄にも、黙っておく。」
帳場の男は長く黙った。
湯の流れる音だけが、廊下の奥からかすかに聞こえてくる。
やがて男は、静かに台帳をめくった。
「隣の《竹の間》を、ご用意します」
「助かる」
「ただし」
男は鍵を取る前に、ティキをまっすぐ見た。
「絶対に騒動を起こさないでくださいね」
「起こさないよ」
「絶対に、です」
「しつこいねぇ」
「しつこく申し上げる必要がありそうなお客様ですので」
ティキは笑った。
その評価は、おそらく正しい。
帳場の男は、木札のついた鍵を取り出し仲居に声をかける。
「ご案内いたします」
男の後ろの暖簾から仲居が鍵を受け取り、ティキの前へやってきた。
ティキはその後に続く。
廊下は長く、古い木の匂いがした。
畳に染み込んだ湯気の匂い。
磨かれた柱。
障子の白。
どこかで水が流れている。
階段を登り《竹の間》に近づく時、ティキは足を少しだけ緩めた。
隣の松の間の襖は閉まっている。
声は聞こえない。
ただ、部屋の前には男物の靴が一足と、その脇に、小さな女物の草履が揃えて置かれていた。
ティキは視線だけを落とした。
仲居が振り返る。
「お客様?」
「いや」
ティキはすぐに顔を上げる。
「いい宿だと思ってね」
「ありがとうございます」
仲居は部屋の前で鍵を開け、襖を引いた。
「こちらでございます」
畳。
座卓。
床の間。
窓の外には、湯気の上がる中庭が見える。
静かな宿の、静かな部屋だった。
「お食事はいかがなさいますか」
「できるの?」
「ええ」
「ならお願い」
仲居は一礼した。
襖が閉まり足音が遠ざかる。
ティキはしばらく立ったまま、隣室との壁を見た。
それから、小さく笑う。
隣の部屋には、男物の靴と女物の草履。
中には、クロス・マリアン。
そして、おそらく女が一人。
証拠と呼ぶには、あまりに弱い。
「問題は」
ティキは畳に腰を下ろし、壁へ耳を寄せた。
「どうやって証拠に残すか、だな」
その向こうで、誰かが低く笑った。
クロス・マリアンの声だった。
ティキは壁に耳を寄せたまま、動きを止めた。
聞こえる。思ったより、はっきりと。
古い木造の旅館だった。
この時代の旅館は、壁は薄く、天井も床も、2020年代のホテルのように客の秘密を遮るためには作られていない。
廊下で業務連絡をする仲居の声も、湯の流れる音も、隣室で盃が置かれる小さな音も、木と畳を伝ってこちら側へ滲んでくる。
断片的ではあったが、声は届いた。
「……農場の方は、今年も悪くない」
クロスの後に女の声がした。
細く、柔らかい。
どこか怯えているようにも、甘えているようにも聞こえる声だった。
「それなら、よかったです」
ティキは目を細めた。
少なくとも、帳場の男が奥様と呼んだ夢子以外の女が、この壁の向こうにいる。
彼は座卓の上の湯呑みに一度目をやった。
古典的に、あれを壁へ当てる手もある。
だが、やめた。
この宿は、客の秘密を守るには少し古すぎた。そして、人の嘘を運ぶには少し正直すぎた。
ティキは壁から耳を離す。
女がいることは、間違いない。
だが、声だけでは足りない。
口から出る言葉だけでは証拠にならない。
伯爵に差し出すには、もっと硬いものがいる。
紙に焼きついたもの。
誰が見ても、目を逸らせないもの。
ティキは懐から中古のハーフサイズカメラを取り出した。
その時、隣室で女が小さく笑った。
それは夢子の笑い方ではなかった。
会社の設立パーティーで聞いた笑い声では無い。
「……写真が要るな」
ティキは低く呟いた。
そして、ふと窓へ目を向けた。
ティキは窓を開けた。
山の夜気が、畳の上へ流れ込んでくる。
硫黄の匂い。
湿った木の匂い。
遠くで湯が落ちる音。
下を覗く。隣を見る。
ここは三階だ。
落ちれば、証拠を掴む前に自分が事件になる高さだ。
「……探偵ってのは、つくづく割に合わねぇな」
そう呟きながらも、ティキの手つきに迷いはなかった。
カメラを懐の内側へ固定する。
ネクタイを少し緩め、スーツの裾を邪魔にならない位置へ押さえる。
煙草臭い高級スーツ。
立派な腕時計。
中古のハーフサイズカメラ。
どれも、この場所には似合っていない。
ただ、ティキ・ミックという男だけは、奇妙なほど夜に馴染んでいた。
彼は窓枠に手をかけ、するりと外へ身を滑らせた。
足先が細い庇を捉える。
木は古く、幅も狭い。
人が歩くために造られた場所ではない。
だが、ティキはそこへ体重をかけないように器用に片手で柱を取り、肩を壁に寄せ、足裏ではなく足先で重さを逃がす。
庇の上を歩くというより、建物の継ぎ目を利用して横へ流れていく。
その動きは、思いのほか静かだった。
毎日グータラしていても、身体の使い方までは錆びていない。
落ちぶれた男にも、落ちぶれていない部分はある。
ティキの場合、それは悪運と、身のこなしだった。
隣の《松の間》から、女とクロスの笑い声が聞こえる。
ティキは柱の影に身を沈める。
左手首の腕時計が、宿の灯りを一瞬だけ拾った。
彼は反射的に袖でそれを隠す。
こんなところで時計に裏切られるのは御免だった。
《松の間》の窓が近づく。
ラッキーなことにカーテンは閉められていない。
(ここからの眺め、いいもんな)
三階の得意客用の部屋。
隣室は本来空けてある。
旅館の者は口が堅い。
外から覗く馬鹿がいるなど、クロス・マリアンは考えもしなかったのだろう。
ティキは窓の外、格子の影に身を寄せ、ゆっくりと視線を上げた。
部屋の中はもちろん明るかった。
座卓。
料理の膳。
徳利。
二つの盃。
そして、部屋の中央に立つ二人の影。
クロス・マリアンは女を、背後から抱いていた。
女の首筋に顔を埋め、甘えるように何か囁いている。
女は浴衣姿で満更でも無くクロスの手に自身の手を添えていた。
顔は横を向いている。
髪が頬にかかり、はっきりとは見えない。
ティキはカメラを構えた。
息を止める。
フラッシュは使えない。
光らせれば終わりだ。
頼れるのは、部屋の灯りと、手ぶれしない自分の指だけだった。
一枚。
シャッターの音は小さかった。
それでも、夜の中ではやけに大きく感じる。
クロスは気づかない。
女が、わずかに顔を上げた。
クロスがその耳元へ何かを囁く。
女の肩が小さく震える。
ティキはもう一度、シャッターを切った。
妻ではない女を背後から抱くクロス・マリアンの姿は、確かにそこに焼きつけた。
これは少なくとも、ただの会食では通らない。
ティキは小さく息を吐いた。
その時、室内のクロスがふと顔を上げた。
ティキは身を引っ込めた。
身体を壁に沿わせたまま、影の一部になる。
呼吸すら浅くする。
クロスの視線が窓の外を撫でる。
だが、そこに人間がいるとは思わなかったのだろう。すぐに女へ視線を戻した。
ティキは音もなく身を引く。
来た時と同じように、庇へ体重を預けず、柱と壁の継ぎ目を拾いながら部屋へ戻ることにした。
その動きは静かだった。
静かではあったが、建物の方にまで気遣いを求めるのは無理があった。
足元の木が、みし、と小さく鳴る。
「……」
ティキは一瞬止まった。
隣室の中に動きはない。
助かった。
そう思った、その時だった。
《竹の間》の襖の向こうから、仲居の声がした。
「お客様、お食事をお持ちしました。失礼いたします」
まずい。
非常にまずい。
今、部屋の中には誰もいない。
正確には、部屋の外にいる。
三階の外壁に、煙草臭い高級スーツの男が張りついている。
ティキは心の中で、さっき帳場の男に言われた言葉を思い出した。
絶対に騒動を起こさないでくださいね。
彼は少しだけ速度を上げた。
そのせいで、庇がもう一度鳴った。
みし。
「おい」
今度は小さく声が漏れた。
襖の向こうで、仲居が不思議そうに間を置く。
「……お客様?」
ティキは窓枠に手をかけ、身体を滑り込ませた。
畳の上へ降り立つ。
窓枠が、かた、と鳴った。
襖の向こうで、仲居の声が少し硬くなる。
「お客様? 失礼いたしますよ?」
「待っ――」
彼は素早く襖へ近づき、ほんの少しだけ開けた。
仲居が目を丸くする。
ティキは人差し指を唇に当てた。
「しーっ」
仲居は一瞬だけ固まった。
それから、何かを察したように、声を落とす。
「……失礼いたします」
ティキは小さく頷き、襖を開けた。
仲居は膳を持って、静かに部屋へ入ってくる。
部屋は暗い。
外の灯りが、窓辺から薄く差し込んでいるだけだった。
仲居は座卓の前で膝をつき、料理を並べようとして、ふと顔を上げた。
小声で尋ねる。
「お客様、電気をお付けいたしましょうか?」
ティキは両手を振った。
全力で振った。
駄目だ。
絶対に駄目だ。
声に出さず、顔と手だけでそう訴える。
仲居の目が、さらに細くなる。
「……お付けしない方がよろしいのですね」
ティキは深く頷いた。
仲居は、何か言いたげだった。
だが、この宿の人間は、客の事情を見ないふりする訓練ができている。
彼女は暗がりの中で、膳を並べ始めた。
吸い物。
煮物。
焼き魚。
小さな徳利。
手際はいい。
だが、目はよく働いていた。
仲居の視線が、ティキの髪へ行く。
少し乱れた襟元へ行く。
袖口についた、細かな木の粉へ行く。
それから、冷たい夜気を残した窓へ行った。
沈黙。
隣室から、クロスの低い笑い声が漏れる。
ティキは料理の前に腰を下ろした。
仲居が、小声で尋ねた。
「お客様」
「ん?」
「なぜ電気を付けないんですか?」
まっすぐな質問だった。
しかも、きちんと小声だった。
ティキは一拍置いた。
「あ、ああ」
言葉を探す。
「窓を開けたくてね……」
「窓を…」
「いい風が入るから」
「左様ですね」
「電気を付けると虫が大勢寄ってくるだろう?」
「確かに」
仲居は、袖口の木の粉を見た。
ティキも見た。
二人で見た。
暗がりの中に、しばらく沈黙が落ちる。
ティキはゆっくり、袖を払った。
「……この宿は、味があるね」
「ありがとうございます」
仲居は微笑んだ。
微笑んだが、信じた顔ではなかった。
「お客様」
「ん?」
「帳場の者から、絶対に騒動を起こさないようにと申しつかっております」
「信用ないねぇ」
ティキは反論できなかった。
襖が閉まる。
仲居の足音が遠ざかっていく。
隣の《松の間》からは、しばらく箸の音と、盃が置かれる小さな音が聞こえていた。
こちらも、向こうも食事中。
ティキは暗がりの中で焼き魚をつついた。
骨が見えない。
「……これ、灯りなしで食うもんじゃねぇな」
小さく呟く。
それでも電気はつけなかった。
やがて、隣室で畳を踏む音がした。
クロスの低い声。
それに続く、女の柔らかな返事。
襖が開く。
ティキは箸を止めた。
足音は二人分だった。
二人が廊下へ出た。
ティキは音を殺して立ち上がり、入口の襖に耳を寄せる。
「今日はどの湯にするか」
クロスの声だった。
女が小さく笑う。
「そうですねえ…」
ティキの目が細くなる。
二人が部屋を出る。
ティキは素早く浴衣を掴む。
ネクタイをほどき、スーツを脱ぐ。
シャツを乱暴に引き抜き、浴衣へ袖を通す。
彼は鏡代わりに窓硝子を見た。
その顔は、放っておいても目立つ。
少し整えれば、女に声をかけられる。
ティキは髪を両手で掻き乱した。
黒い髪が、寝癖のように乱れる。
先ほどまでの胡散臭い坊ちゃんの顔が、少しだけ輪郭を失う。
次に、荷物の底から丸い眼鏡を取り出した。
牛乳瓶の底のような厚いレンズ。
かけた瞬間、視界が少し歪んだ。
窓硝子に映った男は、もう先ほどのティキ・ミックではなかった。
湯治に来た売れない文士か、あるいは、親戚の金で旅をしている怪しい道楽者か。
どちらでもいい。
問題は、クロスにティキだと悟られないことだった。
彼はバスタオルを広げ、中古のハーフサイズカメラを包み込んだ。
帯を締め直し、眼鏡の位置を直す。
そこまで終えて、ようやくティキは襖へ向かった。
ほんの数分。
ただ、それだけの時間だった。
だが、尾行において数分は、時に一晩より重い。
ティキは襖を細く開け、廊下を覗いた。
誰もいない。
クロスも、女も。
二人の背中は、もうどこにもなかった。
廊下には、湯気を含んだ木の匂いだけが残っている。
遠くでししおとしの音がした。
ティキはしばらく、顎に手を当て、廊下の真ん中に立っていた。
「……やったな」
低く呟く。
それは自分自身に向けたものだった。
彼は廊下のポスターを見た。
この宿には湯がいくつもある。
大浴場。
露天風呂。
貸切の小さな湯。
それに、温泉街の中に点在する外湯。
クロスと女はどこへ向かったのか。
旅館の中か。
裏手の湯か。
川沿いか。
山側か。
それとも、常連だけが知る離れの湯か。
「どれだ」
ティキは小さく息を吐いた。
「どの風呂だよ」
考える。
追うべきだ。
本来なら、追うべきだった。
ただ、面倒だった。
浴衣で知らない宿の中を歩き回り、濡れた石段を下り、外湯の暖簾をひとつずつ覗き、カメラを湯気から守りながら、クロスと女の影を探す。
そこまでして、得られるものがあるとは限らない。
すでに写真は撮った。
背後から女を抱くクロスの姿は、暗いフィルムの中に閉じ込めた。
今夜のところは、それで十分かもしれない。
それに、ティキは自分の胴体を見下ろした。
「まあいいや」
ティキは眼鏡を押し上げた。
「俺も風呂入ろ……昨日入ってねぇし」
言ってから、少しだけ顔をしかめる。
事実というものは、時に人を傷つける。
彼はバスタオルを抱え直し、帳場へ向かった。
どの湯へ行くべきか。
それは、この街を知っている人間に聞くのが一番早い。
帳場の男。
あの男なら、湯の場所くらい知っている。
問題は、こちらがまた顔を出した瞬間、彼の胃に穴が開きそうな顔をすることくらいだった。
帳場の男は帳面から顔を上げた。
そして、固まった。
「……お客様?」
声は丁寧だった。
ただ、その奥に明らかな警戒が混じっている。
ティキは片肘を帳場へ置いた。
「オススメの湯を知りたいんだが」
帳場の男は目の前の男を上から下まで見た。
「……失礼ですが」
帳場の男は慎重に口を開いた。
「どちら様で?」
ティキは少しだけ黙った。
帳場の男の名札を見る。
(バク・チャンか…)
それから、眼鏡を指先でつまみ、鼻先までずらした。
レンズの奥に隠れていた目が、帳場の灯りを受ける。
「俺だよ」
バクの眉が跳ねた。
「……あなたですか」
「俺だ」
「なぜそのような格好に?」
つい訊いてしまい、バクは口を閉じた。
訊いてはいけない。
宿の者は、客の事情へ踏み込みすぎてはならない。
それは帳場に立つ者の心得だった。
だが、目の前の客は、踏み込むなと言われても足元から勝手に崩れてくる種類の面倒臭さを持っている。
バクは深く息を吸った。
「……承知いたしました」
「助かる」
バクはもう一度、ティキを見た。
見れば見るほど怪しい。
バクは帳場の下から宿内の見取り図を取り出した。
「お湯のご案内でしたね」
「ああ。おすすめは?」
「目的によります」
「身体が洗えて、湯に浸かれればいい」
「でしたら大浴場です」
「それじゃ普通すぎるな」
「普通で何が悪いのですか」
「せっかく温泉街まで来たんだ。少しは風情が欲しい」
バクは見取り図へ指を置いた。
「当館には大浴場、露天、奥の小湯がございます。外へ出れば、川沿いに二つ、坂の上に一つ。夜でも入れる湯は限られますが」
「へえ。一番静かなのは?」
バクの目が細くなった。
「静かな湯をお求めで?」
「大声の客が苦手でね」
帳場の男は指先を少し動かし、見取り図の端を示す。
「静かさで選ぶなら、裏手の露天です。宿の奥から石段を下ります。今の時間なら人は少ないでしょう」
「ほう?」
「屋根はありますが、足元が冷えます」
「悪くない」
「ただし、夜道は暗い。足元には十分ご注意ください」
バクは見取り図を折り、ティキへ差し出した。
「廊下を奥へ。突き当たりを左。石段を下りた先に紺の暖簾があります。そこが裏露天です」
「助かったよ」
「どういたしまして」
ティキは地図を受け取り、ひらひらと振った。
バクはその背を見送りながら、最後まで言いたいことを飲み込んでいた。
なぜ変装しているのか。
なぜ部屋では灯りをつけないのか。
なぜ袖に木の粉をつけていたのか。
聞くべきではない。
聞いたところで、まともな答えが返ってくる気もしない。
バクは帳場の奥で、胃のあたりをそっと押さえた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
「ぷは……」
湯に肩まで沈めた瞬間、ティキは思わず息を吐いた。
「あー、気持ちいい」
裏手の露天は、バクが言った通り静かだった。
夏休み前のオフシーズン。
客足はまだ少なく、宿の奥から石段を下りた先にあるこの小さな湯には、ティキのほかに誰もいない。
岩で囲まれた湯船。
頭上には、山の夜空。
灯りは控えめで、湯気だけが白く揺れている。
「……いいねぇ」
ティキは岩へ背中を預け、首の力を抜いた。
昨日からの煙草の匂いも、狭い車内の疲れも、三階の外壁を伝った時の埃も、熱い湯の中で少しずつほどけていく。
「会長サンキュー」
そう思った、その時だった。
脱衣所の方で、戸が開く音がした。
足音が近づく。
ティキはぼんやりと目を開けた。
湯気の向こうに、人影が立つ。
背筋の伸びた、几帳面な男だった。
「「あ……」」
声が重なった。
運転手のハワード・リンクだ。
ティキは完全に素の顔をした。
しまった、と思った時にはもう遅い。
初対面の客を装うなら、もっと間を取るべきだった。
もっと知らない顔を作るべきだった。
だが、あまりに寛いでいたせいで、反応がそのまま出た。
リンクは無言でティキを見ていた。
湯気の向こうでも分かるほど、目が冷静だった。
「……先客がいるとは思いませんでした」
「こっちもだよ」
返してから、ティキは内心で舌打ちした。
今の返しは、知らない客同士のものではない。
リンクは眉ひとつ動かさず、掛け湯を済ませると、静かに湯船へ入ってきた。
動きに無駄がない。
肩幅もある。
筋肉のつき方も、ただ座って運転しているだけの人間のものではない。
ティキは横目でそれを見た。
いい体をしている。
運転手にしておくには、少し惜しい。
そんなことを思っていると、リンクが湯に肩まで沈み、ぼそりと言った。
「今まで私専用でしたのに」
ティキは瞬いた。
「何が?」
「この湯です」
リンクは湯面を揺らさず、まっすぐ前を見ている。
「旦那様がこちらへ宿泊される時、私はいつもこの裏露天を使っていました。人が少なく、静かですので」
「へえ」
ティキは空を見上げた。
「常連ってわけか」
「旦那様が、です。私は付き添いです」
「律儀だねぇ」
二人はしばらく、並んで夜空を見ていた。
湯気が流れる。
どこか遠くで、小さな子供の声がする。
ティキは口元だけで笑った。
「いい体してますね。スポーツか何かを?」
リンクは視線を動かさなかった。
「何を嗅ぎ回ってるんですか」
一拍。
湯気が、二人の間を横切った。
ティキはそこで、ようやく確信した。
やはりこの男は、知っている。
自分がただの宿泊客ではないことを。
昨日から車でクロスを追っていたことを。
少なくとも、顔くらいは覚えられている。
ティキは湯に沈めていた腕を岩の縁へ乗せた。
「ああ」
薄く笑う。
「やはりバレてたかー」
ティキは悪びれもせず、岩へ背中を預けた。
リンクは前を向いたまま言った。
「あの車は、少々目立ちすぎます。」
「そうかい」
「整備不良に近い音がしてましたね」
「耳がいいことで」
湯気が、二人の間をゆっくり流れた。
ティキは少し笑う。
「で、何だと思う?」
「記者ですかね」
リンクは即答した。
「何日も家に帰れなさそうな…。そうですね。週刊誌の記者ですか?」
「そう見える?」
「ええ。他人のゴシップで食べているような」
「ハハハ」
「否定は?」
ティキは肩まで湯に沈んだ。
リンクの視線が、そこで初めてティキを見た。
ティキは夜空を見上げたまま、軽く言った。
「探偵だよ。しがないね。家賃にも困る程度の」
「何を調べているんですか」
「なんだと思う?」
「誰からの依頼ですか?」
「それは言えない」
リンクの表情は変わらなかった。
だが、沈黙の質が少し変わった。
「……旦那様の女性関係ですか」
「察しがいいねぇ」
「それなら依頼者は夢子夫人ですかね」
「はー。普通はそう思うよね。でも違うんだなあ」
リンクは湯面へ視線を戻した。
「あの方は可哀想なお方です」
「へえ…」
「結婚をすれば少しは収まるかと思ったのですが」
「うん」
「ダメでしたね」
ティキは目だけでリンクを見た。
リンクは静かに続けた。
「あんなに美しい方を泣かせるなんて」
「へえ、泣いてるんだ」
「ええ。いつも無理に笑おうとしていますね」
「主人に苦言を呈した事は?」
「いいえ。そんなこと、一介の運転手がすることではありません」
「それは奥さんが可哀想だね」
リンクは少しだけ間を置いた。
湯の落ちる音がする。
「やはり、私が何かすべきでしょうか」
ティキは薄く笑った。
「奥さんのことが可哀想だと思うならね」
「あの方は同時に複数の女性を愛すことは当たり前なのですが、ただ、今のお相手には、少々深入りしているように見えます」
その言い方は、静かだった。
ティキは両手を湯の中で軽く広げる。
「へえ、そんなにいい女なのかい?」
「いいえ。奥様の方が断然──。あ、そういえば雰囲気が少し似ているかもしれません」
「その女と夫人が?」
「ええ」
二人はまた、夜空を見上げた。
その会話は、温泉宿の裏露天で交わすにはあまりに物騒で、あまりに静かだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
《竹の間》へ戻ると、部屋はすでに夜の顔になっていた。
膳は下げられ、座卓は端へ寄せられている。
畳の中央には布団が一組、きちんと敷かれていた。
ティキは濡れた髪を片手でかき上げ、布団の端へ腰を下ろした。
湯の熱が、まだ身体の芯に残っている。
このまま横になれば、すぐ眠れる。
だが、眠る前に仕事を片づける必要があった。
彼は鞄から手帳を取り出す。
農場。
湯月楼。
松の間。
写真二枚。
裏露天でのリンク。
書くことは多い。
ペン先を紙へ落とした時、隣室の方で足音がした。
二人分だ。
ティキの手が止まる。
《松の間》の襖が開き、すぐに閉まった。
クロスの低い声。
女の笑い声。
それから、畳の上を歩く音。
戻ってきたらしい。
ティキは手帳とペンを持ったまま、壁際へ移動した。
耳を寄せる。
ぶつり、とテレビの音が入った。
歌番組のような軽い音楽。
客席の笑い声。
その向こうで、グラスが触れ合う音がした。
「まだ飲むんですか」
女の声。
「温泉の後は酒だろ」
クロスの声。
ティキは手帳に短く書く。
――湯上がり。飲酒。テレビ視聴。
隣では、少しだけくつろいだ空気が流れていた。
だが、しばらくして、声の距離が変わった。
女の笑い方が甘くなる。
クロスの声が低くなる。
衣擦れの音がした。
ティキは壁から耳を離しかけた。
「……おいおい」
次の瞬間、思い直す。
写真の機会かもしれない。
ティキは手帳を伏せ、立ち上がった。
すり足で窓へ向かう。
さっきと同じように外へ出れば、松の間の中が見える。
証拠は、多いに越したことはない。
彼が窓枠に手をかけた時だった。
隣の部屋の灯りが、ふっと消えた。
ティキは窓辺で固まった。
「……消すの早ぇな」
これでは撮れない。
フラッシュを焚けば撮れるが、それでは証拠どころか騒動になる。
ティキは大人しく窓から手を離した。
布団の端へ戻り頭をガシガシと掻く。
隣からは、テレビの音だけが少し残っている。
その裏に、二人の濃厚な気配が重なっていた。
ティキは長い息を吐いた。
「人の夜を聞く趣味はねぇんだけどな……」
そう言いながら、手帳を開く。
ペンを持つ。
手帳に書く。
――灯り消える。写真不可。
――対象と女、親密。
――関係継続中。初回ではない可能性高。
――女、対象にかなり気を許している。
隣から、女の声が漏れた。
ティキは眉間を押さえる。
そして、さらに書いた。
――対象、慣れている。
――宿側も黙認。
一度ペンを止める。
少し考える。
それから、手帳の端に小さく付け足した。
――聞き取り調査、精神的苦痛あり。
さらに一行。
――成功報酬が楽しみだ。
ティキは布団の上であぐらをかき、真面目な顔でペンを走らせ続けた。
大人の夜の一部始終を書き残す事は、断じて趣味ではない。
ただ、金額に見合った仕事はする。
ティキ・ミックは、そういうところだけは律儀だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
翌朝、早く、ティキは支払いを終え、ロビーの隅に座っていた。
手には新聞。
目は活字を追っていない。
新聞紙の向こうから、帳場と階段と玄関をまとめて見ている。
朝の《湯月楼》は、昨夜とは別の顔をしていた。
磨かれた床に白い光が差し、仲居たちが静かに行き交う。
湯気と味噌汁の匂いが混ざり、宿全体が何事もなかったような顔をしている。
(女の顔がわかんねぇな)
カメラには撮ったが現像はまだだ。
長い黒髪の女。
「どうすっかな。今日は女の後をつけたいんだが」
しばらくして、階段の上から足音がした。
クロスだった。
昨夜の湯と酒の気配など、きれいに脱ぎ捨てている。
仕立てのいい服。
煙草の匂い。
朝から崩れない大人の男の顔。
ティキは新聞を少しだけ持ち上げる。
あれはリンクだろうか、黒塗りの車が玄関前へ回される。
完璧なタイミングだ。
クロスは精算を済ませると女将に短く挨拶し、何食わぬ顔で車へ乗った。
ひとりで。
ティキの目が細くなる。
黒塗りの車が走り去る。
それから、少し時間を置いて、階段の上に、ひとりの女が現れた。
帽子を深くかぶっていて、顔はよく見えない。
小さな鞄を持ち、足元だけを見ながら降りてくる。
(長い黒髪の女!)
ティキはその女性が浮気相手かもしれないと思い、新聞の影から、その動きを追った。
だが、女が帳場の前で足を止めた時、バクが静かに頭を下げた。
「マリアン様の奥様、おはようございます。お車の支度ができております」
奥様。
ティキは新聞の端を指で押さえた。
女が小さく答える。
「ありがとうございます」
その声は昨夜、壁の向こうで聞いた声だった。
細く、柔らかく、どこか自身が無さそうで、甘えているようでもある声。
ティキは新聞を畳んだ。
決まりだ。
女は正面玄関ではなく、少し外れた脇口へ案内された。
そこにはタクシーが一台、すでに待っていた。
女が乗り込む。
行き先を告げる口の動きをティキは読む。
"駅まで"
ティキはゆっくり立ち上がった。
新聞を帳場近くの卓へ置く。
バクがこちらを見る。
昨夜よりさらに嫌なものを見た顔だった。
ティキは軽く片手を上げる。
「世話になったよ」
バクは一拍置いて、深く頭を下げた。
「ご利用、ありがとうございました」
声は完璧に帳場のものだった。
だが、顔はまったく感謝していない。
ティキが笑う。
「また来るよ」
バクの眉が、ぴくりと動いた。
「道中、お気をつけて」
ティキは片手をひらひら振り、玄関を出た。
タクシーは、まだ坂の下に見えている。
彼は煙草を咥え、火をつけずに笑った。
「さて」
行き先は分かった。
駅だ。
人の流れに紛れるには、ちょうどいい場所だ。
そして、人が何者かを隠すには、少し騒がしすぎる場所でもある。
ティキは足早に、自分の車へ向かった。
「……見失うと駅がわからなくなるな」
昨日この温泉街へ入ってきた時も、クロスの車を追っていただけだ。
道順を覚えているようで、肝心なところは何ひとつ覚えていない。
坂の下で、タクシーの尾灯が小さく揺れていた。
彼は中古車の扉を開け、運転席へ滑り込んだ。
「頼むぜ、相棒」
キーを回す。
きゅる。
終わり。
「……」
もう一度。
きゅる、きゅる、きゅる。
「おいおいおい」
坂の下で、タクシーが角を曲がりかけている。
ティキはハンドルを軽く叩いた。
「急げ急げ。見失ったらシャレにならん!」
三度目。
きゅる、きゅる、ぶすん。
「おい相棒」
四度目。
車体が一度、大きく震えた。
ぶるん、とエンジンがかかる。
「いい子だ」
ティキは即座にギアを入れた。
タクシーの尾灯は、すでに細い坂道の先へ吸い込まれようとしていた。
「ま、見失っても案内看板ぐれぇはあるだろうけどな」
中古車は不機嫌な音を立てながら、温泉街の坂を下り始めた。
前方にはタクシーの尻が小さく見える。
「駅、ねぇ」
ティキは片手でハンドルを握りながら、目を細める。
電車で帰るつもりなら、当然こちらも電車に乗ることになる。
ということは、この車をどこかへ置いていく必要がある。
「……駐車場くらい、ある?よな?」
あってくれ。
なかった場合、この温泉街に相棒を路上放置することになる。
戻ってきた時に駐禁を切られているか、最悪、動かなくなっているか。
どちらも嫌だった。
やがて道が開け、小さな駅前へ出た。
ロータリーには、タクシーが数台並んでいる。
土産物屋の看板。
古びた時刻表。
改札へ向かう数人の流れ。
ティキはスピードを緩めると、タクシーの脇に車を一時停めた。
窓を下ろし、タクシー運転手へ声をかける。
「ちょっと聞きたいんだけど。ここらに車を置ける場所ある?」
運転手は煙草を指に挟んだまま、ティキの車を見た。
「そこの角を曲がった先に町営の駐車場があるよ。駅までは歩いて二分くらいだ」
「助かる」
ティキはさらに声を落とした。
「今の女の人、どこへ行くか言ってなかった?」
運転手は少しだけ眉を上げた。
「知り合いかい?」
「まあね。置いていかれそうで」
嘘は、軽い方が通りやすい。
運転手はロータリーの方へ顎をしゃくった。
「たしか、ルーメン市に行くって言ってたよ」
「ルーメン」
ティキはその名を頭の中で繰り返す。
「サンキュー。これでお茶でも飲みなよ」
紙幣を一枚、運転手の手元へ滑らせる。
運転手はそれを見て、にやりと笑った。
「兄さん、置いていかれないようにな」
「努力するよ」
ティキは窓を上げ、教えられた角を曲がった。
町営駐車場は、小さかった。
白線はなく、ロープが砂利に張られている。
車を停め、鞄を掴んでティキは駅へ走った。
改札の向こうで、女の帽子が人混みに紛れかけている。
彼は切符売り場へ足を向けた。
「ルーメンまで」
口にしてから、ティキは小さく笑った。
今度の尾行は、車ではない。
線路の上だ。
つづく、2026/07/22