マーダーミステリーD~灰色の晩餐会
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※ティキ・ミックとアレン・ウォーカーのみ、前作から設定・記憶が継続しています。
その他の登場人物は、同名・同姿の別配役として登場します。前作で死亡した人物が生存しているわけではありません。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
あのクリーピーな事件から1年の今日。
ティキ・ミックは寝心地の悪い革張りのソファーの上に寝転んで、長い足を投げ出し、片手に開いた通帳を、まるで自分に死刑宣告を下す判決文のように眺めていた。
窓の外では、夕暮れが街の輪郭を汚している。
この辺りは、昼間でもどこか湿っていた。
酒場の裏口から流れてくる酸えた葡萄酒の匂い。
路地裏に溜まった雨水。
壁に貼られた1年前の興行ポスター。
靴音を立てて通り過ぎる女と、それを値踏みする男たちの視線。
まともな人間が腰を据える場所ではない。
だが、まともな人間ではないティキ・ミックが探偵事務所を構えるには、存外ちょうどよかった。
一階は、夜になると声の大きな客で満ちる酒場だ。
看板には気取った名前が書かれているが、出される酒は安く、椅子は重く、床はいつも少しだけべたついている。
その二階に、いくつかの賃貸部屋が並んでいた。
ミック探偵事務所。
そう書かれた真鍮の札は、扉の上でいかにも偉そうに光っている。
中にいる男の財布事情とは、まるで釣り合っていなかった。
「……どこ行ったんだよ」
ティキは通帳を指先で弾いた。
ノア商事を辞める時にもらった、なけなしの退職金。
あの金は、確かにあった。
事務所の敷金礼金。
机。椅子。ソファー。安物のカーテン。酒。煙草。酒。煙草。たまに食事。時々女。
そしてまた酒と煙草。
思い返すまでもなく、消える理由は山ほどあった。
それでも、目の前の数字はあまりに無慈悲だった。
「探偵ってのは、もう少し儲かる仕事じゃなかったのかね」
返事はない。
あるのは、机の上に積まれた済んだ依頼書だけだ。
迷子の犬。
迷子の猫。
逃げた鸚鵡。
浮気調査。
また浮気調査。
その次も浮気調査。
世間の人間は、自分の伴侶がどこで誰と寝ているかを知るためなら、不思議と金を出す。
それ自体は悪くない。
悪くはないが。
「俺は便利屋じゃねぇぞ」
ティキは低く呟き、通帳を顔の上に放り投げた。
紙の端が鼻に当たる。
少し痛い。
「しかし、今月の家賃どーっすっかなー」
その時だった。
一階の酒場から、女の笑い声と、男の怒鳴り声と、グラスの割れる音が順に響いた。
ティキは通帳を顔から剥がし、天井を見上げる。
どうやら今夜も、この街は平常運転らしい。
そして、そんな平常運転の只中に、ミック探偵事務所の扉を叩く音がした。
この界隈で扉を叩く者の多くは、遠慮を知らない。
酔った客は拳で叩き、借金取りは靴先で蹴る。
女は爪で軽く引っ掻くように鳴らし、警官は叩く前から怒鳴る。
だが、その音は違った。
上等な手袋を嵌めた指先で、木目の荒れた扉を汚さぬように触れたような、礼儀正しい音だった。
ティキはソファーに寝転がったまま、通帳を胸の上に置いた。
「……開いてるよ」
扉が開く。
先に入ってきたのは、黒い服の女だった。
背筋の伸びた、美しい女だ。
喪服のように暗い装いをしているのに、そこに湿っぽさはない。
むしろ、鋭く磨かれた刃物のような冷たさがあった。
女は部屋の中を一瞥し、わずかに眉を動かした。
その後ろから、丸い影がぬるりと入ってくる。
「ふぉっふぉっ。久しぶりですねぇ、ティキぽん」
ティキは露骨に顔をしかめた。
「……その呼び方、まだ生きてたんですか」
「もちろんデス。懐かしいでしょう?」
「殺意が湧くくらいには」
千年伯爵は、気にした様子もなく笑った。
ノア商事会長。
かつてティキが勤めていた会社の頂点に座る男。
金と人と事業と噂を、同じ指先で撫で回す男。
この辺鄙な酒場の二階にある、湿った安アパートの一室には、まるで似つかわしくない。
似つかわしくないのに、なぜか空間の方が伯爵に合わせて歪んでいく。
「景気はいかがデスカ🖤」
「見て分からねぇなら、眼科紹介しますよ」
「ふぉっふぉっ。素敵な事務所デスネ」
「嫌味にしか聞こえねぇな」
伯爵は部屋を見回した。
机。
椅子。
灰皿。
安い酒瓶。
開封されていない請求書。
終わった依頼書。
そして窓辺で、見事なまでに枯れた胡蝶蘭。
伯爵の丸い目が、そこで止まった。
「アレ? 私ガ開店祝いにあげた胡蝶蘭が……」
「植物は難しいですね」
「水は?」
「やった気はします」
「いつ?」
「……先月?」
秘書のルルベルが、呆れる。
「枯れて当然です」
声まで冷たい。
ティキは体を起こし、ソファーの上で肩をすくめた。
「探偵に花の世話まで求めないでほしいね」
「探偵の仕事は来ているのデスカ?」
「犬猫探しと不倫調査なら」
「それは立派なお仕事デス」
「俺はそんなことをしたくて探偵になったんじゃないんだよ⋯」
伯爵は、そこでまた笑った。
ひどく楽しそうに。
最初から、その言葉を待っていたように。
「そうだと思って、仕事を持ってきましタヨ」
ティキの目が、わずかに細くなる。
「……仕事?」
「ええ。あなた向きの仕事デス」
「犬ですか。猫ですか。それとも逃げた鸚鵡?」
「人間です」
伯爵はにこりと笑った。
「私の娘婿を、調べてほしいのデス」
伯爵は、部屋の中央に立ったまま、にこにこと笑っていた。
座れ、とも言われない。
茶も出ない。
そもそも、この部屋に客人へ出せる茶があるのかどうかも怪しい。
ルルベルが無言でソファーを見た。
背もたれには上着が掛かり、座面には昨日の新聞と、空になった煙草の箱が載っている。
ティキはそれを横目で見た。
「座りたいなら、どかせば?」
「あなたがどかすべきでは?」
「俺の事務所なんで」
「客人ですよ」
「勝手に来た客人だろ」
伯爵は、ふぉっふぉっと喉を鳴らした。
「相変わらずデスネ、ティキぽん」
「相変わらずなのはそっちでしょう。元部下の貧乏事務所に、秘書連れて何しに来たんです」
「お仕事の話デスケド?」
「立ち話で?」
「あなたが座らせてくれないので」
「立ってても話せるでしょ」
ルルベルの視線が、ほんの少しだけ冷たくなった。
「無礼ですね」
「ノア商事を辞めた時点で、俺の礼儀も退職したんですよ」
ティキは、ようやく立ち上がった。
といっても、背筋を伸ばして客を迎えるような殊勝さはない。
ソファーの座面に散らばっていた昨日の新聞紙と、空になった煙草の箱を片手でまとめ、事務デスクの上へ投げる。
ついでに上着を背もたれから剥がすように退かし、顎でそこを示した。
「どうぞ」
ルルベルの眉が、また少しだけ動いた。
その動きだけで、投げられた新聞紙よりも、そこへ座れと言った男の精神の方を疑っているのが分かる。
伯爵は気にした様子もなく、ふぉっふぉっと笑いながらソファーに腰を下ろした。
「インスタントのコーヒーならあるが、飲むか?」
「イエ、お構いナク」
「でしょうね」
ティキはそう言うと、自分は反対側の一人掛けのソファーへ腰を落とした。
脚を組み、背もたれに身体を預ける。
客を迎えているというより、借金取りを相手に開き直っている男の姿勢だった。
伯爵が右手を軽く上げる。
それだけで、ルルベルが動いた。
彼女は懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上へ静かに置く。
新しい写真だった。
白いドレス。
大きなケーキ。
銀のナイフ。
隣り合って立つ、男女。
ティキは写真を手に取り、目を細めた。
「ああ、これは夢子さん?……結婚式の?」
「そうデス。ティキぽんが辞めてから、すぐの頃にお見合い結婚シタンデスヨ」
伯爵の声は、相変わらず丸い。
丸いのに、底が見えない。
ティキは写真の中の男へ視線を移した。
夢子の隣に立つ男は、明らかに彼女より年上だった。
洒落た髭。
余裕のある笑み。
白い礼服を着ているのに、どこか酒と煙草の匂いがしそうな男。
「随分、歳が離れてるようだけど?」
伯爵が、わざとらしく長い息をついた。
代わりにルルベルが口を開く。
「クロス・マリアン。キャンベル食品の社長です」
「ああ、あの」
ティキの脳裏に、白黒の映像が浮かんだ。
奇妙に艶のある人形たちが、ナイフとフォークを持って、大きな缶詰を囲んでいる。
丸い目をぎらつかせ、口元に涎を光らせながら、陽気な音楽に合わせて踊るあの広告。
趣味がいいとは言いがたい。
だが、一度見たら忘れられない種類の気味悪さがあった。
「キャンベル食品のクロス社長ね。よく自分の娘をこの男と結婚させましたね。この男、女にだらしがない事で有名じゃないですか。それで、この男の何を?」
「それを調べていただきたいのです」
ルルベルの声は、切れ味のいい銀食器のようだった。
ティキは写真を指先で叩く。
「伯爵。話が見えないんですが」
「夢子がねぇ、最近元気がないのデスヨ」
伯爵は困ったように首を傾げた。
「食も細くなった。笑うことも減った。ワタシの可愛い娘が、まるで冬の花のようにしおれていくのデス」
「冬の花ねえ」
冬の花でも凛と咲くものもあるが…とティキは思ったが、あえて口を挟まない。
「ソノ男が、娘を泣かすようなことをしているのではないかと思いましテ」
ティキは、写真をテーブルへ戻した。
そして嫌そうに言う。
「……ああ。不倫調査か」
「ふぉっふぉっ。理解が早くて助かりマス」
「もっとこう、面白い事件ない?」
ルルベルの視線が冷える。
伯爵はにこにこと笑ったまま、首を横へ揺らした。
「嫌なら、他を当たるしかありまセンねぇ」
「やる。やるよ」
即答だった。
ルルベルの目が、わずかに呆れる。
ティキはそれを見なかったことにして、もう一度写真を手に取った。
結婚式の夢子は、どこかぎこちなく笑っている。
隣のクロスは、そんな彼女の肩を抱いている。
幸福な夫婦の写真に見える。
少なくとも、何も知らない者の目には。
ティキは写真を眺めたまま、ぼそりと言った。
「しかしなぁ。なんで俺と結婚させてくれなかったんだよ」
伯爵の丸い目が、きょとんとしたように瞬いた。
「エ? ティキぽんヲ婿に?」
「そしたら俺、安泰じゃん?」
沈黙。
ルルベルが、心底くだらないものを見る目をした。
伯爵は数秒だけ黙り、それから腹の底から楽しそうに笑った。
「ふぉっふぉっふぉっ。あなたをワタシの婿に?」
「やや、冗談だよ。いや、半分本気だけどよ」
ティキは写真をテーブルへ戻し、懐から煙草を取り出した。
火はつけない。
ただ、唇に咥えて言う。
「ただ、俺が見合いしたかったなって。あ、伯爵、次女いたよな? 次女と俺、どう?」
「どう、とは?」
「婿入り」
ルルベルが、今度こそはっきりと眉を寄せた。
「恥を知ってください」
「知ってたら探偵なんかやってないね」
伯爵は笑いながら、また右手を上げた。
ルルベルが懐から封筒を取り出し、テーブルの上へ滑らせる。
厚みのある封筒だった。
ティキの視線が、吸い寄せられるようにそこへ落ちる。
「トリアエズ、前払いとしてこれヲ」
伯爵が言う。
ティキは封筒を手に取った。
中を開く。
紙幣の束が、行儀よく詰まっている。
その瞬間、ティキの顔に分かりやすい光が差した。
「……わお」
「残りは、調査が終わったあとにお支払いしマス」
ティキは封筒を閉じ、胸の内ポケットへ丁寧にしまった。
さっきまで通帳に死刑宣告を下されていた男とは思えない手つきだった。
「伯爵」
「ハイ?」
「俺、昔からあなたのこと、仕事のできるいい上司だと思ってました」
「ふぉっふぉっ。そうデスカ」
「金払いのいい依頼人は、だいたいいい人です」
「分かりやすい男ですねぇ」
「探偵は単純な方が長生きするんですよ」
ルルベルが静かに言った。
「では、引き受けていただけるのですね」
ティキはソファーに深く座り直し、写真をもう一度見下ろした。
夢子。
クロス・マリアン。
キャンベル食品。
ノア商事会長の娘婿。
そして、不倫調査。
つまらない仕事のはずだった。
少なくとも、この時のティキには、そう見えていた。
「いいでしょう」
ティキは口端だけで笑った。
「それで、詳しいことを教えてくれよ。会長」
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
翌朝。
ティキ・ミックは、都内でも指折りの高級住宅街にいた。
彼は、自分の車の運転席に座っていた。
年季の入った中古車だった。
かつては洒落た色だったのかもしれない塗装は、今ではところどころ曇り、雨に打たれた跡が斑に残っている。
ハンドルには手垢が染み、助手席には古い新聞と依頼書が積まれ、灰皿には吸い殻が山になっていた。
エンジンを切れば静かになる。
その代わり、二度とかからなくなるのではないかという不安があった。
「頼むぜ、相棒。今日だけは機嫌よくしてくれよ」
ティキは煙草を咥えたまま、伯爵から聞いた住所の屋敷を見やった。
白い外壁。
黒い鉄門。
手入れの行き届いた前庭。
その門前に、一台の車が停まっている。
ティキの車とは違った。
黒く磨かれた車体は、朝の光を静かに跳ね返していた。
角ばったボンネット。
重そうな扉。
曇りひとつない窓硝子。
まるで、金と体面と家柄を鉄で固めたような車だった。
その車の横には、やたら姿勢のいい男が立っていた。その男が伯爵の言っていたハワード・リンクという男だろうか。
帽子の角度に乱れはなく、手袋を嵌めた指は体の横で静かに揃えられていた。
突然こちらを向く。
ティキは「やべっ」と言いながら寝たフリをする。
勘の鋭そうな男だ。
運転手にしとくにはもったいない。
やがて玄関の扉が開いた。
クロス・マリアンが出てくる。
朝だというのに、どこか夜の匂いを引きずった男だった。
煙草。香水。女。
そういうものが似合いすぎる男は、ただ屋敷の階段を降りるだけで、朝の清潔な空気を少し濁らせる。
その後ろから、夢子が姿を見せた。
伯爵の言った通りだった。
写真の中の彼女より、今の彼女はずっと沈んで見える。
服も髪も整っていて、妻として夫を見送る姿に、乱れはない。
ただ、表情だけが追いついていなかった。
クロスは[#dn=1#]の前で足を止めると、当然のように身を屈めた。
額に、軽く口づける。
この辺りに住む夫婦なら当たり前な行動だろう。
[#dn=1#]は目を伏せた。
「……いってらっしゃいませ」
クロスは微笑み、車へ乗り込む。
リンクが扉を閉めた。
無駄のない動きだった。
そこに感情はない。
そして、黒い車が、ゆっくりと門前を離れていく。
ティキは吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、キーを回した。
エンジンが、一度咳き込む。
「おい」
二度目で、かかった。
車体が情けなく震える。
向こうは運転手付きの高級車。
こちらは、いつ止まってもおかしくない中古車。
落差というものには、時に人を笑わせる力がある。
「泣けるねぇ、ミック探偵事務所」
ティキはそう呟き、少し距離を置いて車を出した。
朝の高級住宅街に、黒塗りの車の静かな走行音と、くたびれた中古車の頼りない唸りが、奇妙な二重奏のように続いていった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
キャンベル食品本社は、朝八時前から人を吸い込み始めていた。
硝子張りの正面玄関。
磨かれた石の階段。
社名を刻んだ金属板。
出入りする社員たちは皆、まだ眠気を顔のどこかに残しているのに、靴音だけは勤勉だった。
黒塗りの車が、その正面玄関前に静かに停まる。
運転席から降りたリンクは、まるで時計の針のように無駄のない動きで後部座席の扉を開けた。
クロス・マリアンが現れる。
ティキはクロスの車を追い越し、少し離れた車道から、その様子をバックミラー越しに見ていた。
キャンベル食品の正面玄関にこの車を置けば、警備員の記憶に残るのはクロスではなく、この車の方だろう。
そもそも尾行していることに気づかれてはならない。
「目立つ探偵ってのは、三流だからな」
ティキはそう呟き、何食わぬ顔で本社前を通り過ぎた。
角を曲がり、少し離れた有料駐車場に車を入れる。
白線は薄く、地面には古い油染みが残っていた。
彼の車には、そちらの方が似合っている。
助手席には、前金を手にした勢いで買った中古のハーフサイズカメラが転がっていた。
「調査道具、調査道具」
自分に言い聞かせるように呟く。
その隣に置かれた煙草の箱と、昨夜飲んだ酒瓶の領収書は見なかったことにした。
通りの向こうに、古い喫茶店がある。
看板には、褪せた金文字で《珈琲 鳩時計》と書かれていた。
窓硝子は少し曇り、入口脇の鉢植えは、枯れる一歩手前で踏みとどまっている。
だが、位置は悪くない。
キャンベル食品本社の玄関が、窓際の席からよく見える。
ティキはカメラを上着の内側へ押し込み、店の扉を開けた。
からん、と小さなベルが鳴る。
店内には、濃い珈琲の匂いと、朝刊の紙の匂いが沈んでいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、痩せた男が顔を上げる。
白い肌。
長い顔。
どこか病人めいた佇まい。
だが、その目だけは澄んでいた。
アレイスター・クロウリー。
店の看板よりも、本人の方がよほど古めかしい名前をしていそうな男だった。
「珈琲をひとつ」
ティキは窓際の席に腰を下ろしながら言った。
「眠気が飛ぶくらい濃いやつ」
「了解しました。うんと濃い珈琲ですね」
クロウリーは微笑んだ。
ティキは窓の外へ目を向ける。
キャンベル食品本社の玄関では、社員たちが次々と吸い込まれていく。
さすがにクロスの姿はもうない。
「ご注文は以上ですか?」
「ほい」
「朝から何も召し上がっていない顔をしています」
「ん?喫茶店の店主ってのは、客の顔色まで見るもんか?」
「見えてしまうんです。暇なのです」
ティキは少しだけ笑った。
珈琲はすぐに出てきた。
黒く、苦いが、安い豆の味がする。
だが、張り込みにはちょうどいい。
一杯の珈琲で、三十分。
さらに一時間。
キャンベル本社には社員が入り、来客が入り、荷物が運び込まれるが、クロスは出てこない。
さらに一時間
ティキは窓際で足を組み、煙草を咥えたまま、火をつけずに外を見ていた。
やがて、カウンターの奥から弱々しい声が飛んだ。
「あの……お客様」
「ん?」
「珈琲一杯で、ずいぶん長くお座りに……」
「居心地がいいんだよ」
「それは光栄なのですが、店としては少し困ります」
「褒めてんのか追い出してぇのか、どっちだい」
「できれば、何か追加でご注文を……」
ティキは懐の封筒を思い出した。
前払いの金がある。
そう思った途端、急に胃袋まで偉そうになる。
「ナポリタンとクリームソーダをくれ」
クロウリーが瞬いた。
「はい!」
「嬉しそうだな」
「そりゃもう、当店自慢ですから。何せケチャップが違います」
クロウリーは棚から一本の瓶を取り出した。
赤いラベル。
丸みのある文字。
キャンベル食品。
ティキの視線が、そこで止まった。
「……それ」
「キャンベル食品さんのケチャップです」
「向かいの?」
「はい。缶詰も、スープも、ソースも、かなりお世話になっています」
「この店、向かいの会社に魂売ってんのか?」
「仕入れが楽なんですよ。それに直販ですから他で買うより安いんです」
あまりにも真面目な声だった。
ティキは窓の向こうの本社を見た。
目の前の建物。
目の前のケチャップ。
これから食うナポリタン。
どこを向いても、クロス・マリアンの影がある。
「いいねぇ。資本主義の味がしそうだ」
「お嫌いですか?」
「いや、食う。皮肉は腹に溜まらねぇからな」
しばらくして、鉄板の上で何かが焼ける音がした。
油。玉ねぎ。ピーマン。
そして、甘ったるいケチャップの匂い。
ナポリタンは、皿の上で赤く光っていた。
そして、緑のグラスが置かれた。
「お待たせしました」
クロウリーは弱々しく微笑んだ。
ティキはフォークを手に取った。
一口食べる。
甘い。
酸っぱい。
妙に懐かしい。
そして腹立たしいほど、うまい。
「……クロス・マリアン、商売は上手いな」
「社長さんが何か?」
「知ってんのか?」
「毎朝、お見かけします。黒い車で。運転手の方は、とても几帳面な方ですね」
「よく見てるねぇ」
「見えてしまうんです。窓の外を眺める時間だけは、長いものですから」
ティキは窓の外を見た。
その時だった。
キャンベル食品本社の玄関が、慌ただしく動いた。
リンクが車を回してくる。
黒塗りの車が、玄関前に滑り込む。
続いて、クロス・マリアンが姿を現した。
「……おいおい、今かよ」
ティキは皿を見た。
まだナポリタンが半分以上残っている。
窓の外を見る。
クロスはもう車に乗り込もうとしている。
ティキはもう一度、皿を見た。
「勿体ねぇ!」
次の瞬間、彼はナポリタンを可能な限り口へ詰め込んだ。
頬が不自然に膨らむ。
探偵というより、冬支度を急ぐ栗鼠だった。
クリームソーダの上のアイスまで、なぜか一口で押し込む。
「お、お客様!?」
クロウリーが青ざめる。
ティキは立ち上がり、カメラを掴んだ。
「食い逃げあるかー!?」
泣きそうな声が店内に響く。
ティキは頬を膨らませたまま振り返った。
何か言おうとする。
だが、口の中がナポリタンとアイスで満ちているため、まともな言葉にならない。
代わりに、懐から一万円札を抜いた。
それをカウンターに、ばん、と置く。
「……まは、くる。つひはいらへぇ」
「え?」
ティキは親指を立てた。
クロウリーは一万円札と、半分空いた皿と、頬袋のようになった探偵を交互に見た。
「お客様……ナポリタンとクリームソーダでこれは……」
ティキはもう聞いていない。
扉を開ける。
からん、とベルが鳴る。
クロスを乗せた黒い車が、本社前を離れていく。
ティキは口いっぱいにナポリタンを詰めたまま、駐車場へ向かって走った。
昼前の通りに、喫茶店の店主の弱々しい声だけが残る。
「また来てくださいね……! できれば、次は普通にお食べになってくださーい……!」
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
黒塗りの車は、昼前の街を滑るように進んだ。
ティキは少し距離を置いて、その後を追う。
ナポリタンはまだ胃の中で重かった。
クリームソーダの甘さも、舌の奥にしつこく残っている。
「昼飯前から、よく動く社長さんだこと」
そう呟いた時、前方の車が速度を落とした。
停まったのは、花屋の前だった。
古い石造りの店構えに、季節の花が溢れている。
白い百合。赤い薔薇。淡い紫の蘭。
硝子戸の向こうでは、女店員がリボンを選んでいた。
ティキは目を細める。
「……花屋ねぇ」
クロス・マリアンが車を降りる。
リンクはいつものように無表情で扉を閉め、車の傍らに立った。
主人がどこで何を買おうと、興味などないという顔だ。
クロスは店に入り、ほどなくして大きな花束を抱えて出てきた。
白と淡い桃色を混ぜた、上品な花束だった。
女に渡すには、少し大きい。
だが、女を喜ばせるには十分すぎる。
ティキは口端を上げた。
「出たか」
浮気調査という退屈な仕事にも、ようやくそれらしい匂いが出てきた。
妻には沈んだ顔をさせておいて、昼間から花束を抱えて女の元へ向かう。
ありきたりだ。
ありきたりだが、だからこそ人間らしい。
クロスを乗せた車は、再び動き出した。
ティキは後を追う。
十分。
十五分。
車は繁華街の奥へ入っていく。
やがて停まったのは、女の住むアパートでも、ホテルでもなかった。
レストランだった。
表の看板には、流れるような筆記体で店名が書かれている。
扉の横には、キャンベル食品の小さな紋章。
新しい店らしく、窓硝子は曇りひとつなく磨かれ、入り口には開店祝いの花がいくつも並んでいた。
クロスは花束を抱えたまま店内へ入る。
出迎えた支配人らしき男が、深く頭を下げた。
その花束をその男に渡す。
さすがに浮気相手では無さそうだ。
少なくとも、恋人に花を渡す男の顔ではなかった。
ティキはハンドルに肘をつき、しばらく無言でそれを見ていた。
「……自分の店かよ」
期待した自分が馬鹿らしい。
クロス・マリアンは、花束を女に贈りに来たのではない。
自分のレストランに飾るために買ってきたのだ。
食事は味だけではない。
皿。照明。椅子。花。
女の機嫌を取る時と同じ顔で、クロスは客の胃袋と財布を口説いている。
ティキは低く笑った。
「商売熱心だねぇ、食い物の王様」
その後、クロスは会社へ戻ったと同時に、ティキも喫茶・鳩時計に戻った。
今度は喫茶・鳩時計の駐車場に車を停めた。
初めからこうしてりゃ良かったと午前中の自分をティキは恨んだ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
午後の収穫は、薄い。
ティキは双眼鏡を片手に窓から見える社内を頑張って覗こうとした。
チラチラと見る限りクロスは真面目に仕事をしているようだ。
多分会議に出た。
書類に目を通した。
女社員に声をかけた。
肩へ手を置く。
書類を受け取る時、指先へ触れる。
何かを褒める。
笑いながら距離を詰める。
女社員たちは笑っていた。
笑って受け流す術を、職場という場所で覚えさせられた女たちの笑いだった。
クロスはそれを、空気と同じくらい当然のものとして扱っている。
「……伯爵の娘だけじゃなく、社内の女にも優しいわけだ」
ティキは低く呟いた。
だが、それは不倫の証拠ではない。
ただ、クロス・マリアンという男の輪郭を、少しだけ濃くするだけだった。
夕方。
クロスは、まっすぐ家へ帰った。
途中でホテルへ寄ることもなく、酒場へ消えることもなく、女を拾うこともなかった。
黒塗りの車は、朝と同じ門の前で静かに停まる。
リンクが扉を開ける。
クロスは片手に、小ぶりな花束を持っていた。
昼間の花屋で、店のものとは別に買ったものだろう。
白と淡い桃色を合わせた、妻へ贈るにはいかにも品のいい花だった。
玄関から、[#dn=1#]が出てくる。
クロスは笑って、その花束を差し出した。
夢子は一瞬だけ目を見開き、それから両手で受け取る。
傍目には、申し分のない夫婦だった。
仕事を終えた夫。
帰りを待つ妻。
土産の花。
門灯の下で交わされる短い言葉。
幸福というものを絵に描けば、だいたいこんな形になる。
クロスはさらに身を屈めた。
朝と同じように、[#dn=1#]の額へ口づける。
[#dn=1#]は花束を抱いたまま、目を伏せた。
その横顔は、少し嬉しそうだった。
旦那が寄り道せず帰ってきたからか?
ティキは車の中で、タバコに火をつけた。
今日一日、クロス・マリアンは女のところへ行かなかった。
仕事をし、店を見て、会社へ戻り、妻へ花を持って帰った。
善良な夫に見える。
それなのに、伯爵の言った通り、[#dn=1#]はどこか枯れかけているように見えた。
「……よくできた旦那様だこと」
ティキは低く呟いた。
クロスと[#dn=1#]が屋敷の中へ消える。
門が閉まる。
夜が落ちる。
ティキはそのまま、しばらく屋敷を見張った。
クロスが夜に出てくるかもしれない。
そう思ったからだ。
だが、その夜、黒塗りの車は一度も動かなかった。
窓の灯りがひとつ消え、またひとつ消えた。
庭木の影が、門灯の下で静かに揺れる。
何も起きない。
不倫の証拠も、密会の影も、女の匂いも掴めない。
ただ、幸福の形をした不幸だけが、門灯の下に残っている気がした。
ティキはシートにもたれ、目を細める。
『報告書──1日目』
対象、白とは言えない。
だが、黒とも言えない。
ただ、怪しい点が無い。
「退屈な尾行ほど、後で面倒なことになる」
夜の住宅街に、紫煙だけが細く溶けていった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
二日目の朝も、クロス・マリアンは同じ時間に屋敷を出た。
黒塗りの車。
几帳面な運転手。
見送りに立つ妻。
額へ落とされる、手順通りの口づけ。
昨日と違っていたのは、ティキ・ミックの首と腰に、ひと晩分の疲労が刻まれていることくらいだった。
車の中で夜を明かすという行為は、10代の頃なら少しは冒険に似ていたかもしれない。
だが、今のティキにとってそれは、ただ関節を痛めるだけの労働だった。
「探偵業ってのは、思ったより身体に悪いな」
火のついていない煙草を咥え、低くぼやく。
うっかりゴミ出しの婦人に中を覗かれてしまったが気にしない。ウインクで返してやった。
クロスを乗せた車が、屋敷の前を滑るように離れていく。
リンクの運転には癖がなかった。
速度も、間合いも、道の選び方も、すべてが正確だった。
まるで車そのものが、あの男の背筋の延長であるかのように見える。
ティキは少し間を置いてから、くたびれた中古車を出した。
昨日と同じなら、このままキャンベル食品本社へ向かうはずだった。
だが、黒塗りの車は昨日と同じ角を曲がらなかった。
「……ん?」
ティキは目を細める。
車は市街地を抜け、朝の通勤車両が増え始めた大通りへ出た。
それから、迷いなく速度を上げていく。
行き先は会社ではない。
高速道路の入口だった。
「おいおい」
ティキはハンドルを握り直した。
「朝から遠足かよ、社長さん」
料金所を抜ける頃、彼の車は早くも不満を訴え始めた。
ぷす、と一度。
少し間を置いて、ぷすぷす、と二度。
エンジンの奥から、喉を悪くした老人のような音がした。
「やめろよ」
ティキはハンドルを軽く叩く。
「今じゃない。今止まったら、お前を売って馬買うぞ」
もちろん、車は人間の言葉を聞かない。
それでも人は、しばしば機械に向かって話しかける。
それが自分の運命を一時的に預けている相手なら、なおさらだった。
前方の黒塗りの車は、滑らかに高速を進んでいく。
ティキの車は、その後ろを少し情けない音を立てながら追った。
向こうは運転手付きの高級車。
こちらは、いつ機嫌を損ねてもおかしくない中古車。
格差というものは、時に書類の数字よりも、道路の上ではっきり目に見える。
「前金で車を買えばよかったかね」
黒塗りの車の中で、ハワード・リンクはバックミラーを見ていた。
後方に、一台の古い車がいる。
昨日、屋敷周辺とキャンベル食品本社の付近で見た車だった。
そして今朝、また屋敷の周辺で見た。
偶然というものは、たしかに世の中に存在する。
ただし、偶然が同じ顔で二度こちらを向いた時、人はそれを別の名前で呼ぶべきだった。
リンクは表情を変えないまま、口を開いた。
「社長」
後部座席で煙草を取り出していたクロス・マリアンが、視線だけを上げる。
「何だ」
「後方の車ですが、昨日も見ました」
「へえ」
クロスの声に、驚きはなかった。
「距離の取り方から見て、こちらを追っている可能性があります」
「記者か?」
「そのようですね」
クロスは薄く笑った。
窓をわずかに下げ、煙を外へ逃がす。
朝の冷えた風が車内に入り、煙草の匂いを細く裂いた。
「きちんと手順を踏めば、インタビューくらい受けるのにな」
「撒きますか?」
「いや、いい」
クロスは脚を組む。
「記者なら記事にするだけだ。株主ならもっと下手に尾ける。女の亭主なら、もっと殺気立ってる」
リンクは黙って前を向いた。
「では、放置で?」
「放っておけ。面白い顔をしているようなら、あとで見てやる」
クロスはそう言って、煙草を咥えた。
リンクはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、バックミラーの中の古い車を、もう一度だけ確認した。
運転手という仕事は、運ぶことだけではない。
主人の沈黙を守り、主人に迫る余計なものを見分けることも、仕事のうちだった。
高速を降りる頃、景色はすっかり変わっていた。
建物が低くなり、看板が減り、空が広くなる。
舗装道路の乾いた匂いの向こうに、土と草の匂いが混じり始めた。
ティキの車は最後の根性を見せるように坂道を上った。
「頑張れ。仕事が終わったら、油くらい飲ませてやる。高いやつだ」
やがて前方に、大きな看板が見えた。
《キャンベル農場》
その下には、丸々とした缶詰の絵と、笑顔の子供が描かれている。
奥には広い畑があり、そのさらに向こうには低い工場らしき建物と、ガラスの温室が並んでいた。
トラックが出入りしている。
作業着の男たちが歩いている。
畑では、何人もの労働者が腰を曲げ、作物の列に沿って動いていた。
「……畑かよ」
ティキは声に出した。
女の匂いを追っていたはずが、土の匂いに辿り着いた。
彼は農場の入口から少し離れた直売所の脇に車を停めた。
木箱が積まれ、泥のついた野菜が並んでいる。
日除けの下では、老婆が新聞を読みながら店番をしていた。
黒塗りの車は農場の中へ入っていく。
リンクが車を停める。
扉を開ける。
クロスが降りる。
彼は現場責任者らしき男と二、三言葉を交わすと、畑の脇にある小さな作業小屋へ入っていった。
数分後。
小屋の扉が開く。
出てきたクロス・マリアンを見て、ティキは思わず口から煙草を落としかけた。
麦わら帽子。
モンペ。
長靴。
さっきまで高級車の後部座席にふんぞり返っていた食品会社の社長は、今や畑仕事へ向かう農夫の格好をしていた。
ただし、口元には煙草がある。
背筋には色気が残っている。
麦わら帽子の影から覗く目だけは、相変わらず人を値踏みするように細かった。
似合っているのか、似合っていないのか分からない。
分からないのに、様になっている。
それが腹立たしかった。
「……何でも着こなすな、あの社長」
ティキは低く呟いた。
クロスは遊びに来た男の顔ではなかった。
畑へ入る。
土を指先で崩し、葉の裏を見て、作業員に何かを尋ねる。
責任者らしき男がメモを取り、別の男が慌てて温室の方へ走る。
モンペ姿のクロス・マリアンは、女の肩に触れる時と同じくらい自然に、作物の葉へ指を伸ばした。
だが、その目だけは違っていた。
甘い言葉を使う男の目ではない。
金を生むものの出来を見極める男の目だった。
ティキは遠くからそれを眺め、煙草を唇の端に寄せた。
「食い物の王様ってのは、本当に畑まで持ってんのか」
キャンベル食品。
缶詰。
調味料。
スープ。
レストラン。
そして農場。
人間の口へ入るものの道筋を、クロス・マリアンはかなり手前から握っている。
女好きの成金社長。
そのひと言で片づけるには、仕事ができすぎた。
ティキは低く呟く。
「ろくでなしのくせに、有能ときてる」
この手の男は厄介だった。
ただ堕落しているだけなら、まだ可愛げがある。
だが、堕落しながら成功している男は、自分の腐敗に名前をつけない。
それを魅力だの、余裕だの、男の器だのと呼ばせる。
クロス・マリアンは、その類の男に見えた。
そして、そのことがティキには少しだけ鼻についた。
酒。煙草。女。
そういうものを嫌いだと言えるほど、ティキ・ミックは上等な男ではない。
むしろ、似たようなものを好んでいる。
だが、決定的に違うものがあった。
クロス・マリアンの堕落には、金があった。
地位があった。
会社があり、運転手があり、農場があり、レストランがあり、何よりそれを覆い隠すだけの成功があった。
ティキの堕落には、何もない。
あるのは安酒の匂いが染みた事務所と、枯れた胡蝶蘭と、今月の家賃をどうするかという切実な問題くらいだ。
同じ泥を踏んでいるはずなのに、片方は磨かれた革靴で、片方は底の減った靴だった。
だからこそ、腹が立つ。
クロス・マリアンは、自分の腐った部分まで商品に変えることができる男だった。
ティキは煙草を唇の端へ寄せ、畑の中のクロスを見た。
「……嫌になるねぇ」
ティキは笑った。
それはクロスに向けた笑いでもあり、少しだけ、自分自身に向けた笑いでもあった。
夕方まで、クロスは本当に農場にいた。
畑を見て、温室を見て、工場を見た。
試作品らしき瓶詰めを見て、何かを言った。
責任者はそのたびに顔色を変えたり、安堵したりした。
女の影はない。
少なくとも、そこまでは。
ティキは直売所の陰で、売り物のトマトをひとつ買った。
それを一口齧る。
老婆が新聞から目だけを上げる。
「都の人かい」
「顔に書いてある?」
「靴がね」
ティキは自分の靴を見下ろした。
畑の泥が、つま先に少しだけついている。
「ここの社長、よく来るのかい」
老婆は一度、農場の方を見た。
「ああ、クロスさんかい。来るよ。月に何度かね」
「社長自ら畑仕事とは、感心な話だ」
「仕事はできる人だよ」
老婆はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「人としてどうかは知らんけどね」
ティキは口端を上げた。
「へぇ」
老婆はそれ以上言わなかった。
土地の人間は、余計なことを言わない。
その代わり、言わなかったことの輪郭が濃く残る。
ティキはトマトをもう一口齧った。
甘かった。
腹立たしいほど、よくできていた。
つづく、2026/07/21
その他の登場人物は、同名・同姿の別配役として登場します。前作で死亡した人物が生存しているわけではありません。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
あのクリーピーな事件から1年の今日。
ティキ・ミックは寝心地の悪い革張りのソファーの上に寝転んで、長い足を投げ出し、片手に開いた通帳を、まるで自分に死刑宣告を下す判決文のように眺めていた。
窓の外では、夕暮れが街の輪郭を汚している。
この辺りは、昼間でもどこか湿っていた。
酒場の裏口から流れてくる酸えた葡萄酒の匂い。
路地裏に溜まった雨水。
壁に貼られた1年前の興行ポスター。
靴音を立てて通り過ぎる女と、それを値踏みする男たちの視線。
まともな人間が腰を据える場所ではない。
だが、まともな人間ではないティキ・ミックが探偵事務所を構えるには、存外ちょうどよかった。
一階は、夜になると声の大きな客で満ちる酒場だ。
看板には気取った名前が書かれているが、出される酒は安く、椅子は重く、床はいつも少しだけべたついている。
その二階に、いくつかの賃貸部屋が並んでいた。
ミック探偵事務所。
そう書かれた真鍮の札は、扉の上でいかにも偉そうに光っている。
中にいる男の財布事情とは、まるで釣り合っていなかった。
「……どこ行ったんだよ」
ティキは通帳を指先で弾いた。
ノア商事を辞める時にもらった、なけなしの退職金。
あの金は、確かにあった。
事務所の敷金礼金。
机。椅子。ソファー。安物のカーテン。酒。煙草。酒。煙草。たまに食事。時々女。
そしてまた酒と煙草。
思い返すまでもなく、消える理由は山ほどあった。
それでも、目の前の数字はあまりに無慈悲だった。
「探偵ってのは、もう少し儲かる仕事じゃなかったのかね」
返事はない。
あるのは、机の上に積まれた済んだ依頼書だけだ。
迷子の犬。
迷子の猫。
逃げた鸚鵡。
浮気調査。
また浮気調査。
その次も浮気調査。
世間の人間は、自分の伴侶がどこで誰と寝ているかを知るためなら、不思議と金を出す。
それ自体は悪くない。
悪くはないが。
「俺は便利屋じゃねぇぞ」
ティキは低く呟き、通帳を顔の上に放り投げた。
紙の端が鼻に当たる。
少し痛い。
「しかし、今月の家賃どーっすっかなー」
その時だった。
一階の酒場から、女の笑い声と、男の怒鳴り声と、グラスの割れる音が順に響いた。
ティキは通帳を顔から剥がし、天井を見上げる。
どうやら今夜も、この街は平常運転らしい。
そして、そんな平常運転の只中に、ミック探偵事務所の扉を叩く音がした。
この界隈で扉を叩く者の多くは、遠慮を知らない。
酔った客は拳で叩き、借金取りは靴先で蹴る。
女は爪で軽く引っ掻くように鳴らし、警官は叩く前から怒鳴る。
だが、その音は違った。
上等な手袋を嵌めた指先で、木目の荒れた扉を汚さぬように触れたような、礼儀正しい音だった。
ティキはソファーに寝転がったまま、通帳を胸の上に置いた。
「……開いてるよ」
扉が開く。
先に入ってきたのは、黒い服の女だった。
背筋の伸びた、美しい女だ。
喪服のように暗い装いをしているのに、そこに湿っぽさはない。
むしろ、鋭く磨かれた刃物のような冷たさがあった。
女は部屋の中を一瞥し、わずかに眉を動かした。
その後ろから、丸い影がぬるりと入ってくる。
「ふぉっふぉっ。久しぶりですねぇ、ティキぽん」
ティキは露骨に顔をしかめた。
「……その呼び方、まだ生きてたんですか」
「もちろんデス。懐かしいでしょう?」
「殺意が湧くくらいには」
千年伯爵は、気にした様子もなく笑った。
ノア商事会長。
かつてティキが勤めていた会社の頂点に座る男。
金と人と事業と噂を、同じ指先で撫で回す男。
この辺鄙な酒場の二階にある、湿った安アパートの一室には、まるで似つかわしくない。
似つかわしくないのに、なぜか空間の方が伯爵に合わせて歪んでいく。
「景気はいかがデスカ🖤」
「見て分からねぇなら、眼科紹介しますよ」
「ふぉっふぉっ。素敵な事務所デスネ」
「嫌味にしか聞こえねぇな」
伯爵は部屋を見回した。
机。
椅子。
灰皿。
安い酒瓶。
開封されていない請求書。
終わった依頼書。
そして窓辺で、見事なまでに枯れた胡蝶蘭。
伯爵の丸い目が、そこで止まった。
「アレ? 私ガ開店祝いにあげた胡蝶蘭が……」
「植物は難しいですね」
「水は?」
「やった気はします」
「いつ?」
「……先月?」
秘書のルルベルが、呆れる。
「枯れて当然です」
声まで冷たい。
ティキは体を起こし、ソファーの上で肩をすくめた。
「探偵に花の世話まで求めないでほしいね」
「探偵の仕事は来ているのデスカ?」
「犬猫探しと不倫調査なら」
「それは立派なお仕事デス」
「俺はそんなことをしたくて探偵になったんじゃないんだよ⋯」
伯爵は、そこでまた笑った。
ひどく楽しそうに。
最初から、その言葉を待っていたように。
「そうだと思って、仕事を持ってきましタヨ」
ティキの目が、わずかに細くなる。
「……仕事?」
「ええ。あなた向きの仕事デス」
「犬ですか。猫ですか。それとも逃げた鸚鵡?」
「人間です」
伯爵はにこりと笑った。
「私の娘婿を、調べてほしいのデス」
伯爵は、部屋の中央に立ったまま、にこにこと笑っていた。
座れ、とも言われない。
茶も出ない。
そもそも、この部屋に客人へ出せる茶があるのかどうかも怪しい。
ルルベルが無言でソファーを見た。
背もたれには上着が掛かり、座面には昨日の新聞と、空になった煙草の箱が載っている。
ティキはそれを横目で見た。
「座りたいなら、どかせば?」
「あなたがどかすべきでは?」
「俺の事務所なんで」
「客人ですよ」
「勝手に来た客人だろ」
伯爵は、ふぉっふぉっと喉を鳴らした。
「相変わらずデスネ、ティキぽん」
「相変わらずなのはそっちでしょう。元部下の貧乏事務所に、秘書連れて何しに来たんです」
「お仕事の話デスケド?」
「立ち話で?」
「あなたが座らせてくれないので」
「立ってても話せるでしょ」
ルルベルの視線が、ほんの少しだけ冷たくなった。
「無礼ですね」
「ノア商事を辞めた時点で、俺の礼儀も退職したんですよ」
ティキは、ようやく立ち上がった。
といっても、背筋を伸ばして客を迎えるような殊勝さはない。
ソファーの座面に散らばっていた昨日の新聞紙と、空になった煙草の箱を片手でまとめ、事務デスクの上へ投げる。
ついでに上着を背もたれから剥がすように退かし、顎でそこを示した。
「どうぞ」
ルルベルの眉が、また少しだけ動いた。
その動きだけで、投げられた新聞紙よりも、そこへ座れと言った男の精神の方を疑っているのが分かる。
伯爵は気にした様子もなく、ふぉっふぉっと笑いながらソファーに腰を下ろした。
「インスタントのコーヒーならあるが、飲むか?」
「イエ、お構いナク」
「でしょうね」
ティキはそう言うと、自分は反対側の一人掛けのソファーへ腰を落とした。
脚を組み、背もたれに身体を預ける。
客を迎えているというより、借金取りを相手に開き直っている男の姿勢だった。
伯爵が右手を軽く上げる。
それだけで、ルルベルが動いた。
彼女は懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上へ静かに置く。
新しい写真だった。
白いドレス。
大きなケーキ。
銀のナイフ。
隣り合って立つ、男女。
ティキは写真を手に取り、目を細めた。
「ああ、これは夢子さん?……結婚式の?」
「そうデス。ティキぽんが辞めてから、すぐの頃にお見合い結婚シタンデスヨ」
伯爵の声は、相変わらず丸い。
丸いのに、底が見えない。
ティキは写真の中の男へ視線を移した。
夢子の隣に立つ男は、明らかに彼女より年上だった。
洒落た髭。
余裕のある笑み。
白い礼服を着ているのに、どこか酒と煙草の匂いがしそうな男。
「随分、歳が離れてるようだけど?」
伯爵が、わざとらしく長い息をついた。
代わりにルルベルが口を開く。
「クロス・マリアン。キャンベル食品の社長です」
「ああ、あの」
ティキの脳裏に、白黒の映像が浮かんだ。
奇妙に艶のある人形たちが、ナイフとフォークを持って、大きな缶詰を囲んでいる。
丸い目をぎらつかせ、口元に涎を光らせながら、陽気な音楽に合わせて踊るあの広告。
趣味がいいとは言いがたい。
だが、一度見たら忘れられない種類の気味悪さがあった。
「キャンベル食品のクロス社長ね。よく自分の娘をこの男と結婚させましたね。この男、女にだらしがない事で有名じゃないですか。それで、この男の何を?」
「それを調べていただきたいのです」
ルルベルの声は、切れ味のいい銀食器のようだった。
ティキは写真を指先で叩く。
「伯爵。話が見えないんですが」
「夢子がねぇ、最近元気がないのデスヨ」
伯爵は困ったように首を傾げた。
「食も細くなった。笑うことも減った。ワタシの可愛い娘が、まるで冬の花のようにしおれていくのデス」
「冬の花ねえ」
冬の花でも凛と咲くものもあるが…とティキは思ったが、あえて口を挟まない。
「ソノ男が、娘を泣かすようなことをしているのではないかと思いましテ」
ティキは、写真をテーブルへ戻した。
そして嫌そうに言う。
「……ああ。不倫調査か」
「ふぉっふぉっ。理解が早くて助かりマス」
「もっとこう、面白い事件ない?」
ルルベルの視線が冷える。
伯爵はにこにこと笑ったまま、首を横へ揺らした。
「嫌なら、他を当たるしかありまセンねぇ」
「やる。やるよ」
即答だった。
ルルベルの目が、わずかに呆れる。
ティキはそれを見なかったことにして、もう一度写真を手に取った。
結婚式の夢子は、どこかぎこちなく笑っている。
隣のクロスは、そんな彼女の肩を抱いている。
幸福な夫婦の写真に見える。
少なくとも、何も知らない者の目には。
ティキは写真を眺めたまま、ぼそりと言った。
「しかしなぁ。なんで俺と結婚させてくれなかったんだよ」
伯爵の丸い目が、きょとんとしたように瞬いた。
「エ? ティキぽんヲ婿に?」
「そしたら俺、安泰じゃん?」
沈黙。
ルルベルが、心底くだらないものを見る目をした。
伯爵は数秒だけ黙り、それから腹の底から楽しそうに笑った。
「ふぉっふぉっふぉっ。あなたをワタシの婿に?」
「やや、冗談だよ。いや、半分本気だけどよ」
ティキは写真をテーブルへ戻し、懐から煙草を取り出した。
火はつけない。
ただ、唇に咥えて言う。
「ただ、俺が見合いしたかったなって。あ、伯爵、次女いたよな? 次女と俺、どう?」
「どう、とは?」
「婿入り」
ルルベルが、今度こそはっきりと眉を寄せた。
「恥を知ってください」
「知ってたら探偵なんかやってないね」
伯爵は笑いながら、また右手を上げた。
ルルベルが懐から封筒を取り出し、テーブルの上へ滑らせる。
厚みのある封筒だった。
ティキの視線が、吸い寄せられるようにそこへ落ちる。
「トリアエズ、前払いとしてこれヲ」
伯爵が言う。
ティキは封筒を手に取った。
中を開く。
紙幣の束が、行儀よく詰まっている。
その瞬間、ティキの顔に分かりやすい光が差した。
「……わお」
「残りは、調査が終わったあとにお支払いしマス」
ティキは封筒を閉じ、胸の内ポケットへ丁寧にしまった。
さっきまで通帳に死刑宣告を下されていた男とは思えない手つきだった。
「伯爵」
「ハイ?」
「俺、昔からあなたのこと、仕事のできるいい上司だと思ってました」
「ふぉっふぉっ。そうデスカ」
「金払いのいい依頼人は、だいたいいい人です」
「分かりやすい男ですねぇ」
「探偵は単純な方が長生きするんですよ」
ルルベルが静かに言った。
「では、引き受けていただけるのですね」
ティキはソファーに深く座り直し、写真をもう一度見下ろした。
夢子。
クロス・マリアン。
キャンベル食品。
ノア商事会長の娘婿。
そして、不倫調査。
つまらない仕事のはずだった。
少なくとも、この時のティキには、そう見えていた。
「いいでしょう」
ティキは口端だけで笑った。
「それで、詳しいことを教えてくれよ。会長」
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
翌朝。
ティキ・ミックは、都内でも指折りの高級住宅街にいた。
彼は、自分の車の運転席に座っていた。
年季の入った中古車だった。
かつては洒落た色だったのかもしれない塗装は、今ではところどころ曇り、雨に打たれた跡が斑に残っている。
ハンドルには手垢が染み、助手席には古い新聞と依頼書が積まれ、灰皿には吸い殻が山になっていた。
エンジンを切れば静かになる。
その代わり、二度とかからなくなるのではないかという不安があった。
「頼むぜ、相棒。今日だけは機嫌よくしてくれよ」
ティキは煙草を咥えたまま、伯爵から聞いた住所の屋敷を見やった。
白い外壁。
黒い鉄門。
手入れの行き届いた前庭。
その門前に、一台の車が停まっている。
ティキの車とは違った。
黒く磨かれた車体は、朝の光を静かに跳ね返していた。
角ばったボンネット。
重そうな扉。
曇りひとつない窓硝子。
まるで、金と体面と家柄を鉄で固めたような車だった。
その車の横には、やたら姿勢のいい男が立っていた。その男が伯爵の言っていたハワード・リンクという男だろうか。
帽子の角度に乱れはなく、手袋を嵌めた指は体の横で静かに揃えられていた。
突然こちらを向く。
ティキは「やべっ」と言いながら寝たフリをする。
勘の鋭そうな男だ。
運転手にしとくにはもったいない。
やがて玄関の扉が開いた。
クロス・マリアンが出てくる。
朝だというのに、どこか夜の匂いを引きずった男だった。
煙草。香水。女。
そういうものが似合いすぎる男は、ただ屋敷の階段を降りるだけで、朝の清潔な空気を少し濁らせる。
その後ろから、夢子が姿を見せた。
伯爵の言った通りだった。
写真の中の彼女より、今の彼女はずっと沈んで見える。
服も髪も整っていて、妻として夫を見送る姿に、乱れはない。
ただ、表情だけが追いついていなかった。
クロスは[#dn=1#]の前で足を止めると、当然のように身を屈めた。
額に、軽く口づける。
この辺りに住む夫婦なら当たり前な行動だろう。
[#dn=1#]は目を伏せた。
「……いってらっしゃいませ」
クロスは微笑み、車へ乗り込む。
リンクが扉を閉めた。
無駄のない動きだった。
そこに感情はない。
そして、黒い車が、ゆっくりと門前を離れていく。
ティキは吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、キーを回した。
エンジンが、一度咳き込む。
「おい」
二度目で、かかった。
車体が情けなく震える。
向こうは運転手付きの高級車。
こちらは、いつ止まってもおかしくない中古車。
落差というものには、時に人を笑わせる力がある。
「泣けるねぇ、ミック探偵事務所」
ティキはそう呟き、少し距離を置いて車を出した。
朝の高級住宅街に、黒塗りの車の静かな走行音と、くたびれた中古車の頼りない唸りが、奇妙な二重奏のように続いていった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
キャンベル食品本社は、朝八時前から人を吸い込み始めていた。
硝子張りの正面玄関。
磨かれた石の階段。
社名を刻んだ金属板。
出入りする社員たちは皆、まだ眠気を顔のどこかに残しているのに、靴音だけは勤勉だった。
黒塗りの車が、その正面玄関前に静かに停まる。
運転席から降りたリンクは、まるで時計の針のように無駄のない動きで後部座席の扉を開けた。
クロス・マリアンが現れる。
ティキはクロスの車を追い越し、少し離れた車道から、その様子をバックミラー越しに見ていた。
キャンベル食品の正面玄関にこの車を置けば、警備員の記憶に残るのはクロスではなく、この車の方だろう。
そもそも尾行していることに気づかれてはならない。
「目立つ探偵ってのは、三流だからな」
ティキはそう呟き、何食わぬ顔で本社前を通り過ぎた。
角を曲がり、少し離れた有料駐車場に車を入れる。
白線は薄く、地面には古い油染みが残っていた。
彼の車には、そちらの方が似合っている。
助手席には、前金を手にした勢いで買った中古のハーフサイズカメラが転がっていた。
「調査道具、調査道具」
自分に言い聞かせるように呟く。
その隣に置かれた煙草の箱と、昨夜飲んだ酒瓶の領収書は見なかったことにした。
通りの向こうに、古い喫茶店がある。
看板には、褪せた金文字で《珈琲 鳩時計》と書かれていた。
窓硝子は少し曇り、入口脇の鉢植えは、枯れる一歩手前で踏みとどまっている。
だが、位置は悪くない。
キャンベル食品本社の玄関が、窓際の席からよく見える。
ティキはカメラを上着の内側へ押し込み、店の扉を開けた。
からん、と小さなベルが鳴る。
店内には、濃い珈琲の匂いと、朝刊の紙の匂いが沈んでいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、痩せた男が顔を上げる。
白い肌。
長い顔。
どこか病人めいた佇まい。
だが、その目だけは澄んでいた。
アレイスター・クロウリー。
店の看板よりも、本人の方がよほど古めかしい名前をしていそうな男だった。
「珈琲をひとつ」
ティキは窓際の席に腰を下ろしながら言った。
「眠気が飛ぶくらい濃いやつ」
「了解しました。うんと濃い珈琲ですね」
クロウリーは微笑んだ。
ティキは窓の外へ目を向ける。
キャンベル食品本社の玄関では、社員たちが次々と吸い込まれていく。
さすがにクロスの姿はもうない。
「ご注文は以上ですか?」
「ほい」
「朝から何も召し上がっていない顔をしています」
「ん?喫茶店の店主ってのは、客の顔色まで見るもんか?」
「見えてしまうんです。暇なのです」
ティキは少しだけ笑った。
珈琲はすぐに出てきた。
黒く、苦いが、安い豆の味がする。
だが、張り込みにはちょうどいい。
一杯の珈琲で、三十分。
さらに一時間。
キャンベル本社には社員が入り、来客が入り、荷物が運び込まれるが、クロスは出てこない。
さらに一時間
ティキは窓際で足を組み、煙草を咥えたまま、火をつけずに外を見ていた。
やがて、カウンターの奥から弱々しい声が飛んだ。
「あの……お客様」
「ん?」
「珈琲一杯で、ずいぶん長くお座りに……」
「居心地がいいんだよ」
「それは光栄なのですが、店としては少し困ります」
「褒めてんのか追い出してぇのか、どっちだい」
「できれば、何か追加でご注文を……」
ティキは懐の封筒を思い出した。
前払いの金がある。
そう思った途端、急に胃袋まで偉そうになる。
「ナポリタンとクリームソーダをくれ」
クロウリーが瞬いた。
「はい!」
「嬉しそうだな」
「そりゃもう、当店自慢ですから。何せケチャップが違います」
クロウリーは棚から一本の瓶を取り出した。
赤いラベル。
丸みのある文字。
キャンベル食品。
ティキの視線が、そこで止まった。
「……それ」
「キャンベル食品さんのケチャップです」
「向かいの?」
「はい。缶詰も、スープも、ソースも、かなりお世話になっています」
「この店、向かいの会社に魂売ってんのか?」
「仕入れが楽なんですよ。それに直販ですから他で買うより安いんです」
あまりにも真面目な声だった。
ティキは窓の向こうの本社を見た。
目の前の建物。
目の前のケチャップ。
これから食うナポリタン。
どこを向いても、クロス・マリアンの影がある。
「いいねぇ。資本主義の味がしそうだ」
「お嫌いですか?」
「いや、食う。皮肉は腹に溜まらねぇからな」
しばらくして、鉄板の上で何かが焼ける音がした。
油。玉ねぎ。ピーマン。
そして、甘ったるいケチャップの匂い。
ナポリタンは、皿の上で赤く光っていた。
そして、緑のグラスが置かれた。
「お待たせしました」
クロウリーは弱々しく微笑んだ。
ティキはフォークを手に取った。
一口食べる。
甘い。
酸っぱい。
妙に懐かしい。
そして腹立たしいほど、うまい。
「……クロス・マリアン、商売は上手いな」
「社長さんが何か?」
「知ってんのか?」
「毎朝、お見かけします。黒い車で。運転手の方は、とても几帳面な方ですね」
「よく見てるねぇ」
「見えてしまうんです。窓の外を眺める時間だけは、長いものですから」
ティキは窓の外を見た。
その時だった。
キャンベル食品本社の玄関が、慌ただしく動いた。
リンクが車を回してくる。
黒塗りの車が、玄関前に滑り込む。
続いて、クロス・マリアンが姿を現した。
「……おいおい、今かよ」
ティキは皿を見た。
まだナポリタンが半分以上残っている。
窓の外を見る。
クロスはもう車に乗り込もうとしている。
ティキはもう一度、皿を見た。
「勿体ねぇ!」
次の瞬間、彼はナポリタンを可能な限り口へ詰め込んだ。
頬が不自然に膨らむ。
探偵というより、冬支度を急ぐ栗鼠だった。
クリームソーダの上のアイスまで、なぜか一口で押し込む。
「お、お客様!?」
クロウリーが青ざめる。
ティキは立ち上がり、カメラを掴んだ。
「食い逃げあるかー!?」
泣きそうな声が店内に響く。
ティキは頬を膨らませたまま振り返った。
何か言おうとする。
だが、口の中がナポリタンとアイスで満ちているため、まともな言葉にならない。
代わりに、懐から一万円札を抜いた。
それをカウンターに、ばん、と置く。
「……まは、くる。つひはいらへぇ」
「え?」
ティキは親指を立てた。
クロウリーは一万円札と、半分空いた皿と、頬袋のようになった探偵を交互に見た。
「お客様……ナポリタンとクリームソーダでこれは……」
ティキはもう聞いていない。
扉を開ける。
からん、とベルが鳴る。
クロスを乗せた黒い車が、本社前を離れていく。
ティキは口いっぱいにナポリタンを詰めたまま、駐車場へ向かって走った。
昼前の通りに、喫茶店の店主の弱々しい声だけが残る。
「また来てくださいね……! できれば、次は普通にお食べになってくださーい……!」
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
黒塗りの車は、昼前の街を滑るように進んだ。
ティキは少し距離を置いて、その後を追う。
ナポリタンはまだ胃の中で重かった。
クリームソーダの甘さも、舌の奥にしつこく残っている。
「昼飯前から、よく動く社長さんだこと」
そう呟いた時、前方の車が速度を落とした。
停まったのは、花屋の前だった。
古い石造りの店構えに、季節の花が溢れている。
白い百合。赤い薔薇。淡い紫の蘭。
硝子戸の向こうでは、女店員がリボンを選んでいた。
ティキは目を細める。
「……花屋ねぇ」
クロス・マリアンが車を降りる。
リンクはいつものように無表情で扉を閉め、車の傍らに立った。
主人がどこで何を買おうと、興味などないという顔だ。
クロスは店に入り、ほどなくして大きな花束を抱えて出てきた。
白と淡い桃色を混ぜた、上品な花束だった。
女に渡すには、少し大きい。
だが、女を喜ばせるには十分すぎる。
ティキは口端を上げた。
「出たか」
浮気調査という退屈な仕事にも、ようやくそれらしい匂いが出てきた。
妻には沈んだ顔をさせておいて、昼間から花束を抱えて女の元へ向かう。
ありきたりだ。
ありきたりだが、だからこそ人間らしい。
クロスを乗せた車は、再び動き出した。
ティキは後を追う。
十分。
十五分。
車は繁華街の奥へ入っていく。
やがて停まったのは、女の住むアパートでも、ホテルでもなかった。
レストランだった。
表の看板には、流れるような筆記体で店名が書かれている。
扉の横には、キャンベル食品の小さな紋章。
新しい店らしく、窓硝子は曇りひとつなく磨かれ、入り口には開店祝いの花がいくつも並んでいた。
クロスは花束を抱えたまま店内へ入る。
出迎えた支配人らしき男が、深く頭を下げた。
その花束をその男に渡す。
さすがに浮気相手では無さそうだ。
少なくとも、恋人に花を渡す男の顔ではなかった。
ティキはハンドルに肘をつき、しばらく無言でそれを見ていた。
「……自分の店かよ」
期待した自分が馬鹿らしい。
クロス・マリアンは、花束を女に贈りに来たのではない。
自分のレストランに飾るために買ってきたのだ。
食事は味だけではない。
皿。照明。椅子。花。
女の機嫌を取る時と同じ顔で、クロスは客の胃袋と財布を口説いている。
ティキは低く笑った。
「商売熱心だねぇ、食い物の王様」
その後、クロスは会社へ戻ったと同時に、ティキも喫茶・鳩時計に戻った。
今度は喫茶・鳩時計の駐車場に車を停めた。
初めからこうしてりゃ良かったと午前中の自分をティキは恨んだ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
午後の収穫は、薄い。
ティキは双眼鏡を片手に窓から見える社内を頑張って覗こうとした。
チラチラと見る限りクロスは真面目に仕事をしているようだ。
多分会議に出た。
書類に目を通した。
女社員に声をかけた。
肩へ手を置く。
書類を受け取る時、指先へ触れる。
何かを褒める。
笑いながら距離を詰める。
女社員たちは笑っていた。
笑って受け流す術を、職場という場所で覚えさせられた女たちの笑いだった。
クロスはそれを、空気と同じくらい当然のものとして扱っている。
「……伯爵の娘だけじゃなく、社内の女にも優しいわけだ」
ティキは低く呟いた。
だが、それは不倫の証拠ではない。
ただ、クロス・マリアンという男の輪郭を、少しだけ濃くするだけだった。
夕方。
クロスは、まっすぐ家へ帰った。
途中でホテルへ寄ることもなく、酒場へ消えることもなく、女を拾うこともなかった。
黒塗りの車は、朝と同じ門の前で静かに停まる。
リンクが扉を開ける。
クロスは片手に、小ぶりな花束を持っていた。
昼間の花屋で、店のものとは別に買ったものだろう。
白と淡い桃色を合わせた、妻へ贈るにはいかにも品のいい花だった。
玄関から、[#dn=1#]が出てくる。
クロスは笑って、その花束を差し出した。
夢子は一瞬だけ目を見開き、それから両手で受け取る。
傍目には、申し分のない夫婦だった。
仕事を終えた夫。
帰りを待つ妻。
土産の花。
門灯の下で交わされる短い言葉。
幸福というものを絵に描けば、だいたいこんな形になる。
クロスはさらに身を屈めた。
朝と同じように、[#dn=1#]の額へ口づける。
[#dn=1#]は花束を抱いたまま、目を伏せた。
その横顔は、少し嬉しそうだった。
旦那が寄り道せず帰ってきたからか?
ティキは車の中で、タバコに火をつけた。
今日一日、クロス・マリアンは女のところへ行かなかった。
仕事をし、店を見て、会社へ戻り、妻へ花を持って帰った。
善良な夫に見える。
それなのに、伯爵の言った通り、[#dn=1#]はどこか枯れかけているように見えた。
「……よくできた旦那様だこと」
ティキは低く呟いた。
クロスと[#dn=1#]が屋敷の中へ消える。
門が閉まる。
夜が落ちる。
ティキはそのまま、しばらく屋敷を見張った。
クロスが夜に出てくるかもしれない。
そう思ったからだ。
だが、その夜、黒塗りの車は一度も動かなかった。
窓の灯りがひとつ消え、またひとつ消えた。
庭木の影が、門灯の下で静かに揺れる。
何も起きない。
不倫の証拠も、密会の影も、女の匂いも掴めない。
ただ、幸福の形をした不幸だけが、門灯の下に残っている気がした。
ティキはシートにもたれ、目を細める。
『報告書──1日目』
対象、白とは言えない。
だが、黒とも言えない。
ただ、怪しい点が無い。
「退屈な尾行ほど、後で面倒なことになる」
夜の住宅街に、紫煙だけが細く溶けていった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
二日目の朝も、クロス・マリアンは同じ時間に屋敷を出た。
黒塗りの車。
几帳面な運転手。
見送りに立つ妻。
額へ落とされる、手順通りの口づけ。
昨日と違っていたのは、ティキ・ミックの首と腰に、ひと晩分の疲労が刻まれていることくらいだった。
車の中で夜を明かすという行為は、10代の頃なら少しは冒険に似ていたかもしれない。
だが、今のティキにとってそれは、ただ関節を痛めるだけの労働だった。
「探偵業ってのは、思ったより身体に悪いな」
火のついていない煙草を咥え、低くぼやく。
うっかりゴミ出しの婦人に中を覗かれてしまったが気にしない。ウインクで返してやった。
クロスを乗せた車が、屋敷の前を滑るように離れていく。
リンクの運転には癖がなかった。
速度も、間合いも、道の選び方も、すべてが正確だった。
まるで車そのものが、あの男の背筋の延長であるかのように見える。
ティキは少し間を置いてから、くたびれた中古車を出した。
昨日と同じなら、このままキャンベル食品本社へ向かうはずだった。
だが、黒塗りの車は昨日と同じ角を曲がらなかった。
「……ん?」
ティキは目を細める。
車は市街地を抜け、朝の通勤車両が増え始めた大通りへ出た。
それから、迷いなく速度を上げていく。
行き先は会社ではない。
高速道路の入口だった。
「おいおい」
ティキはハンドルを握り直した。
「朝から遠足かよ、社長さん」
料金所を抜ける頃、彼の車は早くも不満を訴え始めた。
ぷす、と一度。
少し間を置いて、ぷすぷす、と二度。
エンジンの奥から、喉を悪くした老人のような音がした。
「やめろよ」
ティキはハンドルを軽く叩く。
「今じゃない。今止まったら、お前を売って馬買うぞ」
もちろん、車は人間の言葉を聞かない。
それでも人は、しばしば機械に向かって話しかける。
それが自分の運命を一時的に預けている相手なら、なおさらだった。
前方の黒塗りの車は、滑らかに高速を進んでいく。
ティキの車は、その後ろを少し情けない音を立てながら追った。
向こうは運転手付きの高級車。
こちらは、いつ機嫌を損ねてもおかしくない中古車。
格差というものは、時に書類の数字よりも、道路の上ではっきり目に見える。
「前金で車を買えばよかったかね」
黒塗りの車の中で、ハワード・リンクはバックミラーを見ていた。
後方に、一台の古い車がいる。
昨日、屋敷周辺とキャンベル食品本社の付近で見た車だった。
そして今朝、また屋敷の周辺で見た。
偶然というものは、たしかに世の中に存在する。
ただし、偶然が同じ顔で二度こちらを向いた時、人はそれを別の名前で呼ぶべきだった。
リンクは表情を変えないまま、口を開いた。
「社長」
後部座席で煙草を取り出していたクロス・マリアンが、視線だけを上げる。
「何だ」
「後方の車ですが、昨日も見ました」
「へえ」
クロスの声に、驚きはなかった。
「距離の取り方から見て、こちらを追っている可能性があります」
「記者か?」
「そのようですね」
クロスは薄く笑った。
窓をわずかに下げ、煙を外へ逃がす。
朝の冷えた風が車内に入り、煙草の匂いを細く裂いた。
「きちんと手順を踏めば、インタビューくらい受けるのにな」
「撒きますか?」
「いや、いい」
クロスは脚を組む。
「記者なら記事にするだけだ。株主ならもっと下手に尾ける。女の亭主なら、もっと殺気立ってる」
リンクは黙って前を向いた。
「では、放置で?」
「放っておけ。面白い顔をしているようなら、あとで見てやる」
クロスはそう言って、煙草を咥えた。
リンクはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、バックミラーの中の古い車を、もう一度だけ確認した。
運転手という仕事は、運ぶことだけではない。
主人の沈黙を守り、主人に迫る余計なものを見分けることも、仕事のうちだった。
高速を降りる頃、景色はすっかり変わっていた。
建物が低くなり、看板が減り、空が広くなる。
舗装道路の乾いた匂いの向こうに、土と草の匂いが混じり始めた。
ティキの車は最後の根性を見せるように坂道を上った。
「頑張れ。仕事が終わったら、油くらい飲ませてやる。高いやつだ」
やがて前方に、大きな看板が見えた。
《キャンベル農場》
その下には、丸々とした缶詰の絵と、笑顔の子供が描かれている。
奥には広い畑があり、そのさらに向こうには低い工場らしき建物と、ガラスの温室が並んでいた。
トラックが出入りしている。
作業着の男たちが歩いている。
畑では、何人もの労働者が腰を曲げ、作物の列に沿って動いていた。
「……畑かよ」
ティキは声に出した。
女の匂いを追っていたはずが、土の匂いに辿り着いた。
彼は農場の入口から少し離れた直売所の脇に車を停めた。
木箱が積まれ、泥のついた野菜が並んでいる。
日除けの下では、老婆が新聞を読みながら店番をしていた。
黒塗りの車は農場の中へ入っていく。
リンクが車を停める。
扉を開ける。
クロスが降りる。
彼は現場責任者らしき男と二、三言葉を交わすと、畑の脇にある小さな作業小屋へ入っていった。
数分後。
小屋の扉が開く。
出てきたクロス・マリアンを見て、ティキは思わず口から煙草を落としかけた。
麦わら帽子。
モンペ。
長靴。
さっきまで高級車の後部座席にふんぞり返っていた食品会社の社長は、今や畑仕事へ向かう農夫の格好をしていた。
ただし、口元には煙草がある。
背筋には色気が残っている。
麦わら帽子の影から覗く目だけは、相変わらず人を値踏みするように細かった。
似合っているのか、似合っていないのか分からない。
分からないのに、様になっている。
それが腹立たしかった。
「……何でも着こなすな、あの社長」
ティキは低く呟いた。
クロスは遊びに来た男の顔ではなかった。
畑へ入る。
土を指先で崩し、葉の裏を見て、作業員に何かを尋ねる。
責任者らしき男がメモを取り、別の男が慌てて温室の方へ走る。
モンペ姿のクロス・マリアンは、女の肩に触れる時と同じくらい自然に、作物の葉へ指を伸ばした。
だが、その目だけは違っていた。
甘い言葉を使う男の目ではない。
金を生むものの出来を見極める男の目だった。
ティキは遠くからそれを眺め、煙草を唇の端に寄せた。
「食い物の王様ってのは、本当に畑まで持ってんのか」
キャンベル食品。
缶詰。
調味料。
スープ。
レストラン。
そして農場。
人間の口へ入るものの道筋を、クロス・マリアンはかなり手前から握っている。
女好きの成金社長。
そのひと言で片づけるには、仕事ができすぎた。
ティキは低く呟く。
「ろくでなしのくせに、有能ときてる」
この手の男は厄介だった。
ただ堕落しているだけなら、まだ可愛げがある。
だが、堕落しながら成功している男は、自分の腐敗に名前をつけない。
それを魅力だの、余裕だの、男の器だのと呼ばせる。
クロス・マリアンは、その類の男に見えた。
そして、そのことがティキには少しだけ鼻についた。
酒。煙草。女。
そういうものを嫌いだと言えるほど、ティキ・ミックは上等な男ではない。
むしろ、似たようなものを好んでいる。
だが、決定的に違うものがあった。
クロス・マリアンの堕落には、金があった。
地位があった。
会社があり、運転手があり、農場があり、レストランがあり、何よりそれを覆い隠すだけの成功があった。
ティキの堕落には、何もない。
あるのは安酒の匂いが染みた事務所と、枯れた胡蝶蘭と、今月の家賃をどうするかという切実な問題くらいだ。
同じ泥を踏んでいるはずなのに、片方は磨かれた革靴で、片方は底の減った靴だった。
だからこそ、腹が立つ。
クロス・マリアンは、自分の腐った部分まで商品に変えることができる男だった。
ティキは煙草を唇の端へ寄せ、畑の中のクロスを見た。
「……嫌になるねぇ」
ティキは笑った。
それはクロスに向けた笑いでもあり、少しだけ、自分自身に向けた笑いでもあった。
夕方まで、クロスは本当に農場にいた。
畑を見て、温室を見て、工場を見た。
試作品らしき瓶詰めを見て、何かを言った。
責任者はそのたびに顔色を変えたり、安堵したりした。
女の影はない。
少なくとも、そこまでは。
ティキは直売所の陰で、売り物のトマトをひとつ買った。
それを一口齧る。
老婆が新聞から目だけを上げる。
「都の人かい」
「顔に書いてある?」
「靴がね」
ティキは自分の靴を見下ろした。
畑の泥が、つま先に少しだけついている。
「ここの社長、よく来るのかい」
老婆は一度、農場の方を見た。
「ああ、クロスさんかい。来るよ。月に何度かね」
「社長自ら畑仕事とは、感心な話だ」
「仕事はできる人だよ」
老婆はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「人としてどうかは知らんけどね」
ティキは口端を上げた。
「へぇ」
老婆はそれ以上言わなかった。
土地の人間は、余計なことを言わない。
その代わり、言わなかったことの輪郭が濃く残る。
ティキはトマトをもう一口齧った。
甘かった。
腹立たしいほど、よくできていた。
つづく、2026/07/21