マーダーミステリーD~断罪のリゾートホテル

【断罪のリゾートホテル、2日目】


『ソレデハマタアシタ』

無機質な機械音声が、まるで愉快な舞台挨拶みたいに食堂へ響き渡る。

次の瞬間、ガチャン、ガチャンッ――と重い音が重なり、全員の首と手首を固定していた金属のベルトが一斉に外れた。

だが、誰もすぐには動かなかった。

テーブルの中央に引っ込んでいく巨大なボーガン。

額に矢を突き立てたまま、椅子に縫い止められて動かないハワード・リンク。

その光景が、まだ誰の現実にもなりきっていない。

最初に口を開いたのは、アレンだった。

「……ハワードさん……」

掠れた声。

彼は呆然とリンクの亡骸を見つめたまま、ぽつりと呟く。

「やけに慣れてると思ったら……警察の方だったんですね……」

その声音には、驚きよりも、置いていかれたような空虚さの方が強かった。

コムイが何か言いかける。

だが、その前にリナリーが小さく首を振った。

「……知っていたら、少しは違ったのかしらね」

静かな声だった。

アレンは返事をしない。

ただ、ゆっくりと立ち上がる。

その拳は、気づかないうちに強く握りしめられていた。

怒っているのだ。

恐怖でも、悲しみでもなく。

その両方を飲み込んだ先で、静かに、はっきりと。

アレンは無言のまま食堂を出て行った。

誰も引き止めなかった。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



薄暗い廊下を、アレンは早足で進んでいた。

足音だけが、やけに大きく響く。

リンクの最後の顔。

額に突き立った矢。

そして、“悪い警部”というあの声。

頭の中で何度も反芻されるたびに、胸の奥がざらついた。

「……許さない」

思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。

泣く暇なんてない。

そう思う反面、自分が何に怒っているのか、うまく言葉にできない。

リンクが警察の人間だったことを隠していたからか。

自分が何も知らされていなかったからか。

それとも、あんな死に方をしたこと自体にか。

答えは出ないまま、アレンはリネン室の重い扉を押し開けた。

中は薄暗く、整然と積み上げられたシーツやタオルの匂いがする。

昨夜もここへ来た。

ラビの遺体を包むためのシーツを取りに。

アレンは棚から真っ白なシーツを一枚、無意識に引き抜いた。

その瞬間だった。

ふと、脳裏に何かが引っかかる。

「……配電室」

リナリーが言っていた。
焼け焦げた線。
そして、小さなガラスのような破片。

配電室は、このリネン室の奥からも入れる。

反対側の廊下から出入りできるのは知っていたが、こちら側の扉は普段、従業員しか使わない。

アレンはシーツを腕に掛けたまま、奥へと視線を向けた。

部屋の奥、配線盤の死角になる位置に、段ボール箱が不自然に積まれていた。

まるで、何かを隠すように。

「……こんな所に段ボールなんて置いたっけ?」

アレンは一歩、中へ入った。

すぐに、何か変な匂いがした。

焦げた配線の臭いではない。

湿気と埃の中に混じる、もっと鈍く、重たい匂い。

喉の奥がざらつく。

「……まさか」

自分の声が、嫌に小さく響いた。

段ボールの一つに手をかける。

軽い。中身はほとんど入っていないらしい。

ぎ、と音を立てて脇へずらす。

その向こうに見えたのは、黒い靴の先だった。

「――っ!」

アレンは息を止めた。

震える手で、もう一つ段ボールをどかす。

白いシャツ。

見覚えのあるベスト。

そして、横倒しになったまま動かない人の顔。

丸眼鏡は片方のレンズが割れ、頭部には乾いた血がこびりついていた。

「ジョニー……?」

ボーイ兼料理長、ジョニー・ギル。

その身体は、段ボールの陰に押し込められるように倒れていた。

死人だった。

誰が見ても分かる。

呼吸はなく、肌はすでに生気を失っている。

アレンの腕から、抱えていたシーツが滑り落ちた。

「そんな……」

声が掠れる。

ジョニーが犯人だと、そう思いかけていた。

少なくとも、どこかに潜んでいるのだと。

なのに。

「じゃあ……誰が……」

膝が震える。

配電室の狭い空間が、一気に息苦しくなった。

ジョニーは死んでいる。

眼鏡は割れている。

そして、その遺体は、こんな場所に隠されていた。

つまり――

あのガラス片も。
あのボタンも。
ジョニーの失踪も。

すべて、誰かが“ジョニー・ギル犯人説”へ誘導するために使った可能性がある。

アレンは青ざめた顔のまま、壁に手をついた。

「……違う」

低く、震えた声。

「違ったんだ……」

リンクは間違えた。

自分たちは、また一人、間違った方向へ追い込まれようとしていたのかもしれない。

そしてそのことに気づいた瞬間、アレンの背筋を、これまでとは別種の寒気が走った。

この館のどこかにいる本当の犯人は、
ジョニーを殺し、隠し、なおかつその死体を使って議論まで操っている。

あまりにも冷静で、あまりにも用意が良すぎた。

アレンは数歩後ずさった。

だが、視線だけはジョニーの死体から離せない。

(犯人は……あの人たちだったんだ!)

喉の奥でそう叫びかけて、アレンははっと息を止めた。

――いや、待て。

もしジョニーが殺されたのが未明なら。

もし、この死体が昨夜よりずっと後のものだとしたら。

その場合は――
“あの人”にも、まだ殺せる余地がある。

アレンは青ざめた顔のまま、ジョニーの死体を見下ろした。

(僕は死体のことなんて分からない……)

死後何時間経っているのか。

この傷がいつつけられたものなのか。

そんなこと、自分には判断できない。

(どっちだ……?)

喉がひりつく。

(どっちが犯人なんだ!?)

配電室の薄暗がりの中、アレンの視線だけが激しく揺れていた。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



アレンが出ていったあと、
ティキ・ミックは前髪をかき上げた。

(へえ……これでハッキリした)

七年前の港湾開発反対派夫婦死亡事故。
シェリル。
ブックマンJr。
そして、捜査側の人間。
ブックマンJrに三千万。
刑事に一千万。

(刑事とは、この男だったんだな。警部に昇進してるとは……ククク)

リンクの亡骸を一瞥したあと、ティキはゆっくりと立ち上がった。

「これで、分かりやすくなった」

リナリーとコムイが同時に顔を上げる。

「……何が?」

リナリーの問いに、ティキは不敵に笑った。

「犯人が誰か、だよ」

食堂の空気が一瞬で変わる。

「……貴方が犯人じゃないの?」

リナリーが警戒を露わにするが、ティキは鼻で笑った。

「違う違う。俺はもう、“誰が犯人か分かった”って言ってるんだ」

コムイの目が細くなる。

ティキは二人を見比べながら、わざとゆっくり言った。

「で、相談なんだけど。今ここで名前を出しても、もう今夜のゲームは終わってる。意味ないよな?」

「……何が言いたいの」

「簡単さ」

ティキの笑みが、少しだけ冷える。

「明日のゲームが始まるまで、俺を長髪の男みたいに消すつもりはある?」

リナリーの顔がこわばった。

コムイの作り笑いも、今度ばかりは浮かばない。

「……知らないよ、そんなこと」

乾いた声で答えたのはコムイだった。

ティキは肩をすくめた。

「うーん。ちゃんと約束してほしいな。明日の朝まで、お互い手出し無用で」

「お互い?」

リナリーが眉を寄せる。

「そう。俺は今夜、お前らに手を出すのを止めてやる。その代わり、お前らも俺に手を出さない」

ティキはにこりと笑う。

「公平だろ?」

二人は無言だった。

だが、その沈黙だけで十分だった。

ティキにとっては、もう答え合わせは済んでいる。

この二人の顔色の変わり方が、何より雄弁だった。

「……返事しないんだ」

くっくっと喉で笑う。

「念のため言っとくけど、先に手ぇ出されたら遠慮しないよ。正当防衛って便利な言葉、俺も嫌いじゃないんだ」

「何なのよ、さっきから……!」

リナリーが声を荒げる。

ティキはその怒声すら面白がるように片手をひらりと振った。

後ろ向きのまま歩き出す。

「死にたくなかったら、ちゃんとゲームを遂行することだ」

そう言い残し、ティキは食堂を後にした。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤


段ボールの陰に横たわるジョニー・ギル。

割れた眼鏡。

動かない身体。

頭部の、鈍く潰れたような傷。

喉がひどく渇く。

けれど、やがてアレンは震える手でシーツを広げた。

「……ごめんね、ジョニー」

声が掠れる。

「ひとりじゃ……運べない……」

真っ白な布が、ジョニーの身体に静かに被せられる。

その姿が隠れた途端、余計に“死”だけが濃くなった気がした。

アレンは唇を強く噛み、棚からもう一枚、別のシーツを引き抜く。

リンクのためだ。

あのままにして置けない。

たとえ何をしていた人間でも、あんな風に晒したままにはしたくなかった。

(戻りたくない……)

シーツを抱えた腕に、じわりと力が入る。

(逃げたい……どこかに隠れたい……)

廊下に出れば、また誰かに会う。

次は自分が死ぬかもしれない。

(あの強そうな神田って人だって、殺されたんだ……。僕なんか、一瞬で……)

思考がそこまで行って、アレンはぎゅっと目を閉じた。

でも――

(でも……やっぱりハワードさんを、あのままにしておけない……)

そうして、重い足を引きずるように、配電室を後にした。

リネン室を抜け、薄暗い廊下を進む。

その途中。
厨房の前を通りかかった時だった。

カン、という乾いた音。

続いて、ボウル同士がぶつかり合うような高い金属音。

「ひっ!」

アレンの肩が跳ねる。

(だ、誰!?)

心臓が一気に喉元まで跳ね上がる。

そろそろと厨房の扉に近づき、備え付けの丸窓から中を覗いた。

その瞬間。

「――っ」

思わず息を呑んだ。

そこにいたのは、ティキ・ミックだった。

厨房の明かりの下、気だるそうに立つその手には、きらりと光る包丁。

アレンは反射的に頭を引っ込める。

だが、遅かった。

目が合った。

次の瞬間、厨房の扉があっさりと開く。

「やあ、少年。いい所に来たね」

包丁を手にしたまま、ティキがにこりと笑った。

アレンの喉から、情けない悲鳴が漏れる。

「ひぃ!」

ティキは一瞬きょとんとしたあと、ようやく自分の手元を見た。

「あ、ごめんごめん」

包丁をひょいと背中側へ隠す。

「腹減ったから何か作ろうと思ってさ。でも、何がどこにあんのか全然分かんねぇの。だから手伝って」

その言い方はあまりにも自然で、逆に不気味だった。

ついさっきまで人が死んでいたホテルで、包丁片手に“腹が減った”と言えるこの男が、アレンには心底恐ろしく見えた。

「ぼ、僕……その……」

「大丈夫。君にやらせるのは材料を出してくることだけ」

ティキが軽く笑う。

「俺、そこまで鬼じゃないって」

十分鬼っぽいです、と喉まで出かかったが、アレンは飲み込んだ。

断ったら、その場で何をされるか分からない。

結局、アレンは怯えたまま厨房へ足を踏み入れた。


❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



数分後。

厨房の調理台の上には、アレンが出したパンとハムとチーズとティキが切った野菜が並べられた。

ティキは思いのほか手際よく包丁を使っている。

無駄がなく、迷いもない。
それが余計に怖い。

アレンはパンにバターを塗りながら、横目で何度もティキの手元を盗み見た。

「そんなに警戒しなくても、君は切らないよ」

ティキがくすりと笑う。

「……それ、今言うことですか」

アレンの声は情けないほど弱々しかった。

「だって、包丁見ただけで死にそうな顔してるし」

ティキは平然とハムを並べる。

その落ち着きが、かえって異様だった。

しばらく、パンを重ねる音と食器の触れ合う音だけが続く。

やがて、ティキがぽつりと言った。

「ジョニーって人、どこ行ったんだろうね」

アレンの手が、一瞬止まる。

「さ、さあ……」

どうにかそれだけ答える。

自分の声が不自然じゃなかったか、そればかりが気になった。

ティキはそれ以上追及せず、レタスを一枚ちぎった。

そして、ほんの少し間を置いてから、何でもないように聞く。

「あのモデルの子と司会者って、他人同士?」

「……?」

アレンは目を瞬かせる。

「そ、そうだと思いますけど……。別々にチェックインしましたし」

「ふーん」

ティキは小さく頷く。

だが、その目は笑っていなかった。

パンに具材を挟みながら、彼はさらに続ける。

「でさ、俺のこと信じて聞いてほしいんだけど」

アレンは思わず、疑いの目を向けた。

今さら信じろと言われて信じられるわけがない。

その露骨な視線に、ティキは少しだけ口元を上げた。

「まあ、その顔になるよな」

そして、声の調子を少しだけ落とした。

「この犯人はね、七年前の復讐をしてるんだよ」

アレンの手が止まる。

「……七年前?」

「そう」

ティキはサンドイッチの断面を揃えるみたいに、静かにパンの端を押さえた。

「シェリルも、ラビも、リンクも――みんなそこに繋がってる」

厨房の白い灯りの下、包丁の刃だけが静かに光っていた。

アレンはごくりと唾を飲み込む。

自分が今、何を聞かされようとしているのか。

それを知ったら、もう知らなかった時には戻れない。

そんな予感だけが、じわじわと全身を締めつけていた。

「港湾開発反対運動に関わっていた、ある夫婦の死亡事故。知らない?」

「いいえ……」

アレンはきょとんと目を瞬かせた。

「そんな事件、僕は……」

「そっか」

ティキはあっさり頷いた。

「まあ、知らなくても無理ないか。七年前の話だし、表向きには“よくある不運な事故”で片づけられた」

彼はそう言いながら、パンの耳を切り落とす。

包丁の刃先は静かに動いているのに、その声だけが妙に冷たかった。

「海岸道路から車が転落して、乗っていた夫婦が死んだ。最初はただの事故として処理されかけた。けど、調べてみたら車のブレーキ系統に細工された痕が見つかった」

アレンの顔が強張る。

「……細工?」

「そう。誰かが、あの夫婦を事故に見せかけて殺そうとしたってこと」

ティキは具材を並べる手を止めずに続けた。

「その夫婦は、当時進められていた港湾開発の違法性をずっと訴えていた。村人の土地を不当に奪ってるとか、開発側が裏で汚い金を動かしてるとか……まあ、そういう面倒な真実を、しつこく掘り起こしてた連中だよ」

アレンは息を呑んだまま、黙って聞いている。

「当然、開発側からは邪魔者扱いされた。で、捜査線上に浮かんだ主犯格の名前が――シェリル・キャメロット」

その名が出た瞬間、厨房の空気がひやりと冷えた気がした。

「支配人が……?」

「そう」

ティキはパンを重ね、軽く押さえ込む。

「シェリルは当時、その開発計画に深く関わってた。動機もあったし、周囲の証言も不穏だった。だから一度は疑われた。けど、結局は証拠不十分で無罪」

「……そんな」

アレンの手が止まる。

ティキはそこで、ほんの少しだけ口元を歪めた。

「でも話は終わらない」

低く、続ける。

「被害者側は納得しなかった。当然だよな。人が二人死んでるんだから」

厨房の明かりの下、ティキの目だけが鈍く光る。

「で、控訴して、再調査が入った。その結果、今度は別の男が逮捕されて起訴された」

アレンが眉をひそめる。

「別の男……?」

「そう。シェリルじゃない、別の男」

ティキは静かに言った。

「そいつが真犯人だってことにされた。けど、そいつは本当は無罪だ」

「え……?」

「無実なのに、罪をかぶせられた」

その一言が、アレンの胸に重く落ちる。

「そして今も、服役してる」

厨房に沈黙が落ちた。

ボウルの中で、余った野菜だけが色を失わずにそこにある。

なのにアレンには、世界そのものが少しずつ色を失っていくように思えた。

「……じゃあ」

やっとのことで、声を絞り出す。

「その事件の、本当の加害者は……」

「まだ全部は分からない」

ティキは言った。

「でも、少なくともシェリル、ブックマンJr、そしてハワード・リンク――そこまでは確実に絡んでる」

アレンの喉がひくりと鳴る。

リンクの最期の声が、脳裏をかすめた。

ティキは、そんなアレンの顔を見て、薄く笑った。

「で、今このホテルでは、その“七年前に人の人生を壊した連中”が順番に消されてるってわけ」

ティキは話を切ると、出来上がったサンドイッチを一つ持ち上げた。

「はい、少年」

アレンの前へ差し出す。

「……え?」

「食べなよ。顔色悪いままだと、殺される前に倒れるぞ」

冗談とも本気ともつかない声音だった。

アレンは戸惑いながらも、そっとそれを受け取った。

ティキは自分の分をひとつ手に取ると、何事もないみたいにかぶりつく。

パンの柔らかい音だけが、しばらく厨房に響いた。

その合間に、ティキはぽつりと続けた。

「その夫婦には、確か子供がいてね」

アレンがサンドイッチを持つ手を止める。

「ただ、何人いたのか、俺はそこまでは知らないんだよ」

「ティキ・ミック卿……」

アレンの声には、もはや怯えだけではない色が混じっていた。

「あなた、どうしてそこまで知ってるんですか」

ティキは二口目を飲み込んでから、何でもないことのように答えた。

「シェリルは俺の兄。俺も開発に加わってたからだよ」

アレンが息を呑む。

ティキは肩をすくめた。

「加わってたって言っても、俺は開発計画の設計監修の方だったけどね。ずっと社屋に居た」

その一言に、アレンの顔がみるみる青ざめた。

シェリルの弟。

そして、港湾開発の関係者。

今、目の前で平然とサンドイッチを食べている男も、七年前のあの事件と地続きの場所にいたのだ。

「……そんな……」

アレンの手の中のパンが、かすかに揺れる。

ティキはその反応を見て、少しだけ目を細めた。

「もし少年が七年前の事件に関わっていたとしたら、」

そこでちらりと流し目をアレンに寄越す。

「……まあ、無いか。次に殺されるのは俺だよ」

その軽さに、アレンはぞっとした。

「そ、そんなこと……」

「あるさ」

ティキはあっさり言う。

「順番で見りゃね」

アレンは唇を噛み、しばらく黙っていたが、やがておそるおそる口を開いた。

「あ、あの……じゃあ……神田さんも、その事件に関係してるんですか?」

「いや?」

ティキは即答した。

「少なくとも俺の知る限りじゃ、あの長髪の男に七年前の接点はない」

「じゃあ……」

アレンの喉がひくりと鳴る。

「無差別ってことも、ありませんか?」

ティキはサンドイッチを噛みながら、少しだけ考える素振りを見せた。

「可能性はゼロじゃないね」

その返答は、安心にも絶望にもならなかった。

ただじわじわと、胃の底を冷やすだけだ。

しばらく、二人とも黙って食べた。

厨房の灯りは白く、静かで、こんな話をするにはあまりにも平凡だった。

やがて、アレンがぽつりと口を開く。

「あの……僕も、聞いてほしいことがあります」

ティキが目だけで続きを促す。

アレンはサンドイッチを置いた。

「ジョニーが……死んでいました」

その瞬間、ティキの手が止まった。

だが、止まったのはほんの一拍だけだった。

「どこで?」

声音は、さっきまでと変わらない。

それが逆に怖い。

「配電室です。段ボールの向こうに隠されてて……。頭を何か、鈍いもので殴られたみたいで……」

ティキはゆっくりとサンドイッチを置いた。

「……へえ」

それだけ言って、立ち上がる。

アレンもつられて立ち上がった。

ティキは流し台の脇に包丁を置き、手を軽く洗う。

「片付けるか」

「あ……はい」

二人は手早く調理台の上を片づけた。

空いた皿を流しへ。

パン屑を払う。

使い終えたボウルを重ねる。

その一連の動きが静かで、かえって落ち着かなかった。

片付けが終わると、ティキは顎で廊下の方をしゃくった。

「案内してよ、少年」

アレンは小さく頷く。

二人は並んで厨房を出た。

向かう先は、配電室。

ジョニー・ギルの死体が隠されていた、あの狭い部屋だ。

配電室の扉を開け、ティキ・ミックは足を止めた。

狭い室内。

焼けた配電盤の1つの線。

そして、段ボールの向こうに半ば隠されるように横たわる一人の男。

シーツのかかった遺体を見つめ、ティキの目がすっと細くなる。

「……これが、ジョニー・ギルか」

アレンが小さく頷いた。

「はい……さっき、見つけました」

「なるほどねぇ」

ティキは配電室の中へ踏み込むと、しゃがみ込んでシーツの端を軽くめくった。

現れたのは、片側のレンズが割れた眼鏡をかけたままの、ジョニー・ギルの青白い顔。

そして、頭部に残る鈍い打撃痕。

ティキの視線が、その傷に止まる。

「重くて硬いもので、一発……強い一撃をもらってる」

そこで彼の脳裏に、シェリルの執務室で見つけたものがよぎった。

血のついた、重たいレンチ。

(……あれか?)

あの時は、ただ“執務室に置かれた怪しい物”としてしか見ていなかった。

だが今、ジョニーの傷を見ると、妙にしっくりくる。

もちろん断定はできない。

ティキに法医学の知識があるわけではない。

だが、少なくとも“そういう鈍器”で殴られた傷に見えた。

「ティキ・ミック卿?」

アレンの声に、ティキは思考を切る。

「ん? ああ、悪い」

彼は軽く笑って、今度はジョニーの制服へと手を伸ばした。

襟元、胸元、袖口。

そして前立て。

「……やっぱり」

「何かわかったんですか?」

「ボタンが一つない」

ティキが指先で示した先には、制服の中央にぽっかり空いた欠損があった。

糸のほつれ方からして、古い傷みではない。

強い力で引きちぎられたような、不自然な切れ方だ。

アレンが息を呑む。

「じゃあ、支配人のポケットに入っていたボタンって……」

「十中八九、この男のもんだろうね」

ティキは立ち上がった。

「支配人と揉み合った時に取れたって線もあるけど……」

「でも、ジョニーはここで死んでた」

「そう。だから厄介なんだよ」

ティキは口元だけで笑う。

「死体が二つあると、どっちの時に取れたのか分かんなくなる。この男がシェリルを襲った時のものか、第三者が故意に引きちぎったものか」

その言い方に、アレンはうっすらと顔をしかめた。

この男は、どうしてこうも物騒な話を平然とできるんだろう。

だが、ティキはもう別の場所を見ていた。

「で、次だ」

「次?」

「リンク警部」

ティキは顎で廊下の方をしゃくる。

「そっちも見ときたい」



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



時計の針を2回目の話し合いが終わった直後に巻き戻す。

食堂の空気に耐えきれなくなったように、リナリーが椅子を引いた。

「……もう嫌。誰も信用できない」

震える声だった。

誰の顔も見ず、そのまま食堂を飛び出す。

残されたコムイはすぐには追わない。

ただ、困ったように眉を下げ、疲れた顔で息を吐くだけだ。

それから数分後。

コムイは人目を気にするように何度も廊下を見回しながら、リナリーの部屋の前へ立った。

周囲に誰もいないことを確認し、短く二回、扉を叩く。

すぐに扉がわずかに開く。

リナリーの顔が覗いた。

「……何しに来たの?」

刺々しい声。

だがその目は、言葉とは違う問いを含んでいる。

誰にも見られなかった?

コムイは口元だけで笑った。

「君が心配で」

軽薄な冗談めいた返答。

けれど、その声色は落ち着いていた。

見られてないよ。

リナリーは露骨に顔をしかめる。

「……きもっ」

吐き捨てるように言う。

だが、扉はもう大きく開かれた。

“ 入って”

コムイは辺りを見回してからリナリーの部屋の中に体を滑り込ませた。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤


ティキとアレンの二人は食堂へ戻った。

リンクの遺体は、先ほどと同じ椅子に縫い止められたままだった。

額の中央に突き立った矢が、もう揺れていない。

アレンが視線を逸らす。

「……僕、これ、慣れません」

「慣れるもんでもないよ」

ティキはそう言いながら、ためらいなくリンクのジャケットへ手を伸ばした。

内ポケット、胸元、脇。

指先で探り、何か硬いものに触れる。

「……あった」

引き抜いたのは、小さく折られた紙片だった。

アレンが身を乗り出す。

「それ……なんですか?」

ティキはそれを開き、黙って目を細める。

紙片は何かのコピー用紙を乱暴に破った一部のようだった。

残っているのは、ほんの数文字だけ。

“リンク刑……”

「……やっぱりね」

ティキが低く呟く。

「え?」

「この男、自分の名前が残った部分だけ回収したんだよ」

アレンはぞっとした。

「じゃあ、それって……」

「裏金メモの破れた残り」

ティキは紙片を光にかざす。

「“刑事に一千万”それだよ」

アレンの喉がひくりと動く。

リンクが、ただ事件に詳しいだけの男ではなかった証拠。

しかも、それを本人が隠そうとしていた痕跡。

「執務室にはずっと俺が居た。いつ破ったんだろうね。事件が起きる前かな…」

ティキは紙片を折り畳むと、自分のポケットへしまい込んだ。

それから、アレンの手からシーツを手に取り、リンクの遺体へ静かにかける。

「……一応、な」

その声音だけが、少し低かった。

「悪い刑事でも、顔ぐらいは隠しといてやるよ」

アレンは黙って、その手つきを見ていた。

ティキは決して優しい男ではない。

だが、人が死んだあとまで無造作に扱うタイプでもないらしい。

「行くよ、少年」

「……次はどこです?」

「ラビの部屋」

ティキの目が、ゆっくりと細まる。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤




ラビの部屋は、昨夜の捜索の跡をまだ残していた。

開けられた引き出し。

ずれたベッドカバー。

踏み荒らされた床。

ティキは部屋へ入るなり、ベッドの下に膝をついた。

「……あった」

引きずり出されたのは、あの斧だった。

鈍く赤黒い汚れが刃にこびりついている。

アレンの顔がこわばる。

「それ……本当にあったんですね」

「あのモデルが嘘をついたんじゃなかったってことだ」

ティキは斧を持ち上げ、刃の状態を確かめる。

「でも、だからって“ラビが犯人”にはならなかったね」

「え?」

「だって彼、死んだじゃない」

ティキは淡々と言った。

「死んだのにゲームは続いている。それにあの機械の声、ハズレだって言ったしね」

アレンの背筋に冷たいものが走る。

「……じゃあ、これも誘導……?」

「そういうこと」

ティキは斧を床に戻した。

「ジョニーのボタン。割れた眼鏡。配電室のガラス片。ラビの部屋の斧。全部、誰かに“そう見えるように”並べられてる」

「でも……そんなこと、どうして」

ティキは答えない。

代わりに、部屋の奥の暗がりを見つめたまま、静かに言った。

「人をひとり殺すだけじゃ足りなかったんだろうね」

低い、乾いた声。

「犯人は、誰かの命だけじゃなく、疑いそのものも操りたいんだ」

アレンは思わず、両腕を抱いた。

この館のどこにいても、誰といても、冷たいものが足元から這い上がってくる。

ティキはそんなアレンを横目で見て、口元にだけ笑みを浮かべた。

「さあて、少年」

「……はい」

「ここまで来ると、だいぶ面白くなってきた」

「僕は全然面白くないです……」

アレンの本音に、ティキはくっくっと笑った。

だがその目は、もう笑っていない。

答えはわかった。

それが分かるからこそ、空気はますます重たくなっていた。

「少年、死にたくなかったら俺から離れない方がいいよ」

「……僕はまだ……貴方のことも疑ってますが……」

「ふっ、好きにしな」

ティキ・ミックは気だるげに背伸びをした。

「少し寝るかな。疲れた」

それだけ言うと、彼は軽く手を振り、自室へ向かって歩き出した。

廊下は静まり返っている。

(……離れない方がいい、だって?)

アレンは唇を噛む。

ジョニーの死体。

ハワード・リンクの死。

七年前の事件。

そして、それを知りすぎているティキ・ミック。

(信じられるわけない……!)

ティキの言うことが本当かもしれない。

そう思う一方で、逆に全部この男の作り話なんじゃないかという疑念も消えない。

あの余裕。
あの落ち着き。

あの、誰かが死ぬことにも慣れているような顔。

(この人が……犯人なんじゃないのか……?)

ティキの背中は、廊下の曲がり角をひとつ越えた。

その向こうには客室が並んでいる。

アレンの視線が、その途中の飾り棚へ止まる。

丸いボールのような形をした花瓶があった。

白磁に青い模様の入った、装飾用の花瓶。

だが、陶器の胴はしっかりとしていて、持てば充分な重さがある。

アレンは知らないうちに、それを両手で持ち上げていた。

ひんやりとした感触が、掌に食い込む。

(やられる前に……)

呼吸が浅くなる。

(やられる前に、やるしか……!)

ティキはまだ気づいていない。

ゆっくりと歩きながら、廊下の奥へ向かっている。

その歩幅は気だるげで、隙だらけに見えた。

アレンは音を立てないように一歩、また一歩と距離を詰める。

心臓がうるさい。

今にも相手に聞こえてしまいそうなほど、胸の内で暴れている。

三歩。
二歩。
あと一歩。

「……ッ!」

アレンは歯を食いしばり、花瓶を振り上げた。

そのまま、ティキの後頭部めがけて、力任せに振り下ろす。

――ゴッ!!

鈍い音が、廊下に響いた。

ティキの身体がぐらりと傾く。

「あ……」

アレンの喉から、情けない声が漏れた。

だが、もう止まれない。

「や、やられる前に殺ってやる! はぁ、はぁ……!」

もう1発。

――ゴッ!!

花瓶の破片が床に散る。

ティキは数歩よろめき、壁に手をつこうとして失敗し、そのまま片膝をついた。

後頭部から、どろりと赤い血が流れ落ちる。

「この……バカガキ……」

低く、掠れた声。

ティキがゆっくり振り返る。

その目にはまだ、完全には意識が残っていた。

「俺は、犯人じゃねぇっつーの……」

「だ、黙れ! 殺人鬼!」

アレンは肩で息をしながら叫ぶ。

手には、割れて柄だけになった花瓶の残骸。

自分が何をしたのか、理解が追いつかないまま、それでも叫ぶしかなかった。

ティキは荒い呼吸の合間に、アレンを睨み上げた。

その顔は苦しげなのに、不思議と怒鳴り返してはこなかった。

「……俺の……」

血が首筋を伝い、襟元を汚す。

「内ポケットを……見ろ……」

「……え?」

アレンが目を見開く。

アレンが呆然と立ち尽くした、その時だった。

少し離れた廊下の向こうで、扉が開く音がした。

「今の音なに!?」

リナリーの怯えた声。

続いて、コムイの低い声。

「あっちからしたよね」

アレンの全身から一気に血の気が引いた。

(まずい……!)

考えるより先に、身体が動く。

アレンはティキの両腕を掴み、必死に後ろへ引きずった。

重い。

だが、ここに置いておくわけにはいかない。

これを見られれば自分が殺人鬼だと疑われてしまう!

数歩。
数歩だけでいい。

すぐ近くのリンクの部屋の扉は、鍵は掛かっていなかった。

アレンは肘で扉を押し開け、ティキの身体を半ば転がすように中へ押し込む。

「お願い、今だけ……!」

ティキの足をどうにか部屋の中へ入れたところで、廊下から近づいてくる足音がすぐそこまで迫った。

アレンは慌てて扉を閉める。

完全にではない。

誰かが見れば普通の閉まった客室に見える程度に。

次の瞬間には、自分はその場から一歩離れ、割れた花瓶の破片の前にしゃがみ込んでいた。

廊下の角を曲がって、コムイとリナリーが現れる。

二人とも青ざめた顔をしていた。

「どうしたの? 何があったの?」

コムイが問う。

アレンはびくりと肩を震わせ、ぎこちなく顔を上げた。

「ぼ、僕が……花瓶を落としちゃって……アハハ……」

乾いた笑い。

自分でも不自然だと分かる。

だが、今はそれしか言えなかった。

リナリーの目が、割れた花瓶と、アレンの引きつった顔を交互に見る。

「……大丈夫?」

心配しつつも疑うような声。

アレンの喉がごくりと動いた。

アレンの目の前の二人は、自分の中ではもう“殺人鬼の可能性が高い人間”だった。

その視線だけで、足が震えそうになる。

一方でコムイとリナリーの側からすれば、アレンが殺人鬼かもしれない。

今の音は何だったのか。
本当に花瓶を落としただけなのか。
この少年は、何をしたのか。

あるいは、誰かとここで揉み合っていたのか。

「手伝おうか?」

コムイがしゃがみ込もうとする。

「い、いえ!」

アレンが思った以上に鋭い声を上げた。

コムイとリナリーの動きが止まる。

「お、お客様にそんなことさせられません!」

引きつった笑顔のまま、アレンは両手をぶんぶん振った。

「僕がやりますから! ほんとに! 大丈夫です!」

「こんな時に、お客も従業員もないだろう?」

コムイが怪訝そうに眉をひそめる。

リナリーも、不気味なものを見るような目でアレンを見ていた。

だが、アレンは引かない。
むしろ半歩前へ出る。

「い、いえ、ほんとに! 一人にしてください! あっち行っててください!アハハ……!」

もはや笑って誤魔化す以外に方法がない。

絨毯がボルドー色で本当によかった、とアレンは心の底から思った。

ティキを引きずった時に落ちた血は数滴。

もし明るい色の床だったら、今ごろ全部終わっていた。

コムイとリナリーは、そんなアレンを見て一歩ずつ後ずさる。

「…彼…何か変ね」

リナリーが小さく呟く。

「……行こっか」

コムイが、彼女の背中にそっと手のひらを当てた。

その仕草は一見すると落ち着かせるためのものに見えたが、アレンには闇の中の何かがもう一匹を静かに促したようにしか見えなかった。

二人はそれ以上踏み込まず、互いに目配せを交わしてから、それぞれの部屋へ戻っていく。

足音が遠ざかる。

完全に気配が消えるまで、アレンはその場から動けなかった。

やがてようやく、へなへなと力が抜ける。

「……はぁ……」

喉の奥が焼けるように熱い。

アレンは急いで花瓶の破片を集め、廊下の血を腰にぶら下げた布巾で乱暴に擦った。

完全には消えない。

だが、少なくともひと目で気づかれるほどではなくなった。

それから、誰もいないことを何度も確認し、リンクの部屋の扉をそっと開ける。

ティキは床に横たわったまま、ぴくりとも動かない。

「ティキ・ミック卿……」

アレンは彼の傍に膝をつく。

震える指先を鼻先へ持っていく。

「……っ」

呼吸はある。

浅いが、確かに。

「よかった……」

その安堵も束の間、アレンはティキの最後の言葉を思い出す。

“ 俺の内ポケットを見ろ”

恐る恐るジャケットの内側へ手を差し入れる。

出てきたのは、折り畳まれた資料と、一枚の社員証だった。

株式会社ノア

アレンの目が見開かれる。

このホテルの親会社。

ティキの言っていたことは、本当だったのか。

さらに資料を開く。

そこには、七年前の港湾開発反対派夫婦死亡事故についての記録が綴られていた。

ブレーキ系統への細工。

港湾開発の違法性を訴え続けていた被害者夫婦。

主犯格として浮かんだシェリル・キャメロットの名前。

証拠不十分による無罪。

そして、冤罪の可能性が高い別の男の逮捕と服役。

アレンの呼吸が止まりそうになる。

「……この人、本当に犯人じゃないのかもしれない……」

資料を持つ手が震えた。

「ごめんなさい……」

今さらすぎる謝罪を呟きながら、アレンは洗面所へ走る。

タオルを掴み、水で濡らす。

それを持って戻ると、ティキの後頭部へ強く押し当てた。

「お願い……止まって……!」

血はすぐには止まらない。

それでも圧迫を続けるしかなかった。

しばらくして流れが少し落ち着いたところで、アレンはベッドのシーツを掴んだ。

思いきり引き裂く。

布がびりっと大きな音を立てた。

それを細長く裂き、タオルの上からぐるぐると巻きつける。

即席の包帯。

綺麗でも上手くもない。

けれど今は、それしかなかった。

最後に、ティキの頭が少し高くなるよう枕を重ねる。

アレンはその場へ座り込み、息を切らしたままティキを見つめた。

倒れている男。

胸元に残る、七年前の事件の資料。

自分の震える手。

リンクの部屋の中だけが、世界から切り離されたみたいに静かだった。




つづく、2026/04/05

どうしよう、まじで。これ、読んでる人いるのかな…。
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