マーダーミステリーD~断罪のリゾートホテル

【断罪のリゾートホテル、2日目②】

錯乱する[#dn=1#]を部屋へ連れ戻したのは、ほとんどリナリーだった。

アレンとコムイが何か言っていた気もする。

だが、[#dn=1#]の耳にはほとんど入っていない。

窓の外に見えた神田らしき姿だけが、ずっと焼きついて離れなかった。

ベッドの端に座らせても、[#dn=1#]は抵抗もしなかった。

ただ、両手で銀色のブローチを包み込むように握りしめたまま、俯いている。

「……[#dn=1#]さん」

呼びかけても、反応はない。

やがて、乾いた唇が、かすかに動いた。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

歌うような、祈るような、小さな声。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

壊れたように、同じ言葉だけを繰り返す。

リナリーは、その前に膝をついたまま、しばらく動けなかった。

何を言えばいいのか分からない。

大丈夫だなんて、言えるはずがない。

だから彼女は、ただ静かにブランケットを広げ、[#dn=1#]の肩に掛けた。

それでも歌は止まらない。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

リナリーは小さく息を呑み、そっとその手を握った。

冷たい。

[#dn=1#]の指先は驚くほど冷えきっている。

「……落ち着くまで、ここにいるわ」

返事はない。

その時だった。

廊下の向こうから、硬い靴音が近づいてくる。

コツ、コツ、コツ、と、ためらいのない足音。

次の瞬間、扉が短く叩かれた。

だが、返事を待つ間もなく、ノブが回る。

「失礼」

低い一言だけを残し、ハワード・リンクが室内へ踏み込んできた。

まるで自分の部屋に入るみたいな足取りだった。

「ちょっと、あなた――」

リナリーが立ち上がる。

だが、リンクは彼女に一瞥をくれただけで、すでに部屋の中を見回していた。

視線は鋭く、早い。

ベッド、クローゼット、壁際、窓辺、荷物。

感傷の入り込む余地など最初からないみたいに。

「何してるのよ!」

リナリーが声を荒げる。

「彼女を見れば分かるでしょう!? 今、そんな……!」

「釣竿を探しています」

リンクは冷淡に言い切った。

その言葉に、リナリーが息を呑む。

「……は?」

「食堂で、彼女は言っていた。夫が持ち込んだ細長い包みは刀ではなく、釣竿だと」

リンクはベッドのシーツを捲り、無遠慮に改めながら続けた。

「だが、現時点でこの部屋にそれらしい物は見当たらない。ならば隠している可能性が高い」

「こんな時に、それを確かめに来たっていうの!?」

「こんな時だからです」

淡々とした返答。

リナリーの頬が怒りで紅潮する。

「失礼よ! 何してるの! 少しは――」

「少しは何です?」

リンクがようやく振り返る。

リンクの目は、ひどく冷たい。

「同情しろと? 慰めろと? それで夫が戻ってくるなら、いくらでもそうしましょう」

リナリーが言葉に詰まる。

その間も、ベッドの上では[#dn=1#]の小さな歌が途切れない。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

リンクはその声を数秒だけ聞き、眉間に深い皺を刻んだ。

部屋の中には釣竿らしきものはどこにもない。

クローゼットにも、ベッド下にも、荷物の脇にも。

やがて彼は、ベッドの端に座る[#dn=1#]の前へ立った。

「あなたに聞きます」

返事はない。

「釣竿はどこです?」

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

リンクの目つきが険しくなる。

「言い方を変えましょう。…刀はどこですか?」

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

返るのは同じ歌だけ。

リンクのこめかみがぴくりと動いた。

そのまま怒鳴りつけそうになって、彼はふっと顔を上げる。

怒りを押し殺すように、長く深く息を吸った。

そして、吐く。

視線が、天井へ向く。

沈黙。

次の瞬間、リンクの表情が変わった。

「……あれか」

「何?」

リナリーが思わず問う。

リンクは答えず、鏡台の前へ歩み寄った。

そこにあった椅子を掴み、ぎり、と床を擦らせながら天井の下へ引きずっていく。

その真上に、小さな点検口があった。

リナリーが息を呑む。

「まさか……」

リンクは椅子の上に無言で乗った。

片手で天井板の縁に指をかけ、力を込める。

ギィ……と軋む音。

点検口が、ゆっくりと持ち上がる。

暗い空間が口を開けた。

リンクは身を乗り出し、片腕を天井裏へ差し入れる。

しばし、探るような沈黙。

「……っ」

何かに触れたのか、彼の指先が止まる。

次いで、ぐい、と引き寄せる動き。

ゆっくりと姿を現したのは、布に包まれた、細長いものだった。

その長さ、その重み、その形。

釣竿ではないと、見ただけで分かる。

リンクは椅子の上からそれを抱え下ろし、床に立つ。

部屋の空気が、目に見えないほど張り詰めた。

リナリーが青ざめた顔で、それを見つめる。

「……そんな」

リンクは無言のまま、布の結び目に手をかけた。

一方で、ベッドの上の[#dn=1#]だけが、変わらず焦点の定まらない目で、小さな歌を繰り返している。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

「やはり刀だ」

布を解かれ、露わになった六幻を見下ろしながら、ハワード・リンクは低く言い切った。

その刃は静かに、しかし明らかに異質な気配を放っている。

釣竿などではない。
命を殺すための道具だ。

「本土から応援さえ来れば、これにルミノール反応が出るか調べられる」

リンクは白い手袋越しに柄を持ち上げ、慎重に刀身を確かめる。

「もし出れば……神田ユウが犯人かもしれない」

その冷たい断定に、リナリーは唇を噛んだ。

反論したかった。

けれど、部屋の中で壊れたように歌い続ける[#dn=1#]の姿を前に、言葉は喉へ貼りついて出てこない。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

リンクはその歌を無視し、六幻を布ごと抱え直した。

「これは没収します」

そう言い残し、彼はためらいなく部屋を出て行く。

残された室内に、再び小さな歌だけが満ちた。

「いい子で待ってる……だから帰ってきて……」

リナリーはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、そっと[#dn=1#]の肩へブランケットを掛け直した。

返事はない。

焦点の合わない目でブローチを見つめるその横顔は、今にも壊れてしまいそうなほど脆かった。

(……朝まで、せめてここにいよう)

そう思ったのに。

深夜二時を回った頃。

ふいに[#dn=1#]が歌をやめた。

静まり返った部屋に、リナリーははっと顔を上げる。

「……[#dn=1#]さん?」

[#dn=1#]は、ゆっくりと顔を上げた。

さっきまでの虚ろな目ではない。

ひどく青白いが、確かに焦点が戻っている。

「……ごめんなさい」

掠れた声で、彼女は言った。

「リナリーさんまで、巻き込んでしまって……」

「そんなこと、気にしなくていいのよ」

リナリーは椅子から立ち上がり、ほっとしたように微笑もうとする。

「少し落ち着いたのね? よかった……本当に……」

「ええ」

[#dn=1#]は小さく頷いた。

その顔には、不思議なほど静かな色が浮かんでいた。

泣き疲れた者の顔でも、錯乱から戻った者の顔でもない。

何かひとつ、決めてしまった人間の顔だった。

「もう、大丈夫です」

「……本当に?」

「はい。少し眠れそう……だから」

[#dn=1#]は立ち上がり、リナリーの腕にそっと触れた。

その手はまだ冷たい。

けれど、さっきまでのような震えはない。

「だから、リナリーさんも、もう休んでください」

「でも――」

「お願い。今はユウとの思い出とふたりきりにして」

その声は静かだったが、有無を言わせぬ力があった。

[#dn=1#]は扉のところまでリナリーを導き、半ば押し出すように廊下へ出す。

「本当に大丈夫だから」

「……何かあったら、すぐ呼んで」

「ええ」

扉が、静かに閉まる。

カチリ、と内側から鍵の掛かる音がした。

リナリーはしばらくそこに立ち尽くしていたが、結局そのまま自室へ戻ってしまった。

あの時、どうして無理にでも部屋へ残らなかったのか。

翌朝、彼女は何度もそれを悔やむことになる。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



翌朝。

ホテル中に、リナリーの悲鳴が響き渡った。

耳をつんざくようなその声に、客室の扉が次々と開く。

浅い眠りから叩き起こされた者も、一睡もできなかった者も、顔色を変えて廊下へ飛び出した。

「どうした!?」

真っ先に駆けつけたリンクが、鋭く声を飛ばす。

リナリーは、例の窓の前で立ち尽くしていた。

顔色は蒼白。

唇はわななき、呼吸は浅い。

震える指が、窓の外を指している。

「し、下……!」

リンクは無言で窓辺へ駆け寄り、身を乗り出した。

その後ろからアレン、コムイ、ティキも続く。

そして、誰もが息を呑んだ。

断崖絶壁の岩肌に、二つの死体が折り重なるように倒れていた。

ひとつは、黒髪の男。

もうひとつは、そのすぐ傍らに横たわる女。

神田ユウと[#dn=1#]。

嵐の名残のような風が、窓から冷たく吹き込んでくる。

「……そんな」

アレンの声が掠れた。

コムイは絶句し、ティキの顔からも軽薄な笑みが消えている。

リンクだけが、険しい顔のままリナリーを振り返った。

「どういうことです?」

その声音は、低く、鋭い。

「彼女は昨夜、あなたと同じ部屋にいたはずだ」

詰め寄られたリナリーは、弾かれたように顔を上げた。

「わ、私は……朝まで一緒にいるつもりだったの。でも……!」

目から涙が溢れ出す。

「夜中に急に落ち着いて……もう大丈夫だって、正気に戻ったみたいな顔で……私を部屋から押すように追い出したのよ……!」

「それは何時ごろですか!?」

「えっと……二時くらい……だったと思うわ……」

リナリーは震える手を胸元へやり、そこで何かを思い出したように息を呑む。

「あ……そうだわ……!」

彼女は慌ててガウンのポケットから一枚の便箋を取り出した。

「部屋に行ったら……これが……!」

差し出されたのは、各客室に備え付けられているホテルの便箋だった。

リンクがそれを受け取り、視線を走らせる。

そこには、乱れた筆跡でこう綴られていた。

『私たちは本当の夫婦ではありません。
新婚旅行というのも嘘です。
私たちは、ここに来る前に人を死なせました。
相手は私の夫でした。
夫は毎日、理由もなく私を殴りました。
何度も、何度も、気を失うまで。
そんな私を助けてくれたのが、剣士のユウです。
ユウは一緒に逃げようと言ってくれました。
けれど、それが夫に知れてしまって、ユウは夫と揉み合いになりました。
その時、夫はバランスを崩し、暖炉の角に頭をぶつけて死にました。
事故でした。
でも、許されることではありません。
それでも、私はユウを愛しています。
ユウがいないところでは、もう息もできません。
どうか、彼のところへ行かせてください。』

便箋を持つリンクの手が、わずかに止まる。

静まり返った廊下に、誰の呼吸もひどく大きく聞こえた。

「……自殺、だと?」

コムイが掠れた声で呟く。

「そんな……」

アレンは窓の外を見つめたまま、言葉を失っている。

リナリーは両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちた。

「私のせいだわ……!」

嗚咽混じりの声が、廊下に響く。

「私が部屋を離れなければ……! ひとりにしたりしなければ……!」

肩を震わせ、声を上げて泣くリナリーを、誰もすぐには責められなかった。

神田ユウは、すでに窓の下で冷たい死体となっている。

そして、[#dn=1#]は、その後を追った。

少なくとも、この遺書はそう語っていた。

リンクは便箋を静かに折りたたむと、再び窓の外へ目を向けた。

岩肌に横たわる二つの影。

あまりにも無惨で、あまりにも救いがない光景だった。

だが。
その救いのなさに、逆にうっすらとした違和感が混じる。

遺書。
失踪。
転落。
そして、刀。

全てが筋道立っているようでいて、どこか綺麗すぎた。

リンクの眉間に、深い皺が刻まれる。

「……まだ断定はできません」

低い声が落ちる。

泣き崩れるリナリーも、青ざめたアレンも、その言葉に顔を上げた。

「二人の遺体を確認するまでは、何も決めつけるべきではない」

そう言って、リンクは便箋を懐へしまい込む。

その横顔は相変わらず冷たい。

だが、その冷たさの奥で、別の何かが静かに動き始めていた。

リンクは再び窓辺に身を乗り出し、断崖の下を睨みつけた。

白波の砕ける岩場に、二つの人影が倒れている。

服の色も体格も、神田ユウと[#dn=1#]にしか見えない。

「……ウォーカーくん。あそこへ下りる経路は?」

低く、鋭い声。

アレンは窓の外を見たまま、はっと息を呑んだ。

「え……」

「聞こえなかったのか。現場へ向かう。下へ行く道はどこだ」

リンクが振り返る。

その目には、すでに捜査官の光しかない。

だが、アレンの顔色はみるみる悪くなった。

「……無理です」

「何?」

「本来なら舟で回っていくしか無いんですが、……外に出られません!」

その場の空気が、一瞬で凍る。

アレンは唇を震わせながら、必死に言葉を継いだ。

「ホテルから外へ通じる扉は、全部開かないんです。昨夜からずっと……僕も確認しました。正面玄関も、搬入口も、非常口も、全部……!」

リンクの眉間に深い皺が刻まれる。

「……つまり、現場を確認する術がないと?」

「はい……」

アレンが絞り出すように答える。

「潮が満ちればふたりは沖に流される…」

窓の外では、相変わらず二つの影が動かないまま、断崖の下に横たわっていた。

見えているのに、届かない。

その残酷な現実が、誰の胸にも重くのしかかった。

それはまるで、この館の中にいる誰一人として、もう昨日までの顔ではいられないと告げているみたいだった。

その時だった。

館内の沈黙を切り裂くように、スピーカーがジジッ……と不快なノイズを吐いた。

全員の肩が、びくりと強張る。

次の瞬間、聞き慣れた無機質な機械音声が、ホテル中へ朗々と響き渡った。

『ピンポンパンポーン――皆様、おはようゴザイマス』

誰も、動かない。

窓の外の断崖。

そこに見える二つの肉塊。

リナリーの嗚咽。

[#dn=1#]の遺書。

それらすべてを踏み越えるように、声だけが淡々と続く。

『二回目の話し合いの時間デス。食堂へお集まりクダサイ』

アレンが息を呑む音がした。

コムイが、乾いた唇を舌で湿らせる。

ティキは目を細めたまま、窓の外から視線を外さない。

リンクだけが、ゆっくりと顔を上げた。

『今回も制限時間は三十分。前回同様、話し合いにより犯人を指名してクダサイ』

ジジ……とノイズが混じる。

そのわずかな乱れさえ、今では悪意ある笑い声のように聞こえた。

『なお、時間内に正解へ辿り着けなかった場合、あるいは誤った人物を指名した場合――ランダムに処理を行いマス』

「……っ」

誰かが小さく息を詰める。

それが誰だったのかも分からないほど、全員の神経は張り詰めていた。

「やめて……」

リナリーの掠れた声が漏れる。

「やめてよ……!」

だが、機械の声は一切気に留めない。

『それでは、食堂でお待ちしておりマス』

ブツッ、と音が途切れる。

そして再び、重い沈黙が落ちた。

誰もすぐには動けなかった。

けれど、行かなければならない。

リンクが最初に身を翻した。

「……行きます」

冷たく、短い声。

「ここで止まっていても状況は変わらない。ウォーカーくん、先導を」

「……は、はい」

アレンが青い顔のまま頷く。

コムイは一度だけ窓の外を振り返り、そして低く息を吐いた。

「最悪の朝だね……」

ティキは口元だけで笑ったが、その目はまるで笑っていなかった。

「地獄に朝なんてあるのか?」

リナリーはなおも涙を拭いながら、その場から動けずにいる。

リンクが一瞬だけ振り返った。

「リナリーさん」

「……っ」

「歩けますか」

慰めでも、労りでもない。

ただの確認。

だが今は、その事務的な声の方が、逆に現実へ引き戻す力を持っていた。

リナリーは震える唇を噛み、何とか頷く。

「……行くわ」

その声は、ほとんど消え入りそうだった。

一行は重い足取りで、食堂へ向かった。

廊下に響く足音は少ない。

たった一晩で、人数が減りすぎていた。

ラビは死んだ。

神田と[#dn=1#]も、あの断崖の下にいる。

残った者たちは皆、自分の隣を歩く相手すら、もう信じられなくなっていた。

そして食堂の重い扉の前で、誰ともなく足が止まる。

この先に待っているのは、また議論だ。

また疑いだ。

また、死だ。

リンクが無言で扉に手をかける。

ギィ……と、嫌な音を立てて扉が開いた。

二回目の話し合いが、始まる。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



食堂へ足を踏み入れた瞬間、全員の足が止まった。

広大な室内は昨夜と変わらず静まり返っている。

だが、その静けさは落ち着きではなく、処刑台の前に立つ種類の沈黙だった。

長テーブルを囲む椅子。

それぞれの席に置かれた名札。

そして、背もたれと肘置きに備え付けられた、鈍く光る金属製のベルト。

「……またかよ」

ティキが低く吐き捨てる。

答えるように、天井のスピーカーがジジッ……と鳴った。

『お座りクダサイ』

誰も動かない。

『お座り、クダサイ』

無機質な声が繰り返す。

その瞬間、テーブル中央に埋め込まれていたボーガンが、ギギギ……と不気味な音を立ててせり上がった。

弦はすでに半ばまで引かれ、矢の先端が鈍く光っている。

「……座れってことか」

コムイが渇いた声で言った。

リンクが無言で自分の席に歩き、深く腰を下ろす。

観念したように、あるいは計算ずくで。

その瞬間。

――ガチャン、ガチャンッ!

冷たい金属のベルトが跳ね上がり、首と手首を瞬く間に固定した。

リンクの顎がわずかに上がる。

だが、表情は崩れない。

その様子を見たアレンが、顔をこわばらせたまま席へ向かった。

続いてコムイ、リナリー、ティキも、逃げ場のない椅子へそれぞれ腰を落とす。

一人、また一人と拘束されるたびに、食堂に重たい金属音が響く。

最後に全員の自由が奪われたところで、スピーカーの声が満足げに告げた。

『二回目の話し合いを開始シマス』

カチリ、と壁の巨大なタイマーが作動する。

30:00

赤い数字が、残酷なまでにはっきりと時を刻み始めた。

数秒の沈黙。

最初に口を開いたのは、やはりリンクだった。

「……まず、状況を整理します」

低く、事務的な声。

その響きだけで、昨夜の血と悲鳴が一度切り離される。

「ウォーカーくんから、すでに報告を受けています。館内の電話線は切断されていました。外部との通信は不可能です」

アレンが小さく頷く。

青ざめた顔のまま、視線はテーブルに落ちている。

そしてアレンがリンクの次に口を開いた。

「ホテルから外へ通じる扉は、断崖絶壁側の窓以外、すべて封鎖されています。正面玄関、搬入口、非常口、そのすべてが開かない。よって、現時点で僕たちは館外へ出る手段を持っていません」

「……完全に閉じ込められてるってことか」

コムイが低く呟く。

リンクは否定も肯定もせず、そのまま続けた。

「次に、シェリル・キャメロットの遺体について」

その名前が出た瞬間、食堂の空気がまたわずかに冷えた。

「昨夜、大浴場に浮かんでいた胴体を再検分しました。得られた物証は一つだけです。衣服のポケットから、ボタンが一つ出てきた」

「……ボタン?」

コムイが眉をひそめる。

「ええ。それだけです」

リンクの声は冷たい。

「目立った追加の物証は他にない。凶器も、明確な争った痕跡も、現段階では確認できていません」

「その遺体は、今どこにあるの?」

リナリーが震える声で尋ねる。

リンクはわずかに視線を動かした。

「ウォーカーくんと共に、ワインセラーへ移しました」

アレンが硬い表情のまま言葉を継ぐ。

「地下なら温度が低いので……少なくとも、そのまま放置するよりは……」

そこまで言って、口を閉ざす。

遺体を“少なくとも”どうしたいのか、その先を誰も口にしたくなかった。

リンクは再び、全員をゆっくりと見回した。

「問題はここからです」

首を固定されたまま、その眼光だけが鋭く各人を射抜く。

「神田ユウと[#dn=1#]さん。二人は今朝、断崖下に転落した状態で発見されました。ですが、遺体にはまだ接触できていない。目視のみです」

「……でも、あれはどう見ても……」

リナリーの声が震える。

リンクは容赦なく遮った。

「感情で断定するべきではない。今の時点で確定しているのは、“二人らしき人影が断崖下にある”ということだけです」

その冷酷さに、リナリーは唇を噛んで俯いた。

「……仮に、あの“夫婦”が――夫婦ではないようですが、便宜上そう呼ばせていただきます――仮にあの夫婦が死んだとしましょう」

「死んだんだと思うよ」

ティキ・ミックが気だるげに口を挟んだ。

「ここにいないのが答えじゃないのかい?」

リンクは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく喉を鳴らした。

「……んんっ。問題は、その順序です」

低い声が、重く落ちる。

「神田という男が先に落ち、女がその後を追ったのだとしたら――なぜ、神田という男は崖に落ちたのか」

食堂の空気が、ぴんと張り詰めた。

リンクは一人一人の顔を、ゆっくりと見渡す。

「私は、ここの誰かに落とされたと考えています」

「……あんな大の男を、どうやって?」

コムイが眉をひそめる。

「しかも強そうでしたよ、あの神田って人」

「それが謎です」

リンクは冷静に言った。

「遺体検分ができない以上、断定はできない。ですが、少なくとも自殺と見るには不自然な点が多すぎる」

「あの、小さな窓から180はある男を落とすなんて、まず……」

コムイは言いながら、隣へちらりと視線を送る。

「このモデルさんには、できなさそうだね」

その言葉に、リナリーの肩がびくりと震えた。

彼女は唇をきゅっと引き結び、膝の上で拘束された指先を強く握りしめる。

青ざめた顔に、怯えと苛立ちと、拭いきれない自己嫌悪が一瞬で浮かんでは消えた。

まるで、疑われたことそのものよりも、昨夜[#dn=1#]をひとりにした自分を責めているみたいだった。

「……私じゃないわ」

掠れた声で、やっとそれだけを言う。

「自分で落ちたんじゃないの?」

ティキが軽く肩をすくめた。と言うか固定されているからすくめたように見えた。

「支配人を殺した罪に苛まれて、とか?」

アレンがぽつりと挟む。

「女を置いて?」

間髪入れず、リンクが切り返した。

その声音には一片の迷いもない。

「私はあの二人と長い付き合いがあるわけではありません。だが、半日見ていれば分かる」

リンクの目が、冷たく細まる。

「あの男が、女を置いて死ぬわけがない」

しん、と食堂が静まり返る。

ティキの口元からも笑みが消え、アレンは小さく息を呑んだ。

リナリーだけが、その言葉にわずかに目を見開く。

リンクは構わず続けた。

「だからこそ、神田ユウの転落は事故でも自殺でもない可能性が高い。まず彼が何者かの手によって排除され、その後、女が後を追った――少なくとも現時点では、それがもっとも自然な筋道です」

「……じゃあ」

コムイが低く言う。

「その“何者か”っていうのは、この中の誰かってことになるのかい?」

リンクは、静かに頷いた。

「ええ」

そして、わずかに間を置いて言い放つ。

「支配人シェリル・キャメロットを殺した犯人と、神田ユウを崖下へ落とした人物が同一である可能性は、高い。ですから…」

リンクは首を固定されたまま、再度静かに全員を見渡した。

「昨夜、あれから皆さんが何をしていたのかを改めて確認したい。……ウォーカーくんからお願いします」

突然名を振られ、アレンがびくりと肩を揺らした。

「ぼ、僕は……」

喉が鳴る。

拘束された指先が、かすかに震えていた。

「ハワードさんに言われた通り、電話を使えるか確認するために……事務室へ向かいました」

アレンは一度唾を飲み込み、続ける。

「その途中で、そちらのティキ・ミック卿に会いました。そこで……外へ繋がる扉や窓が封鎖されていると聞かされて……」

ティキが軽く肩をすくめる。

「それで、実際に電話線を確認したんです。そしたら、やっぱり切られていて……。その後は……その、ティキ・ミック卿の言ったことが本当なのか、自分でも扉や窓を確認しに行きました」

「ひとりで?」

リンクが挟む。

「は、はい……」

アレンの顔がこわばる。

「そしたら途中で、[#dn=1#]さんの大きな声が聞こえて……。駆けつけると、神田さんが部屋へ戻ってこないって聞かされて……それで一緒に探しました。あとは……皆さんの知っている通りです……」

語尾はどんどん小さくなっていく。

食堂が、しんと静まり返った。

リンクは一拍だけ黙り、それから低く言った。

「つまり」

その声音に、アレンの肩がびくりと震える。

「神田ユウが殺されたかもしれない時間帯、あなたは一人だった。……そういうことですね?」

「……っ」

アレンは息を詰めた。

「ぼ、僕は……!」

アレンが何かを言いかけた。

だが、リンクはそれを無視した。

「次。リナリーさん」

唐突に名を呼ばれ、リナリーがびくりと肩を震わせる。

「わ、私は……」

一度、浅く息を吸う。

「……あのあと、何か探れることはないかと思っていたの。そうしたら、そこの司会者に声を掛けられて……一緒に行動したわ」

リナリーの視線が、隣のコムイへ向く。

コムイは軽く肩をすくめてみせた。

「とりあえず、バックヤードに何かないか見に行ったのよ」

「何故、バックヤードを?」

リンクが問う。

「式典の時、一瞬だけ灯りが消えたでしょう?」

リナリーの声はまだわずかに強張っていたが、さっきまでよりははっきりしていた。

「あれがずっと気になっていたの。偶然じゃないなら、配電盤に細工があるかもしれないと思って」

「なるほど」

リンクが小さく頷く。

「それで、何かあったんですか?」

「ええ」

リナリーは即答した。

「焼き焦げた線が一本。それから、小さなガラスのような破片が落ちていたわ」

「ガラス?」

リンクが片眉を上げる。

「どのような破片です?」

「小さい、透明な欠片よ。丸みがあって……多分、眼鏡のレンズか何かじゃないかと思ったわ」

その瞬間。

食堂の空気が、ぴたりと止まった。

全員の視線が、一斉にコムイへ向く。

「……え?」

一拍遅れて、コムイが引きつった笑みを浮かべた。

「いやいや、ちょっと待ってよ」

首は固定されているのに、声だけはやけに軽い。

「僕、眼鏡してるでしょ? ほら、ちゃんと両方ついてる。やめてよー、僕じゃないからね?」

だが、その言葉は弁明というより、早口な予防線に聞こえた。

ティキが薄く笑う。

「随分焦るじゃないか」

「焦ってないよ。冤罪を防ごうとしてるだけさ」

コムイはそう返すと、今度はリナリーの方を見た。

「で、その後だね」

「……え?」

本来まだリナリーの証言の途中だった。

だが、コムイは構わず自分の言葉を続けた。

「その後、[#dn=1#]さんが旦那さんを呼ぶ声が聞こえた。だから、モデルさんと一緒に声のする方へ駆けつけたよ。あとは、そこのボーイのアレンくんと同じさ」

リナリーがわずかに眉をひそめる。

自分の証言を横取りされたことへの不快感か、あるいは、あまりに淀みなく自分のアリバイを補強し始めたことへの違和感か。

リンクはその細かな表情の揺れさえ見逃さなかった。

「つまり」

低い声が、食堂の中央へ落ちる。

「あなた方二人は、[#dn=1#]さんの声を聞く前から、神田ユウを発見するまで、ずっと一緒に行動していた。……そういうことですね?」

「ええ」

リナリーが答える。

コムイも、にこりと笑った。

「その通り」

リンクは無言のまま、二人を順番に見た。

それは納得の視線ではなく、
“本当にそうか?”
と測るための、冷たい視線だった。

「め、眼鏡といえば……!」

アレンが、はっと何かを思い出したように顔を上げた。

その声に、全員の視線が一斉に彼へ集まる。

「何です?」

リンクが鋭く促す。

アレンは肩を震わせながら、慌てて言葉を継いだ。

「話す暇がなくて……言えなかったんですけど……このホテルには、もう一人いるんです!」

「もう一人?」

コムイが眉をひそめる。

「ボーイ兼料理長の、ジョニー・ギルです!」

食堂にざわめきが走った。

アレンは息を急がせながら続ける。

「そのジョニーが……支配人の事件があった頃から、姿を見せてないんです! その、ガラスの欠片も……彼の眼鏡のものかもしれない!」

リナリーが目を見開く。

コムイが低く「何だって……」と呟く。

ティキだけが、わずかに目を細めたまま黙っている。

次に口を開いたのはリンクだった。

「……それなら」

その低い声に、ざわめきがすっと収まる。

「支配人のポケットに入っていたボタンも、そのジョニー・ギルという人物のものかもしれませんね」

アレンが、はっと顔を上げた。

リンクは淡々と続ける。

「ボタンはウォーカーくんの服と同じ型でしたので、てっきり私はウォーカーくんが――」

そこまで言って、リンクは小さく咳払いした。

「……失礼」

「……僕を疑ってたんですね?」

アレンの顔が引きつる。

リンクはほんの一拍だけ黙り、それから無感情に答えた。

「……少し」

「少し!?」

「ですが、今の話で線が繋がる」

リンクはアレンの抗議を流し、食堂全体を見渡した。

「ボーイ用の制服は同じ仕様でしょう。ボタンが一致してもおかしくはない。そのジョニー・ギルが支配人と揉み合い、その時に取れた可能性は十分あります」

「それじゃあ」

コムイが言った。

「この中には犯人はいないじゃないか。そのジョニーって子が、どこかからこの仕掛けを操作してるってことじゃないのか?」

その発言に、ティキ・ミックが片眉を上げた。

だが、その微かな表情の変化に気づく者はいない。

今この場の空気は、一気に“見えない犯人”へ傾いていた。

そして、その時。

カチ、カチ、カチ――と無情に時を刻んでいたタイマーが、ついに最後の数字を飲み込んだ。

00:00

同時に、館内スピーカーがジジッと震える。

『――制限時間デス』

食堂に、重たい静寂が落ちた。

リンクがすぐに顔を上げる。

「待ってください!」

鋭い声が、天井へ突き刺さる。

「まだティキ・ミック卿のアリバイを聞いていません!」

だが、返ってくるのは予定調和のノイズだけだった。

『誰が犯人か、答えてクダサイ』

機械音声は、こちらの言葉など最初から聞いていない。

決められた順序で、決められた台詞を吐くだけのカセットテープ。

それが逆に、残酷だった。

その時、ティキがゆっくりと口を開いた。

「俺は、少年と話したあと、ずっと支配人の執務室にいたよ」

全員の視線が集まる。

「事件に繋がるものがないか探してた。ひとりでね。……だから、アリバイはない」

「……っ」

アレンが息を呑む。

リンクの眉間の皺が深くなる。

だが、時間はもうない。

『回答ヲお願いシマス』

「犯人はここにはいない!」

リンクが、今度ははっきりと言い切った。

その声は低く、だが強かった。

「支配人を殺し、この館を操作している真犯人は、この中にはいない。ジョニー・ギルだ!」

その瞬間、テーブル中央の巨大なボーガンが、ギギギ……と不気味な音を立てて動き始めた。

ゆっくりと。

獲物を見定めるように。

残された者たちの顔の前を、矢の切っ先が順番になぞっていく。

『ファイナルアンサー?』

「ああ、そうだ」

リンクが答えた。

間を置かず、機械音声が弾むように告げる。

『ハッズレ~!』

食堂の空気が、一瞬で凍りついた。

全員の顔から血の気が引く。

『間違えたノで、誰かヲランダムであの世に送りマース』

「……っ!」

リナリーが息を詰める。

アレンの顔は紙みたいに白い。

コムイは脂汗を浮かべ、ティキも今度ばかりは笑っていなかった。

ボーガンの回転速度が、ゆっくりと落ちていく。

ギィ……
ギィ……
ギィ……

誰の前で止まるのか。

その数秒が、永遠みたいに長かった。

そして。

カチリ。

切っ先が、ハワード・リンクの正面でぴたりと止まった。

食堂に、誰かの喉が鳴る音がした。

リンクだけが、動かない。

首も手首も固定されたまま、その表情は驚くほど静かだった。

彼はほんのわずかに目を伏せ、それから前を見据えた。

「……そう来ますか」

低い、かすれた声。

悔しさとも、諦めともつかない響きだった。

次の瞬間、スピーカーが無邪気な声で告げる。

『バイバイ、ハワード警部』

アレンが目を見開く。

「……え?」

だが、問いが形になるより早く――

『――執行』

シュッ!!

空気を切り裂く鋭い音。

断罪の矢は、一寸の狂いもなくリンクの額を撃ち抜いた。

「――ッ」

短い衝撃音のあと、リンクの頭がわずかにのけぞる。

額の中央に深々と突き立った矢が、ぶるり、と小さく震えた。

その揺れだけが、時間の流れをまだ証明している。

誰も、動けなかった。

ラビの時と同じだ。

けれど今度は、死んだのがあのリンクだという事実が、誰の理解も拒んでいた。

彼はずっと冷静だった。

誰より早く考え、誰より冷たく切り捨て、誰よりこの状況を支配しようとしていた。

その男が、今、椅子に縫い止められたまま動かない。

スピーカーが、ケタケタと笑うようなノイズを混ぜながら続ける。

『彼は悪い警部サンだヨ』

その無邪気な声が、食堂の空気をさらに冷たくした。

『自分の欲のために、真犯人ではない人物を逮捕・起訴してマシタ。裏金を受け取り、事件を捻じ曲げテいたノデス』

アレンの唇がわななく。

「……そんな」

コムイは絶句したままリンクの死体を見つめ、リナリーはぎゅっと目を瞑る。

ティキだけが、ひどく冷えた目でスピーカーを見上げていた。

リンクの額に刺さった矢は、まだかすかに揺れている。

そしてその揺れを、生き残った者たちは、まるで時そのものが止まったかのような感覚で見つめていた。


つづく、2026/04/04

思ってたより長くなって後悔してる( ̄▽ ̄;)
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