マーダーミステリーD~断罪のリゾートホテル

【断罪のリゾートホテル。2日目①】

​客室の重い扉を閉めた瞬間、神田は[#dn=1#]の肩を乱暴に放した。

静まり返った部屋に、神田の低く、鋭い声が響く。

​「……なぜ、釣竿なんて言ったんだ! そんな、すぐにバレるような嘘を!」

​[#dn=1#]は、神田の怒鳴り声に肩を震わせ、俯いた。

「……だって、そうでもしないと……。ユウが疑われると思って。ユウの隣に座ったあの三つ編みの男の人。あなたの手を見ていたわ。剣士だとバレたら、真っ先に犯人に仕立て上げられてしまう……」

​「あんな子供騙しの嘘で、 余計に怪しまれるだけだ。竿を見せろと言われたらおしまいだぞ。…まあ…俺のことはいい、お前は自分の身だけを考えてろ!」

​神田の激しい剣幕に、[#dn=1#]の目から涙が溢れる。

「私だって、あなたの力になりたかったのよ……! 私たちの正体がバレたら、もうどこにも……」

​言い合っていた二人の間に、不意に冷たい沈黙が降りた。

[#dn=1#]が涙を拭おうと胸元に手が当たった、その時――。

​「……あ」

​[#dn=1#]の顔から、一気に血の気が引いた。

ドレスの胸元にあるはずの、銀色のブローチがない。

それは、神田が彼女に初めて贈った、世界にたった一つの大切な宝物だった。

​「どうした」

「……ブローチが。ないの……」

[#dn=1#]の声が震える。

「……さっきの食堂だわ。拘束された時に、ベルトに引っかかって落ちたのかも……」

​[#dn=1#]は弾かれたように扉へ向かおうとした。

「探しに行ってくるわ! 今ならまだ、誰にも拾われていないはずよ!」

​「待て、馬鹿野郎!」

神田がその腕を強く掴み、引き止める。

「今外に出るのがどれだけ危険か分かってるのか!? 」

​「でも、あれは……あれだけは、私の大事なものなの! ユウが、初めて私にくれた……!」

​[#dn=1#]の悲痛な叫びに、神田は苦虫を噛み潰したような顔をした。

彼は一度だけ天井裏に隠した六幻(刀)の気配を確認し、深く溜息をつく。

​「……わかった。なら、俺が探してくる」

​「ユウ……?」

​「お前はここにいろ。誰が来ても、絶対に、……いいか、絶対に扉を開けるな。俺が出ていったらすぐに内側から鍵を閉めろ」

​神田はそう言い残すと、[#dn=1#]の返事も待たずに廊下へと踏み出した。

「ユウ、私も行く……!」

「大丈夫だ、すぐ戻る!大人しく待ってろ」

​[#dn=1#]の願いを背中で受け、神田の影が闇の向こうへと消えていく。

カチリ、と寂しく響く施錠の音。

それが、二人の運命を分かつ最後の音になるとは、ふたりには知る由もなかった。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



神田は音もなく、薄暗い廊下を滑るように進んでいた。

頭にあるのは、食堂のどこかに落ちているはずの、あの小さな銀色のブローチのことだけだ。

(……チッ、あの馬鹿が。あんな安物……)

毒づきながら食堂へ踏み込む。

広い室内は静まり返っており、人の気配はない。

長テーブルの脇、椅子の脚元、床に落ちた細かな装飾の破片――その中に、月光を受けてかすかに光るものがあった。

「……あった」

神田はしゃがみ込み、指先でそれを拾い上げる。

小さな銀色のブローチ。

歪みもない。針も折れていない。

神田はそれを無造作に握り込み、短く息を吐いた。

(帰ったら、あの馬鹿に二度と外すなって言っとく)

踵を返し、部屋へ戻ろうとしたその時。

階段の手前――アレンがシーツを持ち出したリネン室の重い扉が、数センチだけ開いていることに気づき、神田は足を止めた。

隙間から漏れるのは、低く、湿り気を帯びた人の囁き声――

神田は壁に身を寄せ、リネン室から漏れる会話に全神経を集中させた。

​※ここからは、読者の皆様が誰が犯人か特定できないよう、犯人たちの会話をあえて関西弁に変換して描写します。

​「……次の手はず、ほんまにぬかりはないんやろな?」

​「……ああ。準備は万端や。あっちに仕掛けた罠も、時間通りに作動する。……そんなことより、自分。さっきの議論の時、ちょっと詰めが甘かったんとちゃうか?」

​「……何が言いたいんや」

​「もし、もしもやで。……万が一にも、ワテらの正体を当てられたらどうするつもりやねん。あの警部、ただの公務員やあらへんで。あいつの目は、笑いながらこっちの腹の中を覗き込んどる」

​「……当てられたら、その時はその時や。この館ごと、全員道連れにするだけのことやろ。……それより、今は余計なこと考えんと、次の『演目』に集中しとき」

​「……ああ、わかってる。……ん?」

​会話が、不気味な沈黙に食われた。

会話を交わしていた二人の視線が、同時に扉の隙間へと鋭く突き刺さる。

言葉を交わすまでもない。
彼らは視線だけで、「そこに誰かがいる」という確信を共有した。

​二人は音もなく壁に移動し、互いに顎をしゃくって合図を送る。

一人が静かに懐へと手を差し入れ、冷たい金属の感触を指先で確かめた。

取り出されたのは、銀色に光る医療用の注射器。

中には、象を一瞬で麻痺させる痺れ薬が満たされている。

​二人は口元に指を当て、無言で“ しっ”と互いに見つめ合った。

その表情には、恐怖など欠片もない。
ただ、獲物を仕留めるための、歪んだ喜びが浮かんでいるだけだ。

​一方、扉の外側。

神田は、自分の心音さえもが、廊下の壁を震わせているような錯覚に陥っていた。

(……チッ、バレたか……!)

​喉の奥で鳴りそうな荒い息を、強引に飲み込む。

今、この扉が開かれた瞬間、戦うことからは逃げられない。

​神田が鞘の重みすらない腰に手をやり、筋肉を強張らせたその瞬間。

​何の音もなく、リネン室の扉が大きく左右にスライドした。

​「……ネズミが紛れ込んでるんかと思ったら。……随分と、命知らずなのがおったもんやな」

「…お前っ」

神田から殺気が放たれる。

​扉を滑らせた犯人Aが、嘲笑を浮かべて踏み出す。

だが、その瞬間に犯人Aの足が止まった。

​対峙する神田の全身から、物理的な重圧を伴うほどの殺気が吹き荒れたからだ。

六幻はなくとも、その眼光はすでに男の頸動脈を断ち切っている。

廊下の空気がピリリと震え、壁がひび割れるような錯覚さえ覚えるほどの、圧倒的な剣士の威圧。

​「ねじ伏せてやる」

​犯人Aがわずかに身構えた隙を見逃さず、神田は、そう言うと地を蹴った。

最短距離で男の喉笛を砕かんと放たれた、渾身の蹴り。

風圧が犯人Aの髪を揺らした――その直後。

​神田の背後の死角から、音も、殺気も、予兆すら一切ない無の衝撃が走った。

​「――ッ!?」

​気配を完全に殺し、影に同化していた犯人Bの人影が、神田の軸足を鋼のような脚力でなぎ蹴った。

いかに神田が凄まじい殺気を放とうとも、その意識の指向性を逆手に取った完璧な奇襲。

​バランスを崩した神田を、犯人達が挟み込むようにして床に組み伏せる。

神田は獣のような咆哮を上げ、二人を撥ね退けようと全身の筋肉を膨張させたが、犯人Bが、吸い付くように神田の首筋を固定した。

​「……ええ殺気や。そんな目で見られたら、ゾクゾクするわ」

​犯人Aが神田の右腕を、骨が軋むほどの力で押さえつける。

その隙に、犯人Bのもう片方の手が、月の光を宿した注射器を神田の背中へ深く突き刺した。

​「……が、あ…………ッ!!」

​象をも沈める猛毒が、神田の強靭な神経系を蹂躙する。

あんなに出し平らげていた殺気が、霧散するように消えていく。

「…[#dn=1#]…っ…逃げろ」

指先一つ動かせぬまま、神田の視界はどろりと溶け落ちた。

​二人は、もはや抵抗する力のない神田の四肢を、まるで壊れた人形でも扱うように無造作に抱え上げた。

「さて、この予定外。どないしよ」

「薬切れると厄介や。始末するしかねぇ」

​二人は廊下の突き当たりにある大きな窓へと向かう。

バキリと音を立てて開け放たれた窓の外は、漆黒の夜の帳に包まれた断崖絶壁。

荒れ狂う波の音が、神田の死を祝福するように下から響いている。

​「……おやすみ。あの世で、ゆっくり後悔しとき」

​二人の手が離れる。

神田の身体は、重力に従って奈落の底へと投げ捨てられた。

断崖の岩肌に幾度も打ち付けられ、その衝撃音が夜の静寂に吸い込まれていく。

​神田ユウの放っていた凄まじい殺気は、今はもう、どこにも残っていない。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤


​ワインセラーから大浴場へと続く、冷え切った廊下。

二人の足音が重なり合っていたが、リンクは角を曲がる手前で、ふと足を止めた。

彼は歩きながら、新しい白い手袋を指先まで丁寧にはめ直す。

​「ウォーカーくん。……君はここから別行動だ」

​「えっ? ですが、大浴場へ行くのでは……」

​アレンが怪訝そうに足を止める。
リンクは眼鏡の奥の鋭い視線を、窓の外で荒れ狂う嵐へと向けた。

​「先程は時間が足りなかった。だが、今回は朝まで時間がある。……私は一人で、あの“死体”を徹底的に検分し直す。君は事務室へ向かい、本土の連中に連絡を取ってくれ。この状況を報告し、救助と応援を要請するんだ」

​「……この嵐ですよ? 通信が繋がるはずがありません。ハワードさんだって分かっているでしょう」

​アレンの言葉は正論だった。

だが、リンクは表情一つ変えず、冷徹な事務口調で言い放つ。

​「分かっている。だが、万が一の可能性がある以上、動かない理由は無い。……いいですか、繋がるまで試してください。それが君の役割です」

​「……分かりました」

​アレンは肩をすくめると、暗い廊下の先へと背を向けた。

その背中が闇に溶けて見えなくなるまで、リンクはじっと見送る。

アレンの足音が完全に消えたことを確認してから、彼は一人、大浴場の重厚な扉へと向き直った。

​――バーンッ。

​空間に、扉が開く音が虚しく響く。

無人のはずの湯殿には、変わらず湯気が立ち込めている。

広大な浴槽の中央。

そこには、あの首の無いシェリルが、まるで意思を持っているかのようにプカリと浮かんでいた。

​リンクは無言で浴槽の縁に歩み寄り、冷たい石床に膝をつく。

白い手袋をはめた右手を、死体の青白い肌へと伸ばした。

​「……さて。あなたは何を隠している、支配人」

​リンクの指先が死体に触れた瞬間。

静まり返っていた水面が、中心から不自然な波紋を広げ始めた。


​❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤


​アレンは薄暗い廊下を独り、事務室へと向かっていた。

リンクの指示通り、本土への連絡を試みるためだ。

だが、心の内では確信していた。

この嵐の中、通信が生きているはずがない。

​事務室の重厚なドアが見えてきたその時、角の闇から一人の男が悠然と姿を現した。

​「……あ、ティキ・ミック卿」

​「やあ、少年」

​ティキは気だるげに微笑むと、長く吐き出した紫煙の向こうから、アレンを射抜くような視線を向けた。

​「駄目だ。外に通じる扉は、断崖絶壁側の窓以外、全部閉まっている。内側からロックされてるのか、あるいは仕掛けがあるのか……。少年、君は何か知らないのか?」

​逃げ場のない箱に閉じ込められたという残酷な事実。

アレンの背筋を、冷たい戦慄が走る。

​「……僕も、ハワードさんに頼まれて外へ連絡を取ろうとしていたところです。でも、出口が全て封鎖されているなんて……。僕がここへ来た目的は、決してこんなゲームに参加するためじゃなかったのに」

​「はぁ、とんだ日に来ちまったぜ」

​ティキは短くなった煙草を足元で踏み消すと、事務室の隣——シェリルの執務室のドアノブに手をかけた。

(むっ…仕方ない。あとで拾いましょう)

​「お客様、どちらへ? そちらは支配人の部屋ですけど……」

​アレンの鋭い指摘に、ティキは振り返り、白く整った歯を見せてにこりと笑った。

​「うん、合ってるよ。俺はここで調査の続きをするよ」

​その言葉の真意を問う暇もなく、ティキは執務室の中へと消えていった。

アレンは一瞬、その扉を凝視したが、首を振って事務室へと足を踏み入れた。

​事務室。
アレンは机の上の黒い受話器を手に取り、耳に当てる。

……だが。

​「……なんの音も、しない」

​無音。完全なデッド・ライン。

アレンは嫌な予感に突き動かされるように机の下へ屈み込み、電話線を手繰り寄せた。

​そこには、鋭利な刃物で一太刀に、無慈悲に切り裂かれたコードの断面があった。

​「………やっぱり、最初から僕たちを外に出す気なんてないんだ…」

​暗闇の事務室で、アレンは切断されたコードを握りしめたまま、立ち尽くした。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



食堂の外へ出た瞬間、リナリーはようやく肺に空気を入れた。

血の匂いが、まだ喉の奥にこびりついている気がする。

ラビの眉間を貫いた矢。

その光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。

「……最悪」

吐き捨てるように呟き、彼女は廊下の壁に手をついた。

指先が、かすかに震えている。

だが、それを見られるわけにはいかなかった。

ここにいる誰も、味方ではない。

そう思った、その時だった。

「モデルのリナリー・リーさん」

軽薄さを取り繕ったような、男の声。

リナリーが弾かれたように顔を上げると、数歩先の壁際に、コムイ・リーが立っていた。

司会者らしい整ったスーツ姿のまま。

だが、ネクタイはわずかに緩み、額にはまだ嫌な汗が残っている。

「……驚かせないで」

「それは失礼」

コムイは片手を軽く上げたが、謝罪の色は薄い。

その目は笑っていなかった。

「どこへ?そっちは客室じゃあないよね? 部屋に戻って朝まで毛布にくるまってるのが、今夜の正しい過ごし方だと思うけど」

「あなたに言われたくないわ。自分だって戻るつもり無さそうじゃない」

ぴしゃりと言い返すと、コムイは肩をすくめた。

「仕事柄、気になることが多くてね」

「……司会に、そんな義務ないでしょ」

「ないね」

あっさり肯定する。

「だけど、あんなものを見せられたあとで何もしないほど、僕は鈍くない」

短い沈黙が落ちた。

リナリーは相手を値踏みするように見つめた。

食堂では、ラビへの疑いを逸らしつつ、今度はアレンへ矛先を向けた男。

人当たりは柔らかいが、中身はまるで読めない。

信用できない。

だが――ひとりで動くのも危険だ。

「……どこへ行くつもり?」

コムイの口元が、わずかに緩む。

「そうだね。まずは従業員用のバックヤードを見ておきたい。放送設備も鍵も、ホテルの機関の物を使ってるなら、裏側に何か痕跡があるはずだ。一緒に行かないか?」

「ひとりで行けば?」

「もちろんそのつもりだったよ。けど」

コムイの視線が、リナリーの顔をゆっくりなぞる。

「君も何か探してる顔をしてる」

リナリーの眉がぴくりと動いた。

「……何を」

「さあ。君の部屋にあった血の付いた斧を、君がラビの部屋に置いたこととか?」

一瞬、空気が凍りついた。

リナリーの瞳から、温度が消える。

「部屋に戻ったら私の部屋に置かれてたのよ。疑われるのが嫌だったから隣の男の部屋に置いた。それだけよ」

コムイは壁から身を起こした。

「安心して。今ここで君を告発するつもりはない。僕だって後ろ暗いことのひとつやふたつ、無いわけじゃない」

その言葉に、リナリーは細く息を吐く。

少なくとも、この男も何かを抱えている。

それだけは本当らしい。

「……いいわ。一緒に行く」

「交渉成立、かな」

「勘違いしないで。あなたを見張るだけよ」

「うん。奇遇だね。僕も同じことを考えていた」

互いに笑わないまま、二人は並んで歩き出した。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



従業員用の通路は、表の豪奢さが嘘のように無機質だった。

剥き出しの配管。

白い壁。

足音だけが乾いて反響する。

「……ホテルって、裏はこんなに味気ないのね」

「夢を売る場所ほど、裏側は現実的なものだよ」

コムイが前を歩きながら言う。

「詳しいのね」

「イベント会場はだいたい似たような構造なんだ。動線、裏口、搬入口、控室。人を気持ちよく騙すための仕組みは、どこも大して変わらない」

「“騙す”って、自分で言うんだ」

「綺麗に言い換えると“演出”かな」

軽口を叩きながらも、コムイの足取りは慎重だった。

角を曲がるたび、短く視線を走らせる。

ただの司会者にしては、妙に神経が研ぎ澄まされている。

やがて二人は、小さな配電室の前へ辿り着いた。

扉は半開きだった。

リナリーが息を止める。

「……ねえ」

「ああ。普通じゃない」

コムイが先に立ち、ゆっくりと扉を押し開けた。

中は狭い機械室だった。

壁一面に並ぶブレーカーと配線盤。

だが、そのうちの一つが、不自然に焼け焦げていた。

「停電……」

リナリーが呟く。

除幕の瞬間、一拍だけ起きた暗転。

あれが偶然ではなかった証拠みたいに。

コムイがしゃがみ込み、焦げた箇所を調べる。

「意図的だね。しかも手馴れてる。過負荷を起こしたというより、一時的に落ちるよう細工してる」

「そんなの、ホテルの構造を知ってる人間じゃないと無理じゃない?」

「そうとも限らないよ。少し下調べして、工具があればできる」

「じゃあ、犯人は外部の人間でもあり得るってこと?」

「あり得る。逆に言えば、内部の人間に見せかけることもできる」

コムイが立ち上がる。

その時、リナリーの目が床の隅で止まった。

「……何、あれ」

配電盤の陰。

そこに、小さな透明片が落ちていた。

コムイが拾い上げ、光にかざす。

「ガラス?」

「メガネの……レンズ、かも」

リナリーが身を乗り出す。

それは丸く薄い、透明な小片だった。

そして、そこにはふたりから見えないよう、ダンボール箱が積まれた裏側に、このホテルの従業員のジョニー・ギルの死体があった。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤


ティキ・ミックは、荒らされた執務室の中央で足を止めた。

重厚な机の引き出しは無残に引き抜かれ、書類棚は中身ごと床に叩き落とされている。

破れた封筒、割れた写真立て、踏みつけられた帳簿。

そこにあるのは物色の跡というより、誰かが焦燥のまま“過去”を引きずり出した痕跡だった。

「……随分とまあ、景気よくやってくれたもんだね」

軽口のように呟きながらも、ティキの目は笑っていない。

犯人が探していたのは、金になるものじゃない。

もっと具体的で、もっと古くて、もっと人を刺すものだ。

彼は床に散らばった紙束を一つずつ足先でよけ、倒れた書類ケースの陰にしゃがみ込んだ。

そこに、他とは明らかに質の違う一冊の古い紙ファイルが挟まっていた。

黄ばんだ厚紙の表紙。

端に残る公的機関の押印。

長年、光の当たらない場所に押し込められていたような古い匂い。

ティキは無言でそれを引き抜く。

ぱら、と捲った瞬間――その手が止まった。

「……っ」

紙面の中央に記された事件名。

その下に並ぶ被害者名。

港湾開発反対運動に関わっていた、ある夫婦の死亡事故。

事故。

そう記されてはいるが、そんな綺麗なもので終わる話ではなかった。

海岸道路からの転落。

車両のブレーキ系統への細工。

現場周辺で目撃されていた開発関係者。

被害者夫婦は、当時、港湾開発の違法性を訴え続けていた中心人物だった。

そして、捜査線上に浮かんだ主犯格の名。

シェリル・キャメロット。

ティキの喉の奥で、低く空気が鳴る。

「……あの件かよ」

記憶が、嫌な湿度を伴って蘇った。

港湾開発計画。

反対派の村人たち。

表向きには強引でも合法を装いながら、裏では金と脅しで物事を押し流していったシェリル。

ティキ自身も、その事業の周辺で働いていた。

車に細工をしたわけではない。直接手を下したわけでもない。

だが、あの夫婦を“厄介な存在”として扱う空気の中に、自分がいたことは否定できなかった。

ページを捲る。

捜査資料。

新聞の切り抜き。

判決要旨。

どれもこれも、最後は綺麗な言葉で締められていた。

証拠不十分により、被告シェリル・キャメロットに無罪を言い渡す。

ティキは鼻で笑う。

「証拠不十分、ねぇ」

ふざけた話だ。

人は死んだ。

夫婦そろって崖下で死体になった。

なのに、シェリルは生き延びた。

さらに数ページ捲ったところで、綴じられて居ない破れたプリント用紙がスラリと落ちて、ティキの目がそのプリントに書かれた別の名前に止まった。

協力者、関係者、周辺人物の記載欄。

そこに、手書きで見覚えのある偽名があった。

“Jr.”

ティキの眉がぴくりと動く。

その欄には走り書きで、こう記されていた。

“ブックマンJr.に三千万”

ティキの眉がぴくりと動く。

「……Jr.?」

低く漏れた声が、静まり返った執務室に沈む。

ラビ。
ブックマンジュニア。

その名を見た瞬間、ティキの脳裏に蘇ったのは、当時シェリルの周囲で交わされていた不穏な報告だった。

『 港湾開発反対派住民が保管していた権利書類、および開発側の違法取引を示す証憑の一部が、事件発生の数日前に何者かによって盗難。』

『 被害者夫婦は、裁判資料として提出するはずだった重要書類の一部を失った。
――その後、法的立場が急速に悪化。』

ティキの顔から、すっと笑みが消える。

「……まさか、これか」

三千万。

それは小遣いでも口止め料でもない。

依頼料。

あるいは、成功報酬。

あの時消えた証拠。

夫婦が命綱みたいに握っていたはずの札。

それを盗み出した実働役が、ラビだった。

「そりゃあ、真っ先に死ぬわけだ」

吐き捨てるように呟き、ティキはもう一度紙面へ目を落とした。

紙の左端が、不自然に破れている。

ただの劣化ではない。

何者かが、急いでそこだけを引き裂いたような、荒い断面。

ティキは目を細め、残された文字を追った。

“……事に一千万”

その左側は、紙ごと抉られるように消えている。

だが、辛うじて残った筆跡の端と、漢字の形の欠片から読むとくことが出来た。

「……刑事?」

掠れた呟きが、喉からこぼれ落ちる。

違うかもしれない。
見間違いかもしれない。

だが、半分だけ残った文字列は、どうしてもそう読めてしまう。

“……刑事に一千万”

ティキの背筋を、冷たいものが走った。

「おいおい……」

今度の声には、呆れよりも警戒が滲んでいた。

もし本当に“刑事”なら。

もし公の側にいる誰かに、シェリルが金を流していたのだとしたら。

この事件は、ただの無罪じゃ済まない。

捜査そのものが歪められていたことになる。

そして何より――
その箇所だけを、誰かがわざわざ破って持ち去った。

つまり、今この館の中には、その一文を見られると困る人間がいるということだ。

ティキは破れた紙の端を親指でなぞった。

断面は新しい。

他の黄ばんだ書類の古さとは明らかに違う。

ついさっき、誰かが急いで引き裂いたのだろう。

「……隠したいのは、犯人だけとは限らないってことか」

低く呟く。

シェリル。

ラビ。

そして、“刑事”らしき誰か。

港湾開発に関わった人間は、自分が思っていた以上に根深く、広く、まだこの館の中に息を潜めているのかもしれない。

ティキは紙を持つ手に、じわりと力を込めた。

ラビが最初に死んだのは、偶然じゃない。

あれは処刑だった。

あの事件に関わった人間への、見せしめの一発目。

なら、次は誰だ。

シェリルは死んだ。

ラビも死んだ。

自分は車の細工に手を貸してはいない。

だが、港湾開発を手伝っていた。

あの夫婦を追い詰めた側にいた。

犯人にとって、その差がどれほど意味を持つのかなんて分からない。

「……洒落になんねぇな」

ティキはそう呟いて、紙を静かに折りたたんだ。

もう、この部屋で見つかるものは“昔の事件”じゃない。

全部、今夜の死に繋がっている。



❄︎  ❅  *.  ❅  ✥  ✣  ✤



どれくらい時間が経ったのか、もう分からなかった。

客室の中は静まり返り、壁の向こうで荒れ狂う風と雨の音だけが、やけに大きく響いている。

[#dn=1#]は扉の前に立ったまま、何度も唇を噛んだ。

神田は「すぐ戻る」と言った。

あの男は、そういう嘘をつく時はもっと不機嫌な顔をする。

ぶっきらぼうでも、帰ってくる時は必ず帰ってくる男だ。

なのに――遅い。

遅すぎる。

「……ユウ」

小さく呼んでみても、返事はない。

胸の奥で不安が膨らんでいく。

嫌な予感が、じわじわと喉元まで這い上がってくる。

[#dn=1#]は震える指で、扉の鍵に触れた。

――絶対に開けるな。

神田の言葉が脳裏をよぎる。

それでも。

「……ごめん、ユウ……」

カチリ、と音がして施錠が外れた。

[#dn=1#]はそっと扉を開け、薄暗い廊下へ身を滑り出させる。

誰もいない。

冷たい空気だけが、肌を撫でて通り過ぎていく。

「ユウ……?」

呼びかける声は、思ったよりも小さかった。
返事はない。

[#dn=1#]はドレスの裾を押さえながら、神田が向かったはずの食堂への道を急いだ。

「ユウ!」

曲がり角をひとつ。

その先の廊下も、誰もいない。

「ユウ! どこ!?」

足早に進むたび、心臓が嫌な音を立てる。
食堂の扉は、半分だけ開いていた。

[#dn=1#]は弾かれたように中へ飛び込む。

「ユウ――!」

だが。
広い食堂は、がらんとしていた。

さっきまで死と疑念に満ちていたはずの空間には、人の気配がまるでない。

長テーブルも、椅子も、照明も、そのまま。

なのに、そこにいるべき人間だけが、綺麗に消えている。

しん、とした静寂が、かえって不気味だった。

[#dn=1#]は息を呑んで、ゆっくりと視線を巡らせる。

そして、食堂の奥――地下へと続く、ワインセラーへの降り階段に目が止まった。

暗い階段の口が、ぽっかりと口を開けている。

(あそこには……ラビという人が……)

運ばれていった死体のことが脳裏をよぎる。

ひやり、と背中を冷たいものが這った。

あの下へ行けば、何かがあるのかもしれない。

でも、行ってはいけないものを見てしまう気もした。

「……ユウ……」

声が掠れる。

その時だった。

「どうされたんですか!?」

突然、背後から声がして、[#dn=1#]は小さく悲鳴を上げた。

振り向くと、白い給仕服のアレンが立っていた。

息を少し乱し、こちらを驚いたように見ている。

その時だった。

「何かあったんですか?」

別の声が、廊下の方から飛んできた。

振り返ると、部屋から出てきたらしいコムイ・リーが、険しい顔でこちらを見ている。

その少し後ろには、ガウンを羽織ったリナリーの姿もあった。

「さっきから声が聞こえて……」

リナリーが言いかけて、[#dn=1#]の青ざめた顔を見て言葉を呑む。

「ユウが居ないの」

[#dn=1#]は素早く説明した。

「ブローチを探しに出たまま、部屋に戻らなくて」

コムイの表情が変わる。

「……それは、妙だね」

「みんなで探しましょう」

リナリーがすぐに言った。

その声には怯えが残っていたが、それでもじっとしているよりはましだと自分に言い聞かせているようだった。

四人は食堂を出て、神田が通ったはずの廊下へと足を向ける。

風の音。

遠くで軋む窓枠。

館全体が、不穏な息を潜めているみたいだった。

その途中だった。

「……待って」

コムイが足を止めた。

彼は壁際にしゃがみ込み、床に落ちていた小さなものを摘み上げる。

月光に照らされ、それは銀色に光った。

「これ……」

[#dn=1#]の息が止まる。

「私の……ブローチ……」

間違いない。

神田が探しに行った、あの大切なブローチだった。

それがどうして、こんな場所に。

しかも、そこは食堂ではない。

窓のある突き当たりへと続く廊下の途中だった。

「神田さんは、これを見つけていたんだ……」

アレンが低く呟く。

その瞬間、全員の視線が、自然と廊下の先――突き当たりの人ひとり通れるくらいの小さな窓へ吸い寄せられた。

窓は、薄く開いていた。

隙間から、夜の暴風がひゅうひゅうと吹き込んでいる。

「……どうして、窓が」

リナリーの声が震える。

[#dn=1#]はブローチを胸に抱きしめたまま、震える足で一歩、また一歩と窓へ近づいた。

嫌な予感が、確信へ変わっていく。

そこへ、誰よりも早くアレンが窓際へ駆け寄った。

「……っ!」

その顔色が、一瞬で変わる。

「どうしたの!?」

[#dn=1#]が叫ぶ。

アレンは窓の外を見下ろしたまま、青ざめた声で答えた。

「……下に、人が……!」

アレンの青ざめた声が、廊下の空気を凍らせた。

だが、アレンは窓際に張りついたまま、振り返らない。

その肩が、かすかに強張っている。

「……来ないでください」

低く、震えた声だった。

その一言で、かえって[#dn=1#]の心臓は強く跳ねた。

「何があるの!?」

「だめです……!」

アレンが制止するより早く、[#dn=1#]は彼の腕を押しのけるようにして前へ出た。

「退いて!」

切羽詰まった叫び。

アレンが思わず身体を引いた、その隙に、[#dn=1#]は窓枠へ両手をかけた。

吹き込む風が、髪を乱暴に攫う。

「ユウ!」

勢いのまま、窓を大きく押し開く。

――バンッ!

夜の嵐が、むき出しの刃みたいに吹き込んできた。

冷たい雨粒。
吠える風。
断崖の下で砕ける波の音。

その全ての先。

黒い岩肌に打ちつけられる白波のすぐ傍に、ひとつの人影が倒れていた。

「――っ」

[#dn=1#]の喉が、音にならない悲鳴で塞がる。

見間違えるはずがない。

長い黒髪。

見慣れた体躯。

無造作に投げ出された腕。

「……ユ、ウ……?」

声が、壊れたみたいに掠れる。

その手から、胸元に抱えていた銀色のブローチが滑り落ちそうになる。

「いや……」

足元から、世界が崩れていく。

「いや、いや……っ、ユウ……!」

窓枠に身を乗り出しかけた[#dn=1#]の腕を、アレンがとっさに掴んだ。

「危ない!」

「離して! ユウが……ユウが下に……!」

暴れるように振りほどこうとする[#dn=1#]を、アレンが必死に支える。

「まだ旦那さんと決まった訳ではありません!」

その背後で、リナリーが息を呑み、コムイは言葉を失って立ち尽くしていた。

嵐の音だけが、残酷なほど大きく響いている。

[#dn=1#]の視界には、ただひとつの姿しか映らなかった。

戻ってくるはずだった。

ブローチを見つけて、ぶっきらぼうに「ほらよ」とでも言って、帰ってくるはずだった。

なのに。

今、神田ユウは、闇の底に倒れている。

「……いやあああぁぁっ!!」

引き裂かれた絶叫が、嵐の夜へと吸い込まれていった。


まさかのつづく!

一体誰が神田を!?

2026/04/04
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