おばちゃんエクソシストの成長
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第8話
特訓が終わった頃には、トシコは予定通り、ふやけた昆布のようになって鍛練場の床にぶっ倒れていた。
「ほら、おばちゃん。麦茶」
ラビが差し出した冷たい麦茶を、トシコは両手で受け取る。
「ありがとよ……命の水だねぇ……」
そう言うなり、ぐび、ぐび、ぐび、と豪快に飲み干した。
そして空になったコップをラビへ返すと、鍛練場の隅へごろりと転がる。
「ちょっとだけ……ちょっとだけ目ぇ閉じるよ……」
その言葉から、三秒後。
ぐごぉぉぉぉぉぉ……。
鍛練場に、山を揺らすような爆音のいびきが響き渡った。
「早っ」
ラビが思わず呟く。
トシコは大の字で眠っていた。
埃まみれの普段着。
乱れた髪。
全身あちこち痛むはずなのに、眠りに落ちた顔は妙に満足げで、まるで一仕事終えた職人のようだった。
ブックマンは、その豪快すぎる寝音をしばらく見下ろしていた。
やがて、低く呟く。
「……遅れて戦場に立った身で、よう食らいついとる」
ラビが、少しだけ表情を変える。
ブックマンは続けた。
「若い頃から仕込まれた兵でもなければ、戦うために生きてきた者でもない。ただの世話焼きのおばちゃんじゃ。じゃが、倒されても起きる。投げられても受ける。痛みを覚えても、逃げるより先に守ることを考える」
ぐごぉぉぉぉぉぉ……。
その真面目な言葉の横で、トシコのいびきは容赦なく鳴り響いていた。
ブックマンは、少しだけ目を細める。
「強くなりたい理由が、己のためではない。誰かを守るためだけに、あそこまで転がれる者はそう多くないわい」
ラビは黙ってトシコを見た。
いつものように茶化す言葉は出てこなかった。
床に投げられ、埃まみれになり、風呂上がりの色気もどこかへ吹き飛ばされて。
それでも、彼女は最後まで立ち上がった。
「……そうさね」
ラビはぽつりと呟く。
「おばちゃん、口はうるさいけど……根性は本物さ」
その瞬間だった。
すたすたと、無遠慮な足音が近づいてきた。
神田である。
彼は眠り込んでいるトシコを見下ろすと、容赦なく足先でつんつんと突いた。
「おい、ババア」
ぐごぉぉぉぉ……。
「起きろ」
ぐご……。
「スクワットと腕立てと腹筋、やるぞ」
「うわぁ……」
ラビが、心底可哀想なものを見る目でトシコを見た。
「ユウ、それ今やる? 少しは休ませてやれさ」
「知らねぇ」
神田は一切悪びれない。
「寝るなら終わってから寝ろ」
「鬼かい……」
ラビが呟いた、その時だった。
ぴたり。
山を揺らすようだったいびきが、突然止まった。
トシコが、むくりと起き上がる。
寝ぼけた顔のまま、目は半分しか開いていない。
髪はぼさぼさで、頬には床の跡。
それでも、彼女は神田を見上げると、何事もなかったように言った。
「はいはい……スクワットね……」
ラビの目が丸くなる。
「えっ、起きるんだ」
トシコはふらふらと立ち上がり、腰に手を当てて軽く膝を曲げた。
「文句言っても回数増えるだけだからねぇ……。このポニテ魔人、そういうとこだけ律儀なんだよ……」
「分かってんじゃねぇか」
神田が不機嫌そうに言う。
トシコは寝ぼけ眼のまま、ぶつぶつと数を数え始めた。
「いーち……にーい……さん……」
その動きは遅い。
だが止まらない。
さっきまで床で爆睡していた人間とは思えないほど、当たり前のように筋トレを始めている。
ラビは呆然とその姿を見つめた。
「……おばちゃん、すごいな」
「何がじゃ」
ブックマンが問う。
「いや、普通あそこまで投げられたら、今日はもう無理ってなるさ」
「普通ならの」
ブックマンは静かに茶をすすった。
「じゃが、あれは普通ではない」
「だよねぇ……」
ラビは苦笑した。
神田は腕を組み、トシコのフォームをじっと見ている。
「膝が内に入ってる。やり直せ」
「はいはい……厳しいねぇ……」
「背中丸めんな」
「はいはい……」
「声が小せぇ」
「はいはい!」
「返事だけは一丁前だな」
「返事も根性も一丁前なんだよ!」
トシコはそう言い返しながらも、動きを止めなかった。
ラビはその光景を見て、ぽつりと呟く。
「……もう完全に慣れてるさ」
床に転がされ、柔の技を習い、麦茶を飲んで爆睡し、神田に起こされて筋トレ。
普通なら泣く。
普通なら逃げる。
普通なら怒る。
ぶつぶつ文句も以前よりキレが無い。
鍛練場に、スクワットの数を数えるおばちゃんの声が響く。
その声は少し掠れていて、疲れきっていて、それでも力強かった。
「……じゅう……じゅういち……じゅうに……」
神田も隣に並んでやり始める。
ラビも、ブックマンも、鍛練場にいた団員たちも、しばらく誰も茶化さなかった。
ふやけた昆布のように床で眠っていたおばちゃんは、容赦ない追撃にも文句を言いながら立ち上がる。
その様子を見ていたブックマンが、ふと口の端を上げた。
嫌な笑みだった。
長年弟子を地獄へ叩き込んできた者だけが浮かべる、実にろくでもない笑みである。
「ラビ」
「……なんさ」
すでに嫌な予感しかしない顔で、ラビが振り向く。
ブックマンは短く告げた。
「お主もじゃ」
「ゲェーッ!? 俺もさ!?」
鍛練場に、ラビの悲鳴が響き渡った。
「じじい、おばちゃんの筋トレに便乗して俺をシバこうとしてるさーっ!?」
「便乗ではない。ついでじゃ」
「同じさ!」
「ついでに鍛えられるなら得じゃろ」
「得の概念が地獄寄りなんだよ!」
ラビは盛大に文句を言いながらも、結局トシコの隣に並ぶ。
神田。トシコ。ラビ。の並び。
トシコは寝ぼけ眼のまま、隣に並んだ二人を見た。
鍛練場の隅に、なぜか妙に濃い三人組スクワット部隊が誕生していた。
「……なんだいこの並び。まるでおばちゃんが介護されてるみたいじゃないか」
「口動かす前に脚動かせ」
神田が即座に言う。
「はいはい!」
「返事が軽い」
「返事まで重かったら沈んじまうよ!」
「喋るな」
「はいはい!」
「それが軽いっつってんだろ」
ラビは笑いを堪えながら、スクワットを始めた。
トシコの声が淡々と響く。
その横で、神田は無言で正確に上下する。
動きに一切の無駄がない。
背筋はまっすぐ。
膝の角度も安定している。
一方、ラビは途中でちらちらとトシコを見ていた。
「おばちゃん、ほんとに文句言わなくなったな」
「言うとこの兄ちゃん言い返してくるだろ?それを相手するのが疲れるのさ」
トシコは息を切らしながら続ける。
隣で神田が睨んでいることに気づいては居ない。
「神田の兄ちゃんはね、こっちが『もう無理』って言うと『じゃあ追加だ』って言う生き物なんだよ。おばちゃん、学習した」
「学習内容が悲しいさ……」
「黙ってやれ」
神田の低い声が飛ぶ。
ラビは肩をすくめ、トシコは「はいはい」とまた腰を落とした。
「さんじゅう……さんじゅういち……さんじゅうに……」
鍛練場の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。
赤みを帯びた光が、埃の舞う空気を柔らかく染める。
拳の音も、掛け声も、いつしか少し遠くなっていた。
今はただ、三人分の呼吸と、トシコが数を数える声だけが静かに響いている。
ラビは横目でトシコを見た。
頬にはまだ床の埃が残っている。
普段着はよれよれ。
髪も乱れている。
さっきまで「いい女」だの「第二形態」だのと騒がれていた姿は、今や完全に鍛練場の土と汗にまみれていた。
けれど、その横顔は不思議と小さく見えなかった。
むしろ、強く見えた。
転がされても、立つ。
眠っても、起こされれば動く。
痛くても、怖くても、逃げない。
「……おばちゃん」
ラビが小さく呟く。
「なんだい」
「なんでそこまでやるんさ」
トシコの動きが、ほんの一瞬だけ止まりかけた。
だが、すぐにまた腰を落とす。
「……さあねぇ」
「さあねぇって」
「難しいことは分からないよ」
トシコは、息を吐きながら言った。
「ただね。もう、見たくないんだよ」
その声は、いつものように大きくなかった。
ふざけてもいなかった。
「目の前で誰かが傷ついて、手が届かなくて、何もできなくて……ああいうのは、もう嫌なんだよ」
ラビは黙った。
神田も、ほんのわずかに目を伏せる。
神田と行った初めての任務。
あの時の絶望。
怖くて、痛くて、情けなくて、救えなかった命。
トシコはそれを忘れていなかった。
忘れられるはずがなかった。
「だから動くんだよ」
トシコは、また一つ腰を落とす。
「強くなれば、助けられるかもしれないだろう?」
「……」
「手が届くかもしれない。間に合うかもしれない。誰かが死なずに済むかもしれない」
夕暮れの光の中で、トシコの影が床に伸びる。
ふざけたことを言う。
すぐ騒ぐ。
すぐ文句言う。
すぐ飯を食わせようとする。
その奥にあるものは、ただ一つだった。
救いたい。
ただ、それだけ。
「だから、やるんだよ」
トシコは息を切らしながら笑った。
「おばちゃんはね、守りたい子が多すぎて忙しいんだ」
ラビは少しだけ目を見開いた。
それから、ふっと笑う。
いつもの軽い笑いではない。
少しだけ、胸の奥に何かが残るような笑いだった。
「……そっか」
神田は何も言わない。
ただ、黙ってトシコの横でスクワットを続けている。
フォームは完璧で、呼吸も乱れない。
だがその視線は、ほんの一瞬だけトシコの横顔へ向いた。
「……遅ぇ」
「今いい話してたんだよ!」
トシコが即座に叫ぶ。
「脚が止まりかけてた」
「情緒ってもんがあるだろうが!」
「筋肉に情緒はいらねぇ」
「いるよ! おばちゃんの筋肉は感受性豊かなんだよ!」
ラビがとうとう吹き出した。
「おばちゃんの筋肉、泣いたり笑ったり忙しいさ!」
「笑ってる暇があるなら腰落とせ、ラビ」
ブックマンの声が飛ぶ。
「げっ」
「ラビ、遅れとる」
「じじいまで!」
「十回追加じゃ」
「うわああああ! 流れ弾じゃなくて直撃さーっ!」
ラビの悲鳴が、鍛練場に響き渡る。
トシコはぜぇぜぇ息を切らしながら、それでもにやりと笑った。
「ほら見な、ラビ。神田の兄ちゃんだけじゃなくて、ブックマンも追加が好きなんだよ」
「追加好きの師弟に囲まれてるさ、俺たち……!」
「お主らが喋りすぎるからじゃ」
ブックマンは容赦なく言い切った。
夕暮れの光は、少しずつ濃くなっていく。
鍛練場には、ラビの悲鳴と、トシコの数を数える声と、神田の低い指摘が混ざって響いていた。
「きゅうじゅう……きゅうじゅういち……きゅうじゅうに……!」
床とお友達にされても。
泥のように眠っても。
また起き上がって、脚を動かす。
それは、強くなるため。
誰かを守るため。
もう二度と、あの日のように何もできない自分でいたくないから。
トシコは今日も、文句を言いながら、笑いながら、鍛練場の夕暮れの中で立ち上がり続けるのだった。
つづく、2026/06/08