おばちゃんエクソシストの成長
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第7話。
「……床ってのは、冷たくて気持ちがいいねぇ……」
鍛練場の床に大の字で転がったまま、トシコはしみじみと呟いた。
普段着はすでに埃まみれ。
風呂上がりの大人の色気は、ブックマンによって床へ丁寧に擦り込まれ、今や見る影もない。
いや、ある。
あるにはあるが、だいぶ土埃をかぶっている。
「おばちゃん、今日だけで床と何回親密になったんだ……」
「寝とる暇があるなら起きい」
笑みを含んだラビの声と、ブックマンの冷たい声が降ってくる。
トシコは床に頬をつけたまま、片手だけをひらひらと上げた。
「待っとくれよ、じいさん。今、あたいの骨と内臓が出席確認してるんだよ」
「五体満足なら十分じゃ」
「基準が野生なんだよ!」
文句を言いながらも、トシコはよろよろと起き上がった。
肩で息をし、髪は乱れ、頬には埃がついているが目だけは死んでいない。
ブックマンはその目をじっと見た。
「受け身は、まあ形になってきたの」
「まあ、って何だい。あたいは今日、何度も床に命を預けたんだよ。少しくらい盛大に褒めな」
「調子に乗るな」
「乗らせておくれよ! 床から起き上がったんだから、気持ちくらい上に行かせておくれ!」
ラビが端で小さく吹き出した。
だが、すぐに表情を引き締める。
ブックマンがまだ終わらせる気などないと、弟子である彼には分かっていた。
案の定、ブックマンは袖を整えながら静かに告げる。
「次じゃ」
「……まだあるのかい?」
トシコの顔が引きつる。
「まさか次は、床と婚約でもさせる気じゃないだろうね」
「今までは受け方を教えた」
ブックマンは淡々と言った。
「倒されても壊れぬように。投げられても頭を打たぬように。痛みを逃がし、次に動けるように」
「おかげで床との付き合い方だけは上手くなったよ」
「なら次は、返し方じゃ」
その言葉に、トシコはぱちりと目を瞬いた。
「返し方?」
「そうじゃ」
ブックマンは片手をゆっくり持ち上げる。
「お主は力がある方ではない。神田やラビを、真正面から腕力で止めようとしても無駄じゃ」
「そんなことは分かってるよ。あの兄ちゃんたち、腕に岩でも詰まってるんじゃないかってくらい重いんだからね」
「ならば、受け止めるな」
ブックマンの声が、少し低くなる。
「流せ」
トシコは眉を寄せた。
「流す?」
「相手の力を、真正面から受けるから潰される。押されたなら、押し返すな。少しずらし、通してやれ。相手が前へ出る勢いを殺すのではなく、そのまま別の方向へ導く」
ブックマンはラビへ視線を向けた。
「ラビ」
「はいはい」
ラビは軽く肩を回しながら前へ出た。
「俺が相手すればいいさ?」
「まずはゆっくりと軽く突け」
「了解」
ラビがゆっくりとトシコへ向かって踏み込む。
拳ではない。
手のひらで肩を押す程度の、ごく軽い動きだ。
だが、トシコは反射的に身構えた。
「待ちな、ラビ。軽くって言っても、あんたの軽くは信用ならないよ」
「ひどいなぁ。俺、紳士だって言ったさ」
「自称紳士は信用ならないって、さっき結論出ただろうが」
「根に持ってるさ……」
「無駄口を叩くな」
ブックマンの声で、二人はぴたりと黙る。
ラビが踏み込んだ。
手のひらがトシコの肩へ伸びる。
トシコはそれを受け止めようとして、ぐっと腕に力を入れた。
その瞬間、ブックマンが手にした木刀が、こつんと床を叩く。
「違う」
「えっ」
「受けるなと言うた」
次の瞬間、ブックマンの手がトシコの肘に軽く触れた。
本当に軽く。
ただ、角度を変えただけ。
ラビの手はトシコの肩を押すはずだった。
だが、トシコの体が半歩ずれ、ラビの力はそのまま横へ流れていく。
「おっと」
ラビの重心が、わずかに前へ泳いだ。
ブックマンはその瞬間、トシコの手首を取り、ラビの腕の流れに添わせるように導いた。
「今じゃ」
「え、今って何を――」
「足を引け。腰を回せ。腕で投げるな。相手が勝手に倒れる道を作れ」
「注文が多いよ!」
叫びながらも、トシコは言われた通りに足を引いた。
腰をひねる。
ラビの腕を引っ張るのではなく、流れに沿わせる。
すると。
「うわっ」
ラビの体が、ほんの少しだけ崩れた。
彼の足がもつれ、体勢が乱れた。
鍛練場の空気が、ふっと動く。
「……今の」
トシコは、自分の手を見た。
「今、あたいがやったのかい?」
「半分はわしじゃ」
ブックマンが即座に言った。
「夢を見せとくれよ!」
「夢は寝て見い」
ラビは体勢を立て直しながら、少し驚いた顔で笑った。
「いや、でも今の、ちゃんと崩れたさ。俺、油断してたとはいえ」
「だろう!?」
トシコの顔がぱっと明るくなる。
「今の見たかい!? おばちゃん、ラビをちょっとグラつかせたよ!」
「半分はわしじゃと言うとる」
「残り半分はあたいだろうが!」
「残り三割じゃ」
「減ったね!?」
ブックマンは構わず続ける。
「よいか、トシコ。お主が覚えるべきは、力で殴ることではない。強い者の力を借りて、その強い者自身を崩すことじゃ」
「相手の力を、相手に返すってことかい」
「そうじゃ」
ブックマンは小さく頷いた。
「柔の技じゃ。力の弱い者が、力の強い者に抗うための理じゃ。力で勝てぬなら、向きを変えろ。流れを変えろ。重心を奪え」
トシコは真剣な顔で聞いていた。
床に転がされている時より、ずっと静かだった。
「……なるほどねぇ」
「分かったか」
「つまり、殴られそうになったら、真正面から受けるんじゃなくて、相手の勢いを横に流して、足元をすくって、相手に勝手に転んでもらうってことだね」
「雑じゃが、まあ近い」
「おばちゃん向きじゃないかい」
トシコはにやりと笑った。
「力じゃ勝てない相手に、知恵と根性と腰の回転で嫌がらせするんだろう?」
「言い方は悪いが、近い」
ラビが肩を震わせた。
「おばちゃん、柔術を“嫌がらせ”って言ったさ」
「間違ってないだろう? 強い奴ほど、自分の力で転ばされたら嫌な顔するじゃないか」
その言葉に、遠くで見ていた神田の眉がぴくりと動いた。
「……」
トシコはそれに気づかないまま、ぐっと拳を握る。
「よし。もう一回だよ、ラビ。今度はあたいの力で、あんたをもうちょいグラつかせる」
「俺で練習するのかよ」
「さっきタイプだなんだと言った罰だよ」
「まだ根に持ってるさ!?」
「おばちゃんはね、褒め言葉も失言も長期保存できるんだよ」
「保存方法が怖いさ」
ブックマンが二人の間に入るように、手を軽く上げた。
「まずは型からじゃ。ラビ、お主はゆっくり押せ。トシコ、肩で受けるな。腕で止めるな。半身を切れ。相手の力を体の横へ逃がせ」
「半身を切る……」
トシコは呟きながら、足の位置を変える。
ラビがもう一度、ゆっくり手を伸ばす。
今度は、真正面から受けない。
ほんの少し体をずらす。
相手の腕に、自分の腕を添える。
押された力を、横へ逃がす。
そして。
「腰を回せ」
ブックマンの声。
トシコは腰を回した。
ラビの体が、今度はさっきよりもはっきりと前へ泳ぐ。
「おっ」
ラビの片足が、一歩前へ出る。
ほんの一歩。
だが、それは明らかな崩れだった。
「できた……!」
トシコの顔が輝く。
「今の、あたいがやったよね!?」
「六割はな」
「増えた!」
「調子に乗るな」
「乗らせておくれよ! 床と絶交できそうなんだから!」
鍛練場に笑いが起きた。
だが、その笑いは先ほどまでのものとは少し違う。
からかいではない。
見守るような笑いだった。
床に転がされるだけだったおばちゃんが、初めて相手を崩した。
トシコにとっては、間違いなく大きな一歩だった。
ブックマンは静かに腕を組む。
「覚えておけ。受け身は、倒された後に生き残るための技じゃ」
トシコが顔を上げる。
「そして、今教えたものは」
ブックマンの目が、細くなる。
「倒される前に、生き残るための技じゃ」
その言葉に、トシコの表情が少し変わった。
戦場で、誰かを助けるために走る時の顔。
真剣な、おばちゃんの顔だった。
「……いいねぇ」
トシコはゆっくり構え直した。
「そういうの、あたいに必要だよ」
力では勝てない。
速さでも、まだ追いつけない。
代わりに。
流せるなら。
崩せるなら。
ほんの少しでも、自分より強い相手の動きを止められるなら。
その一瞬で、誰かを守れるかもしれない。
「もう一回だよ」
トシコは言った。
今度は茶化さなかった。
ラビもそれを感じ取ったのか、表情を引き締める。
「了解」
ブックマンが小さく頷く。
「では、続けるぞ」
床とお友達にされたおばちゃんは、その日初めて、床から相手を引き離すための技を学び始めた。
倒されるだけでは終わらない。
転がるだけでは終わらない。
トシコの戦い方は、ここから少しずつ形を変えていくのだった。
つづく、2026/06/05