おばちゃんエクソシストの成長
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第5話
その頃、鍛練場ではすでに、ブックマンによる容赦のない組手準備が始まっていた。
任務帰りだろうが、腹いっぱいだろうが、風呂上がりだろうが関係ない。
動けるなら動け。
ブックマンの教育方針は、いつだって簡潔で残酷である。
「ジジイ……飯のあとにこれはきついさ……」
ラビがげんなりした顔で木剣を肩に担いでいると、鍛練場の入口がゆっくりと開いた。
のそり……。
まるで風呂上がりの猫のような足取りで、トシコが姿を現す。
新しい団服は一度自室へ置いてきたのだろう。
今のトシコは、鍛練用の動きやすい普段着姿だった。
だが、その姿を団員たちが見た瞬間――。
空気が、ぴたりと止まった。
ブカブカの団服では隠れていた体の線。
地獄のような神田の訓練を経て引き締まったウエスト。
無駄な肉が落ち、しなやかになった四肢。
それでいて、若い娘には出せない柔らかさと、豊満な女性らしさはきちんと残っている。
湯上がりでほんのり赤みを帯びた肌。
少し湿った髪。
飾り気のない普段着だからこそ、かえってごまかしのない大人の色気が自然に滲んでいた。
四十代。
若さだけでは作れない、酸いも甘いも噛み分けてきた女の迫力。
それは、鍛練場という汗と男臭さに満ちた場所には、あまりにも場違いなほどの存在感だった。
「…………」
ラビが固まった。
次の瞬間、彼の目がかっと見開かれる。
「ゲェーッ!? 誰あのいい女――って、おばちゃん!?」
鍛練場に、ラビの絶叫が響き渡った。
「風呂上がりだと余計にヤバいさ! え、待って、マジでタイプなんだけど! 何これ、詐欺!? 」
「誰が詐欺だい」
トシコはラビの騒ぎを一蹴するどころか、むしろ鼻で笑った。
そして、ふんっと胸を張る。
片手を腰に当て、片足を少し前へ出し、どこで覚えたのか分からないモデルのようなポーズを堂々と決めた。
「どうだい。これが、だるま時代を卒業したおばちゃんの第二形態だよ。まあ、元の姿に戻っただけなんだけどね」
その自信満々の姿に、鍛練場のあちこちからざわめきが起きる。
「……誰だ、あの人」
「あんな美人、教団にいたか?」
「いや、待て。あれ、トシコさんじゃないか?」
「ええっ!?」
「嘘だろ!? この前までだるまのように転がってた人だぞ!?」
「風呂って人をここまで変えるのか……?」
「いや、風呂だけじゃないだろ。あれは鍛え上げられた体だ」
「すげぇ……」
むさ苦しい鍛練場が、一気にざわついた。
木剣を持ったまま固まる者。
水を飲みかけてむせる者。
二度見どころか三度見する者。
トシコはその反応を見て、さらに得意げに顎を上げた。
「ふん!おばちゃん元はいいんだよ。学校の美少女コンテストで優勝したんだからね」
「美少女コンテスト優勝から、どう転んだら“尊厳を収益化するおばちゃん”になるんさ……」
ラビが呆れたように呟く。
しかしその視線は、明らかにトシコから外せていない。
「いやでも、本当にすごいさ。おばちゃん、マジで変わったな」
「そうだろう、そうだろう」
トシコは満足げにうんうん頷く。
「血と涙と汗と神田の兄ちゃんの鬼みたいなしごきと、ブックマンの地獄みたいな組手と、私の根性で作り上げた体だからね。拝んでお布施していきな」
「また収益化しようとしてるさ」
「ありがたいもんは有料なんだよ」
「おばちゃん、商魂たくましすぎる」
そのやり取りに、周囲の男たちがどっと笑う。
だが、笑いながらも、視線はちらちらとトシコへ向いていた。
それほど、今の彼女の変化は大きかった。
ただ痩せたのではない。
ただ綺麗になったのでもない。
生き残るために鍛えられ、仲間を助けるために強くなり、それでも人を包み込む温かさを失わなかった体。
トシコは、確かに変わっていた。
その時だった。
鍛練場の奥から、乾いた打撃音が響いた。
バシィッ!!
空気を裂くような音に、トシコはふと視線を向ける。
そこでは、すでに神田とブックマンが組手を始めていた。
お互い素手だ。
だが、それでもその一挙手一投足は刃物のように鋭かった。
踏み込みは速く、無駄がない。
肩がわずかに動いたと思った次の瞬間には、拳が相手の懐へ届いている。
普通の相手なら、目で追う前に吹き飛ばされているだろう。
しかし、ブックマンはその拳を、まるで風を払うようにいなした。
「……っ」
神田の眉がわずかに動く。
すぐさま次の一撃。
肘。
掌底。
膝。
流れるように連なる攻撃が、休む間もなくブックマンへ襲いかかる。
だが、ブックマンは一歩も大きく下がらない。
小さく半身をずらし、手首を払う。
軌道を逸らす。
重心を崩す。
その動きは、老人のものとは思えないほど速く、そして静かだった。
激しい神田の攻めに対し、ブックマンは最小限の動きだけでそれを受け流していく。
バッ。
パンッ。
ドンッ。
鋭い音が、鍛練場に連続して響いた。
それまでトシコの変貌ぶりにざわついていた団員たちも、いつの間にか口を閉じていた。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
ただ、息を呑んで二人の攻防を見つめている。
「……すごいねぇ」
トシコは思わず呟いた。
軽口を叩く余裕など、一瞬で吹き飛んでいた。
神田が強いことは知っている。
嫌というほど知っている。
あの鬼みたいなしごきで、何度床に転がされたか分からない。
何度「遅ぇ」と吐き捨てられたか分からない。
だが、こうして他者と本気に近い速度で動いている神田を見ると、改めて思い知らされる。
この男は、本当に強い。
そして、それを軽々といなしているブックマンもまた、底が見えない。
「ラビ……」
トシコは、隣に立つラビへ小声で尋ねた。
「ブックマンって、あんなに動けるのかい?」
「動けるどころじゃないさ」
ラビは苦笑する。
「じじい、普段は年寄りっぽくしてるけど、本気出すと俺でも嫌になるくらい厄介さ」
「嫌になるくらいって、あんたも弟子だろうが」
「弟子だから嫌になるんさ」
ラビが肩をすくめた、その瞬間。
神田の足が床を蹴った。
今までより一段速い踏み込み。
真正面からの拳と見せかけて、途中で軌道を変え、ブックマンの横腹へ鋭く打ち込む。
見ていた団員の何人かが、思わず声を漏らした。
だが、ブックマンはわずかに目を細めただけだった。
神田の手首を指先で捉え、流す。
体の向きを半歩変える。
次の瞬間、神田の勢いはそのまま利用され、彼の体は綺麗に横へ崩された。
「チッ……!」
神田は舌打ちしながらも、床に倒れ込む直前で片手をつき、ばねのように体勢を立て直す。
その身のこなしに、鍛練場が小さくどよめいた。
だが、ブックマンは追撃しない。
すっと手を下ろし、静かに告げる。
「そこまでじゃ」
神田は低く息を吐き、乱れた前髪を鬱陶しそうに払った。
その呼吸はわずかに深い。
一方のブックマンは、まるで散歩から戻ってきた老人のような顔で袖を整えている。
「まだ甘いのう」
「……うるせぇ」
神田が不機嫌そうに吐き捨てる。
しかし、その声には本気の苛立ちだけでなく、どこか悔しさも滲んでいた。
トシコは、ぽかんとその光景を見つめていた。
神田の一撃を、正面から力で受け止めるのではなく、流し、崩し、無効化する。
それは、ただ速いだけではない。
ただ強いだけでもない。
相手の力を見極め、呼吸を読み、わずかな隙を逃さない技術。
トシコが今まで必死に積み上げてきた根性とは、まったく別の世界にある強さだった。
「毎度思うんだけどさ……あんなの、どうやって避けるんだい」
思わず漏れた声に、ラビがちらりと笑う。
「見るんじゃなくて、読むんだってさ」
「簡単に言うんじゃないよ」
「ハハハ」
そこへ、ブックマンの視線がすっとトシコへ向いた。
「見とったな、トシコ」
「そりゃ見るよ。あんな化け物みたいな組手、見ない方が無理だよ」
「化け物とは失礼じゃな」
「褒めてんだよ」
トシコは思わずそう返した。
ブックマンはふん、と鼻を鳴らす。
そして、ゆっくりとトシコの方へ歩いてきた。
その背後で、神田は不機嫌そうに汗を拭う。
「次はお主じゃ、トシコ」
「……は?」
トシコの顔から、すっと血の気が引いた。
「いやいやいやいや、ちょっと待ちな。今の見たあとで、あたいにやれって言うのかい?」
「見たからやるんじゃ」
ブックマンは当然のように言った。
「任務の合間に、わしが叩き込んだ体捌き。どこまで骨身に染みとるか、見せてもらおうかの」
「……成長確認ってことかい」
「そうとも言う」
「言い方が怖いんだよ、じいさん!」
「今の動きがどこまで目で追えたか。どこで反応できなくなったか。それを体で確かめる」
「体で確かめたら、あたいの体が床に確定申告されちまうよ」
「意味が分からん」
「私にも分からないよ! 怖すぎて口が勝手に動いてるんだよ!」
ラビが吹き出した。
神田は冷たい目でトシコを見る。
「うるせぇ。さっさと構えろ、ババア」
その一言に、トシコの眉がぴくりと跳ねた。
「誰がババアだい。風呂上がりのいい女って言い直しな」
「寝言は寝て言え」
「このポニテ魔人……!」
トシコは歯を食いしばりながらも、ゆっくりと前へ出た。
先ほどまでのモデルポーズは消えている。
代わりに、腹の底へ力を入れ、足裏で床を掴むように立つ。
風呂上がりの柔らかな空気をまとったまま、それでもその目には、任務で仲間を救ってきた者の真剣な光が宿っていた。
ブックマンが小さく頷く。
「よい顔じゃ」
「褒めても怖いもんは怖いよ」
「怖くてよい。怖いものを怖いと知ったうえで、動けるようになれ」
その言葉に、トシコは一瞬だけ黙った。
そして、深く息を吸う。
「……分かったよ」
袖を軽くまくり、トシコは構えた。
「来な。ふやけた昆布でも、根性だけは煮崩れしてないよ」
鍛練場の空気が、再び張り詰める。
笑い声は消えた。
つづく、2026/06/04