おばちゃんエクソシストの成長
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第4話
大食いという名の小さな災害が、ようやく一段落した頃。
食堂のテーブルには、空になった皿の塔がいくつも築かれていた。
ジェリーは厨房の奥で米びつを再確認し、科学班は「寄生型二名同時給餌時の食料消費量」などという、今後使うのか使わないのか分からない記録を真剣にまとめている。
アレンは満腹になったのか、ほわほわと幸せそうな顔でお茶を飲んでいた。
その向かいで、トシコも腹をぽんぽんと叩きながら、深く息を吐く。
「はぁぁ……生き返ったねぇ……。やっぱりご飯は偉大だよ。ご飯には世界を救う力があるね」
「それは言い過ぎじゃないさ?」
ラビが笑いながら言いかけたところで、ふとトシコの格好に目を留めた。
ブカブカの団服。
動くたびにずり落ちそうになるズボン。
食事中も何度か腰紐を締め直していたその姿に、ラビは首を傾げる。
「って、おばちゃん。まだ新しい団服貰ってないんか? ズボン、ブカブカじゃん」
「ああ、これかい?」
トシコは自分の腰元を見下ろし、団服の布を軽く引っ張った。
以前の体型に合わせて作られたそれは、今の引き締まった体には明らかに合っていない。
「任務続きでねぇ。採寸はとっくに済んでるんだけど、新しいのを受け取る暇がなくてさ。これから取りに行ってくるよ」
そう言って、トシコは自慢げに自分の腹をぽんぽんと叩いた。
「見な、この腹。前は団服が腹に負けてたのに、今じゃ団服のほうが余ってるんだよ。人生、何が起こるか分からないねぇ」
「いやほんと、すげぇ変わったさ」
ラビは片肘をつき、目を細めてトシコを見た。
その視線が、いつもの軽い笑みより少しだけ男っぽいものに変わる。
「トシコ、本当に痩せたなぁ。いや、痩せたっていうか、締まった? なんつーか……うん。トシコがあと二十若かったらなぁ」
「……ん?」
トシコの動きが止まる。
ラビはにこっと笑って、さらに悪びれず続けた。
「いや、十でもいいな。ほんとタイプ」
「……おばちゃん今、身の危険を感じたよ……」
トシコは両腕で自分の体を抱きしめるようにして、じりっと椅子ごと後ずさった。
その隣でアレンが「えっ」と固まり、リナリーが「あはは……」と困ったように笑う。
ラビは両手をひらひら振った。
「大丈夫! 大丈夫!」
「何が大丈夫なんだい」
「俺、紳士だから」
「自分で言う紳士ほど信用ならないもんはないよ」
「ひどいさ!」
ラビが大げさに胸を押さえた、その瞬間。
スパコーンッ!!
乾いた音が、食堂に見事に響いた。
「いってぇ!」
ブックマンの手刀が、ラビの頭に綺麗に落ちていた。
「このバカ弟子。飯時に何を口走っとる」
「いや、褒めただけさ!」
「褒め方が軽薄なんじゃ」
「でも本心――」
スパコーンッ!!
二発目が入った。
ラビは頭を押さえて、テーブルに突っ伏す。
「ジジイ、容赦ないさ……」
「まともな発言をせい」
ブックマンは呆れたように鼻を鳴らし、それからトシコへ視線を向けた。
「これ、トシコ。団服を受け取りに行くなら、ついでに風呂にも入ってこい。血と消毒液とチャーハンの匂いが混ざっとる。その後、わしと組手の練習じゃ」
「風呂の後くらい、ふやけた昆布みたいに伸びさせておくれよ!」
トシコは思わず叫んだ。
だが、叫びながらも、腰元のブカブカになった団服をぎゅっと押さえる。
今朝も任務中に落ちグラビアモデル並みのことを披露して、さっきもホールで盛大にすっ転びかけた問題児のズボンである。
このままでは…。
まあ、組手は普段着でやるとして、このズボンで廊下を歩くだけで命取りだね。
「……団服だけは先に何とかしないとねぇ。次に落ちたら、あたいの尊厳が本格的に殉職しちまうよ」
「殉職しとるのは、見せられた側の精神じゃろ」
ブックマンが茶をすすりながら、容赦なく言った。
「ありがたいもん見せられて喜んでるよ! 拝んでお布施してけばいいんだよ、まったく!」
トシコが即座に言い返すと、ラビが肩を震わせながら笑った。
「おばちゃん、とうとう尊厳を収益化し始めたさ……」
「ラビ、あんたの唐揚げを取り上げたこと、まだ根に持ってるね?」
「いや? 全然? ただ俺の唐揚げ、今ごろボクちゃんの血肉になってるんだなって思ってただけさ」
「僕、唐揚げの転職先みたいになってませんか……?」
アレンが困ったように呟く。
その横で、リーバーが真顔でメモを取った。
『ラビの唐揚げ、アレン・ウォーカーの栄養として再就職』
「記録しなくていいですからね!?」
アレンの声が食堂に響く。
そんな中、リーバーはふとトシコの団服を見て、妙に真剣な顔になった。
「しかし、本当に早めに受け取った方がいい。その格好だと、戦闘以前に移動中の事故率が高すぎるな」
リーバーが、真面目な顔でそう言った。
その瞬間、トシコの眉がぴくりと跳ねる。
「だから! 何度も! ファインダーの子に持たせてくれって頼んだじゃないか!」
トシコはテーブルをばんっと叩き、科学班の面々をぐるりと睨んだ。
「こちとら任務任務で教団に腰を落ち着ける暇もなかったんだよ!? 採寸はした! メジャーでギチギチに測られた! 変なところまで測られて『ここも必要です』って言われて、乙女心をすり減らしながら耐えた!」
「乙女心……」
「そこ拾うんじゃないよ!」
トシコは即座にリーバーを指差した。
「なのに! 新しい団服が! 来ない! だからこのズボンが落ちて! おばちゃんのセクシーシーンが生まれる!」
言葉に合わせて、トシコは腰のあたりを両手で押さえた。
「私の尊厳はね、もう何度も戦場で危篤状態なんだよ!」
科学班の一人が、気まずそうに視線を逸らす。
「いや、その……一応、完成はしてるんですけど……」
「してるんかい!!」
食堂中に、トシコの叫びが響いた。
「完成してるなら、なぜ持たせない! なぜ届けない! なぜこのおばちゃんをブカブカのまま野に放った!」
「野に放ったって……」
「野だよ! 戦場はだいたい野だよ!」
リーバーがこめかみを押さえながら、ため息をつく。
「たぶん、任務の伝達と物資運搬の優先順位で後回しになったんでしょうね」
「後回しにするなぁ! こっちはズボンが前線突破されてるんだよ!」
「ズボンが前線突破……」
ラビが腹を抱えて笑い出す。
「おばちゃん、それ最高さ……!」
「笑うんじゃないよ! あんたの頭も前線突破させるよ!」
「怖っ」
ブックマンは茶をすすりながら、静かに呟いた。
「まあ、受け取りに行けば済む話じゃ」
「そうだけどね! 言わせておくれよ! おばちゃんには怒る権利があるんだよ!」
アレンは唐揚げをもぐもぐしながら、真剣な顔で頷いた。
「たしかに、ズボンが落ちるのは大変です」
「分かるかい、ボクちゃん!」
「はい。戦闘中だと危ないですし……恥ずかしいですし……」
「そう! 恥ずかしいんだよ!」
トシコは胸を張った。
「命も大事! でも尊厳も大事! どっちも守ってこその団服だろうが!」
リーバーは観念したように、ジョニーへ視線を向けた。
「……すぐ確認して来てくれないか。完成しているなら、受け取りの手配を」
「了解!」
ジョニーが慌てて食堂を飛び出していく。
トシコはふんっと鼻を鳴らした。
「まったく。おばちゃんのズボン問題を軽く見ちゃいけないよ」
「教団の議題に上がりそうじゃな」
ブックマンがぼそりと言う。
ラビがすかさず笑った。
「議題名、『トシコの尊厳防衛戦』でどうさ?」
「議題にするんじゃないよ!!」
トシコが全力でツッコミを入れた、まさにその時だった。
「は、班長! 班長!」
先ほど食堂を飛び出していったジョニーが、息を切らせながら戻ってきた。
その腕に大事そうに抱えられているのは、綺麗に畳まれた黒い布地。
見覚えのある、しかし今までのものとは明らかに違う、真新しい団服だった。
「ありましたよ! 衣服班の倉庫の特等席に鎮座してました!」
「特等席に置く前に届けな!」
トシコが即座に叫ぶ。
リーバーはこめかみを押さえながらも、ジョニーから団服を受け取ると、確認するように軽く広げた。
「……サイズ調整済み。間違いなさそうだな」
それから、トシコへ差し出す。
「ほら、トシコさん。これでズボンの前線突破はひとまず防げるな」
「ありがとよ! ちょっとは急かしてみるもんだねぇ!」
トシコは目を輝かせて新しい団服を受け取った。
その瞬間、まるで長年離れ離れだった我が子と再会したかのように、黒い布地をぎゅっと胸に抱きしめる。
「やっと……やっと来たよ、あたいの新しい尊厳……!」
「団服を尊厳扱いするなさ」
ラビが笑いながら突っ込む。
だがトシコは聞いていない。
これでようやく、歩くたびに腰紐を気にし、走るたびにズボンの安否を確認し、着地するたびに自分の下半身と神に祈る日々ともおさらばである。
おばちゃんの尊厳防衛戦は、ここに一時休戦を迎えた。
ブックマンが湯呑みをテーブルに置き、よっこらしょと腰を上げる。
「服も手に入った。これでお主の言う『乙女の尊厳』とやらは守られたわけじゃな」
「そうだよ。やっと守られたんだよ。今までずっと最前線で丸腰だったんだからね」
「大げさじゃ」
「大げさじゃないよ! ズボンが落ちるってのは、人間社会における緊急事態なんだよ!」
「ほうほう、ならば、さっさと風呂へ行け」
ブックマンは淡々と言った。
「わしらは一足先に風呂へ行く。お主も風呂から出たら鍛練場に来い」
「……どういう"ならば"?」
トシコの笑顔が固まる。
ブックマンは容赦なく続けた。
「遅れたら、組手の本数を倍にする」
「げぇっ! ジジイ、相変わらず情け容赦がねぇなあ!」
「そういうラビ。お前もじゃ」
「ひえっ!」
隣で他人事のように笑っていたラビの顔が、一瞬で引きつった。
「俺も!?」
「当然じゃ。任務帰りだからといって、身体を鈍らせる理由にはならん」
「じじい、それ絶対トシコへの流れ弾を俺にも当ててるさ……」
「黙って来い」
「はいはい……」
ラビはげんなりしながらもトレイを片付けると、トシコに向かってひらひらと手を振った。
「おばちゃん、遅れたらマジでじじいの千本ノックならぬ千本組手が待ってるさ〜。じゃ、またあとでな」
「不吉なこと言うんじゃないよ!」
「事実じゃ」
ブックマンがさらりと言い捨てる。
トシコは新しい団服を小脇に抱えたまま、顔をしかめた。
「はいはい、すぐ行くよ! 風呂くらいゆっくり入らせておくれってんだ、まったく……」
ぶつぶつ文句を言うトシコを横目に、ブックマンとラビは食堂を出て行った。
その背中を見送ってから、トシコはふと、まだテーブルに残っている面々へ向き直る。
視線を落とすと、向かい側ではアレンが、最後の皿をちょうど綺麗に空にしたところだった。
ラストスパートとばかりに黙々と食べ続けていたらしい。
山盛りチャーハンも、唐揚げも、スープも、見事に消えている。
「……ごちそうさまでした」
アレンは両手を合わせ、ほうっと満足げに息を吐いた。
その顔色はまだ少し白い。
だが、教団の門を叩いた直後の、緊張と不安で張り詰めた表情とは明らかに違っていた。
腹が満ちた子どもの顔。
それを見たトシコの表情が、ふっと柔らかくなる。
「ボクちゃん」
「はい?」
「ちゃんと食べたねぇ。偉いよ」
「え、あ……ありがとうございます」
「食べたら、今度は無理しないこと。倒れそうになったらちゃんと言うんだよ。いいね?」
「はい」
アレンが素直に頷くと、トシコは満足げにうんうんと頷いた。
それから、リナリーとリーバーたち科学班へ向き直る。
「リナリーちゃん、リーバー班長。悪いけど、このボクちゃんのこと、よろしく頼んだよ」
「うん、任せて」
リナリーが穏やかに微笑む。
「トシコも、ゆっくりお風呂で疲れを癒やしてきてね。新しい団服、楽しみだね」
「楽しみだけど怖くもあるねぇ。着た瞬間、誰かが『誰だいあのいい女は!?』って騒ぎ出したらどうしようかね」
「今でもいい女ですよ」
リーバーが疲れたように突っ込む。
トシコはふんと胸を張った。
「そりゃそうさ!」
リーバーは苦笑しながら肩をすくめた。
「アレンのことは見ておきます。食べ過ぎで倒れないように」
ジョニーも、メモ帳を片手に親指を立てる。
「記録目的じゃないだろうね?」
「半分くらいは……」
「半分は記録なんだね!?」
トシコが叫ぶと、食堂に小さな笑いが起きた。
その笑い声に満足したように、トシコはピカピカの新しい団服を小脇に抱え直す。
「よし、じゃあ部屋に戻ってから、お風呂に行ってくるよ!」
そして、アレンに向かってびしっと指を差した。
「ボクちゃん! まだ足りなかったら遠慮しないで追加するんだよ! ジェリーちゃんのご飯は逃げないし、おばちゃんの目もごまかせないからね!」
「は、はい!」
「いい返事!」
トシコは満足げに頷くと、今度こそ颯爽と食堂を後にした。
ただし、途中でズボンがずり落ちないよう、片手はしっかり腰紐を押さえたままだった。
おばちゃんという名の、やかましくも温かい台風が去っていった食堂。
残されたアレンは、しばらくその背中をぽかんと見送っていた。
そして、お茶をずずっとすすり、ようやく一息ついたように小さく息を吐く。
「……ぷはぁ」
結局、ラビとブックマンに最後まで自分の名前を自分の口からまともに名乗りきることはできなかった。
その表情は、教団の門を叩いた時とは比べものにならないほど穏やかで、満ち足りたものになっていた。
「……本当に、面白い人ですね、トシコさん」
アレンがぽつりと呟く。
リナリーは、嬉しそうに頷いた。
「うん。トシコがいてくれると、この暗くて寒い教団が、いっぺんにあったかくなるんだよ」
その言葉に、アレンはもう一度、食堂の入口の方を見た。
そこにはもう、トシコの姿はない。
騒がしい声の余韻と、チャーハンの湯気と、胸の奥に残った妙な温かさだけが、まだそこに残っている気がした。
尋問室でも、医務室でもなく。
世話焼きおばちゃんの強い意志によって食堂へ連行された少年。
アレン・ウォーカーの波乱に満ちた教団生活は、おばちゃんの圧倒的な母性と、食堂のチャーハンの香りの中で、こうして賑やかに幕を開けたのだった。
つづく、2026/06/03