おばちゃんエクソシストの誕生
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第17話。
「……あ」
カラン、とトシコの右手からフォークが落ちた。
自分の意志で動く指先。
立ち上がれる足。
テーブルの上の料理は、もはや無理やり口へ向かってくることはなかった。ただ、美味しそうな湯気を静かに上げているだけ。
神田は、ゆっくりと立ち上がった。
「……チッ。ようやく自由になったか」
神田は相変わらず不機嫌そうに吐き捨てたが、その視線は、肩で息をしているトシコの背中に向けられていた。
「ババア。終わりか?」
「……はぁ、はぁ……。……終わったよ。……もう、お説教のネタは、……空っぽだよ……」
トシコの言葉を合図にするように、像の中から柔らかな緑色の光が溢れ出した。
それは怒りでも呪いでもない。
懐かしい森の匂いを伴った、穏やかな光。
その光の塊――イノセンスの原石が、宙に浮き上がり、神田の手元へとゆっくり吸い寄せられていく。
「……これが、今回のターゲットか」
神田がそれを掴んだ瞬間、村人たちが次々と椅子から崩れ落ちた。
「助かった……」
「もう食べなくていいんだ……」
安堵の涙を流す村人たち。
トシコもまた、へなへなとその場に座り込もうとして……そのまま前のめりに倒れかけた。
「おっと……」
神田が反射的にその襟首を掴んで支える。
「……兄ちゃん……あたしの仕事まだあるよ……」
トシコは食べ物の汚れにまみれた手で、神田の腕の大きな傷に触れた。
トシコの掌から、最期の灯火のような、か細く、けれど温かい光が漏れる。
傷が完全に塞がったのを見届けると、トシコの顔から一気に血の気が引いた。
「……ババア?」
「……さあ……次は……村人たちの…番だよ……」
トシコはそう言うと、満足げに口角を上げ、よろよろと立ち上がった。
無理やり食べさせられていた村人達が、次々に広場を埋め尽くす。
何人かに死の気配が出ていた。
テーブルと椅子から解放された途端、村人たちの肌を星型の紋章が、すごい速さで広がっていく。
「な、なんだいこれは!?」
おばちゃんはこの模様を初めて見た。
神田は村の現状を見て舌打ちをする。
おばちゃんはイノセンスを通じて、そのウイルスを身体へと吸い込むが、時間と人手が足らなかった。
「私の身体があと10体ありゃあいいのに!」
ウイルスを無効化しているのではない。
おばちゃんはイノセンスを介して、人々の死を自らの内側に引き受け、彼女の身体の中で強引に中和しているのだ。
「……はぁ、はぁ……っ」
一人、また一人。
死の淵から引き戻された村人たちが、信じられないものを見るようにトシコを見つめている。
一方、トシコの肌は、吸い込んだウイルスの影響で一瞬黒く変色しては、光に焼かれて元の色に戻るという、壮絶な代謝を繰り返していた。
神田は、その様子を苦い眼差しで見守っていた。
彼自身、かつて実験体として植え付けられた「蓮花」の呪縛により、どれほどの致命傷を負おうとも、ウイルスに侵されようとも、強制的に再生させられる身体を持っている。
(……俺と同じか?)
神田は己の胸元に刻まれた、命を削りながら咲き続ける蓮の花を想う。
自分の再生は、戦い続けるための呪いだ。
ならば、目の前の女が振るっている「再生」もまた、等しく命の灯火を燃料にしているのではないか。
「……お父さんを、お父さんを助けて!!」
泣き叫ぶ少年に腕を引かれ、トシコはふらつく足取りで駆け寄る。
だが、その視界の端では、別の老人が「わしを、わしを先に……!」と血走った目で縋りついていた。
「わかった、今行くよ、順番だよ、みんな死なせやしないから……っ!」
トシコは叫び、少年の父親の胸に手を当てる。
けれど、掌の十字が光を放った瞬間、男の指先がさらさらと白い砂に変わった。
「あ……」
トシコの指が、男の胸を突き抜ける。
中和が間に合わない。吸い出すそばから、死のウイルスが命の芯を焼き尽くしていく。
男は最期に一度だけ愛しい息子を見つめ、声も出せぬまま、風に舞う塵となって消えていった。
「お父さん……? お父さんッ!!」
少年の悲鳴が広場に響き渡る。
トシコが愕然として周囲を見渡すと、そこは地獄だった。
間に合わなかった人達が一斉に風に消えていった。
あちこちで「助けて!」という怒号が「人殺し」という呪詛に変わっていく。
「エクソシストなんて、役に立たないじゃないか!」
「あんたがもっと早く来れば、うちのは死なずに済んだんだ!」
感謝の言葉よりも鋭く、罵声がトシコの耳に突き刺さる。
その中で「ありがとう」と礼を言う者もいる。
しかし、救えた命よりも、救えなかった命の重みが、鉛のように彼女の肩にのしかかった。
足元がぐらりと揺れる。自分が何のためにイノセンスに選ばれたのか、その意味さえも砂と一緒に風にさらわれていくような感覚。
その時。
ガシッ、と。
ブヨブヨの左腕を、強い力で掴み上げられた。
「……ッ、兄ちゃん……?」
見上げると、そこには苦虫を噛み潰したような顔をした神田がいた。
神田の瞳にも、救えなかった者たちへの悔しさが滲んでいる。
けれど、彼はその感情を冷徹な仮面の下に押し殺し、トシコを無理やり立たせた。
「もういい。行くぞ」
「でも、まだあの子が……それにみんな、怒ってる……」
「……黙れ。俺たちはボランティアじゃねぇんだ」
神田はトシコの言葉を遮り、彼女の腕を引いて歩き出す。
背後から投げつけられる石や罵声を、神田の広い背中がすべて遮っていた。
村の出口へ向かう長い影が二つ。
トシコは震える手を見つめた。
人々の毒を吸い込んだ掌は、まだ熱い。けれど、心は凍えるように冷たかった。
神田は前を見据えたまま、低く、けれど地を這うような確かな声で言った。
「……ババア。俺たちの任務は、第1にイノセンスの回収。次にAKUMAの殲滅、次に人命だ」
「え……?」
「俺たちは天使でも神でも無え。救えなかったことを数えるな。生きた奴らに、恨まれる覚悟だけしとけ。……それが、この団服の重さだ」
神田の言葉は、慰めにしてはあまりに辛辣で、けれど救いようのないほど真実だった。
トシコは神田に引かれるまま、一歩一歩、泥を噛むように歩く。
その瞳から溢れた涙が、団服の袖に小さな染みを作った。
神田は、嗚咽を漏らし始めたトシコの背中を見ながら、二度とその村を振り返らなかった。
絶望を斬る剣と、絶望を飲み込む盾。
二人が背負ったのは、神の祝福などではなく、生き残った者の「呪い」そのものだった。
第1部終わり。第2部につづく、2026/05/28