おばちゃんエクソシスト誕生
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第10話。
「五分か……あの子はせっかちだねぇ……」
トシコは自室のベッドの端に手をつきながら、呪詛のようにぶつぶつと呟いた。
湿布のメントールが肌の上では景気よくスースーしているくせに、その下にある筋肉(脂肪)は、まるで昨夜のうちに誰かがコンクリートでも流し込んでいったかのように硬い。
肩は上がらない。腰は曲がらない。太ももは自我を持ったように震え、ふくらはぎは「もう終わりです」と言わんばかりにぴくぴくしている。
指一本動かすたびに、口から出るのは艶も色気も一切ない悲鳴だった。
「ひぎぃ……っ」
誰が聞いても情けない声である。
とにかく体が重い。
それでもトシコは、歯を食いしばって立ち上がろうとした。
「……よっ、こい、しょ……!」
気合いだけは立派だ。
だが、気合いと筋肉は別の生き物である。
腰を浮かせた瞬間、太ももが笑い、背中がつり、体が半分ほど上がったところで「やっぱり無理だ」と言いたげにその場でふらついた。
「……っ、いだだだだ……!」
五分。
神田が指定した時間は、容赦なく過ぎた。
そして案の定。
ドンドンドン!
扉が遠慮なく叩かれる。
「遅ぇぞ、ババア!死んでんのか!?」
「生きてるよ!失礼だねっ!ったく!」
言い返す声だけは元気だ。
だが当人は、まだ片足を上げるのにも一苦労している。
結局。
亀が「ちょっと急ぎますね」と本気を出した程度の速度で身支度を整え、ようやく扉を開けたのは、神田が去ってからきっかり十五分後だった。
扉を開けた瞬間、廊下の冷気より先に、もっと冷たいものが目に飛び込んできた。
神田が、腕を組んで壁に寄りかかっていた。
その周囲だけ、空気の温度が三度ほど低い。
いや、実際は同じ温度なのだろうが、あまりに不機嫌そうに立っているせいで、そうとしか思えない。
「……遅ぇ」
低く、短く、刺さる声。
その一言だけで、トシコは「ああ、怒ってるねぇ」と即座に理解した。
神田は壁から背を離すと、待っていたことを恩着せがましく示すことすらなく、くるりと踵を返した。
「着いてこい」
言い捨てたかと思えば、そのまま容赦なく歩き出す。
速い。
いや、神田にとっては普通の速度なのだろう。
だがトシコにとっては、ほぼ全力疾走である。
「待っておくれよぉぉ……!」
松葉杖をつきながら、トシコは半泣きで後を追う。
「膝が笑ってるんだよ!大爆笑中なんだよ……!」
神田は前を向いたまま、鼻で笑った。
「俺はババアに爆笑中だ」
「ひどいねぇ!」
言い返すが、その声すら途中で「いたたたっ」に変わる。
廊下に響くのは、神田の規則正しく乾いた足音と、トシコの松葉杖の音、そして「アイタタタ……」「ひぎっ」「ちょっと待ちな」という悲鳴混じりの雑音ばかりだった。
やがて辿り着いたのは、教団内部の一角に、場違いなほど静かに佇む和の空間だった。
白木の柱。
すっきりとした襖。
畳の匂い。
教団の石造りの廊下から一歩入っただけで、空気の質が変わる。
トシコは入口に立ち、目を瞬いた。
「……ここ、何するとこだい?」
神田は答える前に、すでに部屋の中央へ進んでいた。
「静かに瞑想をするところだ」
無駄のない所作で腰を下ろし、すとんと座る。
次の瞬間には、もう座禅の形が出来上がっていた。
背筋は一本の棒のように真っ直ぐで、肩の力は抜け、視線は伏せられ、空気がすっと静まる。
その姿は妙に様になっていた。
彫刻か、あるいはこういう生き物かと思うほどの静謐さである。
トシコは、その神田を見て、心の中でだけ素直に感心した。
(……こういうとこは、無駄に絵になるねぇ)
だが次の瞬間、その感心は苛立ちに変わる。
「何をしてる。はやく座れ」
「座れって言われて、座れる体なら苦労しないよ……」
トシコは震える手で膝を押さえ、見よう見まねで床に腰を下ろそうとした。
だが、しゃがむ途中で太ももが悲鳴を上げる。
「あ痛っ!!」
次の瞬間、重心がぐらりと崩れた。
トシコの体は、畳の上をころんと横転した。
「うわっ!」
起き上がろうとすれば、今度は別の場所がつる。
「痛い痛い!兄ちゃん足つった!!」
右へごろん。
何とか起き上がろうとして、今度は左へごろん。
それはもはや修行でもなんでもなく、畳の上で悶絶する巨大なだるまであった。
神田のこめかみが、ぴくりと動く。
「……チッ」
静寂を愛する男の眉間に、深い皺が刻まれた。
座禅を組んでいたはずの片目が、イライラと見開かれる。
やがて神田は、ゆっくりと立ち上がった。
足音もなくトシコのそばへ来ると、無言で肩を掴む。
「動くな。……ちっ、邪魔くせぇ……」
「あんたが連れてきたんだろう!?」
返事を聞く気もなく、神田はそのままトシコの体をぐいっと垂直に引き戻した。
強引だが、的確。
ぐらついていた肉体が、反動でぼよんと起き上がり、奇跡的に正しい位置へ戻る。
その拍子に、背中に貼られていた湿布が二、三枚、ぺろりと剥がれかけた。
「うわっ」
空気に触れたメントールが、一気に冷気を放つ。
「スースーする!スースーが増えたよ!」
「うるせぇ」
「うるさいのはアンタの訓練だよ!」
だが文句を言いながらも、トシコはどうにか座った。
足はぷるぷる。
腰はがくがく。
姿勢も座禅というより何とか倒れずにいる物体に近い。
それでも本人は少しだけ得意げだ。
「……座った……座ったよ……」
神田は一言も褒めない。
ただ元の位置へ戻り、再びすとんと腰を下ろす。
「目ぇ閉じろ」
「はいはい……」
トシコも観念したように目を閉じた。
和室に静寂が落ちる。
聞こえるのは、神田のほとんど無音に近い呼吸と、トシコの荒い鼻息、そして服の下で湿布が時折ぺたぺたと微かに鳴る音だけだ。
十秒。
二十秒。
三十秒。
先に耐えきれなくなったのは、もちろんトシコだった。
「……ねぇ、兄ちゃん……」
「……黙れ」
「……この体勢だけどね、お腹の肉が邪魔して苦しいよ」
「痩せろ」
即答だった。
「いや、痩せれるならとっくに痩せてるよ」
トシコは片目をそっと開ける。
神田はぴくりとも動かず、瞼を閉じたままだ。
「あと、これ、なんの修行だい?」
そこでようやく、神田の口が開く。
「……己の『核』を見つめる修行だ」
低く、静かな声。
「……そのうるせぇ口を閉じろ。さもねぇと、そのまま永久に閉じさせてやる」
「何言ってんだい。なんの修行か知らないと、意味わかんないまま座ってるだけだよ……」
「……チッ」
「その舌打ち、お止め!みっともないよ」
「チッ」
「……」
トシコは眉を寄せたまま、『 やれやれ』と心の中でだけ文句を言う。
(……核を見つめる、ねぇ……)
見えるものといえば、今日の朝ごはんの献立と、腿の痛みと、腰の湿布のスースーだけである。
(核って、何だい……。あたしの核は…、この鎧のような脂肪と、夜になるとやたら尿意の近い膀胱だけだよ……)
静かな和室。
畳の匂い。
湿布のメントール。
そして、正反対の二人が並ぶ奇妙な光景。
神田は石像のように静かで、トシコは今にも転がりそうなほど不安定。
それでも、その場には不思議と“訓練”らしい空気があった。
……たぶん。
三分後。
静寂を愛する神田の脳裏に、己の核ではなく、別の何かが侵入し始めた。
「……ズ、ズズ……」
(……何だ、この音は)
神田は薄く目を閉じたまま、思考のノイズを振り払おうとした。
雑念だ。
己の核を見つめろ。
呼吸を整えろ。
……振り払え。
「……ズ、ズズ、ブフォッ!!」
(ババア……殺す)
神田の脳内で、殺意のゲージが跳ね上がった。
一瞬の静寂。
そして、その後に訪れたのは――。
「グガァァァァァァァァァァァ!!!」
地獄の底から響くような、地響きを伴う轟音。
およそ女性から漏れ出すものとは思えない。完全に酔っ払った親父か、あるいは陸に打ち上げられたトドが、最期の未練を声にしたかのような、凶悪なイビキであった。
「グ、ガ、ァァァァ!! ブフォッ! ズ、ズズズ……!!」
イビキは、止まらない。
規則性など皆無。
ある時は爆発するように、ある時は這うように。
和室の白木を震わせ、静謐な空気を根底から蹂躙していく。
(……この……ババア……!)
神田は、己の核を見つめるどころか、己の血管が弾け飛ぶ瞬間を見つめていた。
眉間に刻まれた皺は、もはや教団の結界並みに深い。
こめかみには、ド派手な青筋が、ぴき、ぴき、ぴきと、イビキのリズムに合わせて脈打っている。
目は完全に閉じているが、その奥にある瞳の光は、殺意で燃え上がっていた。
「……己の核、己の核、己の核……」
神田は内心で般若心経でも唱えるかのように、同じ言葉を繰り返す。
だが、その声音は怨念に満ちていた。
呼吸を整えろ。
呼吸を整……。
「……グ、ガァァァァ!! ……フフッ……あ、あたしのケツ……兄ちゃんのせいで……!」
(……殺す! 今度こそ、絶対に殺す!!)
神田は、無言で六幻の柄を握り、鍔をカチャと鳴らした。
「……チッ」
片手で顔を覆い、こめかみの青筋を必死に押さえ込む。
あまりのイビキの暴力。
あまりの生活感。
あまりの不敬。
神田の集中力は、トシコのおっさんのようなイビキの前で、ウェハースより脆く、完全に粉砕された。
教団のオアシス(予定)、マザー・トシコ。
その真の能力は、他者の傷を癒すことではなく、神田ユウの精神を、イビキ一本で崩壊させることにあったのかもしれない。
つづく、2026/03/29