おばちゃんエクソシスト誕生
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第7話。
神田は、淀みのない動作でゆっくりと腕をほどいた。
そのまま一歩、トシコのパーソナルスペースを侵食するように踏み出す。
三白眼の鋭い視線は、獲物を逃さない鷹のように彼女を射抜いた。
「ババア」
低い声が、冷たく石の床に落ちる。
「テメエはまず、体力が圧倒的に足りねぇ」
言い放つと同時に、懐から無造作に何かを取り出した。
ばさり、と重々しい音を立てて広げられたのは――書初めのような、あるいは呪いのスクロールのようなそれには、無駄に達筆で、殺意すら感じるほど力強い墨文字が並んでいた。
スクワット 1000回
腕立て伏せ 1000回
腹筋 1000回
どーん。
鍛錬場の空気が、物理的な質量を持って固まった。
トシコの目は、こぼれ落ちんばかりにカッと見開かれる。
「……は?」
隣にいたリナリーも、思わず引きつった笑顔で口元を押さえた。「え……」という乾いた声が漏れる。
トシコは紙と神田を交互に見やり、もう一度紙の数字を凝視した。
そして、肺の底から悲鳴を絞り出した。
「ひえー! アンタ、あたいを殺す気かい!?」
神田の瞳が、刃物のようにすっと細くなる。
冷徹な流し目。静かに、だが確実に逃げ場を塞ぐ圧を含んだ視線だ。
「……殺す?」
ほんのわずかな、心臓の鼓動一つ分の間。
「違うな」
さらにもう一歩、踏み込む。
「生かす為だ」
空気がピアノ線のようにピンと張り詰める。
トシコは、その気迫に押されて思わず後ずさった。
神田は長い指で、無慈悲に紙を叩く。
「これでも減らした」
吐き捨てるようにさらりと言った。
「……異論は認めん」
「いやいやいやいや!! 減らしたって何!? 元はどんだけ地獄の沙汰だったのさ!?」
神田は、その抗議を完全に無視した。
「悔しかったら、早く一人前になれ。エクソシストのプロに、な」
そのまま背を向け、持ち場につく。
振り返らないまま、日常の挨拶でも交わすかのように淡々と言葉を落とした。
「やるぞ。……いち」
しゃがむ。
立つ。
「に」
しゃがむ。
その動きには一切の揺らぎがなく、速く、そして残酷なまでに正確だった。
トシコは呆然と立ち尽くす。
「いやちょっと待ちな!? 心の準備が――」
しかし、カウントは止まらない。「さん」という声に、リナリーが弾かれたように駆け寄った。
「トシコ、頑張って! 私がついてますから!」
その笑顔が、今のトシコには地獄へ誘う天使の光にしか見えない。
逃げ場、完全になし。
トシコは観念したように、相棒の松葉杖を横に置いた。
「……やりゃあいいんだろ、やりゃあ!」
どすん、と地響きを立てて構える。ぎこちないフォームで、重い腰を落とした。
「い……いち……!」
「声が小せぇ」
神田の無機質な一言が飛ぶ。
「にぃ!!」
半ばヤケクソの叫び。ここに、前代未聞のスクワットが幕を開けた。
10回。20回。30回。そのあたりで、早くも異変が起きる。トシコの呼吸が劇的に崩れ始めた。
「はっ……はっ……!」
膝が生まれたての小鹿のように震え、太ももの筋肉が断末魔の悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと待ちな……!膝の軟骨が!グルコサミンだよ! タイム、タイムだよ……!」
「止まるな。死んでもやれ」
「死ぬわ!! 仏様が見えるわ!!」
「終わったらランニングだ」
「ひえー!! この鬼! 外道! 」
横でリナリーが、キラキラした瞳で指折り数える。
「トシコ、あと970回です!」
「数えるなぁ!! 余計に絶望するだろぉ!!」
膝はガクガク、腰は引け、意識は朦朧。
それでも神田のカウントは、時計の針のように正確に刻まれる。「さんじゅういち」「さんじゅうに」。
トシコは半泣きになりながら、魂の叫びを上げた。
「1000回も……無理ぃ……! おばちゃんの軟骨がすり減るぅ……!」
神田が、ゴミを見るような一瞥をくれた。
「無理じゃねぇ。やるんだ」
その一言。
ただの命令ではない、有無を言わさない強制力が空気を支配する。
トシコは歯を食いしばり、震える足で再び沈み込んだ。
「くっ……! ……くっ……!」
だが、40回を目前にして、完全に動きが停止した。目はもう、光を失った屍のそれだ。
「……兄ちゃん……」
消え入りそうな、弱々しい声。神田が不機嫌そうに眉を寄せる。
「なんだ」
トシコは、震える両手を力なく前に差し出した。
幽霊のようにぶらぶらと揺れる手。
「……おばちゃんと手を繋いでおくれ……」
神田は、一瞬何を言われたのか理解できず、「……は?」と固まった。
トシコは至って真顔だ。
「そしたら、なんかこう……若さのエネルギーが伝わって、やる気湧く気がするんだよ……」
リナリーが「えっ」と声を漏らし、空気が凍りつく。
トシコはさらにぶらぶらと手を振り、神田を誘う。
「ほら……兄ちゃん……」
なりふり構わぬ甘え。
しかし、顔は死相が出た屍。
そのあまりのギャップに、神田のこめかみがぴくりと跳ねた。
「……ふざけてんのか」
「大真面目だよ……。今のあたしは、ウェハースより脆いんだよ……心が……」
リナリーは必死で口元を押さえ、笑い死ぬのを堪えている。
トシコは畳みかけるように、ニヤリと力なく笑った。
「若いイケメンと手ぇ繋いだら……力が湧くかもしれないだろ?」
神田の額に、ド派手な青筋が浮かび上がった。
「……チッ」
一歩、地を鳴らして近づく。そしてトシコの手を――
バシン!
容赦なく叩き落とした。
「甘えんな。ババア」
「ひどい!! 乙女心が粉々だよ!!」
「自分の足で立て。……それが出来ねぇ奴は、戦場で真っ先に死ぬ」
鋭い言葉が、トシコの心に深く突き刺さる。
一瞬の沈黙。トシコは「ふん」と鼻を鳴らし、再びガクガクする足に力を込めた。
「……やれやれ。厳しいねぇ、兄ちゃんは……! これだから最近の若い男は……!」
呪詛のように呟きながら、再び重い腰を落とす。
「よんじゅう……!!」
リナリーが、太陽のような笑顔で声を張り上げた。
「ナイスですトシコ! あと960回ですよ!」
「全然減ってないよぉ!! お迎えが来るよぉ!!」
「……くっ……!」
太ももの筋肉が悲鳴を上げ、膝の震えはもはや自分の意志では制御不能。
酸欠で視界がチカチカと明滅する。
それでも、トシコは濁りかけた瞳に執念の火を灯した。
「なめんじゃないよ……っ!」
ぐらり、と巨大な岩石が揺れるような予兆。
だが――倒れない。
トシコは血の気の引いた顔を、神田へ向けてカッと見開いた。
「おばちゃんを……なめんなよぉぉぉ!!」
執念。
ただそれだけのエネルギーで、地に沈むような重い体を無理やり押し上げる。
「ごひゃく……ッ!!」
「トシコ! あと半分です!」
「……それをっ、言うなぁぁぁぁ!!」
そこからは、もはや体力作りではなく意地という名の苦行だった。
声は枯れ果て、足の震えは周囲に振動を伝えるほど。
フォームなどとうに崩壊し、ただ沈んで浮くを繰り返す肉の塊と化す。
だが、止まらない。
神田のカウントだけが、メトロノームのように冷酷に、そして無慈悲に刻まれ続ける。
「きゅうひゃく……」
「……あと少し……!」
「きゅうひゃくきゅうじゅう……」
トシコの焦点はすでに彼方へと飛び、瞳の光は完全に消失している。
「きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう……」
空気が、張り詰める。
「――せん」
その瞬間。糸が切れた操り人形のようにトシコの体がぐらりと揺れ――。
ドサァッ!!
重量級の衝撃音とともに、その場に倒れ込んだ。
「トシコ!?」
リナリーが駆け寄るなか、神田はピクリとも動かず、腕を組んだまま床に転がる肉だるまを見下ろした。
トシコは顔を床に伏せたまま、震える右手の親指を、天に向かって力強く突き立てた。
「……やったよ……」
消え入りそうな、しかし確かな勝利宣言。
「……完遂だよ……」
ばたん。
突き立てた指が力なく落ち、トシコは完全に沈黙した。
「トシコすごい!……本当にやり遂げるなんて!ほら、お水よ!」
リナリーが感動の声を上げるなか、神田は眉ひとつ動かさず、淡々と、しかし地獄の底から響くような声で口を開いた。
「次。腕立て伏せだ」
「……わ…忘れてた…ッ!」
トシコは床に頬を押しつけたまま、もはや首の筋肉すら動かない重みに耐え、ゆっくりと顔だけを上げた。
視界の端に映る冷徹な剣士へ、最期の願いを託すように呟く。
「……もう……明日にしないかい?」
答えは、風にすらならなかった。
神田はすでに、無慈悲なほど完璧な腕立て伏せの姿勢に入っている。
トシコも、数秒遅れて震える腕で上体を支えようと試みた。
だが。
一回、深く沈み込む。
そして――二度と戻ってはこなかった。
床に、べちゃり、と肉の塊が吸い付く音が響く。
「…………」
長い沈黙。やがて、床に埋もれた口だけがパクパクと動いた。
「……おばちゃん……先に……逝ってるよ……」
もはや、現世と来世の境目から漏れ出したうわ言である。
一方、その隣。
神田は片手一本で、一ミリのブレもなく身体を上下させていた。
速い。
異様に速い。
規則的で、一切の無駄を削ぎ落とした、まるで精密機械のような正確なピストン運動。
その光景は、もはやトシコの知る腕立て伏せとは完全に別の競技と化していた。
トシコは床に押し潰され、重力と戦いながら目だけでその異常な光景を追う。
「……何してんだい、あの子……」
もはや腕立て伏せではない何かに見えている。
あまりに残酷な対比。
一方は芸術、一方は床とお友達。
リナリーがその横で、励ますようにひょいとしゃがみ込んだ。
「トシコ、まだ始まったばかりよ!」
「始まってないよぉ……終わってるよぉ……」
それでも、トシコの意地が火を噴く。なんとか一回。二回。……だが、三回目で再び重力に敗北し、沈没。
地獄は続く。
次は腹筋だ。
仰向けに転がったトシコは、勢いよく上体を起こそうと腹に力を込めた。
――起きない。
物理的な壁が、そこにあった。
「くっ……!」
もう一度。揺れる。ただ、肉の波が揺れるだけ。
「腹の肉が邪魔だよぉぉ!!」
絶叫が鍛錬場にこだまする。
「誰かこれ持ってておくれ!!」
その様子に、周囲の団員たちが「新しいエクソシスト面白いな」と楽しげにざわつき始めた。
リナリーは、至って真顔でエールを送る。
「あと少し! 筋肉が喜んでるわよ!」
トシコの朦朧とした脳内で、その純粋な言葉が禍々しく歪んでいく。
(筋肉が……喜ぶ……? 誰のさ……誰の筋肉だい……?)
神田が、淡々と追い打ちをかけた。
「筋肉なんざ、あるかよ」
一拍。
「贅肉だろ」
「ひどいねぇ!!」
「まずはその贅肉を削ぎ落とせ」
容赦なし。
トシコはもはや床の上で〝 ばたばた〟と無様に跳ねるしかなかった。
腹筋運動というよりは、陸に打ち上げられた巨大なトドが必死に海へ戻ろうともがいているかのようだ。
それでも――数は進む。
進んでいることにする。
実際、半分以上はほぼ動いていなかった。
だが、リナリーは仏のような微笑みで数を数え、神田はそれを止めようとはしなかった。
そして。
なんとか、完遂。
そこには、全身からうっすらと湯気を立ち上らせ、生命活動の限界点を超えたトシコの残骸が転がっていた。
床の冷たさと完全に同化し、荒い呼吸だけが、彼女がまだこの世に踏みとどまっていることを辛うじて主張している。
神田は、そんなトシコの無惨な姿を一瞥した。
彼の呼吸は、驚くほど乱れていない。
最後の一回を鮮やかに終えると、静かに立ち上がった。
「……基礎の基礎だ」
淡々とした、しかし有無を言わさない声。
「明日もやるぞ」
トシコの口が、かすかに、痙攣するように動いた。
声にならない音。
泡を吹いたような、か細く、弱々しい吐息。
それが、この地獄を生き延びたおばちゃんの、精一杯の返事だった。
神田は、額に滲んだわずかな汗を手の甲で無造作に拭い、事も無げに言い放った。
「10分休憩したら、次は外だ」
「…………」
トシコは床にめり込んだまま、絶望の淵で思考を巡らせる。
(兄ちゃん……ランニング……しっかり覚えてやがったのかい……)
忘却という名の慈悲を全力で願ったトシコだったが、ストイックである神田にそんな奇跡が通じるはずもなかった。
つづく、2026/03/19