月下美人の咲く夜に、君を奪う
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【月下美人の咲く夜に、君を奪う】
教団の夜は、いつだって冷たい。
高い天井に反響する足音も、どこか遠くで鳴る歯車の音も、私の孤独を煽るだけ。
「………ッ!」
不意に視界が歪んだ。また、あの哀しい夢のせいだ。
過去の痛みか、それとも不確かな未来への不安か。涙で目覚めた夜の闇はあまりに深くて、出口のない迷路に迷い込んだような心細さに、私は自分の肩を抱いて立ち尽くしていた。
「おや、こんな時間に。迷子の仔猫かな?」
聞き慣れた、けれど今の私には甘すぎるほど柔らかな声。
顔を上げると、そこには〝妹〟と書かれたカップを片手に、少しだけ眠たそうな目を細めたコムイさんがいた。
私は無意識に室長室へ来ていたらしい。
「コムイ、室長……。すみません、こんな時間に」
「いいんだよ。ミナミの涙は僕が預かる決まりだからね」
彼はいつものおどけた調子で笑い、私を3人がけのソファーに座るよう手招きした。
そして、自身も立ち上がり、私の隣に移動する。
彼の纏うコーヒーの香りが、凍えていた私の心にじわりと熱を運んでくる。
彼は何も聞かずに、ただ私の隣で静かな時間を共有してくれた。
「室長、私は……強くならなきゃいけないのに」
「……一歩ずつでいいんだよ」
コムイさんは窓の外の夜空を見上げるように視線を流し、穏やかに続けた。
「急いで奇跡を起こそうとしなくていい。君が今日、ここまで歩いてきたその足跡だけで、十分価値があるんだから」
私は溢れそうになる涙を堪えて、無理に唇の端を上げた。
彼はその心の鍵を隠した強がりさえも、すべて見透かしていた。
「いいかい? 無傷でいられる人間なんていない。痛みを知っている君だからこそ、いつか誰かを守れる強さを持てるんだ。……だから、今は無理に強がらなくていい」
彼は大きな手で、私の頭を優しく撫でた。
その温もりに、張り詰めていた糸がふっと切れる。
「……ここでは、好きなだけ笑って。そして、好きなだけ泣いていいんだ。僕がそばにいる。君が自分を信じられるようになるまで、何度でもこうするから」
彼の瞳の奥に宿る深い信頼。
それは、愛する意味を知り、守り抜こうとする者の光。
哀しい夢の残像は、彼の温かな眼差しの中で、ゆっくりと溶けて消えていった。
それでも、胸の奥に残る寂しさだけは、まだ完全には消えなくて。
私は小さく息を吸って、そっと身体を傾けた。
コムイさんの左肩へ、ためらいがちに寄りかかる。
一瞬だけ、彼の呼吸が止まった気がした。
でも次の瞬間、コムイさんは何も言わずに左腕を持ち上げて、私の左肩を包み込むように引き寄せた。
そして、そのまま私の頭を撫でる。
一度、二度。
壊れものに触れるみたいに、ゆっくりと。
その手のひらの温かさに、胸の奥がじんわりほどけていく。
私は目を伏せて、小さく呟いた。
「……こんな時間に来たのが、リナリーじゃなくて……私で、ごめんなさい」
その瞬間、コムイさんの指がぴたりと止まった。
すぐ近くで、小さく息を呑む音がする。
しまった、と思った。
変なこと言った。
でも、口に出した言葉はもう戻らない。
しばらくの沈黙のあと、コムイさんの手がもう一度、私の頭を撫でた。
今度はさっきより少しだけ強く、でもやっぱり優しい手つきで。
「……謝るところ、そこじゃないよ」
低くて穏やかな声。
その声が、胸の奥にすっと落ちてくる。
「君がここへ来るまで、一人で我慢してたことの方が、僕はずっとつらい」
私は思わず息を詰めた。
コムイさんは、私の髪を撫でながら続ける。
「リナリーじゃなくて、君でよかったんだ」
その言葉に、思わず顔を上げた。
コムイさんは私を見て、少し困ったように笑っていた。
でも、その瞳はまっすぐで。
冗談なんてひとつも混ざっていない。
「君が来てくれて、僕は嬉しい」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
どうしてそんなことを、こんな顔で言うんだろう。
コムイさんは、私の髪を指でそっと整えながら続けた。
「だって僕は、君に頼られるの……すごく好きだから」
私の頬が、じわっと熱くなる。
コムイさんはそれに気づいたのか、気づいていないのか、肩を抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。
「だから次からは、そんなふうに思わなくていい」
前髪に触れた指が、そっとそれを避ける。
「夜中でも、泣きそうで、苦しいなら」
少しだけ間を置いて。
「君が来てくれるなら、僕は何度でも隣を空けて待ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥にあった何かが、ふっとほどけた。
私は言葉の代わりに、コムイさんの服の布をぎゅっと掴む。
自分でも驚くくらい、力を込めて。
するとコムイさんは小さく笑って、少しだけ身体の角度を変えた。
私が寄りかかりやすいように、肩を貸す形に。
「……ほら」
耳元で、優しく囁く。
「今夜は、ちゃんと寄りかかって」
その声は、まるで子どもをあやすみたいに甘かった。
「君が眠れるまで、僕がここにいるから」
私は小さく息を吐いて、目を閉じた。
コーヒーの香りと、彼の体温。
それに包まれているうちに、胸を締めつけていた不安が、少しずつほどけていく。
――ああ。
今夜くらいは、弱くてもいいのかもしれない。
そう思いながら、私は静かにコムイさんの肩に体重を預けた。
コムイさんの肩に頭を預け、規則正しい鼓動を聞いているうちに、私の意識はゆっくりとまどろみの中に沈み始めていた。
あんなに怖かった闇が、今は嘘みたいに温かい。
「……ん……」
ふいに出た小さな吐息。コムイさんの腕が、私の背中をあやすようにゆっくりと、優しく叩く。
慈しみと親愛。リナリーに向けるものとはまた違う、深い一人の女性への情愛。
けれど、まどろみの中で、ふと頬に触れたコムイさんの指先が、わずかに震えているのに気づいた。
「……コムイ、室長……?」
薄く目を開けると、そこには寝かしつけようとしているけれど、ちっとも「おやすみ」ではない熱を帯びた瞳があった。
眼鏡の奥で、彼は私を食い入るように見つめている。
「……困ったな。君を安心させてあげたいのに、僕の方がちっとも安心できない」
彼は苦笑いしながら、私の頬を包んだ。
一歩ずつ、ひとつずつ、なんて、自分に言い聞かせているような。
けれど、すぐ近くにある私の唇から、コムイさんは視線を外さない。
「ねえ……寝かせてあげようって思ってたけど、ひとつだけ、わがままを言ってもいいかな」
囁きながら、彼がゆっくりと顔を寄せてくる。
鼻先が触れるほどの距離。
「何もしない、なんて言えない。でも……
君が嫌なら、すぐ止ま…」
その先の言葉は、唇の隙間から滑り込んできた熱い口づけに溶けた。
さっきまでの癒やしとは違う。
まどろんでいた意識が、一瞬で弾け飛ぶような、深く、深い愛撫。
コムイさんに導かれるまま、私の背中がゆっくりとソファへ沈んでいく。
「……寝顔を見てるだけなんて、やっぱり無理だよ。…僕は…誰よりも強く、君と結ばれたいと思ってしまうんだ」
首筋に落とされる、切ないほど熱い吐息。
私のネグリジェを掴むコムイさんの指先が、理性を保とうとする室長と、愛しさを抑えきれない男の間で揺れていた。
眼鏡の奥で、彼の瞳が熱を孕んで細められる。
重なる吐息。私の心臓が、耳元で鳴っているみたいにうるさい。
コムイさんは、私の震える唇をなぞるように、再度、自分の唇をゆっくりと近づけていく。
「……嫌なら、今のうちに逃げて。……今ならまだ、一歩だけ下がれるから」
逃げられるわけがない。
私は答えの代わりに、そっと目を閉じた。
その瞬間、重なったのは熱い口づけだった。
脳内が真っ白に染まる。
一度、二度。
角度を変えて深く食い込むそれは、さっきまで私をあやしていた彼とは正反対の、飢えた男の衝動だった。
「ん……っ、コ……ムイ、さん……」
ネグリジェの襟元に、彼の指先が触れた。
「誰よりも強く、君と結ばれたい」
囁きながら、彼の大きな手が、私の肩を空気に触れさせた――。
コンコンコン!!!
激しいノック音が、深夜の静寂を切り裂いた。
「「ッ!!!!」」
雷に打たれたように、私たちは弾け飛んだ。
コムイさんはソファから転げ落ちそうになりながら、慌てて眼鏡を直す。
私はネグリジェの乱れを直そうと、必死に胸元を隠した。
「室長!!解析結果が出ました!!これは……統計上あり得ない数値です!」
ガチャリ、と扉が開くと、そこには目の下に死人のようなクマを作ったリーバー班長が立っていた。
彼は書類の山を抱えたまま、部屋の中を見て――、
「………………は?」
リーバー班長の時が、止まった。
視線の先には、真っ赤な顔をしてソファの隅で小さくなっている、ネグリジェ姿の私。
そして、その横で、ネグリジェの襟元が伸びて、あらわになった私の肩口を、必死に自分の上着で隠そうとしているコムイさん。
「……室長…………?」
リーバー班長の声が、二人の空気を壊してしまったことに気づいたような、控えめな低さで響いた。
書類の山が、じわり、と傾く。
「……わかった……見せてもらおうか」
コムイさんが、動揺を隠しきれていない声で言った。
その顔は、別の意味で真っ赤だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
昨夜の、あのあとのことはあまり覚えていない。
リーバー班長に連行されていくコムイさんの、情けないような、でも最後に私を一瞬だけ振り返った時の「絶対にあとでね」と言いたげな、あの熱い眼差しだけが脳裏に焼き付いている。
そして、再び訪れた教団の夜。
私は迷いつつも、室長室の重い扉を叩いた。
また、仕事の邪魔をしてしまったらどうしよう…。
睡眠時間を削ってまで働いているコムイさんの時間を自分のためにこれ以上使うことに気が引けた。
それでも。
今夜だけ…今夜だけ……。
私はコムイさんにどうしても見せたいものがあった。
深夜の室長室。
山積みの書類を前にペンを走らせるコムイさんに、私はネグリジェの上から厚手のカーディガンを羽織り、小さなランタンを手に声をかけた。
「コムイ室長、……お忙しいのにごめんなさい。今いいですか?」
「……ミナミ? また怖い夢でも見たのかい?ハグでもする?」
ふふ…と私は笑ってしまう。
優しい顔を上げたコムイさんの手を、私は迷わず掴んだ。
「違いますよ…こんな時間じゃないと、見られないものがあるんです。……さあ、立って!」
「わわっ、ちょっと待ってよ、ミナミ!?」
グイグイと彼を引っ張り、夜の静寂に包まれた教団の裏庭へと連れ出す。
「どこに行くんだい?」
「裏庭です!」
冷たい夜気がカーディガンの裾を揺らすけれど、握りしめたコムイさんの手のひらだけが、驚くほど熱い。
やがて、建物の影。
月明かりの下で、白く、神々しいほどの大輪の花が静かに花開いていた。
「……コムイさんと見たかったもの、これです」
ランタンの灯りに照らされたのは、一夜限りの奇跡。
「……月下美人か……」
コムイさんは眼鏡の位置を直し、吸い込まれるようにその花を見つめた。
ふわりと漂う、甘く、どこか切ない香り。
「いい香りで、綺麗ですよね。……なんだか、室長みたい」
思わず口を突いた言葉に、コムイさんは一瞬だけ目を見開いた。
そして、照れたように鼻の頭を指で掻くと、いつものおどけた調子ではなく、ひどく穏やかな声で言った。
「……光栄だね。でも、僕はこんなに儚くはないよ? 君を置いて散ったりしないからね」
一歩、距離が縮まる。
月下美人の芳香に酔ったのか、それとも彼の眼差しに酔ったのか。
見つめ合う瞳の中に、昨夜の続きが灯る。
「……ミナミ、……もう一歩、踏み込んでもいいかな」
「ん?」
隣に立つコムイさんの方へ顔を向けると、コムイさんの囁きの後に重なったのは、花びらのように柔らかなキスだった。
一度では終わらず、何度も、確かめるように。
昨夜の未遂が、月明かりの下でより深く、止まらなくなるほど熱い情動に変わっていく。
ランタンが地面に置かれ、二人の影がひとつに重なった。
コムイさんは私の腰を引き寄せ、熱い息を耳元に吹きかけながら、独占欲に満ちた声で囁いた。
「……君の部屋に、行ってもいいかい?……今夜は、誰にも邪魔させない。一歩ずつなんて、もう言ってられないから」
いつか散る日が来ても、この一瞬の軌跡だけは永遠に消えない。
私たちは固く手を繋ぎ、月下美人の香りを背に、二人だけの夜へと駆け出した。
終わり
2026/03/17
教団の夜は、いつだって冷たい。
高い天井に反響する足音も、どこか遠くで鳴る歯車の音も、私の孤独を煽るだけ。
「………ッ!」
不意に視界が歪んだ。また、あの哀しい夢のせいだ。
過去の痛みか、それとも不確かな未来への不安か。涙で目覚めた夜の闇はあまりに深くて、出口のない迷路に迷い込んだような心細さに、私は自分の肩を抱いて立ち尽くしていた。
「おや、こんな時間に。迷子の仔猫かな?」
聞き慣れた、けれど今の私には甘すぎるほど柔らかな声。
顔を上げると、そこには〝妹〟と書かれたカップを片手に、少しだけ眠たそうな目を細めたコムイさんがいた。
私は無意識に室長室へ来ていたらしい。
「コムイ、室長……。すみません、こんな時間に」
「いいんだよ。ミナミの涙は僕が預かる決まりだからね」
彼はいつものおどけた調子で笑い、私を3人がけのソファーに座るよう手招きした。
そして、自身も立ち上がり、私の隣に移動する。
彼の纏うコーヒーの香りが、凍えていた私の心にじわりと熱を運んでくる。
彼は何も聞かずに、ただ私の隣で静かな時間を共有してくれた。
「室長、私は……強くならなきゃいけないのに」
「……一歩ずつでいいんだよ」
コムイさんは窓の外の夜空を見上げるように視線を流し、穏やかに続けた。
「急いで奇跡を起こそうとしなくていい。君が今日、ここまで歩いてきたその足跡だけで、十分価値があるんだから」
私は溢れそうになる涙を堪えて、無理に唇の端を上げた。
彼はその心の鍵を隠した強がりさえも、すべて見透かしていた。
「いいかい? 無傷でいられる人間なんていない。痛みを知っている君だからこそ、いつか誰かを守れる強さを持てるんだ。……だから、今は無理に強がらなくていい」
彼は大きな手で、私の頭を優しく撫でた。
その温もりに、張り詰めていた糸がふっと切れる。
「……ここでは、好きなだけ笑って。そして、好きなだけ泣いていいんだ。僕がそばにいる。君が自分を信じられるようになるまで、何度でもこうするから」
彼の瞳の奥に宿る深い信頼。
それは、愛する意味を知り、守り抜こうとする者の光。
哀しい夢の残像は、彼の温かな眼差しの中で、ゆっくりと溶けて消えていった。
それでも、胸の奥に残る寂しさだけは、まだ完全には消えなくて。
私は小さく息を吸って、そっと身体を傾けた。
コムイさんの左肩へ、ためらいがちに寄りかかる。
一瞬だけ、彼の呼吸が止まった気がした。
でも次の瞬間、コムイさんは何も言わずに左腕を持ち上げて、私の左肩を包み込むように引き寄せた。
そして、そのまま私の頭を撫でる。
一度、二度。
壊れものに触れるみたいに、ゆっくりと。
その手のひらの温かさに、胸の奥がじんわりほどけていく。
私は目を伏せて、小さく呟いた。
「……こんな時間に来たのが、リナリーじゃなくて……私で、ごめんなさい」
その瞬間、コムイさんの指がぴたりと止まった。
すぐ近くで、小さく息を呑む音がする。
しまった、と思った。
変なこと言った。
でも、口に出した言葉はもう戻らない。
しばらくの沈黙のあと、コムイさんの手がもう一度、私の頭を撫でた。
今度はさっきより少しだけ強く、でもやっぱり優しい手つきで。
「……謝るところ、そこじゃないよ」
低くて穏やかな声。
その声が、胸の奥にすっと落ちてくる。
「君がここへ来るまで、一人で我慢してたことの方が、僕はずっとつらい」
私は思わず息を詰めた。
コムイさんは、私の髪を撫でながら続ける。
「リナリーじゃなくて、君でよかったんだ」
その言葉に、思わず顔を上げた。
コムイさんは私を見て、少し困ったように笑っていた。
でも、その瞳はまっすぐで。
冗談なんてひとつも混ざっていない。
「君が来てくれて、僕は嬉しい」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
どうしてそんなことを、こんな顔で言うんだろう。
コムイさんは、私の髪を指でそっと整えながら続けた。
「だって僕は、君に頼られるの……すごく好きだから」
私の頬が、じわっと熱くなる。
コムイさんはそれに気づいたのか、気づいていないのか、肩を抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。
「だから次からは、そんなふうに思わなくていい」
前髪に触れた指が、そっとそれを避ける。
「夜中でも、泣きそうで、苦しいなら」
少しだけ間を置いて。
「君が来てくれるなら、僕は何度でも隣を空けて待ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥にあった何かが、ふっとほどけた。
私は言葉の代わりに、コムイさんの服の布をぎゅっと掴む。
自分でも驚くくらい、力を込めて。
するとコムイさんは小さく笑って、少しだけ身体の角度を変えた。
私が寄りかかりやすいように、肩を貸す形に。
「……ほら」
耳元で、優しく囁く。
「今夜は、ちゃんと寄りかかって」
その声は、まるで子どもをあやすみたいに甘かった。
「君が眠れるまで、僕がここにいるから」
私は小さく息を吐いて、目を閉じた。
コーヒーの香りと、彼の体温。
それに包まれているうちに、胸を締めつけていた不安が、少しずつほどけていく。
――ああ。
今夜くらいは、弱くてもいいのかもしれない。
そう思いながら、私は静かにコムイさんの肩に体重を預けた。
コムイさんの肩に頭を預け、規則正しい鼓動を聞いているうちに、私の意識はゆっくりとまどろみの中に沈み始めていた。
あんなに怖かった闇が、今は嘘みたいに温かい。
「……ん……」
ふいに出た小さな吐息。コムイさんの腕が、私の背中をあやすようにゆっくりと、優しく叩く。
慈しみと親愛。リナリーに向けるものとはまた違う、深い一人の女性への情愛。
けれど、まどろみの中で、ふと頬に触れたコムイさんの指先が、わずかに震えているのに気づいた。
「……コムイ、室長……?」
薄く目を開けると、そこには寝かしつけようとしているけれど、ちっとも「おやすみ」ではない熱を帯びた瞳があった。
眼鏡の奥で、彼は私を食い入るように見つめている。
「……困ったな。君を安心させてあげたいのに、僕の方がちっとも安心できない」
彼は苦笑いしながら、私の頬を包んだ。
一歩ずつ、ひとつずつ、なんて、自分に言い聞かせているような。
けれど、すぐ近くにある私の唇から、コムイさんは視線を外さない。
「ねえ……寝かせてあげようって思ってたけど、ひとつだけ、わがままを言ってもいいかな」
囁きながら、彼がゆっくりと顔を寄せてくる。
鼻先が触れるほどの距離。
「何もしない、なんて言えない。でも……
君が嫌なら、すぐ止ま…」
その先の言葉は、唇の隙間から滑り込んできた熱い口づけに溶けた。
さっきまでの癒やしとは違う。
まどろんでいた意識が、一瞬で弾け飛ぶような、深く、深い愛撫。
コムイさんに導かれるまま、私の背中がゆっくりとソファへ沈んでいく。
「……寝顔を見てるだけなんて、やっぱり無理だよ。…僕は…誰よりも強く、君と結ばれたいと思ってしまうんだ」
首筋に落とされる、切ないほど熱い吐息。
私のネグリジェを掴むコムイさんの指先が、理性を保とうとする室長と、愛しさを抑えきれない男の間で揺れていた。
眼鏡の奥で、彼の瞳が熱を孕んで細められる。
重なる吐息。私の心臓が、耳元で鳴っているみたいにうるさい。
コムイさんは、私の震える唇をなぞるように、再度、自分の唇をゆっくりと近づけていく。
「……嫌なら、今のうちに逃げて。……今ならまだ、一歩だけ下がれるから」
逃げられるわけがない。
私は答えの代わりに、そっと目を閉じた。
その瞬間、重なったのは熱い口づけだった。
脳内が真っ白に染まる。
一度、二度。
角度を変えて深く食い込むそれは、さっきまで私をあやしていた彼とは正反対の、飢えた男の衝動だった。
「ん……っ、コ……ムイ、さん……」
ネグリジェの襟元に、彼の指先が触れた。
「誰よりも強く、君と結ばれたい」
囁きながら、彼の大きな手が、私の肩を空気に触れさせた――。
コンコンコン!!!
激しいノック音が、深夜の静寂を切り裂いた。
「「ッ!!!!」」
雷に打たれたように、私たちは弾け飛んだ。
コムイさんはソファから転げ落ちそうになりながら、慌てて眼鏡を直す。
私はネグリジェの乱れを直そうと、必死に胸元を隠した。
「室長!!解析結果が出ました!!これは……統計上あり得ない数値です!」
ガチャリ、と扉が開くと、そこには目の下に死人のようなクマを作ったリーバー班長が立っていた。
彼は書類の山を抱えたまま、部屋の中を見て――、
「………………は?」
リーバー班長の時が、止まった。
視線の先には、真っ赤な顔をしてソファの隅で小さくなっている、ネグリジェ姿の私。
そして、その横で、ネグリジェの襟元が伸びて、あらわになった私の肩口を、必死に自分の上着で隠そうとしているコムイさん。
「……室長…………?」
リーバー班長の声が、二人の空気を壊してしまったことに気づいたような、控えめな低さで響いた。
書類の山が、じわり、と傾く。
「……わかった……見せてもらおうか」
コムイさんが、動揺を隠しきれていない声で言った。
その顔は、別の意味で真っ赤だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
昨夜の、あのあとのことはあまり覚えていない。
リーバー班長に連行されていくコムイさんの、情けないような、でも最後に私を一瞬だけ振り返った時の「絶対にあとでね」と言いたげな、あの熱い眼差しだけが脳裏に焼き付いている。
そして、再び訪れた教団の夜。
私は迷いつつも、室長室の重い扉を叩いた。
また、仕事の邪魔をしてしまったらどうしよう…。
睡眠時間を削ってまで働いているコムイさんの時間を自分のためにこれ以上使うことに気が引けた。
それでも。
今夜だけ…今夜だけ……。
私はコムイさんにどうしても見せたいものがあった。
深夜の室長室。
山積みの書類を前にペンを走らせるコムイさんに、私はネグリジェの上から厚手のカーディガンを羽織り、小さなランタンを手に声をかけた。
「コムイ室長、……お忙しいのにごめんなさい。今いいですか?」
「……ミナミ? また怖い夢でも見たのかい?ハグでもする?」
ふふ…と私は笑ってしまう。
優しい顔を上げたコムイさんの手を、私は迷わず掴んだ。
「違いますよ…こんな時間じゃないと、見られないものがあるんです。……さあ、立って!」
「わわっ、ちょっと待ってよ、ミナミ!?」
グイグイと彼を引っ張り、夜の静寂に包まれた教団の裏庭へと連れ出す。
「どこに行くんだい?」
「裏庭です!」
冷たい夜気がカーディガンの裾を揺らすけれど、握りしめたコムイさんの手のひらだけが、驚くほど熱い。
やがて、建物の影。
月明かりの下で、白く、神々しいほどの大輪の花が静かに花開いていた。
「……コムイさんと見たかったもの、これです」
ランタンの灯りに照らされたのは、一夜限りの奇跡。
「……月下美人か……」
コムイさんは眼鏡の位置を直し、吸い込まれるようにその花を見つめた。
ふわりと漂う、甘く、どこか切ない香り。
「いい香りで、綺麗ですよね。……なんだか、室長みたい」
思わず口を突いた言葉に、コムイさんは一瞬だけ目を見開いた。
そして、照れたように鼻の頭を指で掻くと、いつものおどけた調子ではなく、ひどく穏やかな声で言った。
「……光栄だね。でも、僕はこんなに儚くはないよ? 君を置いて散ったりしないからね」
一歩、距離が縮まる。
月下美人の芳香に酔ったのか、それとも彼の眼差しに酔ったのか。
見つめ合う瞳の中に、昨夜の続きが灯る。
「……ミナミ、……もう一歩、踏み込んでもいいかな」
「ん?」
隣に立つコムイさんの方へ顔を向けると、コムイさんの囁きの後に重なったのは、花びらのように柔らかなキスだった。
一度では終わらず、何度も、確かめるように。
昨夜の未遂が、月明かりの下でより深く、止まらなくなるほど熱い情動に変わっていく。
ランタンが地面に置かれ、二人の影がひとつに重なった。
コムイさんは私の腰を引き寄せ、熱い息を耳元に吹きかけながら、独占欲に満ちた声で囁いた。
「……君の部屋に、行ってもいいかい?……今夜は、誰にも邪魔させない。一歩ずつなんて、もう言ってられないから」
いつか散る日が来ても、この一瞬の軌跡だけは永遠に消えない。
私たちは固く手を繋ぎ、月下美人の香りを背に、二人だけの夜へと駆け出した。
終わり
2026/03/17