凶器を奏でる指揮者
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〈凶器を奏でる指揮者〉
霧は、音を孕んでいた。
東欧の廃都。
崩れかけた石造りの街並みの奥から、低く濁った旋律が流れてくる。
それは音楽と呼ぶにはあまりにも歪で、祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
神田ユウは立ち止まり、眉を寄せる。
「……チッ」
短い舌打ち。
「気味の悪い音だ」
六幻を抜き放つ。
刀身がわずかに青く光り、霧の中で鈍く反射した。
その視線の先。
石造りの広場の中央に、無数の影が浮かんでいる。
AKUMA。
だが、それはただの群れではなかった。
それらはまるで楽団の団員のように整列し、微動だにせず宙に浮かんでいる。
そして――
その中央。
崩れた噴水の上に、ひとつの影が座っていた。
黒い燕尾服。
ひび割れたシルクハット。
手には細長い指揮棒。
レベル3。
AKUMAの“指揮者”。
男はゆっくりと指揮棒を持ち上げ、空中を一度なぞる。
カツ。
乾いた音が響いた瞬間。
周囲のAKUMAが一斉にハミングを始める。
不協和音。
霧が震える。
神田が刀を構えた。
「……楽団気取りか」
その横で、ミナミが一歩前へ出る。
手には白銀のタクト。
細く長い指揮棒が、霧の中でかすかに光った。
彼女はAKUMAたちを見据え、静かに吐き捨てる。
「……報告通りね」
少しだけ顎を上げる。
「私にぴったりの仕事だわ」
その言葉に、神田が横目で見る。
「チッ。相変わらず生意気な女だ」
ミナミは軽く肩をすくめた。
そして神田をちらりと見る。
「神田」
タクトを指先でくるりと回す。
「私のリズム、速くするけど……ついてこられる?」
神田は鼻で笑った。
「誰に言ってる」
一拍。
鋭い目で霧の向こうを睨む。
「……俺を縛れると思うなよ。マエストロ」
ミナミの唇が、わずかに吊り上がる。
「どちらが真の指揮者か見せてあげる」
次の瞬間。
タクトが振り下ろされた。
――イノセンス、解放。
世界が変わる。
低く重いビートが、空気を震わせた。
ドン。
ドン。
ドン。
脳の奥に直接叩き込まれるような重低音。
それは音ではなく、意思だった。
ミナミがタクトを振る。
その軌跡に沿って、音の刃が走る。
AKUMAの一体が、空中で真っ二つに裂けた。
同時に。
青い残像が霧を裂く。
神田だった。
六幻が弧を描き、次のAKUMAの喉を断ち切る。
血と火花が舞う。
神田が低く吐き捨てた。
「遅ぇ」
だがその声は、怒りではない。
ミナミの次の音を催促する合図。
ミナミはさらに強くタクトを振る。
破壊のビートが広場を支配する。
本来は調和を生むはずの指揮。
だが今、ミナミが振るうそれは――
神田という名の凶器を踊らせるための、破壊のタクトだった。
爆炎の中。
神田がミナミのすぐ横をすり抜ける。
肩が触れるほど近い距離。
その瞬間。
低い声が、耳元に落ちた。
「……悪くねぇ」
黒い瞳が、わずかに細まる。
「このテンポなら」
六幻を振り抜く。
AKUMAの胴が裂ける。
「最後まで付き合ってやる」
ミナミの唇が、ほんの少しだけ吊り上がった。
霧の廃都に、不協和音が鳴り響く。
広場を埋め尽くしていたAKUMAの群れを斬り散らし、逃げる指揮者を追って踏み込んだ先は、月の光すら届かない密林だった。
ねじれた大樹が、苦悶に歪んだ巨人の指のように空を掴んでいる。
霧はさらに濃く、湿った土の匂いに、鉄錆のようなAKUMAの体液が混じっていた。
神田が足を止める。
「……逃がしたか」
低く吐き捨て、周囲を睨む。
その沈黙は、長くは続かなかった。
ズゥン……。
地の底から響くような低音が、足元を震わせる。
続けて――
カチッ。
カチッ。
カチッ。
乾いた規則音。
メトロノーム。
森の奥から、心臓の鼓動を狂わせるような一定のリズムが響き始めた。
ミナミはタクトを握り直す。
霧の奥を、まっすぐ睨む。
「……誘い込んでるつもりかしら」
その瞬間。
森が、動いた。
木々の枝が、音に合わせて軋み始める。
枝と枝が擦れ合い、弦を引き裂くような不快な高音が頭上から降り注いだ。
四方八方から、声が重なる。
それは人の声ではない。
擦れた金属音のような、AKUMAの声。
『美しい……』
『森が歌っている……』
『さあ、次の楽章だ』
霧の奥で、指揮棒が振られる。
『お前の心臓でテンポを刻め、エクソシスト』
瞬間。
無数の樹根が地面を突き破った。
大蛇のようにうねり、二人へ襲いかかる。
「チッ……鬱陶しい」
神田が地を蹴る。
身体が宙へ舞う。
六幻が閃き、迫る根を次々と断ち切る。
だが。
切断面から溢れ出たのは、樹液ではなかった。
どす黒い“音”。
濁った波動が空気を震わせる。
それに触れた瞬間。
神田の腕が、一瞬だけ強張った。
「神田、下がって!」
ミナミが叫ぶ。
「この森全体が奴の楽器になってる!」
神田は舌打ちした。
一歩退く。
ミナミが前に出た。
銀のタクトを天へ掲げる。
ここからは――
どちらのテンポが、この空間を支配するか。
その勝負だ。
ミナミの脳内で、旋律が切り替わる。
より速く。
より重く。
より鋭く。
タクトが虚空を叩いた。
その瞬間。
銀色の音波がリング状に広がる。
襲いかかる樹根が、粉砕された。
森のリズムが乱れる。
不気味なメトロノームの音を、ミナミのビートが力ずくで塗り替えていく。
ミナミが冷ややかに言う。
「……次はこっちの番」
タクトが空を裂く。
「最高潮まで、一気に引き上げるわよ」
神田を振り返らない。
だが背後で、殺気が膨らむ。
六幻がゆっくり構え直された。
神田の声が落ちる。
「……ああ」
低い声。
「好きに振れ」
一拍。
黒い瞳が細くなる。
「一音でも外したら」
六幻が光る。
「斬る」
不気味な森の奥で。
二人の指揮と剣舞が、
より狂暴に。
より美しく。
絡み合い始めた。
心臓のように脈打つ巨大な異形の樹木の前で、指揮者AKUMAが狂ったように笑った。
『素晴らしい……』
声が森の奥から幾重にも反響する。
『実に見事な旋律だ、エクソシスト』
指揮棒がゆっくり持ち上がる。
『だが――』
赤い目が細く歪む。
『フィナーレには、少しばかりの“悲劇”が必要だろう?』
その瞬間。
森の空気が、凍りついた。
全方位から放たれる。
不可視の音の杭。
空気を裂く衝撃。
「神田――っ!!」
ミナミが咄嗟にタクトを振る。
防御の旋律。
銀色の波動が広がる。
だが。
レベル3の全力の一撃は、それを紙のように貫いた。
「がっ……あぁ……っ!」
鋭い衝撃。
肩と脇腹を貫く。
軍服が一瞬で赤く染まる。
ミナミの身体が地面へ叩きつけられた。
タクトを握る右手が、激しい痺れで震える。
「……おい!」
神田の声が響いた。
六幻が閃く。
迫る杭を次々と弾き飛ばす。
だが。
神田も無傷ではない。
額から血が流れ、黒髪が頬に張り付いている。
それでも。
彼は一歩も退かなかった。
ミナミの前に立つ。
「神田……」
荒い息。
「逃げて……」
声が震える。
「今の……私じゃ、上書きしきれない……」
神田ユウは強い。
ミナミより遥かに。
だが、目の前の敵は。
エクソシスト一人でどうにかなる相手ではない。
神田は振り返らない。
低く。
地を這う声。
「……黙ってろ」
六幻を握る手に力がこもる。
「お前」
少しだけ肩越しに言う。
「奴のテンポを支配したんじゃなかったのか」
その背中は先ほどより大きく、そして、ひどく孤独に見えた。
神田が肩で息をしながら、六幻を構え直す。
「立て」
短い命令。
「……一度始めた演奏を」
黒い瞳が、鋭く細まる。
「途中で投げ出すことは」
六幻の刃が青く光る。
「俺が許さねぇ」
ミナミの心臓が跳ねた。
皮肉屋で。
短気で。
自分勝手で。
それでも。
この男が今、初めて自分をエクソシストとして認めた。
重低音が、耳の奥で鳴り始める。
今度は、自分を奮い立たせるためのリズムとして。
ミナミは震える手でタクトを拾う。
体は重い。
視界は血で滲む。
それでも、その背中を置いて終われるわけがない。
ミナミが歯を食いしばる。
「……舐めた口利いてんじゃないわよ」
タクトの先端が銀色の火花を散らす。
「……死んでも合わせなさいよ」
神田が鼻で笑った。
「……フン」
二人の間の空気が変わる。
ただ背中を預けるだけの関係ではない。
互いの命を音符に刻み合う。
真の共闘へ――。
脳内を狂わせるような爆音のリズム。
もはやそれは音楽ではない。
命の削り合いだった。
ミナミは震える右手を、左手で押さえる。
血に濡れたタクトを、渾身の力で振り下ろした。
「いけ……神田……ッ!!」
音の奔流が弾ける。
破壊のビートが神田の六幻を包み込む。
青い刀身が震える。
刃は光を増し、
鋭く、
巨大な牙へと変貌した。
神田は低く構える。
地を這うような姿勢。
そして一気に踏み込んだ。
霧を裂く。
レベル3の懐へ。
神田の声が落ちる。
「――二幻」
青い光が走る。
「八花蟷螂!!」
凄まじい衝撃波。
その瞬間。
ミナミの奏でる破壊のリズムと、神田の斬撃が、完全に重なった。
レベル3の指揮者AKUMAの体が止まる。
内側から、砕けた。
断末魔すら上げられない。
音の波が体を内側から破壊し、
異形は霧の中へと粉砕され、
消えた。
静寂が一気に廃都を支配する。
「はっ……はぁ……」
イノセンスの強制解放が解ける。
ミナミの体が崩れる。
糸の切れた人形のように。
石畳へ。
全身を突き刺す痛み。
視界が急速に狭まっていく。
足音が近づいてくる。
その足音の主、神田の影がミナミを覆った。
「……おい」
低い声。
「生きてるな」
相変わらずの、ぶっきらぼうで冷たい声音。
ミナミは血の混じった息を吐いた。
朦朧とする視界の中で、神田を睨む。
「……マリ、とだったら……っ」
呼吸が詰まる。
「もっと……楽、だったのに……」
肺が焼けるように痛む。
マリの奏でる慈愛の旋律。
それが、今はひどく恋しかった。
神田のテンポは速すぎる。
荒すぎる。
心臓が壊れるかと思った。
神田が舌打ちする。
「チッ」
膝をつき、ミナミの顔を覗き込む。
「比べんじゃねぇよ」
その瞳に、ほんのわずかな焦りが走る。
ミナミは息を絞り出す。
「……神田……」
視界が揺れる。
「覚えときなさいよ……」
血を吐くような声。
「帰ったら……絶対に……」
言葉が途切れ、視界が暗く染まる。
タクトを握っていた指から力が抜けた。
カラン。
石畳に乾いた音が響く。
「……おい」
神田の声が一段低くなる。
「ミナミ!」
遠のく意識の底で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
次の瞬間。
体がふわりと浮く。
神田の硬い腕、そして、ひどく熱い。
その腕で神田は傷だらけのミナミを抱き上げる。
姫抱きの形で。
そのまま、霧を切り裂くような速さで、治療施設のある街へと走り出した。
背後に残るのは、静まり返った森。
そして、夜明け前の白い光だけだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
東欧の街、夜明けの青い光が差し込む病院。
消毒液の匂いと、遠くで鳴る教会の鐘の音で、ミナミはゆっくりと目を覚ました。
「……う、……」
全身に走る鈍い痛み。だが、それ以上に右手の掌に残る熱が、昨夜の狂乱が夢ではなかったことを物語っている。
「起きたか。……相変わらず寝相の悪い女だ」
窓際に背を向けて立っていた影が、低く呆れたように呟く。
神田ユウ。
軍服を脱ぎ、白いシャツ姿の彼は、朝日を背負っていつも以上に浮世離れして見えた。
「……神田」
ミナミは掠れた声でその名を呼ぶ。
「…今…私の手…握って…た?」
「…どうだかな」
小さく肩をすくめる。
「寝言がうるせぇから、黙らせただけかもしれねぇ」
昨夜、意識を失う直前に言い放った言葉を思い出し、頬が微かに熱くなる。
「……覚えときなさいよって、言ったわよね」
「ぁあ?……帰ったら絶対に、なんだ?」
神田がゆっくりと歩み寄り、ベッドの脇に立った。
その距離は、昨夜、背中を預け合った時と同じくらい、近い。
ミナミは神田を睨みつける。
「……帰ったら……」
息を整える。
「たくさん……甘えるんだから……」
ミナミが精一杯の虚勢を張って睨むと、神田は鼻で笑い、無造作に彼女の額に手を置いた。
「フン。……それぐらいは受け止めてやるよ」
不意に投げられた言葉。
それは、彼なりの最大の愛情表現であり、呪いのような約束だった。
「……神田」
「俺の速さについてこられるのは、お前だけだ」
だから。
「たまには甘やかしてやってもいいぜ」
神田の手が、額からゆっくりとミナミの頬へと滑る。
その指先は驚くほど優しく、昨夜、荒々しく敵を切り裂いていたものと同じとは思えない。
「……次は、もっとマシな音を奏でろ。そしたら……死なせねぇよ、お前は」
ミナミの瞳が揺れる。
神田ユウという嵐のような男と、自分という音の奔流。
混ざり合えば不協和音になるはずの二人が、今は同じ未来の鼓動を刻んでいる。
「……約束よ」
ミナミは震える手で、神田のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
「次の演奏も……最後まで付き合ってもらうんだから」
神田は何も答えなかったが、拒むこともせず、大きな手で彼女の細い手を包み込む。
その指が、ミナミの掌の傷跡をなぞる。昨夜、タクトを握り締めて戦った証。
「……お前がそのつもりなら、俺も飽きるまで付き合ってやるよ」
神田が低く、囁くように言った。
その声は、任務中の険しさは消え失せ、夜の密やかな時間だけに彼が漏らす、あの熱を帯びた響きに似ていた。
「……飽きさせないわよ、飽きたら承知しないわよ。神田」
「まあ…。……飽きることは無ぇよ」
神田がゆっくりと顔を近づける。
朝日が部屋を真っ白に染め、二人の影が重なる。
唇が触れるか触れないか、そのわずかな隙間に、二人にしか分からない、ひりついた甘さが溶け出していった。
窓の外では、新しい一日の始まりを告げる鐘が鳴り響く。
戦いは終わらない。不協和音のような日々も、きっと続いていく。
けれど、次にタクトを振る時も。
その後に訪れる、誰にも言えない秘密の夜も。
二人の刻むテンポは、もう、ずれることはない。
終
2026/03/07
霧は、音を孕んでいた。
東欧の廃都。
崩れかけた石造りの街並みの奥から、低く濁った旋律が流れてくる。
それは音楽と呼ぶにはあまりにも歪で、祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
神田ユウは立ち止まり、眉を寄せる。
「……チッ」
短い舌打ち。
「気味の悪い音だ」
六幻を抜き放つ。
刀身がわずかに青く光り、霧の中で鈍く反射した。
その視線の先。
石造りの広場の中央に、無数の影が浮かんでいる。
AKUMA。
だが、それはただの群れではなかった。
それらはまるで楽団の団員のように整列し、微動だにせず宙に浮かんでいる。
そして――
その中央。
崩れた噴水の上に、ひとつの影が座っていた。
黒い燕尾服。
ひび割れたシルクハット。
手には細長い指揮棒。
レベル3。
AKUMAの“指揮者”。
男はゆっくりと指揮棒を持ち上げ、空中を一度なぞる。
カツ。
乾いた音が響いた瞬間。
周囲のAKUMAが一斉にハミングを始める。
不協和音。
霧が震える。
神田が刀を構えた。
「……楽団気取りか」
その横で、ミナミが一歩前へ出る。
手には白銀のタクト。
細く長い指揮棒が、霧の中でかすかに光った。
彼女はAKUMAたちを見据え、静かに吐き捨てる。
「……報告通りね」
少しだけ顎を上げる。
「私にぴったりの仕事だわ」
その言葉に、神田が横目で見る。
「チッ。相変わらず生意気な女だ」
ミナミは軽く肩をすくめた。
そして神田をちらりと見る。
「神田」
タクトを指先でくるりと回す。
「私のリズム、速くするけど……ついてこられる?」
神田は鼻で笑った。
「誰に言ってる」
一拍。
鋭い目で霧の向こうを睨む。
「……俺を縛れると思うなよ。マエストロ」
ミナミの唇が、わずかに吊り上がる。
「どちらが真の指揮者か見せてあげる」
次の瞬間。
タクトが振り下ろされた。
――イノセンス、解放。
世界が変わる。
低く重いビートが、空気を震わせた。
ドン。
ドン。
ドン。
脳の奥に直接叩き込まれるような重低音。
それは音ではなく、意思だった。
ミナミがタクトを振る。
その軌跡に沿って、音の刃が走る。
AKUMAの一体が、空中で真っ二つに裂けた。
同時に。
青い残像が霧を裂く。
神田だった。
六幻が弧を描き、次のAKUMAの喉を断ち切る。
血と火花が舞う。
神田が低く吐き捨てた。
「遅ぇ」
だがその声は、怒りではない。
ミナミの次の音を催促する合図。
ミナミはさらに強くタクトを振る。
破壊のビートが広場を支配する。
本来は調和を生むはずの指揮。
だが今、ミナミが振るうそれは――
神田という名の凶器を踊らせるための、破壊のタクトだった。
爆炎の中。
神田がミナミのすぐ横をすり抜ける。
肩が触れるほど近い距離。
その瞬間。
低い声が、耳元に落ちた。
「……悪くねぇ」
黒い瞳が、わずかに細まる。
「このテンポなら」
六幻を振り抜く。
AKUMAの胴が裂ける。
「最後まで付き合ってやる」
ミナミの唇が、ほんの少しだけ吊り上がった。
霧の廃都に、不協和音が鳴り響く。
広場を埋め尽くしていたAKUMAの群れを斬り散らし、逃げる指揮者を追って踏み込んだ先は、月の光すら届かない密林だった。
ねじれた大樹が、苦悶に歪んだ巨人の指のように空を掴んでいる。
霧はさらに濃く、湿った土の匂いに、鉄錆のようなAKUMAの体液が混じっていた。
神田が足を止める。
「……逃がしたか」
低く吐き捨て、周囲を睨む。
その沈黙は、長くは続かなかった。
ズゥン……。
地の底から響くような低音が、足元を震わせる。
続けて――
カチッ。
カチッ。
カチッ。
乾いた規則音。
メトロノーム。
森の奥から、心臓の鼓動を狂わせるような一定のリズムが響き始めた。
ミナミはタクトを握り直す。
霧の奥を、まっすぐ睨む。
「……誘い込んでるつもりかしら」
その瞬間。
森が、動いた。
木々の枝が、音に合わせて軋み始める。
枝と枝が擦れ合い、弦を引き裂くような不快な高音が頭上から降り注いだ。
四方八方から、声が重なる。
それは人の声ではない。
擦れた金属音のような、AKUMAの声。
『美しい……』
『森が歌っている……』
『さあ、次の楽章だ』
霧の奥で、指揮棒が振られる。
『お前の心臓でテンポを刻め、エクソシスト』
瞬間。
無数の樹根が地面を突き破った。
大蛇のようにうねり、二人へ襲いかかる。
「チッ……鬱陶しい」
神田が地を蹴る。
身体が宙へ舞う。
六幻が閃き、迫る根を次々と断ち切る。
だが。
切断面から溢れ出たのは、樹液ではなかった。
どす黒い“音”。
濁った波動が空気を震わせる。
それに触れた瞬間。
神田の腕が、一瞬だけ強張った。
「神田、下がって!」
ミナミが叫ぶ。
「この森全体が奴の楽器になってる!」
神田は舌打ちした。
一歩退く。
ミナミが前に出た。
銀のタクトを天へ掲げる。
ここからは――
どちらのテンポが、この空間を支配するか。
その勝負だ。
ミナミの脳内で、旋律が切り替わる。
より速く。
より重く。
より鋭く。
タクトが虚空を叩いた。
その瞬間。
銀色の音波がリング状に広がる。
襲いかかる樹根が、粉砕された。
森のリズムが乱れる。
不気味なメトロノームの音を、ミナミのビートが力ずくで塗り替えていく。
ミナミが冷ややかに言う。
「……次はこっちの番」
タクトが空を裂く。
「最高潮まで、一気に引き上げるわよ」
神田を振り返らない。
だが背後で、殺気が膨らむ。
六幻がゆっくり構え直された。
神田の声が落ちる。
「……ああ」
低い声。
「好きに振れ」
一拍。
黒い瞳が細くなる。
「一音でも外したら」
六幻が光る。
「斬る」
不気味な森の奥で。
二人の指揮と剣舞が、
より狂暴に。
より美しく。
絡み合い始めた。
心臓のように脈打つ巨大な異形の樹木の前で、指揮者AKUMAが狂ったように笑った。
『素晴らしい……』
声が森の奥から幾重にも反響する。
『実に見事な旋律だ、エクソシスト』
指揮棒がゆっくり持ち上がる。
『だが――』
赤い目が細く歪む。
『フィナーレには、少しばかりの“悲劇”が必要だろう?』
その瞬間。
森の空気が、凍りついた。
全方位から放たれる。
不可視の音の杭。
空気を裂く衝撃。
「神田――っ!!」
ミナミが咄嗟にタクトを振る。
防御の旋律。
銀色の波動が広がる。
だが。
レベル3の全力の一撃は、それを紙のように貫いた。
「がっ……あぁ……っ!」
鋭い衝撃。
肩と脇腹を貫く。
軍服が一瞬で赤く染まる。
ミナミの身体が地面へ叩きつけられた。
タクトを握る右手が、激しい痺れで震える。
「……おい!」
神田の声が響いた。
六幻が閃く。
迫る杭を次々と弾き飛ばす。
だが。
神田も無傷ではない。
額から血が流れ、黒髪が頬に張り付いている。
それでも。
彼は一歩も退かなかった。
ミナミの前に立つ。
「神田……」
荒い息。
「逃げて……」
声が震える。
「今の……私じゃ、上書きしきれない……」
神田ユウは強い。
ミナミより遥かに。
だが、目の前の敵は。
エクソシスト一人でどうにかなる相手ではない。
神田は振り返らない。
低く。
地を這う声。
「……黙ってろ」
六幻を握る手に力がこもる。
「お前」
少しだけ肩越しに言う。
「奴のテンポを支配したんじゃなかったのか」
その背中は先ほどより大きく、そして、ひどく孤独に見えた。
神田が肩で息をしながら、六幻を構え直す。
「立て」
短い命令。
「……一度始めた演奏を」
黒い瞳が、鋭く細まる。
「途中で投げ出すことは」
六幻の刃が青く光る。
「俺が許さねぇ」
ミナミの心臓が跳ねた。
皮肉屋で。
短気で。
自分勝手で。
それでも。
この男が今、初めて自分をエクソシストとして認めた。
重低音が、耳の奥で鳴り始める。
今度は、自分を奮い立たせるためのリズムとして。
ミナミは震える手でタクトを拾う。
体は重い。
視界は血で滲む。
それでも、その背中を置いて終われるわけがない。
ミナミが歯を食いしばる。
「……舐めた口利いてんじゃないわよ」
タクトの先端が銀色の火花を散らす。
「……死んでも合わせなさいよ」
神田が鼻で笑った。
「……フン」
二人の間の空気が変わる。
ただ背中を預けるだけの関係ではない。
互いの命を音符に刻み合う。
真の共闘へ――。
脳内を狂わせるような爆音のリズム。
もはやそれは音楽ではない。
命の削り合いだった。
ミナミは震える右手を、左手で押さえる。
血に濡れたタクトを、渾身の力で振り下ろした。
「いけ……神田……ッ!!」
音の奔流が弾ける。
破壊のビートが神田の六幻を包み込む。
青い刀身が震える。
刃は光を増し、
鋭く、
巨大な牙へと変貌した。
神田は低く構える。
地を這うような姿勢。
そして一気に踏み込んだ。
霧を裂く。
レベル3の懐へ。
神田の声が落ちる。
「――二幻」
青い光が走る。
「八花蟷螂!!」
凄まじい衝撃波。
その瞬間。
ミナミの奏でる破壊のリズムと、神田の斬撃が、完全に重なった。
レベル3の指揮者AKUMAの体が止まる。
内側から、砕けた。
断末魔すら上げられない。
音の波が体を内側から破壊し、
異形は霧の中へと粉砕され、
消えた。
静寂が一気に廃都を支配する。
「はっ……はぁ……」
イノセンスの強制解放が解ける。
ミナミの体が崩れる。
糸の切れた人形のように。
石畳へ。
全身を突き刺す痛み。
視界が急速に狭まっていく。
足音が近づいてくる。
その足音の主、神田の影がミナミを覆った。
「……おい」
低い声。
「生きてるな」
相変わらずの、ぶっきらぼうで冷たい声音。
ミナミは血の混じった息を吐いた。
朦朧とする視界の中で、神田を睨む。
「……マリ、とだったら……っ」
呼吸が詰まる。
「もっと……楽、だったのに……」
肺が焼けるように痛む。
マリの奏でる慈愛の旋律。
それが、今はひどく恋しかった。
神田のテンポは速すぎる。
荒すぎる。
心臓が壊れるかと思った。
神田が舌打ちする。
「チッ」
膝をつき、ミナミの顔を覗き込む。
「比べんじゃねぇよ」
その瞳に、ほんのわずかな焦りが走る。
ミナミは息を絞り出す。
「……神田……」
視界が揺れる。
「覚えときなさいよ……」
血を吐くような声。
「帰ったら……絶対に……」
言葉が途切れ、視界が暗く染まる。
タクトを握っていた指から力が抜けた。
カラン。
石畳に乾いた音が響く。
「……おい」
神田の声が一段低くなる。
「ミナミ!」
遠のく意識の底で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
次の瞬間。
体がふわりと浮く。
神田の硬い腕、そして、ひどく熱い。
その腕で神田は傷だらけのミナミを抱き上げる。
姫抱きの形で。
そのまま、霧を切り裂くような速さで、治療施設のある街へと走り出した。
背後に残るのは、静まり返った森。
そして、夜明け前の白い光だけだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
東欧の街、夜明けの青い光が差し込む病院。
消毒液の匂いと、遠くで鳴る教会の鐘の音で、ミナミはゆっくりと目を覚ました。
「……う、……」
全身に走る鈍い痛み。だが、それ以上に右手の掌に残る熱が、昨夜の狂乱が夢ではなかったことを物語っている。
「起きたか。……相変わらず寝相の悪い女だ」
窓際に背を向けて立っていた影が、低く呆れたように呟く。
神田ユウ。
軍服を脱ぎ、白いシャツ姿の彼は、朝日を背負っていつも以上に浮世離れして見えた。
「……神田」
ミナミは掠れた声でその名を呼ぶ。
「…今…私の手…握って…た?」
「…どうだかな」
小さく肩をすくめる。
「寝言がうるせぇから、黙らせただけかもしれねぇ」
昨夜、意識を失う直前に言い放った言葉を思い出し、頬が微かに熱くなる。
「……覚えときなさいよって、言ったわよね」
「ぁあ?……帰ったら絶対に、なんだ?」
神田がゆっくりと歩み寄り、ベッドの脇に立った。
その距離は、昨夜、背中を預け合った時と同じくらい、近い。
ミナミは神田を睨みつける。
「……帰ったら……」
息を整える。
「たくさん……甘えるんだから……」
ミナミが精一杯の虚勢を張って睨むと、神田は鼻で笑い、無造作に彼女の額に手を置いた。
「フン。……それぐらいは受け止めてやるよ」
不意に投げられた言葉。
それは、彼なりの最大の愛情表現であり、呪いのような約束だった。
「……神田」
「俺の速さについてこられるのは、お前だけだ」
だから。
「たまには甘やかしてやってもいいぜ」
神田の手が、額からゆっくりとミナミの頬へと滑る。
その指先は驚くほど優しく、昨夜、荒々しく敵を切り裂いていたものと同じとは思えない。
「……次は、もっとマシな音を奏でろ。そしたら……死なせねぇよ、お前は」
ミナミの瞳が揺れる。
神田ユウという嵐のような男と、自分という音の奔流。
混ざり合えば不協和音になるはずの二人が、今は同じ未来の鼓動を刻んでいる。
「……約束よ」
ミナミは震える手で、神田のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
「次の演奏も……最後まで付き合ってもらうんだから」
神田は何も答えなかったが、拒むこともせず、大きな手で彼女の細い手を包み込む。
その指が、ミナミの掌の傷跡をなぞる。昨夜、タクトを握り締めて戦った証。
「……お前がそのつもりなら、俺も飽きるまで付き合ってやるよ」
神田が低く、囁くように言った。
その声は、任務中の険しさは消え失せ、夜の密やかな時間だけに彼が漏らす、あの熱を帯びた響きに似ていた。
「……飽きさせないわよ、飽きたら承知しないわよ。神田」
「まあ…。……飽きることは無ぇよ」
神田がゆっくりと顔を近づける。
朝日が部屋を真っ白に染め、二人の影が重なる。
唇が触れるか触れないか、そのわずかな隙間に、二人にしか分からない、ひりついた甘さが溶け出していった。
窓の外では、新しい一日の始まりを告げる鐘が鳴り響く。
戦いは終わらない。不協和音のような日々も、きっと続いていく。
けれど、次にタクトを振る時も。
その後に訪れる、誰にも言えない秘密の夜も。
二人の刻むテンポは、もう、ずれることはない。
終
2026/03/07