Dグレ劇場美女と野獣
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ダイニングに、蕎麦を啜る音だけが静かに響いていた。
神田の機嫌は、相変わらずの氷点下。隣に座るミナミの存在を無視しようと、必死に自分の器だけに集中している。
だが、ミナミはそんな殺気などどこ吹く風。
隣でじーっと、神田の箸の動きを追いかけていた。
「ねえ、ユウ。そのお蕎麦、1口ちょうだい?」
「……っ。嫌だと言ったはずだ」
神田は顔も上げずに吐き捨てる。だが、ミナミの目はキラキラと輝いたままだ。
「だって、ユウが食べてるのが美味しそうなんだもん」
神田は溜め息をつくと、厨房の方を向いて低く声を投げた。
「……ラビ。もう一つ、こいつに作ってやれ」
「あいよー! すぐ茹でるさー!」
奥からラビの調子のいい声が返ってくる。これで解決――神田がそう思った瞬間。
「ううん、違うの」
神田の太い腕に、柔らかい感触が触れた。
ミナミが両手で彼の腕をギュッと掴み、無邪気にゆさゆさと揺さぶり始めたのだ。
「新しいのが欲しいんじゃなくて、ユウのがいいの。1口だけでいいから、ね? お願いっ」
神田の動きが、凍りついた。
見下ろせば、そこには邪気のない、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳。
肖像画のイケメンに負けないほどキラキラした笑顔で、至近距離から「お願い」を連打している。
「…………っ」
神田の脳内で、何かが派手な音を立てて弾けた。
(な、……何だこの女は……!?)
これまで受けてきたどんな扱いより、どんな強敵の斬撃よりも、この無邪気な甘えが神田の理性をズタズタに切り裂いていく。
拒絶しようにも、腕に伝わる体温と、真っ直ぐな期待の眼差しがそれを許さない。
神田の顔が、野獣の毛の上からでも分かるほど真っ赤に染まっていく。
「……ッ、チッ……! 分かったから揺らすな!!」
神田は、半ば自棄になったように箸で蕎麦をひと掴みすると、それを乱暴に、だが落とさないように絶妙な加減でミナミの口元へ突き出した。
「ほら、食え! これで満足か!」
「わーい! あーん」
ぱくん、と無邪気に食べるミナミ。
その幸せそうな顔を見た瞬間。
神田はたまらず顔を背けたが、心臓の鼓動はバックバク。
背後で見ていたラビとアレンは、主のあまりの崩壊っぷりに、もはや声も出ない。
((神田が……あのアクマみたいな神田が、食べさせてあげてる……!))
当のミナミは「やっぱりユウのがおいしい!」と上機嫌。
神田の耳が、もはや隠しようがないほど、さっきよりもさらに深い朱に染まる。
数秒。
心臓の鼓動さえ聞こえそうなほどの沈黙。
そして。
「……そうか」
消え入りそうなほど小さな、ぼそりとした呟き。
だが、次の瞬間。
「……ッ、いい加減にしろよ!!」
ドン!!
器を叩きつけるような勢いでテーブルに置く。
その衝撃で汁が跳ねるのも構わず、神田は逃げるように叫んだ。
「なんでわざわざ、人のを食いやがる……! 死ね、ブス!」
ミナミは、口に蕎麦を入れたままきょとんとして彼を見上げる。
「だって、ユウのが食べたかったんだもん。ダメだった?」
……再びの沈黙。
神田はガタンッ! と、椅子が音を立てて勢いよく立ち上がった。
「……もういい」
背を向ける。その背中は、どこか余裕がないように見える。
「残りはお前が食え。……やるよ」
吐き捨てるように言い、食べかけの蕎麦をミナミの前に突き出したまま、ダイニングを後にしようとして――。
扉の数歩手前で、その足が止まった。
神田は振り返らない。振り返れないまま、低く、押し殺したような声で言った。
「……全部、食えよ。……一滴も残すな」
今度こそ、その長い黒髪を揺らして、彼は廊下へ消えた。
その後。
静まり返ったダイニングで、備品たちが一斉に物陰から顔を出す。
「……見たか?」
ラビが声を潜めて、震える声で呟く。
アレンが驚愕のあまり顔を強張らせて頷く。
「見ました。あの神田が、食べかけを人に譲るなんて……」
リンクがカチリと、決定的な時刻を刻むように音を鳴らした。
「完全に。間違いなく」
三人、そして備品たちの意見は、今、この瞬間に完全に一致した。
「「「……落ちかけてます」」」
ミナミは、神田が残していった蕎麦をずるずると遠慮なく啜りながら、物陰から様子を伺っていた備品たちをちらりと見やった。
「ねえ」
その呼びかけに、ラビたちがびくりと肩を揺らして顔を向ける。ミナミは最後の一本を吸い込むと、箸を置いて真面目な顔をした。
「さっきさ……あの毛むくじゃら、私に『死ね』って言ったわよね」
「……言いましたね。はっきりと」
アレンが遠い目をしてぼそっと零す。
「ああ、景気よく言ってたな。いつものことだけどさー、俺なんて毎日言われてるさ」
ラビも「やれやれ」と台座をすくめた。
ミナミは、満足げにこくりと頷く。
「……分かった。じゃあ、死ぬね」
「……はい?」
リンクの針が、理解不能と言わんばかりに停止した。
「ちょっと待って、ミナミ。理屈が数段飛ばしで飛躍してない!?」
リナリーの真っ当なツッコミも、今のミナミには届かない。
「今から私が死んだフリするから、あの毛むくじゃらを呼んできて。今すぐに」
「……ユウを、ここに?」
「うん」
ミナミは、花の綻ぶような“ にこっ”とした100点の笑顔を浮かべた。
「……死ねって言葉がどんな呪いの言葉か、説教してやる」
一瞬、ダイニングに戦慄の沈黙が走った。
備品たちは互いに顔を見合わせる。主である神田を担ぎ出し、さらに死を偽装して説教を食らわす……。
本来なら自殺行為だが、今の神田の落ちかけている様子を見た彼らに、迷いはなかった。
「……やるか」
ラビの火が、悪戯っぽくチロチロと燃え上がる。
「やりましょう。呪いの開放がかかっています」
リンクが冷徹な判断を下した。
その瞬間。
ミナミはパタッという効果音が聞こえてきそうなほど潔く、テーブルの上に突っ伏した。
腕をだらりと投げ出し、指先一つ動かさない。完璧な死んだフリだ。
「よし……気合入れるさー!」
ラビが燭台の足をフル回転させ、廊下を爆走し始めた。
「ユウ!! 大変さー!!」
神田の部屋の扉をドカドカと叩き、悲痛な(フリをした)叫び声を城中に響かせる。
「ミナミが!! ミナミが死んじまった!! お前が残した蕎麦を食った途端に死んじまったさーーーっ!!」
ラビの悲鳴は、静まり返った城の深淵まで容赦なく突き刺さった。
数秒。
城内のすべての時が、絶対零度の冷気に触れたかのように凍りついた。
そして――。
神田が部屋の扉を中から、壊れんばかりの勢いで開けた。
その拍子で燭台のラビは数メートル先に飛ばされた。
「……チッ」
飛び出してきた神田の足取りは、もはや歩行の域を超えていた。
長い廊下を、乱れる黒髪も構わず大股で、競歩並みの速度で突き進んでいく。
普段の悠然とした威圧感はどこへやら、その焦燥しきった背中からは、隠しきれない動揺が漏れ出していた。
ダイニングの扉が、勢いよく開け放たれた視線の先には、テーブルに突っ伏したまま、ぴくりとも動かないミナミの姿があった。
「……おい」
神田が、吸い寄せられるように歩み寄る。
その顔からは、さっきまでの不躾な怒りは完全に消え失せ、見たこともないような恐怖に近い色が滲んでいた。
「……おい、起きろ。ふざけるな」
震える大きな手が、ミナミの肩へと伸ばされる。
その、触れるか触れないかという刹那。
「……ゆ……う……」
消え入りそうな、あまりにも弱々しい囁きが神田の鼓膜を叩いた。
神田の瞳が、限界まで大きく見開かれる。
「……っ、しっかりしろ! ミナミ!」
ミナミは薄く目を開け、焦点の定まらない瞳で、かすれた声を絞り出した。
「……ユウ……」
「……何だ。言え、何でも聞く」
神田の声は明らかに理性を失いかけた焦燥が渦巻いている。
「……最後に……」
一気にダイニングの空気が重く沈み、備品たちが息を呑む音が聞こえてきそうなほどの静寂が訪れた。
「……愛の……」
神田の鼓動が激しく打ち鳴らされる中、ミナミは震える唇を動かした。
「……キスを……して……」
「…………」
神田ユウ、完全硬直。
あまりにシリアスな死の間際の(フリをした)告白に、神田の脳内処理は完全にパンクし、彼の世界は静止した。
「チッ……」
ゆっくりと腕を差し入れる。
片腕を背に、もう片方を膝の下に回し――そのまま、軽々と抱き上げた。
思ったよりも、ずっと軽い。
神田の眉がわずかに寄る。
「……軽すぎだろ」
呟きながら、椅子から身体を引き離す。
腕の中で、ミナミの頭がぐらりと揺れた。
神田は床へ視線を落とすと、ゆっくり片膝をついた。
抱きかかえたまま、そっと身体を下ろそうとする。
その途中で、神田の腕が止まった。
ミナミの顔が、すぐ目の前にあった。
白い肌。
長い睫毛。
微かに開いた唇。
神田の視線が、その唇に落ちる。
「……」
数秒の沈黙。
神田は目を細め、わずかに顔をしかめた。
「……なんで俺が」
吐き捨てるように呟く。
それでも、腕は動かなかった。
支えている手のひらに、彼女の体温が伝わってくる。
神田は小さく息を吐いた。
観念したように、顔を近づける。
ほんの一瞬。
触れるか触れないかほどの距離で止まり――
そして。
静かに、唇が重なった。
唇が離れた瞬間、ミナミは計画通り、ゆっくりと、消え入りそうな動作でその瞼を持ち上げた。
虚ろな瞳が、目の前の野獣をじっと捉える。
「……ありがとう。キス……してくれたのね……」
神田の肩が、びくりと跳ねた。至近距離で見つめ合う瞳の中に、後悔と困惑がごちゃ混ぜになって渦巻いている。
「ねぇ、ユウ……私が死んだと聞いて、どんな気持ちだった……?」
「……お前、それは……」
言葉を詰まらせる神田を逃さず、ミナミは震える声(演技)で問いを重ねる。
「嬉しかった……? それとも、悲しかった……? 私が、あなたが言った通りに本当に死んじゃって……満足したの……?」
「……っ、ふざけるな! 俺は……!」
怒鳴ろうとして、神田は言葉を飲み込んだ。
「あなたが私に『死ね』って言ったこと……後悔しなかった……?」
「…………」
「本当に死んじゃったら、もう謝ることすら……できないんだよ……?」
神田は顔を歪め、苦しげに視線を逸らした。
あの冷徹無比な男が、完全に加害者の顔になっている。
「簡単に『死ね』なんて言葉、使っちゃだめだよ……? この言葉は、強い呪いの言葉なんだから。……本当に、死んじゃうんだから……」
「…分かったから、もう喋るな」
神田の必死な、懇願するような声が響く。
その様子を、邪魔にならないように壁の隅っこで息を潜めて見ていたラビとアレンは戦慄しながらヒソヒソと囁き合った。
((俺たち毎日『死ね』って言われてるけど……元気に生きてるよな?))
((……そのうち、僕たちも急死するんでしょうか……?))
ゴクリ、と喉仏が同時に鳴った。
そんな備品たちの視線も気にせず、ミナミは神田の胸に力なく手を添えて、トドメの一撃を放った。
「私が本当に死んだら……あなた、一生後悔するんだからね……」
神田は、もはや何も言い返せなかった。腕の中の熱が消えるのを恐れるように、ミナミの体を一層強く抱きしめる。
その瞬間、ミナミの心の中ではガッツポーズが炸裂していた。
(よしっ、完璧! これで次は『死ね』って言わせないわよ!)
虚ろな瞳が、目の前の野獣を捉える。
神田の肩がびくりと跳ねた。見つめ合う瞳の中に、後悔と困惑が渦巻いている。
数秒の沈黙。
やがて、ミナミが弱々しく呟いた。
「……ねぇ」
「……何だ」
「お庭を、案内してくれない?」
神田の思考が止まる。
「……は?」
「外の空気、吸いたいの……」
たった今、死の淵に立っていた人間の台詞とは思えない。神田の顔が完全に固まった。
「お前……」
ミナミは、ゆっくりと身体を起こした。そして、にこっと笑う。
「キスされたら、元気になっちゃった」
ミナミは「よいしょ」と軽い調子で立ち上がると、何事もなかったかのように歩き出した。
ダイニングの出口へ向かって。
神田はまだ床に片膝をついたまま、呆然とその背中を見送る。
「……おい」
ミナミは振り返らない。そのまま廊下へ消えていく。
その背中を視線で追いながら、神田が低く零した。
「……何なんだ、あの女は……」
その頃、廊下を歩くミナミの脳内は冷静だった。
(やっぱりだけど、まだ呪い、解けなかった……)
顎に指を当て、真面目な顔で考える。
(うーん……。……やっぱり、『愛』が足りなかったかな。もっと野獣のことを好きになって、野獣にも好きになってもらわないと……)
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
扉を開けると、冷たい朝の空気が二人を包んだ。
城壁の内側に広がる庭園。手入れはされているが、どこか野生の静けさが残っている。
ミナミは瞳を輝かせた。
「わぁ……!」
駆け出す背中に、神田が腕を組んだまま声を飛ばす。
「走るな。転ぶぞ」
「大丈夫大丈夫!」
ミナミは花壇の前にしゃがみ込んだ。
「見てユウ、この花かわいい」
「そうか?」
「かわいいよ」
「興味ない」
神田はそっぽを向く。だが視界の端では、ミナミが花を傷つけないよう、指先で空気をなぞる姿を捉えていた。
神田の耳が、わずかに動く。
「ユウ」
「何だ」
「ちょっとこっち来て」
「断る」
「断ることを断る!」
神田は動かない。ミナミは「ふーん」と呟くと、生垣の向こうへ姿を消した。
数秒。風が吹き、花が揺れる。
ミナミはまだ出てこない。
神田の耳がぴくりと立った。
「……おい」
返事はない。神田は舌打ちをした。
「チッ……」
数歩歩き、生垣を覗き込むがいない。
神田の眉間に皺が寄る。
「……おい、ブス。どこ行った」
さらに数歩。庭を見回す。さっきまでの気配が、綺麗に消えている。
胸の奥が、ざわついた。
「……おい!」
その瞬間――。
「ばぁ」
違う生垣の向こうから、ミナミの顔がひょっこり出た。
「……っ!」
神田の耳が跳ねる。
「ふふ、びっくりした?」
ミナミはくすくす笑った。神田は数秒黙り、ゆっくりと言った。
「……くだらねぇ」
だが、肩の力はわずかに抜けていた。
「この庭、きれいね」
神田は答えない。ミナミは花を覗き込みながら、ぽつりと言った。
「ちゃんと世話してるんだ」
「……別に。勝手に育つ」
「してるじゃん」
ミナミはにやりと笑う。
「ユウ、優しいね」
神田の耳が、ぴくりと動いた。
沈黙が流れる。
やがて神田が、低く言った。
「……おい」
「ん?」
神田は真顔だった。
神田は一歩、ミナミに近づいた。
毛に覆われた頬。
鋭く覗く牙。
ぴくりと動く獣の耳。
影が、ミナミの足元まで伸びる。
「……この顔で」
低い声。
さらに一歩。
「この牙で」
神田は、わざとゆっくり口角を吊り上げた。
牙が覗く。
次の瞬間。
ぐっと顔を近づけ――
獣のように低く唸った。
「ウォォォオオォオッ!!」
喉の奥から絞り出すような声。
まるで獲物を威嚇する猛獣のそれだった。
神田は牙を剥き、ぐいと顔を近づける。
「怖くないのか?」
ミナミは数秒、無言でそれを見ていた。
そして。
「ぷっ……あははは!」
吹き出した。
「かわいい!」
神田が固まる。
「……は?」
「ユウ、今、耳がぴこぴこ動いてた!」
神田の耳が、指摘されてまた跳ねた。
「……」
ミナミは笑っている。
神田はしばらく黙り、やがて、ぽつりと呟いた。
「……お前、正気か?」
ゆっくり首を傾げる野獣に、ミナミはこの野獣は優しい人だと確信した。
ミナミは微笑みながら一歩近づいた。
神田は動かない。だが耳だけが、ぴくりと揺れる。
ミナミはそのまま、そっと手を伸ばした。
毛に覆われた大きな手。その左手を、両手で包み込む。
「……」
神田の身体が、びくりと強張った。
「触るな!」
反射だった。振り払うように腕を振る。
次の瞬間――。
鋭い爪が、ミナミの腕をかすめた。
「……っ」
白い肌に、一直線の傷が走る。
長さ十センチほどのやや深い切り傷。一拍遅れて、じわりと血が滲んだ。
ぽたり。と次から次に赤い雫が庭の石畳に落ちる。
神田の瞳が、凍りついた。
「……」
ミナミも一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「……あ、大丈夫だよこれ――」
言い終わる前に、神田はもうその場にいなかった。
長い黒髪を翻し、城の中へ消えていた。逃げるように。
城の廊下を、大股で歩く。呼吸が荒い。
「……チッ」
神田は歯を食いしばった。ダイニングの前でラビたちに出くわす。
「ユウ? どうし――」
「……あいつの腕、怪我してる。手当しておけ」
「え?」
「早くしろ」
それだけ言うと、神田は振り返らず歩き去った。
自分の部屋へ入り、扉を閉める。
神田は壁に拳を叩きつけた。
「……クソ」
胸の奥がざわつく。
血の色。細い腕。振り払った瞬間の感触。
「……何が『触るな』だ」
吐き捨てた言葉が、頭の中で反響する。
自ら拒絶した。そして、傷つけた。
あの女は――怖がらなかったのに。
神田は顔を歪め、視線を逸らした。
その先にあった。
部屋の奥。石台の上。蓮の花の装置。
静かに光る、魔女の呪いの象徴。
神田は、無意識に近づく。そして、止まった。
「……」
花びらが、ほとんど無かった。
残っているのは――あと一枚。
神田の瞳が、わずかに揺れた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
庭での騒ぎからそう時間は経っていなかった。
ラビたちによって腕の手当てを終えたミナミは、巻かれたばかりの包帯を一度だけ眺めると、迷いなく椅子から立ち上がった。
「……よし」
その様子を見ていたラビが目を丸くする。
「え、もう動くんか?」
「うん。手当てありがとう」
ミナミはあっさり頷いた。
アレンが心配そうに言う。
「少し休んだ方がいいと思いますよ。まだ血も止まって無いですし……」
「大丈夫だよ、これくらい」
そう言いながら腕を軽く振ってみせると、ミナミはそのままダイニングの出口へ向かって歩き出す。
リンクがカチリと音を鳴らしながら問いかけた。
「どこへ行くのですか」
ミナミは振り返り、にやりと笑った。
「決まってるでしょ」
そして当然のことのように言う。
「野獣のとこ」
ラビが思わず声を上げた。
「さっきの今でか!!」
「だってさ」
ミナミは肩をすくめる。
「逃げたままにしといたら、かわいそうだし」
三人は顔を見合わせた。逃げたという言い方もどうかと思うが、神田の様子を見れば否定もできない。
「……まあ、間違ってはないですね」
アレンが苦笑する。
ミナミは軽く手を振ると、そのまま廊下へ出ていった。
ミナミは迷う様子もなく歩き、やがて神田の部屋の前で足を止めた。
一度だけ、深呼吸をする。
それから控えめに扉を叩いた。
「……」
数秒の沈黙のあと、扉の向こうから低い声が返ってきた。
「……なんだ?」
冷たい声だった。
ミナミは少しだけ扉に近づいて言う。
「ミナミだけど」
それから、遠慮がちに続ける。
「ちょっといい?」
返事はなかった。
無視というより、どう答えればいいのか分からない沈黙だった。
ミナミは気にせず話し始める。
「庭でのこと、大丈夫だから」
包帯を巻いた腕を見下ろしながら言う。
「これ、大した怪我じゃないよ」
しばらくして、低い声が返る。
「……だが、傷つけた結果は変わらねぇ」
その声音には苛立ちよりも、押し殺したような重さが混じっていた。
ミナミは少しだけ眉を寄せる。
「いいって言ってるのに……」
神田は答えない。
扉越しの沈黙が続く。
ミナミは一度だけ息を吐くと、少し声を落として言った。
「ねえ、ユウ。私ね」
ほんの少しだけ間を置く。
「あなたの呪いを解きたいの」
間髪入れず、扉の向こうから声が落ちた。
「無理だ」
短く、冷たい拒絶。
「帰れ」
だがミナミは即答する。
「帰らない」
神田の声が低くなる。
「……なんでだ」
ミナミは少しだけ考えて、それから答えた。
「だって」
そして、照れくさそうに笑う。
「あなたに恋しちゃったから」
扉の向こうで、気配が止まった。
神田の沈黙が、はっきりと分かるほど長く続く。
やがて低い声が落ちる。
「……お前」
少しだけ呆れたように。
「頭大丈夫か?」
ミナミは迷いなく答える。
「うん。大丈夫」
そして、少しだけ真面目な声で言う。
「だって、あなた、優しいから」
扉の向こうで神田が舌打ちする音が聞こえた。
「……チッ。勝手なこと言ってんじゃねぇ。俺が優しい?」
吐き捨てるように言う。
「庭で何したか忘れたのか」
ミナミは首を振る。
「忘れてないよ。でも、傷つけちゃったって、気にしてるでしょ」
沈黙。
扉の向こうで、神田が言葉を失ったのが分かる。
ミナミは続ける。
「それって、優しいってことだと思う」
しばらくして、神田が低く言った。
「……お前、人を見る目、悪すぎだろ」
ミナミはくすっと笑った。
「そうかな?私、結構自信あるよ?人を見る目」
扉越しの沈黙が再び落ちる。
その沈黙の奥で、神田がまだ何も言い返せずにいることを、ミナミはなんとなく感じ取っていた。
そして小さく言う。
「ねえ、ユウ」
「……なんだ」
「ここ開けて」
少し明るい声で続ける。
「あなたの顔が見たい。一緒にお話しよ?」
扉の向こうで、神田が息を吐く気配がした。
「……お前ほんとに医者に診てもらった方がいいぞ」
ミナミは笑う。
「だから言ってるでしょ。恋してるんだってば」
カチリ、と解錠の音が響いた。
重い扉がゆっくりと開き、影の中から神田が姿を現す。
その視線は、真っ直ぐにミナミの腕へと落ちた。白く巻かれた包帯。
「……それ、痛いか?」
「痛くないよ……と言ったら嘘になるかな。正直、痛い。でも、痛くないよ」
「どっちだよ」
呆れたように神田が顔を歪める。ミナミがふふっと笑った、その時だった。
彼女の視線が、部屋の奥に鎮座する装置に吸い寄せられた。
「あれ?」
吸い込まれるように、ミナミが歩み寄る。
「アレ……昨日と何か違くない?」
「……っ」
装置の前へ駆け出そうとしたミナミの肩を、神田の大きな手が背後からがっしりと掴んだ。
「アレには、絶対に触るな」
「……うん、わかったわ」
神田に促されるようにして、装置の傍らへ移動する。
ガラスドームの中で、淡く光る蓮の花。
「ねえ、これなに? 呪いと関係があるの?」
「……ああ」
「昨日ラビたちが言っていた“花びら”って、これのことだったのね」
見れば、残っている花びらは、たったの一枚。
ミナミは眉間にシワを寄せ、その最後の一枚を凝視した。
「ねえ、ユウ。もし、これが全部落ちてしまったら……どうなるの?」
神田は少しの間黙ったままミナミを見ていた。
視線はすぐに逸れ、代わりに蓮の花の装置へと向く。
そこに置かれた蓮の装置は、静かに淡い光を宿していた。
「……全部落ちたらどうなるか、だと?」
神田は低く言う。
「呪いは完全に固定される」
ミナミは目を瞬かせた。
「固定?」
「二度と戻らねぇってことだ」
神田は短く言い切る。
「今の姿のまま、一生な」
ミナミは少しだけ目を細めた。
それから静かに聞く。
「ユウは、元の姿に戻りたくないの?」
神田はすぐには答えなかった。
「……どうでもいい」
低く、投げるように言う。
「今さら戻ったところで、何も変わらねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、ミナミの表情が変わった。
さっきまでの余裕が消え、明らかに焦った顔になる。
「えっ……」
思わず声が漏れる。
「それは、困る」
神田が眉をひそめた。
ミナミは慌てたように言う。
「だってユウ、人間に戻らないと」
言いかけて、少し言葉を探す。
「その……」
それから、開き直ったように言う。
「私が困る」
神田が呆れたように息を吐く。
「……なんでお前が困るんだ」
ミナミは一瞬言葉に詰まり、泳ぐように視線を逸らした。
「だって……」
再び、おずおずと神田を見上げる。
だが、その鋭い眼光に耐えきれず、またすぐに視線を落とした。
みるみるうちに頬が林檎のように赤く染まっていく。
神田が怪訝そうに、その様子を見下ろした。
「……何だ。言いたいことがあるならはっきり言え」
ミナミは、包帯の巻かれた腕をもう一方の手でぎゅっと押さえ込み、意を決したように声を絞り出した。
「その姿のままじゃ……子作り、出来ないんだもの……っ!」
言いきった瞬間、ミナミの顔から火が出そうなほど熱が上がった。自分から言っておいて、耳の先まで真っ赤に染まっている。
神田は、石像のように固まった。
「…………」
数秒、重苦しい沈黙が部屋を支配する。
やがて、地底から響くような低い声が落ちた。
「……お前。一体、何の話をしてやがる」
ミナミは、込み上げる恥ずかしさを誤魔化すように乱暴に顔を背けた。
「だ、だって! 好きな人との子供が欲しいと思うのは、女として当然でしょ! だから困るのよ、その姿のままだと…」
神田の耳が、その好きな人という言葉に反応してぴくりと動いた。
呆れ果てたのか、あるいは動揺を隠しているのか。神田は大きな手で顔を覆い、ぼそりと、心底心配そうに呟いた。
「……お前、本当に……一度、頭の医者に診てもらってこい」
妙な沈黙が部屋に落ちる。
やがて、ミナミが小さく咳払いをして、その静寂を破った。
「……えっと」
さっきまでの勢いとは打って変わり、少し落ち着いた、だが真剣な声で切り出す。
「そもそも、なんだけど」
神田が、怪訝そうに目を向けた。
ミナミは静かに光る蓮の装置をちらりと見てから、もう一度神田の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「どうして、呪いなんてかけられたの?」
神田はすぐには答えなかった。視線がわずかに下がり、過去の記憶を辿るように彷徨う。
「……昔の話だ」
低く、突き放すような言い方だった。
ミナミは気にした風もなく、肩をすくめてみせる。
「聞きたいな。ユウのこと、もっと知っておきたいし」
神田は苦いものを噛み潰したような顔をした。
「面白い話じゃねぇぞ」
「いいよ。別に笑うつもりなんてないし」
ミナミのあっさりとした言葉に、神田はしばらく沈黙を守っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……女だ」
ミナミが、ぱちくりと瞬きをする。
「女?」
「ああ」
神田は視線を外したまま、忌々しげに言葉を継いだ。
「……俺が、振った」
ミナミの眉が、大きく跳ね上がる。
「え?」
「しつこかった。だから断った。それで終わりだと思っていたんだが……」
神田の視線が、恨めしげに蓮の装置へと向く。
「……次の日、あいつは魔女の姿で戻ってきやがった」
ミナミは、あまりの急展開に目を丸くした。
「えっ、魔女に……? っていうか、そんな簡単に?」
神田は自嘲気味に肩をすくめる。
「腹いせだとよ。自分を振った罰とか何とか抜かしやがって。それで、この姿だ」
緊迫していた部屋の空気が、あまりに理不尽な理由に少しだけ弛緩した。
ミナミは、開いた口が塞がらないといった様子で神田を見る。そして数秒後、真顔で言い放った。
「……それ、めちゃくちゃ理不尽じゃない?」
神田は鼻で笑った。
「全くだ。とんだ災難だろ」
ミナミは腕を組み、ふむ、と考え込む。
「でも。ユウ、なんでその子を振ったの?」
神田の眉がわずかに寄る。
「……興味がなかった。それだけだ」
短い、彼らしい答えだった。
ミナミは少しの間だけ沈黙した。
それから、何かに気づいたようににやりと確信に満ちた笑みを浮かべる。
「じゃあ、安心だわ」
神田が、心底怪訝そうに眉をひそめた。
「……何がだ」
ミナミは堂々と言い放つ。
「私、絶対に振られない気がする!」
神田は数秒間、言葉を失ってミナミを見つめていた。
呆れか、あるいはその無根拠な自信に圧倒されたのか。
やがて、低く、噛み締めるように言った。
「……お前、ほんとに図太いな」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわね!」
ミナミは、未来の勝利を確信したように、嬉しそうに笑った。
ミナミは腕を組んだまま少し考え、何かを閃いたように顔を上げた。
「じゃあさ」
「……何だ」
神田が怪訝そうに眉をひそめる。
ミナミはそれを無視して、ぱっと両手を広げた。
「ハグしよう!」
満面の笑みで言い放つ。神田の顔が、岩のように固まった。
「……は?」
「イチャイチャしてたら解けるかもしれないじゃない、呪い」
「意味が分からねぇ」
神田の眉間に深い皺が寄るが、ミナミはどこまでも真面目な顔で続ける。
「意味はあるよ。やってみなきゃ分からないじゃない」
「……チッ」
神田が舌打ちを漏らす。
ミナミが一歩近づくと、神田の視線は彼女の腕に巻かれた包帯へと落ちた。
「……お前、さっき怪我したばかりだろうが」
「平気平気。それより」
ミナミはもう一度、大きく両手を広げてみせた。
「ほら、ユウ。」
神田はしばらく動かなかった。理解不能な異生物を見るような目でミナミを見つめている。
「……お前、本気で頭がおかしいんじゃねぇのか」
「おかしくないよ」
ミナミは肩をすくめ、三度目の要求を口にする。
「ハグ」
沈黙が部屋を満たした。
神田はしばらく黙っていたが、やがて敗北を認めるように深く、長い息を吐いた。
「……一回だけだ」
ぼそりと、消え入りそうな声で言う。
「え?」
「一回だけだ、と言ったんだ」
不機嫌そうに繰り返す神田。ミナミの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。
「やった!」
ミナミは迷いなく、神田の胸へと飛び込んだ。
「……っ!」
神田の身体が、衝撃でびくりと強張る。
大きな腕は宙を彷徨い、置き場を失ったまま静止した。
ミナミは構わず、その逞しい身体をぎゅっと抱きしめる。
野獣の胸に顔を埋め、心地よさそうに呟いた。
「モフモフ……温かい」
神田は、何も言えなかった。
伝わる彼女の体温と、柔らかい感触。鼻を掠める彼女の香り。
毒気を抜かれた神田が、ようやく低く呟く。
「……離れろ」
その声には、もう先ほどまでの棘はほとんど残っていなかった。