Dグレ劇場美女と野獣
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〈Dグレ劇場美女と野獣〉
ここは野獣が住む城。
この城の主は静寂を好む。
足音ひとつ、反響するほどに。
だから今日も城は静まり返っているはずだった。
そんな静寂の城の扉を壊して入ってきたのは――
長身で鋭い眼差しの男。
巨大な鋸を携え、荒事を好む、ミナミ(ベル役)の父、腕利きのソカロ。
金になりそうな物を探すように、視線を巡らせる。
「……悪くねぇ城だな」
手近にあった金の燭台(ラビ)を掴み上げる。
「ぐへへ」
(ゲー、それ俺!やめてー!)
ソカロがそれを懐に入れようとしたその時――
城の中央階段の上から、ゆっくりと足音が降りてきた。
「……それをどうする気だ」
この城の主、神田だ。
「あん?」
燭台を肩に担いだまま、ソカロが階段上の影を睨み上げる。
「なんだ、お前は」
階段の中腹で、野獣が足を止める。
「“なんだお前は”……てか?」
ゆっくりとマントが翻る。
ばさり、と無駄に大きな動きで脱ぎ捨てる。
「そうです、俺が――」
一拍。
「変な野獣で――」
ぴたり、と止まる。
神田のこめかみに青筋が浮いた。
「……何言わせんだゴラァ!!」
怒号が城に反響する。
(自分で自分に突っ込んでやがらあ!!)
と燭台のラビ
(威厳を保ってください!)
と、時計のリンク。
ソカロは一瞬だけぽかんとし、それから口元を歪めた。
「……面白い」
次の瞬間、鋸が閃く。
神田も同時に刀の柄を握った。
次の瞬間、鋸が唸った。
ギャリィィン!!
火花が散る。
神田の六幻が、鋸の歯を真正面から受け止めた。
衝撃で階段の石が砕ける。
ソカロが笑う。
「受け止めるか」
神田の瞳が細くなる。
「振り回してるだけの玩具と一緒にするな」
鋸が横薙ぎに振り抜かれる。
神田は半歩でかわし、六幻の柄でソカロの懐を打つ。
鈍い音。
ソカロ、後退。
だが倒れない。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ」
「帰れ!」
そして二人が同時に踏み込む。
衝撃波で、壁の装飾が砕け散った。
城の一部が崩れる。
「……チッ」
ソカロは鋸を振り下ろそうと構えた。
その瞬間――
「たのもーーーーー!!」
バァン!!
城の大扉が勢いよく開いた。
静寂、粉砕。
神田とソカロ、同時に視線を向ける。
そこに立っていたのは――
「お父さん!!また他人の家で何してるの!?」
ベル役のミナミだった。
ソカロ、露骨に顔をしかめる。
「……チッ。興が削がれた」
鋸を肩に担ぎ、戦闘姿勢を崩す。
神田も、鋭い眼光がふっと緩む。
だが眉間の皺は消えない。
ミナミはズカズカと城の中央まで進む。
「ちょっと聞いてるの!?また壊したでしょ!?謝りなさい!」
ソカロは無視。
神田、他人の家庭事情を眺める顔。
(……何だこの茶番は)
「おい、野獣」
呼ばれた瞬間、神田の目がぴくりと大きくなる。
「こいつを修理費にしろ」
がし、とミナミの首根っこを猫のように掴む。
「俺の娘だ。煮るなり焼くなり二宮〇也……」
ソカロ…。一瞬、自分でも何を言いかけたのか分からなくなった顔をする。
「……じゃねえ」
軽く舌打ち。
「煮るなり焼くなり、いきなり雷でも何でも好きにしろ」
城が静まる。
「何だその選択肢は」
神田の低い声が落ちる。
「いきなり雷って何!?意味わかんないんだけど!?」
ミナミが抗議するが、ソカロはもう聞いていない。
そのまま神田の胸元へ押し付ける。
手を離す。
ミナミの身体が落ちる。
反射だった。
神田は考えるより先に腕を伸ばしていた。
軽い。
思ったより、ずっと。
両腕の中にすっぽり収まったまま、ミナミが固まる。
神田はギロリとミナミ見下ろした。
ソカロはもう背を向けている。
「達者でな」
「ま、待ってお父さ――!」
その声は城の外へ消えた。
神田の腕の中で、ミナミが恐る恐る見上げる。
階段の下から燭台が揺れた。
時計がカチ、と鳴る。
『若い女だ!』
ピアノが唐突に華やかな和音を鳴らす。
『若い女だーーー!!』
城の備品たちが、わらわらと集まってくる。
神田はしばし、腕の中に収まったミナミを無言で見下ろしていた。
鋭利な刃物を彷彿とさせる、冷たく、射貫くような眼差し。
瞬きひとつせず、獲物の息の根を止めるかのような沈黙に、ミナミは石像のように固まることしかできない。
「……お、降ろしてもらっていいですか」
消え入るようなミナミの問いに、返事はない。
その代わり、凍りついていた城の空気が、ミナミという異分子の体温に反応して一斉にざわめき出した。
燭台がガタガタと小刻みに震え、火を灯し、
「女だー!!」
と、何度も叫ぶ。
大きな古時計が、狂ったような速度で針を回しながら鐘を鳴らした。
「客人です! 待ちに待った保護対象です!」
さらに、ホコリを被っていたはずのグランドピアノが、勝手に鍵盤を躍らせてやたらと陽気で明るい旋律を奏で始める。
静寂を愛する主、神田は、耐えかねたようにゆっくりと眉間の皺を深く刻んだ。
「……うるせぇ」
地這うような低音の威嚇。
その隙を突き、ミナミはようやく腕の中でもがき、彼を押し返した。
「ちょっと! さっきから勝手に修理費って何!? 私は物じゃないんだけど、放して!」
神田はそこでようやく、疎ましそうにミナミを床に降ろす。
だが、解放されたと思ったのも束の間。彼は逃げ道を塞ぐように一歩前に踏み出し、その大きな身体でミナミに巨大な影を落とした。
「帰るなら今のうちだ」
突き放すような冷たい声。
けれど、その言葉が終わる前に、城の備品たちが物理的にミナミの周囲を取り囲む。
「だめさー! 行かせちゃだめだ!」
「城の未来が、僕たちの命がかかってるんだ!」
「呪いを解く、唯一のチャンスなのに!」
喧騒の中、神田は苛立ちを隠さず、派手に舌打ちをした。
「……面倒なことになった」
ミナミは唖然として、きょろきょろと城内を見渡す。
崩れ落ちた壁、天高く伸びる巨大な螺旋階段。あまりにも異様な備品たちと、それ以上に異様な——圧倒的な存在感を放つ主。
「……ここ、一体なんなの?」
呆然と呟くミナミから、神田はふいと視線を逸らした。
風になびく長い黒髪が、月光を浴びて妖しく光る。
「俺の城だ」
拒絶と、諦念。
それだけを言い捨てて、神田は暗い廊下の奥へと踵を返した。
神田の姿が階段の闇へと消えた瞬間、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
燭台のラビがぱあっと明るい火花を散らし、ミナミの足元を照らす。
「客人を立たせたままにするなんて、紳士の端くれとして失格さー!」
「カチ、カチ……! 早く、早く! 客人を立たせたままにするのは非効率の極みです!」
時計のリンクが焦れったそうに歯車を鳴らし、ティーポットのリナリーとカップのアレンが、まるでダンスを踊るような足取りでミナミを先導する。
ピアノのマリは、震える巨体を揺らして、部屋の隅からやたらと華麗で勇壮なファンファーレを響かせた。
ミナミは眩暈を覚えるような心地で、豪華絢爛なダイニングへと押し込まれる。
高い天井に反響する喧騒。
自分の意志とは無関係に引き出される豪奢な椅子。
「え、ちょ、ちょっと待って。状況が追いつかない……」
呆然と立ち尽くす彼女の周囲で、備品たちが一斉に囁き始めた。
「お砂糖はいかが?」「甘いのはお好きですか?」「落ち着いてください、ここは安全……一応は、ですが」
矢継ぎ早に降り注ぐ言葉の嵐に、ミナミは堪らずテーブルを叩いた。
「待って待って待って!」
ぴたり、と世界が止まる。
リナリーの注ぐお茶の音さえも消えた沈黙の中、ミナミは目の前の物たちを凝視した。
「まず聞きたいんだけど……あの獣、何?」
その問いが投げられた瞬間、ラビの火が、幽霊のように小さく揺らいだ。
沈黙は数秒、けれど永遠のように長く感じられた。
「……主さー」
「この城を統べる、神田様です」
「昔は……あの方も、人間だったのですよ」
「昔は?」
ミナミの眉間に深い皺が寄る。その不穏な響きを、リナリーが重苦しく受け継いだ。
「呪いなの」
その一言で、ダイニングの空気が急速に温度を下げた。
「呪い……? 呪いって、何のこと?」
「……詳しくは、申し上げられません。我々には厳しい条件があるのです。最後の花びらが、散るまでに……」
ピアノのマリが、心臓を抉るような短調の一音を、ぽろんと落とした。
ミナミは信じられないものを見る目で、一斉に視線を逸らした家具たちを見渡す。
「いやいやいや、待って。呪い? 花びら? ……っていうか!」
バン! と再びテーブルを叩く音が響く。
「なんであなた達、喋ってるの!?」
その瞬間、ダイニングは気まずい沈黙に支配された。
「……そこからですか!?」とアレンがカタカタと震え、「説明には一昼夜かかるさー」とラビが炎を丸める。
「端的に申し上げれば、巻き添えを食ったということです」とリンクがチクタクと嘆く。
ミナミはこめかみを押さえ、頭を抱えた。
「何なの、この城……」
その時。
遠く、果てしなく続く廊下の奥から、重苦しい衝撃が伝わってきた。
足音だ。
ゆっくりと、けれど獲物を確実に追い詰めるような、不遜な律動。
全員が、息を止めた。
ラビの火が消え入りそうなほどに細くなり、マリの鍵盤が音もなく凍りつく。
「……主だわ」
リナリーの囁きは、もはや恐怖に近い敬意を孕んでいた。
ダイニングの豪華な扉の向こうに、月光を遮る巨大な影が、じわり、じわりと伸びてくる。
扉の影に、神田がいた。
腕を組み、壁にもたれかかって、面倒な物を見る目でこっちを見ている。
「……何故、ここにいる」
地を這うような低い声。普通ならビビるところだけど、ミナミは一歩も引かない。
「なぜって――」
「まあまあ! そんなカッカすんなって。可愛い客人を立たせとくのは失礼だろ?」
横からラビが調子よく口を挟む。その瞬間、神田の眉がぴくりと動いた。
「黙れ。……叩き折って燃やすぞ」
「もう燃えてますけどね……」
アレンがぼそっと呟く。
「シッ! 余計なこと言わないで!」
リナリーが慌てて止めるけど、もう遅い。神田の手は、すでに腰の六幻に伸びていた。
「……今日こそは、全員まとめて叩っ斬ってやる」
その瞬間。
ガタン! と椅子が鳴った。ミナミが勢いよく立ち上がった音だ。
ミナミはアレンたちの前に両腕を広げて立ちはだかった。
神田を睨みつける。
「やめて!」
神田の目が、冷たく細くなる。
「この人たちは何もしてないじゃない! 勝手に怒って、八つ当たりしないでよ!」
静かな、でも確かな怒気がダイニングに漂う。
けれど、神田は鼻で笑って言い放った。
「……引っ込んでろ、ブス」
ミナミの顔が、一瞬で固まる。
「ぶ、……ブス!?」
「お前のことだよ。他に誰がいる」
「お前じゃなくて、ミナミ! それに、私はブスじゃないわよ!」
「ハッ。どのツラ下げて美女のフリしてやがる。……鏡見てから出直してこい」
「ムキーーー!!」
理性がぶち切れたミナミは、そのまま素手で神田に突っ込んだ。
が――。
神田の手が、すっと伸びる。
一瞬だった。
あっさりと手首を掴まれ、逃げ場を塞がれる。
ミナミの手首を掴んだまま、神田は乱暴に腕を引き上げた。
逃がさない。
抗わせない。
その意志だけが、指先から伝わる。
同時に神田自身も腰を深く屈める。
ぐっと距離が詰まり、ミナミの鼻先すれすれまで顔が迫った。
口を開けば吐息が混じるほどの至近距離。
「お前……修理費のくせに、何してやがる」
低い声。
感情を削ぎ落とした、冷たい響き。
「望み通り――売り飛ばしてやろうか?」
射抜くような視線が、至近距離から叩きつけられる。
その圧に、ミナミの喉が小さく鳴った。
次の瞬間。
パッ、と。
まるで触れていたこと自体を拒むように、神田の手が離れた。
「の、望んでないし……っ!」
ミナミは慌てて解放された手首をもう片方の手で抱え込む。
守るように、強く。
白い肌には、くっきりと残っていた。
神田の指の形。
野獣の力を物語るような、赤い痕が。
神田はミナミを一瞥もすることなく、長いテーブルの端、いつもの主の席へとスタスタ歩み寄り、不機嫌そうにドカッと座った。
その場に漂うのは、有無を言わせぬ王の威圧感。
神田は、呆然と固まっている備品たちを一睨みして低く言い放つ。
「……何してる」
それは早く用意しろ。もたもたするな。という意味だ。
その一言で、弾かれたようにラビたちが動き出した。
「はいはい! 今行くさー!」
「料理、急いで運びます!」
カチカチ、カタカタと、ダイニングは一転して戦場のような忙しさに包まれる。
だが、一人だけ、その場に取り残されたように立ち尽くしている者がいた。
赤くなった手首をさすりながら、唇をへの字に結んで神田を睨みつけるミナミだ。
神田は、自分の正面で動かないミナミに、視線を向けずにラビたちへ向けた言葉と同じことを言った。。
「……何してる」
これは、さっさと座れ。という意味だ。
短く、突き放すような言葉。
けれど、そこには「一人で食うのは癪だ」と言いたげな、彼なりの不器用な命令が混ざっていた。
ミナミは悔しそうに眉を寄せたまま、ガタガタと音を立てて椅子を引き、神田の正面にどかっと腰を下ろした。
料理が運ばれてきて、銀の蓋が次々と外されるたび、芳醇な香りがダイニングの重苦しい空気を塗り替えていく。
湯気を立てる肉料理、香ばしいパン、鮮やかな色彩の温野菜。
その豪奢な一皿は、当然のようにミナミの前にも供えられた。
ラビが恭しくワインを注ぎ、揺れる赤い液体がグラスを満たしていく。
神田は、一度としてミナミを見ようとはしない。
無駄のない所作でナイフを手に取り、静かに、けれどどこか荒々しく肉を切り分ける。
ミナミはその顔をじっと盗み見た。
野獣。この城の忌むべき主。
確かに恐ろしい。さっき掴まれた手首には、まだジンジンとした痺れが残っている。
なのに、この矛盾した行動──。
出て行って欲しいのかそうでないのか。
「……私が、ここに居るの嫌なくせに」
ワイングラスの冷たさを指先に感じながら、ミナミは消え入りそうな声で呟いた。
だが、返ってきたのは的外れな答えだった。
「毒は入っていない。……さっさと食え」
「そういうこと、聞いてるんじゃないんだけど」
ミナミの眉がぴくりと跳ねる。神田はそれ以上の言葉を継がず、ただ黙々と肉を口へ運んだ。
完璧な無視。
ミナミはむっと唇を尖らせ、抗議するようにワインを一口、含んだ。
その瞬間、瞳がぱっと見開かれる。
「……おいしい」
不本意ながらも、その味の虜になった瞬間。
ミナミの顔から、それまでの不機嫌さが嘘のように霧散した。
唇がふわりと弧を描き、花が綻ぶような、とびきりの笑顔。
それは、呪われた城の薄暗いダイニングを一瞬で照らし出すほど、眩しく、無防備な輝きを放っていた。
同時に、神田のナイフを動かす手が、ほんの一瞬だけ、止まる。
視線は皿に落としたままだ。
だが、その口元が――誰にも気づかれぬほど僅かに、柔らかな弧を描いた。
「……お前を高く売るためだ」
平然と言い放ったその声に、ミナミが顔を上げる。
「は?」
「痩せ細った商品は値が落ちる。血色が良く、状態がいい方が高く売れる。……だから食え」
ナイフを置き、グラスを傾ける仕草はどこまでも淡々としていた。
だが、その場にいる備品たちは皆、心の中で一斉にツッコんでいた。
(ユウ、それ絶対違うさー……)
(言い訳が下手すぎ…)
ミナミは神田の横顔をじっと見つめ、少しだけ、むくれたように吐き捨てた。
「……最低」
「そうか」
神田は短く肩をすくめる。
けれど、グラスを置いたその瞳は、さっきよりもほんの少しだけ、熱を帯びて和らいでいた。
しばらくの沈黙。
広いダイニングには、カトラリーが皿に触れる硬質な音だけが規則的に響いていた。
ミナミは次に、彩り豊かなサラダを一口、慎重に口に運んだ。
「……あ、これもおいしい」
その、純粋無垢な眩しい笑顔が、神田の網膜に焼き付いた。
ガタン。
椅子が乱暴に鳴り、神田が弾かれたように立ち上がった。
その唐突な動きに、備品たちが凍りつく。ラビの火はぴたりと凝固し、リンクの針さえも拍動を止めた。
神田は、ミナミの方を見ることなく、一言だけ鋭く落とした。
「……食ってろ」
それだけ。
彼は振り返ることもせず、大股でダイニングを後にする。
揺れる長い黒髪が、背後で閉まった重厚な扉に吸い込まれて消えた。
……再び、静寂。
やがて、その沈黙を破ったのはラビのぽそりとした呟きだった。
「……逃げたさ」
時計のリンクが、肯定するようにカチリと鳴る。
「逃げましたね。間違いなく」
ティーポットのリナリーも、困ったように、けれどどこか楽しげに小声で頷いた。
「……逃げたわね。神田」
ミナミは、フォークを持ったままぽかんとして、閉ざされた扉を凝視していた。
「……逃げた? なんで? 私、何か変なこと言った?」
ラビがやれやれと肩(のような台座)をすくめる。
「ユウはああいう男さー。余裕がなくなるとすぐこれだ」
「余裕がないって……どういうこと?」
リナリーがクスリと笑って、ミナミの手元にお茶を注ぎ足した。
「ミナミのことが、可愛かったのよ。今の『おいしい』がね」
「かっ、可愛い!? ……いや、ありえないでしょ! だって、さっき思いっきりブスって言われたんだけど!?」
ミナミの叫びが、主のいなくなったダイニングに虚しく反響した。
野獣が去ったあとのダイニング。
主が放った殺伐とした空気はどこへやら、そこには信じられない光景が広がっていた。
もぐもぐ。
「……」
もぐもぐ。
「……全部食べてるさ」
ラビが驚きを通り越して感心したように呟く。
テーブルの上、ミナミの前の皿は、もはや洗う必要がないほどきれいに空になっていた。彼女は最後の一切れのパンで、皿に残ったソースを丁寧に、そして完璧に拭い取っている。
「だって勿体ないじゃない。……残したら失礼だし」
当然と言わんばかりのミナミの言葉に、アレンが目を丸くする。
「すごいですね……あんなに言われて、よく喉を通りますね」
「合理的判断です。空腹は生存の敵ですから」
リンクもチクタクと肯定の音を鳴らした。
最後の一口を飲み込み、満足そうに息を吐く。
「ごちそうさま!」
その瞬間、ミナミの眩しい笑顔に呼応するように、ラビの火がパッと明るく爆ぜた。
「よーし! それじゃ、次は城の案内をさせてもらうさ!」
椅子から立ち上がったミナミは首をかしげる。
「城? 帰してはくれないの?」
「……まあ、それは置いといて。主の城を知らないままじゃ、話にならないからな!」
ラビに先導され、ミナミはしぶしぶ廊下へ出た。
高い天井、どこまでも続く長い回廊。壁には歴代の肖像画が並んでいるが、一枚の絵の前でミナミの足が止まった。
「……これ、誰?」
その絵は悲惨だった。
キャンバスは鋭利な刃物でズタズタに切り裂かれ、何度も叩きつけられたようにボロボロになっている。かろうじて残った黒い髪の端から、主だったろうとは推測できるが、顔の部分は完全に破壊されていた。
「……全然、顔がわかんない」
ミナミの呟きが響いた瞬間。
備品たちの動きが、ぴたりと止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
ラビの火が激しく跳ねる。
「……待つさ。今、最高のものを見せてやるからな!」
次の瞬間。
ドタドタドタドタ!!
備品たちが、ものすごい勢いで廊下の奥へと走り去っていく。
「え!? ちょっと、置いてかないでよ!」
ミナミは一人、不気味な廊下に取り残された。
数分後。
再び、ドタドタドタドタ!!と凄まじい足音が戻ってくる。
「せーの!」
「そっち持って!」
「角、ぶつけるな!」
「静かに!」
現れたのは、巨大な肖像画を「わっしょい!」と神輿のように担ぎ上げた備品たちの集団だった。
「うおらぁぁぁ、持ち上げろぉぉ!!」
ドン!!
凄まじい重量感とともに、一枚の絵がミナミの目の前に立てかけられる。
そこに描かれていたのは――。
濡れたような長い黒髪。
一度射貫かれたら動けなくなるような、鋭く涼やかな瞳。
少し不機嫌そうに結ばれた唇。
そして、それら全てを完璧に調和させる、圧倒的な美貌の青年だった。
ミナミは目を見開いたまま固まる。
「……誰、これ」
「ユウさ」
ラビが誇らしげに胸(台座)を張る。
「主さー。呪いがかかる前の、本当の姿」
ミナミは絵を見る。
さっきの荒々しい野獣を思い出す。
もう一度、絵を見る。
「……え???」
「信じられないさー?」
「……信じられない。別人だわ」
リンクが慌てて針を震わせる。
「これがあることは主には絶対の秘密事項です! 見つかれば我々、確実に塵にされます……!」
「本当ですよ……僕たち、命がけで隠してきたんですから」
アレンも小声で訴えるが、ミナミの耳には届いていない。
ミナミはもう一度、穴が開くほど絵を見つめ、ぽつりと本音を漏らした。
「……すごいイケメンだわ」
「だろ?」
ラビがニヤリと火を揺らす。
ミナミは腕を組み、真剣な顔で肖像画を精査し始めた。
「なんでこれが、あんな毛むくじゃらの不機嫌男になるのよ」
「それが呪いさ。……そして、その呪いを解く方法はたった一つ」
ラビの火が、少しだけ真剣な色を帯びる。
「真実の愛を見つけること。……それが出来るのは、ミナミ、あんただけなんだ」
「ごめん。具体的に、何をすればいいの?」
ラビは一呼吸置き、声を潜めて言った。
「……ミナミがユウに、愛のキスをすればいい」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
ガシッ!!
「……乗った」
「早ッ!?」
凄まじい握力でラビを掴み上げたミナミの目は、これまでになく据わっていた。
彼女は肖像画を再び見つめ、力強く宣言する。
「この顔に戻るなら、全然いける。むしろ頑張る」
「目的そこなんですか!? 」
アレンの声が、静かな城内に虚しく響き渡った。
「よし、そうと決まったら――」
ミナミは躊躇なく、その場でくるりと踵を返した。
「野獣はどこ?」
一点の曇りもない真っ直ぐな問いに、備品たちが一斉に硬直する。
時計のリンクが、心臓の鼓動を刻むような不穏な音をカチリと鳴らした。
「おそらく……自室、かと」
「案内して」
食い気味の即答。
ラビの火が、驚愕でぶわっと爆ぜるように揺れた。
「いやいやいやいや! それはダメさー! 正気の沙汰じゃないさ!」
「そうですよ! バ神田の部屋は絶対立入禁止です!」
アレンが割れんばかりの音を立ててぴょんぴょんと跳ね、リナリーも必死の形相で詰め寄る。
「ミナミ、あそこは絶対に入っちゃいけない場所なの。神田の聖域であり、檻なのよ!」
ミナミは面倒そうに眉をひそめた。
「なんで?」
「それは……」
リンクが悲鳴のような歯車音を響かせ、三方向から一斉に制止の声が飛ぶ。
「規則です!」
「主命です!」
「禁忌です!」
鉄壁の守り。だが、ミナミの耳には一文字も届いていない。
「自室ね」
独り言のように呟き、くるりと廊下の先を見渡した。
「どっち?」
「待つさ! 本当に、本当にダメさー!」
ラビを筆頭に、備品たちがわらわらとミナミの前へ回り込み、物理的に道を塞ぐ。
その必死すぎる様子を見て、ミナミは大きなため息を吐いた。
「ちょっと、邪魔」
「いやいやいや! 待つさ、落ち着くさ!」
「あなた達、チョロチョロしないで!」
ミナミはもはや障害物競走のハードルのように、ラビたちを器用に跨ぎ、ずんずんと突き進んでいく。
背後からは、絶望に満ちた備品たちの悲鳴が追いすがった。
「本当にダメさ!」
「神田が怒ります!」
「確実に燃やされますよ!」
「一刀両断されるわよ!」
阿鼻叫喚の喧騒を背に、ミナミは振り返りもせず言い放った。
「大丈夫。ちょっとキスするだけだから」
「「「軽いな!!」」」
備品たちのツッコミが廊下にこだまする中、ミナミは突き当たりの大きな扉の前で足を止めた。
重厚な木目。冷たい鉄の装飾。
扉の隙間からは、凍てつくような銀の月光が細く漏れている。
リンクの針が、恐怖で目に見えて震えだした。
「……そこ、です」
「……最後、の警告さ」
ラビの火が、消え入りそうなほど小さく揺れる。
ミナミは迷うことなくドアノブに手をかけた。
「呪い…解きたいんでしょ?」
「でも……ダメさ」
「ふーん」
ミナミの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
そして――。
ギィィ……と、禁断の境界を押し開いた。
主の私室は、冷え切った空気が張り詰めている。
高い窓から差し込む青白い月光が、乱雑に置かれた武具や、壁に掛けられたままの漆黒の衣を青く照らし出していた。
部屋の奥。
大きな寝台に背を預け、一人で酒瓶を傾けていた神田が、弾かれたように顔を上げた。
「……何の真似だ」
地を這うような低い声。その瞳は、暗闇の中で鋭く光っている。
「入るなとラビたちに聞かなかったのか。命が惜しくねぇのか」
ゆっくりと神田が立ち上がる。その巨大な影が、ミナミを飲み込むように壁に長く伸びた。
普通の人間なら、その圧倒的な圧に腰を抜かして逃げ出すところだ。
だが、今のミナミは違う。
脳内には、さっき見たイケメン肖像画が鮮やかに再生されている。
「命? 惜しいに決まってるじゃない」
ミナミは一歩、また一歩と、神田の間合いに土足で踏み込んでいく。
神田の眉間に、深い皺が刻まれた。
「……なら、さっさと失せろ」
「嫌よ。用があるんだもん」
神田のすぐ目の前で、ミナミはぴたりと足を止めた。
見上げる形にはなるが、その視線は神田の唇に釘付けだ。
神田が、不審そうに、そしてわずかに気圧されたように目を細める。
「……あ?お前 どこを見て――」
「あなた、聞いたわよ」
ミナミの凛とした声に、神田の瞳がわずかに見開かれた。
ミナミは畳みかけるように、一切の悪びれもなく言い放つ。
「呪いのこと。ラビたちに」
「……チッ」
「私が、解いてあげるわ」
次の瞬間。
ガシッ!!
ミナミが、野獣の胸ぐらを両手で力任せに掴み上げた。
「おい――」
神田が言葉を発するより早く、その身体を強引に引き寄せる。
鼻先が触れ合うほどの距離。
そして。
――ちゅっ。
一瞬の、けれど確かなキス。
部屋は、墓場のような静寂に包まれた。
扉の陰で覗いていた備品たちは、もはや呼吸することさえ忘れている。
ラビの火は静止し、リンクの針は止まり、アレンのカップは硬直した。元々硬いけど。
神田自身もまた、石像のように固まっていた。
あまりにも、予想外。あまりにも、直球。
数秒の永い沈黙の後。
ミナミが満足げに唇を離し、真顔で問いかけた。
「……どう?」
神田の醜い顔が、怒りと困惑でゆっくりと歪んでいく。
「……何をしてやがる」
地底から響くような、極限まで低い声。
だが、ミナミは涼しい顔で腕を組んだ。
「キス」
「それは分かる。そうじゃねぇ……」
神田のこめかみに、どす黒い青筋が浮き上がる。
「誰が……許可した」
「だって、呪い解きたいんでしょ?」
ミナミのあまりに正当な主張に、背後で備品たちが小声でざわめき出した。
「いや、そうなんだけどさー……」
「こんな真正面から突っ込んでいくとは……」
神田は数秒間、天を仰いで固まっていた。
そして、肺の中の空気をすべて吐き出すような、深い、深いため息を一つ。
「……出ていけ」
「やだ」
ミナミの即答に、神田の眉間の皺が、もはや修復不可能なレベルまで深くなった。
「……いい加減にしろ」
地を這うような低音。それは怒鳴り声よりも恐ろしく、本気で堪忍袋の緒が切れた男の冷徹な響きだった。
神田の大きな手が、有無を言わせぬ速さで伸びる。
がしっとミナミの細い腕を、まるで壊れ物を扱う気などさらさらないと言わんばかりの強さで掴み、強引に引き寄せた。
「いたっ――離して――」
抵抗の言葉を紡ぐ隙さえ与えない。神田はそのまま、子供でも扱うかのようにミナミの身体の向きを軽々と変え、大股で扉へと踏み出した。
勢いよく扉が開け放たれる。
「うわっ!」
次の瞬間。
ポイッ。
ゴミ箱に不要なものを放り込むような、あまりにも雑な手つきで、ミナミは廊下へと放り出された。扉の陰で様子を伺っていた備品たちも、そのとばっちりを受けて、まとめて外へと転がり出る。
バタン!!
鼓膜が震えるほどの衝撃とともに、扉が乱暴に閉められた。
そこから漏れ聞こえるのは、重苦しい施錠の音。
廊下に残されたのは、嵐が去った後のような、しん……とした不気味なほどの沈黙。
ミナミと、転がったティーカップや燭台たちが、呆然としたまま閉ざされた扉を見つめるしかなかった。
ミナミは腕を組み、納得がいかない様子で首をひねった。
「……うーん」
その唸り声に、備品たちが恐る恐る顔を見合わせる。ミナミはくるりと振り返ると、じーっと彼らを凝視した。
「呪い、解けないんだけど? 」
あまりに直球なダメ出しに、ラビの火が気まずそうにゆらりと揺れる。
「えーー……。それは、その……」
「そ、それはですね……根本的な問題といいますか」
リンクの針が落ち着きなくカチカチと空転し、アレンが意を決したように、ひどく言いにくそうに口を開いた。
「たぶん……」
全員の視線が、主が閉じこもったままの、固く閉ざされた扉へと向けられる。
ラビが頭をかきながら、観念したように言った。
「いいか、ミナミ。真実の愛のキスってやつはさ、ただ物理的に唇を合わせればいいってもんじゃないんだぜ」
ミナミが不満げに眉をひそめる。
「どういうことよ。契約成立でしょ?」
「主様だけが想っていても、呪いは解けません」
リンクが静かに、事実を突きつける。
「逆もまた然り。片方だけが熱を上げている状態では、魔法は成立しないのです」
リナリーがそっと寄り添うように続けた。
「つまり……。両想いにならない限り、呪いは解けないの」
一瞬、廊下に沈黙が降りた。
ミナミは数秒、ぽかんとした顔で立ち尽くしていたが、やがて妙に納得した顔で力強く頷いた。
「……ああ。なるほどね」
再び腕を組み、今度は何かの戦術を練るような真剣な眼差しになる。
そして、ぱん! と勢いよく手を打った。
「じゃあ、惚れさせればいいのね」
その言葉に、備品たちが一斉に顔を跳ね上げる。
「え?」
「簡単じゃない。向こうが私に惚れて、私も向こうに惚れればいいんでしょ? 要は、攻略対象にすればいいのよ」
ミナミがさらっと、とんでもないことを言い出した。
ラビの火が恐怖でぶるっと震える。
「……言うのは簡単さー。相手が誰だか分かってるか?」
「神田は……その……」
リンクの言葉を継いで、アレンが地獄の底から響くような声でぼそっと付け加えた。
「……世界で一番、恋愛に向いてない絶望的な男ですよ」
再びの沈黙。
だが、ミナミは腕を組んだまま、神田の部屋の扉を不敵に見据えた。
そして、その口元がにやりと、挑戦的な弧を描く。
「面白そうじゃない。落とし甲斐があるわ」
「「「ええええええええ!?」」」
廊下に、備品たちの絶叫がこだました。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
翌朝。
城の廊下には、昨日までの怯える生贄の気配など微塵もなかった。いえ、もともと無かった。
ミナミは鏡の前で身なりを整え(※肖像画のイケメン度を脳内で反芻しながら)、ふんふんと鼻歌まじりに神田がいるであろうダイニングへと向かった。
扉を勢いよく開ける。
そこには、昨夜の奇襲に相当参っているのか、いつにも増して殺気を放ちながら蕎麦を啜っている神田がいた。
「おはよう、ユウ!」
「……っ、ゲホッ!!」
神田がむせた。
リナリーが慌ててお茶を運び、アレンとラビが物陰から「あいつ、マジで行きやがった……」と戦慄の眼差しで見守る。
神田は口元を拭うと、鬼のような形相でミナミを睨み据えた。
「……誰が名前を呼んでいいと言った。それと、そのニヤついたツラを今すぐ引っ込めろ」
「えー? 挨拶は基本でしょ? それよりユウ、今日の髪型も素敵ね。結び目がセクシー」
「…………は?」
神田の動きが、完全に止まった。
これまで化け物だの人殺しだのと忌み嫌われてきた彼は、人生で一度も、ましてやこの野獣の姿でセクシーなどという単語をぶつけられたことがなかった。
「お前、……頭でも沸いたのか。昨日の衝撃で脳みそが腐ったか」
「失礼ね。私は本気よ? あ、その蕎麦、一口ちょうだい」
「断る。去れ」
「もう…そういうツンケンしてるところも、……嫌いじゃないわよ?」
ミナミが至近距離まで詰め寄り、肖像画の面影を探すようにその瞳を覗き込む。
神田は、向けられた真っ直ぐな視線と、微かに漂う彼女の香りに、思わず椅子を引いて後退った。
「寄るな、ブス! 蕎麦が不味くなる!」
「ふふ、照れちゃって」
「照れてねぇ!!」
神田の怒声が城内に反響する。
しかし、ミナミには見えていた。
野獣は毛に覆われてはいるが、その耳の先が、昨夜のキスよりもずっと真っ赤に染まっているのを。
(思ったより、面白い男かもしれない)
ミナミの心の中で、攻略完了へのカウントダウンが静かに、けれど力強く刻まれ始めた。
ここは野獣が住む城。
この城の主は静寂を好む。
足音ひとつ、反響するほどに。
だから今日も城は静まり返っているはずだった。
そんな静寂の城の扉を壊して入ってきたのは――
長身で鋭い眼差しの男。
巨大な鋸を携え、荒事を好む、ミナミ(ベル役)の父、腕利きのソカロ。
金になりそうな物を探すように、視線を巡らせる。
「……悪くねぇ城だな」
手近にあった金の燭台(ラビ)を掴み上げる。
「ぐへへ」
(ゲー、それ俺!やめてー!)
ソカロがそれを懐に入れようとしたその時――
城の中央階段の上から、ゆっくりと足音が降りてきた。
「……それをどうする気だ」
この城の主、神田だ。
「あん?」
燭台を肩に担いだまま、ソカロが階段上の影を睨み上げる。
「なんだ、お前は」
階段の中腹で、野獣が足を止める。
「“なんだお前は”……てか?」
ゆっくりとマントが翻る。
ばさり、と無駄に大きな動きで脱ぎ捨てる。
「そうです、俺が――」
一拍。
「変な野獣で――」
ぴたり、と止まる。
神田のこめかみに青筋が浮いた。
「……何言わせんだゴラァ!!」
怒号が城に反響する。
(自分で自分に突っ込んでやがらあ!!)
と燭台のラビ
(威厳を保ってください!)
と、時計のリンク。
ソカロは一瞬だけぽかんとし、それから口元を歪めた。
「……面白い」
次の瞬間、鋸が閃く。
神田も同時に刀の柄を握った。
次の瞬間、鋸が唸った。
ギャリィィン!!
火花が散る。
神田の六幻が、鋸の歯を真正面から受け止めた。
衝撃で階段の石が砕ける。
ソカロが笑う。
「受け止めるか」
神田の瞳が細くなる。
「振り回してるだけの玩具と一緒にするな」
鋸が横薙ぎに振り抜かれる。
神田は半歩でかわし、六幻の柄でソカロの懐を打つ。
鈍い音。
ソカロ、後退。
だが倒れない。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ」
「帰れ!」
そして二人が同時に踏み込む。
衝撃波で、壁の装飾が砕け散った。
城の一部が崩れる。
「……チッ」
ソカロは鋸を振り下ろそうと構えた。
その瞬間――
「たのもーーーーー!!」
バァン!!
城の大扉が勢いよく開いた。
静寂、粉砕。
神田とソカロ、同時に視線を向ける。
そこに立っていたのは――
「お父さん!!また他人の家で何してるの!?」
ベル役のミナミだった。
ソカロ、露骨に顔をしかめる。
「……チッ。興が削がれた」
鋸を肩に担ぎ、戦闘姿勢を崩す。
神田も、鋭い眼光がふっと緩む。
だが眉間の皺は消えない。
ミナミはズカズカと城の中央まで進む。
「ちょっと聞いてるの!?また壊したでしょ!?謝りなさい!」
ソカロは無視。
神田、他人の家庭事情を眺める顔。
(……何だこの茶番は)
「おい、野獣」
呼ばれた瞬間、神田の目がぴくりと大きくなる。
「こいつを修理費にしろ」
がし、とミナミの首根っこを猫のように掴む。
「俺の娘だ。煮るなり焼くなり二宮〇也……」
ソカロ…。一瞬、自分でも何を言いかけたのか分からなくなった顔をする。
「……じゃねえ」
軽く舌打ち。
「煮るなり焼くなり、いきなり雷でも何でも好きにしろ」
城が静まる。
「何だその選択肢は」
神田の低い声が落ちる。
「いきなり雷って何!?意味わかんないんだけど!?」
ミナミが抗議するが、ソカロはもう聞いていない。
そのまま神田の胸元へ押し付ける。
手を離す。
ミナミの身体が落ちる。
反射だった。
神田は考えるより先に腕を伸ばしていた。
軽い。
思ったより、ずっと。
両腕の中にすっぽり収まったまま、ミナミが固まる。
神田はギロリとミナミ見下ろした。
ソカロはもう背を向けている。
「達者でな」
「ま、待ってお父さ――!」
その声は城の外へ消えた。
神田の腕の中で、ミナミが恐る恐る見上げる。
階段の下から燭台が揺れた。
時計がカチ、と鳴る。
『若い女だ!』
ピアノが唐突に華やかな和音を鳴らす。
『若い女だーーー!!』
城の備品たちが、わらわらと集まってくる。
神田はしばし、腕の中に収まったミナミを無言で見下ろしていた。
鋭利な刃物を彷彿とさせる、冷たく、射貫くような眼差し。
瞬きひとつせず、獲物の息の根を止めるかのような沈黙に、ミナミは石像のように固まることしかできない。
「……お、降ろしてもらっていいですか」
消え入るようなミナミの問いに、返事はない。
その代わり、凍りついていた城の空気が、ミナミという異分子の体温に反応して一斉にざわめき出した。
燭台がガタガタと小刻みに震え、火を灯し、
「女だー!!」
と、何度も叫ぶ。
大きな古時計が、狂ったような速度で針を回しながら鐘を鳴らした。
「客人です! 待ちに待った保護対象です!」
さらに、ホコリを被っていたはずのグランドピアノが、勝手に鍵盤を躍らせてやたらと陽気で明るい旋律を奏で始める。
静寂を愛する主、神田は、耐えかねたようにゆっくりと眉間の皺を深く刻んだ。
「……うるせぇ」
地這うような低音の威嚇。
その隙を突き、ミナミはようやく腕の中でもがき、彼を押し返した。
「ちょっと! さっきから勝手に修理費って何!? 私は物じゃないんだけど、放して!」
神田はそこでようやく、疎ましそうにミナミを床に降ろす。
だが、解放されたと思ったのも束の間。彼は逃げ道を塞ぐように一歩前に踏み出し、その大きな身体でミナミに巨大な影を落とした。
「帰るなら今のうちだ」
突き放すような冷たい声。
けれど、その言葉が終わる前に、城の備品たちが物理的にミナミの周囲を取り囲む。
「だめさー! 行かせちゃだめだ!」
「城の未来が、僕たちの命がかかってるんだ!」
「呪いを解く、唯一のチャンスなのに!」
喧騒の中、神田は苛立ちを隠さず、派手に舌打ちをした。
「……面倒なことになった」
ミナミは唖然として、きょろきょろと城内を見渡す。
崩れ落ちた壁、天高く伸びる巨大な螺旋階段。あまりにも異様な備品たちと、それ以上に異様な——圧倒的な存在感を放つ主。
「……ここ、一体なんなの?」
呆然と呟くミナミから、神田はふいと視線を逸らした。
風になびく長い黒髪が、月光を浴びて妖しく光る。
「俺の城だ」
拒絶と、諦念。
それだけを言い捨てて、神田は暗い廊下の奥へと踵を返した。
神田の姿が階段の闇へと消えた瞬間、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
燭台のラビがぱあっと明るい火花を散らし、ミナミの足元を照らす。
「客人を立たせたままにするなんて、紳士の端くれとして失格さー!」
「カチ、カチ……! 早く、早く! 客人を立たせたままにするのは非効率の極みです!」
時計のリンクが焦れったそうに歯車を鳴らし、ティーポットのリナリーとカップのアレンが、まるでダンスを踊るような足取りでミナミを先導する。
ピアノのマリは、震える巨体を揺らして、部屋の隅からやたらと華麗で勇壮なファンファーレを響かせた。
ミナミは眩暈を覚えるような心地で、豪華絢爛なダイニングへと押し込まれる。
高い天井に反響する喧騒。
自分の意志とは無関係に引き出される豪奢な椅子。
「え、ちょ、ちょっと待って。状況が追いつかない……」
呆然と立ち尽くす彼女の周囲で、備品たちが一斉に囁き始めた。
「お砂糖はいかが?」「甘いのはお好きですか?」「落ち着いてください、ここは安全……一応は、ですが」
矢継ぎ早に降り注ぐ言葉の嵐に、ミナミは堪らずテーブルを叩いた。
「待って待って待って!」
ぴたり、と世界が止まる。
リナリーの注ぐお茶の音さえも消えた沈黙の中、ミナミは目の前の物たちを凝視した。
「まず聞きたいんだけど……あの獣、何?」
その問いが投げられた瞬間、ラビの火が、幽霊のように小さく揺らいだ。
沈黙は数秒、けれど永遠のように長く感じられた。
「……主さー」
「この城を統べる、神田様です」
「昔は……あの方も、人間だったのですよ」
「昔は?」
ミナミの眉間に深い皺が寄る。その不穏な響きを、リナリーが重苦しく受け継いだ。
「呪いなの」
その一言で、ダイニングの空気が急速に温度を下げた。
「呪い……? 呪いって、何のこと?」
「……詳しくは、申し上げられません。我々には厳しい条件があるのです。最後の花びらが、散るまでに……」
ピアノのマリが、心臓を抉るような短調の一音を、ぽろんと落とした。
ミナミは信じられないものを見る目で、一斉に視線を逸らした家具たちを見渡す。
「いやいやいや、待って。呪い? 花びら? ……っていうか!」
バン! と再びテーブルを叩く音が響く。
「なんであなた達、喋ってるの!?」
その瞬間、ダイニングは気まずい沈黙に支配された。
「……そこからですか!?」とアレンがカタカタと震え、「説明には一昼夜かかるさー」とラビが炎を丸める。
「端的に申し上げれば、巻き添えを食ったということです」とリンクがチクタクと嘆く。
ミナミはこめかみを押さえ、頭を抱えた。
「何なの、この城……」
その時。
遠く、果てしなく続く廊下の奥から、重苦しい衝撃が伝わってきた。
足音だ。
ゆっくりと、けれど獲物を確実に追い詰めるような、不遜な律動。
全員が、息を止めた。
ラビの火が消え入りそうなほどに細くなり、マリの鍵盤が音もなく凍りつく。
「……主だわ」
リナリーの囁きは、もはや恐怖に近い敬意を孕んでいた。
ダイニングの豪華な扉の向こうに、月光を遮る巨大な影が、じわり、じわりと伸びてくる。
扉の影に、神田がいた。
腕を組み、壁にもたれかかって、面倒な物を見る目でこっちを見ている。
「……何故、ここにいる」
地を這うような低い声。普通ならビビるところだけど、ミナミは一歩も引かない。
「なぜって――」
「まあまあ! そんなカッカすんなって。可愛い客人を立たせとくのは失礼だろ?」
横からラビが調子よく口を挟む。その瞬間、神田の眉がぴくりと動いた。
「黙れ。……叩き折って燃やすぞ」
「もう燃えてますけどね……」
アレンがぼそっと呟く。
「シッ! 余計なこと言わないで!」
リナリーが慌てて止めるけど、もう遅い。神田の手は、すでに腰の六幻に伸びていた。
「……今日こそは、全員まとめて叩っ斬ってやる」
その瞬間。
ガタン! と椅子が鳴った。ミナミが勢いよく立ち上がった音だ。
ミナミはアレンたちの前に両腕を広げて立ちはだかった。
神田を睨みつける。
「やめて!」
神田の目が、冷たく細くなる。
「この人たちは何もしてないじゃない! 勝手に怒って、八つ当たりしないでよ!」
静かな、でも確かな怒気がダイニングに漂う。
けれど、神田は鼻で笑って言い放った。
「……引っ込んでろ、ブス」
ミナミの顔が、一瞬で固まる。
「ぶ、……ブス!?」
「お前のことだよ。他に誰がいる」
「お前じゃなくて、ミナミ! それに、私はブスじゃないわよ!」
「ハッ。どのツラ下げて美女のフリしてやがる。……鏡見てから出直してこい」
「ムキーーー!!」
理性がぶち切れたミナミは、そのまま素手で神田に突っ込んだ。
が――。
神田の手が、すっと伸びる。
一瞬だった。
あっさりと手首を掴まれ、逃げ場を塞がれる。
ミナミの手首を掴んだまま、神田は乱暴に腕を引き上げた。
逃がさない。
抗わせない。
その意志だけが、指先から伝わる。
同時に神田自身も腰を深く屈める。
ぐっと距離が詰まり、ミナミの鼻先すれすれまで顔が迫った。
口を開けば吐息が混じるほどの至近距離。
「お前……修理費のくせに、何してやがる」
低い声。
感情を削ぎ落とした、冷たい響き。
「望み通り――売り飛ばしてやろうか?」
射抜くような視線が、至近距離から叩きつけられる。
その圧に、ミナミの喉が小さく鳴った。
次の瞬間。
パッ、と。
まるで触れていたこと自体を拒むように、神田の手が離れた。
「の、望んでないし……っ!」
ミナミは慌てて解放された手首をもう片方の手で抱え込む。
守るように、強く。
白い肌には、くっきりと残っていた。
神田の指の形。
野獣の力を物語るような、赤い痕が。
神田はミナミを一瞥もすることなく、長いテーブルの端、いつもの主の席へとスタスタ歩み寄り、不機嫌そうにドカッと座った。
その場に漂うのは、有無を言わせぬ王の威圧感。
神田は、呆然と固まっている備品たちを一睨みして低く言い放つ。
「……何してる」
それは早く用意しろ。もたもたするな。という意味だ。
その一言で、弾かれたようにラビたちが動き出した。
「はいはい! 今行くさー!」
「料理、急いで運びます!」
カチカチ、カタカタと、ダイニングは一転して戦場のような忙しさに包まれる。
だが、一人だけ、その場に取り残されたように立ち尽くしている者がいた。
赤くなった手首をさすりながら、唇をへの字に結んで神田を睨みつけるミナミだ。
神田は、自分の正面で動かないミナミに、視線を向けずにラビたちへ向けた言葉と同じことを言った。。
「……何してる」
これは、さっさと座れ。という意味だ。
短く、突き放すような言葉。
けれど、そこには「一人で食うのは癪だ」と言いたげな、彼なりの不器用な命令が混ざっていた。
ミナミは悔しそうに眉を寄せたまま、ガタガタと音を立てて椅子を引き、神田の正面にどかっと腰を下ろした。
料理が運ばれてきて、銀の蓋が次々と外されるたび、芳醇な香りがダイニングの重苦しい空気を塗り替えていく。
湯気を立てる肉料理、香ばしいパン、鮮やかな色彩の温野菜。
その豪奢な一皿は、当然のようにミナミの前にも供えられた。
ラビが恭しくワインを注ぎ、揺れる赤い液体がグラスを満たしていく。
神田は、一度としてミナミを見ようとはしない。
無駄のない所作でナイフを手に取り、静かに、けれどどこか荒々しく肉を切り分ける。
ミナミはその顔をじっと盗み見た。
野獣。この城の忌むべき主。
確かに恐ろしい。さっき掴まれた手首には、まだジンジンとした痺れが残っている。
なのに、この矛盾した行動──。
出て行って欲しいのかそうでないのか。
「……私が、ここに居るの嫌なくせに」
ワイングラスの冷たさを指先に感じながら、ミナミは消え入りそうな声で呟いた。
だが、返ってきたのは的外れな答えだった。
「毒は入っていない。……さっさと食え」
「そういうこと、聞いてるんじゃないんだけど」
ミナミの眉がぴくりと跳ねる。神田はそれ以上の言葉を継がず、ただ黙々と肉を口へ運んだ。
完璧な無視。
ミナミはむっと唇を尖らせ、抗議するようにワインを一口、含んだ。
その瞬間、瞳がぱっと見開かれる。
「……おいしい」
不本意ながらも、その味の虜になった瞬間。
ミナミの顔から、それまでの不機嫌さが嘘のように霧散した。
唇がふわりと弧を描き、花が綻ぶような、とびきりの笑顔。
それは、呪われた城の薄暗いダイニングを一瞬で照らし出すほど、眩しく、無防備な輝きを放っていた。
同時に、神田のナイフを動かす手が、ほんの一瞬だけ、止まる。
視線は皿に落としたままだ。
だが、その口元が――誰にも気づかれぬほど僅かに、柔らかな弧を描いた。
「……お前を高く売るためだ」
平然と言い放ったその声に、ミナミが顔を上げる。
「は?」
「痩せ細った商品は値が落ちる。血色が良く、状態がいい方が高く売れる。……だから食え」
ナイフを置き、グラスを傾ける仕草はどこまでも淡々としていた。
だが、その場にいる備品たちは皆、心の中で一斉にツッコんでいた。
(ユウ、それ絶対違うさー……)
(言い訳が下手すぎ…)
ミナミは神田の横顔をじっと見つめ、少しだけ、むくれたように吐き捨てた。
「……最低」
「そうか」
神田は短く肩をすくめる。
けれど、グラスを置いたその瞳は、さっきよりもほんの少しだけ、熱を帯びて和らいでいた。
しばらくの沈黙。
広いダイニングには、カトラリーが皿に触れる硬質な音だけが規則的に響いていた。
ミナミは次に、彩り豊かなサラダを一口、慎重に口に運んだ。
「……あ、これもおいしい」
その、純粋無垢な眩しい笑顔が、神田の網膜に焼き付いた。
ガタン。
椅子が乱暴に鳴り、神田が弾かれたように立ち上がった。
その唐突な動きに、備品たちが凍りつく。ラビの火はぴたりと凝固し、リンクの針さえも拍動を止めた。
神田は、ミナミの方を見ることなく、一言だけ鋭く落とした。
「……食ってろ」
それだけ。
彼は振り返ることもせず、大股でダイニングを後にする。
揺れる長い黒髪が、背後で閉まった重厚な扉に吸い込まれて消えた。
……再び、静寂。
やがて、その沈黙を破ったのはラビのぽそりとした呟きだった。
「……逃げたさ」
時計のリンクが、肯定するようにカチリと鳴る。
「逃げましたね。間違いなく」
ティーポットのリナリーも、困ったように、けれどどこか楽しげに小声で頷いた。
「……逃げたわね。神田」
ミナミは、フォークを持ったままぽかんとして、閉ざされた扉を凝視していた。
「……逃げた? なんで? 私、何か変なこと言った?」
ラビがやれやれと肩(のような台座)をすくめる。
「ユウはああいう男さー。余裕がなくなるとすぐこれだ」
「余裕がないって……どういうこと?」
リナリーがクスリと笑って、ミナミの手元にお茶を注ぎ足した。
「ミナミのことが、可愛かったのよ。今の『おいしい』がね」
「かっ、可愛い!? ……いや、ありえないでしょ! だって、さっき思いっきりブスって言われたんだけど!?」
ミナミの叫びが、主のいなくなったダイニングに虚しく反響した。
野獣が去ったあとのダイニング。
主が放った殺伐とした空気はどこへやら、そこには信じられない光景が広がっていた。
もぐもぐ。
「……」
もぐもぐ。
「……全部食べてるさ」
ラビが驚きを通り越して感心したように呟く。
テーブルの上、ミナミの前の皿は、もはや洗う必要がないほどきれいに空になっていた。彼女は最後の一切れのパンで、皿に残ったソースを丁寧に、そして完璧に拭い取っている。
「だって勿体ないじゃない。……残したら失礼だし」
当然と言わんばかりのミナミの言葉に、アレンが目を丸くする。
「すごいですね……あんなに言われて、よく喉を通りますね」
「合理的判断です。空腹は生存の敵ですから」
リンクもチクタクと肯定の音を鳴らした。
最後の一口を飲み込み、満足そうに息を吐く。
「ごちそうさま!」
その瞬間、ミナミの眩しい笑顔に呼応するように、ラビの火がパッと明るく爆ぜた。
「よーし! それじゃ、次は城の案内をさせてもらうさ!」
椅子から立ち上がったミナミは首をかしげる。
「城? 帰してはくれないの?」
「……まあ、それは置いといて。主の城を知らないままじゃ、話にならないからな!」
ラビに先導され、ミナミはしぶしぶ廊下へ出た。
高い天井、どこまでも続く長い回廊。壁には歴代の肖像画が並んでいるが、一枚の絵の前でミナミの足が止まった。
「……これ、誰?」
その絵は悲惨だった。
キャンバスは鋭利な刃物でズタズタに切り裂かれ、何度も叩きつけられたようにボロボロになっている。かろうじて残った黒い髪の端から、主だったろうとは推測できるが、顔の部分は完全に破壊されていた。
「……全然、顔がわかんない」
ミナミの呟きが響いた瞬間。
備品たちの動きが、ぴたりと止まった。
一秒。
二秒。
三秒。
ラビの火が激しく跳ねる。
「……待つさ。今、最高のものを見せてやるからな!」
次の瞬間。
ドタドタドタドタ!!
備品たちが、ものすごい勢いで廊下の奥へと走り去っていく。
「え!? ちょっと、置いてかないでよ!」
ミナミは一人、不気味な廊下に取り残された。
数分後。
再び、ドタドタドタドタ!!と凄まじい足音が戻ってくる。
「せーの!」
「そっち持って!」
「角、ぶつけるな!」
「静かに!」
現れたのは、巨大な肖像画を「わっしょい!」と神輿のように担ぎ上げた備品たちの集団だった。
「うおらぁぁぁ、持ち上げろぉぉ!!」
ドン!!
凄まじい重量感とともに、一枚の絵がミナミの目の前に立てかけられる。
そこに描かれていたのは――。
濡れたような長い黒髪。
一度射貫かれたら動けなくなるような、鋭く涼やかな瞳。
少し不機嫌そうに結ばれた唇。
そして、それら全てを完璧に調和させる、圧倒的な美貌の青年だった。
ミナミは目を見開いたまま固まる。
「……誰、これ」
「ユウさ」
ラビが誇らしげに胸(台座)を張る。
「主さー。呪いがかかる前の、本当の姿」
ミナミは絵を見る。
さっきの荒々しい野獣を思い出す。
もう一度、絵を見る。
「……え???」
「信じられないさー?」
「……信じられない。別人だわ」
リンクが慌てて針を震わせる。
「これがあることは主には絶対の秘密事項です! 見つかれば我々、確実に塵にされます……!」
「本当ですよ……僕たち、命がけで隠してきたんですから」
アレンも小声で訴えるが、ミナミの耳には届いていない。
ミナミはもう一度、穴が開くほど絵を見つめ、ぽつりと本音を漏らした。
「……すごいイケメンだわ」
「だろ?」
ラビがニヤリと火を揺らす。
ミナミは腕を組み、真剣な顔で肖像画を精査し始めた。
「なんでこれが、あんな毛むくじゃらの不機嫌男になるのよ」
「それが呪いさ。……そして、その呪いを解く方法はたった一つ」
ラビの火が、少しだけ真剣な色を帯びる。
「真実の愛を見つけること。……それが出来るのは、ミナミ、あんただけなんだ」
「ごめん。具体的に、何をすればいいの?」
ラビは一呼吸置き、声を潜めて言った。
「……ミナミがユウに、愛のキスをすればいい」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
ガシッ!!
「……乗った」
「早ッ!?」
凄まじい握力でラビを掴み上げたミナミの目は、これまでになく据わっていた。
彼女は肖像画を再び見つめ、力強く宣言する。
「この顔に戻るなら、全然いける。むしろ頑張る」
「目的そこなんですか!? 」
アレンの声が、静かな城内に虚しく響き渡った。
「よし、そうと決まったら――」
ミナミは躊躇なく、その場でくるりと踵を返した。
「野獣はどこ?」
一点の曇りもない真っ直ぐな問いに、備品たちが一斉に硬直する。
時計のリンクが、心臓の鼓動を刻むような不穏な音をカチリと鳴らした。
「おそらく……自室、かと」
「案内して」
食い気味の即答。
ラビの火が、驚愕でぶわっと爆ぜるように揺れた。
「いやいやいやいや! それはダメさー! 正気の沙汰じゃないさ!」
「そうですよ! バ神田の部屋は絶対立入禁止です!」
アレンが割れんばかりの音を立ててぴょんぴょんと跳ね、リナリーも必死の形相で詰め寄る。
「ミナミ、あそこは絶対に入っちゃいけない場所なの。神田の聖域であり、檻なのよ!」
ミナミは面倒そうに眉をひそめた。
「なんで?」
「それは……」
リンクが悲鳴のような歯車音を響かせ、三方向から一斉に制止の声が飛ぶ。
「規則です!」
「主命です!」
「禁忌です!」
鉄壁の守り。だが、ミナミの耳には一文字も届いていない。
「自室ね」
独り言のように呟き、くるりと廊下の先を見渡した。
「どっち?」
「待つさ! 本当に、本当にダメさー!」
ラビを筆頭に、備品たちがわらわらとミナミの前へ回り込み、物理的に道を塞ぐ。
その必死すぎる様子を見て、ミナミは大きなため息を吐いた。
「ちょっと、邪魔」
「いやいやいや! 待つさ、落ち着くさ!」
「あなた達、チョロチョロしないで!」
ミナミはもはや障害物競走のハードルのように、ラビたちを器用に跨ぎ、ずんずんと突き進んでいく。
背後からは、絶望に満ちた備品たちの悲鳴が追いすがった。
「本当にダメさ!」
「神田が怒ります!」
「確実に燃やされますよ!」
「一刀両断されるわよ!」
阿鼻叫喚の喧騒を背に、ミナミは振り返りもせず言い放った。
「大丈夫。ちょっとキスするだけだから」
「「「軽いな!!」」」
備品たちのツッコミが廊下にこだまする中、ミナミは突き当たりの大きな扉の前で足を止めた。
重厚な木目。冷たい鉄の装飾。
扉の隙間からは、凍てつくような銀の月光が細く漏れている。
リンクの針が、恐怖で目に見えて震えだした。
「……そこ、です」
「……最後、の警告さ」
ラビの火が、消え入りそうなほど小さく揺れる。
ミナミは迷うことなくドアノブに手をかけた。
「呪い…解きたいんでしょ?」
「でも……ダメさ」
「ふーん」
ミナミの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
そして――。
ギィィ……と、禁断の境界を押し開いた。
主の私室は、冷え切った空気が張り詰めている。
高い窓から差し込む青白い月光が、乱雑に置かれた武具や、壁に掛けられたままの漆黒の衣を青く照らし出していた。
部屋の奥。
大きな寝台に背を預け、一人で酒瓶を傾けていた神田が、弾かれたように顔を上げた。
「……何の真似だ」
地を這うような低い声。その瞳は、暗闇の中で鋭く光っている。
「入るなとラビたちに聞かなかったのか。命が惜しくねぇのか」
ゆっくりと神田が立ち上がる。その巨大な影が、ミナミを飲み込むように壁に長く伸びた。
普通の人間なら、その圧倒的な圧に腰を抜かして逃げ出すところだ。
だが、今のミナミは違う。
脳内には、さっき見たイケメン肖像画が鮮やかに再生されている。
「命? 惜しいに決まってるじゃない」
ミナミは一歩、また一歩と、神田の間合いに土足で踏み込んでいく。
神田の眉間に、深い皺が刻まれた。
「……なら、さっさと失せろ」
「嫌よ。用があるんだもん」
神田のすぐ目の前で、ミナミはぴたりと足を止めた。
見上げる形にはなるが、その視線は神田の唇に釘付けだ。
神田が、不審そうに、そしてわずかに気圧されたように目を細める。
「……あ?お前 どこを見て――」
「あなた、聞いたわよ」
ミナミの凛とした声に、神田の瞳がわずかに見開かれた。
ミナミは畳みかけるように、一切の悪びれもなく言い放つ。
「呪いのこと。ラビたちに」
「……チッ」
「私が、解いてあげるわ」
次の瞬間。
ガシッ!!
ミナミが、野獣の胸ぐらを両手で力任せに掴み上げた。
「おい――」
神田が言葉を発するより早く、その身体を強引に引き寄せる。
鼻先が触れ合うほどの距離。
そして。
――ちゅっ。
一瞬の、けれど確かなキス。
部屋は、墓場のような静寂に包まれた。
扉の陰で覗いていた備品たちは、もはや呼吸することさえ忘れている。
ラビの火は静止し、リンクの針は止まり、アレンのカップは硬直した。元々硬いけど。
神田自身もまた、石像のように固まっていた。
あまりにも、予想外。あまりにも、直球。
数秒の永い沈黙の後。
ミナミが満足げに唇を離し、真顔で問いかけた。
「……どう?」
神田の醜い顔が、怒りと困惑でゆっくりと歪んでいく。
「……何をしてやがる」
地底から響くような、極限まで低い声。
だが、ミナミは涼しい顔で腕を組んだ。
「キス」
「それは分かる。そうじゃねぇ……」
神田のこめかみに、どす黒い青筋が浮き上がる。
「誰が……許可した」
「だって、呪い解きたいんでしょ?」
ミナミのあまりに正当な主張に、背後で備品たちが小声でざわめき出した。
「いや、そうなんだけどさー……」
「こんな真正面から突っ込んでいくとは……」
神田は数秒間、天を仰いで固まっていた。
そして、肺の中の空気をすべて吐き出すような、深い、深いため息を一つ。
「……出ていけ」
「やだ」
ミナミの即答に、神田の眉間の皺が、もはや修復不可能なレベルまで深くなった。
「……いい加減にしろ」
地を這うような低音。それは怒鳴り声よりも恐ろしく、本気で堪忍袋の緒が切れた男の冷徹な響きだった。
神田の大きな手が、有無を言わせぬ速さで伸びる。
がしっとミナミの細い腕を、まるで壊れ物を扱う気などさらさらないと言わんばかりの強さで掴み、強引に引き寄せた。
「いたっ――離して――」
抵抗の言葉を紡ぐ隙さえ与えない。神田はそのまま、子供でも扱うかのようにミナミの身体の向きを軽々と変え、大股で扉へと踏み出した。
勢いよく扉が開け放たれる。
「うわっ!」
次の瞬間。
ポイッ。
ゴミ箱に不要なものを放り込むような、あまりにも雑な手つきで、ミナミは廊下へと放り出された。扉の陰で様子を伺っていた備品たちも、そのとばっちりを受けて、まとめて外へと転がり出る。
バタン!!
鼓膜が震えるほどの衝撃とともに、扉が乱暴に閉められた。
そこから漏れ聞こえるのは、重苦しい施錠の音。
廊下に残されたのは、嵐が去った後のような、しん……とした不気味なほどの沈黙。
ミナミと、転がったティーカップや燭台たちが、呆然としたまま閉ざされた扉を見つめるしかなかった。
ミナミは腕を組み、納得がいかない様子で首をひねった。
「……うーん」
その唸り声に、備品たちが恐る恐る顔を見合わせる。ミナミはくるりと振り返ると、じーっと彼らを凝視した。
「呪い、解けないんだけど? 」
あまりに直球なダメ出しに、ラビの火が気まずそうにゆらりと揺れる。
「えーー……。それは、その……」
「そ、それはですね……根本的な問題といいますか」
リンクの針が落ち着きなくカチカチと空転し、アレンが意を決したように、ひどく言いにくそうに口を開いた。
「たぶん……」
全員の視線が、主が閉じこもったままの、固く閉ざされた扉へと向けられる。
ラビが頭をかきながら、観念したように言った。
「いいか、ミナミ。真実の愛のキスってやつはさ、ただ物理的に唇を合わせればいいってもんじゃないんだぜ」
ミナミが不満げに眉をひそめる。
「どういうことよ。契約成立でしょ?」
「主様だけが想っていても、呪いは解けません」
リンクが静かに、事実を突きつける。
「逆もまた然り。片方だけが熱を上げている状態では、魔法は成立しないのです」
リナリーがそっと寄り添うように続けた。
「つまり……。両想いにならない限り、呪いは解けないの」
一瞬、廊下に沈黙が降りた。
ミナミは数秒、ぽかんとした顔で立ち尽くしていたが、やがて妙に納得した顔で力強く頷いた。
「……ああ。なるほどね」
再び腕を組み、今度は何かの戦術を練るような真剣な眼差しになる。
そして、ぱん! と勢いよく手を打った。
「じゃあ、惚れさせればいいのね」
その言葉に、備品たちが一斉に顔を跳ね上げる。
「え?」
「簡単じゃない。向こうが私に惚れて、私も向こうに惚れればいいんでしょ? 要は、攻略対象にすればいいのよ」
ミナミがさらっと、とんでもないことを言い出した。
ラビの火が恐怖でぶるっと震える。
「……言うのは簡単さー。相手が誰だか分かってるか?」
「神田は……その……」
リンクの言葉を継いで、アレンが地獄の底から響くような声でぼそっと付け加えた。
「……世界で一番、恋愛に向いてない絶望的な男ですよ」
再びの沈黙。
だが、ミナミは腕を組んだまま、神田の部屋の扉を不敵に見据えた。
そして、その口元がにやりと、挑戦的な弧を描く。
「面白そうじゃない。落とし甲斐があるわ」
「「「ええええええええ!?」」」
廊下に、備品たちの絶叫がこだました。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
翌朝。
城の廊下には、昨日までの怯える生贄の気配など微塵もなかった。いえ、もともと無かった。
ミナミは鏡の前で身なりを整え(※肖像画のイケメン度を脳内で反芻しながら)、ふんふんと鼻歌まじりに神田がいるであろうダイニングへと向かった。
扉を勢いよく開ける。
そこには、昨夜の奇襲に相当参っているのか、いつにも増して殺気を放ちながら蕎麦を啜っている神田がいた。
「おはよう、ユウ!」
「……っ、ゲホッ!!」
神田がむせた。
リナリーが慌ててお茶を運び、アレンとラビが物陰から「あいつ、マジで行きやがった……」と戦慄の眼差しで見守る。
神田は口元を拭うと、鬼のような形相でミナミを睨み据えた。
「……誰が名前を呼んでいいと言った。それと、そのニヤついたツラを今すぐ引っ込めろ」
「えー? 挨拶は基本でしょ? それよりユウ、今日の髪型も素敵ね。結び目がセクシー」
「…………は?」
神田の動きが、完全に止まった。
これまで化け物だの人殺しだのと忌み嫌われてきた彼は、人生で一度も、ましてやこの野獣の姿でセクシーなどという単語をぶつけられたことがなかった。
「お前、……頭でも沸いたのか。昨日の衝撃で脳みそが腐ったか」
「失礼ね。私は本気よ? あ、その蕎麦、一口ちょうだい」
「断る。去れ」
「もう…そういうツンケンしてるところも、……嫌いじゃないわよ?」
ミナミが至近距離まで詰め寄り、肖像画の面影を探すようにその瞳を覗き込む。
神田は、向けられた真っ直ぐな視線と、微かに漂う彼女の香りに、思わず椅子を引いて後退った。
「寄るな、ブス! 蕎麦が不味くなる!」
「ふふ、照れちゃって」
「照れてねぇ!!」
神田の怒声が城内に反響する。
しかし、ミナミには見えていた。
野獣は毛に覆われてはいるが、その耳の先が、昨夜のキスよりもずっと真っ赤に染まっているのを。
(思ったより、面白い男かもしれない)
ミナミの心の中で、攻略完了へのカウントダウンが静かに、けれど力強く刻まれ始めた。