白銀に溶ける誓い
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【白銀に溶ける誓い】
薄暗い安宿の一室。
天井は低く、壁紙はところどころ剥がれ、風が吹けば窓枠が小さく鳴る。
その中央に置かれた、脚のガタつく古い机。
僕は、そこに身を屈めるようにして座っていた。
ランプの淡い光が、白い便箋の上にだけ小さな世界を作っている。
その世界の前で、僕はしばらく動けずにいた。
使い古されたペン先を見つめ、静かに息を吐く。
「……柄にもないですね。僕が、こんなものを書くなんて」
左腕の呪いは、今も確かに脈打っている。
身体の奥では、十四番目の気配が低く囁く。
けれど――
今この瞬間だけは、そのどれよりも、この真っ白な便箋のほうが恐ろしかった。
書けば、消えない。
書けば、嘘にできない。
脳裏に浮かぶのは、ミナミの笑顔。
どれほど絶望が広がっていても、
どれほど世界が灰色に沈んでいても、
君が笑えば、そこだけが陽だまりになる。
その記憶が、彼の胸を締めつける。
(ああ……やっぱり、君なんだ)
震える指先で、最初の一文字を書く。
インクが滲む。
文字は歪み、揃わない。
マナを壊して以来、何度かペンを握ってきたはずなのに。
その重みは、今日に限ってやけに鋭い。
「文字を書くの…久しぶりだからかな……格好悪いな……」
小さく自嘲しながらも、ペンは止めない。
『汚い字で、すみません。どうか、がっかりしないでください』
誰に向けた謝罪なのか。
自分でも分からない。
この手紙に詰め込みたいのは、過酷な運命じゃない。戦いの記録でもない。
ただひとつ。
飲み込み続けてきた言葉。
――愛している。
(丁寧に書こうとするほど、うまくいかないな……)
窓の外を見上げる。
曇天。
月は隠れ、星も見えない。
それでも思う。
いつかこの手紙を、君の小さな手に渡せたなら。
あるいは、渡せずとも、風が運んでくれるのなら。
どうか。
君を苦しめてきた日々が、
少しでも、軽くなりますように。
書きかけの便箋をそっと折り、胸元に押し当てる。
鼓動が伝わる。
『 ……手、出して』
想像の中で、僕は笑う。
『 …これ』
受け取った君が、あの笑顔を見せてくれる光景。
叶う保証はない。
それでも。
戦いの中で初めて、自分のために抱いた願い。
それが、この手紙。
そして、たった一つの誓い。
――僕は、君を選ぶ。
どんな未来が待っていても。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
あの日、震える手で書き上げた手紙は結局、出せないままだった。
折り目のついた便箋は、今もコートの内ポケットにある。
体温で少しだけ温まって、それでも、まだ重い。
「アレン、そろそろ出よう」
ジョニーの声で、浅い眠りから引き戻される。
逃亡生活に、穏やかな朝なんて来ない。
追手。ノア。
そして何より――僕の中に巣食う“十四番目”。
夜明け前の冷たい霧の中へ足を踏み出しながら、僕はポケットを押さえた。
(……今日こそ、出そう)
君が夢に出てきたから。
――夢の中。
「あ……アレン! ジョニー! ……ついでに神田……!」
君は、教団を去った僕を追いかけてきた。
ボロボロのコートを着た僕を見ても。
呪いに侵食されつつあるこの腕を見ても。
君は、怯えなかった。
朝露に濡れた頬のまま、花が咲くみたいに笑った。
あの笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
甘くて、苦い決意。
――僕は、いつも君のそばにいるよ。
本当は、そう言いたい。
今すぐ駆け寄って、ポケットの手紙を突き出して。
この腕の中に、閉じ込めてしまいたい。
けれど。
「――っ、ダメだ……!」
僕の足が、止まった。
背筋を凍らせる殺気。
重く、濁った気配。
アポクリフォスか、ノアか。
どちらにせよ――
今、この場所に、君を立たせてはいけない。
僕のそばにいることは、君に“死”を近づけることと同じだ。
「アレン……?」
不安げに首を傾げる君。
その表情が、胸を締めつける。
溢れそうになる想いを、僕は無理やり飲み込んだ。
喉が焼けるみたいに痛い。
ポケットの中で、手紙がくしゃりと音を立てる。
「……来ないでください!!」
ほとんど悲鳴だった。
君の笑顔が、凍る。
「これ以上、僕に関わらないでください。……迷惑なんです」
心にもない言葉。
刃物みたいに鋭い嘘。
君の瞳から、光が消えていく。
その瞬間、僕の心臓が握り潰された。
本当は。
置いていきたくない。
抱きしめたい。
連れて行きたい。
でも。
今の僕にできる“愛し方”は、これしかない。
「……神田。ジョニー、行こう」
振り返らずに、駆け出す。
視界が涙で滲む。
足元が覚束ない。
「アレン! 待って、アレン!!」
君の泣き声が、背中に突き刺さる。
それでも、僕は振り返らない。
一度でも君の顔を見てしまったら。
理性が壊れてしまう。
僕はきっと、君を抱きしめてしまう。
そして、地獄へ連れていく。
――夢は、そこで終わる。
でも、これは夢だけじゃない。
あの日。
教団を去った日。
泣きじゃくる君が、追いかけてきた。
僕は、夢の中と同じことを言った。
(ごめんなさい。……ごめんなさい、ミナミ)
歩き続けながら、頬を冷たい風が打つ。
突然で、残酷な別れ。
ふたりで綴るはずだった“永遠”は、あまりにも簡単に砕けた。
それでも。
ポケットの中には、まだ手紙がある。
破れずに。
捨てられずに。
――僕が、君を選んだ証として。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
情報収集のために立ち寄った、雪深い街。
白く閉ざされた視界の中、僕は神田と並んで歩いていた。
ジョニーは別の通りを当たっている。
二手に分かれた方が効率がいい――それは建前で。
本当は、神田が僕を一人にしないためだと分かっている。
「勝手に消えるなよ」
ぶっきらぼうな声が、吹雪に紛れる。
「消えませんよ」
軽口で返すけれど、胸の奥がわずかに軋む。
消えるかもしれないのは、僕自身の方だ。
吹き荒れる雪が、街も足跡も、すべてを白く塗りつぶしていく。
その時だった。
――ぐらり。
内側から、何かが引き裂かれる。
「……っ、が……はっ……!」
壁に手をつき、膝を雪に落とす。
左目が灼けるように疼く。
脳裏に明滅する、ネアの影。
(来るな……今は……!)
息がうまく吸えない。
視界が歪む。
神田の気配が一瞬、遠のいた。
「おい、もやし――」
その声も、雪と痛みの奥に沈む。
苦痛に顔が歪む。
誰にも見せたくなかった顔。
エクソシストでも、希望でもない。
ボロボロで、惨めで、今にも消えてしまいそうな“素顔”。
その時。
雪のカーテンを割って、一足の靴が目の前に止まった。
「……アレン?」
心臓が跳ねる。
この声は。
夢じゃない。
凍りつく冷気の中で、その声だけが、確かな熱を持って僕に届く。
顔を上げる。
そこに立っていたのは――
教団にいるはずの、ミナミ。
「……な、ぜ……どうして……ここに……」
笑おうとする。
いつもの仮面を、無理やり被ろうとする。
でも。
指先ひとつ、動かせない。
涙と雪でぐしゃぐしゃの顔を、隠すことさえできない。
こんな姿を。
一番見られたくなかった君に、晒してしまった。
神田が背後で舌打ちする気配がした。
けれど、彼は何も言わない。
ただ一歩、距離を取る。
僕に、選ばせるみたいに。
ミナミが、凍えそうな僕の手を迷わず包み込んだ。
あの日。
僕が突き放したはずの、その手で。
「……その顔」
「……見ないでください……」
声が震える。
「今の僕は、君が知っている僕じゃない……」
ネアに侵され、呪いに縛られ、
守ると誓った人すら傷つける存在。
それが、今の僕だ。
視線を逸らそうとする。
でも、君は逃がさない。
「ううん」
静かな声。
「今、初めて……本当のアレンに会えた気がする」
息が止まる。
ミナミの瞳に映るのは、完璧なエクソシストじゃない。
強くも、格好良くもない。
ただの――
アレン・ウォーカー。
そのまっすぐな眼差しに、胸の奥で何かが崩れる。
守らなきゃ、と固め続けた殻。
強くあろうとする仮面。
全部、ひび割れていく。
ポケットの中で、あの手紙が存在を主張する。
震える夜に書いた言葉たち。
『愛している』
書けなかった一行。
でも。
もう、言葉はいらない。
雪の中で、君の温もりが僕に触れた瞬間。
押し殺してきた想いが、堰を切る。
「……っ」
涙が溢れる。
止められない。
君の掌を濡らしていく。
みっともなくて、情けなくて。
それでも。
これが僕の真実。
どんな手紙よりも、どんな誓いよりも雄弁に。
――僕は、君を愛している。
雪は降り続けている。
でも。
君の手の中だけは、確かに温かかった。
雪が、僕たちの間にしんしんと降り積もる。
白い静寂の中で、君の体温だけが現実だった。
涙を流し尽くしたあと、胸を締めつけていたあの鋭い痛みは、不思議なほど穏やかな熱へと変わっていた。
消えたわけじゃない。
でも、もう僕を壊す痛みではない。
僕は震える右手で、コートの内ポケットを探る。
何度も取り出しては戻し、握りしめては躊躇った、あの便箋。
角は擦り切れ、折り目は深く、インクは少し滲んでいる。
「……これ」
掠れた声が、白い空気に溶ける。
雪に濡らさないよう、両手で包み込みながら、僕はそれを君へ差し出した。
「……アレン?」
戸惑う君の瞳。
「出せなかったものです」
自嘲が滲む。
「不恰好で、字も汚くて、自分勝手なことばかり書いてあります。でも――」
そこで言葉を止める。
君の瞳を、真っ直ぐ見つめる。
もう仮面はいらない。
十四番目の影も。
今、この瞬間だけは、僕たちの間に入れない。
「これが、僕の……一人の人間としての、本当の言葉です」
君は震える指先で便箋を受け取り、ゆっくりと広げる。
雪が肩に積もる。
風が吹く。
でも君は目を逸らさない。
不揃いな文字を、一文字ずつ追っていく。
戦いのこと。
弱さのこと。
君の笑顔に救われた夜のこと。
そして。
――君を想ってる、という、たったそれだけの本音。
君の目から、大粒の涙がこぼれる。
紙の上に落ちて、インクを滲ませる。
最後の一行。
それは僕が、雪の街で君を再び抱き寄せた瞬間、心の中で書き足した言葉。
『僕を選んでくれて、ありがとう』
ミナミの肩が震える。
「……バカ、アレン。……遅すぎるよ」
泣きながら笑う。
その顔は、あの日と同じだ。
僕が守りたかった、最高の笑顔。
君が僕の胸に飛び込む。
小さな体温が、僕の鼓動と重なる。
遠くで、雪を踏む音。
神田の気配がある。
何も言わない。
ただ、背中で見守ってくれている。
「神田……すみません。もう少しだけ、時間をください」
風の向こうへ声を投げる。
返事はない。
でも、許された気がした。
僕は君を強く抱きしめる。
この想いを空へ放り投げたら、
冷たい風さえも、きっと優しくなる。
そんな錯覚さえ抱く。
「いつか、すべてが終わったら……」
君の耳元に顔を寄せる。
「今度は手紙じゃなくて、僕の口から伝えます」
誓いのように、静かに。
これから先、道はもっと険しくなる。
僕はまた、君を置いて地獄へ向かうかもしれない。
それでも。
この絆がある限り。
僕たちは、何度だって繋がれる。
雪はまだ、降り止まない。
けれど。
君の温もりと、綴り終えた本当の想いが、
僕の心臓を強く、温かく叩き続けていた。
生きて帰る理由が、
ここにある。
終わり
2026/02/20
これ…どんな気持ちで神田そこに居たんだろう……(´^ω^`)ブフォwwwというわけで、おまけを書いてみた。
〈 ~・ ›› ∋ )≪おまけ。
(……何を見せられてんだ、俺は)
神田は六幻を握りしめ、青筋を立てながら、わざとらしく二人から視線を逸らした。
視線の先にあるのは、ただの寒々しい雪の壁。
だが、背後からは「アレン……」「ミナミ……」という、甘ったるくて湿っぽい声が容悔なく鼓膜を震わせてくる。
(「君の隣で……」だぁ? 「本当の言葉」だぁ……?)
反吐が出る。
さっきまで死にそうなツラして雪に這いつくばってた野郎が、女の手を握った瞬間にこれだ。
もやしの分際で、いっちょ前にラブレターなんて持ち歩いてやがったのか。
「……ケッ」
神田は盛大に舌打ちをした。
本来なら「さっさと行くぞ」と首根っこを掴んで引きずっていくところだが、あの時アレンが見せた、剥き出しの素顔を思い出してしまい、どうしても刀を抜く気になれない。
(……ふん。あんな情けねェツラ晒しやがって。……これだから生きる目的がある奴は脆くて面倒なんだよ)
口では毒づきながらも、神田は二人を急かすことはしなかった。
ただ、あまりのラブラブな空気感の充満っぷりに、耐えきれなくなった彼は、ジョニーに通信を入れる。
「……おい、ジョニー。……まだか。……あぁ、もやしの脳味噌が完全に春を迎えやがった。……早くしろ、じゃなきゃ俺はこの女ごと、もやしを叩き斬る」
寒空の下、真っ赤な顔をして抱き合う二人。
その数メートル後ろで、般若のような形相で雪を睨みつける神田。
彼にとってこの時間は、千年伯爵との戦いよりも、ある意味、地獄だった。
薄暗い安宿の一室。
天井は低く、壁紙はところどころ剥がれ、風が吹けば窓枠が小さく鳴る。
その中央に置かれた、脚のガタつく古い机。
僕は、そこに身を屈めるようにして座っていた。
ランプの淡い光が、白い便箋の上にだけ小さな世界を作っている。
その世界の前で、僕はしばらく動けずにいた。
使い古されたペン先を見つめ、静かに息を吐く。
「……柄にもないですね。僕が、こんなものを書くなんて」
左腕の呪いは、今も確かに脈打っている。
身体の奥では、十四番目の気配が低く囁く。
けれど――
今この瞬間だけは、そのどれよりも、この真っ白な便箋のほうが恐ろしかった。
書けば、消えない。
書けば、嘘にできない。
脳裏に浮かぶのは、ミナミの笑顔。
どれほど絶望が広がっていても、
どれほど世界が灰色に沈んでいても、
君が笑えば、そこだけが陽だまりになる。
その記憶が、彼の胸を締めつける。
(ああ……やっぱり、君なんだ)
震える指先で、最初の一文字を書く。
インクが滲む。
文字は歪み、揃わない。
マナを壊して以来、何度かペンを握ってきたはずなのに。
その重みは、今日に限ってやけに鋭い。
「文字を書くの…久しぶりだからかな……格好悪いな……」
小さく自嘲しながらも、ペンは止めない。
『汚い字で、すみません。どうか、がっかりしないでください』
誰に向けた謝罪なのか。
自分でも分からない。
この手紙に詰め込みたいのは、過酷な運命じゃない。戦いの記録でもない。
ただひとつ。
飲み込み続けてきた言葉。
――愛している。
(丁寧に書こうとするほど、うまくいかないな……)
窓の外を見上げる。
曇天。
月は隠れ、星も見えない。
それでも思う。
いつかこの手紙を、君の小さな手に渡せたなら。
あるいは、渡せずとも、風が運んでくれるのなら。
どうか。
君を苦しめてきた日々が、
少しでも、軽くなりますように。
書きかけの便箋をそっと折り、胸元に押し当てる。
鼓動が伝わる。
『 ……手、出して』
想像の中で、僕は笑う。
『 …これ』
受け取った君が、あの笑顔を見せてくれる光景。
叶う保証はない。
それでも。
戦いの中で初めて、自分のために抱いた願い。
それが、この手紙。
そして、たった一つの誓い。
――僕は、君を選ぶ。
どんな未来が待っていても。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
あの日、震える手で書き上げた手紙は結局、出せないままだった。
折り目のついた便箋は、今もコートの内ポケットにある。
体温で少しだけ温まって、それでも、まだ重い。
「アレン、そろそろ出よう」
ジョニーの声で、浅い眠りから引き戻される。
逃亡生活に、穏やかな朝なんて来ない。
追手。ノア。
そして何より――僕の中に巣食う“十四番目”。
夜明け前の冷たい霧の中へ足を踏み出しながら、僕はポケットを押さえた。
(……今日こそ、出そう)
君が夢に出てきたから。
――夢の中。
「あ……アレン! ジョニー! ……ついでに神田……!」
君は、教団を去った僕を追いかけてきた。
ボロボロのコートを着た僕を見ても。
呪いに侵食されつつあるこの腕を見ても。
君は、怯えなかった。
朝露に濡れた頬のまま、花が咲くみたいに笑った。
あの笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
甘くて、苦い決意。
――僕は、いつも君のそばにいるよ。
本当は、そう言いたい。
今すぐ駆け寄って、ポケットの手紙を突き出して。
この腕の中に、閉じ込めてしまいたい。
けれど。
「――っ、ダメだ……!」
僕の足が、止まった。
背筋を凍らせる殺気。
重く、濁った気配。
アポクリフォスか、ノアか。
どちらにせよ――
今、この場所に、君を立たせてはいけない。
僕のそばにいることは、君に“死”を近づけることと同じだ。
「アレン……?」
不安げに首を傾げる君。
その表情が、胸を締めつける。
溢れそうになる想いを、僕は無理やり飲み込んだ。
喉が焼けるみたいに痛い。
ポケットの中で、手紙がくしゃりと音を立てる。
「……来ないでください!!」
ほとんど悲鳴だった。
君の笑顔が、凍る。
「これ以上、僕に関わらないでください。……迷惑なんです」
心にもない言葉。
刃物みたいに鋭い嘘。
君の瞳から、光が消えていく。
その瞬間、僕の心臓が握り潰された。
本当は。
置いていきたくない。
抱きしめたい。
連れて行きたい。
でも。
今の僕にできる“愛し方”は、これしかない。
「……神田。ジョニー、行こう」
振り返らずに、駆け出す。
視界が涙で滲む。
足元が覚束ない。
「アレン! 待って、アレン!!」
君の泣き声が、背中に突き刺さる。
それでも、僕は振り返らない。
一度でも君の顔を見てしまったら。
理性が壊れてしまう。
僕はきっと、君を抱きしめてしまう。
そして、地獄へ連れていく。
――夢は、そこで終わる。
でも、これは夢だけじゃない。
あの日。
教団を去った日。
泣きじゃくる君が、追いかけてきた。
僕は、夢の中と同じことを言った。
(ごめんなさい。……ごめんなさい、ミナミ)
歩き続けながら、頬を冷たい風が打つ。
突然で、残酷な別れ。
ふたりで綴るはずだった“永遠”は、あまりにも簡単に砕けた。
それでも。
ポケットの中には、まだ手紙がある。
破れずに。
捨てられずに。
――僕が、君を選んだ証として。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
情報収集のために立ち寄った、雪深い街。
白く閉ざされた視界の中、僕は神田と並んで歩いていた。
ジョニーは別の通りを当たっている。
二手に分かれた方が効率がいい――それは建前で。
本当は、神田が僕を一人にしないためだと分かっている。
「勝手に消えるなよ」
ぶっきらぼうな声が、吹雪に紛れる。
「消えませんよ」
軽口で返すけれど、胸の奥がわずかに軋む。
消えるかもしれないのは、僕自身の方だ。
吹き荒れる雪が、街も足跡も、すべてを白く塗りつぶしていく。
その時だった。
――ぐらり。
内側から、何かが引き裂かれる。
「……っ、が……はっ……!」
壁に手をつき、膝を雪に落とす。
左目が灼けるように疼く。
脳裏に明滅する、ネアの影。
(来るな……今は……!)
息がうまく吸えない。
視界が歪む。
神田の気配が一瞬、遠のいた。
「おい、もやし――」
その声も、雪と痛みの奥に沈む。
苦痛に顔が歪む。
誰にも見せたくなかった顔。
エクソシストでも、希望でもない。
ボロボロで、惨めで、今にも消えてしまいそうな“素顔”。
その時。
雪のカーテンを割って、一足の靴が目の前に止まった。
「……アレン?」
心臓が跳ねる。
この声は。
夢じゃない。
凍りつく冷気の中で、その声だけが、確かな熱を持って僕に届く。
顔を上げる。
そこに立っていたのは――
教団にいるはずの、ミナミ。
「……な、ぜ……どうして……ここに……」
笑おうとする。
いつもの仮面を、無理やり被ろうとする。
でも。
指先ひとつ、動かせない。
涙と雪でぐしゃぐしゃの顔を、隠すことさえできない。
こんな姿を。
一番見られたくなかった君に、晒してしまった。
神田が背後で舌打ちする気配がした。
けれど、彼は何も言わない。
ただ一歩、距離を取る。
僕に、選ばせるみたいに。
ミナミが、凍えそうな僕の手を迷わず包み込んだ。
あの日。
僕が突き放したはずの、その手で。
「……その顔」
「……見ないでください……」
声が震える。
「今の僕は、君が知っている僕じゃない……」
ネアに侵され、呪いに縛られ、
守ると誓った人すら傷つける存在。
それが、今の僕だ。
視線を逸らそうとする。
でも、君は逃がさない。
「ううん」
静かな声。
「今、初めて……本当のアレンに会えた気がする」
息が止まる。
ミナミの瞳に映るのは、完璧なエクソシストじゃない。
強くも、格好良くもない。
ただの――
アレン・ウォーカー。
そのまっすぐな眼差しに、胸の奥で何かが崩れる。
守らなきゃ、と固め続けた殻。
強くあろうとする仮面。
全部、ひび割れていく。
ポケットの中で、あの手紙が存在を主張する。
震える夜に書いた言葉たち。
『愛している』
書けなかった一行。
でも。
もう、言葉はいらない。
雪の中で、君の温もりが僕に触れた瞬間。
押し殺してきた想いが、堰を切る。
「……っ」
涙が溢れる。
止められない。
君の掌を濡らしていく。
みっともなくて、情けなくて。
それでも。
これが僕の真実。
どんな手紙よりも、どんな誓いよりも雄弁に。
――僕は、君を愛している。
雪は降り続けている。
でも。
君の手の中だけは、確かに温かかった。
雪が、僕たちの間にしんしんと降り積もる。
白い静寂の中で、君の体温だけが現実だった。
涙を流し尽くしたあと、胸を締めつけていたあの鋭い痛みは、不思議なほど穏やかな熱へと変わっていた。
消えたわけじゃない。
でも、もう僕を壊す痛みではない。
僕は震える右手で、コートの内ポケットを探る。
何度も取り出しては戻し、握りしめては躊躇った、あの便箋。
角は擦り切れ、折り目は深く、インクは少し滲んでいる。
「……これ」
掠れた声が、白い空気に溶ける。
雪に濡らさないよう、両手で包み込みながら、僕はそれを君へ差し出した。
「……アレン?」
戸惑う君の瞳。
「出せなかったものです」
自嘲が滲む。
「不恰好で、字も汚くて、自分勝手なことばかり書いてあります。でも――」
そこで言葉を止める。
君の瞳を、真っ直ぐ見つめる。
もう仮面はいらない。
十四番目の影も。
今、この瞬間だけは、僕たちの間に入れない。
「これが、僕の……一人の人間としての、本当の言葉です」
君は震える指先で便箋を受け取り、ゆっくりと広げる。
雪が肩に積もる。
風が吹く。
でも君は目を逸らさない。
不揃いな文字を、一文字ずつ追っていく。
戦いのこと。
弱さのこと。
君の笑顔に救われた夜のこと。
そして。
――君を想ってる、という、たったそれだけの本音。
君の目から、大粒の涙がこぼれる。
紙の上に落ちて、インクを滲ませる。
最後の一行。
それは僕が、雪の街で君を再び抱き寄せた瞬間、心の中で書き足した言葉。
『僕を選んでくれて、ありがとう』
ミナミの肩が震える。
「……バカ、アレン。……遅すぎるよ」
泣きながら笑う。
その顔は、あの日と同じだ。
僕が守りたかった、最高の笑顔。
君が僕の胸に飛び込む。
小さな体温が、僕の鼓動と重なる。
遠くで、雪を踏む音。
神田の気配がある。
何も言わない。
ただ、背中で見守ってくれている。
「神田……すみません。もう少しだけ、時間をください」
風の向こうへ声を投げる。
返事はない。
でも、許された気がした。
僕は君を強く抱きしめる。
この想いを空へ放り投げたら、
冷たい風さえも、きっと優しくなる。
そんな錯覚さえ抱く。
「いつか、すべてが終わったら……」
君の耳元に顔を寄せる。
「今度は手紙じゃなくて、僕の口から伝えます」
誓いのように、静かに。
これから先、道はもっと険しくなる。
僕はまた、君を置いて地獄へ向かうかもしれない。
それでも。
この絆がある限り。
僕たちは、何度だって繋がれる。
雪はまだ、降り止まない。
けれど。
君の温もりと、綴り終えた本当の想いが、
僕の心臓を強く、温かく叩き続けていた。
生きて帰る理由が、
ここにある。
終わり
2026/02/20
これ…どんな気持ちで神田そこに居たんだろう……(´^ω^`)ブフォwwwというわけで、おまけを書いてみた。
〈 ~・ ›› ∋ )≪おまけ。
(……何を見せられてんだ、俺は)
神田は六幻を握りしめ、青筋を立てながら、わざとらしく二人から視線を逸らした。
視線の先にあるのは、ただの寒々しい雪の壁。
だが、背後からは「アレン……」「ミナミ……」という、甘ったるくて湿っぽい声が容悔なく鼓膜を震わせてくる。
(「君の隣で……」だぁ? 「本当の言葉」だぁ……?)
反吐が出る。
さっきまで死にそうなツラして雪に這いつくばってた野郎が、女の手を握った瞬間にこれだ。
もやしの分際で、いっちょ前にラブレターなんて持ち歩いてやがったのか。
「……ケッ」
神田は盛大に舌打ちをした。
本来なら「さっさと行くぞ」と首根っこを掴んで引きずっていくところだが、あの時アレンが見せた、剥き出しの素顔を思い出してしまい、どうしても刀を抜く気になれない。
(……ふん。あんな情けねェツラ晒しやがって。……これだから生きる目的がある奴は脆くて面倒なんだよ)
口では毒づきながらも、神田は二人を急かすことはしなかった。
ただ、あまりのラブラブな空気感の充満っぷりに、耐えきれなくなった彼は、ジョニーに通信を入れる。
「……おい、ジョニー。……まだか。……あぁ、もやしの脳味噌が完全に春を迎えやがった。……早くしろ、じゃなきゃ俺はこの女ごと、もやしを叩き斬る」
寒空の下、真っ赤な顔をして抱き合う二人。
その数メートル後ろで、般若のような形相で雪を睨みつける神田。
彼にとってこの時間は、千年伯爵との戦いよりも、ある意味、地獄だった。