Raindrop~雨音に隠した嘘
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【⠀雨音に隠した嘘⠀】
雨は、音を持っている。
街のざわめきを薄くして、足音を遠ざけて、
世界を静かに閉じ込める音。
石畳は濡れて光り、軒先から落ちる雫が、規則正しく弧を描く。
パン屋の前。
焼きたての小麦の匂いが、雨の冷たさに混ざっていた。
神田はそこで立ち止まる。
ただ濡れるままに店先を見つめていた。
(……まただ)
雨の日はいつもそうだ。
思い出したくないものが、
勝手に胸の奥から浮かび上がってくる。
記憶は優しくない。
忘れさせてもくれない。
ただ苦々しく、“そこにいる”。
一年前も、こんな匂いだった。
雨と、パンの匂い。
そして。
あいつの声。
~一年前~
任務帰りの午後だった。
空は灰色で、雨が降り始めたばかりだった。
神田は無言で歩いていた。
濡れた石畳を踏む足取りは早い。
……その後ろ。
ちょこ、ちょこ、と小さな足音がついてくる。
歩幅が違う。
神田が考え事をすると、いつもそうだ。
気づけば置いていってしまう。
「……」
ふと立ち止まり、振り返る。
少し離れたところで、ミナミもぴたりと止まっていた。
息を切らしているくせに、
泣きそうな顔にはならない。
ただ、待ってくれるのが嬉しいみたいに、
ぱっと笑う。
「……神田さん」
神田は小さく舌打ちした。
「遅ぇ」
「だって神田さん、歩くの速いんですもん。それに足の長さだって」
そう言いながら、またちょこちょこと近づいてくる。
雨粒が髪に落ちて、頬に滑っても、気にしていない。
神田が歩き出すと、ミナミもすぐ後ろを追う。
ちょこ、ちょこと離れそうで離れない距離。
それが妙に鬱陶しくて。
妙に、安心する。
神田は視線を前に戻したまま、低く言った。
「少し休むか」
「はい」
神田たちは1番近くにあったお店の軒下に入る。それがパン屋だった。
「雨…早く止むといいですね」
ミナミが服に着いた雨粒をはたきながらそう言った。
近い。
いつもの距離。
いつもの無遠慮さ。
いつもの、鬱陶しいほど真っ直ぐな笑顔。
「そうだな」
神田が短く言うと、
「寒くないですか?大丈夫ですか?」
と、当然みたいに彼の腕を引いた。
「おい!」
パン屋の軒先の甘い匂い。
そしてもっと近くなった距離。
へへへ、と笑うミナミ。
ふたりの間に落ちる雨音だけが、時間を伸ばしていく。
ミナミは何も言わず、少しだけ空を見上げていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……神田さんって、ひとりで平気っていう顔しますよね」
神田の眉がわずかに動く。
「どういう意味だ」
ミナミは困ったように笑った。
「ただ……寂しそうだなって思っただけ」
神田は何も返さない。
ミナミは慌てて笑いで誤魔化す。
「でもでも、ほら、今は私がいますし!たまには甘えてくれてもいいんですよ」
「馴れ合うつもりなんざねぇよ」
「もう素直じゃないんだから」
そのやりとりは、いつも通りだった。
いつも通りのはずだった。
なのに。
雨が落ちたミナミの髪を、神田の指が払った。
ほんの一瞬。
触れた温度に、ミナミが息を止めたのが分かった。
神田も自分の動きに気づいて、すぐに手を引いた。
「……ゴミついてた」
言い訳みたいな声。
ミナミは笑うべきだった。
笑って、終わるべきだった。
なのに。
言葉が落ちた。
「わたし……神田さんをひとりにしたくないよ」
神田の視線が、僅かに揺れる。
ミナミは小さく笑おうとして、うまくいかなかった。
「だって、神田さんって……強い顔してるのに、ほんとは誰より、寂しさに慣れようとしてるみたいで」
神田の指がぴくりと動いたが、言葉は出ない。
「わたしが隣にいるときくらい、無理しなくていいのにって思うんです」
ここで神田の袖を摘むミナミ。
「笑わせてあげたいし」
雨粒が頬を滑る。
「守りたいし」
ミナミは続ける。
「味方でいたい」
ひとつひとつ言葉を落とすたびに、 自分の気持ちが戻れない場所へ進んでいくのが分かった。
そして、最後に。
ミナミは俯いた。
言ってしまえば壊れるのに、 言わなければ、ずっとこのままだ。
「……えっと」
声がかすれる。
「つまり……その……」
神田の袖を掴んだまま、 小さく、小さく顔を上げる。
「あなたのことが」
雨の音に紛れそうなくらいの声で。
「……好き」
雨音が止まった気がした。
神田の胸の奥が、鈍く痛んだ。
神田の目が大きく開かれ、そして、ゆっくりと歪んでいく。
「それは……俺の隣にいたいって意味か?」
ミナミは頬をかいて、困ったように笑う。
「俺と抱き合いたいとかそういう意味か?」
ミナミが何か言うその前に、神田の口が動いた。
「気持ち悪い」
ミナミの笑みが、止まる。
神田の袖から指が離れる。
ミナミは崩れない。泣かない。
ただ、苦笑いのまま目を逸らした。
「……そうですよね」
それから、ミナミは1歩横にずれ、何も言わなかった。
雨は相変わらず降っている。
それなのに。
神田の胸の奥だけ、妙に熱かった。
痛い。
鈍い痛みが、心臓の裏側を爪で引っ掻くみたいに残っている。
(……何やってる)
口の中に、苦いものが広がる。
気持ち悪い。
そう言ったのは自分なのに。
その言葉がいちばん深く刺さったのは、自分のほうだった。
違う、そんなこと思ってない。
ただ、これ以上近づかれたら終わると思った。
この手を伸ばしたら、
もう二度と引き返せなくなると思った。
だから。
傷つけるしかなかった。
自分を嫌いになってもらうしかなかった。
楽にさせるための嘘が、いちばん残酷な形で口から落ちただけだ。
吐き気がするのは、ミナミにじゃない。
自分だ。
守るために突き放したふりをして、
本当は――手放せないくせに。
ミナミは泣かない。
怒らない。
ただ、笑うのをやめただけ。
それが、何より残酷だった。
神田は一歩も動けずに、ミナミの横顔を見つめる。
手を伸ばせば触れられる距離なのに、
その距離が、途方もなく遠い。
“ ……触れるな”
胸の奥で、何かが叫ぶ。
触れてはいけない。
分かっている。
愛したらいけない。
神田の頭の奥に、他人の記憶が、雨の匂いと一緒に滲んでくる。
――眩しい笑顔の女の声。
――黄金の麦畑。
――「会いたい」と何度も繰り返す、知らない感情。
移植された脳が残した“渇き”。
誰かを求める苦しさ。
失うことが前提の執着。
(だから俺は蓋をする)
恋人を作ると、守りたいものができると、
世界は一気に脆くなる。
任務のたびに思う。
今日が最期になるかもしれないと。
死ぬのは自分だけでいい。
誰かの涙を背負って死ぬのは、耐えられない。
だから。
好きになるな。
必要以上に近づくな。
優しくするな。
神田はそうやって、自分を縛り続けてきた。
なのに。
雨に濡れたミナミの髪を払った指先の温度が、まだ消えない。
たった一瞬で、胸の奥が“生きてしまった”。
(……面倒くせぇ)
神田は奥歯を噛み締める。
自分の中で何かが壊れそうで、それを壊さないために、もっと壊すしかなくなる。
手を伸ばして振り向かせたい。
謝りたい。
違う、と言いたい。
(本当は気持ち悪いのは、お前じゃない。
俺のほうだ。愛なんてものに、手を伸ばしたくなる自分が)
でも、神田は動かない。
喉が、凍っている。
ミナミは何も言わずに、雨の中を、静かに歩き出していた。
その背中が遠ざかるたび、神田の胸の奥は、
まるで雨粒が落ちるみたいに、ひとつずつ痛みを増やしていった。
神田は手を伸ばしかけて。
――やめた。
~現在~
雨の中、パン屋の匂いが胸を刺す。
神田はゆっくり息を吐く。
(……あの時)
言葉を選べばよかったのか?
違う。
優しくすればよかったのか?
違う。
神田は知っている。
自分がミナミを拒んだ理由は、そんな綺麗なものじゃない。
――怖かった。
守るものを持つのが。
大事だと思ってしまうことが。
戦いの中で、それは枷になる。
失う痛みは、耐えられない。
神田の脳の奥には、“会いたい”と叫ぶ
移植された記憶の残骸がまだ眠っている。
誰かを愛することが、どれほど厄介で、どれほど残酷か。
それを、神田は知ってしまった。
だから蓋をした。
ミナミごと。
「気持ち悪い」と突き放して。
……なのに。
雨が降るたび、思い出す。
あいつの顔。
声。
あの苦笑い。
だけど1番忘れられないのは、胸の奥にしまったミナミへの気持ち。
(俺は)
神田は目を伏せる。
(…何してんだ)
記憶の中を。
記憶の中で。
戻ってこいと言えない。
忘れられもしない。
雨粒が頬を滑り落ちる。
それが涙かどうかも、自嘲気味に笑う神田には分からなかった。
(戻ろう。あいつの所へ)
神田は六幻を強く握りしめた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
教団の廊下に、雨の匂いが付いた。
床に落ちた水滴が、ぽた、ぽた、と小さな音を立てる。
濡れたコートのまま、神田が大股で歩いていく。
まっすぐ、迷いもなく。
──事務室。
任務のない日のミナミは大抵、ここで手伝いをしている。
扉が開く音。
「……え?」
顔を上げたミナミが、目を見開いた。
「神田さん…?」
髪から水が垂れている。 肩も、袖も、びしょ濡れだった。
「ど、どうしたの!?びしょ濡れで…」
ミナミが慌てて立ち上がる。
「先に着替えてください!風邪ひきますよ!」
神田は動かない。
濡れた前髪の奥、 視線だけがミナミを捕らえている。
「そんなことどうでもいい」
低い声。
ミナミが固まる。
「え…?」
神田が一歩、距離を詰める。
「聞け」
「神田さん…?」
呼吸が、微妙に乱れている。
任務帰りのそれじゃない。
もっと――焦りみたいな。
「……一年前」
その言葉だけで、 ミナミの顔から表情が抜けた。
神田は目を逸らさない。
「雨の日に言った」
喉の奥が擦れる。
「お前に」
ミナミの唇が震える。
「……やめてください」
小さな声。
でも神田は止まらない。
「“ 気持ち悪い”って」
ミナミの指先が、ぎゅっと握られる。
神田の胸の奥が、痛む。
今さら。
今さらなのに。
「…あれは…嘘だ」
ミナミが顔を上げる。
「え…?」
神田の声が、掠れる。
「お前に諦めさせたかった」
「……っ」
「俺が、お前を好きになるのが怖かった」
雨の音が、 遠くでまだ鳴っている気がした。
ミナミの目が揺れる。
「神田さん…それ…」
神田は一歩、さらに近づいた。
逃げる隙間もない距離で。
「このまま死ぬには後味が悪いんだよ」
その声は、ほとんど吐息だった。
「俺は」
唇が動く。
迷いを噛み砕くみたいに。
「お前が好きだ」
事務室内の全ての音が止まった。
みんなの視線がふたりに集中している。
「……遅いです」
震える声で、笑う。
「もう諦めなきゃって考えてたところでした」
そう言うとポケットからハンカチを取り出した。
ミナミは少し困った顔で笑う。
「……気持ち悪いって言われても、好きでいるの、やめられなかった。だから…嬉しいです」
そう言うとミナミは背伸びをして、そのハンカチで雨で濡れた神田の頭を撫でるように拭いた。
その瞬間神田の腕が伸びた。
逃げ場なんて与えない速さで、ミナミを腕の中に閉じ込める。
濡れた団服は冷たいのに、伝わる体温は暖かい。
「……っ、神田さん……」
呼んだ声は小さく震えた。
神田は答えない。
ただ、抱く力だけが強くなる。
まるで確かめるみたいに。
失わないように。
事務室のみんなから小さい黄色い声が上がった。
だけどそんなものは聞こえないと言う風に、
ミナミの肩口に埋めてた神田の顔が少しだけ上がる。
視線が絡み、言葉より先に、息が触れた。
ミナミは動けなかった。
神田の指先が頬に触れる。
そして、唇が重なった。
抑えきれなかったみたいに、迷いなく、深く、息が混ざる。
呼吸の境界が溶けていく。
もう一度黄色い声が上がった。
ミナミの睫毛が震え、小さく息が漏れた。
神田は離れない。
触れているだけで足りないと知っているみたいに、ほんの少し角度を変えて、更に深く舌先同士を抱き合わせてくる。
雨音も、事務室のざわめきも、全部遠くなった。世界には、ふたりの鼓動だけ。
やがて、唇が離れる。
名残惜しさを残したまま、神田は額同士が引っ付きそうな距離で囁いた。
「…ミナミ…俺は一生お前を」
掠れた声。
怒っているみたいで、
壊れそうなくらい必死だった。
「離さない」
ミナミの目が潤む。
神田の腕がまた強くなる。
逃がさない。
「好きだ」
言葉は短いのに、
一年分の痛みが詰まっていた。
終
2026/01/25
あとがき≫( ∈ ‹‹ ・~ 〉
ここまで読んでくださってありがとうございました。
この妄想の中の神田にとって、雨は優しいものに見えて、いちばん優しくないものです。
忘れたい記憶を、静かに連れてくるから。
神田はきっと、あのときミナミを傷つけたかったのではなくて、傷つけるしかなかったんです。
守りたいと思った瞬間に、それが枷になることを知っているから。
「気持ち悪い」なんて嘘を、雨音に混ぜて隠して。
それでも消えない恋心を、後悔として受け止めてきちんと伝える神田。
急いで戻ってきた感が出せてたらいいな。
だけど、大勢の前で( *´艸`)
ミナミが振らなかったから良かったけど、振ってたらシャレにならん(笑)
雨は、音を持っている。
街のざわめきを薄くして、足音を遠ざけて、
世界を静かに閉じ込める音。
石畳は濡れて光り、軒先から落ちる雫が、規則正しく弧を描く。
パン屋の前。
焼きたての小麦の匂いが、雨の冷たさに混ざっていた。
神田はそこで立ち止まる。
ただ濡れるままに店先を見つめていた。
(……まただ)
雨の日はいつもそうだ。
思い出したくないものが、
勝手に胸の奥から浮かび上がってくる。
記憶は優しくない。
忘れさせてもくれない。
ただ苦々しく、“そこにいる”。
一年前も、こんな匂いだった。
雨と、パンの匂い。
そして。
あいつの声。
~一年前~
任務帰りの午後だった。
空は灰色で、雨が降り始めたばかりだった。
神田は無言で歩いていた。
濡れた石畳を踏む足取りは早い。
……その後ろ。
ちょこ、ちょこ、と小さな足音がついてくる。
歩幅が違う。
神田が考え事をすると、いつもそうだ。
気づけば置いていってしまう。
「……」
ふと立ち止まり、振り返る。
少し離れたところで、ミナミもぴたりと止まっていた。
息を切らしているくせに、
泣きそうな顔にはならない。
ただ、待ってくれるのが嬉しいみたいに、
ぱっと笑う。
「……神田さん」
神田は小さく舌打ちした。
「遅ぇ」
「だって神田さん、歩くの速いんですもん。それに足の長さだって」
そう言いながら、またちょこちょこと近づいてくる。
雨粒が髪に落ちて、頬に滑っても、気にしていない。
神田が歩き出すと、ミナミもすぐ後ろを追う。
ちょこ、ちょこと離れそうで離れない距離。
それが妙に鬱陶しくて。
妙に、安心する。
神田は視線を前に戻したまま、低く言った。
「少し休むか」
「はい」
神田たちは1番近くにあったお店の軒下に入る。それがパン屋だった。
「雨…早く止むといいですね」
ミナミが服に着いた雨粒をはたきながらそう言った。
近い。
いつもの距離。
いつもの無遠慮さ。
いつもの、鬱陶しいほど真っ直ぐな笑顔。
「そうだな」
神田が短く言うと、
「寒くないですか?大丈夫ですか?」
と、当然みたいに彼の腕を引いた。
「おい!」
パン屋の軒先の甘い匂い。
そしてもっと近くなった距離。
へへへ、と笑うミナミ。
ふたりの間に落ちる雨音だけが、時間を伸ばしていく。
ミナミは何も言わず、少しだけ空を見上げていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……神田さんって、ひとりで平気っていう顔しますよね」
神田の眉がわずかに動く。
「どういう意味だ」
ミナミは困ったように笑った。
「ただ……寂しそうだなって思っただけ」
神田は何も返さない。
ミナミは慌てて笑いで誤魔化す。
「でもでも、ほら、今は私がいますし!たまには甘えてくれてもいいんですよ」
「馴れ合うつもりなんざねぇよ」
「もう素直じゃないんだから」
そのやりとりは、いつも通りだった。
いつも通りのはずだった。
なのに。
雨が落ちたミナミの髪を、神田の指が払った。
ほんの一瞬。
触れた温度に、ミナミが息を止めたのが分かった。
神田も自分の動きに気づいて、すぐに手を引いた。
「……ゴミついてた」
言い訳みたいな声。
ミナミは笑うべきだった。
笑って、終わるべきだった。
なのに。
言葉が落ちた。
「わたし……神田さんをひとりにしたくないよ」
神田の視線が、僅かに揺れる。
ミナミは小さく笑おうとして、うまくいかなかった。
「だって、神田さんって……強い顔してるのに、ほんとは誰より、寂しさに慣れようとしてるみたいで」
神田の指がぴくりと動いたが、言葉は出ない。
「わたしが隣にいるときくらい、無理しなくていいのにって思うんです」
ここで神田の袖を摘むミナミ。
「笑わせてあげたいし」
雨粒が頬を滑る。
「守りたいし」
ミナミは続ける。
「味方でいたい」
ひとつひとつ言葉を落とすたびに、 自分の気持ちが戻れない場所へ進んでいくのが分かった。
そして、最後に。
ミナミは俯いた。
言ってしまえば壊れるのに、 言わなければ、ずっとこのままだ。
「……えっと」
声がかすれる。
「つまり……その……」
神田の袖を掴んだまま、 小さく、小さく顔を上げる。
「あなたのことが」
雨の音に紛れそうなくらいの声で。
「……好き」
雨音が止まった気がした。
神田の胸の奥が、鈍く痛んだ。
神田の目が大きく開かれ、そして、ゆっくりと歪んでいく。
「それは……俺の隣にいたいって意味か?」
ミナミは頬をかいて、困ったように笑う。
「俺と抱き合いたいとかそういう意味か?」
ミナミが何か言うその前に、神田の口が動いた。
「気持ち悪い」
ミナミの笑みが、止まる。
神田の袖から指が離れる。
ミナミは崩れない。泣かない。
ただ、苦笑いのまま目を逸らした。
「……そうですよね」
それから、ミナミは1歩横にずれ、何も言わなかった。
雨は相変わらず降っている。
それなのに。
神田の胸の奥だけ、妙に熱かった。
痛い。
鈍い痛みが、心臓の裏側を爪で引っ掻くみたいに残っている。
(……何やってる)
口の中に、苦いものが広がる。
気持ち悪い。
そう言ったのは自分なのに。
その言葉がいちばん深く刺さったのは、自分のほうだった。
違う、そんなこと思ってない。
ただ、これ以上近づかれたら終わると思った。
この手を伸ばしたら、
もう二度と引き返せなくなると思った。
だから。
傷つけるしかなかった。
自分を嫌いになってもらうしかなかった。
楽にさせるための嘘が、いちばん残酷な形で口から落ちただけだ。
吐き気がするのは、ミナミにじゃない。
自分だ。
守るために突き放したふりをして、
本当は――手放せないくせに。
ミナミは泣かない。
怒らない。
ただ、笑うのをやめただけ。
それが、何より残酷だった。
神田は一歩も動けずに、ミナミの横顔を見つめる。
手を伸ばせば触れられる距離なのに、
その距離が、途方もなく遠い。
“ ……触れるな”
胸の奥で、何かが叫ぶ。
触れてはいけない。
分かっている。
愛したらいけない。
神田の頭の奥に、他人の記憶が、雨の匂いと一緒に滲んでくる。
――眩しい笑顔の女の声。
――黄金の麦畑。
――「会いたい」と何度も繰り返す、知らない感情。
移植された脳が残した“渇き”。
誰かを求める苦しさ。
失うことが前提の執着。
(だから俺は蓋をする)
恋人を作ると、守りたいものができると、
世界は一気に脆くなる。
任務のたびに思う。
今日が最期になるかもしれないと。
死ぬのは自分だけでいい。
誰かの涙を背負って死ぬのは、耐えられない。
だから。
好きになるな。
必要以上に近づくな。
優しくするな。
神田はそうやって、自分を縛り続けてきた。
なのに。
雨に濡れたミナミの髪を払った指先の温度が、まだ消えない。
たった一瞬で、胸の奥が“生きてしまった”。
(……面倒くせぇ)
神田は奥歯を噛み締める。
自分の中で何かが壊れそうで、それを壊さないために、もっと壊すしかなくなる。
手を伸ばして振り向かせたい。
謝りたい。
違う、と言いたい。
(本当は気持ち悪いのは、お前じゃない。
俺のほうだ。愛なんてものに、手を伸ばしたくなる自分が)
でも、神田は動かない。
喉が、凍っている。
ミナミは何も言わずに、雨の中を、静かに歩き出していた。
その背中が遠ざかるたび、神田の胸の奥は、
まるで雨粒が落ちるみたいに、ひとつずつ痛みを増やしていった。
神田は手を伸ばしかけて。
――やめた。
~現在~
雨の中、パン屋の匂いが胸を刺す。
神田はゆっくり息を吐く。
(……あの時)
言葉を選べばよかったのか?
違う。
優しくすればよかったのか?
違う。
神田は知っている。
自分がミナミを拒んだ理由は、そんな綺麗なものじゃない。
――怖かった。
守るものを持つのが。
大事だと思ってしまうことが。
戦いの中で、それは枷になる。
失う痛みは、耐えられない。
神田の脳の奥には、“会いたい”と叫ぶ
移植された記憶の残骸がまだ眠っている。
誰かを愛することが、どれほど厄介で、どれほど残酷か。
それを、神田は知ってしまった。
だから蓋をした。
ミナミごと。
「気持ち悪い」と突き放して。
……なのに。
雨が降るたび、思い出す。
あいつの顔。
声。
あの苦笑い。
だけど1番忘れられないのは、胸の奥にしまったミナミへの気持ち。
(俺は)
神田は目を伏せる。
(…何してんだ)
記憶の中を。
記憶の中で。
戻ってこいと言えない。
忘れられもしない。
雨粒が頬を滑り落ちる。
それが涙かどうかも、自嘲気味に笑う神田には分からなかった。
(戻ろう。あいつの所へ)
神田は六幻を強く握りしめた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
教団の廊下に、雨の匂いが付いた。
床に落ちた水滴が、ぽた、ぽた、と小さな音を立てる。
濡れたコートのまま、神田が大股で歩いていく。
まっすぐ、迷いもなく。
──事務室。
任務のない日のミナミは大抵、ここで手伝いをしている。
扉が開く音。
「……え?」
顔を上げたミナミが、目を見開いた。
「神田さん…?」
髪から水が垂れている。 肩も、袖も、びしょ濡れだった。
「ど、どうしたの!?びしょ濡れで…」
ミナミが慌てて立ち上がる。
「先に着替えてください!風邪ひきますよ!」
神田は動かない。
濡れた前髪の奥、 視線だけがミナミを捕らえている。
「そんなことどうでもいい」
低い声。
ミナミが固まる。
「え…?」
神田が一歩、距離を詰める。
「聞け」
「神田さん…?」
呼吸が、微妙に乱れている。
任務帰りのそれじゃない。
もっと――焦りみたいな。
「……一年前」
その言葉だけで、 ミナミの顔から表情が抜けた。
神田は目を逸らさない。
「雨の日に言った」
喉の奥が擦れる。
「お前に」
ミナミの唇が震える。
「……やめてください」
小さな声。
でも神田は止まらない。
「“ 気持ち悪い”って」
ミナミの指先が、ぎゅっと握られる。
神田の胸の奥が、痛む。
今さら。
今さらなのに。
「…あれは…嘘だ」
ミナミが顔を上げる。
「え…?」
神田の声が、掠れる。
「お前に諦めさせたかった」
「……っ」
「俺が、お前を好きになるのが怖かった」
雨の音が、 遠くでまだ鳴っている気がした。
ミナミの目が揺れる。
「神田さん…それ…」
神田は一歩、さらに近づいた。
逃げる隙間もない距離で。
「このまま死ぬには後味が悪いんだよ」
その声は、ほとんど吐息だった。
「俺は」
唇が動く。
迷いを噛み砕くみたいに。
「お前が好きだ」
事務室内の全ての音が止まった。
みんなの視線がふたりに集中している。
「……遅いです」
震える声で、笑う。
「もう諦めなきゃって考えてたところでした」
そう言うとポケットからハンカチを取り出した。
ミナミは少し困った顔で笑う。
「……気持ち悪いって言われても、好きでいるの、やめられなかった。だから…嬉しいです」
そう言うとミナミは背伸びをして、そのハンカチで雨で濡れた神田の頭を撫でるように拭いた。
その瞬間神田の腕が伸びた。
逃げ場なんて与えない速さで、ミナミを腕の中に閉じ込める。
濡れた団服は冷たいのに、伝わる体温は暖かい。
「……っ、神田さん……」
呼んだ声は小さく震えた。
神田は答えない。
ただ、抱く力だけが強くなる。
まるで確かめるみたいに。
失わないように。
事務室のみんなから小さい黄色い声が上がった。
だけどそんなものは聞こえないと言う風に、
ミナミの肩口に埋めてた神田の顔が少しだけ上がる。
視線が絡み、言葉より先に、息が触れた。
ミナミは動けなかった。
神田の指先が頬に触れる。
そして、唇が重なった。
抑えきれなかったみたいに、迷いなく、深く、息が混ざる。
呼吸の境界が溶けていく。
もう一度黄色い声が上がった。
ミナミの睫毛が震え、小さく息が漏れた。
神田は離れない。
触れているだけで足りないと知っているみたいに、ほんの少し角度を変えて、更に深く舌先同士を抱き合わせてくる。
雨音も、事務室のざわめきも、全部遠くなった。世界には、ふたりの鼓動だけ。
やがて、唇が離れる。
名残惜しさを残したまま、神田は額同士が引っ付きそうな距離で囁いた。
「…ミナミ…俺は一生お前を」
掠れた声。
怒っているみたいで、
壊れそうなくらい必死だった。
「離さない」
ミナミの目が潤む。
神田の腕がまた強くなる。
逃がさない。
「好きだ」
言葉は短いのに、
一年分の痛みが詰まっていた。
終
2026/01/25
あとがき≫( ∈ ‹‹ ・~ 〉
ここまで読んでくださってありがとうございました。
この妄想の中の神田にとって、雨は優しいものに見えて、いちばん優しくないものです。
忘れたい記憶を、静かに連れてくるから。
神田はきっと、あのときミナミを傷つけたかったのではなくて、傷つけるしかなかったんです。
守りたいと思った瞬間に、それが枷になることを知っているから。
「気持ち悪い」なんて嘘を、雨音に混ぜて隠して。
それでも消えない恋心を、後悔として受け止めてきちんと伝える神田。
急いで戻ってきた感が出せてたらいいな。
だけど、大勢の前で( *´艸`)
ミナミが振らなかったから良かったけど、振ってたらシャレにならん(笑)