2番目の女
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【⠀2番目の女】
ある日の朝、コムイが腰を曲げて、ほとんど半泣きのまま、ミナミの手をぎゅっと掴んできた。
「ミナミくん……聞いてくれないか……さっき、いきなり休めって言われたんだよ……!」
(ああ……それは言われるよね)
ミナミは心の中でそう思いながら、こくりと頷く。最近のコムイは、明らかに働きすぎだった。
寝る間も惜しんで仕事、仕事、仕事。
もう見るからに病人みたいな顔をしている。
「二日も急に休めって……どうしたらいいかわからないよ……」
大の大人が、うっうっと本気で泣いている。
ミナミは眉を八の字にして少し考え、それから、そっと微笑った。
「……じゃあ、どこか遠出しませんか? 私、行ってみたい場所があったんです」
その瞬間、コムイの涙がぴたりと止まる。
ウルウルした瞳で、ミナミを見上げる。
「……一緒に、いてくれるのかい?」
「はい」
「最近、コムイさん不足だったので。ちょうどいいかなって」
「ミナミちゃん……!」
ぎゅっと抱きついてくるコムイ。
「きゃっ、ちょっと、苦しい!苦しいですってば!」
身長差30センチのハグは窒息死しそうな程苦しかった。
「ミナミちゃん可愛いよ。リナリーの次に」
ぐさっ。
分かっていたことだけど、そう言われるとやっぱり傷つく。
「……じゃあ、出かける準備をしましょうか。お泊まりの準備をしましょうね」
ポンポンと宥めるように彼の背中を撫でて、気にしてない風をミナミは装った。
そんなやり取りのまま、二人の“初めてのお泊まり”は始まったのだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
汽笛が鳴り響くホームに、白い蒸気がもくもくと立ちこめていた。
発車寸前の汽車に向かって、二人は必死に走る。
「コムイさん早く早く!」
「ま、待ってぇ……!」
ミナミが先に飛び乗り、振り返って手を伸ばす。コムイがそれを掴んで、よろけながらも車内に転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
「ふふ、間に合いましたね」
座席に倒れ込むコムイの横に、ミナミが腰を下ろす。
コムイは眼鏡をずらしながら、魂が半分抜けた顔をしていた。
「ぜー……ぜー……運動不足が……」
「もう、ちゃんと寝てないからですよ」
そう言って、ミナミはくすっと笑う。
その表情は心配そうなのに、どこか嬉しそうでもあった。
汽車が動き出し、窓の外のホームがゆっくり後ろへ流れていく。
「ところで……行きたかった場所って、どこなんだい……」
「ゴウゴウの地獄巡りです!」
ミナミの声がぱっと明るくなる。
「地獄?」
「はい! あちこちから蒸気や湯気が吹き出してて、色んな“地獄”が並んでる観光地なんです」
「……なんだか物騒な名前だね」
「でも綺麗なんですって。青いのとか、赤いのとか、もくもくしてるそうですよ」
楽しそうに説明するミナミを見て、コムイは少しだけ表情を緩めた。
「それなら方舟を使えば、すぐ行けたのに」
「だめだめ。それじゃ旅の醍醐味が薄れちゃいます。それに……コムイさんと、こうして行きたかったし」
ミナミは少し照れたように目を伏せながら、でも隠しきれない嬉しさを浮かべて、コムイの腕にそっとコテンと頭を寄せた。
まるで“一緒にいられるのが嬉しくて仕方ない”と言っているみたいな、柔らかい笑顔で。
ミナミにくっつかれてコムイは一瞬フリーズする。
「……あ、ああ……そ、そうかい……」
そのまま動けなくなったコムイに、ミナミが優しく続ける。
「疲れてるでしょう? 着いたら起こしますから、寝てていいですよ」
「う、うん……」
……と返事はしたものの。
「でもさ、リナリーに言ってくるの忘れたよ……」
「……はい?」
「ボクが急にいなくなったら、探すんじゃないかな……」
「来る時に会ったからその時に言っときましたよ」
「あの子泣いてないかい?ボクがいないとすぐ泣くから……」
「いくつだと思ってるんですか。もう昔のリナリーではないですよ」
ミナミの頬が、じわっと膨れる。
「……コムイさん」
「ん?」
「今は、私と一緒の旅行です」
「そ、そうだけど……」
「リナリーさんの話は、後一回までにしてください」
ぴしっと言われて、コムイはちょっとだけたじろぐ。
「い、一回……?」
「はい。一回」
そう言ってミナミは、もう一度彼の腕にくっついた。
「それ以上は……拗ねますから」
コムイは観念したみたいに小さく笑う。
「……わかったよ。じゃあ、今からはミナミちゃんの時間だ」
汽車の揺れと、遠ざかる街の音の中で、コムイの声が少しだけ柔らかくなっていく。
でも、結局、
「……でもさ、リナリーが……」
を何度も口にしながら、彼はそのまま眠りに落ちてしまった。
ミナミはその横顔を見つめて、ちょっとだけむっとしながらも、そっと微笑う。
「……ほんと、手のかかる人」
汽車は、湯気と地獄の町へ向かって、のんびり走り続けた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
湯けむりが立ちこめる谷間に、黒ずんだ岩肌がむき出しになった一帯があった。
地面のあちこちから白い蒸気が噴き上がり、地の底から何かが唸っているような低い音が響いている。
「ここが――ゴウゴウ地獄です!」
ミナミがぱっと両手を広げて言うと、コムイは一瞬たじろいだ。
「……ご、ゴウゴウ…。流石に名前の通り怖いんだけど……」
足元では、赤茶色の熱水がぼこぼこと泡を立てている。
まるで巨大な鍋が地面の下で煮えたぎっているみたいだった。
「大丈夫ですよ、ちゃんと整備されてますから」
そう言って、ミナミはぐいっとコムイの腕を引く。
「ほら、見てください。あの噴き出してるの、すごくないですか?」
岩の裂け目から、勢いよく蒸気が吹き上がる。
ゴウッ、ゴウッと音を立てて、空に消えていくその様子は、確かに圧巻だった。
「うわ……これ、リナリーが見たら喜びそうだなぁ……」
コムイは思わずそんなことを言う。
「……はいはい。リナリーにお土産を買って帰りましょうね」
ミナミは苦笑しながらも、コムイの腕を離さない。
「でも、今は私と来てるんですから。たまには私の方も見てください」
そう言って、背伸びをして、彼の頬の横に顔を近づける。
「ほら、ゴウゴウって音、聞こえます?
地面が生きてるみたいで、ちょっとワクワクしません?」
コムイは一瞬、ミナミを見て、それから地獄の噴気を見た。
「……君と来てなかったら、たぶん怖いだけだったけどね」
小さく笑って、眼鏡を押し上げる。
「こういう場所、誰と見るかで全然違うんだなって、今ちょっと思ったよ」
ミナミの顔が、ほんのり赤くなる。
「わ、私は、私のことを守ってくれる人と来れば良かったと思ってますよ」
その言葉が落ちた瞬間、コムイの脳内でカチッと何かがズレた。
「……え?」
眼鏡の奥の目が、明らかに泳ぐ。
「……ま、待って。“守ってくれる人”……って、誰のこと?」
ゴウゴウと湧き上がる地獄の音とは裏腹に、
このふたりの周りだけ急に静まり返る。
「も、もしかして……アレン君?それとも、神田君?いや、クロウリー? え、まさか元帥!?」
勝手に候補を増やしていくコムイ。
「……あのね、ミナミちゃん。
君は今、とんでもない爆弾を落としたって自覚ある?」
ミナミの腕を掴んだまま、不安と焦りが丸出しの目で覗き込む。
「ボクの知らないところで、君を“守ってくれる誰か”がいるってこと!?」
地獄の湯けむりの中、コムイの心だけが氷点下。
情けなくて、必死で、
ちょっと可愛いくらいのショック顔。
「コムイさんに決まってるじゃないですか。
だから、たまには……私のことも守ってください!」
その瞬間。
コムイの顔が、驚きからニヤケ顔に、そして最後は瞳を潤ませるという怒涛の三段変化を起こした。
「……え、あ、ええええ!?
ぼ、ボク!? ぼ、ボクのこと!?」
眼鏡の奥で目が泳ぎ、ゴウゴウ地獄の湯気より真っ赤になる。
「ま、まさか……そんな……僕はただの室長で……君の上司で……リナリーの……兄で…」
そこまで言いかけて、ミナミのまっすぐな目に射抜かれる。
ミナミは、唇をきゅっとへの字に結んだ。
さっきまでの笑顔は消えて、明らかに拗ねた顔になる。
「……恋人だと思っていたのは、私だけだったんですね」
湯気の中で、声だけがやけに静かに落ちる。
「もう、コムイさんなんか知らない。いっつも私のことなんて心配もしないし、私のこと何も聞いてこないし……」
視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと続ける。
「どうせ私は……」
“二番目の女ですよ”
そう言い切ってしまいそうになって、ミナミはぐっと言葉を飲み込んだ。
違う。
それは言っちゃいけない。
リナリーは妹で、比べるものじゃないって、ちゃんと分かってる。
だから、その代わりに小さく鼻を鳴らして、
「……私だって、少しぐらい、
コムイさんの特別でいたいだけなのに」
そう呟く。
湯気の中で、コムイの胸にだけ、じわっと刺さる言葉だった。
(コムイさん、何も言ってくれない…)
「……私、帰ります」
ぽつりと落とした声は、怒鳴り声よりもずっと冷たかった。
ミナミは、コムイの腕からするりと手を離すと、そのまま先を歩き出す。
硫黄の匂いが立ち込めるゴウゴウ地獄の真ん中を、ずんずんと、迷いもなく。
「え、え? ちょ、ミナミちゃん? え?」
取り残されたコムイは、完全に思考が追いつかず、足元がぐらつく。
さっきまで一緒にいた温もりが消えて、地面がいきなり不安定になったみたいに、膝ががくがく震える。
「え……えぇ……?」
情けない声で名前を呼ぼうとしても、ミナミの背中はどんどん遠ざかる。
……数歩。
そこで、ミナミはふっと立ち止まった。
小さく、息を吐く音。
振り返ると、コムイは地獄の真ん中で、完全に迷子の顔をして立ち尽くしている。
その情けない姿を見て、ミナミはほんの一瞬だけ、視線を伏せた。
(……ほんと、世話のかかる人)
涙が出そうになるのを、ぐっと喉の奥で押し込む。
そして、ゆっくりと戻ってくる。
「……出口まで、ですよ」
感情を押し殺した、少し硬い声。
ミナミは、何も言わずにコムイの腕を掴み直す。
さっきよりも少し強く、離れないように。
「え、あ、あ……」
コムイは戸惑いながらも、その手を振りほどけない。
ミナミは、彼の方を見ない。
ただ前を向いたまま、歩き出す。
指先が微かに震えているのを、コムイだけが気づいた。
それは怒りじゃなくて、
必死に堪えている何かの震えだった。
出口の光が見えた瞬間、ミナミはコムイの腕を、ぱっと離した。
さっきまで掴んでいた手の温度が、名残惜しそうに空気に残る。
「……コムイさん」
少しだけ間を置いて、ミナミは俯いたまま言う。
「私、恥ずかしすぎて……さっきの地獄の中に飛び込みたいです」
冗談みたいな言い方なのに、声はほんの少しだけ震えている。
「恋人なんだって勘違いしてて…」
ミナミは無理に笑おうとする。
「…そりゃそうよね。今まで愛されてるなんて感じたこと無かった。…はぁ。ほんと、何やってるんだろ、私」
「ミナミちゃん…」
硫黄の匂いが薄れて、外の空気が流れ込んでくる。
でも胸の奥は、まだ、熱くて苦しいまま。
コムイの方を見ないまま、ぽつりと付け足す。
「……ちょっと、頭冷やしてきますね」
それは逃げでもあって、
でも、コムイの前で泣かないための必死な選択でもあった。
「……ミナミちゃん……」
背中を向けて歩き出すミナミを見て、コムイの胸の奥が、ずしんと重く沈んだ。
逃げるみたいに、でも必死に平気な顔をして去ろうとする背中。
さっきまで、あんなに自分の腕を掴んでいた手。
あんなに楽しそうに地獄を見ていた声。
遅れて、ようやく気づく。
彼女は、ただ一緒にいたかったんじゃない。
ただ守られたかったんでもない。
「……僕と……恋人でいたかったんだ……」
自分の胸の鈍さに、今さら殴られたみたいな気分になる。
仕事、教団、上司、兄――
自分はいつも、役割ばかりで動いてきた。
その中でミナミは、
“ミナミ”として、
“女の子”として、
隣にいたのに。
「……ああ……」
コムイは、額を押さえる。
なんてことを、してしまったんだろう。
「……待って……!」
気づいたときには、もう走っていた。
人混みを縫って、硫黄の匂いが残る通路を抜けて、涙を隠そうとする小さな背中を追いかける。
「ミナミちゃん!」
声を張り上げるのは、上司でも兄でもなく――
ただ、ひとりの男として。
身長、ごく普通のミナミは人混みに紛れて見つからない。
一方のコムイは 193cm。オロオロ。 首キョロキョロ。
「ミナミちゃーーん!?」と叫んでる。
まるで灯台のよう。
屋台の看板の後ろにミナミは隠れていたが、コムイの探してる顔を見ちゃったら、涙が止まって、心臓がバクバク鳴り始めた。
「……いない…………どこ行っちゃったの……」
コムイがしゅん…となってるのを、ミナミは見てしまい、堪らなくなってコムイの前に出た。
「あーもう!!なんでそんな顔するの!!
ほんとほっとけないんだけど!!」
ミナミが正面に現れると、コムイは息を切らしながら、ほっとしたように笑う。
「見つかって……よかった……」
「なんですか。私に用があるから呼んでたんですよね?」
きつい言い方なのに、どこか“呼ばれたから来た”が滲んでる。
コムイは、ほんの一瞬だけ迷ってから、はっきり言う。
「……行かないでほしかった」
ミナミが、ぴたりと動きを止める。
「君がいなくなったとき……胸の中が、急に……すごく、静かになって……」
ぎゅっと拳を握る。
「それが……怖かったんだ」
ミナミは何も言わない。
でも、視線が少しだけ揺れる。
「……ミナミちゃんがいないと、この旅行……意味がなくなる気がした」
コムイの声は、弱いけど真剣だった。
「だから……探した」
観光客のざわめきの中で、二人の間だけ、静かに空気が張る。
「……それはそうですよ、コムイさん」
ミナミが小さく言う。
「私が来たいところに来てるんですから、私が観光しないと意味ないですよ」
コムイは、申し訳なさそうに微笑った。
でも、その視線は、ミナミだけを見ていた。
「……そういう意味じゃ、なかったんだけどな」
ぽつりと落とす声は、聞こえたかどうかも分からないくらい小さい。
コムイはその言葉を聞いた瞬間、”一緒にいられるならそれでいい”って顔をしそうになって、でも次の瞬間、胸の奥がひどくざわつく。
――違う。
それじゃ、違う。
彼は眼鏡の奥で、ぐっと目を細めて、いつもの曖昧な笑顔を一度だけ消す。
「……ミナミちゃん」
呼び方が、少しだけ低くなる。
「君が、そんな言い方する時って……、すごく無理してる時だよね」
人混みのざわめきの中で、コムイの声だけが、不思議なくらいはっきり届く。
「こんなの、君が思ってる“私たち”じゃないだろ?」
ミナミの肩が、ぴくっと揺れる。
コムイは続ける。
いつもみたいに理屈っぽくもなく、
上司みたいでもなく、
兄としてでもなく。
ただの男として。
「……正直に言うとね。君がいなくなったとき、胸の中が、すごく……嫌な音がした」
自分でも何を言ってるのか測りかねるように、でも逃げずに言葉を選ぶ。
「リナリーの心配とは……違うんだ。君の場合は……」
視線が、少しだけ泳ぐ。
「……君が遠くに行く気がしたら、僕が取り残されるみたいで、怖くなる」
言ってしまってから、コムイは自分でも少し驚いた顔になる。
「……変だろ?」
でも、ミナミの方を見る。
逃げない。
「君を失うかもしれないって思った瞬間、
この旅行が意味を失うだけじゃなくて……
私の中の、何かも一緒に抜け落ちそうになった」
それは、恋人だと認めるほど器用じゃない、
でももう“ただの部下”や“妹みたいな存在”では片付けられない、不器用すぎる本音。
コムイは小さく、苦笑した。
「……これが、君にどう聞こえるかは分からないけど」
一歩だけ、ミナミに近づく。
「僕は……君と一緒にいる時間を、
“教団に戻るまでの暇つぶし”なんかにしたくない」
「コムイさん…それは残酷ですよ。私に諦める選択肢をくれないんですか?」
でも、そっと手を伸ばして、コムイの左手を握った。
「私にただの部下に戻って欲しかったら、この手を振りほどいてください。私をもう…楽にさせて下さい……」
ここまで言うと、また涙が視界を覆った。
もうこぼれ落ちる。その寸前。
コムイは、その言葉を聞いた瞬間、息が詰まった。
「……楽に、させて……?」
ミナミの手の中の自分の左手が、やけに熱く感じる。
指先が、少しだけ震えた。
「そんな言い方……反則だよ……」
笑おうとして、やっぱり笑えない。
「君はさ……僕が“守る側”でいることを、ちゃんと見てくれてたのに……
僕は……君が、傷ついてたことを見ないふりしてた」
ゆっくりと、でも確かに、指を絡める。
「……それで楽になれるなら、振りほどいてあげるべきなんだろうね」
ミナミの胸がズキンと音を立てた。
コムイは一瞬だけ、目を伏せて――
「でも……できない」
はっきりと、もう一度。
「君を失うなんて……そんなの、僕には選べない」
ミナミの手を、ぎゅっと引き寄せる。
「……苦しくても、一緒にいる方を選ぶ」
視線を上げて、まっすぐ。
「だから……離さない。
君がどんな顔してても、どんな気持ちでも」
「振りほどかなかった事、後悔しませんか?」
涙を拭いながら言うミナミを、コムイは少しだけ屈んで見つめた。
背の高い身体を折るみたいにして、視線の高さを合わせてくる。
「後悔なんて、しないよ」
柔らかい声なのに、そこだけは迷いがなかった。
「じゃあ、ただの部下に戻らないですけど、いいんですね?」
その問いに、コムイは一瞬だけ言葉に詰まってから、苦笑する。
「……君は本当に、逃げ道を残してくれないね」
でも、握った手は緩めない。
「この手を離さないってことは、君を“都合のいい部下”として扱えなくなるってことなんだ」
親指でミナミの涙を拭う。
「期待させるし、傷つけるし、それでも一緒にいるって覚悟を持つってことだ」
視線を上げる。
「……それでも離さないって決めたのは、僕だ」
少しだけ照れたように、でも誤魔化さず。
「だから、戻らなくていい。君はもう、ただの部下じゃない。……君が部下じゃなくなるのを、僕が一番、怖がってないってことだ」
逃げない目で、まっすぐ。
「戻らなくていい。むしろ……戻ってほしくない」
「……コムイさん、ごめんなさい」
絞り出すような声だった。
「ぇ? なんのごめんなの?」
戸惑ったように問い返されて、ミナミはぎゅっと唇を噛む。
「ち、違うの……。今回の旅行で、コムイさんを少しでも癒してあげたかったのに……私、こんなこと言って、苦しめるみたいになっちゃって……」
視線を落とし、小さく首を振る。
「私って……ほんと、ダメだなって思って……。だから……ごめんなさい」
自分を責めるみたいなその言葉に、硫黄の匂いが混じる空気が、やけに重く感じられた。
コムイの手を握ったまま、ミナミはただ俯き続けるしかなかった。
「……ミナミちゃん」
コムイは一度、深く息を吸ってから、ゆっくり口を開く。
「それはね、“謝ること”じゃない」
ミナミの手を包むみたいに、両手でぎゅっと握る。
「君が言ったのは、僕を大事に思ってる人の言葉だ」
視線を逸らしながら、少し困ったように笑う。
「……癒してあげたかった、なんて。
そんなこと言われたら、僕のほうがどうしていいかわからなくなるよ」
もう一度、親指で、涙の跡をそっとなぞる。
「君が苦しめたんじゃない。
僕が、ちゃんと向き合ってなかっただけだ」
少し間を置いて、低い声で。
「……だから、謝るのは僕のほう」
そして、逃げない目で見る。
「君は、ダメなんかじゃない。むしろ……優しすぎるくらいだよ」
ミナミがふと、横へ視線をやると、道行く観光客と目が合った。
そして、自分たちが周囲に見られていたことを知る。
(はっ、恥ずかしい!)
「こ、コムイさん!」
「ん?」
そして、コムイもそれを知る。
「とりあえず、どこか移動しましょうか…」
手を繋いだまま、ふたりは温泉街を歩くことにした。
温泉街は、夕方の光に包まれていた。
通りのあちこちから白い湯気が立ちのぼり、硫黄の匂いが甘く混じる。石畳の道の脇には、木造の店が並び、温泉まんじゅうや温泉卵を売る声が、どこかのんびりと響いていた。
ミナミとコムイは、手を繋いだまま、その中を歩いている。
観光客が行き交い、浴衣姿の人や、大きな荷物を抱えた旅行者が、ふたりの間をすり抜けていく。
そのたびに、ミナミの肩が小さく揺れて、コムイの腕にぶつかる。
それだけで、胸の奥がざわつくのに、
コムイは何も言わず、ただ歩調を合わせてくるだけだった。
通りの角を曲がると、地獄の一つが見えてくる。
真っ赤な池からごぼごぼと泡が立ち、熱気で空気がゆらゆらと揺れている。
柵の向こうでは、観光客が「すごい」「怖い」と言いながら写真を撮っていた。
「……すごいですね」
ミナミが、ぽつりと呟く。
「本当に、地獄みたい」
「うん……」
コムイも曖昧に頷くけれど、視線は地獄の池じゃなくて、ミナミの横顔に落ちていた。
湯気に包まれたその横顔は、少し赤くて、さっきまでの涙の跡がまだ残っている。
それを見て、胸の奥がちくりと痛む。
でも、何を言えばいいのか分からなくて、
結局、握った手に少しだけ力を込めることしか出来なかった。
「……あ、あそこ」
ミナミが指さす。
通りの向こうに、小さな橋がかかっていて、その下を温泉の湯が流れている。
川の表面には湯気が漂い、夕焼けをぼんやり映していた。
「きれい……」
思わず、ミナミが足を止める。
コムイも一緒に止まる。
ふたりの間には、言葉よりも重たい沈黙が落ちる。
観光客のざわめきと、遠くの地獄のごぼごぼという音だけが、やけに大きく聞こえる。
(……なんで、こんなに近いのに、遠く感じるんだろう。結局、これまでと同じ…のような気がする…)
ミナミは、繋がれた手を見つめながら、そんなことを考えていた。
コムイの手は、大きくて、温かくて、逃げる気なんてまるでないのに。
それでも、心の距離は、まだ埋まらない。
地獄の湯気が、ふたりを包み込む。
まるでこの温泉街そのものが、
“熱いのに、触れたら火傷する距離”を教えてくるみたいに。
――そのまま、ふたりはゆっくりと、次の地獄へ向かって歩き出した。
夕飯を済ませて、温泉街の灯りがゆらゆら揺れる通りを歩く。
石畳は昼間より少し冷たくて、湯けむりが街灯に溶けて白く霞んでいた。
下駄の音、浴衣の笑い声、どこかの店から漂う甘い匂い。
観光地の夜は賑やかなのに、ミナミの胸の中だけが妙に落ち着かない。
コムイは荷物を持ったまま、まだどこか気を抜いた顔で歩いている。
――その横顔を見て、ミナミは小さく息を吸った。
(言うなら今。明日じゃ遅い。いや、今でも遅いけど……!)
「……コムイさん」
呼ぶと、コムイがぱっと顔を向ける。
「ん?どうしたんだい、ミナミちゃん」
ミナミは視線を逸らして、指先をきゅっと握った。
「その……私、恥ずかしいことに……」
言いにくさで一拍、喉がつまる。
でも、ここで黙ったら“本当に恋人旅行”みたいになってしまう。
「コムイさんと……恋人同士だと思ってたので」
言った瞬間、耳の先まで熱くなる。
「部屋を……一つしか予約してないんです」
言い切ってから、ミナミは自分の顔を手で覆いたくなった。
(何言ってんだ私は!?)って、自分で自分にツッコミが止まらない。
コムイは一瞬、固まった。
「……え?」
その“え?”が、驚きなのか、理解が追いついてないのか、また別の何かなのか分からなくて、ミナミは余計に焦る。
「だ、だから!」
ミナミは慌てて続ける。
「着いたら、もう一部屋空いてないか聞いてみますね。満室だったら、私、近くの旅館に当たりますので!」
自分でも分かるくらい早口だった。
それでも、ちゃんと言わなきゃいけない気がして。
夜の温泉街の湯けむりが、二人の間をふわっと横切る。
ミナミは必死に平静な顔を作って、前を見たまま歩く。
……隣で、コムイが何か言いかけた気配がした。
ミナミが一歩、先を行こうとしたその時だった。
「……ミナミちゃん」
コムイが、足を止めたまま呼ぶ。
振り返ると、湯けむりの中で、いつもより少しだけ真剣な顔をしていた。
「僕たち……恋人同士じゃないの?」
その言葉に、今度はミナミの方が固まる。
「……え?」
温泉街のざわめきも、下駄の音も、急に遠くなったみたいに感じる。
「え……ちょ、え?」
さっきまで“私の勘違いでした”って結論にしようとしていた世界が、音を立ててひっくり返る。
「コムイさん……それ、どういう……」
コムイは少し困ったように眉を下げる。
「どういうって……そのままだよ」
目を逸らしながら、でも、ちゃんと続ける。
「……さっきさ」
コムイは、ミナミの手を握ったまま、視線を落とす。
「君の手を……離さなかっただろう?」
指先が、ぎゅっと絡む。
「嫌なら振りほどいてる。でも、僕は離さなかった」
一拍置いて、静かに続ける。
「それって僕が君と恋人になりたいって思ったからだよ。それが……ただの上司と部下だって言われたら、僕は混乱するよ」
湯けむりの中で、言葉だけがまっすぐ落ちる。
「だから、僕たちは……恋人なんだと思ってた」
ミナミの胸が、どくんと跳ねた。
「で、でも……コムイさん、私のこと……」
言いかけて、朝の“リナリーの次に”が、頭をよぎる。
コムイは、ミナミのその間を見逃さなかった。
「……ああ」
小さく息を吐く。
「僕がバカだった」
眼鏡の奥の目が、少しだけ真剣になる。
「守りたい人は何人かいる。でも、隣にいて欲しい人は……ミナミちゃんだけだ」
その言い方が、あまりにもコムイらしくて、まっすぐで、不器用で。
ミナミの喉が、きゅっと鳴る。
「……ずるいです」
小さく、でもはっきり言った。
「そんな言い方……」
コムイは少し困ったように笑って、それから、ミナミの手をそっと握り直す。
「じゃあ、こう言い直そうか」
指先が、ぎゅっと絡む。
「ミナミちゃん。僕は君と……恋人でいたい」
温泉街の灯りの中で、ミナミの目に、じわっと熱が溜まる。
(……なに、それ……今さら……)
でも、離れたくないと思ってしまうのが、もう答えだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
大浴場の湯気に包まれて、ミナミは肩までお湯に沈んでいた。
硫黄の匂いと、ぽわんとした熱が、さっきまでのゴウゴウ地獄の喧騒や、コムイとの言い合いを少しずつ溶かしていく。
(……はぁ…いい気持ち…)
湯に浮かぶ天井の灯りを見つめながら、ミナミはひとり笑みを浮かべた。
あんなふうに言い合ったのに、結局、同じ旅館に泊まって、同じ夜を迎えているのが、なんだか可笑しくて。
一方その頃、男湯のコムイはというと、湯船に浸かりながら、完全に上の空だった。
湯気の向こうに、さっきのミナミの顔が何度も浮かぶ。
(……今日はいろんな彼女を見たね……)
リナリーのこと、仕事のこと、いつもの責任感。
全部わかってるはずなのに、それでも手を離せなかった感触だけが、妙にリアルに残っている。
「……はぁ……」
深く息を吐くと、湯の中で小さな波紋が広がった。
やがて、風呂上がり。
ミナミが先に脱衣所から出ると、浴衣姿で髪をタオルに包んだまま、ちょっとそわそわしている。
頬は湯上がりでほんのり赤い。
そこに、少し遅れてコムイが現れる。
こちらも浴衣姿で、眼鏡はかけ直しているけれど、どこかぼーっとした表情。
湯上がりのミナミと目が合った瞬間、コムイは一瞬、言葉を失った。
浴衣の襟元から立ちのぼる湯気に、ほのかに石鹸と硫黄の匂いが混ざって、さっきまでの観光地の喧騒が嘘みたいに遠のく。
(……あれ……こんな……)
濡れた髪がまだ完全に乾いていなくて、肩口に少しだけ張りついている。
そのせいで、白い首筋やうなじがやけに目に入ってしまって、視線をどこに置けばいいのか分からない。
浴衣はきちんと着ているのに、湯上がりの体温のせいか、布の下の輪郭がいつもより柔らかく、近く感じる。
頬も、ほんのり赤くて――それが恥ずかしさなのか、湯の熱なのか、コムイには区別がつかなかった。
(……まずいな……)
さっきまで必死に理屈で考えていたはずなのに、今はただ、“ここにいる”という事実だけで、胸の奥がざわついてしまう。
ミナミが無意識にタオルからはみ出た髪を耳にかける、その仕草ひとつで、コムイの視線は、どうしてもそこに引き寄せられる。
“上司”とか、“部下”とか、そんな言葉が、ひどく遠く感じた。
今ここにいるのは、風呂上がりで、少し緊張していて、そして――間違いなく、ひとりの女性として、すぐ目の前に立っているミナミだった。
コムイは、思わず眼鏡を指で押し上げる。
(……こんなの……意識しない方が無理だよ……)
そう思いながらも、視線を逸らせない自分に、ちょっとだけ困っていた。
「……あ」
目が合う。
「……お、お風呂、どうでした?」
「え? あ、うん……よかったよ」
妙にぎこちない間。
湯上がりのコムイが隣に立った時、ミナミは思わず息を飲んだ。
浴衣の前をきちんと合わせているはずなのに、濡れた髪と、まだ少し火照った頬のせいで、教団にいる時の“頼れる上司”とは別人みたいに見える。
眼鏡の奥の瞳も、湯の熱で少し潤んでいて、やけに柔らかい。
普段は書類と妹のことで頭がいっぱいの人なのに、今はただ、目の前で呼吸している“大きな男の人”として存在している感じがして、胸の奥がざわっとする。
浴衣の袖からのぞく手首は意外と骨ばっていて、でも指先は優しそうで。
湯上がりの体温のせいで、近くにいるだけで、じんわりあたたかい気配が伝わってくる。
(……コムイさんって、こんな人だったっけ?)
無防備というわけじゃないのに、いつもより少しだけ、距離が近い。
眼鏡を外して髪をかき上げる仕草ひとつで、
普段は見えない額や目元があらわになって、ミナミの視線が思わずそっちに引き寄せられてしまう。
(……目が離せない。)
今のコムイは、頼れる上司でも、妹思いのお兄さんでもなくて、ただ“好きな人”として、目の前に立っているように見えた。
ミナミは、無意識に胸の奥をぎゅっと掴まれるみたいな感覚に、そっと息を整えた。
(……こんな姿、意識しないでいられるわけがないよ)
「…いいお湯でしたね」
「うん……」
「ちゃんと温まりました?」
「うん……」
「……部屋、戻りますか?」
「うん……」
並んで廊下を歩く。
カーペットを踏む音と、二人の足音だけが静かに響く。
部屋に入ると、さっきとは違う景色が広がっていた。
和ぶとんが、きれいに二組、並んで敷かれている。
ランプの柔らかな灯りが、畳と白い布団をほんのり照らしていて、それだけで、部屋の空気が少しだけ“夜のもの”に変わった気がした。
ミナミが一瞬、固まる。
「……わ……」
コムイも、なぜか少しだけ咳払いをする。
「……えっと……ちゃんと、敷かれてるね」
当たり前のことなのに、言い方が妙に変。
湯上がりの体温と、近い距離と、
さっきの“恋人”の話が、じわじわと現実味を帯びてくる。
和ぶとんが敷かれた部屋に、夜の静けさが落ちていた。
障子越しの灯りが、畳に柔らかい影をつくっている。
「はぁ……今日は、沢山歩いたね」
コムイが眼鏡を外して、ぽすっと布団に倒れ込む。
「ミナミちゃんも、こっち来なよ。床、冷えるでしょ?」
ぱたぱたと隣を叩く仕草は、いつもと同じなのに、さっきのやり取りのせいで、なぜか少しだけ意味が重い。
「……」
ミナミは一瞬ためらってから、そっと腰を下ろす。
距離は、肩が触れそうなほど近い。
コムイは横向きになって、ミナミの顔を見た。
「……まだ、怒ってる?」
「怒ってないです」
少しだけ、素っ気ない。
「……でも、変な気持ちです」
「変な?」
「恋人だって言われたのに……急に実感が追いつかなくて」
コムイは小さく笑った。
「じゃあ、慣れるまでここにいよう」
そう言って、布団の上でほんの少し距離を詰める。
畳の匂いと、布団のぬくもりと、すぐそばにいる体温。
「……ねえ、ミナミちゃん」
いつもより少しだけ低い声。
「このまま、もうちょっとだけ……ここにいてくれない?」
逃げ道をふさがない言い方なのに、妙に胸に響く。
ミナミは、視線を逸らしながら、そっと頷いた。
「……嫌だって言ったらどうするんですか?」
「え?」
「冗談ですよ」
コムイは困ったように笑って、ミナミの左手を握る。
「……君がそっちの布団に行ったらボクもそっちに行くだけだけどね」
布団の上で、二人の距離は、もう“恋人”の距離になっていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
教団の廊下に、やけに張りのある声が響いていた。
「はいはい、みんな集まって〜! お土産だよ〜!」
両腕いっぱいに包みを抱えたコムイが現れる。目の下の隈はすっかり消え、肌つやも妙にいい。見るからに“しっかり休んだ人”の顔だった。
「リナリー、これは甘いお菓子。こっちは紅茶だよ」
「ありがとう、兄さん。温泉どうだった?」
「そりゃもう良かったよ。次はリナリーも行こうね」
そこへリーバーもやってくる。
「室長、やけに顔色いいですね。いい休暇だったようで」
「うんうん、もうねぇ……聞かないでほしいくらいさ。いや、聞いて」
コムイは照れたように笑いながら、包みを配り続ける。
「そりゃもう、ミナミくんに元気をもらったからね……」
その言い方が妙に柔らかくて、周囲が一瞬だけ静かになる。
「……なるほど」
「……そういうことですか」
誰もそれ以上突っ込まない。
リナリーはにっこりと笑う。
「兄さん。良かったね」
コムイは急ににこっと明るくなって、リナリーの肩に手を置いた。
「ねえリナリー。もしかしたらさ……そのうち、お姉さんができるかもしれないよ」
「え?」
「そして甥っ子と姪っ子も作ってあげるからね!」
リナリーの目がぱっと輝く。
「ほ、ほんと!? 兄さん!」
(……これで妹離れしてくれるかしら……)
そんな淡い期待を胸に、リナリーはちょっと嬉しそうに笑った。
その少し離れた机で、ミナミは書類を整理しながら仕事をしていた。
ペンを走らせていた手が、ぴたりと止まる。
(……え!?)
今、何て言いました?
甥っ子と姪っ子?
お姉さん?
顔を上げるわけにもいかず、ミナミは必死に平静を装って書類をめくる。
心臓だけが、やけにうるさかった。
一方のコムイはというと、完全にご機嫌だ。
「さあさあ、遠慮しないで持ってって! ほら、君も、君も」
……ただし、ミナミの机の前だけは、なぜかスルーされている。
それがまた、余計に意味深だった。
教団の空気は、仕事中なのにどこかそわそわしていて、“何かあった”のが全員にバレバレな午後だった。
終わり。20260109
ある日の朝、コムイが腰を曲げて、ほとんど半泣きのまま、ミナミの手をぎゅっと掴んできた。
「ミナミくん……聞いてくれないか……さっき、いきなり休めって言われたんだよ……!」
(ああ……それは言われるよね)
ミナミは心の中でそう思いながら、こくりと頷く。最近のコムイは、明らかに働きすぎだった。
寝る間も惜しんで仕事、仕事、仕事。
もう見るからに病人みたいな顔をしている。
「二日も急に休めって……どうしたらいいかわからないよ……」
大の大人が、うっうっと本気で泣いている。
ミナミは眉を八の字にして少し考え、それから、そっと微笑った。
「……じゃあ、どこか遠出しませんか? 私、行ってみたい場所があったんです」
その瞬間、コムイの涙がぴたりと止まる。
ウルウルした瞳で、ミナミを見上げる。
「……一緒に、いてくれるのかい?」
「はい」
「最近、コムイさん不足だったので。ちょうどいいかなって」
「ミナミちゃん……!」
ぎゅっと抱きついてくるコムイ。
「きゃっ、ちょっと、苦しい!苦しいですってば!」
身長差30センチのハグは窒息死しそうな程苦しかった。
「ミナミちゃん可愛いよ。リナリーの次に」
ぐさっ。
分かっていたことだけど、そう言われるとやっぱり傷つく。
「……じゃあ、出かける準備をしましょうか。お泊まりの準備をしましょうね」
ポンポンと宥めるように彼の背中を撫でて、気にしてない風をミナミは装った。
そんなやり取りのまま、二人の“初めてのお泊まり”は始まったのだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
汽笛が鳴り響くホームに、白い蒸気がもくもくと立ちこめていた。
発車寸前の汽車に向かって、二人は必死に走る。
「コムイさん早く早く!」
「ま、待ってぇ……!」
ミナミが先に飛び乗り、振り返って手を伸ばす。コムイがそれを掴んで、よろけながらも車内に転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
「ふふ、間に合いましたね」
座席に倒れ込むコムイの横に、ミナミが腰を下ろす。
コムイは眼鏡をずらしながら、魂が半分抜けた顔をしていた。
「ぜー……ぜー……運動不足が……」
「もう、ちゃんと寝てないからですよ」
そう言って、ミナミはくすっと笑う。
その表情は心配そうなのに、どこか嬉しそうでもあった。
汽車が動き出し、窓の外のホームがゆっくり後ろへ流れていく。
「ところで……行きたかった場所って、どこなんだい……」
「ゴウゴウの地獄巡りです!」
ミナミの声がぱっと明るくなる。
「地獄?」
「はい! あちこちから蒸気や湯気が吹き出してて、色んな“地獄”が並んでる観光地なんです」
「……なんだか物騒な名前だね」
「でも綺麗なんですって。青いのとか、赤いのとか、もくもくしてるそうですよ」
楽しそうに説明するミナミを見て、コムイは少しだけ表情を緩めた。
「それなら方舟を使えば、すぐ行けたのに」
「だめだめ。それじゃ旅の醍醐味が薄れちゃいます。それに……コムイさんと、こうして行きたかったし」
ミナミは少し照れたように目を伏せながら、でも隠しきれない嬉しさを浮かべて、コムイの腕にそっとコテンと頭を寄せた。
まるで“一緒にいられるのが嬉しくて仕方ない”と言っているみたいな、柔らかい笑顔で。
ミナミにくっつかれてコムイは一瞬フリーズする。
「……あ、ああ……そ、そうかい……」
そのまま動けなくなったコムイに、ミナミが優しく続ける。
「疲れてるでしょう? 着いたら起こしますから、寝てていいですよ」
「う、うん……」
……と返事はしたものの。
「でもさ、リナリーに言ってくるの忘れたよ……」
「……はい?」
「ボクが急にいなくなったら、探すんじゃないかな……」
「来る時に会ったからその時に言っときましたよ」
「あの子泣いてないかい?ボクがいないとすぐ泣くから……」
「いくつだと思ってるんですか。もう昔のリナリーではないですよ」
ミナミの頬が、じわっと膨れる。
「……コムイさん」
「ん?」
「今は、私と一緒の旅行です」
「そ、そうだけど……」
「リナリーさんの話は、後一回までにしてください」
ぴしっと言われて、コムイはちょっとだけたじろぐ。
「い、一回……?」
「はい。一回」
そう言ってミナミは、もう一度彼の腕にくっついた。
「それ以上は……拗ねますから」
コムイは観念したみたいに小さく笑う。
「……わかったよ。じゃあ、今からはミナミちゃんの時間だ」
汽車の揺れと、遠ざかる街の音の中で、コムイの声が少しだけ柔らかくなっていく。
でも、結局、
「……でもさ、リナリーが……」
を何度も口にしながら、彼はそのまま眠りに落ちてしまった。
ミナミはその横顔を見つめて、ちょっとだけむっとしながらも、そっと微笑う。
「……ほんと、手のかかる人」
汽車は、湯気と地獄の町へ向かって、のんびり走り続けた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
湯けむりが立ちこめる谷間に、黒ずんだ岩肌がむき出しになった一帯があった。
地面のあちこちから白い蒸気が噴き上がり、地の底から何かが唸っているような低い音が響いている。
「ここが――ゴウゴウ地獄です!」
ミナミがぱっと両手を広げて言うと、コムイは一瞬たじろいだ。
「……ご、ゴウゴウ…。流石に名前の通り怖いんだけど……」
足元では、赤茶色の熱水がぼこぼこと泡を立てている。
まるで巨大な鍋が地面の下で煮えたぎっているみたいだった。
「大丈夫ですよ、ちゃんと整備されてますから」
そう言って、ミナミはぐいっとコムイの腕を引く。
「ほら、見てください。あの噴き出してるの、すごくないですか?」
岩の裂け目から、勢いよく蒸気が吹き上がる。
ゴウッ、ゴウッと音を立てて、空に消えていくその様子は、確かに圧巻だった。
「うわ……これ、リナリーが見たら喜びそうだなぁ……」
コムイは思わずそんなことを言う。
「……はいはい。リナリーにお土産を買って帰りましょうね」
ミナミは苦笑しながらも、コムイの腕を離さない。
「でも、今は私と来てるんですから。たまには私の方も見てください」
そう言って、背伸びをして、彼の頬の横に顔を近づける。
「ほら、ゴウゴウって音、聞こえます?
地面が生きてるみたいで、ちょっとワクワクしません?」
コムイは一瞬、ミナミを見て、それから地獄の噴気を見た。
「……君と来てなかったら、たぶん怖いだけだったけどね」
小さく笑って、眼鏡を押し上げる。
「こういう場所、誰と見るかで全然違うんだなって、今ちょっと思ったよ」
ミナミの顔が、ほんのり赤くなる。
「わ、私は、私のことを守ってくれる人と来れば良かったと思ってますよ」
その言葉が落ちた瞬間、コムイの脳内でカチッと何かがズレた。
「……え?」
眼鏡の奥の目が、明らかに泳ぐ。
「……ま、待って。“守ってくれる人”……って、誰のこと?」
ゴウゴウと湧き上がる地獄の音とは裏腹に、
このふたりの周りだけ急に静まり返る。
「も、もしかして……アレン君?それとも、神田君?いや、クロウリー? え、まさか元帥!?」
勝手に候補を増やしていくコムイ。
「……あのね、ミナミちゃん。
君は今、とんでもない爆弾を落としたって自覚ある?」
ミナミの腕を掴んだまま、不安と焦りが丸出しの目で覗き込む。
「ボクの知らないところで、君を“守ってくれる誰か”がいるってこと!?」
地獄の湯けむりの中、コムイの心だけが氷点下。
情けなくて、必死で、
ちょっと可愛いくらいのショック顔。
「コムイさんに決まってるじゃないですか。
だから、たまには……私のことも守ってください!」
その瞬間。
コムイの顔が、驚きからニヤケ顔に、そして最後は瞳を潤ませるという怒涛の三段変化を起こした。
「……え、あ、ええええ!?
ぼ、ボク!? ぼ、ボクのこと!?」
眼鏡の奥で目が泳ぎ、ゴウゴウ地獄の湯気より真っ赤になる。
「ま、まさか……そんな……僕はただの室長で……君の上司で……リナリーの……兄で…」
そこまで言いかけて、ミナミのまっすぐな目に射抜かれる。
ミナミは、唇をきゅっとへの字に結んだ。
さっきまでの笑顔は消えて、明らかに拗ねた顔になる。
「……恋人だと思っていたのは、私だけだったんですね」
湯気の中で、声だけがやけに静かに落ちる。
「もう、コムイさんなんか知らない。いっつも私のことなんて心配もしないし、私のこと何も聞いてこないし……」
視線を逸らしながら、ぽつりぽつりと続ける。
「どうせ私は……」
“二番目の女ですよ”
そう言い切ってしまいそうになって、ミナミはぐっと言葉を飲み込んだ。
違う。
それは言っちゃいけない。
リナリーは妹で、比べるものじゃないって、ちゃんと分かってる。
だから、その代わりに小さく鼻を鳴らして、
「……私だって、少しぐらい、
コムイさんの特別でいたいだけなのに」
そう呟く。
湯気の中で、コムイの胸にだけ、じわっと刺さる言葉だった。
(コムイさん、何も言ってくれない…)
「……私、帰ります」
ぽつりと落とした声は、怒鳴り声よりもずっと冷たかった。
ミナミは、コムイの腕からするりと手を離すと、そのまま先を歩き出す。
硫黄の匂いが立ち込めるゴウゴウ地獄の真ん中を、ずんずんと、迷いもなく。
「え、え? ちょ、ミナミちゃん? え?」
取り残されたコムイは、完全に思考が追いつかず、足元がぐらつく。
さっきまで一緒にいた温もりが消えて、地面がいきなり不安定になったみたいに、膝ががくがく震える。
「え……えぇ……?」
情けない声で名前を呼ぼうとしても、ミナミの背中はどんどん遠ざかる。
……数歩。
そこで、ミナミはふっと立ち止まった。
小さく、息を吐く音。
振り返ると、コムイは地獄の真ん中で、完全に迷子の顔をして立ち尽くしている。
その情けない姿を見て、ミナミはほんの一瞬だけ、視線を伏せた。
(……ほんと、世話のかかる人)
涙が出そうになるのを、ぐっと喉の奥で押し込む。
そして、ゆっくりと戻ってくる。
「……出口まで、ですよ」
感情を押し殺した、少し硬い声。
ミナミは、何も言わずにコムイの腕を掴み直す。
さっきよりも少し強く、離れないように。
「え、あ、あ……」
コムイは戸惑いながらも、その手を振りほどけない。
ミナミは、彼の方を見ない。
ただ前を向いたまま、歩き出す。
指先が微かに震えているのを、コムイだけが気づいた。
それは怒りじゃなくて、
必死に堪えている何かの震えだった。
出口の光が見えた瞬間、ミナミはコムイの腕を、ぱっと離した。
さっきまで掴んでいた手の温度が、名残惜しそうに空気に残る。
「……コムイさん」
少しだけ間を置いて、ミナミは俯いたまま言う。
「私、恥ずかしすぎて……さっきの地獄の中に飛び込みたいです」
冗談みたいな言い方なのに、声はほんの少しだけ震えている。
「恋人なんだって勘違いしてて…」
ミナミは無理に笑おうとする。
「…そりゃそうよね。今まで愛されてるなんて感じたこと無かった。…はぁ。ほんと、何やってるんだろ、私」
「ミナミちゃん…」
硫黄の匂いが薄れて、外の空気が流れ込んでくる。
でも胸の奥は、まだ、熱くて苦しいまま。
コムイの方を見ないまま、ぽつりと付け足す。
「……ちょっと、頭冷やしてきますね」
それは逃げでもあって、
でも、コムイの前で泣かないための必死な選択でもあった。
「……ミナミちゃん……」
背中を向けて歩き出すミナミを見て、コムイの胸の奥が、ずしんと重く沈んだ。
逃げるみたいに、でも必死に平気な顔をして去ろうとする背中。
さっきまで、あんなに自分の腕を掴んでいた手。
あんなに楽しそうに地獄を見ていた声。
遅れて、ようやく気づく。
彼女は、ただ一緒にいたかったんじゃない。
ただ守られたかったんでもない。
「……僕と……恋人でいたかったんだ……」
自分の胸の鈍さに、今さら殴られたみたいな気分になる。
仕事、教団、上司、兄――
自分はいつも、役割ばかりで動いてきた。
その中でミナミは、
“ミナミ”として、
“女の子”として、
隣にいたのに。
「……ああ……」
コムイは、額を押さえる。
なんてことを、してしまったんだろう。
「……待って……!」
気づいたときには、もう走っていた。
人混みを縫って、硫黄の匂いが残る通路を抜けて、涙を隠そうとする小さな背中を追いかける。
「ミナミちゃん!」
声を張り上げるのは、上司でも兄でもなく――
ただ、ひとりの男として。
身長、ごく普通のミナミは人混みに紛れて見つからない。
一方のコムイは 193cm。オロオロ。 首キョロキョロ。
「ミナミちゃーーん!?」と叫んでる。
まるで灯台のよう。
屋台の看板の後ろにミナミは隠れていたが、コムイの探してる顔を見ちゃったら、涙が止まって、心臓がバクバク鳴り始めた。
「……いない…………どこ行っちゃったの……」
コムイがしゅん…となってるのを、ミナミは見てしまい、堪らなくなってコムイの前に出た。
「あーもう!!なんでそんな顔するの!!
ほんとほっとけないんだけど!!」
ミナミが正面に現れると、コムイは息を切らしながら、ほっとしたように笑う。
「見つかって……よかった……」
「なんですか。私に用があるから呼んでたんですよね?」
きつい言い方なのに、どこか“呼ばれたから来た”が滲んでる。
コムイは、ほんの一瞬だけ迷ってから、はっきり言う。
「……行かないでほしかった」
ミナミが、ぴたりと動きを止める。
「君がいなくなったとき……胸の中が、急に……すごく、静かになって……」
ぎゅっと拳を握る。
「それが……怖かったんだ」
ミナミは何も言わない。
でも、視線が少しだけ揺れる。
「……ミナミちゃんがいないと、この旅行……意味がなくなる気がした」
コムイの声は、弱いけど真剣だった。
「だから……探した」
観光客のざわめきの中で、二人の間だけ、静かに空気が張る。
「……それはそうですよ、コムイさん」
ミナミが小さく言う。
「私が来たいところに来てるんですから、私が観光しないと意味ないですよ」
コムイは、申し訳なさそうに微笑った。
でも、その視線は、ミナミだけを見ていた。
「……そういう意味じゃ、なかったんだけどな」
ぽつりと落とす声は、聞こえたかどうかも分からないくらい小さい。
コムイはその言葉を聞いた瞬間、”一緒にいられるならそれでいい”って顔をしそうになって、でも次の瞬間、胸の奥がひどくざわつく。
――違う。
それじゃ、違う。
彼は眼鏡の奥で、ぐっと目を細めて、いつもの曖昧な笑顔を一度だけ消す。
「……ミナミちゃん」
呼び方が、少しだけ低くなる。
「君が、そんな言い方する時って……、すごく無理してる時だよね」
人混みのざわめきの中で、コムイの声だけが、不思議なくらいはっきり届く。
「こんなの、君が思ってる“私たち”じゃないだろ?」
ミナミの肩が、ぴくっと揺れる。
コムイは続ける。
いつもみたいに理屈っぽくもなく、
上司みたいでもなく、
兄としてでもなく。
ただの男として。
「……正直に言うとね。君がいなくなったとき、胸の中が、すごく……嫌な音がした」
自分でも何を言ってるのか測りかねるように、でも逃げずに言葉を選ぶ。
「リナリーの心配とは……違うんだ。君の場合は……」
視線が、少しだけ泳ぐ。
「……君が遠くに行く気がしたら、僕が取り残されるみたいで、怖くなる」
言ってしまってから、コムイは自分でも少し驚いた顔になる。
「……変だろ?」
でも、ミナミの方を見る。
逃げない。
「君を失うかもしれないって思った瞬間、
この旅行が意味を失うだけじゃなくて……
私の中の、何かも一緒に抜け落ちそうになった」
それは、恋人だと認めるほど器用じゃない、
でももう“ただの部下”や“妹みたいな存在”では片付けられない、不器用すぎる本音。
コムイは小さく、苦笑した。
「……これが、君にどう聞こえるかは分からないけど」
一歩だけ、ミナミに近づく。
「僕は……君と一緒にいる時間を、
“教団に戻るまでの暇つぶし”なんかにしたくない」
「コムイさん…それは残酷ですよ。私に諦める選択肢をくれないんですか?」
でも、そっと手を伸ばして、コムイの左手を握った。
「私にただの部下に戻って欲しかったら、この手を振りほどいてください。私をもう…楽にさせて下さい……」
ここまで言うと、また涙が視界を覆った。
もうこぼれ落ちる。その寸前。
コムイは、その言葉を聞いた瞬間、息が詰まった。
「……楽に、させて……?」
ミナミの手の中の自分の左手が、やけに熱く感じる。
指先が、少しだけ震えた。
「そんな言い方……反則だよ……」
笑おうとして、やっぱり笑えない。
「君はさ……僕が“守る側”でいることを、ちゃんと見てくれてたのに……
僕は……君が、傷ついてたことを見ないふりしてた」
ゆっくりと、でも確かに、指を絡める。
「……それで楽になれるなら、振りほどいてあげるべきなんだろうね」
ミナミの胸がズキンと音を立てた。
コムイは一瞬だけ、目を伏せて――
「でも……できない」
はっきりと、もう一度。
「君を失うなんて……そんなの、僕には選べない」
ミナミの手を、ぎゅっと引き寄せる。
「……苦しくても、一緒にいる方を選ぶ」
視線を上げて、まっすぐ。
「だから……離さない。
君がどんな顔してても、どんな気持ちでも」
「振りほどかなかった事、後悔しませんか?」
涙を拭いながら言うミナミを、コムイは少しだけ屈んで見つめた。
背の高い身体を折るみたいにして、視線の高さを合わせてくる。
「後悔なんて、しないよ」
柔らかい声なのに、そこだけは迷いがなかった。
「じゃあ、ただの部下に戻らないですけど、いいんですね?」
その問いに、コムイは一瞬だけ言葉に詰まってから、苦笑する。
「……君は本当に、逃げ道を残してくれないね」
でも、握った手は緩めない。
「この手を離さないってことは、君を“都合のいい部下”として扱えなくなるってことなんだ」
親指でミナミの涙を拭う。
「期待させるし、傷つけるし、それでも一緒にいるって覚悟を持つってことだ」
視線を上げる。
「……それでも離さないって決めたのは、僕だ」
少しだけ照れたように、でも誤魔化さず。
「だから、戻らなくていい。君はもう、ただの部下じゃない。……君が部下じゃなくなるのを、僕が一番、怖がってないってことだ」
逃げない目で、まっすぐ。
「戻らなくていい。むしろ……戻ってほしくない」
「……コムイさん、ごめんなさい」
絞り出すような声だった。
「ぇ? なんのごめんなの?」
戸惑ったように問い返されて、ミナミはぎゅっと唇を噛む。
「ち、違うの……。今回の旅行で、コムイさんを少しでも癒してあげたかったのに……私、こんなこと言って、苦しめるみたいになっちゃって……」
視線を落とし、小さく首を振る。
「私って……ほんと、ダメだなって思って……。だから……ごめんなさい」
自分を責めるみたいなその言葉に、硫黄の匂いが混じる空気が、やけに重く感じられた。
コムイの手を握ったまま、ミナミはただ俯き続けるしかなかった。
「……ミナミちゃん」
コムイは一度、深く息を吸ってから、ゆっくり口を開く。
「それはね、“謝ること”じゃない」
ミナミの手を包むみたいに、両手でぎゅっと握る。
「君が言ったのは、僕を大事に思ってる人の言葉だ」
視線を逸らしながら、少し困ったように笑う。
「……癒してあげたかった、なんて。
そんなこと言われたら、僕のほうがどうしていいかわからなくなるよ」
もう一度、親指で、涙の跡をそっとなぞる。
「君が苦しめたんじゃない。
僕が、ちゃんと向き合ってなかっただけだ」
少し間を置いて、低い声で。
「……だから、謝るのは僕のほう」
そして、逃げない目で見る。
「君は、ダメなんかじゃない。むしろ……優しすぎるくらいだよ」
ミナミがふと、横へ視線をやると、道行く観光客と目が合った。
そして、自分たちが周囲に見られていたことを知る。
(はっ、恥ずかしい!)
「こ、コムイさん!」
「ん?」
そして、コムイもそれを知る。
「とりあえず、どこか移動しましょうか…」
手を繋いだまま、ふたりは温泉街を歩くことにした。
温泉街は、夕方の光に包まれていた。
通りのあちこちから白い湯気が立ちのぼり、硫黄の匂いが甘く混じる。石畳の道の脇には、木造の店が並び、温泉まんじゅうや温泉卵を売る声が、どこかのんびりと響いていた。
ミナミとコムイは、手を繋いだまま、その中を歩いている。
観光客が行き交い、浴衣姿の人や、大きな荷物を抱えた旅行者が、ふたりの間をすり抜けていく。
そのたびに、ミナミの肩が小さく揺れて、コムイの腕にぶつかる。
それだけで、胸の奥がざわつくのに、
コムイは何も言わず、ただ歩調を合わせてくるだけだった。
通りの角を曲がると、地獄の一つが見えてくる。
真っ赤な池からごぼごぼと泡が立ち、熱気で空気がゆらゆらと揺れている。
柵の向こうでは、観光客が「すごい」「怖い」と言いながら写真を撮っていた。
「……すごいですね」
ミナミが、ぽつりと呟く。
「本当に、地獄みたい」
「うん……」
コムイも曖昧に頷くけれど、視線は地獄の池じゃなくて、ミナミの横顔に落ちていた。
湯気に包まれたその横顔は、少し赤くて、さっきまでの涙の跡がまだ残っている。
それを見て、胸の奥がちくりと痛む。
でも、何を言えばいいのか分からなくて、
結局、握った手に少しだけ力を込めることしか出来なかった。
「……あ、あそこ」
ミナミが指さす。
通りの向こうに、小さな橋がかかっていて、その下を温泉の湯が流れている。
川の表面には湯気が漂い、夕焼けをぼんやり映していた。
「きれい……」
思わず、ミナミが足を止める。
コムイも一緒に止まる。
ふたりの間には、言葉よりも重たい沈黙が落ちる。
観光客のざわめきと、遠くの地獄のごぼごぼという音だけが、やけに大きく聞こえる。
(……なんで、こんなに近いのに、遠く感じるんだろう。結局、これまでと同じ…のような気がする…)
ミナミは、繋がれた手を見つめながら、そんなことを考えていた。
コムイの手は、大きくて、温かくて、逃げる気なんてまるでないのに。
それでも、心の距離は、まだ埋まらない。
地獄の湯気が、ふたりを包み込む。
まるでこの温泉街そのものが、
“熱いのに、触れたら火傷する距離”を教えてくるみたいに。
――そのまま、ふたりはゆっくりと、次の地獄へ向かって歩き出した。
夕飯を済ませて、温泉街の灯りがゆらゆら揺れる通りを歩く。
石畳は昼間より少し冷たくて、湯けむりが街灯に溶けて白く霞んでいた。
下駄の音、浴衣の笑い声、どこかの店から漂う甘い匂い。
観光地の夜は賑やかなのに、ミナミの胸の中だけが妙に落ち着かない。
コムイは荷物を持ったまま、まだどこか気を抜いた顔で歩いている。
――その横顔を見て、ミナミは小さく息を吸った。
(言うなら今。明日じゃ遅い。いや、今でも遅いけど……!)
「……コムイさん」
呼ぶと、コムイがぱっと顔を向ける。
「ん?どうしたんだい、ミナミちゃん」
ミナミは視線を逸らして、指先をきゅっと握った。
「その……私、恥ずかしいことに……」
言いにくさで一拍、喉がつまる。
でも、ここで黙ったら“本当に恋人旅行”みたいになってしまう。
「コムイさんと……恋人同士だと思ってたので」
言った瞬間、耳の先まで熱くなる。
「部屋を……一つしか予約してないんです」
言い切ってから、ミナミは自分の顔を手で覆いたくなった。
(何言ってんだ私は!?)って、自分で自分にツッコミが止まらない。
コムイは一瞬、固まった。
「……え?」
その“え?”が、驚きなのか、理解が追いついてないのか、また別の何かなのか分からなくて、ミナミは余計に焦る。
「だ、だから!」
ミナミは慌てて続ける。
「着いたら、もう一部屋空いてないか聞いてみますね。満室だったら、私、近くの旅館に当たりますので!」
自分でも分かるくらい早口だった。
それでも、ちゃんと言わなきゃいけない気がして。
夜の温泉街の湯けむりが、二人の間をふわっと横切る。
ミナミは必死に平静な顔を作って、前を見たまま歩く。
……隣で、コムイが何か言いかけた気配がした。
ミナミが一歩、先を行こうとしたその時だった。
「……ミナミちゃん」
コムイが、足を止めたまま呼ぶ。
振り返ると、湯けむりの中で、いつもより少しだけ真剣な顔をしていた。
「僕たち……恋人同士じゃないの?」
その言葉に、今度はミナミの方が固まる。
「……え?」
温泉街のざわめきも、下駄の音も、急に遠くなったみたいに感じる。
「え……ちょ、え?」
さっきまで“私の勘違いでした”って結論にしようとしていた世界が、音を立ててひっくり返る。
「コムイさん……それ、どういう……」
コムイは少し困ったように眉を下げる。
「どういうって……そのままだよ」
目を逸らしながら、でも、ちゃんと続ける。
「……さっきさ」
コムイは、ミナミの手を握ったまま、視線を落とす。
「君の手を……離さなかっただろう?」
指先が、ぎゅっと絡む。
「嫌なら振りほどいてる。でも、僕は離さなかった」
一拍置いて、静かに続ける。
「それって僕が君と恋人になりたいって思ったからだよ。それが……ただの上司と部下だって言われたら、僕は混乱するよ」
湯けむりの中で、言葉だけがまっすぐ落ちる。
「だから、僕たちは……恋人なんだと思ってた」
ミナミの胸が、どくんと跳ねた。
「で、でも……コムイさん、私のこと……」
言いかけて、朝の“リナリーの次に”が、頭をよぎる。
コムイは、ミナミのその間を見逃さなかった。
「……ああ」
小さく息を吐く。
「僕がバカだった」
眼鏡の奥の目が、少しだけ真剣になる。
「守りたい人は何人かいる。でも、隣にいて欲しい人は……ミナミちゃんだけだ」
その言い方が、あまりにもコムイらしくて、まっすぐで、不器用で。
ミナミの喉が、きゅっと鳴る。
「……ずるいです」
小さく、でもはっきり言った。
「そんな言い方……」
コムイは少し困ったように笑って、それから、ミナミの手をそっと握り直す。
「じゃあ、こう言い直そうか」
指先が、ぎゅっと絡む。
「ミナミちゃん。僕は君と……恋人でいたい」
温泉街の灯りの中で、ミナミの目に、じわっと熱が溜まる。
(……なに、それ……今さら……)
でも、離れたくないと思ってしまうのが、もう答えだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
大浴場の湯気に包まれて、ミナミは肩までお湯に沈んでいた。
硫黄の匂いと、ぽわんとした熱が、さっきまでのゴウゴウ地獄の喧騒や、コムイとの言い合いを少しずつ溶かしていく。
(……はぁ…いい気持ち…)
湯に浮かぶ天井の灯りを見つめながら、ミナミはひとり笑みを浮かべた。
あんなふうに言い合ったのに、結局、同じ旅館に泊まって、同じ夜を迎えているのが、なんだか可笑しくて。
一方その頃、男湯のコムイはというと、湯船に浸かりながら、完全に上の空だった。
湯気の向こうに、さっきのミナミの顔が何度も浮かぶ。
(……今日はいろんな彼女を見たね……)
リナリーのこと、仕事のこと、いつもの責任感。
全部わかってるはずなのに、それでも手を離せなかった感触だけが、妙にリアルに残っている。
「……はぁ……」
深く息を吐くと、湯の中で小さな波紋が広がった。
やがて、風呂上がり。
ミナミが先に脱衣所から出ると、浴衣姿で髪をタオルに包んだまま、ちょっとそわそわしている。
頬は湯上がりでほんのり赤い。
そこに、少し遅れてコムイが現れる。
こちらも浴衣姿で、眼鏡はかけ直しているけれど、どこかぼーっとした表情。
湯上がりのミナミと目が合った瞬間、コムイは一瞬、言葉を失った。
浴衣の襟元から立ちのぼる湯気に、ほのかに石鹸と硫黄の匂いが混ざって、さっきまでの観光地の喧騒が嘘みたいに遠のく。
(……あれ……こんな……)
濡れた髪がまだ完全に乾いていなくて、肩口に少しだけ張りついている。
そのせいで、白い首筋やうなじがやけに目に入ってしまって、視線をどこに置けばいいのか分からない。
浴衣はきちんと着ているのに、湯上がりの体温のせいか、布の下の輪郭がいつもより柔らかく、近く感じる。
頬も、ほんのり赤くて――それが恥ずかしさなのか、湯の熱なのか、コムイには区別がつかなかった。
(……まずいな……)
さっきまで必死に理屈で考えていたはずなのに、今はただ、“ここにいる”という事実だけで、胸の奥がざわついてしまう。
ミナミが無意識にタオルからはみ出た髪を耳にかける、その仕草ひとつで、コムイの視線は、どうしてもそこに引き寄せられる。
“上司”とか、“部下”とか、そんな言葉が、ひどく遠く感じた。
今ここにいるのは、風呂上がりで、少し緊張していて、そして――間違いなく、ひとりの女性として、すぐ目の前に立っているミナミだった。
コムイは、思わず眼鏡を指で押し上げる。
(……こんなの……意識しない方が無理だよ……)
そう思いながらも、視線を逸らせない自分に、ちょっとだけ困っていた。
「……あ」
目が合う。
「……お、お風呂、どうでした?」
「え? あ、うん……よかったよ」
妙にぎこちない間。
湯上がりのコムイが隣に立った時、ミナミは思わず息を飲んだ。
浴衣の前をきちんと合わせているはずなのに、濡れた髪と、まだ少し火照った頬のせいで、教団にいる時の“頼れる上司”とは別人みたいに見える。
眼鏡の奥の瞳も、湯の熱で少し潤んでいて、やけに柔らかい。
普段は書類と妹のことで頭がいっぱいの人なのに、今はただ、目の前で呼吸している“大きな男の人”として存在している感じがして、胸の奥がざわっとする。
浴衣の袖からのぞく手首は意外と骨ばっていて、でも指先は優しそうで。
湯上がりの体温のせいで、近くにいるだけで、じんわりあたたかい気配が伝わってくる。
(……コムイさんって、こんな人だったっけ?)
無防備というわけじゃないのに、いつもより少しだけ、距離が近い。
眼鏡を外して髪をかき上げる仕草ひとつで、
普段は見えない額や目元があらわになって、ミナミの視線が思わずそっちに引き寄せられてしまう。
(……目が離せない。)
今のコムイは、頼れる上司でも、妹思いのお兄さんでもなくて、ただ“好きな人”として、目の前に立っているように見えた。
ミナミは、無意識に胸の奥をぎゅっと掴まれるみたいな感覚に、そっと息を整えた。
(……こんな姿、意識しないでいられるわけがないよ)
「…いいお湯でしたね」
「うん……」
「ちゃんと温まりました?」
「うん……」
「……部屋、戻りますか?」
「うん……」
並んで廊下を歩く。
カーペットを踏む音と、二人の足音だけが静かに響く。
部屋に入ると、さっきとは違う景色が広がっていた。
和ぶとんが、きれいに二組、並んで敷かれている。
ランプの柔らかな灯りが、畳と白い布団をほんのり照らしていて、それだけで、部屋の空気が少しだけ“夜のもの”に変わった気がした。
ミナミが一瞬、固まる。
「……わ……」
コムイも、なぜか少しだけ咳払いをする。
「……えっと……ちゃんと、敷かれてるね」
当たり前のことなのに、言い方が妙に変。
湯上がりの体温と、近い距離と、
さっきの“恋人”の話が、じわじわと現実味を帯びてくる。
和ぶとんが敷かれた部屋に、夜の静けさが落ちていた。
障子越しの灯りが、畳に柔らかい影をつくっている。
「はぁ……今日は、沢山歩いたね」
コムイが眼鏡を外して、ぽすっと布団に倒れ込む。
「ミナミちゃんも、こっち来なよ。床、冷えるでしょ?」
ぱたぱたと隣を叩く仕草は、いつもと同じなのに、さっきのやり取りのせいで、なぜか少しだけ意味が重い。
「……」
ミナミは一瞬ためらってから、そっと腰を下ろす。
距離は、肩が触れそうなほど近い。
コムイは横向きになって、ミナミの顔を見た。
「……まだ、怒ってる?」
「怒ってないです」
少しだけ、素っ気ない。
「……でも、変な気持ちです」
「変な?」
「恋人だって言われたのに……急に実感が追いつかなくて」
コムイは小さく笑った。
「じゃあ、慣れるまでここにいよう」
そう言って、布団の上でほんの少し距離を詰める。
畳の匂いと、布団のぬくもりと、すぐそばにいる体温。
「……ねえ、ミナミちゃん」
いつもより少しだけ低い声。
「このまま、もうちょっとだけ……ここにいてくれない?」
逃げ道をふさがない言い方なのに、妙に胸に響く。
ミナミは、視線を逸らしながら、そっと頷いた。
「……嫌だって言ったらどうするんですか?」
「え?」
「冗談ですよ」
コムイは困ったように笑って、ミナミの左手を握る。
「……君がそっちの布団に行ったらボクもそっちに行くだけだけどね」
布団の上で、二人の距離は、もう“恋人”の距離になっていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
教団の廊下に、やけに張りのある声が響いていた。
「はいはい、みんな集まって〜! お土産だよ〜!」
両腕いっぱいに包みを抱えたコムイが現れる。目の下の隈はすっかり消え、肌つやも妙にいい。見るからに“しっかり休んだ人”の顔だった。
「リナリー、これは甘いお菓子。こっちは紅茶だよ」
「ありがとう、兄さん。温泉どうだった?」
「そりゃもう良かったよ。次はリナリーも行こうね」
そこへリーバーもやってくる。
「室長、やけに顔色いいですね。いい休暇だったようで」
「うんうん、もうねぇ……聞かないでほしいくらいさ。いや、聞いて」
コムイは照れたように笑いながら、包みを配り続ける。
「そりゃもう、ミナミくんに元気をもらったからね……」
その言い方が妙に柔らかくて、周囲が一瞬だけ静かになる。
「……なるほど」
「……そういうことですか」
誰もそれ以上突っ込まない。
リナリーはにっこりと笑う。
「兄さん。良かったね」
コムイは急ににこっと明るくなって、リナリーの肩に手を置いた。
「ねえリナリー。もしかしたらさ……そのうち、お姉さんができるかもしれないよ」
「え?」
「そして甥っ子と姪っ子も作ってあげるからね!」
リナリーの目がぱっと輝く。
「ほ、ほんと!? 兄さん!」
(……これで妹離れしてくれるかしら……)
そんな淡い期待を胸に、リナリーはちょっと嬉しそうに笑った。
その少し離れた机で、ミナミは書類を整理しながら仕事をしていた。
ペンを走らせていた手が、ぴたりと止まる。
(……え!?)
今、何て言いました?
甥っ子と姪っ子?
お姉さん?
顔を上げるわけにもいかず、ミナミは必死に平静を装って書類をめくる。
心臓だけが、やけにうるさかった。
一方のコムイはというと、完全にご機嫌だ。
「さあさあ、遠慮しないで持ってって! ほら、君も、君も」
……ただし、ミナミの机の前だけは、なぜかスルーされている。
それがまた、余計に意味深だった。
教団の空気は、仕事中なのにどこかそわそわしていて、“何かあった”のが全員にバレバレな午後だった。
終わり。20260109