果てない空
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瓦礫の匂いは、血の匂いとよく似ていた。
焼け焦げたコンクリートと、粉塵と……鉄の味。
アジア支部は――
ユウの世界そのものだった場所は――
跡形もなく崩れ落ちていた。
(…………)
視界がぐらぐらと揺れる。
身体のどこが痛いのかもわからない。
どこもかしこも痛いのかもしれない。
立てもしない小さな身体は、
瓦礫の上に投げ出されていた。
(……アルマ……)
胸が、裂けるように痛い。
息をするたび、喉の奥が焼ける。
だけど――
ユウはゆっくりと目を上げた。
(……空……?)
そこには、
今まで見たどんな青よりも、
果てしない青が広がっていた。
そんな色、知らなかった。
今までの人生に、
こんな広さは一度もなかった。
涙がぼろぼろと頬を伝う。
止め方がわからなかった。
その時───
「……ガラッ……ゴゴッ……!」
背後の瓦礫が、不自然に動いた。
(……!?)
身構えた瞬間、
白い手が瓦礫をつかみ――
ざざざ……と長い髪を引きずりながら、
子供が這い出してきた。
まるで貞子。
「……ぅぶはっ!!
ちょっ……苦しいってばぁぁああ!!!
わ、私、生きてる!?これ生きてる!?!?」
うるさい。
ひどくうるさい。
でも――
その声は、
崩れた世界の中にやけに眩しかった。
ミナミは顔の埃を手で払い、
ユウを見つけてぱっと表情を明るくした。
「あっ、ユウ!
良かったぁ……ひとりぼっちかと思った……」
「……てめぇ……何で貞子みてぇな出方すんだよ」
「うるさっ!? こっちは必死だったの!
てか貞子って何!?」
ミナミはずるずると瓦礫を降りてきて、
ユウの隣に座り込んだ。
息が上がっているのに、
その瞳だけはしっかりしていた。
「ねぇ……これ……空でしょ?」
ミナミは震える指で、
ユウの見ていた青を指さした。
ユウは答えない。
答えられない。
「私、こんなに大きいの初めて……
ユウは、見たことある?」
「……ない」
「そっか……」
ミナミは弱く笑った。
その頬にも涙の跡がついていた。
「でも……綺麗だね。
こんなめちゃくちゃなのに……空だけは……綺麗」
ユウはその言葉に、
胸が強く震えた。
ミナミは自分の胸を押さえながら言った。
「――外って……やっぱりこういう匂いなんだね」
「知ったような口きくな」
「あははー、もちろん知らないよー。
でも……ここに出てきて、懐かしい気がするのなんでだろー」
ミナミは空を見上げたまま、
ぽつりと呟いた。
「ねぇ……ユウ。
私、ここで終わりたくないな……」
ユウは横目でミナミを見る。
瓦礫の中から這い出た貞子。
傷だらけで、泣き顔で、それでも空を見る少女。
(…相変わらず…馬鹿みてぇなやつ)
だけど――
その“馬鹿みたいな言葉”が、
ユウの胸を掴んで離さなかった。
粉塵が風に流されていく。
崩れたアジア支部は、もはや建物の形も保っていなかった。
静かだ。
悲鳴も、命令も、足音もない。
ただ――
頭上には、美しすぎる青が広がっていた。
ミナミはその青を眩しそうに見上げ、
ゆっくりと息を吸った。
「……苦しいけど、なんか……胸の奥が軽くなる匂いだね」
「匂いとか知らねぇよ」
ユウはそっぽを向く。
けれど視線はどうしても空から離れない。
胸の奥が痛くて仕方ない。
それなのに――
空を見ると、少しだけ息ができる気がした。
ミナミは、足元の瓦礫をぽすん、と触りながら言った。
「ねぇ、ユウ。
私たち……これからどうなるのかな」
「知らねぇよ」
それは本当だった。
助けが来るのか、
ここで終わるのか。
何もわからない。
わかっているのは唯一。
もう、あの暗い部屋には戻らないということ。
崩れた建物は、
彼らの“地獄”ごと壊れていた。
崩落の向こうにある空が、
それを証明していた。
ミナミは、崩れた瓦礫の上にちょこんと座り、膝を抱えた。
「……ねぇ、ユウ。
お腹、空いた?」
「は?」
質問の方向性がおかしい。
「こんな状況で食いもんの話すんな」
「だってー……お腹すいて力でないもん」
「……知らねぇよ」
ふてくされたように言うが、
その声は完全に拒絶ではない。
ミナミはユウの袖をちょん、と引っ張った。
「ユウは? 体……痛い?」
「痛ぇよ」
即答。
「じゃあ……手、貸して」
「なんで」
「立ってるの、つらいでしょ?
私が支えるから」
「……馬鹿か。
お前に支えられても意味ねぇだろ」
「あるよ。
二人分の足で座ってるんだもん」
「理屈がおかしい。意味わかんねぇ」
「いいから、ほら!」
ぐいっと腕を引っ張られ、
結局ユウはミナミの隣に座らされる。
ふたりの肩が触れ合った。
――あ、あったかい。
ミナミの肌の温度が、
かすかにユウの肩に伝わる。
それは薬品の匂いとも、
血の生ぬるい温度とも違った。
(……変なやつだな)
そう思いつつ、
ユウはほんの少しだけ身体を預ける。
ミナミは気づいていないふりをして、
そっと自分の肩をほんの少し寄せた。
「ねぇユウ。怖い?」
ユウは青空を見上げたまま答える。
「怖ぇよ」
ミナミは驚いたように目を丸くした。
「ユウでも怖いの?」
「俺は強くねぇ。
ただ生きてるだけだ」
それはずっと心の底で押し殺していた本音だった。
強くなれと言われ、
痛みに耐えろと言われ、
生き残れと言われ続けた。
でも、本当は――
ユウは何もわからないまま、
ただ生かされていただけだ。
ミナミはそっと、
自分の小さな手をユウの手に重ねる。
「私も怖いよ。
ユウと一緒だね」
「……」
その言葉は、
瓦礫の上で聞くにはあまりにも優しすぎた。
ユウは唇をかみしめる。
(なんだよ……こいつ)
また泣きそうになるのを必死でこらえる。
ミナミは空を見上げたまま、
ぽつりと呟いた。
「ねぇユウ。
私たち……外に出たんだよね」
「……ああ」
「こんな形じゃなくてもさ。
それでも今、空を見てるんだよ」
ミナミはユウの手をきゅっと握った。
「だったら……
いつか、自由な空をもう一回、ちゃんと見ようよ。
ここじゃなくて。
檻じゃなくて。
真っ青で、ずーっとつづく空をさ」
ユウは答えない。
答えられなかった。
胸が熱くて、
喉が詰まったみたいに言葉が出ない。
(……馬鹿みてぇに……まっすぐで……)
なのに、
どうしてこんなに心が揺れるんだろう。
ミナミは、自分の膝に顎を置く。
「ねぇユウ。ここからが“始まり”なんじゃない?」
「……始まり?」
「うん。だって、ほら」
ミナミは指さす。
崩れたアジア支部の跡地。
粉塵が散り、瓦礫が転がり、
地獄の名残がそこにある。
だがそのすべての上に――
空が広がっていた。
「終わった場所に、空があるんだよ」
「……」
「だったら、まだ続きがあるでしょ?ユウの続きも、私の続きも」
ミナミはにっこり笑った。
「二人で、見に行こうよ。空の“続き”」
ユウは思わず息を呑んだ。
ミナミが相変わらず何を言ってるかわからなかったけど、
胸の奥が、
ずっと痛かった場所が、
少しずつ温かくなる。
心に誰も触れたことのない場所を、
この少女は自然に踏み込んでくる。
(……なんなんだよ……ほんとに……)
そして不意に、
ミナミの顔がくしゃっと歪んだ。
「……あ、ちょっと……痛い……」
「は?」
ミナミの足が瓦礫で切れていた。
血がじわりと滲んでいる。
なのに――
彼女は笑った。
「でも……すぐに治るから平気……。それに、ユウが隣にいるから」
「……お前な」
「ユウも、隣にいていいよ?」
お前な、のあとに続く言葉が、
喉の奥でほどけて消えた。
ユウはそっと目を逸らす。
「……勝手に隣にいんなよ」
「じゃあユウが来てよ?」
「嫌だ」
「やだー!来なさいよー!」
「うるせぇ!」
ふたりの声が、
瓦礫の空に吸い込まれていく。
泣きながら笑う少女と、
怒っているようでどこか力が抜けているユウ。
世界は壊れたのに、
この瞬間だけは、
瓦礫の上に小さな“光”があった。
ミナミが立ち上がろうとバランスを崩しかけたとき、ユウは反射的に腕を伸ばした。
「おい!」
身体を支えたその腕に、さっきまで流れていた血はもう止まっている。
ミナミの足の切り傷も、じんわり赤くは残っているのに――もう塞がっていた。
「……再生、早いな」
ユウが呟くと、ミナミは少し照れたように笑う。
「うん。でも……治るけど、まだ痛いんだよ」
「知ってる」
ユウも自分の腕を見る。
裂けていた皮膚はすでに、
乾いた土みたいに固まって塞がっている。
ただ痛みだけが生々しく残っていた。
「傷は治るけど……心臓が痛いのは治らないね」
ミナミがぽつりと言う。
ユウの胸が、
その言葉に反応するようにひりついた。
それでも――
頭上の空だけは、変わらない。
果てないくらい遠くて、
でも確かにそこにある。
「ねぇ、ユウ」
「……あ?」
「私たち、生き残っちゃったね」
その言い方が妙に静かで、
ユウは目を細める。
「アルマも……他のみんなも、いないのにさ。
なんでユウと私は、ここにいるんだろ」
ユウは答えられなかった。
胸の奥が焼ける。
罪悪感とも、怒りともつかない感情が
どろどろと渦を巻く。
何度も何度も、
心の中で同じ問いが回っていた。
――俺は生きたい。あの人に会いたい。
……なぜだ。
そんなとき。
ミナミは、ぎゅっと拳を握った。
「……ねぇ。
どうせ生き残っちゃったならさ」
ミナミの体がグラ、と揺れた瞬間、
ユウがまた腕を掴んだ。
「おい、無茶すんな」
「無茶じゃないよ」
ミナミは、掴まれた腕をそのまま利用して、ユウの手をきゅっと握りしめる。
「生き残ったなら……ちゃんと意味、見つけたいなって思っただけ」
「意味?」
「うん。なんで痛い思いして、なんでこんなに怖くて、なんでここまで来たのか。
――それが、いつかどこかで“よかった”って思えるようにさ」
ふらついた体勢のまま、それでもミナミは空を見上げる。
「空、見たでしょ。
あんなに大きくて、どこまでも続いててさ」
ミナミの声は震えていた。
けれど、確かに前を向いていた。
「きっと、私たちの行く先も、あの空みたいに続いてるんだと思う。痛くても、怖くても、きっと、先がある」
ユウは、
握られた手にほんの少しだけ力を込める。
(……先、ね)
今までそんなもの、考えたこともなかった。
明日も生きている、なんて保証はどこにもなかった。
でも――
「……意味なんて、なくてもいいだろ」
ユウは、わざと乱暴に言う。
「俺はただ……」
そこで言葉が切れた。
“お前と外を歩きたい”
そんな言葉が喉まで来て、
重くて飲み込む。
ミナミは、待つようにユウを見ていた。
ユウは顔をそらしたまま、
低く続ける。
「……ただ、生きたいだけだ。
生きて、会わなきゃいけない人がいる、生きたい」
ミナミの目が、
ぱっと大きくなる。
「ユウ……」
「ここで終わるのが嫌だってのは、
……お前だけじゃねぇよ」
やっと絞り出した本音だった。
ミナミの唇が、
くしゃりと震える。
涙が出そうになるのをぐっと堪えて、
小さく笑った。
「……そっか」
「笑うな」
「ふふ……ごめん。嬉しくて。……で、会いたい人って?」
「…知らねぇ」
「知らないのにどうやって探すの!?」
「うるさい…」
「わかった、わたしも手伝うよ」
そのとき――
遠くの方から微かな音が聞こえた。
「……なに、あれ」
金属がきしむ音。
誰かの声。
まだこの場所に“人の気配”がある。
(助けか……それとも……)
また処分されるかもしれない。
エクソシストの回収かもしれない。
どちらにしても――
子供の足だけでは、
ここからどこにも行けない。
ミナミは、握った手を離さなかった。
「ユウ」
「……あ?」
「私、まだ死にたくない」
「知るかよ」
「ユウもだよ」
否定しようとした。
けれど、喉から出てきたのは別の言葉だった。
「……そうだな」
ミナミが微笑む。
「いつか、ちゃんと歩けるようになったらさ。この空の下を、自分の足で歩こう」
「……お前、さっきから空空うるせぇんだよ」
「好きなんだもん。それに――」
彼女は、青く広がった空を見上げる。
「この空、ゼロじゃないって教えてくれるから」
「ゼロ?」
「全部失っても、
まだ上を見たら何かあるよって。
どれだけ地べたに沈んでても、
見上げる空だけは“果てない”んだよって、
それってユウに似てるね」
ユウは黙って、
同じ空を見つめた。
(意味わかんねぇ……)
地獄みたいな場所から、
全部壊れて、
何もなくなって。
それでも頭上には、
青が残っている。
それなら、もしかしたら――
自分もゼロじゃなくて、
何かの“途中”なのかもしれない。
遠くの足音が、少しずつ近づいてくる。
ミナミは、ユウの手をもう一度強く握った。
「ユウ。
連れていかれても、どこにいても――」
その瞳が、真っ直ぐユウを捉える。
「また、同じ空の下で会おうね」
「……同じ空の下なら、どこにいても同じじゃねえか」
「だからだよ」
彼女は笑った。
「どこにいても、
見上げたらきっと繋がってる。
私たちが、同じ空を覚えてる限り」
馬鹿みたいだ、と思った。
けれど、
その“馬鹿みたいな言葉”が
ユウの心をどうしようもなく支えていた。
小さな手が、
小指を差し出す。
「約束しよ」
「……子供かよ」
「子供だもん」
「……チッ」
ため息をついて、
ユウも小指を絡めた。
空の青が、
指先を照らす。
「忘れんなよ」
「ユウこそ」
そこへ、
崩れた瓦礫の向こうから大人たちの声が届いた。
「……生存反応があるぞ!」
「子供だ! こっちだ!」
その声に、
ふたりは反射的に手を離す。
別々の手が、別々の大人たちに引き上げられていく。
視線だけが、
最後まで絡んでいた。
(……また、同じ空の下で)
心の中で、
同じ言葉を重ねながら。
青空の下、
ちいさなふたりは離れていった。
❄︎••┈┈┈┈••❄︎••┈┈┈┈••❄︎
この村の空は、
今日も変わらず重たくて暗い。
灰色の雲は低く垂れこめ、
どこか湿り気を含んだ風が吹き抜ける。
畑作業の合間、神田はふと手を止めた。
ほんの一瞬――
雲の裂け目ができて、
薄い光が差し込んだのだ。
淡く、儚い。
けれど確かに“青”が混ざった光。
神田は眉をひそめ、
その色をじっと見つめた。
(……あの時と……同じ色だ)
瓦礫の上で、
泣きながら見た果てない空。
失って、壊れて、
それでも頭上に広がっていた色。
心臓がきゅっと痛む。
「ユウー!お昼ご飯持ってきたよ!」
ミナミの声が背後から聞こえる。
彼女は神田を見つけると嬉しそうにカゴを抱えて走ってくる。
「あ!」
途中、土の凸凹につまづいてしまうのを神田が呆れつつも、微笑ましく見ている。
傍に行くと、神田が低く答えた。
「……空だ」
「空?」
「……さっき、一瞬だけ……あの日の色が見えた」
「曇ってるのに?」
ミナミはそっと並んで空を見上げる。
灰色の雲はまた閉じてしまい、今はどこにも青なんて見えない。
だけど、神田の瞳に残っている光だけで充分だった。
「……ユウ」
ミナミが小さな声で呼ぶ。
「んだよ」
「ここまで……よく来たね」
神田は、一度だけ目を閉じた。
胸の奥に、
遠い昔の瓦礫と、涙と、
小さな約束の残り香がよみがえる。
「上から……褒めんな」
「だって、褒めたいもん」
「……チッ。好きにしろ」
呆れたように言いながらも、
声はほんの少し柔らかかった。
ミナミは、ためらいながら
そっと神田の袖をつまんだ。
「ねぇユウ。寒くない?」
「寒くねぇよ」
そう言いながら、
神田の手が自然と動いて――
カゴをひょいっと奪い取り、ミナミの手首を軽くつかんだ。
強くも弱くもない。
でも確かに、離す気がない力。
ミナミが驚いて目を見開く。
「ゆ、ユウ……?」
「もう……転けんなよ」
ぽつり、と。
ただそれだけ。
けれど――
冷たい風の中では、それが何より温かかった。
ミナミは、そっと神田の服の裾を握り返した。
「……うん。転けないよ。だって……ユウが、つかんでくれてるもん」
神田は顔をそむけた。
「……うるせぇ」
だけど、その横顔はほんの少し赤い。
雲の切れ間はもう閉じてしまったのに、ふたりの影だけは静かに寄り添っていた。
「なぁ、ミナミ」
「なぁに?」
ミナミは空を見上げたまま言う。
「……また見えたら、教えてやるよ。青いの」
「……え?」
「お前が好きだろ、ああいうの」
ミナミの胸の奥に、
甘いものがじわっと広がる。
「ユウ……教えてくれるの?」
「……チッ。見えたらな」
(嬉しいくせに……)
そう思いながら、
ミナミはそっとユウの肩に寄り添った。
雲だらけの空の下でも――
ふたりで見上げれば、
そこにはちゃんと“続き”があった。
神田はぼそっと呟く。
「……また見えるかもな。あの日みてぇな……青」
「うん。私、楽しみにしてる」
「……勝手に期待すんな」
「期待するよ。ユウの隣にいる限り、ずっと」
風が吹き、
灰色の雲がゆっくり流れていく。
神田の手は、
まだミナミの手首を離さない。
まるで――
「ここにいろ」
と言うように。
そして、ミナミはその手にそっと自分の指を絡めた。
少しだけ照れたように笑いながら。
ふたりの影が寄り添って揺れた。
どんよりとした空の下で、
いちばん甘い瞬間が生まれていた。