ふたり
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【ふたり】
その頃の俺は、
未来のことなんて、何も考えていなかった。
明日も、来週も、
ミナミはそこにいると思っていたし、
いなくなる理由なんて、ひとつも思いつかなかった。
——今思えば、
それが一番、間違っていた。
放課後の校舎は、いつも同じ匂いがした。
ワックスの残り香と、夕方の風と、
部活帰りの誰かの笑い声。
その全部が当たり前で、
当たり前すぎて、疑う理由すらなかった。
「ねえ、神田」
後ろから呼ばれて振り返ると、
ミナミは少し息を切らして立っていた。
「今日さ、一緒に帰ろ」
それだけの言葉なのに、
胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねる。
「……“今日も”だろ」
そう返すと、
ミナミは不満そうに眉を寄せて、それから笑った。
「“今日も”が、ずっと続くと思ってる?」
冗談みたいな声だった。
でも、そのときの俺は気づかなかった。
——これが、
最後の確認だったことに。
並んで歩く帰り道。
肩が触れそうで触れない距離。
手を伸ばせば、簡単に繋げるのに、
どちらも何もしなかった。
信じていたんだ。
言わなくても、分かってるって。
「またね」
そう言って手を振るミナミの背中を、
俺はいつも通り見送った。
——その“また”が、
どれほど残酷な言葉だったのかも知らずに。
その日、
ミナミは何も言わなかった。
そして次の日、
彼女は学校に来なかった。
席は、空いたままだった。
朝のホームルーム。 担任が何か言っていた気がするが、 内容はひとつも頭に入らなかった。
視線はずっと、 俺の隣―― ミナミが座るはずだった場所に貼りついたまま。
(……遅刻か?)
そう思ったのは、最初の五分だけだった。
チャイムが鳴って、 教室が静かになって、 それでも――来ない。
(……体調悪い?)
昨日の顔を思い出す。 息を切らして、 「一緒に帰ろ」って言った声。
普通だった。 いつも通りだった。 変なところなんて、ひとつも――
(……いや)
違う。
“今日も”が、ずっと続くと思ってる?
あの言葉。
冗談みたいな顔で、 でも、妙にまっすぐ俺を見ていた。
(……なんだよ、それ)
胸の奥が、じわじわと嫌な音を立て始める。
授業中、 ノートを開いても文字が滑る。 ペンを握っても、指に力が入らない。
頭の中は、ひとつだけ。
ミナミ、どこ行った。
昼休み。
ミナミとよく一緒にいた女子二人の席の前で足を止めた。
無意識に、そこにいるはずの姿を探してから、口を開く。
「なぁ……ミナミ、今日どうした?」
その瞬間、二人の動きが止まった。
「……え?」
一人が、困ったように笑う。
「神田……どうしたの?」
胸の奥がざわつく。
「どうしたも何も。いねぇだろ」
するともう一人が、思わず言ってしまったように口を開いた。
「……先生、朝のホームルームで言ってたじゃん」
眉が寄る。
「……何を」
「ミナミ、転校するって」
一瞬、音が消えた。
「……は?」
「親の都合で引っ越しだって」
言葉が、頭に入ってこない。
「私たちにはさ、前もって言ってくれてたんだよね」
「先週くらいに」
喉が、きしむ。
「……俺には?」
二人は、視線を逸らした。
「……言ってると思ってた」
「だって、神田と一番仲良かったじゃん」
悪気のない言葉が、容赦なく刺さる。
「昨日も一緒に帰ってたし……」
胸の奥が、ひどく冷える。
「……で」
俺は、低い声で続けた。
「どこに引っ越した?」
二人の空気が、さらに重くなる。
「……海外」
「オーストラリアだよ……」
その言葉で、完全に理解した。
(……あぁ)
国内ですらなかった。
簡単に会いに行ける距離でもない。
二人の視線が、露骨に変わる。
“本当に何も知らされてなかったんだ”
そんな同情が、はっきりと浮かんでいた。
「……でも、ほら」
慌てて、一人が取り繕う。
「今どきスマホあるし……連絡、取れるじゃない?」
その瞬間。
ポケットの中のスマホが、急に重く感じる。
連絡先はある。
履歴もある。
でも——
(……何も来てねぇ)
俺は何も言わなかった。
ただ、
ミナミの席を見た。
きれいに片付けられた机。
最初から、いなかったみたいな空白。
(……俺だけかよ)
知らなかったのも。
信じてたのも。
胸の奥に、遅れて痛みが広がる。
(……なんで何も言わねぇんだよ、ミナミ)
そう思った瞬間、
視界がわずかに滲んだ。
まぶたの裏が熱くなるのを、神田は必死に誤魔化した。
喉の奥が詰まる感覚を、無理やり飲み込む。
——泣く理由なんて、どこにもない。
そう言い聞かせるみたいに。
ミナミの席は空っぽで、
昨日までそこにあったはずの気配だけが、
置き去りにされている。
たった一言でよかったから伝えて欲しかった。
瞳の水分が涙になる前に、視線を逸らした。
誰にも、見せるつもりはない。
そして、答えはもう、どこにもなかった。
放課後。
昨日と同じ時間。 同じ廊下。 同じ夕方の匂い。
なのに。
横に並ぶはずの足音がない。
昨日、確かに。
「またね」
そう言って、 手を振って、 歩いていった。
(……どこで、間違えた)
思い出す。 会話を、ひとつずつ。
「今日さ、一緒に帰ろ」 「“今日も”だろ」 「“今日も”が、ずっと続くと思ってる?」
それだけ。
それだけしかない。
喧嘩もしてない。 泣かせてもいない。 理由になりそうな言葉は、どこにもない。
(……なんでだよ)
スマホを取り出す。 メッセージ欄。
一番上。 ミナミの名前。
何度も打って、 消して、 また打つ。
(……俺、何も聞いてねぇ)
家のことも。 将来のことも。 悩みも、不安も。
“言わなくても分かる”って、 勝手に思ってた。
(……分かってなかったのは、俺だけか)
夕焼けが、校舎を赤く染める。
昨日と同じ色なのに、 今日はやけに、目に痛い。
「…ミナミ…なんで言わないんだよ」
声に出した瞬間、 胸の奥が、ぎゅっと潰れた。
当然、返事はない。
その日、 俺は初めて気づいた。
───何も知らないまま好きでいるって、
こんなにも脆い。
そして、 何も言わずにいなくなることが、 どれほど残酷かを。
俺は、気づいたら校門を出ていた。
足が勝手に動いていた。
何度も来た道。
ミナミの家へ続く、いつもの角。
門の前に立つ。
表札は、まだあった。
「……」
喉が鳴る。
チャイムに手を伸ばして、押す。
——鳴らない。
もう一度、強く押す。
それでも、何も返ってこない。
電気が止まっているのが、はっきり分かった。
窓の奥は暗く、
カーテンの隙間にも、人の気配はない。
(……は?)
息が詰まる。
「……おい」
誰に向けたかも分からない声が、
乾いた空気に落ちた。
門を開けて庭を通り、玄関の扉を軽く叩いてみる。
当然、反応はない。
……当たり前だ。
もう、誰もいない。
昨日まで、
確かにここに生活があって、
笑い声があって、
「また明日な」って言ってた場所なのに。
俺は、その場から動けなかった。
視界が、じわっと滲む。
瞬きをしても、
喉を鳴らしても、
胸の奥に溜まったものは下りていかない。
(……ほんとに、いねぇのかよ)
ポケットの中のスマホを手に取り、
画面を開いて、
名前をタップする。
発信音が一度鳴って——
すぐに、繋がらない音に変わった。
「……」
俺はスマホを握り締めたまま、
ゆっくり額を下げる。
肩が、ほんの少しだけ震えた。
泣くほどじゃない。
まだ、泣くほどじゃない。
ただ——
胸の奥にぽっかり空いた穴に、
冷たい風が吹き抜けていくだけだ。
「……何も、言わねぇとか……」
言葉は、途中で途切れた。
返事をする相手は、
もう、どこにもいない。
俺は暗い玄関を見つめたまま、
しばらく、そこを離れる事が出来なかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
五年後の春。
桜が咲いて、散って、
それを「綺麗だな」と思う余裕がある程度には、俺は大人になっていた。
社会人一年目。
名刺を持って、スーツを着て、
ガラにもなく、上司の顔色を伺って、
毎日それなりに忙しい。
それでも。
朝の満員電車。
窓に映る自分の顔は、
高校の頃と、たいして変わっていなかった。
あのときのまま。
時間だけが、俺を置き去りにして進んでいったみたいだ。
夜、狭いワンルームに帰る。
ネクタイを外して、
ベッドに腰を下ろして——
何も考えないようにしても、
手は勝手に、スマホを取る。
あの時とは違うスマホにはミナミとのトークはもう無い。
ミナミのSNSの更新も5年前で止まっている。
五年前、
あの日の夜、メッセージアプリの他にもSNSの方にも送った、たった一通のメッセージ。
『なんで言わないんだよ。 ちゃんと話せ。連絡しろ』
送信時刻だけが、やけに古い。
その横にあるはずの表示は——
今も変わらず、
未読
(……まだ、見てねぇのかよ)
親の都合。
引っ越し。
オーストラリア。
頭では理解している。
それでも。
(……俺だけ、置いてかれたみてぇじゃねぇか)
画面を閉じる勇気も、
消す覚悟も、
どっちも持てないまま。
俺は五年間、
同じ場所で立ち止まっている。
あの放課後。
あの「またね」。
あの、何も言わなかった背中。
——もし、あのとき。
たった一言でも、
「実はさ」って言ってくれてたら。
そんな仮定ばかりが、
今も胸の奥で腐らずに残っている。
スマホを伏せ、
天井を見上げる。
(……元気でやっているのか?)
答えは、来ない。
五年経っても、
俺はまだ、
「ふたり」だった時間から抜け出せていなかった。
昼休み、社屋の裏でペットボトルのお茶を開けていると――
「なぁ神田」
声をかけてきたのは先輩だった。
「今日、仕事終わり空いてる?」
「……何ですか」
「飲み。行こーぜ?」
俺は一瞬だけ考えて、すぐ答えた。
「……断っていいですかね」
だけど、夜。
逃げることが出来ず、連れて来られたのは、
駅前から少し外れたネオン街。
「……ここ?」
ただの飲み屋じゃない。
「なんだよ、固ぇな」
先輩は笑いながら言う。
「たまにはこういう店もいいだろ」
「興味ねぇ」
「まぁまぁ」
そのまま歩きながら、先輩がふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。
ここ、知り合いが働いてんだよ」
「は?」
「妹が前に工場で一緒だった子」
神田の眉が、ほんの少し動く。
(知り合いの裸、見るってどういう神経してんだよ…)
「生活きつかったらしくてさ。
高校も途中で辞めたって言ってたな」
興味が無いから先輩の話は右から左へと抜けていく。
先輩は気にも留めず、続ける。
「今は昼は工場、夜は店」
ポケットからスマホを取り出す。
「めっちゃ可愛いぞ。写真あるけど、見る?」
断る暇はなかった。
画面に映った顔を見た瞬間、
神田の思考が止まる。
(……は?)
一瞬、冗談かと思った。
化粧は濃い。
服も知らない。
でも――
「……」
喉が、ひくりと鳴った。
「ミナミ?」
世界が、ずれた。
「……いつ日本に」
声が、勝手に漏れる。
「ん?」
先輩が俺を見る。
「どうした?」
俺は視線を逸らしたまま、低く言った。
「……別に」
先輩は画面をもう一度見て、にやっと笑う。
「なんだよ。惚れたか?」
「チッ」
先輩は面白そうに続ける。
「じゃあ、顔赤いのは気のせい?」
「なってねぇ」
「なってるな」
画面の中のミナミは、
仕事用の笑顔で笑っている。
五年前。
何も言わずに消えた女。
「…今」
神田が、ぽつりと言う。
「ソイツ、今日、居るんですか」
先輩は少し考えてから肩をすくめた。
「たぶんな。
シフトはよく知らんけど」
心臓が、遅れて痛み出す。
(……ここに居たのかよ)
五年前に送ったメッセージ。
既読もつかないまま、残っている通知。
(……ふざけんな)
何も知らなかったのは、俺だけだ。
「……先輩」
「ん?」
「先行く」
「んん!?」
「……確認しに」
先輩は笑った。
「ハハハ、若いねぇ」
何も知らない声だった。
店に入った瞬間襲ってくる、酒と香水と、笑ってる声の裏にある、嘘みたいな疲労。
(……最悪だな)
照明は薄暗くて、
壁は金か黒で、
どこも落ち着かねぇ。
「お客様、こちらのお席へ——」
ボーイが何か言ってきたが、聞いてねぇ。
俺はそのまま歩いた。
通路を、テーブルを、ソファの影を。
(……いねぇ)
胸の奥が、じわじわ焦げる。
「お客様、店内を——」
「邪魔」
短く言って、すり抜ける。
女の笑い声が飛ぶ。
グラスが鳴る。
誰かが肩に触れてきたが、振り払った。
(……どこだ)
五年分の時間を、こんな場所で使ってたなんて、まだ信じきれてねぇ。
「おい、神田!」
後ろから声。
振り返ると、
少し遅れて入ってきた先輩が、
呆れた顔で立っていた。
「何してんだよ。迷子か?」
「……探してる」
「だからって店内うろつくな。他の客の迷惑だから」
肩を掴まれて、
半ば強引に戻される。
(……チッ)
ソファに座らされ、
やっと腰を下ろす。
心臓がうるせぇ。
先輩は慣れた手つきでメニューを見て、
スタッフを呼んだ。
「なぁ、ユウちゃん呼んでくれる?」
その一言で。
俺の思考が、止まった。
(……ん?)
今、なんて言った。
ユウ。
俺の名前。
視線が、無意識に名札を探す。
(源氏名……?)
喉が、きゅっと鳴る。
「はい、少々お待ちください」
スタッフが下がる。
先輩は何も気づかず、水の入ったグラスを持ち上げた。
「初めてだろ?
緊張すんなって」
「……」
返事ができねぇ。
頭の中で、嫌な音がする。
(……まさか)
数秒。
いや、
一分にも満たねぇ時間。
それなのに、
やけに長く感じた。
ヒールの音。
近づいてくる、
ゆっくりした足音。
「お待たせしました〜」
その声。
間違えようがない。
顔を上げる。
そこに立っていたのは。
俺を五年前に置いてきたはずの——
ミナミだった。
名札には、
はっきりと書いてある。
『ユウ』
(……)
一瞬、
呼吸を忘れた。
ミナミは、
仕事用の笑顔で、
先輩を見る。
「あ、さおりさんのお兄さん!お久しぶりです」
それから——
視線が、俺に落ちた。
ほんの一瞬。
笑顔が、
固まった。
俺の喉が鳴る。
(……ゴクリ)
世界が、
音を立ててひっくり返る。
先輩が、
何も知らずに言った。
「神田、この子がユウちゃん」
(……俺の名前で、
俺じゃない男に抱かれてたのか)
ミナミは、震えを隠すように、もう一度だけ微笑んだ。
「……久しぶり、神田」
その声で。
俺は確信した。
——終わってねぇ。
この五年は、
何ひとつ、終わってねぇ。
(……捕まえた)
ミナミ——いや、
ユウと名札に書かれた女は、先輩の隣、俺の前に座った。
仕事用の距離。
仕事用の姿勢。
胸元に寄せられた腕も、
微妙に計算された角度。
(……ふざけんな)
心臓が、
静かに早くなっていく。
先輩は、完全に状況を飲み込めていない顔で、俺とミナミを見比べた。
「……え?
知り合いなの?」
その一言で、ミナミの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
俺は、視線を外さない。
「……はい」
答えたのは、ミナミだった。
先輩が俺を見る。
「マジ?じゃあさ——」
そこで、
俺が口を開いた。
「先輩」
声は、
自分でも驚くほど落ち着いていた。
「……この人と、二人きりにしてもらえませんか」
店内の音が、一瞬、遠のく。
先輩は目を瞬かせて、
それから、ゆっくり笑った。
「……なるほど」
察しがいい。
余計なことは聞かないタイプだ。
「いいよ。
俺、向こうで飲んでるから」
立ち上がりながら、ミナミに向かって軽く言う。
「じゃ、コイツの事頼んだよ」
「……はい」
ミナミは、仕事の笑顔で頭を下げた。
先輩が席を離れ、ソファの向かい側に距離ができる。
俺と、ミナミ。
二人だけ。
……いや、
五年分の時間が、
この狭い席に座ってる。
しばらく、
どちらも喋らなかった。
おしぼりの湿った匂い。
グラスの氷が溶ける音。
遠くで聞こえる、誰かの笑い声。
「何飲む?」
淡々とした声。
「いらねぇ」
即答。
「そう?」
一瞬だけ、目が揺れたあと、
グラスを取る。
「じゃあ、水割りね」
手際が良すぎた。
迷いがない。
氷。
ボトル。
軽く混ぜる音。
(……慣れすぎだろ)
「神田、敬語話せたんだね」
そう言ってグラスが俺の前に置かれる。
「使えるに決まってんだろ。
ただ、お前の前じゃ必要なかっただけだ」
俺は、グラスには触れずに言った。
「いつ日本に戻った」
ミナミがため息を吐きながら返事をする。
「…初めから」
「オーストラリアに行ってたんじゃねぇのかよ」
「……行ってないよ」
イラッとする。
「なんで、“ユウ”なんだ」
空気が、少し張る。
ミナミの手が止まった。
「……聞くんだ」
「当たり前だろ」
低く、抑えた声。
「俺の名前だ」
ミナミは、少しだけ視線を落としてから、
はっきり言った。
「神田を近くに感じていたかったから」
「……は?」
「神田とひとつになりたかったから」
その言葉が、
胸の奥に突き刺さる。
「……ふざけんな」
俺は、静かに言った。
「こんな場所で、俺の名前使って、生きてる理由にすんな」
ミナミは、少し笑った。
「神田にはわからないよ」
「分かるわけねぇだろ」
俺は身を乗り出す。
「……出よう」
ミナミの目が、一瞬だけ見開かれる。
「無理」
即答だった。
「仕事だから」
「じゃあ終わるまで待つ」
迷いなく言った。
ミナミは、俺を見て——
ゆっくり、店の奥へ視線を送る。
重そうな扉。
静かで、値段が高そうなドア。
「……休憩はね」
声が低くなる。
「30分、三万円から」
それだけで、全部分かった。
この店が、
どんな場所か。
俺は、息を吐いた。
「今日は何時までだ?今日の時間、全部俺が買う」
ミナミが、俺を見る。
笑えない顔で。
「手を繋ぐことさえ出来なかったのに?」
「そういうことがしたいわけじゃねぇよ」
低く、即否定。
「触りたいんじゃねぇし、買いたいわけでもねぇ」
一拍。
「他の男と話す時間を、俺に寄越せって言ってんだ」
沈黙。
グラスの中の氷が、
小さく音を立てた。
五年分の時間が、
このテーブルに積み重なっている。
俺は、ミナミから目を逸らさずに言った。
「納得がいく話をしろ」
逃げ道を、
一つも残さない声で。
「じゃあ、行こっか」
ミナミがボーイを呼んで何か耳打ちした。
それからミナミに連れられて重厚な扉の先へと向かった。
そこは左右いくつかに扉があり、更に階段を登った先の部屋へ案内をされた。
扉が閉まるとミナミの肩から、すっと力が抜けた。
さっきまでの、
作った笑い方も、
相手を値踏みするような目も、
全部、消えた。
「……はぁ」
小さく息を吐いて、
ソファーの背もたれに身体を預ける。
それはもう、
“ユウ”じゃなくて、
俺の知ってるミナミだった。
「……ごめんね」
ぽつりと落とされた声。
「こんなとこ、連れてきて」
俺は、答えなかった。
部屋を見回す。
間接照明の淡い光。
革張りのソファ。
テーブルの上の、触れられていないグラス。
どれもこれも、
「触れていい距離」と
「触れてはいけない距離」の境目を
曖昧にするための作りだ。
——胸糞悪い。
視線を戻すと、
ミナミは膝の上で指を組んでいた。
五年だぞ。
五年も経って、
こんな場所で再会して。
俺は、無意識に拳を握っていた。
「どうして黙って居なくなった」
ミナミは、
答えなかった。
視線を、
俺の肩の向こうに逃がす。
「……答えろ」
それでも、黙ったまま。
その沈黙が、答えだった。
俺は、息を吐く。
「オーストラリア?」
鼻で笑った。
「ふざけた嘘だな」
ミナミの指先が、
ぎゅっと、キャミソールの裾を掴む。
「……俺が、
そんなに信用ねぇか」
ミナミは、やっと俺を見た。
泣きそうな顔で。
「違う……」
震える声。
「……好きだから」
その言葉は、
五年前より、
ずっと重かった。
俺は、
テーブルに肘をついて、
前に身を乗り出す。
「だったら」
距離が、縮まる。
「俺の名前で働くな」
ミナミの呼吸が、止まる。
「……ユウって名前、
誰のだと思ってんだ」
しばらく、
ミナミは何も言えなかった。
やっと、
小さく笑う。
「……お父さんが知り合いの連帯保証人になっててね」
ミナミはゆっくり息を吸ってから、続けた。
「その人、借金たくさん作って夜逃げして」
視線を上げずに、静かに。
「ある日学校から帰ったらお母さんは男の人と逃げてた」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が詰まる。
「それで、家を売って、お父さんと借金を返してるの」
小さく、苦笑する。
「生きるためならウリもやったよ」
自分がそんな事してるなんて、誰にも知られたくなかった。
特に神田にはね。
神田にはキレイな私のままでいたかったから」
その言い方が、
あまりにも、昔のままで。
俺は、短く息を吐いた。
「俺の名前で他の男に抱かれる気分はどうなんだ?」
ミナミの肩が、ぴくっと揺れる。
「神田にはわからないだろうね」
視線を上げて、
真っ直ぐ俺を見る。
「神田の名前を使うことで、私がどれだけ救われたか」
その瞬間、
俺の中で、何かが完全に折れた。
——あぁ、ダメだ。
理屈も、怒りも、
全部、意味がなくなる。
俺は、ソファーの背もたれに深く身体を沈めた。
「好きでやってると思ってるの?」
「……」
「神田の名前を使わなきゃ、心がとっくに壊れてた」
ミナミが、苦笑する。
「……神田の名前だから、ひとりじゃないって思えた」
その一言で、
五年分の沈黙が、重く落ちた。
俺は、静かに言った。
「……だったら」
一拍。
「最初から俺を使えよ」
ミナミが、はっと顔を上げる。
「名前だけじゃなくて、全部だ」
視線を逸らさず、続ける。
「一人で壊れるくらいなら俺を巻き込め」
低く、でも迷いのない声で。
「逃げる理由なんざ五年も要らなかった」
小さく息を吐く。
「……俺は、ずっとお前の味方だ」
ミナミが、目を見開く。
「……え?」
俺は視線を逸らさずに続ける。
「お前が、どんな顔で生きてきたか、何を選んで、何を諦めたか。
それを、俺に聞かせろ」
逃げ道を、残さない声だった。
部屋のBGMが、さらに濃くなった気がした。
ミナミは、しばらく黙っていたが——
やがて、小さく笑った。
「……ほんと、変わってないね」
「悪いか」
「ううん」
首を振る。
その一言で、
ミナミの目から、静かに涙が落ちた。
声は出ない。 ただ、俯いて、唇を噛んでる。
俺は舌打ちひとつして、 ソファーから身を起こした。
「……泣くな」
言い方はぶっきらぼう。 慰めになってないのは分かってる。
それでも、 そのまま放っとけるわけがなくて。
俺はミナミの肩を引いて、 胸元に引き寄せた。
ぎゅ、っと。
乱暴でもなく、 優しすぎもしない、 逃がさないだけの力で。
「……」
ミナミが、 俺の服を掴む。
その指が震えてるのを見て、 俺は小さく息を吐いた。
「……ひとりで抱え込むなよ」
頭に手を置いて、 雑に、でも確実に撫でる。
「もう黙って消えんな」
低い声で、短く。
「……俺を、ひとりにするな」
腕の中で、 ミナミが小さく、嗚咽を漏らす。
俺はもう一度、 ぎゅっと抱き直した。
「……ここにいろ」
それだけ言って、 しばらく離さなかった。
腕の中で、ミナミが小さく息を吸うたび、
俺は思い知る。
失った時間は、戻らない。
あの頃みたいに、笑って誤魔化すことも出来ない。
それでも——
離した瞬間に、またひとりになる気がした。
「……遅くなって悪かった」
誰に言うでもなく、低く零す。
答えは返ってこない。
ただ、泣きじゃくるミナミの指が、俺の服を掴んだままだ。
その弱さごと、
俺はもう離さないと決めた。
五年前に止まった時間が、
確かに、音を立てて動き出した。
今度こそ、ちゃんと——ふたりで。
おわり20251217
あとがき
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
この話は、松下優也さんの「ふたり」という大大大好きな曲を聴きながら書いたものです。とても良い曲なので機会があれば是非
(♡∀♡〃)‼
この妄想は、時間だけが進んで、置いていかれた側だけが“ふたり”の続きを握りしめたまま大人になっていく。そんなお話です。
神田は、器用に優しく出来ない。
でも、優しくないわけじゃなくて、優しさの出し方が「抱え込む」一択みたいな男で。
この妄想の神田は、怒ってるようで、ずっと怖かったんだと思う。
また消えるんじゃないかって。
だから「納得がいく話をしろ」って、荒い言い方で縛ってる。
本当は、縛りたいんじゃなくて――置いていかれたくないだけ。
そしてミナミは、綺麗なままでいたかった。
だからこそ黙った。
守りたかったのに、守り方を間違えて、神田の心を“空席”にした。
でも、五年越しに戻ってきてしまうの、皮肉すぎる( ; ᷄ᾥ ᷅ ; )
最後、神田が言う「ここにいろ」は、甘い告白ではないです。
命令みたいで、約束みたいで、祈りみたいなものです。
“二度とひとりにするな”って、言えない男の精一杯。
……というわけで。
この短編、後味は甘くないけど、ちゃんと「ふたり」に戻したかった。
ふたりが、ふたりに戻るのは、神田の腕しかないと思ったから。
もし続きがあるなら、次は「埋め合わせ」じゃなくて「生活」を書きたいです。
泣いて、怒って、笑って、下手くそに幸せになるやつを。
ね、神田。今度こそ、逃がすなよ。
ᰔᩚ(* ꈍ3)(εꈍ *)ンチュ~~~神威がくこ
その頃の俺は、
未来のことなんて、何も考えていなかった。
明日も、来週も、
ミナミはそこにいると思っていたし、
いなくなる理由なんて、ひとつも思いつかなかった。
——今思えば、
それが一番、間違っていた。
放課後の校舎は、いつも同じ匂いがした。
ワックスの残り香と、夕方の風と、
部活帰りの誰かの笑い声。
その全部が当たり前で、
当たり前すぎて、疑う理由すらなかった。
「ねえ、神田」
後ろから呼ばれて振り返ると、
ミナミは少し息を切らして立っていた。
「今日さ、一緒に帰ろ」
それだけの言葉なのに、
胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねる。
「……“今日も”だろ」
そう返すと、
ミナミは不満そうに眉を寄せて、それから笑った。
「“今日も”が、ずっと続くと思ってる?」
冗談みたいな声だった。
でも、そのときの俺は気づかなかった。
——これが、
最後の確認だったことに。
並んで歩く帰り道。
肩が触れそうで触れない距離。
手を伸ばせば、簡単に繋げるのに、
どちらも何もしなかった。
信じていたんだ。
言わなくても、分かってるって。
「またね」
そう言って手を振るミナミの背中を、
俺はいつも通り見送った。
——その“また”が、
どれほど残酷な言葉だったのかも知らずに。
その日、
ミナミは何も言わなかった。
そして次の日、
彼女は学校に来なかった。
席は、空いたままだった。
朝のホームルーム。 担任が何か言っていた気がするが、 内容はひとつも頭に入らなかった。
視線はずっと、 俺の隣―― ミナミが座るはずだった場所に貼りついたまま。
(……遅刻か?)
そう思ったのは、最初の五分だけだった。
チャイムが鳴って、 教室が静かになって、 それでも――来ない。
(……体調悪い?)
昨日の顔を思い出す。 息を切らして、 「一緒に帰ろ」って言った声。
普通だった。 いつも通りだった。 変なところなんて、ひとつも――
(……いや)
違う。
“今日も”が、ずっと続くと思ってる?
あの言葉。
冗談みたいな顔で、 でも、妙にまっすぐ俺を見ていた。
(……なんだよ、それ)
胸の奥が、じわじわと嫌な音を立て始める。
授業中、 ノートを開いても文字が滑る。 ペンを握っても、指に力が入らない。
頭の中は、ひとつだけ。
ミナミ、どこ行った。
昼休み。
ミナミとよく一緒にいた女子二人の席の前で足を止めた。
無意識に、そこにいるはずの姿を探してから、口を開く。
「なぁ……ミナミ、今日どうした?」
その瞬間、二人の動きが止まった。
「……え?」
一人が、困ったように笑う。
「神田……どうしたの?」
胸の奥がざわつく。
「どうしたも何も。いねぇだろ」
するともう一人が、思わず言ってしまったように口を開いた。
「……先生、朝のホームルームで言ってたじゃん」
眉が寄る。
「……何を」
「ミナミ、転校するって」
一瞬、音が消えた。
「……は?」
「親の都合で引っ越しだって」
言葉が、頭に入ってこない。
「私たちにはさ、前もって言ってくれてたんだよね」
「先週くらいに」
喉が、きしむ。
「……俺には?」
二人は、視線を逸らした。
「……言ってると思ってた」
「だって、神田と一番仲良かったじゃん」
悪気のない言葉が、容赦なく刺さる。
「昨日も一緒に帰ってたし……」
胸の奥が、ひどく冷える。
「……で」
俺は、低い声で続けた。
「どこに引っ越した?」
二人の空気が、さらに重くなる。
「……海外」
「オーストラリアだよ……」
その言葉で、完全に理解した。
(……あぁ)
国内ですらなかった。
簡単に会いに行ける距離でもない。
二人の視線が、露骨に変わる。
“本当に何も知らされてなかったんだ”
そんな同情が、はっきりと浮かんでいた。
「……でも、ほら」
慌てて、一人が取り繕う。
「今どきスマホあるし……連絡、取れるじゃない?」
その瞬間。
ポケットの中のスマホが、急に重く感じる。
連絡先はある。
履歴もある。
でも——
(……何も来てねぇ)
俺は何も言わなかった。
ただ、
ミナミの席を見た。
きれいに片付けられた机。
最初から、いなかったみたいな空白。
(……俺だけかよ)
知らなかったのも。
信じてたのも。
胸の奥に、遅れて痛みが広がる。
(……なんで何も言わねぇんだよ、ミナミ)
そう思った瞬間、
視界がわずかに滲んだ。
まぶたの裏が熱くなるのを、神田は必死に誤魔化した。
喉の奥が詰まる感覚を、無理やり飲み込む。
——泣く理由なんて、どこにもない。
そう言い聞かせるみたいに。
ミナミの席は空っぽで、
昨日までそこにあったはずの気配だけが、
置き去りにされている。
たった一言でよかったから伝えて欲しかった。
瞳の水分が涙になる前に、視線を逸らした。
誰にも、見せるつもりはない。
そして、答えはもう、どこにもなかった。
放課後。
昨日と同じ時間。 同じ廊下。 同じ夕方の匂い。
なのに。
横に並ぶはずの足音がない。
昨日、確かに。
「またね」
そう言って、 手を振って、 歩いていった。
(……どこで、間違えた)
思い出す。 会話を、ひとつずつ。
「今日さ、一緒に帰ろ」 「“今日も”だろ」 「“今日も”が、ずっと続くと思ってる?」
それだけ。
それだけしかない。
喧嘩もしてない。 泣かせてもいない。 理由になりそうな言葉は、どこにもない。
(……なんでだよ)
スマホを取り出す。 メッセージ欄。
一番上。 ミナミの名前。
何度も打って、 消して、 また打つ。
(……俺、何も聞いてねぇ)
家のことも。 将来のことも。 悩みも、不安も。
“言わなくても分かる”って、 勝手に思ってた。
(……分かってなかったのは、俺だけか)
夕焼けが、校舎を赤く染める。
昨日と同じ色なのに、 今日はやけに、目に痛い。
「…ミナミ…なんで言わないんだよ」
声に出した瞬間、 胸の奥が、ぎゅっと潰れた。
当然、返事はない。
その日、 俺は初めて気づいた。
───何も知らないまま好きでいるって、
こんなにも脆い。
そして、 何も言わずにいなくなることが、 どれほど残酷かを。
俺は、気づいたら校門を出ていた。
足が勝手に動いていた。
何度も来た道。
ミナミの家へ続く、いつもの角。
門の前に立つ。
表札は、まだあった。
「……」
喉が鳴る。
チャイムに手を伸ばして、押す。
——鳴らない。
もう一度、強く押す。
それでも、何も返ってこない。
電気が止まっているのが、はっきり分かった。
窓の奥は暗く、
カーテンの隙間にも、人の気配はない。
(……は?)
息が詰まる。
「……おい」
誰に向けたかも分からない声が、
乾いた空気に落ちた。
門を開けて庭を通り、玄関の扉を軽く叩いてみる。
当然、反応はない。
……当たり前だ。
もう、誰もいない。
昨日まで、
確かにここに生活があって、
笑い声があって、
「また明日な」って言ってた場所なのに。
俺は、その場から動けなかった。
視界が、じわっと滲む。
瞬きをしても、
喉を鳴らしても、
胸の奥に溜まったものは下りていかない。
(……ほんとに、いねぇのかよ)
ポケットの中のスマホを手に取り、
画面を開いて、
名前をタップする。
発信音が一度鳴って——
すぐに、繋がらない音に変わった。
「……」
俺はスマホを握り締めたまま、
ゆっくり額を下げる。
肩が、ほんの少しだけ震えた。
泣くほどじゃない。
まだ、泣くほどじゃない。
ただ——
胸の奥にぽっかり空いた穴に、
冷たい風が吹き抜けていくだけだ。
「……何も、言わねぇとか……」
言葉は、途中で途切れた。
返事をする相手は、
もう、どこにもいない。
俺は暗い玄関を見つめたまま、
しばらく、そこを離れる事が出来なかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
五年後の春。
桜が咲いて、散って、
それを「綺麗だな」と思う余裕がある程度には、俺は大人になっていた。
社会人一年目。
名刺を持って、スーツを着て、
ガラにもなく、上司の顔色を伺って、
毎日それなりに忙しい。
それでも。
朝の満員電車。
窓に映る自分の顔は、
高校の頃と、たいして変わっていなかった。
あのときのまま。
時間だけが、俺を置き去りにして進んでいったみたいだ。
夜、狭いワンルームに帰る。
ネクタイを外して、
ベッドに腰を下ろして——
何も考えないようにしても、
手は勝手に、スマホを取る。
あの時とは違うスマホにはミナミとのトークはもう無い。
ミナミのSNSの更新も5年前で止まっている。
五年前、
あの日の夜、メッセージアプリの他にもSNSの方にも送った、たった一通のメッセージ。
『なんで言わないんだよ。 ちゃんと話せ。連絡しろ』
送信時刻だけが、やけに古い。
その横にあるはずの表示は——
今も変わらず、
未読
(……まだ、見てねぇのかよ)
親の都合。
引っ越し。
オーストラリア。
頭では理解している。
それでも。
(……俺だけ、置いてかれたみてぇじゃねぇか)
画面を閉じる勇気も、
消す覚悟も、
どっちも持てないまま。
俺は五年間、
同じ場所で立ち止まっている。
あの放課後。
あの「またね」。
あの、何も言わなかった背中。
——もし、あのとき。
たった一言でも、
「実はさ」って言ってくれてたら。
そんな仮定ばかりが、
今も胸の奥で腐らずに残っている。
スマホを伏せ、
天井を見上げる。
(……元気でやっているのか?)
答えは、来ない。
五年経っても、
俺はまだ、
「ふたり」だった時間から抜け出せていなかった。
昼休み、社屋の裏でペットボトルのお茶を開けていると――
「なぁ神田」
声をかけてきたのは先輩だった。
「今日、仕事終わり空いてる?」
「……何ですか」
「飲み。行こーぜ?」
俺は一瞬だけ考えて、すぐ答えた。
「……断っていいですかね」
だけど、夜。
逃げることが出来ず、連れて来られたのは、
駅前から少し外れたネオン街。
「……ここ?」
ただの飲み屋じゃない。
「なんだよ、固ぇな」
先輩は笑いながら言う。
「たまにはこういう店もいいだろ」
「興味ねぇ」
「まぁまぁ」
そのまま歩きながら、先輩がふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。
ここ、知り合いが働いてんだよ」
「は?」
「妹が前に工場で一緒だった子」
神田の眉が、ほんの少し動く。
(知り合いの裸、見るってどういう神経してんだよ…)
「生活きつかったらしくてさ。
高校も途中で辞めたって言ってたな」
興味が無いから先輩の話は右から左へと抜けていく。
先輩は気にも留めず、続ける。
「今は昼は工場、夜は店」
ポケットからスマホを取り出す。
「めっちゃ可愛いぞ。写真あるけど、見る?」
断る暇はなかった。
画面に映った顔を見た瞬間、
神田の思考が止まる。
(……は?)
一瞬、冗談かと思った。
化粧は濃い。
服も知らない。
でも――
「……」
喉が、ひくりと鳴った。
「ミナミ?」
世界が、ずれた。
「……いつ日本に」
声が、勝手に漏れる。
「ん?」
先輩が俺を見る。
「どうした?」
俺は視線を逸らしたまま、低く言った。
「……別に」
先輩は画面をもう一度見て、にやっと笑う。
「なんだよ。惚れたか?」
「チッ」
先輩は面白そうに続ける。
「じゃあ、顔赤いのは気のせい?」
「なってねぇ」
「なってるな」
画面の中のミナミは、
仕事用の笑顔で笑っている。
五年前。
何も言わずに消えた女。
「…今」
神田が、ぽつりと言う。
「ソイツ、今日、居るんですか」
先輩は少し考えてから肩をすくめた。
「たぶんな。
シフトはよく知らんけど」
心臓が、遅れて痛み出す。
(……ここに居たのかよ)
五年前に送ったメッセージ。
既読もつかないまま、残っている通知。
(……ふざけんな)
何も知らなかったのは、俺だけだ。
「……先輩」
「ん?」
「先行く」
「んん!?」
「……確認しに」
先輩は笑った。
「ハハハ、若いねぇ」
何も知らない声だった。
店に入った瞬間襲ってくる、酒と香水と、笑ってる声の裏にある、嘘みたいな疲労。
(……最悪だな)
照明は薄暗くて、
壁は金か黒で、
どこも落ち着かねぇ。
「お客様、こちらのお席へ——」
ボーイが何か言ってきたが、聞いてねぇ。
俺はそのまま歩いた。
通路を、テーブルを、ソファの影を。
(……いねぇ)
胸の奥が、じわじわ焦げる。
「お客様、店内を——」
「邪魔」
短く言って、すり抜ける。
女の笑い声が飛ぶ。
グラスが鳴る。
誰かが肩に触れてきたが、振り払った。
(……どこだ)
五年分の時間を、こんな場所で使ってたなんて、まだ信じきれてねぇ。
「おい、神田!」
後ろから声。
振り返ると、
少し遅れて入ってきた先輩が、
呆れた顔で立っていた。
「何してんだよ。迷子か?」
「……探してる」
「だからって店内うろつくな。他の客の迷惑だから」
肩を掴まれて、
半ば強引に戻される。
(……チッ)
ソファに座らされ、
やっと腰を下ろす。
心臓がうるせぇ。
先輩は慣れた手つきでメニューを見て、
スタッフを呼んだ。
「なぁ、ユウちゃん呼んでくれる?」
その一言で。
俺の思考が、止まった。
(……ん?)
今、なんて言った。
ユウ。
俺の名前。
視線が、無意識に名札を探す。
(源氏名……?)
喉が、きゅっと鳴る。
「はい、少々お待ちください」
スタッフが下がる。
先輩は何も気づかず、水の入ったグラスを持ち上げた。
「初めてだろ?
緊張すんなって」
「……」
返事ができねぇ。
頭の中で、嫌な音がする。
(……まさか)
数秒。
いや、
一分にも満たねぇ時間。
それなのに、
やけに長く感じた。
ヒールの音。
近づいてくる、
ゆっくりした足音。
「お待たせしました〜」
その声。
間違えようがない。
顔を上げる。
そこに立っていたのは。
俺を五年前に置いてきたはずの——
ミナミだった。
名札には、
はっきりと書いてある。
『ユウ』
(……)
一瞬、
呼吸を忘れた。
ミナミは、
仕事用の笑顔で、
先輩を見る。
「あ、さおりさんのお兄さん!お久しぶりです」
それから——
視線が、俺に落ちた。
ほんの一瞬。
笑顔が、
固まった。
俺の喉が鳴る。
(……ゴクリ)
世界が、
音を立ててひっくり返る。
先輩が、
何も知らずに言った。
「神田、この子がユウちゃん」
(……俺の名前で、
俺じゃない男に抱かれてたのか)
ミナミは、震えを隠すように、もう一度だけ微笑んだ。
「……久しぶり、神田」
その声で。
俺は確信した。
——終わってねぇ。
この五年は、
何ひとつ、終わってねぇ。
(……捕まえた)
ミナミ——いや、
ユウと名札に書かれた女は、先輩の隣、俺の前に座った。
仕事用の距離。
仕事用の姿勢。
胸元に寄せられた腕も、
微妙に計算された角度。
(……ふざけんな)
心臓が、
静かに早くなっていく。
先輩は、完全に状況を飲み込めていない顔で、俺とミナミを見比べた。
「……え?
知り合いなの?」
その一言で、ミナミの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
俺は、視線を外さない。
「……はい」
答えたのは、ミナミだった。
先輩が俺を見る。
「マジ?じゃあさ——」
そこで、
俺が口を開いた。
「先輩」
声は、
自分でも驚くほど落ち着いていた。
「……この人と、二人きりにしてもらえませんか」
店内の音が、一瞬、遠のく。
先輩は目を瞬かせて、
それから、ゆっくり笑った。
「……なるほど」
察しがいい。
余計なことは聞かないタイプだ。
「いいよ。
俺、向こうで飲んでるから」
立ち上がりながら、ミナミに向かって軽く言う。
「じゃ、コイツの事頼んだよ」
「……はい」
ミナミは、仕事の笑顔で頭を下げた。
先輩が席を離れ、ソファの向かい側に距離ができる。
俺と、ミナミ。
二人だけ。
……いや、
五年分の時間が、
この狭い席に座ってる。
しばらく、
どちらも喋らなかった。
おしぼりの湿った匂い。
グラスの氷が溶ける音。
遠くで聞こえる、誰かの笑い声。
「何飲む?」
淡々とした声。
「いらねぇ」
即答。
「そう?」
一瞬だけ、目が揺れたあと、
グラスを取る。
「じゃあ、水割りね」
手際が良すぎた。
迷いがない。
氷。
ボトル。
軽く混ぜる音。
(……慣れすぎだろ)
「神田、敬語話せたんだね」
そう言ってグラスが俺の前に置かれる。
「使えるに決まってんだろ。
ただ、お前の前じゃ必要なかっただけだ」
俺は、グラスには触れずに言った。
「いつ日本に戻った」
ミナミがため息を吐きながら返事をする。
「…初めから」
「オーストラリアに行ってたんじゃねぇのかよ」
「……行ってないよ」
イラッとする。
「なんで、“ユウ”なんだ」
空気が、少し張る。
ミナミの手が止まった。
「……聞くんだ」
「当たり前だろ」
低く、抑えた声。
「俺の名前だ」
ミナミは、少しだけ視線を落としてから、
はっきり言った。
「神田を近くに感じていたかったから」
「……は?」
「神田とひとつになりたかったから」
その言葉が、
胸の奥に突き刺さる。
「……ふざけんな」
俺は、静かに言った。
「こんな場所で、俺の名前使って、生きてる理由にすんな」
ミナミは、少し笑った。
「神田にはわからないよ」
「分かるわけねぇだろ」
俺は身を乗り出す。
「……出よう」
ミナミの目が、一瞬だけ見開かれる。
「無理」
即答だった。
「仕事だから」
「じゃあ終わるまで待つ」
迷いなく言った。
ミナミは、俺を見て——
ゆっくり、店の奥へ視線を送る。
重そうな扉。
静かで、値段が高そうなドア。
「……休憩はね」
声が低くなる。
「30分、三万円から」
それだけで、全部分かった。
この店が、
どんな場所か。
俺は、息を吐いた。
「今日は何時までだ?今日の時間、全部俺が買う」
ミナミが、俺を見る。
笑えない顔で。
「手を繋ぐことさえ出来なかったのに?」
「そういうことがしたいわけじゃねぇよ」
低く、即否定。
「触りたいんじゃねぇし、買いたいわけでもねぇ」
一拍。
「他の男と話す時間を、俺に寄越せって言ってんだ」
沈黙。
グラスの中の氷が、
小さく音を立てた。
五年分の時間が、
このテーブルに積み重なっている。
俺は、ミナミから目を逸らさずに言った。
「納得がいく話をしろ」
逃げ道を、
一つも残さない声で。
「じゃあ、行こっか」
ミナミがボーイを呼んで何か耳打ちした。
それからミナミに連れられて重厚な扉の先へと向かった。
そこは左右いくつかに扉があり、更に階段を登った先の部屋へ案内をされた。
扉が閉まるとミナミの肩から、すっと力が抜けた。
さっきまでの、
作った笑い方も、
相手を値踏みするような目も、
全部、消えた。
「……はぁ」
小さく息を吐いて、
ソファーの背もたれに身体を預ける。
それはもう、
“ユウ”じゃなくて、
俺の知ってるミナミだった。
「……ごめんね」
ぽつりと落とされた声。
「こんなとこ、連れてきて」
俺は、答えなかった。
部屋を見回す。
間接照明の淡い光。
革張りのソファ。
テーブルの上の、触れられていないグラス。
どれもこれも、
「触れていい距離」と
「触れてはいけない距離」の境目を
曖昧にするための作りだ。
——胸糞悪い。
視線を戻すと、
ミナミは膝の上で指を組んでいた。
五年だぞ。
五年も経って、
こんな場所で再会して。
俺は、無意識に拳を握っていた。
「どうして黙って居なくなった」
ミナミは、
答えなかった。
視線を、
俺の肩の向こうに逃がす。
「……答えろ」
それでも、黙ったまま。
その沈黙が、答えだった。
俺は、息を吐く。
「オーストラリア?」
鼻で笑った。
「ふざけた嘘だな」
ミナミの指先が、
ぎゅっと、キャミソールの裾を掴む。
「……俺が、
そんなに信用ねぇか」
ミナミは、やっと俺を見た。
泣きそうな顔で。
「違う……」
震える声。
「……好きだから」
その言葉は、
五年前より、
ずっと重かった。
俺は、
テーブルに肘をついて、
前に身を乗り出す。
「だったら」
距離が、縮まる。
「俺の名前で働くな」
ミナミの呼吸が、止まる。
「……ユウって名前、
誰のだと思ってんだ」
しばらく、
ミナミは何も言えなかった。
やっと、
小さく笑う。
「……お父さんが知り合いの連帯保証人になっててね」
ミナミはゆっくり息を吸ってから、続けた。
「その人、借金たくさん作って夜逃げして」
視線を上げずに、静かに。
「ある日学校から帰ったらお母さんは男の人と逃げてた」
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が詰まる。
「それで、家を売って、お父さんと借金を返してるの」
小さく、苦笑する。
「生きるためならウリもやったよ」
自分がそんな事してるなんて、誰にも知られたくなかった。
特に神田にはね。
神田にはキレイな私のままでいたかったから」
その言い方が、
あまりにも、昔のままで。
俺は、短く息を吐いた。
「俺の名前で他の男に抱かれる気分はどうなんだ?」
ミナミの肩が、ぴくっと揺れる。
「神田にはわからないだろうね」
視線を上げて、
真っ直ぐ俺を見る。
「神田の名前を使うことで、私がどれだけ救われたか」
その瞬間、
俺の中で、何かが完全に折れた。
——あぁ、ダメだ。
理屈も、怒りも、
全部、意味がなくなる。
俺は、ソファーの背もたれに深く身体を沈めた。
「好きでやってると思ってるの?」
「……」
「神田の名前を使わなきゃ、心がとっくに壊れてた」
ミナミが、苦笑する。
「……神田の名前だから、ひとりじゃないって思えた」
その一言で、
五年分の沈黙が、重く落ちた。
俺は、静かに言った。
「……だったら」
一拍。
「最初から俺を使えよ」
ミナミが、はっと顔を上げる。
「名前だけじゃなくて、全部だ」
視線を逸らさず、続ける。
「一人で壊れるくらいなら俺を巻き込め」
低く、でも迷いのない声で。
「逃げる理由なんざ五年も要らなかった」
小さく息を吐く。
「……俺は、ずっとお前の味方だ」
ミナミが、目を見開く。
「……え?」
俺は視線を逸らさずに続ける。
「お前が、どんな顔で生きてきたか、何を選んで、何を諦めたか。
それを、俺に聞かせろ」
逃げ道を、残さない声だった。
部屋のBGMが、さらに濃くなった気がした。
ミナミは、しばらく黙っていたが——
やがて、小さく笑った。
「……ほんと、変わってないね」
「悪いか」
「ううん」
首を振る。
その一言で、
ミナミの目から、静かに涙が落ちた。
声は出ない。 ただ、俯いて、唇を噛んでる。
俺は舌打ちひとつして、 ソファーから身を起こした。
「……泣くな」
言い方はぶっきらぼう。 慰めになってないのは分かってる。
それでも、 そのまま放っとけるわけがなくて。
俺はミナミの肩を引いて、 胸元に引き寄せた。
ぎゅ、っと。
乱暴でもなく、 優しすぎもしない、 逃がさないだけの力で。
「……」
ミナミが、 俺の服を掴む。
その指が震えてるのを見て、 俺は小さく息を吐いた。
「……ひとりで抱え込むなよ」
頭に手を置いて、 雑に、でも確実に撫でる。
「もう黙って消えんな」
低い声で、短く。
「……俺を、ひとりにするな」
腕の中で、 ミナミが小さく、嗚咽を漏らす。
俺はもう一度、 ぎゅっと抱き直した。
「……ここにいろ」
それだけ言って、 しばらく離さなかった。
腕の中で、ミナミが小さく息を吸うたび、
俺は思い知る。
失った時間は、戻らない。
あの頃みたいに、笑って誤魔化すことも出来ない。
それでも——
離した瞬間に、またひとりになる気がした。
「……遅くなって悪かった」
誰に言うでもなく、低く零す。
答えは返ってこない。
ただ、泣きじゃくるミナミの指が、俺の服を掴んだままだ。
その弱さごと、
俺はもう離さないと決めた。
五年前に止まった時間が、
確かに、音を立てて動き出した。
今度こそ、ちゃんと——ふたりで。
おわり20251217
あとがき
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
この話は、松下優也さんの「ふたり」という大大大好きな曲を聴きながら書いたものです。とても良い曲なので機会があれば是非
(♡∀♡〃)‼
この妄想は、時間だけが進んで、置いていかれた側だけが“ふたり”の続きを握りしめたまま大人になっていく。そんなお話です。
神田は、器用に優しく出来ない。
でも、優しくないわけじゃなくて、優しさの出し方が「抱え込む」一択みたいな男で。
この妄想の神田は、怒ってるようで、ずっと怖かったんだと思う。
また消えるんじゃないかって。
だから「納得がいく話をしろ」って、荒い言い方で縛ってる。
本当は、縛りたいんじゃなくて――置いていかれたくないだけ。
そしてミナミは、綺麗なままでいたかった。
だからこそ黙った。
守りたかったのに、守り方を間違えて、神田の心を“空席”にした。
でも、五年越しに戻ってきてしまうの、皮肉すぎる( ; ᷄ᾥ ᷅ ; )
最後、神田が言う「ここにいろ」は、甘い告白ではないです。
命令みたいで、約束みたいで、祈りみたいなものです。
“二度とひとりにするな”って、言えない男の精一杯。
……というわけで。
この短編、後味は甘くないけど、ちゃんと「ふたり」に戻したかった。
ふたりが、ふたりに戻るのは、神田の腕しかないと思ったから。
もし続きがあるなら、次は「埋め合わせ」じゃなくて「生活」を書きたいです。
泣いて、怒って、笑って、下手くそに幸せになるやつを。
ね、神田。今度こそ、逃がすなよ。
ᰔᩚ(* ꈍ3)(εꈍ *)ンチュ~~~神威がくこ