風車
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[風車]
石畳の道を、神田は無言で歩いていた。
ここは古い町だ。
低い屋根が並び、白い壁には蔦が絡み、軒先には洗濯物が揺れている。昼下がりの光はやわらかく、通りを行き交う人々の声も、どこか遠い。
平和そうな町だ。
そう思ったところで、神田の胸には何の感慨も湧かなかった。
任務で訪れた土地に、いちいち情を置く必要はない。
通り過ぎる。
目的地へ向かう。
敵がいれば斬る。
それだけだ。
隣では、ティエドール元帥がのんびりと歩いている。
「いい町だねぇ」
元帥は、まるで散歩でもしているような声で言った。
神田は答えなかった。
いい町かどうかなど、どうでもいい。
この町が明日も同じ顔をしている保証など、どこにもない。
平和そうに見える場所ほど、壊れる時はあっけない。
神田は視線だけを前へ向ける。
任務はまだ終わっていない。
足を止める理由などなかった。
そのはずだった。
通りの片隅に、小さな店があった。
店というより、屋台に近い。木箱を並べただけの簡素な台の上に、色とりどりの風車が差してある。
赤。青。黄色。白。
薄い紙で作られた羽根が、風を受けてくるくると回っていた。
かすかな音がする。
紙が風を切る、頼りない音。
神田の足が、そこで止まった。
止まるつもりはなかった。
ただ、目に入った。
それだけのはずだった。
なのに、動けなかった。
「おや」
隣でティエドールが足を止める。
「珍しいね。君がこういうものに興味を示すなんて」
神田は返事をしない。
風車を見ていた。
風が吹く。
小さな羽根が回る。
風が弱まる。
回転が遅くなる。
やがて、止まりかける。
また風が吹けば、何事もなかったように回り出す。
くだらねぇ。
胸の内で、神田はそう吐き捨てた。
紙と棒でできた玩具だ。
戦場にも、任務にも、何の役にも立たない。
子どもが手に持って笑うためだけのもの。
だが、視線を外せなかった。
風車を見ると、思い出す。
思い出したくもないものまで、勝手に胸の奥から引きずり出される。
遠い日の夕暮れ。
任務帰りの町。
疲れた身体。
血と埃の匂い。
その中で、ひとりだけ明るい顔をしていた女。
ミナミ。
名前が浮かんだだけで、胸の奥がわずかに軋んだ。
最後にその名を呼んだのは、いつだったか。
神田は覚えているつもりだった。
声も。
笑い方も。
自分を見上げた時の、あのまっすぐな目も。
覚えているはずだった。
だが、時間というものは、思っているより残酷だ。
切り裂くわけでも、奪い去るわけでもない。
ただ静かに、少しずつ、輪郭を薄くしていく。
忘れたくないと思うほど、思い出は遠くなる。
神田は奥歯を噛んだ。
風車が、また回った。
その小さな羽根の向こうに、昔のミナミの笑顔が見えた気がした。
戦場帰りだというのに、くだらない屋台の前で足を止めて、目を細めていたミナミ。
町の空は夕暮れに染まりはじめていた。
低い屋根の上を、茜色の光が滑っていく。石畳には人々の影が長く伸び、露店の灯りがひとつ、またひとつと点りはじめていた。
戦闘は終わった。
アクマは斬った。
報告も済ませた。
あとは教団へ戻るだけだった。
神田はさっさと駅へ向かうつもりでいた。
任務先の町を歩き回る趣味などない。
食い物も、土産も、祭りの飾りも、神田にはどうでもよかった。
だが、隣を歩くミナミは違った。
「神田、見て。あのお店、焼き菓子かな」
「あっち、花がすごいね。任務じゃなかったら少し見たかったな」
「あ、この町って水路があるんだ。綺麗」
ミナミだって疲れているはずだった。
戦闘中、何度もイノセンスを発動していた。
腕にも、頬にも、細かな傷がある。服の裾には土埃が残っていて、髪も少し乱れている。
それでも、ミナミは町を見る目を曇らせなかった。
壊れた壁の横に咲く花。
水路に落ちた夕陽。
小さな子どもが抱えて走る紙袋。
そういうものを見つけては、いちいち嬉しそうにする。
神田には、その感覚がよく分からなかった。
戦場のあとに、よくそんな顔ができる。
そう思うのに。
その横顔を、鬱陶しいとは思わなかった。
「おい。寄り道すんな」
神田が言うと、ミナミは振り返って笑った。
「してないよ。ちゃんと歩いてる」
「目が寄り道してんだよ」
「目くらいいいでしょ」
悪びれもせずに言う。
神田は舌打ちした。
ミナミはそれを聞いて、また少し笑う。
その笑い方が、少しだけ軽かった。
血の匂いも、任務の重さも、少しだけ遠ざけてしまうような笑い方だった。
通りの端に、小さな屋台があった。
木箱に色とりどりの風車が差してある。
赤、青、白、黄色。模様の入ったものもあれば、透けるような薄い紙で作られたものもある。
夕方の風が通りを抜けた。
風車が一斉に回る。
かさかさと、紙の羽根が小さな音を立てた。
ミナミの足が止まった。
「……綺麗」
ぽつりと落ちた声だった。
神田は先へ行きかけて、半歩だけ足を止める。
「ガキか」
「だって、綺麗だよ」
ミナミは屋台の前に立ち、風車を見つめていた。
その顔は、戦場で見せるものとは違っていた。
敵を見据える目でも、仲間を気遣う顔でもない。
ただ、綺麗なものを見つけた時の顔。
神田はその横顔を見た。
風が吹くたび、ミナミの髪が頬の横で揺れる。
その向こうで、風車が回っている。
くだらない玩具だ。
紙と棒でできていて、風がなければ動きもしない。
任務には使えない。
持って帰ったところで邪魔になるだけだ。
そう思った。
「神田?」
ミナミがこちらを見る。
「先に行く?」
そう聞く声に、ほんの少しだけ遠慮が混じっていた。
神田は眉を寄せる。
「……どれだ」
「え?」
「欲しいんだろ。どれだって聞いてんだよ」
ミナミは目を丸くした。
それから、ぱっと顔を明るくする。
「いいの?」
「いらねぇなら行くぞ」
「いる! いるよ」
慌てて言って、ミナミは屋台へ向き直った。
どれにしよう、と小さく呟きながら、真剣に風車を選びはじめる。
神田は腕を組んで待った。
たかが風車ひとつに、ミナミはやけに迷っていた。
赤いものに手を伸ばし、次に青いものを見て、白いものの前でまた悩む。
「早くしろ」
「待って。こういうのは大事なの」
「何がだ」
「神田が買ってくれるんだもん」
その一言に、神田は黙った。
ミナミは気づいていない様子で、最後にひとつの風車を選んだ。
淡い青と白の羽根。
夕暮れの風を受けると、色が混ざって、水面みたいに揺れて見えた。
神田は代金を払い、それを受け取る。
ミナミに差し出すと、ミナミは両手で大事そうに受け取った。
「ありがとう、神田」
「大げさなんだよ」
「大げさじゃないよ。嬉しい」
ミナミは風車を胸の前で持ち、ふっと息を吹きかけた。
羽根が回る。
くるくると、頼りない音を立てて。
それを見て、ミナミは笑った。
まっすぐな笑顔だった。
何も疑っていない。
次の任務も、次に会える日も、二人の間にあるものも。
当たり前みたいに続いていくと信じている顔だった。
神田は、その笑顔から目を逸らした。
「行くぞ」
「うん」
ミナミは風車を持ったまま、神田の隣へ戻ってくる。
歩き出すと、風車がまた小さく回った。
夕暮れの風。
石畳の道。
ミナミの鼻歌にもならない小さな息遣い。
神田は何も言わなかった。
ただ、隣で風車を大事そうに持つミナミの姿だけが、はっきりと記憶に残った。
その時はまだ、知らなかった。
紙の羽根が回るだけの小さな玩具が、いつか自分の胸を抉るものになるなんて。
知るはずもなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
それから、会えない日が増えた。
初めは、数日だった。
次に、一週間になった。
それから、半月。
ひと月。
任務が長引いた。
帰還予定がずれた。
ミナミが戻る頃には神田が別の任務へ出ていて、神田が帰る頃にはミナミがまた遠征へ向かっていた。
同じ教団にいるはずなのに、顔を合わせることさえ難しくなっていく。
それでもミナミは、会えた時には笑った。
「おかえり、神田」
「怪我してない?」
「よかった。ちゃんと帰ってきたんだね」
いつも明るかった。
神田は、その明るさに甘えた。
あいつは大丈夫だ。
笑っている。
自分のことも、任務のことも、分かっている。
そう思っていた。
ミナミがどれだけ待っていたのか。
どれだけ言葉を飲み込んできたのか。
どれだけ寂しさを笑顔の奥へ押し込めていたのか。
神田は見ようとしなかった。
見たところで、何ができる。
任務があれば行く。
命じられれば戦場へ向かう。
自分が必要とされる場所へ、六幻を持って進む。
それがエクソシストだ。
それが神田ユウだった。
久しぶりにミナミと顔を合わせたのは、雨上がりの夕方だった。
教団の中庭には、濡れた石畳が鈍く光っていた。
空気は冷たく、雨の匂いが残っている。
ミナミは、渡り廊下の端に立っていた。
神田を見つけると、いつものように笑った。
「神田」
その声に、神田は足を止める。
「ああ」
短く返す。
ミナミは少しだけ近づいてきた。
以前なら、何も考えずに隣へ来た。
肩が触れる距離まで来て、任務の話をして、どうでもいいことまで話した。
今は、一歩分だけ遠い。
その距離を、ミナミは埋めなかった。
「元気だった?」
「見りゃ分かんだろ」
「うん。……そうだね」
ミナミは笑った。
その笑顔が、前より静かだった。
神田はそれを見て、胸の奥に小さな違和感を覚える。
だが、何も言わなかった。
ミナミも、しばらく黙っていた。
雨上がりの風が通る。
濡れた木々の葉が揺れて、水滴が落ちた。
「ねえ、神田」
ミナミの声が、少しだけ低くなる。
「神田は、私がそばにいてほしい時に、いないよね」
責める声ではなかった。
怒ってもいない。
泣いてもいない。
ただ、静かだった。
神田は、言い返せなかった。
任務だった。
戦争だった。
仕方がなかった。
言おうと思えば、いくらでも言える。
だが、その言葉を口にしたところで何になる。
これから先も、同じだ。
呼ばれれば行く。
命じられれば斬る。
ミナミが待っていても、寂しがっていても、泣いていても、自分はそこにいてやれない日がある。
今も。
この先も。
その時の神田には、そうとしか思えなかった。
ミナミのことがどうでもよくなったわけじゃない。
好きじゃなくなったわけでもない。
それでも、神田の中で一番先にあるものは任務だった。
教団だった。
戦場だった。
ミナミは、それを知っている顔で笑った。
「私、神田のこと好きだよ」
神田は黙っていた。
「でもね」
ミナミの手が、胸元で小さく握られる。
「好きだけじゃ、待てなくなっちゃった」
神田の喉が、かすかに詰まる。
嫌だ、と言えばよかったのかもしれない。
待っていろ、と言えばよかったのかもしれない。
自分のそばにいろ、と。
まだ好きだと。
離れるなと。
ミナミは、きっとそれを待っていた。
神田にも分かった。
分かった上で、言わなかった。
言えば、また待たせる。
言えば、また同じことを繰り返す。
自分はきっと、次に呼ばれた時も任務へ行く。
ミナミがそばにいてほしい時に、またそこにいない。
その未来が見えていた。
だから神田は、低く言った。
「……じゃあ、別れるか」
ミナミの目が揺れた。
ほんの一瞬だった。
すぐに、ミナミは笑った。
泣く代わりみたいな笑い方だった。
「……うん」
その声は、思っていたよりも小さかった。
「別れよう」
神田は何も言わなかった。
ミナミも、それ以上は何も言わなかった。
雨上がりの風だけが、二人の間を通り抜けた。
その日から、ミナミは恋人ではなくなった。
それでも、会わなくなったわけではない。
同じ教団にいる。
同じ戦場へ出る。
同じ廊下を歩く。
別れたあとも、二人は何度か顔を合わせた。
食堂の入り口。
医務室の前。
報告書を抱えた廊下。
任務帰りの昇降口。
ミナミは普通だった。
「神田、元気だった?」
昔と同じ声で聞いてくる。
神田は「ああ」とだけ返す。
ミナミは安心したように笑う。
「そっか。よかった」
それだけだった。
昔なら、そのあと隣に並んだ。
任務の話をした。
くだらない話もした。
ミナミが笑って、神田が面倒そうな顔をして、それでも最後まで聞いていた。
今は、ミナミは軽く手を振り、別の廊下へ行く。
神田は追わない。
追えない。
ミナミがあまりにも普通だから、神田は思ってしまう。
あいつはもう平気なのか。
もう、自分のいない場所で歩けているのか。
自分だけが、あの日から動けていないのか。
本当は、ミナミも無理をしていた。
笑っていなければ、崩れそうだった。
普通でいなければ、神田の前に立てなかった。
そんなことを、神田は知らなかった。
気づかなかった。
気づきかけても、気のせいだと切り捨てた。
また、ミナミの明るさに甘えた。
別れてからも、神田はどこかで待っていた。
ミナミの方から戻ってくることを。
「もう一度」と言ってくれることを。
自分からではなく、ミナミが先に手を伸ばしてくれることを。
ミナミが望むなら、受け止めればいい。
ミナミがまだ自分を選ぶなら、その時に応えればいい。
そう思っていた。
それが優しさだと、どこかで言い訳していた。
違う。
拒まれるのが怖かっただけだ。
もう戻れないと言われるのが怖かった。
今さら何を言っているのだと笑われるのが怖かった。
ミナミが本当に、自分のいない場所で平気になっているのを知るのが怖かった。
だから神田は、待った。
風が吹くのを待つ風車みたいに。
そこで、記憶が途切れた。
目の前では、店先の風車が回っていた。
色とりどりの紙の羽根が、風を受けてくるくると回る。
風が弱まれば、回転は遅くなる。
やがて、止まりかける。
また風が吹けば、何事もなかったように動き出す。
昔、ミナミに買ってやった風車も、そうだった。
淡い青と白の羽根。
ミナミはそれを胸の前で持ち、息を吹きかけて回していた。
くるくると、頼りない音を立てて。
風が無ければただ、同じ場所に立っているだけ。
その風が戻ってくるのを待っているだけの……俺みてぇだな。
そう思った瞬間、胸の奥に苛立ちが走った。
(俺が…風車に似てるだと?)
待っているつもりなどなかった。
立ち止まったつもりもなかった。
任務に出ていた。
戦っていた。
斬っていた。
毎日は嫌になるほど動いていた。
それなのに、ミナミのことだけは、あの日から一歩も動けていなかった。
ミナミの方から風が吹いてくるのを待っていた。
ミナミが戻ってくるのを。
ミナミが言ってくれるのを。
ミナミが、自分をまた回してくれるのを。
自分からは、何もしていない。
神田は奥歯を噛んだ。
恋人だった頃も、ミナミの笑顔に甘えた。
別れてからも、ミナミの普通に甘えた。
その上まだ、ミナミの方から戻ってくるのを待っている。
吐き気がするほど情けなかった。
「……ふざけんな。俺はこんなんじゃねえ」
低く漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
たぶん、自分に向けたものだった。
店先の風車が、また回る。
その小さな動きに引きずられるように、神田の中で過ぎた時間が蘇っていく。
任務は続いた。
傷の治りは遅くなった。
帰還と出発を繰り返した。
せわしない日々は、余計なことを考えさせない。
そのはずだった。
それでもミナミは、ふとした瞬間に記憶の中に戻ってくる。
冷たい風の中に。
廊下を曲がる足音の中に。
誰かの笑い声の端に。
夕暮れの町で見かけた、小さな風車の中に。
思い出すたび、神田は確認する。
まだ覚えている。
ミナミの声。
笑い方。
自分を呼ぶ時の温度。
風車を持って笑った日の顔。
覚えている。
そう思っていた。
しかし、いつからか、分からなくなった。
ミナミは笑う時、先に目元を緩めたのか。
それとも、口元が先だったのか。
「神田」と呼ぶ声は、もう少し高かったか。
それとも、もっと柔らかかったか。
風車を受け取った時、どんな顔で笑っていたか。
思い出せるはずのものが、少しずつ滲んでいく。
時間が、ミナミを隠していく。
連れ去るように。
どこか遠くへ。
二度と届かない場所へ。
二度と会えないかもしれない。
そう思うのも怖かった。
だが、それ以上に怖いものがあった。
忘れていくことだ。
ミナミの顔を。
声を。
指先の温度を。
自分に向けられた明るさを。
そして何より。
ミナミを好きだった自分まで、いつか薄れてしまうことが怖かった。
任務に飲まれ、日々に削られ、何もなかったような顔で生きていけてしまうことが怖かった。
忘れたくない。
あいつがいたことを。
あいつを好きだったことを。
あいつを失ってからも、同じ場所で待っていた自分を。
時間なんかに奪わせたくなかった。
神田は、目の前の風車を見つめる。
紙の羽根は、風を受けて回っている。
ただ、そこに立っている。
風がなければ動けないまま。
神田は目を伏せた。
このままでは、いつか本当に忘れる。
ミナミのことも。
ミナミを好きだったことも。
自分が何を待っていたのかさえも。
その事実だけが、胸の奥で鈍く回り続けていた。
神田は、目を上げた。
店先の風車は、まだ回っている。
風が吹けば動く。
風が止めば止まる。
それを見ているだけなら、今までと何も変わらない。
神田は一歩、屋台へ近づいた。
並んだ風車の中に、淡い青と白の羽根をしたものがあった。
あの日、ミナミに買ってやったものに似ている。
同じものではない。
時間は戻らない。
失った言葉も、別れた日の沈黙も、なかったことにはならない。
それでも、神田はそれを手に取った。
紙と竹の棒でできた、頼りない玩具。
戦場では何の役にも立たない。
アクマを斬ることもできない。
誰かを守る武器にもならない。
だが、今の神田には必要だった。
風が来るのを待つためではない。
自分から歩き出すために。
「それにするのかい?」
隣でティエドールが穏やかに尋ねた。
神田は返事をしないまま、店主に代金を渡した。
店主が小さく礼を言い、神田の手に風車を渡す。
軽かった。
その軽さが、胸の奥へ沈んだ。
ティエドールは、神田の手元を見て微笑んでいる。
「いい色だね」
「……はい」
神田は短く返し、風車を握り直した。
ティエドールはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ静かに隣を歩き出す。
神田も歩いた。
手の中で、風車が小さく揺れる。
風を受けるたび、紙の羽根が頼りない音を立てた。
その音を聞きながら、神田は教団のことを思った。
かつては、命令がすべてだった。
任務があるなら行く。
呼ばれれば斬る。
必要とされる場所へ向かう。
そうやって生きるしかないと思っていた。
だが、アルマとのことが終わったあと、教団はもう神田の中で絶対ではなくなった。
あの場所を、正しいとは思えない。
命令という言葉も、任務という言葉も、神田を縛る鎖にはなりきれない。
憎しみすらある。
それでも、まだそこにいる。
斬るべきものがあるから、剣を取る。
行くべき場所があるから、歩く。
ただ、それだけだ。
だが、もう、何もかもを教団のために差し出すつもりはなかった。
今なら。
そう、今なら、違うものを一番に選べる。
そう思った瞬間、神田の手の中で風車が回った。
くるくると。
まるで、止まっていた時間がわずかに動き出すように。
任務を終えて教団へ戻った頃、空は薄い灰色に沈みはじめていた。
教団の廊下は冷えている。
高い窓から差し込む光は弱く、床の上に細い影を落としていた。
神田は、風車を手にしたまま歩いていた。
隠す気にはならなかった。
誰に見られようと、どうでもいい。
これは、自分で選んだものだ。
曲がり角に差しかかった時だった。
かすかな鼻歌が聞こえた。
明るくて、少し浮ついたような音。
神田の足が止まる。
聞き覚えがある。
角の向こうから、ミナミが現れた。
手には、小さな風車があった。
淡い青と白。
少し色褪せている。
羽根の端はわずかに傷み、棒の部分にも細かな擦れがある。
あの日、任務帰りの町で買ってやった風車だった。
ミナミは風車しか見ていない。
口元を寄せて、ふ、と息を吹きかける。
紙の羽根が回る。
くるくると。
あの日と同じ、頼りない音を立てて。
ミナミはその回り方を見つめながら、また小さく鼻歌をこぼした。
だから、神田に気づかなかった。
二人の距離が詰まる。
ぶつかりそうになって、ミナミが慌てて顔を上げた。
「あっ」
声が落ちる。
神田も動けなかった。
ほんの一瞬、廊下の音が消えた。
ミナミの視線が、神田の手元へ落ちる。
新しい風車。
神田の視線も、ミナミの手元へ落ちる。
古い風車。
二つの風車が、二人の間にあった。
ミナミは、それをまだ持っていた。
その手で、あの日の風車を捨てずにいた。
時間が隠していたものが、急に目の前へ戻ってくる。
声。
笑い方。
自分を呼ぶ温度。
風車を受け取った日の顔。
滲んでいた輪郭が、風にほどけるように戻っていく。
ミナミの口元が、恥ずかしそうに緩んだ。
鼻歌を聞かれたからか。
風車を息で回していたところを見られたからか。
子どもみたいにはしゃいでいた自分を見られたと思ったのか。
その笑い方を、神田は知っていた。
昔と同じだった。
少し照れて、少し困って、それでも隠しきれずに嬉しさが滲むような笑い方。
神田の口元が、ふっと上がった。
笑うつもりはなかった。
ただ、勝手にそうなった。
風が通る。
高い窓の隙間から入り込んだ風が、廊下を抜けていく。
神田の手の中で、新しい風車が回った。
ミナミの手の中で、古い風車も回った。
二つの風車が、同じ風を受けて回る。
くるくると。
同じ音で。
ミナミが神田を見上げる。
神田も、ミナミを見る。
光の加減で、ミナミの表情はよく見えなかった。
神田の顔も、きっと同じように見えていない。
ただ、口元だけが分かる。
ミナミの口角は、まだ少し上がっていた。
神田の口元も、微かに緩んでいた。
もう、待たない。
ミナミに言わせない。
神田は一歩、前へ出た。
風車の羽根が、手の中でまだ回っている。
ようやく、その名を呼んだ。
「ミナミ……俺は……」
𝐓𝐡𝐞 𝐄𝐍𝐃
2026/07/03
꒦꒷────あとがき────꒷꒦
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「風車」を題材に、神田目線で書いてみました。
このお話では、風車を神田、風をミナミに見立てています。
風が吹かなければ回れない風車。
前にも進まず、後ろにも戻らず、ただ同じ場所で風を待っているだけのもの。
別れたあとも、ミナミの方から戻ってきてくれるのを待っていた神田自身を、その風車に重ねました。
昔の神田は、きっと何よりも任務を優先する人だったと思います。
好きじゃないから手放したのではなく、好きでも、そばにいてほしい時にいてやれない。
その現実を変えられないと思っていたからこそ、別れを選んだのかなと。
でも、アルマとのことを経たあとの神田なら、少し違う選択ができるのではないかと思いました。
教団の命令や任務だけを絶対にせず、自分が本当に手放したくないものへ、自分から手を伸ばす。
その小さな一歩として、神田には新しい風車を買ってもらいました。
ラストの「俺は……」の続きは、あえて書いていません。
好きだと言ったのか。
やり直したいと言ったのか。
そこは読んでくださった方それぞれの中で、神田に言わせてもらえたら嬉しいです。
ミナミが古い風車をまだ持っていたこと。
神田が新しい風車を手にして戻ってきたこと。
二人の風車が同じ風で回ったこと。
それだけで、この二人はまだ完全には終わっていなかったのだと思います。
切ないお話になりましたが、最後に少しでもあたたかい風が吹いていたら嬉しいです。
石畳の道を、神田は無言で歩いていた。
ここは古い町だ。
低い屋根が並び、白い壁には蔦が絡み、軒先には洗濯物が揺れている。昼下がりの光はやわらかく、通りを行き交う人々の声も、どこか遠い。
平和そうな町だ。
そう思ったところで、神田の胸には何の感慨も湧かなかった。
任務で訪れた土地に、いちいち情を置く必要はない。
通り過ぎる。
目的地へ向かう。
敵がいれば斬る。
それだけだ。
隣では、ティエドール元帥がのんびりと歩いている。
「いい町だねぇ」
元帥は、まるで散歩でもしているような声で言った。
神田は答えなかった。
いい町かどうかなど、どうでもいい。
この町が明日も同じ顔をしている保証など、どこにもない。
平和そうに見える場所ほど、壊れる時はあっけない。
神田は視線だけを前へ向ける。
任務はまだ終わっていない。
足を止める理由などなかった。
そのはずだった。
通りの片隅に、小さな店があった。
店というより、屋台に近い。木箱を並べただけの簡素な台の上に、色とりどりの風車が差してある。
赤。青。黄色。白。
薄い紙で作られた羽根が、風を受けてくるくると回っていた。
かすかな音がする。
紙が風を切る、頼りない音。
神田の足が、そこで止まった。
止まるつもりはなかった。
ただ、目に入った。
それだけのはずだった。
なのに、動けなかった。
「おや」
隣でティエドールが足を止める。
「珍しいね。君がこういうものに興味を示すなんて」
神田は返事をしない。
風車を見ていた。
風が吹く。
小さな羽根が回る。
風が弱まる。
回転が遅くなる。
やがて、止まりかける。
また風が吹けば、何事もなかったように回り出す。
くだらねぇ。
胸の内で、神田はそう吐き捨てた。
紙と棒でできた玩具だ。
戦場にも、任務にも、何の役にも立たない。
子どもが手に持って笑うためだけのもの。
だが、視線を外せなかった。
風車を見ると、思い出す。
思い出したくもないものまで、勝手に胸の奥から引きずり出される。
遠い日の夕暮れ。
任務帰りの町。
疲れた身体。
血と埃の匂い。
その中で、ひとりだけ明るい顔をしていた女。
ミナミ。
名前が浮かんだだけで、胸の奥がわずかに軋んだ。
最後にその名を呼んだのは、いつだったか。
神田は覚えているつもりだった。
声も。
笑い方も。
自分を見上げた時の、あのまっすぐな目も。
覚えているはずだった。
だが、時間というものは、思っているより残酷だ。
切り裂くわけでも、奪い去るわけでもない。
ただ静かに、少しずつ、輪郭を薄くしていく。
忘れたくないと思うほど、思い出は遠くなる。
神田は奥歯を噛んだ。
風車が、また回った。
その小さな羽根の向こうに、昔のミナミの笑顔が見えた気がした。
戦場帰りだというのに、くだらない屋台の前で足を止めて、目を細めていたミナミ。
町の空は夕暮れに染まりはじめていた。
低い屋根の上を、茜色の光が滑っていく。石畳には人々の影が長く伸び、露店の灯りがひとつ、またひとつと点りはじめていた。
戦闘は終わった。
アクマは斬った。
報告も済ませた。
あとは教団へ戻るだけだった。
神田はさっさと駅へ向かうつもりでいた。
任務先の町を歩き回る趣味などない。
食い物も、土産も、祭りの飾りも、神田にはどうでもよかった。
だが、隣を歩くミナミは違った。
「神田、見て。あのお店、焼き菓子かな」
「あっち、花がすごいね。任務じゃなかったら少し見たかったな」
「あ、この町って水路があるんだ。綺麗」
ミナミだって疲れているはずだった。
戦闘中、何度もイノセンスを発動していた。
腕にも、頬にも、細かな傷がある。服の裾には土埃が残っていて、髪も少し乱れている。
それでも、ミナミは町を見る目を曇らせなかった。
壊れた壁の横に咲く花。
水路に落ちた夕陽。
小さな子どもが抱えて走る紙袋。
そういうものを見つけては、いちいち嬉しそうにする。
神田には、その感覚がよく分からなかった。
戦場のあとに、よくそんな顔ができる。
そう思うのに。
その横顔を、鬱陶しいとは思わなかった。
「おい。寄り道すんな」
神田が言うと、ミナミは振り返って笑った。
「してないよ。ちゃんと歩いてる」
「目が寄り道してんだよ」
「目くらいいいでしょ」
悪びれもせずに言う。
神田は舌打ちした。
ミナミはそれを聞いて、また少し笑う。
その笑い方が、少しだけ軽かった。
血の匂いも、任務の重さも、少しだけ遠ざけてしまうような笑い方だった。
通りの端に、小さな屋台があった。
木箱に色とりどりの風車が差してある。
赤、青、白、黄色。模様の入ったものもあれば、透けるような薄い紙で作られたものもある。
夕方の風が通りを抜けた。
風車が一斉に回る。
かさかさと、紙の羽根が小さな音を立てた。
ミナミの足が止まった。
「……綺麗」
ぽつりと落ちた声だった。
神田は先へ行きかけて、半歩だけ足を止める。
「ガキか」
「だって、綺麗だよ」
ミナミは屋台の前に立ち、風車を見つめていた。
その顔は、戦場で見せるものとは違っていた。
敵を見据える目でも、仲間を気遣う顔でもない。
ただ、綺麗なものを見つけた時の顔。
神田はその横顔を見た。
風が吹くたび、ミナミの髪が頬の横で揺れる。
その向こうで、風車が回っている。
くだらない玩具だ。
紙と棒でできていて、風がなければ動きもしない。
任務には使えない。
持って帰ったところで邪魔になるだけだ。
そう思った。
「神田?」
ミナミがこちらを見る。
「先に行く?」
そう聞く声に、ほんの少しだけ遠慮が混じっていた。
神田は眉を寄せる。
「……どれだ」
「え?」
「欲しいんだろ。どれだって聞いてんだよ」
ミナミは目を丸くした。
それから、ぱっと顔を明るくする。
「いいの?」
「いらねぇなら行くぞ」
「いる! いるよ」
慌てて言って、ミナミは屋台へ向き直った。
どれにしよう、と小さく呟きながら、真剣に風車を選びはじめる。
神田は腕を組んで待った。
たかが風車ひとつに、ミナミはやけに迷っていた。
赤いものに手を伸ばし、次に青いものを見て、白いものの前でまた悩む。
「早くしろ」
「待って。こういうのは大事なの」
「何がだ」
「神田が買ってくれるんだもん」
その一言に、神田は黙った。
ミナミは気づいていない様子で、最後にひとつの風車を選んだ。
淡い青と白の羽根。
夕暮れの風を受けると、色が混ざって、水面みたいに揺れて見えた。
神田は代金を払い、それを受け取る。
ミナミに差し出すと、ミナミは両手で大事そうに受け取った。
「ありがとう、神田」
「大げさなんだよ」
「大げさじゃないよ。嬉しい」
ミナミは風車を胸の前で持ち、ふっと息を吹きかけた。
羽根が回る。
くるくると、頼りない音を立てて。
それを見て、ミナミは笑った。
まっすぐな笑顔だった。
何も疑っていない。
次の任務も、次に会える日も、二人の間にあるものも。
当たり前みたいに続いていくと信じている顔だった。
神田は、その笑顔から目を逸らした。
「行くぞ」
「うん」
ミナミは風車を持ったまま、神田の隣へ戻ってくる。
歩き出すと、風車がまた小さく回った。
夕暮れの風。
石畳の道。
ミナミの鼻歌にもならない小さな息遣い。
神田は何も言わなかった。
ただ、隣で風車を大事そうに持つミナミの姿だけが、はっきりと記憶に残った。
その時はまだ、知らなかった。
紙の羽根が回るだけの小さな玩具が、いつか自分の胸を抉るものになるなんて。
知るはずもなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
それから、会えない日が増えた。
初めは、数日だった。
次に、一週間になった。
それから、半月。
ひと月。
任務が長引いた。
帰還予定がずれた。
ミナミが戻る頃には神田が別の任務へ出ていて、神田が帰る頃にはミナミがまた遠征へ向かっていた。
同じ教団にいるはずなのに、顔を合わせることさえ難しくなっていく。
それでもミナミは、会えた時には笑った。
「おかえり、神田」
「怪我してない?」
「よかった。ちゃんと帰ってきたんだね」
いつも明るかった。
神田は、その明るさに甘えた。
あいつは大丈夫だ。
笑っている。
自分のことも、任務のことも、分かっている。
そう思っていた。
ミナミがどれだけ待っていたのか。
どれだけ言葉を飲み込んできたのか。
どれだけ寂しさを笑顔の奥へ押し込めていたのか。
神田は見ようとしなかった。
見たところで、何ができる。
任務があれば行く。
命じられれば戦場へ向かう。
自分が必要とされる場所へ、六幻を持って進む。
それがエクソシストだ。
それが神田ユウだった。
久しぶりにミナミと顔を合わせたのは、雨上がりの夕方だった。
教団の中庭には、濡れた石畳が鈍く光っていた。
空気は冷たく、雨の匂いが残っている。
ミナミは、渡り廊下の端に立っていた。
神田を見つけると、いつものように笑った。
「神田」
その声に、神田は足を止める。
「ああ」
短く返す。
ミナミは少しだけ近づいてきた。
以前なら、何も考えずに隣へ来た。
肩が触れる距離まで来て、任務の話をして、どうでもいいことまで話した。
今は、一歩分だけ遠い。
その距離を、ミナミは埋めなかった。
「元気だった?」
「見りゃ分かんだろ」
「うん。……そうだね」
ミナミは笑った。
その笑顔が、前より静かだった。
神田はそれを見て、胸の奥に小さな違和感を覚える。
だが、何も言わなかった。
ミナミも、しばらく黙っていた。
雨上がりの風が通る。
濡れた木々の葉が揺れて、水滴が落ちた。
「ねえ、神田」
ミナミの声が、少しだけ低くなる。
「神田は、私がそばにいてほしい時に、いないよね」
責める声ではなかった。
怒ってもいない。
泣いてもいない。
ただ、静かだった。
神田は、言い返せなかった。
任務だった。
戦争だった。
仕方がなかった。
言おうと思えば、いくらでも言える。
だが、その言葉を口にしたところで何になる。
これから先も、同じだ。
呼ばれれば行く。
命じられれば斬る。
ミナミが待っていても、寂しがっていても、泣いていても、自分はそこにいてやれない日がある。
今も。
この先も。
その時の神田には、そうとしか思えなかった。
ミナミのことがどうでもよくなったわけじゃない。
好きじゃなくなったわけでもない。
それでも、神田の中で一番先にあるものは任務だった。
教団だった。
戦場だった。
ミナミは、それを知っている顔で笑った。
「私、神田のこと好きだよ」
神田は黙っていた。
「でもね」
ミナミの手が、胸元で小さく握られる。
「好きだけじゃ、待てなくなっちゃった」
神田の喉が、かすかに詰まる。
嫌だ、と言えばよかったのかもしれない。
待っていろ、と言えばよかったのかもしれない。
自分のそばにいろ、と。
まだ好きだと。
離れるなと。
ミナミは、きっとそれを待っていた。
神田にも分かった。
分かった上で、言わなかった。
言えば、また待たせる。
言えば、また同じことを繰り返す。
自分はきっと、次に呼ばれた時も任務へ行く。
ミナミがそばにいてほしい時に、またそこにいない。
その未来が見えていた。
だから神田は、低く言った。
「……じゃあ、別れるか」
ミナミの目が揺れた。
ほんの一瞬だった。
すぐに、ミナミは笑った。
泣く代わりみたいな笑い方だった。
「……うん」
その声は、思っていたよりも小さかった。
「別れよう」
神田は何も言わなかった。
ミナミも、それ以上は何も言わなかった。
雨上がりの風だけが、二人の間を通り抜けた。
その日から、ミナミは恋人ではなくなった。
それでも、会わなくなったわけではない。
同じ教団にいる。
同じ戦場へ出る。
同じ廊下を歩く。
別れたあとも、二人は何度か顔を合わせた。
食堂の入り口。
医務室の前。
報告書を抱えた廊下。
任務帰りの昇降口。
ミナミは普通だった。
「神田、元気だった?」
昔と同じ声で聞いてくる。
神田は「ああ」とだけ返す。
ミナミは安心したように笑う。
「そっか。よかった」
それだけだった。
昔なら、そのあと隣に並んだ。
任務の話をした。
くだらない話もした。
ミナミが笑って、神田が面倒そうな顔をして、それでも最後まで聞いていた。
今は、ミナミは軽く手を振り、別の廊下へ行く。
神田は追わない。
追えない。
ミナミがあまりにも普通だから、神田は思ってしまう。
あいつはもう平気なのか。
もう、自分のいない場所で歩けているのか。
自分だけが、あの日から動けていないのか。
本当は、ミナミも無理をしていた。
笑っていなければ、崩れそうだった。
普通でいなければ、神田の前に立てなかった。
そんなことを、神田は知らなかった。
気づかなかった。
気づきかけても、気のせいだと切り捨てた。
また、ミナミの明るさに甘えた。
別れてからも、神田はどこかで待っていた。
ミナミの方から戻ってくることを。
「もう一度」と言ってくれることを。
自分からではなく、ミナミが先に手を伸ばしてくれることを。
ミナミが望むなら、受け止めればいい。
ミナミがまだ自分を選ぶなら、その時に応えればいい。
そう思っていた。
それが優しさだと、どこかで言い訳していた。
違う。
拒まれるのが怖かっただけだ。
もう戻れないと言われるのが怖かった。
今さら何を言っているのだと笑われるのが怖かった。
ミナミが本当に、自分のいない場所で平気になっているのを知るのが怖かった。
だから神田は、待った。
風が吹くのを待つ風車みたいに。
そこで、記憶が途切れた。
目の前では、店先の風車が回っていた。
色とりどりの紙の羽根が、風を受けてくるくると回る。
風が弱まれば、回転は遅くなる。
やがて、止まりかける。
また風が吹けば、何事もなかったように動き出す。
昔、ミナミに買ってやった風車も、そうだった。
淡い青と白の羽根。
ミナミはそれを胸の前で持ち、息を吹きかけて回していた。
くるくると、頼りない音を立てて。
風が無ければただ、同じ場所に立っているだけ。
その風が戻ってくるのを待っているだけの……俺みてぇだな。
そう思った瞬間、胸の奥に苛立ちが走った。
(俺が…風車に似てるだと?)
待っているつもりなどなかった。
立ち止まったつもりもなかった。
任務に出ていた。
戦っていた。
斬っていた。
毎日は嫌になるほど動いていた。
それなのに、ミナミのことだけは、あの日から一歩も動けていなかった。
ミナミの方から風が吹いてくるのを待っていた。
ミナミが戻ってくるのを。
ミナミが言ってくれるのを。
ミナミが、自分をまた回してくれるのを。
自分からは、何もしていない。
神田は奥歯を噛んだ。
恋人だった頃も、ミナミの笑顔に甘えた。
別れてからも、ミナミの普通に甘えた。
その上まだ、ミナミの方から戻ってくるのを待っている。
吐き気がするほど情けなかった。
「……ふざけんな。俺はこんなんじゃねえ」
低く漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
たぶん、自分に向けたものだった。
店先の風車が、また回る。
その小さな動きに引きずられるように、神田の中で過ぎた時間が蘇っていく。
任務は続いた。
傷の治りは遅くなった。
帰還と出発を繰り返した。
せわしない日々は、余計なことを考えさせない。
そのはずだった。
それでもミナミは、ふとした瞬間に記憶の中に戻ってくる。
冷たい風の中に。
廊下を曲がる足音の中に。
誰かの笑い声の端に。
夕暮れの町で見かけた、小さな風車の中に。
思い出すたび、神田は確認する。
まだ覚えている。
ミナミの声。
笑い方。
自分を呼ぶ時の温度。
風車を持って笑った日の顔。
覚えている。
そう思っていた。
しかし、いつからか、分からなくなった。
ミナミは笑う時、先に目元を緩めたのか。
それとも、口元が先だったのか。
「神田」と呼ぶ声は、もう少し高かったか。
それとも、もっと柔らかかったか。
風車を受け取った時、どんな顔で笑っていたか。
思い出せるはずのものが、少しずつ滲んでいく。
時間が、ミナミを隠していく。
連れ去るように。
どこか遠くへ。
二度と届かない場所へ。
二度と会えないかもしれない。
そう思うのも怖かった。
だが、それ以上に怖いものがあった。
忘れていくことだ。
ミナミの顔を。
声を。
指先の温度を。
自分に向けられた明るさを。
そして何より。
ミナミを好きだった自分まで、いつか薄れてしまうことが怖かった。
任務に飲まれ、日々に削られ、何もなかったような顔で生きていけてしまうことが怖かった。
忘れたくない。
あいつがいたことを。
あいつを好きだったことを。
あいつを失ってからも、同じ場所で待っていた自分を。
時間なんかに奪わせたくなかった。
神田は、目の前の風車を見つめる。
紙の羽根は、風を受けて回っている。
ただ、そこに立っている。
風がなければ動けないまま。
神田は目を伏せた。
このままでは、いつか本当に忘れる。
ミナミのことも。
ミナミを好きだったことも。
自分が何を待っていたのかさえも。
その事実だけが、胸の奥で鈍く回り続けていた。
神田は、目を上げた。
店先の風車は、まだ回っている。
風が吹けば動く。
風が止めば止まる。
それを見ているだけなら、今までと何も変わらない。
神田は一歩、屋台へ近づいた。
並んだ風車の中に、淡い青と白の羽根をしたものがあった。
あの日、ミナミに買ってやったものに似ている。
同じものではない。
時間は戻らない。
失った言葉も、別れた日の沈黙も、なかったことにはならない。
それでも、神田はそれを手に取った。
紙と竹の棒でできた、頼りない玩具。
戦場では何の役にも立たない。
アクマを斬ることもできない。
誰かを守る武器にもならない。
だが、今の神田には必要だった。
風が来るのを待つためではない。
自分から歩き出すために。
「それにするのかい?」
隣でティエドールが穏やかに尋ねた。
神田は返事をしないまま、店主に代金を渡した。
店主が小さく礼を言い、神田の手に風車を渡す。
軽かった。
その軽さが、胸の奥へ沈んだ。
ティエドールは、神田の手元を見て微笑んでいる。
「いい色だね」
「……はい」
神田は短く返し、風車を握り直した。
ティエドールはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ静かに隣を歩き出す。
神田も歩いた。
手の中で、風車が小さく揺れる。
風を受けるたび、紙の羽根が頼りない音を立てた。
その音を聞きながら、神田は教団のことを思った。
かつては、命令がすべてだった。
任務があるなら行く。
呼ばれれば斬る。
必要とされる場所へ向かう。
そうやって生きるしかないと思っていた。
だが、アルマとのことが終わったあと、教団はもう神田の中で絶対ではなくなった。
あの場所を、正しいとは思えない。
命令という言葉も、任務という言葉も、神田を縛る鎖にはなりきれない。
憎しみすらある。
それでも、まだそこにいる。
斬るべきものがあるから、剣を取る。
行くべき場所があるから、歩く。
ただ、それだけだ。
だが、もう、何もかもを教団のために差し出すつもりはなかった。
今なら。
そう、今なら、違うものを一番に選べる。
そう思った瞬間、神田の手の中で風車が回った。
くるくると。
まるで、止まっていた時間がわずかに動き出すように。
任務を終えて教団へ戻った頃、空は薄い灰色に沈みはじめていた。
教団の廊下は冷えている。
高い窓から差し込む光は弱く、床の上に細い影を落としていた。
神田は、風車を手にしたまま歩いていた。
隠す気にはならなかった。
誰に見られようと、どうでもいい。
これは、自分で選んだものだ。
曲がり角に差しかかった時だった。
かすかな鼻歌が聞こえた。
明るくて、少し浮ついたような音。
神田の足が止まる。
聞き覚えがある。
角の向こうから、ミナミが現れた。
手には、小さな風車があった。
淡い青と白。
少し色褪せている。
羽根の端はわずかに傷み、棒の部分にも細かな擦れがある。
あの日、任務帰りの町で買ってやった風車だった。
ミナミは風車しか見ていない。
口元を寄せて、ふ、と息を吹きかける。
紙の羽根が回る。
くるくると。
あの日と同じ、頼りない音を立てて。
ミナミはその回り方を見つめながら、また小さく鼻歌をこぼした。
だから、神田に気づかなかった。
二人の距離が詰まる。
ぶつかりそうになって、ミナミが慌てて顔を上げた。
「あっ」
声が落ちる。
神田も動けなかった。
ほんの一瞬、廊下の音が消えた。
ミナミの視線が、神田の手元へ落ちる。
新しい風車。
神田の視線も、ミナミの手元へ落ちる。
古い風車。
二つの風車が、二人の間にあった。
ミナミは、それをまだ持っていた。
その手で、あの日の風車を捨てずにいた。
時間が隠していたものが、急に目の前へ戻ってくる。
声。
笑い方。
自分を呼ぶ温度。
風車を受け取った日の顔。
滲んでいた輪郭が、風にほどけるように戻っていく。
ミナミの口元が、恥ずかしそうに緩んだ。
鼻歌を聞かれたからか。
風車を息で回していたところを見られたからか。
子どもみたいにはしゃいでいた自分を見られたと思ったのか。
その笑い方を、神田は知っていた。
昔と同じだった。
少し照れて、少し困って、それでも隠しきれずに嬉しさが滲むような笑い方。
神田の口元が、ふっと上がった。
笑うつもりはなかった。
ただ、勝手にそうなった。
風が通る。
高い窓の隙間から入り込んだ風が、廊下を抜けていく。
神田の手の中で、新しい風車が回った。
ミナミの手の中で、古い風車も回った。
二つの風車が、同じ風を受けて回る。
くるくると。
同じ音で。
ミナミが神田を見上げる。
神田も、ミナミを見る。
光の加減で、ミナミの表情はよく見えなかった。
神田の顔も、きっと同じように見えていない。
ただ、口元だけが分かる。
ミナミの口角は、まだ少し上がっていた。
神田の口元も、微かに緩んでいた。
もう、待たない。
ミナミに言わせない。
神田は一歩、前へ出た。
風車の羽根が、手の中でまだ回っている。
ようやく、その名を呼んだ。
「ミナミ……俺は……」
𝐓𝐡𝐞 𝐄𝐍𝐃
2026/07/03
꒦꒷────あとがき────꒷꒦
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「風車」を題材に、神田目線で書いてみました。
このお話では、風車を神田、風をミナミに見立てています。
風が吹かなければ回れない風車。
前にも進まず、後ろにも戻らず、ただ同じ場所で風を待っているだけのもの。
別れたあとも、ミナミの方から戻ってきてくれるのを待っていた神田自身を、その風車に重ねました。
昔の神田は、きっと何よりも任務を優先する人だったと思います。
好きじゃないから手放したのではなく、好きでも、そばにいてほしい時にいてやれない。
その現実を変えられないと思っていたからこそ、別れを選んだのかなと。
でも、アルマとのことを経たあとの神田なら、少し違う選択ができるのではないかと思いました。
教団の命令や任務だけを絶対にせず、自分が本当に手放したくないものへ、自分から手を伸ばす。
その小さな一歩として、神田には新しい風車を買ってもらいました。
ラストの「俺は……」の続きは、あえて書いていません。
好きだと言ったのか。
やり直したいと言ったのか。
そこは読んでくださった方それぞれの中で、神田に言わせてもらえたら嬉しいです。
ミナミが古い風車をまだ持っていたこと。
神田が新しい風車を手にして戻ってきたこと。
二人の風車が同じ風で回ったこと。
それだけで、この二人はまだ完全には終わっていなかったのだと思います。
切ないお話になりましたが、最後に少しでもあたたかい風が吹いていたら嬉しいです。