愛しき憎しみを飼い慣らす
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◆愛しき憎しみを飼い慣らす◆
黒の教団本部に、完全な静寂などない。
廊下の向こうでは科学班が走る足音が響き、通信室からは途切れ途切れの電信音が漏れている。
その日は誰もが眠れる夜ではなかった。
教団の室長であるコムイ・リーの机の上には、一枚の戦況報告書が置かれている。
そこに記された文字は、必要最低限であるがゆえに、かえって残酷だった。
先発部隊、壊滅の危機。
生存者数、不明。
通信、断続的に途絶。
敵反応、想定を大幅に超過。
即時救援、要。
コムイはその報告書を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
白衣の袖口から覗く指が、紙の端を押さえている。
力が入りすぎて、紙が小さく歪んでいた。
室長としてなら、判断はもう済んでいる。
救援部隊を編成し、即時出撃。
今動ける者の中で、最も現地対応力が高く、判断が早く、生存者の救出と戦線離脱を同時に担えるエクソシストを主軸に置く。
当然の判断だ。
それはあまりにも正しい。
だからこそ、コムイはその正しさを憎んでいた。
応援部隊の主軸のその欄に記された名前は"ミナミ"。
その文字が、今夜だけは命令書ではなく、処刑の札のように見えた。
「……最悪だ」
ぽつりと落ちた声は、冗談にもならなかった。
ミナミは、たった今別任務から帰還したと聞いた。
報告では、負傷軽微で戦闘継続可能。
帰還直後ではあるが、出撃に支障なし。
その報告を聞いたさっき、コムイは初めて、自分が積み上げてきた合理性というものを心底疎ましく思った。
動ける。
強い。
経験がある。
だから送り出す。
それが、教団における正解だった。
そしてその正解は、恋人である自分にとっては、どうしようもなく間違っていた。
――コン、コン。
扉が叩かれた。
短く、控えめな音。
聞き慣れたノックだった。
忙しい時でも、疲れている時でも、ミナミのノックは少しだけ遠慮がちだ。
「……入って」
扉が開いた。
冷えた空気と一緒に、血と土と火薬の匂いが微かに流れ込む。
そこに立っていたのは、汚れた団服姿のミナミだった。
団服の裾には泥が跳ねている。
袖口には乾いた血。
肩には裂け目があり、頬には浅い擦り傷が一本残っていた。
任務から帰ったばかりだと、ひと目で分かる姿だった。
それでも彼女は、背筋を伸ばして立っていた。
コムイより一つ下の彼女。
もう、誰かの庇護の中で震えている少女ではない。
黒の教団という地獄で、仲間の死を見て、理不尽を呑み込み、それでも武器を手放さずに生き残ってきた女だった。
弱いところも。
強がる癖も。
傷ついている時ほど静かに笑うところも。
コムイは何もかも知っている。
知っているから、愛した。
知っているから、今夜は行かせたくなかった。
「戻ったよ、ただいま」
ミナミが言った。
疲れを隠した、大人の女の声だった。
「……おかえり」
コムイはそう返した。
ミナミはほんの少しだけ目を細めた。
「戦報、来てるんでしょう」
「早いね」
「通信室が騒がしかったから」
「君はまず医務室に行くべきだ」
「こんなの大丈夫」
「君たちエクソシストの大丈夫は、信用できない」
「骨は折れてない」
「それを大丈夫の基準にしないでほしいな」
ミナミは少しだけ笑った。
その笑みを見て、コムイの胸が鈍く痛んだ。
昔からそうだ。
彼女はひどい任務のあとほど、平気な顔をする。
自分が崩れれば、周囲が不安になると知っているから。
誰かに心配されるより先に、自分で立ってしまう。
その強さが、誇らしくて。
その強さが、憎らしかった。
「私が行くんだね」
ミナミが言った。
問いではなかった。
もう分かっている声だった。
コムイは報告書から目を離せなかった。
「……まだ正式には命じてない」
「でも、決めたんでしょう」
「決めたというより、そうせざるを得ない」
「同じことだよ」
ミナミは静かに机へ近づき、報告書に視線を落とした。
その横顔には、迷いがなかった。
戦場へ向かう者の顔。
死ぬ覚悟ではなく、生き残るために状況を見る者の顔。
だからこそ、コムイは何も言えなくなる。
彼女は感情だけで動く人間ではない。
状況を読める。
命の優先順位を分かっている。
自分が行けば救える可能性があると知っている。
そして、自分が行かなければ誰かが死ぬかもしれないと知っている。
「ミナミ」
コムイが呼んだ。
共に地獄を噛み砕いてきた相手へ向ける、低く深い声だった。
ミナミは顔を上げた。
「何?急いでるんだけど」
「行くなって言ったら?」
室長室の空気が、わずかに変わった。
ミナミはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、コムイには十分だった。
「困る?」
「……困る」
「だろうね」
コムイは薄く笑った。
痛みを押し殺した笑みだった。
「君は困って、それでも行く」
「うん」
「僕が引き止めても?」
「行く」
「泣いても?」
「行く」
「怒っても?」
「行く」
「命令しても?」
そこで、ミナミは黙った。
その沈黙は、あまりにも正直だった。
コムイが室長として命じれば、彼女は従わざるを得ない。
負傷による待機命令。
帰還直後の再出撃不可。
理由はいくらでも作れる。
半分嘘だけど完全な嘘ではない。
だが、それは最善ではない。
その数分、その一人の不足で、向こうの誰かが死ぬかもしれない。
二人とも、それを分かっていた。
だからミナミは黙り、コムイもその沈黙を責められなかった。
「……なに?私を咎落ちにさせたいの?」
ミナミが静かに言った。
「まさか」
「あなたが命令したら、私は逆らえない」
「わかってるよ」
「わかってて言うの?」
「今、言いたくてたまらない」
コムイは椅子から立ち上がった。
机を回り込み、ミナミの前に立つ。
白衣の裾が揺れる。
近すぎる距離。
二人はもう、その近さに怯える年齢ではない。
何度も傷つき、何度も失い、何度もそれでも隣に戻ってきた。
甘いだけの恋なら、とっくに壊れている。
職務の重さも、命の軽さも、互いの醜さも知った上で続いている関係だった。
だからこそ、綺麗事では済まない。
コムイは手を伸ばし、ミナミの頬に触れた。
外気と戦場の冷たさを残した肌。
その下に、確かに体温がある。
今はまだ、ここにいる。
それがたまらなく残酷だった。
「君をこの部屋に閉じ込めたい」
コムイが低く言った。
ミナミの睫毛が揺れる。
「鍵をかけて、出撃命令を破棄して、誰にも会わせず、君が眠るまでここにいさせたい」
「……うん」
「君が怒っても」
「うん」
「僕を恨んでもいい」
「それは駄目」
即座に返ってきた声は、静かなのに強かった。
コムイは彼女を見る。
「どうして」
「私に恨まれる前に、あなたがあなたを許せなくなるから」
言葉が、深く刺さった。
ミナミはコムイを知っている。
優しいところも、壊れそうなほど責任を背負うところも。
合理的な判断をしながら、その判断で失われた命を一つずつ覚えてしまうところも。
そして、愛するものに関してだけ、ひどく傲慢になるところも。
「……本当に、君は嫌なところを見るのが上手い」
「ふふ、長い付き合いだから」
ミナミは微かに笑った。
苦味を知った女の笑みだった。
コムイはその笑みが好きだった。
そして同時に、嫌いだった。
この笑みを見るたび、彼女がどれだけのものを見てきたのか思い知らされるから。
「コムイ」
「何」
「最後の挨拶に来たの」
その言葉に、コムイの表情が消えた。
『最後』。
それは戦場へ行く前の決まり文句に過ぎないのかもしれない。
しかし、今夜、その言葉は不吉すぎた。
「やめてくれないかな、その言い方」
「ごめん」
「謝らないで。余計に腹が立つよ」
ミナミは口を閉じた。
そして、少しだけ俯く。
「でも、言わないで行きたくないなって」
コムイは返せなかった。
ミナミも、この任務が危険だと分かっている。
生きて帰るつもりでいても、帰れない可能性があることを理解している。
だからここへ来た。
恋人の元へ、最後の挨拶に。
それが嬉しいと思ってしまう自分が、たまらなく嫌だった。
「……ミナミ」
コムイは彼女を抱き寄せた。
白衣が、汚れた団服を包む。
ミナミの身体は硬かった。
戦場帰りの緊張が抜けていない。
疲労もある。
それでも彼女は、すぐにコムイの背へ腕を回した。
互いの体温が重なる。
抱擁は甘くなかった。
慰めでもなかった。
奪われる前に刻みつけるような、執着に近い抱擁だった。
「痛いかな?」
コムイが問う。
「少し」
「ごめん」
「でも、離さないで」
その言葉で、コムイの腕にさらに力がこもった。
「そんなことを言うと、本当に離せなくなるよ」
「そういうつもりで言った」
コムイは小さく息を呑んだ。
ミナミは、時々こういう女になる。
優しいふりをして、こちらの理性を削ってくる。
離さなければならないのに、離したくなくなる理由を置いていく。
「君は残酷だな」
「お互い様よ?」
「僕も?」
「ええ。でも私の方が今回は酷いかな」
「自覚があるのは厄介だね」
「あなたに帰って来て欲しいと思ってほしいから」
その言葉は、あまりにも静かだった。
死線を知っている女が、それでも帰る場所を選んでいる声だった。
コムイは目を閉じた。
胸の奥が焼けるように痛い。
この人を行かせる。
自分の手で。
自分の命令で。
彼女は、帰るために行くと言っている。
その言葉を信じるしかない。
信じることが、今の自分にできる最大の理性だった。
廊下の向こうで、ベルが鳴った。
出撃準備完了を告げる音。
現実が、容赦なく二人の間へ戻ってくる。
ミナミの肩がわずかに動いた。
コムイはすぐには離さなかった。
離したくなかった。
でも、最後には腕を緩めた。
ミナミが一歩下がる。
彼女の顔は、もう恋人ではなくエクソシストのものになっていた。
その切り替わりの早さが、彼女を縛れない現実を突きつけてくる。
コムイは静かに息を吐いた。
「命令を出すよ」
「はい」
ミナミの背筋が伸びる。
コムイの声は、室長のものだった。
「先発部隊の救出を最優先。イノセンス回収は二の次。現地での殲滅戦は避けること。生存者を確認次第、即時撤退」
「了解」
「無茶な追撃は禁止」
「了解」
「通信が途絶した場合は、自己判断で撤退」
「了解」
コムイはそこで言葉を切った。
ここから先は、本来なら命令ではない。
室長としては不純で、恋人としては傲慢で、男としてはあまりにも切実だった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「それから」
ミナミが彼を見る。
「必ず、生きて帰ってくること」
命令の形をした願い。
願いの形をした執着。
ミナミはその重さを、軽く受け流さなかった。
ただ、真っ直ぐにコムイを見つめた。
「了解しました、室長」
正しい返答だった。
次の瞬間、ミナミは一歩近づき、彼の胸元に額を寄せた。
コムイの呼吸が止まる。
「あなたのところに帰りたいから、帰ってくる」
コムイは目を閉じ、彼女の頬を両手で包んだ。
そして額に、短く口づけた。
祈りのような口づけだった。
欲を滲ませるには時間が足りず、別れの印にするには感情が重すぎる。
ただ、失いたくないという願いだけがそこにあった。
「……待ってる」
かすれた声で、コムイは言った。
ミナミは小さく笑う。
「うん」
「嫌になるくらい、待ってる」
「うん」
「だから、帰っておいで。ミナミ」
その声に、ミナミの瞳が少しだけ揺れた。
守られる子供ではなく、対等な女として呼ぶ声。
恋人として。
戦友として。
これまでの地獄を一緒に生き抜いてきた相手として。
ミナミは深く頷いた。
「行ってきます」
コムイは微笑んだ。
ひどく静かで、ひどく壊れそうな笑みだった。
「行ってらっしゃい、ミナミ」
扉が開く。
廊下の白い光が差し込む。
ミナミは振り返らなかった。
振り返れば、コムイも自分も、もう一度迷ってしまうと分かっていたから。
汚れた団服の背中が、灯りの中から消えていく。
扉が閉まる。
かちり、と小さな音がした。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなってから、コムイは机に手をついた。
報告書の上に落ちた影が、わずかに震えている。
この夜、コムイの中で何かが静かに形を変えた。
愛しているから送り出す。
愛しているから待つ。
愛しているから信じる。
そして、もし奪われたなら、この愛はきっと、世界を憎む理由になる。
その一歩手前で、コムイ・リーは閉じた扉を見つめ続けていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
数時間後。
ミナミは、帰ってきた。
しかしそれは、コムイが願っていた帰還ではなかった。
深夜の黒の教団本部に、帰還を告げるブザーが鳴り響いた。
廊下を走る足音。
医療班を呼ぶ怒号。
担架の車輪が床を削るような音。
そのすべてが、帰還の喜びではなく、惨事の続きを告げていた。
「救援部隊、帰還しました!」
通信班の声が室長室へ飛び込んできた時、コムイは椅子から立ち上がっていた。
「死傷者は」
「確認中です!」
「ミナミは」
その名を出した瞬間、通信班の男が言葉に詰まった。
コムイは走り出した。
白衣の裾が翻る。
医務室の前は混乱していた。
担架が次々と運び込まれ、医療班が叫び、科学班が器具を抱えて走っている。
誰かが泣いていた。
誰かが名前を呼んでいた。
誰かが、もう返事をしなかった。
その混乱の中で、コムイは一つの担架を見つけた。
血に濡れた団服。
泥と煤に汚れた髪。
青白く冷えた頬。
閉じたままの瞼。
ミナミだった。
「…状況は」
声は出た。
自分でも驚くほど冷静だった。
医療班の一人が顔を上げる。
「意識なし! 出血量が多すぎます! 呼吸微弱、脈も落ちています!」
「輸血を。足りないなら僕のを使えばいい。彼女は僕と同じ血液型だ。」
コムイは指示を出した。
いつもの室長として。
「イノセンスとの接続反応は」
「不安定です!」
「記録を続けて。闘えるもの達から優先に治療を」
周囲の者たちは、彼の冷静さに息を呑んだ。
誰もが思った。
やはり室長だ、と。
こんな時でも、正しく判断できる人なのだと。
しかし、誰も気づいていなかった。
コムイが、ミナミの左腕を一度も見ようとしていないことに。
医療班が必死に押さえる、赤く染まった布。
肘から先を覆う、不自然なほど厚い包帯。
そこにあるはずの形が、もうないことに。
コムイは気づいていた。
気づいていながら、見なかった。
今それを見れば、自分が壊れると分かっていたから。
「室長、こっちに来てください!」
遠くから誰かが呼ぶ。
「わかった!今行く!」
ミナミを乗せた担架が動く。
その時、ミナミの右手が力なく担架の端から落ちた。
血の気を失った指先が、死人のように白かった。
その瞬間、コムイの声が止まった。
ほんの一秒にも満たない沈黙。
その一秒で、彼は理解した。
ミナミは帰ってきた。
彼女は今、生と死の境目にいる。
自分の声が届くかどうかも分からない場所へ、半分足を踏み入れている。
「室長!」
誰かが呼ぶ。
コムイは瞬きをした。
そして、すぐに顔を上げた。
「すぐ行く!処置を続けて」
声は静かだった。
静かすぎた。
「絶対に、死なせないで」
それは室長としての指示のはずだった。
だが、その奥には命令よりも重いものがあった。
祈り。
執着。
そして、憎しみになりかけた愛。
処置室の扉が閉まる直前、コムイはミナミの顔を見た。
いつもなら、疲れた顔で笑って。
「ただいま」
そう言うはずだった。
だが今のミナミは何も言わない。
ただ浅く、壊れそうな呼吸を繰り返していた。
その細い呼吸だけが、彼女がまだこちら側にいる証だった。
扉が閉まる。
赤いランプが灯る。
コムイはその場に立ち尽くした。
廊下の音が遠い。
誰かが何かを報告している。
誰かが指示を待っている。
だがそれらは、コムイの耳には入らなかった。
生きて帰ってくること。
そう命じた。
帰ってくるために行く。
そう言って、ミナミは出て行った。
そして約束通り帰ってきた。
でも、
血まみれで。
意識もなく。
左腕の肘から先を失って。
それでも、まだ教団はきっと彼女をエクソシストとして見るのだろう。
生きているなら。
イノセンスが応えるなら。
戦える可能性があるなら。
この世界は、彼女をまだ手放さない。
コムイはゆっくりと眼鏡を外した。
白衣の袖で、レンズを拭く。
「……本当に」
低い声が、廊下に落ちる。
「嫌になるね」
それは誰に向けた言葉だったのか。
教団か。
戦争か。
神か。
この世界そのものか。
それとも、彼女を送り出した自分自身か。
コムイにも分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
もしミナミがこのまま戻らなければ。
自分はきっと、何かを決定的に憎む。
その対象が何であれ。
その憎しみは、自分の中で正当なものとして育ってしまう。
愛しているから送り出した。
愛しているから待った。
愛しているから信じた。
そしてその愛が、今にも別のものへ変わろうとしている。
黒く、冷たく、傲慢なものへ。
処置室の中で、誰かが叫んだ。
「心拍停止!」
「心臓マッサージ!」
コムイは顔を上げた。
足が勝手に動く。
扉を開けようとした彼を、リーバーが背後から掴んだ。
「室長!」
「離してくれ」
「今、中に入っても邪魔になるだけです!」
「離してくれ、リーバーくん」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、リーバーの顔色が変わった。
「僕は、まだ命令を取り消していない」
「室長……」
「生きて帰ってくること。僕はそう命じた」
コムイは閉ざされた扉を見つめた。
その瞳は、いつもの穏やかな室長のものではなかった。
「だから離してくれないか」
処置室の中で、慌ただしい足音が響く。
医療器具の音。
叫び声。
心拍停止を示す機械音が鳴り響く。
コムイは扉の前に立ち尽くしていた。
何もできない。
室長なのに。
科学者なのに。
恋人なのに。
彼女を戦場へ送り出す権限はあった。
しかし、死の淵から引き戻す手は持っていない。
それが、たまらなく憎かった。
教団が憎い。
アクマが憎い。
戦争が憎い。
イノセンスが憎い。
彼女を必要とし続ける世界が憎い。
そして何より。
彼女を守りきれなかった自分が憎かった。
どれほど時間が経ったのか、分からない。
夜は深く、廊下の灯りは白く、冷たかった。
やがて、処置室の中の音が少しずつ落ち着いていく。
赤いランプが消えた。
扉が開く。
医療班の一人が、疲れきった顔で出てきた。
「室長」
コムイは顔を上げる。
「ミナミは?」
医療班は、一度だけ息を吸った。
「……繋ぎ止めました」
その瞬間。
コムイの中で、張り詰めていた何かが音もなく崩れた。
涙は出なかった。
喜びも、すぐには来なかった。
ただ、膝から力が抜けそうになるのを、どうにか堪えた。
「意識は」
「まだ戻っていません。予断は許しません」
「左腕は」
医療班は唇を噛んだ。
コムイは黙った。
長い沈黙だった。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
それだけだった。
誰もが、彼が冷静に受け止めたと思った。
しかしそれは違った。
コムイはただ、後回しにしただけだった。
腕を失ったことを悲しむのは、ミナミが目を覚ましてからでいい。
今は、命が残った。
それだけで、十分でなければならない。
そう自分に言い聞かせなければ、その場に立っていられなかった。
ミナミが意識を取り戻したのは、翌日の夜明け前だった。
白い寝台の上で、彼女はゆっくりと瞼を震わせた。
呼吸はまだ浅く、顔色は悪い。
唇には血の気がない。
それでも、彼女は目を開けた。
ぼやけた視界の中で、最初にコムイを見つけた。
彼は寝台のそばに座っていた。
まるで一度もそこを離れなかったかのように疲れた顔をしていた。
「……コムイ」
それはかすれた声だった。
コムイの指がぴくりと動く。
「ミナミ」
彼は名前を呼んだ。
その声は、ひどく静かだった。
ミナミは小さく息を吸う。
「ただいま」
その一言で、ようやくコムイの表情が崩れた。
泣きそうになったわけではない。
笑ったのだ。
優しく。
いつものように。
だが、その笑顔の奥には、深い闇がまだ残っていた。
「おかえり」
コムイはミナミの右手を取った。
冷たい手だった。
彼はそれを両手で包む。
強く。
逃がさないように。
繋ぎ止めるように。
「命令、守ったよ」
ミナミが囁く。
「うん」
「帰ってきた」
「うん」
「……左、腕」
そこで彼女は、ようやく自分の身体の異変へ目を向けようとした。
コムイは、その視線を遮るように、彼女の右手を握り直した。
「今は見なくていい」
「でも」
「今は、生きていることだけでいい」
その声は優しかったが、そこには、痛みがあった。
怒りがあった。
憎しみの残り香があった。
ミナミは黙ってコムイを見た。
「……コムイ」
「何?」
「怖い顔してる」
コムイは少しだけ笑った。
「そうかな」
「うん」
「じゃあ、見ないで」
「見るよ」
その返事に、コムイは息を詰めた。
ミナミは弱々しく、それでも確かに彼を見つめていた。
「私、帰ってきたよ」
「うん」
「あなたのところに」
コムイは目を伏せた。
その言葉は、暗く固まりかけていた彼の心に、細い針のように刺さった。
その針は痛かった。
憎しみに沈みきるには、彼女の声はあまりにも近かった。
「……そうだね」
コムイは、ミナミの手に額を寄せた。
「君は帰ってきた」
「うん」
「僕のところに」
「うん」
長い沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、コムイは少しずつ理解した。
世界を憎んでも、彼女の腕は戻らない。
教団を憎んでも、傷は消えない。
戦争を憎んでも、彼女が楽になるわけではない。
憎しみは、彼女をこちら側へ引き戻す手にはならない。
それはただ、自分の心を黒く沈めるだけだ。
それでも、すぐに許せるわけではなかった。
世界を。
教団を。
自分を。
何もかもを。
だからコムイは、その日から少しずつ、憎しみを抱えたまま生きることを覚えた。
見ないふりではなく。
飲み込むのでもなく。
ミナミが生きている現実の隣に、それを置いておくことを覚えた。
ミナミは目を覚ました。
息をしている。
笑って見せる。
痛みに顔を歪めることもある。
失った腕を見つめて、長く黙る日もある。
そのすべてが、コムイにとっては救いであり、罰だった。
彼女が生きている。
それだけでいいはずだった。
でも、それだけでは済まない日々が始まった。
包帯を替えるたび、彼は失われたものを思い知った。
ミナミが物を取ろうとして、左側の空を見つめて止まるたび、胸を抉られた。
それでも彼女は言った。
「もちろん、まだ戦えるよ。上の人にいつまで休ませるつもりだ、なんて言われてない?」
最初にその言葉を聞いた時、コムイは笑った。
「大丈夫だよ」
優しい笑みだった。
だが、ミナミはその奥に沈むものを見逃さなかった。
「怒ってる?」
「怒ってるよ」
「私に?」
「違う」
「教団に?」
「少し」
「世界に?」
「かなり」
「自分に?」
コムイは答えなかった。
ミナミは小さく笑った。
「じゃあ、全部だね」
「……君は本当に、嫌なところを見るのが上手い」
「長い付き合いだから」
その言葉に、コムイは苦笑した。
以前なら、その苦笑の奥に隠したものを自分でも見ないふりができたが、今は違う。
彼は知っていた。
自分の中には確かに憎しみがある。
同時に、それよりも強いものもある。
ミナミに生きていてほしい。
ミナミに笑っていてほしい。
ミナミが自分の意志で、もう一度何かを掴めるようにしたい。
たとえその先に、彼女がまた戦場へ行く未来があるとしても。
それを支えることが、自分にできる愛し方なのだと。
受け入れるまでに、時間がかかった。
三ヶ月。
長いようで、短い時間だった。
その間に、ミナミの傷は塞がった。
痛みは消えない。
失ったものも戻らない。
彼女は、生きることに戻っていった。
食事をする。
眠る。
笑う。
時々、怒る。
そしてコムイは、三ヶ月間、ほとんど寝ずに何かを作っていた。
科学班の者たちは、その様子を見ていた。
リーバーは何度も止めた。
「室長、寝てください」
「寝てるよ」
「机に突っ伏して三分気絶するのは睡眠じゃありません」
「効率的だと思わない?」
「思いません」
コムイは笑っていた。
穏やかに。
楽しそうに。
作業を続けるその手は、一度も止まらなかった。
失った腕は戻らない。
それでも、ミナミの明日を作るものなら、自分の手で作りたかった。
それは償いではない。
支配でもない。
たぶん、愛だった。
少し歪んでいて。
少し重くて。
相変わらず傲慢で。
それでも、憎しみではないものだった。
そして数日後。
科学班の実験室に、ミナミは呼び出された。
「……コムイ」
ミナミは入り口で立ち止まった。
作業台の上に、白い布をかけられた何かが置かれている。
その周囲に、科学班の面々が並んでいた。
なぜか全員、目を逸らしている。
リーバーだけが、壁際で胃薬を握っていた。
ミナミは、その時点で嫌な予感がした。
「何、これ」
コムイはにこりと笑った。
「君への贈り物だよ」
「なに?」
「なんだと思う?」
科学班の数名が、同時に目を伏せた。
ミナミの笑みが、少しだけ引きつる。
「……義手?」
「三ヶ月かけて、僕が寝食を削って完成させた最高傑作だよ」
「まず寝て」
「そこなの?」
「そう、そこ」
コムイは嬉しそうに布へ手をかけた。
「発表します」
「待って。心の準備が」
「ミナミ専用多機能型義手、試作一号改め正式採用予定機――」
「名前長い」
「“おかえりハンド君”です」
「却下」
「まだ試してもいないのに!」
コムイが勢いよく布を引き払う。
そこには、銀色に輝く義手があった。
精巧な関節。
滑らかな指先。
腕への負担を減らす接続部。
ミナミの身体に合わせた、美しい造形。
それは確かに、コムイが彼女のために作ったものだった。
彼が三ヶ月かけて、彼女の明日を作ろうとしてくれた証だった。
ミナミの胸が、少しだけ熱くなる。
「……ありがとう、コムイ」
そう言いかけた、その時だった。
義手の手の甲が、ぱかりと開いた。
中から、小さなコムイ人形が飛び出した。
『無茶禁止。帰還厳守。コムイサンハ見テイマス』
ミナミの出そうになった涙が、ぴたりと止まった。
「……コムイ?」
「安心して。緊急時には僕の部屋に直通通信が入るから」
「監視じゃん」
「愛だよ」
「監視だよ」
「ちなみに手首から小型煙幕弾も出る」
「出すな」
「指先にはワイヤー射出機能」
「怖い」
「白いボタンを押せば伸びる。これで寝ながら物も取れる」
「便利そうだけどキモイ」
「赤いボタンを押すと、僕の録音音声で励ましメッセージが流れる」
「絶対押さない」
その瞬間、義手から機械音声が鳴った。
『ミナミサンガ、励マシメッセージヲ拒否シマシタ』
ミナミの笑みが完全に固まった。
壁際で、リーバーが静かに言った。
「止めたんだ。俺たちは本当に止めたんだ」
科学班全員が、沈痛な面持ちで頷いた。
コムイだけが、不思議そうに首を傾げる。
「軽量化もしたよ?」
「重いのは物理じゃない」
「重量は従来型の三割減だよ」
「精神的な重量が三百倍なの」
ミナミは額を押さえた。
失った腕は戻らない。
傷がなかったことにもならない。
戦場が優しくなることもない。
それでも、彼女には帰る場所があった。
彼女のために、憎しみの底から這い上がって、少しおかしな愛を形にしてしまう男がいた。
ミナミは銀色の義手を見つめ、深く息を吸った。
「……分かった。つける」
コムイの顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ただし、そのコムイ人形は外して」
「えっ、可愛くない?」
「怖い」
「じゃあ小型化する?」
「存在を消して」
義手が再び機械音声を鳴らした。
『コムイサン、ミナミサンガ冷タイデス』
「喋るな!!」
久しぶりに、実験室にミナミの声が響いた。
科学班が安堵したように笑い、リーバーが胃薬を噛み砕き、コムイが満足そうに微笑む。
ミナミは引きつった笑みのまま、ふと思った。
ああ。
私は、ちゃんと帰ってきたんだ。
そして同時に、もう一つ思った。
帰ってくる場所があるのは嬉しい。
ただしその場所は、だいぶ面倒くさい。
… 𝗍𝗁𝖾 𝖾𝗇𝖽
2026/06/24
黒の教団本部に、完全な静寂などない。
廊下の向こうでは科学班が走る足音が響き、通信室からは途切れ途切れの電信音が漏れている。
その日は誰もが眠れる夜ではなかった。
教団の室長であるコムイ・リーの机の上には、一枚の戦況報告書が置かれている。
そこに記された文字は、必要最低限であるがゆえに、かえって残酷だった。
先発部隊、壊滅の危機。
生存者数、不明。
通信、断続的に途絶。
敵反応、想定を大幅に超過。
即時救援、要。
コムイはその報告書を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
白衣の袖口から覗く指が、紙の端を押さえている。
力が入りすぎて、紙が小さく歪んでいた。
室長としてなら、判断はもう済んでいる。
救援部隊を編成し、即時出撃。
今動ける者の中で、最も現地対応力が高く、判断が早く、生存者の救出と戦線離脱を同時に担えるエクソシストを主軸に置く。
当然の判断だ。
それはあまりにも正しい。
だからこそ、コムイはその正しさを憎んでいた。
応援部隊の主軸のその欄に記された名前は"ミナミ"。
その文字が、今夜だけは命令書ではなく、処刑の札のように見えた。
「……最悪だ」
ぽつりと落ちた声は、冗談にもならなかった。
ミナミは、たった今別任務から帰還したと聞いた。
報告では、負傷軽微で戦闘継続可能。
帰還直後ではあるが、出撃に支障なし。
その報告を聞いたさっき、コムイは初めて、自分が積み上げてきた合理性というものを心底疎ましく思った。
動ける。
強い。
経験がある。
だから送り出す。
それが、教団における正解だった。
そしてその正解は、恋人である自分にとっては、どうしようもなく間違っていた。
――コン、コン。
扉が叩かれた。
短く、控えめな音。
聞き慣れたノックだった。
忙しい時でも、疲れている時でも、ミナミのノックは少しだけ遠慮がちだ。
「……入って」
扉が開いた。
冷えた空気と一緒に、血と土と火薬の匂いが微かに流れ込む。
そこに立っていたのは、汚れた団服姿のミナミだった。
団服の裾には泥が跳ねている。
袖口には乾いた血。
肩には裂け目があり、頬には浅い擦り傷が一本残っていた。
任務から帰ったばかりだと、ひと目で分かる姿だった。
それでも彼女は、背筋を伸ばして立っていた。
コムイより一つ下の彼女。
もう、誰かの庇護の中で震えている少女ではない。
黒の教団という地獄で、仲間の死を見て、理不尽を呑み込み、それでも武器を手放さずに生き残ってきた女だった。
弱いところも。
強がる癖も。
傷ついている時ほど静かに笑うところも。
コムイは何もかも知っている。
知っているから、愛した。
知っているから、今夜は行かせたくなかった。
「戻ったよ、ただいま」
ミナミが言った。
疲れを隠した、大人の女の声だった。
「……おかえり」
コムイはそう返した。
ミナミはほんの少しだけ目を細めた。
「戦報、来てるんでしょう」
「早いね」
「通信室が騒がしかったから」
「君はまず医務室に行くべきだ」
「こんなの大丈夫」
「君たちエクソシストの大丈夫は、信用できない」
「骨は折れてない」
「それを大丈夫の基準にしないでほしいな」
ミナミは少しだけ笑った。
その笑みを見て、コムイの胸が鈍く痛んだ。
昔からそうだ。
彼女はひどい任務のあとほど、平気な顔をする。
自分が崩れれば、周囲が不安になると知っているから。
誰かに心配されるより先に、自分で立ってしまう。
その強さが、誇らしくて。
その強さが、憎らしかった。
「私が行くんだね」
ミナミが言った。
問いではなかった。
もう分かっている声だった。
コムイは報告書から目を離せなかった。
「……まだ正式には命じてない」
「でも、決めたんでしょう」
「決めたというより、そうせざるを得ない」
「同じことだよ」
ミナミは静かに机へ近づき、報告書に視線を落とした。
その横顔には、迷いがなかった。
戦場へ向かう者の顔。
死ぬ覚悟ではなく、生き残るために状況を見る者の顔。
だからこそ、コムイは何も言えなくなる。
彼女は感情だけで動く人間ではない。
状況を読める。
命の優先順位を分かっている。
自分が行けば救える可能性があると知っている。
そして、自分が行かなければ誰かが死ぬかもしれないと知っている。
「ミナミ」
コムイが呼んだ。
共に地獄を噛み砕いてきた相手へ向ける、低く深い声だった。
ミナミは顔を上げた。
「何?急いでるんだけど」
「行くなって言ったら?」
室長室の空気が、わずかに変わった。
ミナミはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、コムイには十分だった。
「困る?」
「……困る」
「だろうね」
コムイは薄く笑った。
痛みを押し殺した笑みだった。
「君は困って、それでも行く」
「うん」
「僕が引き止めても?」
「行く」
「泣いても?」
「行く」
「怒っても?」
「行く」
「命令しても?」
そこで、ミナミは黙った。
その沈黙は、あまりにも正直だった。
コムイが室長として命じれば、彼女は従わざるを得ない。
負傷による待機命令。
帰還直後の再出撃不可。
理由はいくらでも作れる。
半分嘘だけど完全な嘘ではない。
だが、それは最善ではない。
その数分、その一人の不足で、向こうの誰かが死ぬかもしれない。
二人とも、それを分かっていた。
だからミナミは黙り、コムイもその沈黙を責められなかった。
「……なに?私を咎落ちにさせたいの?」
ミナミが静かに言った。
「まさか」
「あなたが命令したら、私は逆らえない」
「わかってるよ」
「わかってて言うの?」
「今、言いたくてたまらない」
コムイは椅子から立ち上がった。
机を回り込み、ミナミの前に立つ。
白衣の裾が揺れる。
近すぎる距離。
二人はもう、その近さに怯える年齢ではない。
何度も傷つき、何度も失い、何度もそれでも隣に戻ってきた。
甘いだけの恋なら、とっくに壊れている。
職務の重さも、命の軽さも、互いの醜さも知った上で続いている関係だった。
だからこそ、綺麗事では済まない。
コムイは手を伸ばし、ミナミの頬に触れた。
外気と戦場の冷たさを残した肌。
その下に、確かに体温がある。
今はまだ、ここにいる。
それがたまらなく残酷だった。
「君をこの部屋に閉じ込めたい」
コムイが低く言った。
ミナミの睫毛が揺れる。
「鍵をかけて、出撃命令を破棄して、誰にも会わせず、君が眠るまでここにいさせたい」
「……うん」
「君が怒っても」
「うん」
「僕を恨んでもいい」
「それは駄目」
即座に返ってきた声は、静かなのに強かった。
コムイは彼女を見る。
「どうして」
「私に恨まれる前に、あなたがあなたを許せなくなるから」
言葉が、深く刺さった。
ミナミはコムイを知っている。
優しいところも、壊れそうなほど責任を背負うところも。
合理的な判断をしながら、その判断で失われた命を一つずつ覚えてしまうところも。
そして、愛するものに関してだけ、ひどく傲慢になるところも。
「……本当に、君は嫌なところを見るのが上手い」
「ふふ、長い付き合いだから」
ミナミは微かに笑った。
苦味を知った女の笑みだった。
コムイはその笑みが好きだった。
そして同時に、嫌いだった。
この笑みを見るたび、彼女がどれだけのものを見てきたのか思い知らされるから。
「コムイ」
「何」
「最後の挨拶に来たの」
その言葉に、コムイの表情が消えた。
『最後』。
それは戦場へ行く前の決まり文句に過ぎないのかもしれない。
しかし、今夜、その言葉は不吉すぎた。
「やめてくれないかな、その言い方」
「ごめん」
「謝らないで。余計に腹が立つよ」
ミナミは口を閉じた。
そして、少しだけ俯く。
「でも、言わないで行きたくないなって」
コムイは返せなかった。
ミナミも、この任務が危険だと分かっている。
生きて帰るつもりでいても、帰れない可能性があることを理解している。
だからここへ来た。
恋人の元へ、最後の挨拶に。
それが嬉しいと思ってしまう自分が、たまらなく嫌だった。
「……ミナミ」
コムイは彼女を抱き寄せた。
白衣が、汚れた団服を包む。
ミナミの身体は硬かった。
戦場帰りの緊張が抜けていない。
疲労もある。
それでも彼女は、すぐにコムイの背へ腕を回した。
互いの体温が重なる。
抱擁は甘くなかった。
慰めでもなかった。
奪われる前に刻みつけるような、執着に近い抱擁だった。
「痛いかな?」
コムイが問う。
「少し」
「ごめん」
「でも、離さないで」
その言葉で、コムイの腕にさらに力がこもった。
「そんなことを言うと、本当に離せなくなるよ」
「そういうつもりで言った」
コムイは小さく息を呑んだ。
ミナミは、時々こういう女になる。
優しいふりをして、こちらの理性を削ってくる。
離さなければならないのに、離したくなくなる理由を置いていく。
「君は残酷だな」
「お互い様よ?」
「僕も?」
「ええ。でも私の方が今回は酷いかな」
「自覚があるのは厄介だね」
「あなたに帰って来て欲しいと思ってほしいから」
その言葉は、あまりにも静かだった。
死線を知っている女が、それでも帰る場所を選んでいる声だった。
コムイは目を閉じた。
胸の奥が焼けるように痛い。
この人を行かせる。
自分の手で。
自分の命令で。
彼女は、帰るために行くと言っている。
その言葉を信じるしかない。
信じることが、今の自分にできる最大の理性だった。
廊下の向こうで、ベルが鳴った。
出撃準備完了を告げる音。
現実が、容赦なく二人の間へ戻ってくる。
ミナミの肩がわずかに動いた。
コムイはすぐには離さなかった。
離したくなかった。
でも、最後には腕を緩めた。
ミナミが一歩下がる。
彼女の顔は、もう恋人ではなくエクソシストのものになっていた。
その切り替わりの早さが、彼女を縛れない現実を突きつけてくる。
コムイは静かに息を吐いた。
「命令を出すよ」
「はい」
ミナミの背筋が伸びる。
コムイの声は、室長のものだった。
「先発部隊の救出を最優先。イノセンス回収は二の次。現地での殲滅戦は避けること。生存者を確認次第、即時撤退」
「了解」
「無茶な追撃は禁止」
「了解」
「通信が途絶した場合は、自己判断で撤退」
「了解」
コムイはそこで言葉を切った。
ここから先は、本来なら命令ではない。
室長としては不純で、恋人としては傲慢で、男としてはあまりにも切実だった。
それでも、言わずにはいられなかった。
「それから」
ミナミが彼を見る。
「必ず、生きて帰ってくること」
命令の形をした願い。
願いの形をした執着。
ミナミはその重さを、軽く受け流さなかった。
ただ、真っ直ぐにコムイを見つめた。
「了解しました、室長」
正しい返答だった。
次の瞬間、ミナミは一歩近づき、彼の胸元に額を寄せた。
コムイの呼吸が止まる。
「あなたのところに帰りたいから、帰ってくる」
コムイは目を閉じ、彼女の頬を両手で包んだ。
そして額に、短く口づけた。
祈りのような口づけだった。
欲を滲ませるには時間が足りず、別れの印にするには感情が重すぎる。
ただ、失いたくないという願いだけがそこにあった。
「……待ってる」
かすれた声で、コムイは言った。
ミナミは小さく笑う。
「うん」
「嫌になるくらい、待ってる」
「うん」
「だから、帰っておいで。ミナミ」
その声に、ミナミの瞳が少しだけ揺れた。
守られる子供ではなく、対等な女として呼ぶ声。
恋人として。
戦友として。
これまでの地獄を一緒に生き抜いてきた相手として。
ミナミは深く頷いた。
「行ってきます」
コムイは微笑んだ。
ひどく静かで、ひどく壊れそうな笑みだった。
「行ってらっしゃい、ミナミ」
扉が開く。
廊下の白い光が差し込む。
ミナミは振り返らなかった。
振り返れば、コムイも自分も、もう一度迷ってしまうと分かっていたから。
汚れた団服の背中が、灯りの中から消えていく。
扉が閉まる。
かちり、と小さな音がした。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなってから、コムイは机に手をついた。
報告書の上に落ちた影が、わずかに震えている。
この夜、コムイの中で何かが静かに形を変えた。
愛しているから送り出す。
愛しているから待つ。
愛しているから信じる。
そして、もし奪われたなら、この愛はきっと、世界を憎む理由になる。
その一歩手前で、コムイ・リーは閉じた扉を見つめ続けていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
数時間後。
ミナミは、帰ってきた。
しかしそれは、コムイが願っていた帰還ではなかった。
深夜の黒の教団本部に、帰還を告げるブザーが鳴り響いた。
廊下を走る足音。
医療班を呼ぶ怒号。
担架の車輪が床を削るような音。
そのすべてが、帰還の喜びではなく、惨事の続きを告げていた。
「救援部隊、帰還しました!」
通信班の声が室長室へ飛び込んできた時、コムイは椅子から立ち上がっていた。
「死傷者は」
「確認中です!」
「ミナミは」
その名を出した瞬間、通信班の男が言葉に詰まった。
コムイは走り出した。
白衣の裾が翻る。
医務室の前は混乱していた。
担架が次々と運び込まれ、医療班が叫び、科学班が器具を抱えて走っている。
誰かが泣いていた。
誰かが名前を呼んでいた。
誰かが、もう返事をしなかった。
その混乱の中で、コムイは一つの担架を見つけた。
血に濡れた団服。
泥と煤に汚れた髪。
青白く冷えた頬。
閉じたままの瞼。
ミナミだった。
「…状況は」
声は出た。
自分でも驚くほど冷静だった。
医療班の一人が顔を上げる。
「意識なし! 出血量が多すぎます! 呼吸微弱、脈も落ちています!」
「輸血を。足りないなら僕のを使えばいい。彼女は僕と同じ血液型だ。」
コムイは指示を出した。
いつもの室長として。
「イノセンスとの接続反応は」
「不安定です!」
「記録を続けて。闘えるもの達から優先に治療を」
周囲の者たちは、彼の冷静さに息を呑んだ。
誰もが思った。
やはり室長だ、と。
こんな時でも、正しく判断できる人なのだと。
しかし、誰も気づいていなかった。
コムイが、ミナミの左腕を一度も見ようとしていないことに。
医療班が必死に押さえる、赤く染まった布。
肘から先を覆う、不自然なほど厚い包帯。
そこにあるはずの形が、もうないことに。
コムイは気づいていた。
気づいていながら、見なかった。
今それを見れば、自分が壊れると分かっていたから。
「室長、こっちに来てください!」
遠くから誰かが呼ぶ。
「わかった!今行く!」
ミナミを乗せた担架が動く。
その時、ミナミの右手が力なく担架の端から落ちた。
血の気を失った指先が、死人のように白かった。
その瞬間、コムイの声が止まった。
ほんの一秒にも満たない沈黙。
その一秒で、彼は理解した。
ミナミは帰ってきた。
彼女は今、生と死の境目にいる。
自分の声が届くかどうかも分からない場所へ、半分足を踏み入れている。
「室長!」
誰かが呼ぶ。
コムイは瞬きをした。
そして、すぐに顔を上げた。
「すぐ行く!処置を続けて」
声は静かだった。
静かすぎた。
「絶対に、死なせないで」
それは室長としての指示のはずだった。
だが、その奥には命令よりも重いものがあった。
祈り。
執着。
そして、憎しみになりかけた愛。
処置室の扉が閉まる直前、コムイはミナミの顔を見た。
いつもなら、疲れた顔で笑って。
「ただいま」
そう言うはずだった。
だが今のミナミは何も言わない。
ただ浅く、壊れそうな呼吸を繰り返していた。
その細い呼吸だけが、彼女がまだこちら側にいる証だった。
扉が閉まる。
赤いランプが灯る。
コムイはその場に立ち尽くした。
廊下の音が遠い。
誰かが何かを報告している。
誰かが指示を待っている。
だがそれらは、コムイの耳には入らなかった。
生きて帰ってくること。
そう命じた。
帰ってくるために行く。
そう言って、ミナミは出て行った。
そして約束通り帰ってきた。
でも、
血まみれで。
意識もなく。
左腕の肘から先を失って。
それでも、まだ教団はきっと彼女をエクソシストとして見るのだろう。
生きているなら。
イノセンスが応えるなら。
戦える可能性があるなら。
この世界は、彼女をまだ手放さない。
コムイはゆっくりと眼鏡を外した。
白衣の袖で、レンズを拭く。
「……本当に」
低い声が、廊下に落ちる。
「嫌になるね」
それは誰に向けた言葉だったのか。
教団か。
戦争か。
神か。
この世界そのものか。
それとも、彼女を送り出した自分自身か。
コムイにも分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
もしミナミがこのまま戻らなければ。
自分はきっと、何かを決定的に憎む。
その対象が何であれ。
その憎しみは、自分の中で正当なものとして育ってしまう。
愛しているから送り出した。
愛しているから待った。
愛しているから信じた。
そしてその愛が、今にも別のものへ変わろうとしている。
黒く、冷たく、傲慢なものへ。
処置室の中で、誰かが叫んだ。
「心拍停止!」
「心臓マッサージ!」
コムイは顔を上げた。
足が勝手に動く。
扉を開けようとした彼を、リーバーが背後から掴んだ。
「室長!」
「離してくれ」
「今、中に入っても邪魔になるだけです!」
「離してくれ、リーバーくん」
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、リーバーの顔色が変わった。
「僕は、まだ命令を取り消していない」
「室長……」
「生きて帰ってくること。僕はそう命じた」
コムイは閉ざされた扉を見つめた。
その瞳は、いつもの穏やかな室長のものではなかった。
「だから離してくれないか」
処置室の中で、慌ただしい足音が響く。
医療器具の音。
叫び声。
心拍停止を示す機械音が鳴り響く。
コムイは扉の前に立ち尽くしていた。
何もできない。
室長なのに。
科学者なのに。
恋人なのに。
彼女を戦場へ送り出す権限はあった。
しかし、死の淵から引き戻す手は持っていない。
それが、たまらなく憎かった。
教団が憎い。
アクマが憎い。
戦争が憎い。
イノセンスが憎い。
彼女を必要とし続ける世界が憎い。
そして何より。
彼女を守りきれなかった自分が憎かった。
どれほど時間が経ったのか、分からない。
夜は深く、廊下の灯りは白く、冷たかった。
やがて、処置室の中の音が少しずつ落ち着いていく。
赤いランプが消えた。
扉が開く。
医療班の一人が、疲れきった顔で出てきた。
「室長」
コムイは顔を上げる。
「ミナミは?」
医療班は、一度だけ息を吸った。
「……繋ぎ止めました」
その瞬間。
コムイの中で、張り詰めていた何かが音もなく崩れた。
涙は出なかった。
喜びも、すぐには来なかった。
ただ、膝から力が抜けそうになるのを、どうにか堪えた。
「意識は」
「まだ戻っていません。予断は許しません」
「左腕は」
医療班は唇を噛んだ。
コムイは黙った。
長い沈黙だった。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
それだけだった。
誰もが、彼が冷静に受け止めたと思った。
しかしそれは違った。
コムイはただ、後回しにしただけだった。
腕を失ったことを悲しむのは、ミナミが目を覚ましてからでいい。
今は、命が残った。
それだけで、十分でなければならない。
そう自分に言い聞かせなければ、その場に立っていられなかった。
ミナミが意識を取り戻したのは、翌日の夜明け前だった。
白い寝台の上で、彼女はゆっくりと瞼を震わせた。
呼吸はまだ浅く、顔色は悪い。
唇には血の気がない。
それでも、彼女は目を開けた。
ぼやけた視界の中で、最初にコムイを見つけた。
彼は寝台のそばに座っていた。
まるで一度もそこを離れなかったかのように疲れた顔をしていた。
「……コムイ」
それはかすれた声だった。
コムイの指がぴくりと動く。
「ミナミ」
彼は名前を呼んだ。
その声は、ひどく静かだった。
ミナミは小さく息を吸う。
「ただいま」
その一言で、ようやくコムイの表情が崩れた。
泣きそうになったわけではない。
笑ったのだ。
優しく。
いつものように。
だが、その笑顔の奥には、深い闇がまだ残っていた。
「おかえり」
コムイはミナミの右手を取った。
冷たい手だった。
彼はそれを両手で包む。
強く。
逃がさないように。
繋ぎ止めるように。
「命令、守ったよ」
ミナミが囁く。
「うん」
「帰ってきた」
「うん」
「……左、腕」
そこで彼女は、ようやく自分の身体の異変へ目を向けようとした。
コムイは、その視線を遮るように、彼女の右手を握り直した。
「今は見なくていい」
「でも」
「今は、生きていることだけでいい」
その声は優しかったが、そこには、痛みがあった。
怒りがあった。
憎しみの残り香があった。
ミナミは黙ってコムイを見た。
「……コムイ」
「何?」
「怖い顔してる」
コムイは少しだけ笑った。
「そうかな」
「うん」
「じゃあ、見ないで」
「見るよ」
その返事に、コムイは息を詰めた。
ミナミは弱々しく、それでも確かに彼を見つめていた。
「私、帰ってきたよ」
「うん」
「あなたのところに」
コムイは目を伏せた。
その言葉は、暗く固まりかけていた彼の心に、細い針のように刺さった。
その針は痛かった。
憎しみに沈みきるには、彼女の声はあまりにも近かった。
「……そうだね」
コムイは、ミナミの手に額を寄せた。
「君は帰ってきた」
「うん」
「僕のところに」
「うん」
長い沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、コムイは少しずつ理解した。
世界を憎んでも、彼女の腕は戻らない。
教団を憎んでも、傷は消えない。
戦争を憎んでも、彼女が楽になるわけではない。
憎しみは、彼女をこちら側へ引き戻す手にはならない。
それはただ、自分の心を黒く沈めるだけだ。
それでも、すぐに許せるわけではなかった。
世界を。
教団を。
自分を。
何もかもを。
だからコムイは、その日から少しずつ、憎しみを抱えたまま生きることを覚えた。
見ないふりではなく。
飲み込むのでもなく。
ミナミが生きている現実の隣に、それを置いておくことを覚えた。
ミナミは目を覚ました。
息をしている。
笑って見せる。
痛みに顔を歪めることもある。
失った腕を見つめて、長く黙る日もある。
そのすべてが、コムイにとっては救いであり、罰だった。
彼女が生きている。
それだけでいいはずだった。
でも、それだけでは済まない日々が始まった。
包帯を替えるたび、彼は失われたものを思い知った。
ミナミが物を取ろうとして、左側の空を見つめて止まるたび、胸を抉られた。
それでも彼女は言った。
「もちろん、まだ戦えるよ。上の人にいつまで休ませるつもりだ、なんて言われてない?」
最初にその言葉を聞いた時、コムイは笑った。
「大丈夫だよ」
優しい笑みだった。
だが、ミナミはその奥に沈むものを見逃さなかった。
「怒ってる?」
「怒ってるよ」
「私に?」
「違う」
「教団に?」
「少し」
「世界に?」
「かなり」
「自分に?」
コムイは答えなかった。
ミナミは小さく笑った。
「じゃあ、全部だね」
「……君は本当に、嫌なところを見るのが上手い」
「長い付き合いだから」
その言葉に、コムイは苦笑した。
以前なら、その苦笑の奥に隠したものを自分でも見ないふりができたが、今は違う。
彼は知っていた。
自分の中には確かに憎しみがある。
同時に、それよりも強いものもある。
ミナミに生きていてほしい。
ミナミに笑っていてほしい。
ミナミが自分の意志で、もう一度何かを掴めるようにしたい。
たとえその先に、彼女がまた戦場へ行く未来があるとしても。
それを支えることが、自分にできる愛し方なのだと。
受け入れるまでに、時間がかかった。
三ヶ月。
長いようで、短い時間だった。
その間に、ミナミの傷は塞がった。
痛みは消えない。
失ったものも戻らない。
彼女は、生きることに戻っていった。
食事をする。
眠る。
笑う。
時々、怒る。
そしてコムイは、三ヶ月間、ほとんど寝ずに何かを作っていた。
科学班の者たちは、その様子を見ていた。
リーバーは何度も止めた。
「室長、寝てください」
「寝てるよ」
「机に突っ伏して三分気絶するのは睡眠じゃありません」
「効率的だと思わない?」
「思いません」
コムイは笑っていた。
穏やかに。
楽しそうに。
作業を続けるその手は、一度も止まらなかった。
失った腕は戻らない。
それでも、ミナミの明日を作るものなら、自分の手で作りたかった。
それは償いではない。
支配でもない。
たぶん、愛だった。
少し歪んでいて。
少し重くて。
相変わらず傲慢で。
それでも、憎しみではないものだった。
そして数日後。
科学班の実験室に、ミナミは呼び出された。
「……コムイ」
ミナミは入り口で立ち止まった。
作業台の上に、白い布をかけられた何かが置かれている。
その周囲に、科学班の面々が並んでいた。
なぜか全員、目を逸らしている。
リーバーだけが、壁際で胃薬を握っていた。
ミナミは、その時点で嫌な予感がした。
「何、これ」
コムイはにこりと笑った。
「君への贈り物だよ」
「なに?」
「なんだと思う?」
科学班の数名が、同時に目を伏せた。
ミナミの笑みが、少しだけ引きつる。
「……義手?」
「三ヶ月かけて、僕が寝食を削って完成させた最高傑作だよ」
「まず寝て」
「そこなの?」
「そう、そこ」
コムイは嬉しそうに布へ手をかけた。
「発表します」
「待って。心の準備が」
「ミナミ専用多機能型義手、試作一号改め正式採用予定機――」
「名前長い」
「“おかえりハンド君”です」
「却下」
「まだ試してもいないのに!」
コムイが勢いよく布を引き払う。
そこには、銀色に輝く義手があった。
精巧な関節。
滑らかな指先。
腕への負担を減らす接続部。
ミナミの身体に合わせた、美しい造形。
それは確かに、コムイが彼女のために作ったものだった。
彼が三ヶ月かけて、彼女の明日を作ろうとしてくれた証だった。
ミナミの胸が、少しだけ熱くなる。
「……ありがとう、コムイ」
そう言いかけた、その時だった。
義手の手の甲が、ぱかりと開いた。
中から、小さなコムイ人形が飛び出した。
『無茶禁止。帰還厳守。コムイサンハ見テイマス』
ミナミの出そうになった涙が、ぴたりと止まった。
「……コムイ?」
「安心して。緊急時には僕の部屋に直通通信が入るから」
「監視じゃん」
「愛だよ」
「監視だよ」
「ちなみに手首から小型煙幕弾も出る」
「出すな」
「指先にはワイヤー射出機能」
「怖い」
「白いボタンを押せば伸びる。これで寝ながら物も取れる」
「便利そうだけどキモイ」
「赤いボタンを押すと、僕の録音音声で励ましメッセージが流れる」
「絶対押さない」
その瞬間、義手から機械音声が鳴った。
『ミナミサンガ、励マシメッセージヲ拒否シマシタ』
ミナミの笑みが完全に固まった。
壁際で、リーバーが静かに言った。
「止めたんだ。俺たちは本当に止めたんだ」
科学班全員が、沈痛な面持ちで頷いた。
コムイだけが、不思議そうに首を傾げる。
「軽量化もしたよ?」
「重いのは物理じゃない」
「重量は従来型の三割減だよ」
「精神的な重量が三百倍なの」
ミナミは額を押さえた。
失った腕は戻らない。
傷がなかったことにもならない。
戦場が優しくなることもない。
それでも、彼女には帰る場所があった。
彼女のために、憎しみの底から這い上がって、少しおかしな愛を形にしてしまう男がいた。
ミナミは銀色の義手を見つめ、深く息を吸った。
「……分かった。つける」
コムイの顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ただし、そのコムイ人形は外して」
「えっ、可愛くない?」
「怖い」
「じゃあ小型化する?」
「存在を消して」
義手が再び機械音声を鳴らした。
『コムイサン、ミナミサンガ冷タイデス』
「喋るな!!」
久しぶりに、実験室にミナミの声が響いた。
科学班が安堵したように笑い、リーバーが胃薬を噛み砕き、コムイが満足そうに微笑む。
ミナミは引きつった笑みのまま、ふと思った。
ああ。
私は、ちゃんと帰ってきたんだ。
そして同時に、もう一つ思った。
帰ってくる場所があるのは嬉しい。
ただしその場所は、だいぶ面倒くさい。
… 𝗍𝗁𝖾 𝖾𝗇𝖽
2026/06/24